たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨日は多摩市一ノ宮にある小野神社を見てきました。
小野神社は大國魂神社のなかに奉られている六つのお宮の一番目です。
一の宮が多摩市:小野神社
二の宮が秋川市:小河神社
三の宮が大宮の:氷川神社
四の宮が秩父市:秩父神社
五の宮が神川町:金鑚神社(かなさなじんじゃ)
六の宮が都筑の:杉山神社
この番号は国司が国府から各地の有力神社を廻る順序だそうで、
ようするに近い順であり神社そのものの格式とは少し違うらしい。
五の宮のほうが六の宮より遠いけど、これは六の宮の杉山神社が
中央に帰属した時期が遅いから(最後だったから)ではないかと。
だからか大宮の氷川神社なんかは武蔵国一の宮を自称し、
金鑚神社はニの宮を自称している。
(このせいで、氷川神社では一の宮・三の宮論争というのが起こる)
実際、明治天皇も個別行幸の際、府中よりも先に大宮にお参りしているし、
大宮氷川神社から見たら府中の下という意識はないのかもしれない。
先にあった有力神社をあとからできた総社に祀るんだから、これはある意味当然かも。
金鑚神社はまた独特のご神体だし、武蔵国のはじっこ(東山道=中央との連絡に近い)だし
別の上位意識があるのかもしれない。
で、一の宮ながらいまいち小粒な小野神社ですが。
これも候補となる神社が3つほどあり、あまり正確にはどれかわからないらしい。
パルテノン多摩の展示でも「論社」として3社ほど紹介していました。
1つはこの多摩市一ノ宮の「一の宮小野神社」
2つめは府中市住吉町(本宿)にある「小野宮小野神社」
3つめは町田市小野路の「小野路小野神社」
しかも小野神社は百草山にある松連寺が別当であったことから、もともとはその近くの
もっと西方・多摩の横山に鎮座していたのを遷座したのではと云われており、
元祖はまた違うのかも知れない。
(建久4年8月刻印の経筒に一宮別当松連寺の銘あり「吾妻鏡」)
ちなみに、この松連寺、聞いた事があると思ったら、廃寺となってから豪商青木角蔵が買って庭園にし、
それも荒廃すると京王が買って百草園にしてた、あのお寺だった.。・・・お、おう。
また小野神社はもともと多摩北岸の府中本宿小野宮にあったのが、
天正のころと文禄5年の二度の多摩川の流路変更で村も神社ながされ
村民ごと南側に移動せざるを得なくなり、今の一の宮に神社をたてたんだとか。
(中河原なんかもこの頃までは多摩川の南側にあったという。
分倍河原~中河原と続くのにあいだに川がないのが変な感じでしたが、これなら納得)
その後、多摩川の位置がおおよそ今のように定まり、その機会に村民の一部が元の地に戻って
村を再建し、小野神社も再建したので神社が2つになってしまった。
再建は貞享3年とも宝暦年間ともいい、定かではなく。
この経緯から、一の宮の神社では、5月5日の大國魂神社の大祭に参列する際は
空の御輿を背負ってまず旧地の小野宮へ行き、その後府中の仮殿に安置して、大祭の神幣を納め
帰社するならわしとなっていたんだそう。
ちなみに3の町田の小野神社は一の宮から勧請したものらしいから、
一の宮論争からは一歩ひいてる。
神社にある碑の由緒によると鎮座が3代・安寧天皇18年(紀元前531)らしいから
大宮氷川神社の5代・孝昭天皇3年(紀元前473)より、ちょい古い。
といっても、応神天皇以前の西暦換算って余興みたいなもので、本気にすることは出来ないから
「少なくともあっちの神社ができるより前からあった」くらいの記憶で決めたんじゃないかな。
一の宮論争のことも考えると、それすら素直にはいえないかもしれませんし。
(我の張り合いの可能性が・・・。)
そもそも神社の神様って、もとは自然崇拝だからなんか「コレ?」っていう形容しがたいものが祭神なわけで、宝亀3年「太政官符式部省」には小野神社の祭神は「雷(いかづち)」だとされているらしいし
小河神社は境内から石棒が出土していて本来の祭神はこっちじゃないかとかいわれている。
金鑚神社はもっと顕著で正殿が無いかわりに、背後の御室山そのものか、
その斜面にある珍しい自然現象の鏡岩がご神体だとされている。
社殿だって、仏教が入ってきて伽藍配置だとか仏像だとか、そういう具体的な崇拝の仕方に
ショックを受けて後追いで立てていったハコ物だから、鎮座とか創建だとか建立だとか再興だとか、
なんだか起源に時差が起きてくる(し用語も錯乱している気がする)。
自然崇拝の起源て、そもそもが年数定めるのが難しいのでこういう大きな数字になるんだろうと。
(ちなみに上の神社に関する情報は「続府中の風土誌」昭和51年発行を参照しました)
* * *
以下は、そのとき行った道筋です。
小野神社へ行くのは私も初めてです。
聖蹟桜ヶ丘駅からザ・スクウェアの裏側へまわるとお宮への道っぽい名前の通りがありました。
ついでに、京王の駐車場マークが可愛くてつぼったv
途中、小さな塚のような区画が残されてて「ムム!これはあやしい。」
近づいてみると、2本ケヤキの神木と、一の宮の渡しの記念碑と、神奈川県時代の水量標識でした。
石にはたしかに「神奈川県庁」の文字が刻まれていました。
その向かいには、これまたかわいい「せせらぎ通り」というわりと新しめに舗装された道が。
どうも、これが参道っぽい。名に違わず用水?の水が玄関前を流れていて、
各戸の入り口が石橋になっていました。これまたおしゃれで風流だなぁ。
いよいよ神社の近くに来ると、庚申塚がありました。
道筋に良くあるのは村に悪いモノが入ってこないように、
塞の神(さいのかみ)の役割があるようで。
設置は江戸時代だそうで、信仰としては新しめか。
小野神社拝殿。真っ赤だな~。
表の鳥居もかなり新しく、菊の御紋がペカペカしておりました。
しかも、鳥居の次に山門?みたいな門がまえがあって、半分お寺のようでもある。
そして、祭神が多い多い。郷社だからかな?
