たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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夏休みの帰省を利用して、神社名所をいろいろ見てきました。
こちらは神奈川県大磯町の相模国総社・六所神社です。
大國魂神社がかつて、(武蔵国の)六所宮や六所明神とよばれていた如く、
相模国にも六所神社とよばれ、相模国内の有名社を一箇所に祭った総社があったという事です。
しかも、大祭は大國魂とおなじ5月5日。
これはよい比較サンプルが近所にあったものだ、と思い見てきました。
これはそこでもらってきた、六所の地図。
大國魂には一の宮~六の宮がありますが、相模国の六所神社は一の宮~四の宮までしかなく、
五の宮「格」(=相当)という扱いで平塚八幡宮、そして自分を入れてやっと六所という、
なんか、ちょっとイレギュラーなカウントな気がしないでもないですが、そんな違いがあります。
一の宮 寒川神社(さむかわ) 式内社
二の宮 川勾神社(かわわ) 式内社
三の宮 比々多神社(ひびた) 式内社
四の宮 前鳥神社(さきとり) 式内社
五の宮格 平塚八幡宮
寒川はJR相模線の沿線で有名な神社ですね。これだけが相模川の対岸にあります。
1500年前の雄略天皇の頃、奉幣され、延喜式でも相模国唯一の明神大社というから、
相当格は高いです。関東八州方除総鎮護・八方除の守護神というから効能のテリトリーも広そうです。
川勾神社は11代垂仁天皇の時代に磯長国造阿屋葉造が勅命を奉じ、
日本武尊が東征の途中で奉祀、允恭天皇の皇妃安産を祈願、頼朝は神馬を献上、
小田原北条氏から鬼門守護社とされ、徳川からは50石を寄せられるなど
スポンサーに事欠かない神社です。
「かわわ」の「勾=わ」は「くねくね曲がっている」という意味ですが、
これみてると小田原に入る手前の酒匂川も「さかわ」と読むのを思い出しますね。
「匂」は「勾」が転じたものという説があるそうです。
比々多神社は神武天皇6年国土創造の神を祀ったというのだから、こればヤバイ。
初代じゃないですか。53代淳和天皇の時に当国総社冠大明神の神号を賜る。え?
神社の周辺には古墳が360基もあったらしい。
弥生時代からのものがあるとすれば、神武時代創祀というのもあながち・・・
前鳥神社は1640余年の歴史があり、と創建年代書いてないわりには、数字が具体的だな・・
祭神の前鳥大神は修学・学問の神であり、渡来系技術者を庇護して土木・農業の発展をなし
産業技術の神として崇敬されているらしい。
じつは、平塚にあったとされる国府跡が四の宮から発掘されています。
国府を立てるときに、周辺域に職人用の竪穴式住居がたくさん建てられるんですが、
そんな人達も庇護したのかもしれませんよね。
平塚八幡宮も1600年以上の歴史有り、仁徳天皇68年に大地震があり、その被害をみかねた天皇が詔勅を出して応神天皇を祀ったことから創祀、推古天皇の時代にも地震があり、鎮地大神の御宸筆を賜る。
相模国一国一社の八幡宮で、平塚中心市街と官庁街を結ぶ、最も標高の高い八幡山に位置。
江戸時代に街道が整備されると、門前は大門通りとよばれ、東海道と大山道と厚木街道と須賀港からの道が交わる交通の要所となり、平塚商業発祥の地となる。
そして肝心の相模国総社。
六所神社は崇神天皇の御代、櫛稲田姫を守護神として創建、当時は柳田大神といったという。
大化の改新後、国府鎮座の総社に指定、一の宮から平塚八幡宮の分霊を祀る。
鎌倉時代には源頼朝から富士川合戦の戦勝祈願がなされ、小田原北条氏からは65石の寄進があった。
他の神社に比べると、弱い感じですが、場所は神奈川県大磯町国府本郷935で、
平安時代初期の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記されていることから、平塚から大磯へ国府が移転したということが分かっており、
大磯に移ってから指定されたんではないかなと。または、一緒に引っ越した可能性も。
大住(おおすみ)、余綾(よろぎ)は相模国内の郡の名前です。
余綾は近世以降、淘綾と表記される事が多くなり、明治時代では淘綾郡が採用されたそうです。
大きな地図で見る
六所神社とは6柱の神、または6宮を合祀していることからついた名前で、
祀っている神様じたいはまちまちです。
その中で、国府内で国司が一括祭祀できるよう総社とした六所神社というのは、
武蔵国、相模国以外では、下総国(千葉県市川)安房国(千葉県館山)出雲国(島根県)出羽国(山形県)で、埼玉にも総社としての六所神社があるらしいのだけど、これは国府関連とはちがうのかな?
武蔵国周辺で多い傾向ですが、全国に分布としてもいい範囲かもです。
出雲国造と武蔵国造は祖先が同じで、出雲が大和に下ったあたりから、出雲族の武蔵への入植がはじまたっという話もあるくらいだから、武蔵と出雲は案外離れた関係ではないのかもしれませんが、出羽は調べてないのでまだよくわかりません。
総社の六所神社が全国に複数存在するなら、そこから調べれば、国府内に国内の有力社を一括祭祀するという効率化が、いつ頃行われるようになったのかがわかると思ったんですけど、これじゃよく分からないな・・・。
中央から一律にそうするよう、お触れが出たのなら同じ時期にみんな総社をつくったと云えるんですが、どこか1箇所が始めて、隣国がそれをまねるようになった、というようにも見えなくもなく・・・。う~ん。
だいたい、なんで「6社」なんでしょうかね?