でも主神は天下春命(あめのしたはる)と瀬織津媛(せおりつひめ)という、
ちょっと珍しめなところが、殊勝だなぁ。
天下春は八意思兼命(おもいかね=高天原にすむ策を色々練る神)の息子で
天表春命(あめのうわはる)という兄がいるらしい。でともに武蔵秩父国造の祖神らしい。
瀬織津媛は川の流れを表す神様なので、多摩川の流れと関係があるのだろう。
なんとなく、ほのぼのした野原と、清涼な川のイメージでなごむわぁ。
正門および正殿や拝殿は西を向いているけど、途中ななめに道が分かれ、もう一こ南門がある。
ただ、この南門は南西向きで、直角でないのがなんか不思議。
これが、むしろ聖跡側からくると最初に出合う入り口部分なので、
私も一度ここから入ってしまった。
地元の人は正面からで、よそ者は道筋的にここから入るのかなぁ?いや、でも普通逆だよな。
顔見知りは勝手口からきても構わないけど、正式な来客は正門から入るだろう普通。
神社も多摩川の方を向いてないし、鎌倉街道にも背を向けているので、
いったいどこを見ているんだ?という、いろいろ不思議な感じのする神社です・・・。
もしかしたら、もといた百草の地を懐かしんでいるのかも?
あと、南門のそばにあった碑の寄進が明治23年だったので、ちょっと気になった。
PR
昨日は町田の図書館に行くついでに相模国の国分寺跡をみにいきました!小田急!!v
小田急マートで水を買いに行ったら、小田急商事が50周年らしい、ほおお!
海老名ビナウォーク!
のなかに、七重の塔がみえる(笑)
相模国分寺の最寄り駅は海老名駅でした。
武蔵国分寺は西国分寺なので、不思議といろんな路線が集まる箇所にあるんですね。
これは本物ではなくモニュメント。スケールは1/3らしい。えええ!?
昔の権力と技術ってすげえ。
27日は海老名の風鈴市でお祭りがあるみたいでした。
ビナウォークって小田急のなんですね。
イベントには相鉄も関わってるから、二人で協力してる感じがする。(にやっ)←
そして駅前の横断幕が強烈でした・・・。
===========================================
ビナウォークを通り過ぎ、国分寺へ向かいます。
すると、目の前にわかりやすすぎるほどの崖が見えてきます。崖線です。
古い遺跡や村落は、水を得やすく水害を避ける為に、
水が湧きやすい崖の上につくられますので、この国分寺跡もその例にもれず、
といったところでしょうか。
府中なんかは立川崖線(府中崖線)と国分寺崖線の間にはさまれた台地の広大な平地に
国分寺と国府があったので川をはさんだ向こう側の多摩丘陵と比べれば
「単純な地形」であると本で言われていました。
多摩川の近くの立川崖線の上に大國魂神社(国府跡)があり、
台地のもっと奥まった方、国分寺崖線の下に武蔵国分寺があります。
そしてこの相模国分寺も似たような条件であるようです。
国分寺への道。
比較的緩やかに崖を上れるように工夫された坂でした。
崖を登り切った突き当たりを右へいくと、大きなけやきの木がありました。
大國魂神社の入り口にある神木によく似ています。不思議だ。
看板の説明によると、ここは船着き場で杭にしていたケヤキが育ったものらしい。
目の前は緩やかなスロープ状になっていました。
昔はここまで水辺がきていたということですね。
看板の後ろをむくと、現・相模国分寺がありました。
階段を登ると、左に本堂へむかう階段がさらにあります。
正面にはまた、崖の上に立つ住宅。ここは崖線と崖線の間の幅が狭いみたいですね。
ご本堂。国分寺の本尊は基本的に薬師如来です。
境内にはりっぱな銀杏の木がありました。
大国魂にもあるんですが、表からは見えず、季節にはぎんなんの臭いだけがするんですよね~
楠木や銀杏はその独特の臭いから魔除けの効果があるとされるので、ご神木になりやすいのかも。
本堂は南向きで、(西)右を向けば小田急や相鉄の駅のあるビナウォークが見えます。
垣根がなければ、もっと景色がいいんだろうな~
踊り場から先ほどの大ケヤキを見る。
あの先が相模川なのだな。時代によっては海老名駅一帯は水の中っすかね。
============================================
本命の相模国分寺跡~!
先ほどの国分寺より北へ数100mいった場所にあります。
ここから現在地へ移転したらしい。
国分寺は741年の詔をきっかけに8世紀で全国に建立されてきますが、
10世紀にはもう衰退していって平安時代後期には荒廃していた模様。
国分寺跡地に保存されているのは、目の前の長~~い門柱跡と、
土台を復元した七重の塔と、盛り土の上に残った礎石だけの国分寺の3つ。
それでも武蔵国の国分寺跡にくらべれば立派な保存整備状態です。壮大です。
武蔵国分寺は横に畑とかあって、住宅にも囲まれてあんまり景色が広々としてない。
もしかして、相模国のほうが広いのか。
昔から法隆寺式伽藍配置の大規模なものとして有名だったらしい。
こちらも、南向きに配置されてますね。
こういう雰囲気はよく似てますけど。
大正時代、国に史跡指定された時の碑が建ってます。
指定されたのは大正10年3月3日ですが、碑は大正14年となってますね。
すぐ横に郷土資料館の旧温故館がありました。
洋風の歴史的建造物みたいでリニューアル済です。
元は海老名村役場庁舎だそうで、この建物自体みどころたっぷりです。
資料館にあった地形図と遺跡群の地図。
だいたいの遺跡が崖線と崖線の間の黄色い部分(相模野台地)に分布しています。
崖の上の崖、あれは座間丘陵というのか~。古墳群はむしろ丘陵の上に造られてますね。
そのなかを走っている溝は目久尻川かな。
昭和40年代まではこの目久尻側から西の海老名耕地へ、逆川という人工の用水が
国分寺と国分尼寺のあいだをS字に流れていたそうです。
うーん、なかなか複雑な土地だな。
ところで国分寺とセットであるはずの相模国府は、まだ場所が分かっていないそうです。
一応、国分寺の北側じゃないかとは云われてるんですが、民間の住宅地なので手が出せないそうで。
その後、どうも平塚の方に移転したらしく、平塚のほうで結構色々なものが発掘されているよう。
武蔵国府は多摩川は東西に走り、台地も幅が広いので余裕を持って左右に展開してますけど、
相模国府は相模川が南北に走り、しかも丘陵が近くて台地の幅が狭いから、一体どういう風に
展開したのだか。もしかして、狭い故に平塚に移転したのだろうか。
相模国は旧東海道と、東山道武蔵路の分岐点です。
官道らしきものはちびちび見つかっているので今後の調査結果が楽しみです。
==========================================
お昼は前から気になっていたビナウォークのら~めん処で。
おいしかったです!
京王の前史1で発起人が玉川ゆかりの人たちであること、
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
関戸でかりた本の貸出期限がそろそろなので図書館に返すついでに
アド天でも紹介された熊野神社にいってみました。
関戸の地名の由来となった関所の木柵あとが復元されているんですが、
「霞の関」と呼ばれていたんですね。
この神社の奥の山の上に関戸城もあったという。
府中市郷土の森発行の「あるむぜお」No101に、この神社の目の前を通る旧鎌倉街道は
古代では相模国~武蔵国~上野国の国府を結ぶ道・東山道武蔵路であり
中世には鎌倉~武蔵府中~上野・信濃方面へ通じる鎌倉街道の上道としても設定されたとあります。
霞の関が設けられた時期はわからないものの、『曽我物語』に朱雀院の頃、平将門が関戸を設け、俵藤太秀郷が霞の関と名づけて打ち破った(有名無実の関という意)という伝承が紹介されているそうです。
将門は武士が政権を執る鎌倉時代よりも前の武士勃興期の人物なので、
鎌倉街道が設定されるより前からこの関はあったという見方ですね。
将門は千葉や茨城、群馬の土地をめぐって戦った人らしいので、
上野国府に通じる東山道武蔵路から連想したのかもしれませんが、
一応、この伝承は単なる後世の作と結論づけられているようです。
(武蔵国府も将門に支配を受けた時期があった)
東山道武蔵路は律令制度が施行され東山道に属していた武蔵国への連絡ルートとして
上野国府から武蔵国府へ設けられた道で、発掘調査で7世紀後半に造られた事がわかっているそう。
宝亀2年(771年)に交通不便を理由に武蔵国が東海道へ移管されたため、(上野~府中の)公道ではなくなるものの、碓氷峠(東山道)や足柄峠(東海道)へ強盗団などが逃亡したり、
「富豪の輩」「しゅう馬の党」が略奪行為をしながら東山道と東海道の間を行き来するため板東の乱においてこの連絡道は重要な位置を占め、関の意義もあったと予想されるようです。
(「霞の関」の伝承~平将門と東山道武蔵路~小野一之)
これがその旧鎌倉街道。
住宅地を一本はさんでむこうにできた鎌倉街道(多摩ニュータウン通り)にくらべると
狭くてけっこうアップダウンがあります。並行しているので裏道みたいな使われ方をしています。
ただしバスの運行系統は結構おおくて、京王バスがよく通ります。
もうすこし先へ行くと多摩市役所と市の中央図書館があります。
バス停の後ろの塀には参議院選挙の看板。山本太郎さんが仕事が早い。てか選挙区ここだったんだ??