ちなみに、国府総社でない六所神社も含めた全国の分布が、上のグーグル地図です。
全国的にあるにはあるんですが、結構偏りがあります。
世田谷などの多摩川流域にもけっこう六所神社があるんですが、
これは大國魂神社から勧請したものが多いみたいです。機会があったらいってみようかな。
一番目を引くのは静岡県西部、愛知県に隣接した地域に群生している六所神社です。
愛知県のなかで有名な六所神社は奥州塩竃の六所明神、塩竃神社から勧請したものなので、
祭神は塩竃神社と同一ですが、お隣の静岡県はなんなんだと。
昔の行政単位でいうと、愛知県は三河国で静岡県西部は遠江国(遠州)です。
静岡県神社庁のホームページ(http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/search.php?mode=city&search=&city=35&p=10)で調べると、だいたい2系統あることがわかりました。
浜松市北区引佐町の辺りで祭祀されているのは
底津海祇神・中津海祇神・上津海祇神と、底津筒男命・中津筒男命・上津筒男命
という海神のダブル3兄弟。
なかでも浜松市浜北区宮口1の六所神社は遠江六十二座式内神社の一社であり、
麁玉郡多賀明神ということで、比較的有名です。
浜松市カントリークラブ周辺で祭祀されているのは
伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大神・月読尊・素盞嗚尊・蛭子命という有名所の3貴神家族です。
とくに浜松市浜北区大平813の六所神社は創建年月日、神階、不詳
延喜式国史所載一宮、二宮、三宮、総社、国内神名帳所載旧社格村社というのが気になる所です。
もしかしたらこれが遠州国の総社なのかも?
でも結局、佐鳴湖の東海道線沿線および天竜川流域で祭祀されてる六所神社は
祭神も由緒もわからないものが多数です。
多分、有名所から勧請しまくったんじゃないかな~?と思うんですが
なんで浜松市にこんなに六所神社がもちゃ~ってなってるのかの理由はわからなかったです。
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小田急で出発したところ、小田原本線に嫌われ小田原行き急行をのがしたので、
次に来た藤沢行き急行で藤沢まで。たまにはこういうルートもいいものです。
JRの藤沢駅のニューデイズが面白い形してましたし(笑)
東海道線で相模川を渡る。
そこからは平塚~大磯~ニ宮~国府津と続きます。
平塚と大磯には先にも書きました通り、国府がありました。
また国府津の「津」は港という意味であり、国府が管理した港で交易を行っていたようです。
さらに相模国の国分寺は海老名にあり、そこにも国府があったんではないかということで、
相模国国府の位置がなかなか定まらない原因になっています。
二宮駅で下車。
二宮の由来はもちろん、ニノ宮の川勾神社があるからですが、
六所神社も大磯駅よりはこちらが近いので。
ただ残念ながら川勾神社と六所神社では方向が全然違うし距離もあるので、
今回は川勾神社の方を諦めました。
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駅前ロータリー。
なんとガラスの兎の像がある。二宮が舞台だったんですね。
だけど、重要なのはその下の標識。
国道一ケタ!しかも1号線とな!
なんと、六所神社へ向かう道は旧東海道でした。
もしかして、相模総社って東海道筋の名所でもあったんかな?
途中にあった消防団らしき施設。
国府新宿となっています。この辺りの地名です。
その手前にあった、お稲荷さんと「道祖神」と堂々と書いた石。
ここまではっきりかいてあると、いっそ清々しいな(笑)
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全国的に雨の中、関東南部は晴れてます。
アスファルトの道みちが、熱気でかなりやばかったですが、どうにかたどり着きました。
ここにも道祖神の石が、神社の碑の後ろに。
さすが、東海道というべきなのか。
右から大正6年、昭和13年、平成9年とあります。
朱の大鳥居なんか、本来は文化14年の建立だったのに、
平成9年の自動車事故で大破してしまったという悲しい事実が書かれています。
鳥居の場所が動いてないとすれば、やっぱり江戸時代の頃から東海道に接していたんですね。
それが古代までさかのぼれるかは謎ですが。
参道をすすむと、なんと東海道線が横たわっていて、地下道が設けられてました(爆)
こんな参道ははじめてです。
え、いつから?もしかして、明治からずっとこれなの?
地下道を設けたのは、もっと列車が頻発に往来するようになってからでしょうが…おーう。
ようやっと、神社がみえてきました。
参道にぽつぽつある大樹はケヤキです。樹齢300年以上はあるそうです。
やっぱり、ケヤキなのか・・・。
それと、またまた道祖神がいました。こんどは夫婦神です。
櫛稲田姫の湯津爪櫛の御守りと神奈川県重要文化財の神像について。
クシナダヒメはスサノオがヤマタノオロチを退治するときに、
櫛に姿を変えて、彼を守ったという伝説があり、そこから御守りとして売られているのでしょう。
御守りに付いている由来には、荒魂(あらみたま)であるところのスサノオの命は
クシナダヒメの奇魂(くしみたま)を得る事で、鎮まりより強く尊い神になったとあります。
なるほど、櫛と奇しきをかけているのね・・・。
この櫛をみにつけると、女性はアゲマンになれるそうです。良縁・災禍除け。
神社では他に鳥の御守りも売っていました。
こちらは源頼朝が治承4年に平維盛軍と富士川で戦ったときの戦勝祈願にちなむものだそうです。
(「吾妻鏡」)
境内には、門から入ってすぐのところに、左右で一対の池があります。
左には竜神を、右には水神と、弁財天を祀っているのですが、
もともとは櫛稲田姫の姿見の池だそうです。
姿見の池といえば、出雲の八重垣神社のが有名ですね。
薄紙にコインをのせて水に浮かべれば、婚期を占えるというやつ。
水神の方はミツハノメなのかな?
左が男(龍)で右が女神って配置なのかな・・・。
近所に大磯プリンスホテルがあるらしく、寄進されてた(笑)
あまり広い敷地ではないながら、この1対の池はかなりの存在感です。
水も比較的美しい。近くの井戸からポンプでくみ上げている模様。
それにしても、な~んで出雲の神さまなんだろうなあ?
駅にもどります。
途中、秦野駅方面へいく道があるらしく、秦野道という名前の停留所がありました。
秦野って、渡来系技術集団となにか関係があるのかな?
それにしても、周辺の積乱雲が、ほんとすごい。
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今日も今日とて、休日出勤ですが。
午前中の時間を利用して武蔵府中熊野神社古墳を見てきました。
ふるさと府中歴史館のチラシで国衙跡とともに、一押しされてた古墳なので
考古学的にはどのくらいの位置付けなんだろう・・・?と、このあいだまで
「東京の古墳を考える」( 品川区立品川歴史館企画/雄山閣発行)を読んでました。
・・・一応、最近の発掘としては大きなもののようですね。←
最寄駅はなんと南武線の西府駅~!
新駅開業して以来ですよ見に来るの。しかも、外観みたのはこれがはじめてです。
ロータリーのまわりままだまだ草地が多いな。
ただ駅前に着々と巨大なマンションが建設中。
入居予約は無事満員になったらしい。
あとは、お寺さんみたいのが、空き地の先にのこってるのが気になるな。
もう少し北へ行くと甲州街道にあたり、いなげやとかがあるのでそんなに不便な土地ではない。
熊野神社は甲州街道に面していますが、それより一本手前の裏道をいく方が近道みたいです。
甲州街道の南側にある本宿内の道だから本宿南裏道らしい。
車通りも少なく、歩きやすい住宅路です。
そこから甲州街道へ出る北の道に曲がります。
その近くにあったポスターによると9月に例大祭があるようですね。
つきました~。
樹木が少なくて殺風景なのが、甲州街道のせいなのか古墳の発掘のせいなのか。
しかし、鳥居に巻きつく緑の巨大なしめ縄が印象的です。(どういう意味が?)
敷地の左側には古墳に関する資料館が立っていました。
この黒い建物は、古墳内部の復元らしい・・・。
その壁には「くまじい」と「おくまちゃん」のマスコットキャラクターが・・・。
くまじいはギリギリじゃないかな?ヒゲは出土物の七曜紋の鞘尻金具がモチーフのようだ。
資料館は後回しにして、まずは神社にごあいさつ。
拝殿に向かって二礼二拍一礼。
してる先にちょうど、お猫様がいて、なんだか猫に向かって頭を下げている気分に。
それにしても、この猫様堂々としていて偉そう。
首輪していて毛並みもいいので、神社で飼われているのかもしれない。
そして、セミに無体な遊びを。(高速で羽ばたいてるので蝉がみえませんが)
この社殿自体もなかなか、歴史のあるものらしく。市の文化財になってます。
ご祭神はとりあえず素戔嗚尊(すさのお)さん。
熊野神社って、いまいち実態が分からなくていつも理解がむつかしい・・・。(苦手)
なんか、どこにでもあるんだけど、熊野で信仰してるのって神?仏?てところからあいまいで。
融合してるというか、どろどろでよくわからない。熊野信仰を広めたのは修行僧らしいけど。
熊野の神社が3つくらいあって、熊野の名前の神様それぞれがいて基本はそれでいいんだろうけど、
でも各地の熊野神社の祭神はだいたいイザナミ・イザナギ・スサノオとかで。?
根の国の入り口が熊野だから、てところから始まるみたいなんだけど。
熊野権現って、べんりな言い方だよなぁ・・・。つきつめていくとよくわからないんだけど。
十三念仏みたいな、有名どころの神様の「もりもりのましまし」で、いいのかなぁ?
各地域の熊野神社はべつに嫌いじゃないんですけどね、むしろ自然でいつきがいい。
それとは別に境内の右隅では八衢比古(やちまたひこ)と八衢比売(やちまたひめ)を祀っていました。
これは、道の交差する衢(ちまた)を守る道祖神の一種のつがい神ですね。
道祖神はイザナギがイザナミから逃げる黄泉比良坂(よもつひらさか)のお話しの中で発生している神で、道を通して入ってくる悪いものを防ぐ役割があります。
これも熊野関連(黄泉の国)で祀っているのか、
それとも府中高札場のあたりなんかが甲州街道と川越街道=川崎街道=府中街道と新旧鎌倉街道なんかが混じり合う、まさしく八衢(やちまた)な交差点なので、そこを守っていた神様なのかもしれない。
こっちのほうが興味あるところです。
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さて、本命の古墳です。
復元がなされて、公園のアスレチックの一種みたいな異様な姿に。の、のぼりたい・・・。
発見される以前は、木がぼうぼうのプチ裏山みたいな感じだったんですけど。鎮守の森というか。
たいがいの神社が墳丘の上に社殿をたてて、墳丘を破壊してしまうなか、
その手前に社殿を立てて森をそのままにした熊野さんは、なんというか殊勝だなぁ・・・。
平成17年に復元が終わってセレモニーしたらしいです。
さて、なんで熊野神社古墳が国指定の遺跡なのかというと、これが上円下方墳という