神社の向かいにあった相澤さんの看板が気になりました。
連光寺の名主は富沢家でしたが、関戸の名主はじつは相沢家なんですよ。
だからもしかして、そのゆかりの方かな~?と。
相沢家では相沢伴主という人が、華道の允中流挿花の祖として有名で、
何年か前にパルテノン多摩が企画して紹介したらしいんですが、跡を継ぐ人がいなくて絶えてしまったので、流派は残っていないそうです。多摩市の数少ない歴史的風流文化です。
(http://www.parthenon.or.jp/goods/postcard/card06.html パルテノン多摩)
熊野神社の目の前の坂を下ると、今の鎌倉街道に突き当たります。
その先は乞田川です。このでかい2車線道路は乞田川の沖積地帯で低地です。
旧鎌倉街道はそれより数メートル高い場所を走っているので、
丘陵の影響を受けて上下にわりとうねっているんですね。
乞田川は多摩川の支流で、関戸から多摩センターのあたりまでのび、
そのあいだにはずっと桜並木が植わっているので桜の名所でもあります。春はとても綺麗ですよ。
(乞田川の写真はもっと昔に撮ったやつです)
写真だとわかりにくいので、自作の地図。
先週のタモリ倶楽部の影響(架空地図マニア特集)をうけて自分でもやってみました。むずい-
神社に復元された関をみるに、そのまま乞田川に向かって伸びていたんだろうと思われます。
鎌倉街道でバスに乗って聖蹟の駅へもどります。
途中で乞田川と合流する大栗川に出合います。
一昨日やってた「耳をすませば」で眼下にときどき見えてたのはこの大栗川だと思います。
乞田川に比べるとけっこう曲線を描いているんですよね。
写真でバスが渡っているのは旧鎌倉街道の大栗橋(奥)と、鎌倉街道の新大栗橋(手前)です。
その先で川崎街道と鎌倉街道が交差しています。
ここが、聖跡桜ヶ丘の駅へ向かう入り口となっていて、
直進すれば府中へいく関戸橋、左折して川崎街道へ入れば聖蹟の駅です。
聖蹟の駅では今週末にある朝顔市の準備の真っ最中でした。
先週今週は仕事でいそがしくて、色々なものが書きかけ放置でもうどれから手をつけたらいいやら。
そんななか金曜に耳すまやってて、また聖蹟の記事かかねば~!と再燃。
見たのは会社の食堂で冒頭までだったんですが、アド天で聖蹟やるよ、と教えてくれた地元民の人と、
ジブリが大好きで高校の時耳すまツアーで聖蹟行ったという職場の人にはさまれての鑑賞だったので、
異様な盛り上がりを(笑)
しずくが住んでる団地の最寄り駅は聖蹟じゃなくて、百草園駅がモチーフなんですね。
最初、高架で登場したはずの京王線が別カットで地上駅になってて「???」となったら、
一駅分電車乗ってた。サイドからの解説で、漸く脳内地図迷子から脱せられました。わはは
あと先ほどの相沢伴主さんのお墓があるという関戸の観音寺が、先の熊野神社と聖蹟駅の間にあるのを
あとで知ったのですがね、なんと毎月16日に関戸の合戦の弔いをしているとウィキにあったので
「(中世の戦の弔いを続けているなんて)な、なんて殊勝な寺なんだ・・・!」と思ったら、
昭和30年代にやたらと働き盛りの30代、40代が亡くなるんで
「呪われてるんじゃね?」という理由で始めた弔いだった(汗)
い、いや、それでも立派だと思います。
ただ、公式?そのお寺さんの方がやっているブログで
新名物のゆるキャラ仏像の写真を見たら撃沈しました。orz
うわーい、機会があったら次回は絶対ここ行こう!!