正方形の基壇の上に半円の墳墓をのっけちゃった、終末期といわれる飛鳥時代にかかる
めずらしい形の古墳だからで、全国でもまだ片手で数える位しかこの形の古墳は発見されてない。
そのなかでも、この熊野神社古墳は最大級なんだそうで。
前方後円墳がだんだん作られなくなって(古墳時代の終わりといわれる)、
八角墳とか円墳とか方墳とかになってくるですけど
そのうちそれ等を組み併せた最終形態の上円下方墳が登場する。
天智天皇陵がまずそれだといわれていて、明治天皇や大正天皇の御陵もそれにならって
上円下方墳が選択されたんだけど、のちの研究で天智天皇の墳墓は
実は八角墳だということが分かった(笑)
だから、天皇陵で上円下方墳なのはむしろ近代からなんですよね。
ただ、全国の古墳の総数がだいたい15万~20万基で前方後円墳が約5000基、
前方後方墳をふくめても6500基くらいで、一番多いのが円墳。
ということは、今後はただの円墳とおもわれているものの中から
上円下方墳が発見されることもあるかもしれませんね。
熊野神社古墳の特徴は、内部構造が玄室と奥室(後室)と前室(羨道)の3室。
版築工法という種類の異なる土を何層にもとんとん突き固める方法で
強度をましている。(超手間が掛かる)
石室は軟質で加工のしやすいシルト岩の切石で、わざと石をL字にして組み合わせて強度を増す切石切組積みという飛鳥時代の古墳に特徴的な積み方で、仏塔の基壇づくりなんかでつかわれる新しめの技術を導入してる。
のわりには玄室は胴張り型という、武蔵地域によく見られる従来型の仕様である。
上円下方墳という最新モードを、しかも基壇と方墳と円墳という3段重ねで実現(ほかはだいたい2段)、1段目と2段目には葺き石(でかい岩)と張り石(平べったい石)を箇所によって使い分けて、
みっちり表面を覆っている。(葺き石の角が直角で残っていたから下方墳だとわかった)
その上保存状態がかなり良好である。
というようなかんじで比較的大型の手間の掛かる作り方がされているので、総合すると被葬者はかなり地域で力のあるトレンディな人物である一方、玄室が武蔵型なので中央官人ではなく在地の首長級なのではと云われています。
そのうえ、時期が終末期の7世紀中葉で、武蔵国府ができる直前につくられたところから、
国府選定にもなんらかの影響力(協力?)もした人かもしれないという。
ただ、考古学は他の例との相異を積み重ねて結論を出していくので、
5年や10年で結論のでるものでもなく、まだまだ可能性の話らしいですが。
ところで、この玄室には明治時代までは入れたそうです。
明治17年発行の「武蔵野叢誌」には石室の中に入ったときの様子が書かれているそうで。
発掘の時には玄室の壁になにやら文字が書いてあって、学者が「ファ!?(墓誌?)」ってなったんだけど「歩兵第一聯隊第一大隊附四名」というらくがきだった。陸軍・・・の、やんちゃさんめ!!
ただ発掘の時には玄室の天井が崩れており、石室がやわらかいため、関東大震災のときにでも
崩落して入り口が分からなくなり、そのまま忘れ去られていたんだろう、ということでした。
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あとですね。神社の正殿が、まったくの白木で新しくなってて、すごく気になりました。
まさか発掘や復元作業の為に壊 し た・・・んじゃないよね? ((川゜Д゜)))ブルブル
裏手に回って、全体の大きさを堪能。
こちらからも拝めるように鳥居が設けられていますね。
三段重ねにする事で、平地でも高さが強調されてます。なんだかパワーありそうです。
それにしても、住宅街のど真ん中にあるので、へんな空間になっていることも確か。
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熊野神社古墳展示室の方は、入館無料でコンパクトな展示室でした。
あまり時間がないので、例の石室内部の方はみませんでしたが、
一定時間おきに映像が流れていました。
復元の時の、石張り作業がすごく大変そうvvv
よくあんだけの石、あつめたなぁ。(という部分にだけ感心)
あと古墳まつりというのを毎年やっていて、映像見る限り飛鳥・平安時代のコスプレするらしいv
今年は10月20日に開催のようです。
映像では府中で復元栽培されている古代米もふるまっていました。
赤黒くて白米とたくとお赤飯のような色が付くのですが、この古代米はたしか府中駅構内のぷらりとの和菓子屋さんでも売られていて、モナムールのレストランでも食べられるのかな?
あとはコンチネンタルホテルのなかのレストラン、ヴァンフランのランチでも提供されています。
食感はさくさくとしていて、それほど味はありません。
ところで、展示室で紹介されていた上円下方墳の例が4つしか無かったんですけど。なぜに?
ウィキだと石のカラト古墳(奈良県・京都府)、清水柳北一号墳(静岡県)、野地久保古墳(福島県)と熊野神社古墳(東京都府中市)、天文台構内古墳(東京都三鷹市)の5例が報告されてるんですけど、ここの展示だと天文台構内古墳がフリップがもれている。
比較的新しい発見だからかな~と思ったけど、だったら野地久保古墳のほうが後じゃんね。
場所もここから近いですし、規模も熊野神社古墳の9割くらい、基壇と葺き石はなく、熊野神社古墳にはなかった方形周溝があるものの、3室で胴張り玄室という、熊野神社古墳にとても近いものなのに、ここに紹介がないのはなぜ。
「東京の古墳を考える」(発行2006年)でも、発見からまもなくてまだ報告程度にとどめた内容で、上円下方墳かさえ書かれていなかったんですけど、「多摩のあゆみNo.137」(発行2010年)にはちゃんと上円下方墳だったって、結果が載っているのにな?謎です。
ちなみに野地久保古墳が、高さ1.5mの、上円直径10m、下方一辺16m、
清水柳北一号墳が、高さ推定2.8mの、上円直径9m、下方一辺12.4mで最小、
石のカラト古墳が、高さ2.9m以上の、上円直径9.7m、下方一辺13.8m、
天文台構内古墳が、高さ2.1m以上の、上円直径18m、下方一辺30mで円墳がでかい、
熊野神社古墳が、高さ4.8m以上の、上円直径16m、下方一辺32mの最大級で
武蔵国内の上円下方墳は比較的大型なのがわかります。
今後、両墳の関係性が、いろいろ判明するといいな。と
以前紹介した、府中の古道の地図のなかにあった「いききの道」「御滝道」にまつわる神社、
清水が丘の滝神社を見てきました。
府中崖線のハケ下にわく湧水による滝が神社の名前の由来なのでしょうが、
そう思うと府中市清水が丘の地区名の由来も同じなのでしょうね。
スタートは府中競馬正門前駅から。
平日の昼間なので人いねぇ~。
駅から府中競馬場に向かっては坂になっています。
気にしてなかったけど、これが段丘差だったんですね。
坂の左右は駐車場になっていますが、その背後がぼんやりと崖の茂みになっています。
坂の名前。
普門寺の裏手にあたる坂なので「普門寺坂」とか「薬師の坂」とかいうようです。
ここのお寺では薬師如来が祀られているのですね。
薬師信仰と目薬はけっこう深いつながりがあって、
新井薬師とか秩父の薬師様では境内にメグスリノキを植えて
目薬の飴とか葉っぱとかよく売っていますよね。
もうひとつ、「古墓=ふるはかの坂」というのも気になる所ですが、
古墳時代の墓ではなく普通の仏葬以降のお墓を指しているようですね。
武蔵国衙の周囲には古墳があんまりありません。
国府を設ける予定地に古墳を作るのを制限したのでは、という説もあったんですが
発掘で元からあった竪穴住居の上に掘立建物を上書きしたりしているので、
そういう建築制限があった訳ではなく、この辺りの崖は高さがあまりないから
地域で一等高い場所を選ぶ古墳には適さなかったのだろうというのを
最近「多摩のあゆみNo137」で読みました。
たしかに、あんまり崖が目立つほどでは無いんですよね。
あと、yahoo地図ではこの辺りに妙顕神社というのがあったんですけど、
もしかしてコレかな?(右の写真)
ものすごい、小さな祠で見逃してしまいそうでした。
何を祀っているのかな。大國魂神社からいけるいききの道はもうないので、
坂を降りきって、ここからは競馬場の大通りを東へ向かいます。
競馬場の駐車場から見た府中競馬正門前駅からのびる橋。
こうしてみると、段丘差があるために競馬場の2階へつなげたことがよく分かりますね。
しばらく行くと、左手にまた崖の上へ上る坂がありました。
「天地の坂」と「馬坂」だそうです。どっちがどっちだかはわかりませんが。
天地の坂の方の説明では、やはりこの辺りは湧水による滝が豊富で、
その流水による水車の運用や山葵の栽培もしていたようです。
馬坂の由来は明確ではないそうですが、案外いききの道をゆく運送用の馬が
崖下に降りて水を飲むための坂だったりして・・・。
これもいききの道の名残なのかなぁ。
この坂を右へいくと、おそらく八幡神社の境内の裏手に出ます。
競馬場の通りも端の方まで行くと、急速に雰囲気が変わります。
隣の屏が原因ですね。中を見るとかやぶき屋根のようで???
なにかの郷土資料館か博物館の公園かと思ったんですが、民家っぽいですね。
そこの玄関からまた、甲州街道方面へのびる道の雰囲気がいい意味でヤバイんだわ。
トトロの映画でメイが迷い込んだ竹藪みたいだ・・・。
ちょっと、吸い込まれそうでしたけど、今回は断念して元の道に戻ります。
競馬場通りの道を少し行き、左へ上る坂を選んでまた少し行くと
ようやっとお目当ての場所に来られました。
「いききの道」の分岐路です
入り口らしく道祖神的なものがならんでいますね。
「いききの道」の説明碑。
やはり人が行ったり来たりするために付いた名前で、
「筏道」「ハケタ道」「御滝道」ともよばれると書いてありますね。
それから「甲州古街道」といっているのは、これが大國魂神社の西門から甲斐国府へつづく
古甲州道へつながる道だからなのでしょう。
こうして歩いていると、普通の民家の裏通りなんですけどね。
でも、住宅がなければかなり景色のよい道ではありそうです。
少し遠くに多摩川の河川敷と向岡が見える・・・。
ようやく滝神社へ着きました。
いききの道はまだまだ先へつづいているようですが。
それにしても神社の神域を上から入るというのも、へんな感じだ・・・。
あと、雰囲気ありすぎる。(ビビリ)
もしかして、また裏口からはいっちゃったかな?
崖下から見た鳥居。
その隣にまたまた見事なケヤキ?の木があり。枝振りがまた立派!
ちょっと、写真には納まりきらなかったです。
こちらが社殿とご祭神。
京都の上賀茂・下鴨神社からでも勧請したのかな?
賀茂建角身命(かもたけつぬみ=下鴨の祭神)とその娘の玉依姫(たまよりひめ)と
その子の賀茂別雷命(かもわけいかづち=上賀茂の祭神)という親子三代。
玉依姫のタマは大國魂のタマとも通じるのかしら?
丹塗矢で懐妊したというのは大国主の幸御霊・奇御霊である大物主の話とも共通しますね。
ワケイカヅチの方は大国主の子の阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこ)とも同一視されるというし、
大国主=大物主=賀茂別雷命の父神とすると、そんなに関係性は離れてもいない?のか???