それと気になったのが、そのお寺さんのサイトに載ってた「京王観音霊場」の文字。
なんだ?これも京王の事業の一環か?と思って検索したら、これもまた撃沈する記事のオンパレード。
れ、霊場って登録制だったんだ・・・。それにしても、この京王霊場に関しては、お寺さんの方が
「ウチは参加してない」「きいてない」「そもそも観音様奉ってない」という珍回答。
いやいやいや、面白すぎるだろう!?なんだ、そのいい加減な設定。
「最近よく聞かれるんで仕方なく対応するようになった」みたいな文脈のところもあって、
むしろお寺さんにご迷惑がかかっているよう。
京王がのりで設定して、そのまま放置したんだろうか・・・。
けっこう、他の電鉄でもそういう霊場設定してるらしいですね。面白いわ~
いろんな趣味があるもので。勉強になりました。
それにしても昭和18年は超絶戦時中じゃないか???戦後の方が説得力あるけどなぁ。
それかハイキングブームの昭和9~10年頃なら納得。
『多摩と江戸』(大石学編/たましん・けやき出版)読んでたら、
もう少し詳しい説明が載ってました。
明治14年2月8日 侍従長・山口正定らが連光寺村を訪れ兎の生息調査を行う
これは数日前に行った荏原郡上馬引沢村(世田谷区)での兎狩の獲物が少なく、
さらに郊外で狩猟を行いたいという天皇じきじきのご希望があったからだといいます。
やっぱり、おためしだったんですね>郊外での狩猟天覧
侍従長等は連光寺のあと、八王子・青梅・飯能・所沢(所沢は尾張藩の御鷹場だった)も調査して
18日に明治天皇が八王子付近で狩猟する事を命じます。
予定では18,19日で狩猟を行い20日に還幸する予定だったのが、
天皇自身の希望で急きょ連光寺で兎狩りをすることになりました。
この時の兎狩を余程気に入ったようで、陛下は26日に再び八王子付近で兎狩を希望するも
山口侍従長に止められ諦めたという。(天皇陛下・・・ノ▽`:)
明治15年2月28日 (連光寺で兎狩の直後)連光寺村の山野を「御遊猟場」に指定する通達が
神奈川県から届く
明治15年3月 連光寺村、乞田村、貝取村、黒川村、坂浜村、百村、大丸村の7ヵ村が
「御遊猟場」に決まる
明治15年5月31日 正式な指定の告示あり
明治16年7月 正式名称が「連光寺村御猟場」と決まり、以後御猟場と呼ばれる
御猟場指定は明治年から16年にけて群馬県、埼玉県、栃木県、神奈川県などで行われ、
その指定は民間の土地の上に設けることが可能で国土=皇土という王土論の実践と、
皇室財産確保という側面があったという。
また西洋の王室が設けていた御猟場にならい、国貴賓接待にも利用しようとしていたらしい。
明治19年7月 外務次官青木周蔵が神奈川県知事を通じて、北多磨郡長砂川源五右衛門へ
府中駅、上染谷村組合、烏山村組合、下連雀村組合、深大寺村組合、布田小島組合、
戸倉新田組合、小川新田組合、小金井村組合、関前村組合の区域での
期間3年間の御猟場借用を申し入れる
明治19年10月 各組合戸長と約定証を取り交わす
ところが禁猟の制札が建てられ、布田五宿の中村重右衛門と中村克昌らが狩猟権を主張して訴訟を起こした為、この借用は解約となり、翌年、範囲を変更して再度青木側から申し出があるも不調におわります。
これは遊猟場貸渡しによって未曾有の不況からの脱出を試みた郡役所と、
旧自由党党員の権利意識の対立だったといいます。
御猟場指定は兎の頭数確保の為の禁猟により、兎が繁殖して山林や農作物に被害がでる上、民間の狩猟が禁止された為、密猟者の摘発が相次ぐ問題も起き、ありがたい話ばかりではなかったようで。
また行幸の為の道路補修や、狩猟に狩り出される人足の負担も少なくはなく、宮内省から賠償金代わりに下賜金があったものの、御猟場指定解除を希望する農民は多かったといいます。そして
大正6年6月30日 宮内省の方針により御猟場は廃止
昭和2年になると、明治天皇が兎狩を行った連光寺の大松を売り出すという広告が国民新聞に載り、
これを見た元宮内大臣田中光顕伯爵がこの地に注目、地元の富澤政賢らと「聖蹟奉頌連光会」を設立。
連光寺では明治14年に明治天皇の愛馬・金華山号を繋いだ桜木を「御駒桜」と名づけ、すでに聖蹟化がはじまっていたものの、大正6年の御猟場廃止以来、「聖蹟」保存を目的として禁猟区指定の願い出をしたりして御猟場の復活を働きかけていました。
また、聖蹟記念館の建っている土地1万5000坪を無償で寄付したのは調布町の宮川半助氏で、