まあ、それはそれほど重要じゃない。
大事なのはこちら。
滝神社の本来の由来の滝。
残念ながら網で囲われております。
府中市ではもう2か所しかこういう清水の湧く場所はないみたい。
しかし、いまだに涸れることなく出続けてるのはえらいと思う。
それにしても、このロケーションのすごさはなんなんだろう。
2本の神木の間から湧き出る清水、って。舞台が本格的。
住宅街の隙間にこんなのが残ってるなんてなぁ。
・・・む、むかしはね!?もっとこんこんと白い水がでてたと思うんですよ?(唐突のフォロー)
さて、ハケと湧水の実際を堪能したところで、東府中駅で電車に乗って帰ります。
次は熊野神社古墳でも見に行くかな。
清水が丘の滝神社を見てきました。
府中崖線のハケ下にわく湧水による滝が神社の名前の由来なのでしょうが、
そう思うと府中市清水が丘の地区名の由来も同じなのでしょうね。
スタートは府中競馬正門前駅から。
平日の昼間なので人いねぇ~。
駅から府中競馬場に向かっては坂になっています。
気にしてなかったけど、これが段丘差だったんですね。
坂の左右は駐車場になっていますが、その背後がぼんやりと崖の茂みになっています。
坂の名前。
普門寺の裏手にあたる坂なので「普門寺坂」とか「薬師の坂」とかいうようです。
ここのお寺では薬師如来が祀られているのですね。
薬師信仰と目薬はけっこう深いつながりがあって、
新井薬師とか秩父の薬師様では境内にメグスリノキを植えて
目薬の飴とか葉っぱとかよく売っていますよね。
もうひとつ、「古墓=ふるはかの坂」というのも気になる所ですが、
古墳時代の墓ではなく普通の仏葬以降のお墓を指しているようですね。
武蔵国衙の周囲には古墳があんまりありません。
国府を設ける予定地に古墳を作るのを制限したのでは、という説もあったんですが
発掘で元からあった竪穴住居の上に掘立建物を上書きしたりしているので、
そういう建築制限があった訳ではなく、この辺りの崖は高さがあまりないから
地域で一等高い場所を選ぶ古墳には適さなかったのだろうというのを
最近「多摩のあゆみNo137」で読みました。
たしかに、あんまり崖が目立つほどでは無いんですよね。
あと、yahoo地図ではこの辺りに妙顕神社というのがあったんですけど、
もしかしてコレかな?(右の写真)
ものすごい、小さな祠で見逃してしまいそうでした。
何を祀っているのかな。大國魂神社からいけるいききの道はもうないので、
坂を降りきって、ここからは競馬場の大通りを東へ向かいます。
競馬場の駐車場から見た府中競馬正門前駅からのびる橋。
こうしてみると、段丘差があるために競馬場の2階へつなげたことがよく分かりますね。
しばらく行くと、左手にまた崖の上へ上る坂がありました。
「天地の坂」と「馬坂」だそうです。どっちがどっちだかはわかりませんが。
天地の坂の方の説明では、やはりこの辺りは湧水による滝が豊富で、
その流水による水車の運用や山葵の栽培もしていたようです。
馬坂の由来は明確ではないそうですが、案外いききの道をゆく運送用の馬が
崖下に降りて水を飲むための坂だったりして・・・。
これもいききの道の名残なのかなぁ。
この坂を右へいくと、おそらく八幡神社の境内の裏手に出ます。
競馬場の通りも端の方まで行くと、急速に雰囲気が変わります。
隣の屏が原因ですね。中を見るとかやぶき屋根のようで???
なにかの郷土資料館か博物館の公園かと思ったんですが、民家っぽいですね。
そこの玄関からまた、甲州街道方面へのびる道の雰囲気がいい意味でヤバイんだわ。
トトロの映画でメイが迷い込んだ竹藪みたいだ・・・。
ちょっと、吸い込まれそうでしたけど、今回は断念して元の道に戻ります。
競馬場通りの道を少し行き、左へ上る坂を選んでまた少し行くと
ようやっとお目当ての場所に来られました。
「いききの道」の分岐路です
入り口らしく道祖神的なものがならんでいますね。
「いききの道」の説明碑。
やはり人が行ったり来たりするために付いた名前で、
「筏道」「ハケタ道」「御滝道」ともよばれると書いてありますね。
それから「甲州古街道」といっているのは、これが大國魂神社の西門から甲斐国府へつづく
古甲州道へつながる道だからなのでしょう。
こうして歩いていると、普通の民家の裏通りなんですけどね。
でも、住宅がなければかなり景色のよい道ではありそうです。
少し遠くに多摩川の河川敷と向岡が見える・・・。
ようやく滝神社へ着きました。
いききの道はまだまだ先へつづいているようですが。
それにしても神社の神域を上から入るというのも、へんな感じだ・・・。
あと、雰囲気ありすぎる。(ビビリ)
もしかして、また裏口からはいっちゃったかな?
崖下から見た鳥居。
その隣にまたまた見事なケヤキ?の木があり。枝振りがまた立派!
ちょっと、写真には納まりきらなかったです。
こちらが社殿とご祭神。
京都の上賀茂・下鴨神社からでも勧請したのかな?
賀茂建角身命(かもたけつぬみ=下鴨の祭神)とその娘の玉依姫(たまよりひめ)と
その子の賀茂別雷命(かもわけいかづち=上賀茂の祭神)という親子三代。
玉依姫のタマは大國魂のタマとも通じるのかしら?
丹塗矢で懐妊したというのは大国主の幸御霊・奇御霊である大物主の話とも共通しますね。
ワケイカヅチの方は大国主の子の阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこ)とも同一視されるというし、
大国主=大物主=賀茂別雷命の父神とすると、そんなに関係性は離れてもいない?のか???
まあ、それはそれほど重要じゃない。
大事なのはこちら。
滝神社の本来の由来の滝。
残念ながら網で囲われております。
府中市ではもう2か所しかこういう清水の湧く場所はないみたい。
しかし、いまだに涸れることなく出続けてるのはえらいと思う。
それにしても、このロケーションのすごさはなんなんだろう。
2本の神木の間から湧き出る清水、って。舞台が本格的。
住宅街の隙間にこんなのが残ってるなんてなぁ。
・・・む、むかしはね!?もっとこんこんと白い水がでてたと思うんですよ?(唐突のフォロー)
さて、ハケと湧水の実際を堪能したところで、東府中駅で電車に乗って帰ります。
次は熊野神社古墳でも見に行くかな。
はてさて。
近頃なにやらメディアで近隣の露出が激しいんですが、どうしたことか。
タモリ倶楽部で二週続けて府中が出てきたと思ったら、
モヤモヤさまーず2では国立と国分寺が
アド天では聖蹟と埼玉大宮がとりあげられて、
なんだかあちこちに呼ばれているような気がしてなりません。どうしたものか。
とくにタモリ倶楽部で紹介された人見街道、甲州街道から分岐して高千穂大学・大宮八幡宮へ至る現役の道なのですが、ようするに「神社 to 神社」で始点と終点が神社ってどういう事ちゃねんと、大分気になったもので。コミケに参加するついでに覗いてきました。
てっきり丸ノ内線か中央線が沿線だと思っていたら、井の頭線が最寄りだという。これは便利。
おかげさまでスタートは西永福駅です。
殺風景な改札の前にこれだけが異様に主張しております。他に名物ないんだろうな。
西永福商店街の参道にある幟旗。なななんと、今年(平成25年)でちょうど950周年だそうで。
よ、呼ばれている・・・・・・?
最寄り駅といっても5分~10分位歩きました。
おお、鳥居だ、とおもって入ったら、行きなり本堂の随神門の横っ腹に出てしまったので、
「また、正面から入り損ねた・・・orz」
駐車場と幼稚園があって、ふれんどり~だな~とかおもってたら勝手口か。
ちなみに正面からの鳥居はあのくらい遠い。さすが。(くぐり直す気も起きない)
うわさによると都内でも三番目くらいにデカイ敷地だそうですね。
ちなみに1番目と2番目が明治神宮と靖国神社だというのだから、
だったら2つが出来る前は一番じゃんね?大宮の名は伊達じゃなかったガチだった。
9月にはお祝いの大祭があるらしいですよ。
あとは記念事業の資金募集。
大國魂が鎮座1900年で門を新しくするときも似たようなことをしていたな。
ああ!950年仕様なせいで、本来の姿がみえない!!(がーん 川゚Д゚)
お賽銭箱の横に、ご神水をとばす霧の扇風機みたいのがあって、
拝んでるあいだに左側がびたびたになりました。
なんだかな・・・(傍から見た分にはすっごく面白かったんだけど)
境内に立っている沿革の碑。文面は徳川家十六代当主の家達(いえさと)さんだというから、
明治以降のものなんだろうな、と思ったら大正時代だった。
徳川からは天正19年(1591年)社領30石と朱印状が与えられたらしい。
(という事は大國魂神社と同じ年か)
二町離れた所に別当大宮寺があり、そこと石をわけて15石づつでやりくりしたらしい。
明治5年11月に郷社、昭和18年6月府社に昇格(戦争の影響?)昭和41年7月に別表神社となる。
昭和37年に900年祭事業として社殿を改築した日にちなみ、
祭日を旧来の9月19日から15日に改めたんだそう。
(「文化財シリーズ 杉並の神社」より)
大宮八幡宮の縁起としては、後冷泉院の時代に奥州討伐へ向かう源頼義が白い八幡の瑞雲をみて
「宇佐八幡の影向せるならん」と思い、康平6年(1063年)凱旋の際、記念の地として石清水八幡宮から勧請したのを創建としているのだそうで。
宇佐八幡の神だ!と思ったのになぜか石清水八幡から勧請するんだね・・・いいけど。
源頼義という人は河内源氏二代目で源頼信の嫡男、ということは頼光の甥っ子か。
まえの記事で書いた、鎌倉に若宮八幡を勧請したのもこの人だった。
八幡神マニアなんかなぁ、と思ったら河内源氏の氏神なのか。納得。
大國魂神社のすもも祭の起源も、この源頼義・義家親子が奥州安倍氏平定(前9年の役)で大國魂神社に戦勝祈願をし、凱旋のとき、戦勝御礼詣りをして祭神饌の一つとして李子(すもも)を供えたことから始まったというから、大宮八幡宮の創建と大國魂神社のすもも祭とは一続きの出来事なのだな。
本殿の左サイドに小さなお社が二つ。赤くて派手です。ラインナップみたとこ準主役級かな?
若宮は仁徳天皇だけど「別宮わけのみや」だと荒魂になるとか怖いわ、八雲立つ思い出す。
そもそも、八幡神の一部、応神天皇の名前がホムタワケな訳で。
「ワケ」というと埼玉県行田市の稲荷山古墳から出た有名な鉄剣銘文にも
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
と、「ワケ」がつく。
「 国造制の成立と展開」に「ワケ」は一時期はやった皇族や地方豪族などの首級が有した称号の一種で、それがのちに名前の中にとりこまれていった、みたいな説明が書かれていたのだけど、読みかけなので、まだいまいち消化出来てないです。勉強中。
そのお隣が稲荷神社。こちらは生活神というかんじ。
明治に郷社だったというからここにまとめられたんだろう。
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そしてそして!こちら右サイドが天神社!!
いいですねぇ、左と違ってこの寂れた感じ!