「幕末維新で多くの勤王の志士を倒した新撰組の局長・近藤勇が宮川家の出で、近藤の罪滅ぼしという意味合いがあった」という。宮川半助氏は宮川家を継いだ近藤の兄、音五郎の孫だそうです。
聖蹟記念館の展示物のなかに、明治天皇ゆかりのもの以外に、新撰組の遺品があったと思うんですが、
それがいかにもちぐはぐで、「へんなの」と思ってましたが、こういう経緯があったからなんですね。
宮川家は甲州街道・布田五宿の一つ、上石原宿の中にあるのだけども、接しているのは甲州街道ではなくむしろ人見街道のほうで、これが一種の「飛び地」だったのだそう。
名主などの役にもついていないのになせか豪農で、上石原宿に組み込まれていながら甲州街道沿いにはない、謎の多い家だそうです。一説に御鷹場を管理する為に置かれた番人なのではないかという話。
今だと野川公園と調布飛行場の間に挟まれた位置となり、近藤神社が建っています。
調布市が、この宮川家を囲う為だけに、ぴょろ~っとしっぽを伸ばしたような形になっていて、
ますます謎なんだそうです。たしかに云われてみると、その通りで、なんだかおもしろい。
>調布市野水1-6-8 野川公園入り口
この、連光寺村の名主・富澤政恕さんは、領主の兵賦(武士の代わりに雇われた領民)として文久3年の
将軍上洛の東海道をお供しています。(のちの新撰組のメンツはこのとき中山道ルートで上京中)
文久4年の再上洛でもやっぱり領主のお供で京都入りし、2月2日に壬生を訪れ土方、沖田、井上らと酒宴。3月3日には土方と井上が富澤氏の宿舎を訪れ清水寺に参拝、祇園の藤屋で酒宴、5日に近藤と藤堂も交え島原の木津屋で酒宴、11日にはさらに武田観柳斎も加えて花見をしています。ものすごい、歓待振りです。
13日の帰還では土方が郷里の手土産にと、自分の日記と鉢金(ひたいを守る防具)を託したといい、
土方歳三記念館にこの鉢金は現存するそうです。
富澤政賢さんというのは、この政恕さんの息子さんで、明治の頃、兎狩りの差配を揮ったのは
この息子さんの方のようです。
ウィキをみると、明治22年6月24日~明治37年年10月5日と明治41年9月28日 ~大正9年11月30日の2度、多摩村長を務めてらっしゃいます。
そして、京王が沿線開発をはじめる昭和30年代、昭和34年5月1日~昭和39年3月31日に
多摩村長を務めるのがそのご子息であろう富澤政鑒さんです。
(富澤政鑒さんは昭和13年度の京王の株主名簿に13株の所有者として既に名前が載っていますが、
これは玉南鉄道の株をそのまま京王株として引き継いだものなんじゃないかな~と予想。)
昭和35年4月10日号の京帝だよりにも桜ヶ丘団地建設の地鎮祭で多摩村長として祝辞を述べたとあります。(『多摩市市制施行30周年記念 旧多摩聖蹟記念館企画展 京王電鉄と多摩市の都市開発』より)
この時、京王が買収した土地は23万坪、工費は8億円の予定で「理想的な田園都市の建設計画を」とうたっています。このころ田園都市って流行ってたんですね。
また昭和36年6月7日付けの京帝36第338号で、多摩村長宛に代表取締役・井上定雄の名義で
新地名を「桜ヶ丘」にしたいという要望書が出されています。
議会はこれを受け入れ、地方自治法第260条第1項にもとづき多摩村の大字小字の一部を廃止、
その区域を「桜ヶ丘4丁目」と新たに画し、昭和37年5月1日から施行しました。
(4丁目からなのかよ?!死番、気にしないんだな・・・)
昭和38年末までに逐次1~3丁目を画す予定だったみたいです。
議案書には「また新地名には、京王帝都電鉄株式会社の要望を参酌し、桜ヶ丘を採用したものである。」
と載っていて、桜ヶ丘の名付け親が京王だったとわかります。
その後、富澤政鑒さんは多摩町長を昭和39年4月1日~昭和46年10月31日、
初代多摩市長として昭和46年11月1日~昭和54年4月30日と、長期にわたって務めますが
昭和53年頃おこった、聖蹟記念館をめぐった汚職疑惑で糾弾され、
多摩ニュータウン名市長として名高い臼井千秋2代目市長にとって代わられます。
どうも、この頃市長個人の借金と、聖蹟記念館の維持費がかなり重なっていたみたいで、
記念館の名義を内緒で書き換えていたり、記念館の土地を勝手に売買しようとしたりしていて、
記念館の土地は、東京都が買い上げて公園とした(都立桜ヶ丘公園と今なってる)ため、
売買契約で手付け金を払った会社側の損失だけで済んだみたいですが、
この辺は読んでてかなり暗い気持ちになりました・・・。orz
多摩市史からの引用の文で、なんか記念館への風当たりが冷たく感じたのは
この辺の関わりからなのかなぁ・・・。T T)
連光寺の記念館に関する事項は、どの本もほぼ八王子の郷土史家・沼謙吉さんの文からの引用で、
沼さんは広報ひのでも、玉南関係の特集を2回程やってくれているので、
個人的に尊敬している御方なのですが、今回の件でさらにその念を深めましたです。
おなはし聞きたい。(*´ン`*)
もう少し詳しい説明が載ってました。
明治14年2月8日 侍従長・山口正定らが連光寺村を訪れ兎の生息調査を行う
これは数日前に行った荏原郡上馬引沢村(世田谷区)での兎狩の獲物が少なく、
さらに郊外で狩猟を行いたいという天皇じきじきのご希望があったからだといいます。
やっぱり、おためしだったんですね>郊外での狩猟天覧
侍従長等は連光寺のあと、八王子・青梅・飯能・所沢(所沢は尾張藩の御鷹場だった)も調査して
18日に明治天皇が八王子付近で狩猟する事を命じます。
予定では18,19日で狩猟を行い20日に還幸する予定だったのが、
天皇自身の希望で急きょ連光寺で兎狩りをすることになりました。
この時の兎狩を余程気に入ったようで、陛下は26日に再び八王子付近で兎狩を希望するも
山口侍従長に止められ諦めたという。(天皇陛下・・・ノ▽`:)
明治15年2月28日 (連光寺で兎狩の直後)連光寺村の山野を「御遊猟場」に指定する通達が
神奈川県から届く
明治15年3月 連光寺村、乞田村、貝取村、黒川村、坂浜村、百村、大丸村の7ヵ村が
「御遊猟場」に決まる
明治15年5月31日 正式な指定の告示あり
明治16年7月 正式名称が「連光寺村御猟場」と決まり、以後御猟場と呼ばれる
御猟場指定は明治年から16年にけて群馬県、埼玉県、栃木県、神奈川県などで行われ、
その指定は民間の土地の上に設けることが可能で国土=皇土という王土論の実践と、
皇室財産確保という側面があったという。
また西洋の王室が設けていた御猟場にならい、国貴賓接待にも利用しようとしていたらしい。
明治19年7月 外務次官青木周蔵が神奈川県知事を通じて、北多磨郡長砂川源五右衛門へ
府中駅、上染谷村組合、烏山村組合、下連雀村組合、深大寺村組合、布田小島組合、
戸倉新田組合、小川新田組合、小金井村組合、関前村組合の区域での
期間3年間の御猟場借用を申し入れる
明治19年10月 各組合戸長と約定証を取り交わす
ところが禁猟の制札が建てられ、布田五宿の中村重右衛門と中村克昌らが狩猟権を主張して訴訟を起こした為、この借用は解約となり、翌年、範囲を変更して再度青木側から申し出があるも不調におわります。
これは遊猟場貸渡しによって未曾有の不況からの脱出を試みた郡役所と、
旧自由党党員の権利意識の対立だったといいます。
御猟場指定は兎の頭数確保の為の禁猟により、兎が繁殖して山林や農作物に被害がでる上、民間の狩猟が禁止された為、密猟者の摘発が相次ぐ問題も起き、ありがたい話ばかりではなかったようで。
また行幸の為の道路補修や、狩猟に狩り出される人足の負担も少なくはなく、宮内省から賠償金代わりに下賜金があったものの、御猟場指定解除を希望する農民は多かったといいます。そして
大正6年6月30日 宮内省の方針により御猟場は廃止
昭和2年になると、明治天皇が兎狩を行った連光寺の大松を売り出すという広告が国民新聞に載り、
これを見た元宮内大臣田中光顕伯爵がこの地に注目、地元の富澤政賢らと「聖蹟奉頌連光会」を設立。
連光寺では明治14年に明治天皇の愛馬・金華山号を繋いだ桜木を「御駒桜」と名づけ、すでに聖蹟化がはじまっていたものの、大正6年の御猟場廃止以来、「聖蹟」保存を目的として禁猟区指定の願い出をしたりして御猟場の復活を働きかけていました。
また、聖蹟記念館の建っている土地1万5000坪を無償で寄付したのは調布町の宮川半助氏で、
「幕末維新で多くの勤王の志士を倒した新撰組の局長・近藤勇が宮川家の出で、近藤の罪滅ぼしという意味合いがあった」という。宮川半助氏は宮川家を継いだ近藤の兄、音五郎の孫だそうです。
聖蹟記念館の展示物のなかに、明治天皇ゆかりのもの以外に、新撰組の遺品があったと思うんですが、
それがいかにもちぐはぐで、「へんなの」と思ってましたが、こういう経緯があったからなんですね。
宮川家は甲州街道・布田五宿の一つ、上石原宿の中にあるのだけども、接しているのは甲州街道ではなくむしろ人見街道のほうで、これが一種の「飛び地」だったのだそう。
名主などの役にもついていないのになせか豪農で、上石原宿に組み込まれていながら甲州街道沿いにはない、謎の多い家だそうです。一説に御鷹場を管理する為に置かれた番人なのではないかという話。
今だと野川公園と調布飛行場の間に挟まれた位置となり、近藤神社が建っています。
調布市が、この宮川家を囲う為だけに、ぴょろ~っとしっぽを伸ばしたような形になっていて、
ますます謎なんだそうです。たしかに云われてみると、その通りで、なんだかおもしろい。
>調布市野水1-6-8 野川公園入り口
この、連光寺村の名主・富澤政恕さんは、領主の兵賦(武士の代わりに雇われた領民)として文久3年の
将軍上洛の東海道をお供しています。(のちの新撰組のメンツはこのとき中山道ルートで上京中)
文久4年の再上洛でもやっぱり領主のお供で京都入りし、2月2日に壬生を訪れ土方、沖田、井上らと酒宴。3月3日には土方と井上が富澤氏の宿舎を訪れ清水寺に参拝、祇園の藤屋で酒宴、5日に近藤と藤堂も交え島原の木津屋で酒宴、11日にはさらに武田観柳斎も加えて花見をしています。ものすごい、歓待振りです。
13日の帰還では土方が郷里の手土産にと、自分の日記と鉢金(ひたいを守る防具)を託したといい、
土方歳三記念館にこの鉢金は現存するそうです。
富澤政賢さんというのは、この政恕さんの息子さんで、明治の頃、兎狩りの差配を揮ったのは
この息子さんの方のようです。
ウィキをみると、明治22年6月24日~明治37年年10月5日と明治41年9月28日 ~大正9年11月30日の2度、多摩村長を務めてらっしゃいます。
そして、京王が沿線開発をはじめる昭和30年代、昭和34年5月1日~昭和39年3月31日に
多摩村長を務めるのがそのご子息であろう富澤政鑒さんです。
(富澤政鑒さんは昭和13年度の京王の株主名簿に13株の所有者として既に名前が載っていますが、
これは玉南鉄道の株をそのまま京王株として引き継いだものなんじゃないかな~と予想。)
昭和35年4月10日号の京帝だよりにも桜ヶ丘団地建設の地鎮祭で多摩村長として祝辞を述べたとあります。(『多摩市市制施行30周年記念 旧多摩聖蹟記念館企画展 京王電鉄と多摩市の都市開発』より)
この時、京王が買収した土地は23万坪、工費は8億円の予定で「理想的な田園都市の建設計画を」とうたっています。このころ田園都市って流行ってたんですね。
また昭和36年6月7日付けの京帝36第338号で、多摩村長宛に代表取締役・井上定雄の名義で
新地名を「桜ヶ丘」にしたいという要望書が出されています。
議会はこれを受け入れ、地方自治法第260条第1項にもとづき多摩村の大字小字の一部を廃止、
その区域を「桜ヶ丘4丁目」と新たに画し、昭和37年5月1日から施行しました。
(4丁目からなのかよ?!死番、気にしないんだな・・・)
昭和38年末までに逐次1~3丁目を画す予定だったみたいです。
議案書には「また新地名には、京王帝都電鉄株式会社の要望を参酌し、桜ヶ丘を採用したものである。」
と載っていて、桜ヶ丘の名付け親が京王だったとわかります。
その後、富澤政鑒さんは多摩町長を昭和39年4月1日~昭和46年10月31日、
初代多摩市長として昭和46年11月1日~昭和54年4月30日と、長期にわたって務めますが
昭和53年頃おこった、聖蹟記念館をめぐった汚職疑惑で糾弾され、
多摩ニュータウン名市長として名高い臼井千秋2代目市長にとって代わられます。
どうも、この頃市長個人の借金と、聖蹟記念館の維持費がかなり重なっていたみたいで、
記念館の名義を内緒で書き換えていたり、記念館の土地を勝手に売買しようとしたりしていて、
記念館の土地は、東京都が買い上げて公園とした(都立桜ヶ丘公園と今なってる)ため、
売買契約で手付け金を払った会社側の損失だけで済んだみたいですが、
この辺は読んでてかなり暗い気持ちになりました・・・。orz
多摩市史からの引用の文で、なんか記念館への風当たりが冷たく感じたのは
この辺の関わりからなのかなぁ・・・。T T)
連光寺の記念館に関する事項は、どの本もほぼ八王子の郷土史家・沼謙吉さんの文からの引用で、
沼さんは広報ひのでも、玉南関係の特集を2回程やってくれているので、
個人的に尊敬している御方なのですが、今回の件でさらにその念を深めましたです。
おなはし聞きたい。(*´ン`*)