また、所帯がごちゃついてるんだわ。
天満宮というと今でこそ大概、菅原道真に乗っ取られてますが、
もともとは少彦名神を祀っていた事が多いんですよ。しかも、古い。
「延喜式神名帳」に載る多摩の社は8つだけ。
そのうちの2つ、調布の「布多天神社」と稲城の「穴澤天神社」の神様も
少彦名神で、卒論の時にお参りにいきました。
天神社における、たいがいの由来が、菅原道真が左遷されたとき、移動の途中で足が痛くなって、
そこの神様に祈ったら治った、というもの。それでお礼にお祀りしたとかなんとか。
さらに出先で祈ることになった主体はときどき変わります。
上野公園の中にのこる五條天神社なんか象徴的なんじゃないかな。
(http://www.guidenet.jp/shop/4532/)
この場合の祈る主体はヤマトタケルなんですけども、やっぱり後から菅原ちんが一緒になってる。
天神様信仰であまりにも有名になった結果だとは思うのですが、天とつけばねじ込んで来るからなぁ・・・。
迂遠な関係性を考えれば菅原氏のもとは土師氏で、その一部が奈良の菅原邑に住んだからその姓を名乗るようになった。土師氏は、古事記によると出雲国造や武蔵国造とおなじ天穂日命(あめのほひ)を祖とすると書かれており、アメノホヒは天孫降臨の前段として、大国主に国譲りのつなぎをつけにいって、とりこまれて帰ってこなかった神様で、そのまま大国主を祭祀する立場になりました。
出雲大社の宮司の千家と北島がその神の後裔であり、南北朝時代を境に二家に別れたようです。
ちなみに明治時代に東京府知事になったり東京鉄道社長になったりした千家尊福(たかとみ)さんは、この出雲の宮司の家出身で、第80代出雲国造だそうです。
そう思うと菅原家の氏神かどうかは分かりませんが、
大国主・少彦名を奉るのもわからなくも・・・ない?
もうちょっとダイレクトな説をいえば間壁葭子さんの「古代出雲の医薬と鳥人」に、菅原道真があれだけ出世できた背景には医薬の技術の力があったんではないか、というものがありますが、そこつっこむ前に卒論の締切が来てしまったからなぁ。
それが裏付けられれば、道真が大国主でなく少彦名の方をやたら祀る理由も合点がいくのですが。
だがしかし、この神社で重要なのは「三崎神社」と「山神社」ですね。
これがもともとの、ここの神様たち。素朴な信仰だったと思うのですが、
国土開発の影響を受けて、大国主・少彦名の二神に上書きされて、さらに菅原道真に上書きされる。
そんな感じを想像しますね。(根拠はないっすよ)
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天神社をすぎ、本堂にむかって右側の門をでると和田堀公園につながります。
和田堀公園は善福寺川が弓なりになって流れる対岸にあります。
そして、なななんと!
この大宮八幡宮のすぐそばに、方形周溝墓(四角く溝に囲まれたお墓)の遺跡があるとな!
昭和44年に発掘された、都内初の方形周溝墓だそうで、遺跡としては弥生末期?
隣接する高千穂大学の中にも古墳時代のものと思われる円墳が残されているようで、
高千穂大学大宮遺跡は、旧石器時代・縄文時代中期・弥生時代・古墳時代・中世にわたる複合遺跡だと云われています。
関東の古墳は方形周溝墓からはじまり、前方後方墳(間にくびれができる)に発達し、大和の影響を受けて大型の前方後円墳を作るようになり、また中央の流行にあわせて単純な円墳や方墳になって終わっていくのですが、その経緯を想像しても、ここはずいぶん昔から信仰を集めて来た歴史のある土地のようですね。善福寺川のおかげかな?
まあ、最終的にはそこを大宮八幡宮が乗っ取ったんだな。
ちなみに神話じみた名前の高千穂大学はもともと明治36年に大久保にできた私立学校で、
「日本民族の精神的原点」を学ぶためにつけられたらしい。
大正3年には高千穂高等商業学校だけが大宮にできてたけど、
東京大空襲で大久保の他の学部も杉並大宮に移ってきたらしい。
もともとはそこも大宮八幡宮の宮地だったんじゃないかと思う。
和田堀公園は都立公園らしい。そしてやたらとカラスが多くて、おっかない。
階段を下りて川に望みます。
・・・タモリ倶楽部のマーク?(たぶんちがう)
左~右~と見ると、すごく湾曲してる。
また公園側から、神社側(遺跡側)を見ると、高さが全然違う、崖の上にあることが分かります。
善福寺川沿いにはこの崖に、横に穴を掘って埋葬する、横穴式のお墓も多いそうです。
時間がなくて松ノ木遺跡のほうまでは見れませんでしたが、
こちらの低い方の岸には竪穴式住居や水田跡があるそうです。
祭祀と生活の場を、川をはさむ事で分けていたと解釈出来るそうですが、
この高低差もけっこうキーなんじゃないかと。
(中の台地の上に集落をおき、丘陵の上には古墳をおいた相模みたいに)
水田はありませんが、池はありました。
どこからか、水を引き入れているようで。
そろそろお昼になるので神社側へ戻ります。
また子細ありげな名前の橋だな~。
あの崖の上は高千穂大の運動場かな?
和田堀公園の「和田堀」というと和田堀給水所を思い浮かべるんで「お堀でもあるのかな?」と思ったら、明治22年に和田村と堀之内村、和泉村、永福寺村が合併してできた地名だそうで、和田堀というものがある訳ではないんですね。
しかも、この合併の時に和田村のほうがでかいから和田村にすると4か村の組合で決めたのに
堀之内村の妙法寺が「うちは堀之内妙法寺として有名なんだから和田村になりたくない!」と信者を導入して反対したため、揉めに揉めての折衷案で和田堀村になったらしい。oh…
その和田村と堀之内村ですが、和田は和田義盛の屋敷があったからという言い伝えが由来で、
堀之内村はお城の堀があったから、堀之内、という感じでついたらしく、
はい、出ましたね、鎌倉武士。
この和田義盛がおこした和田の乱には武蔵七党の有力党である横山党も荷担し、
そのことで滅びたりしてるんですが、杉並には北条に追われた和田側の落ち武者をかくまったものの、見つかって首をはねられた。その遺骸を葬ったという7つか8つ位の塚があって、実際さびさびになった刀も掘り出されたんだけど、開発によって保存されることもなく潰されたそうです。もったいない。
地名の由来にはなっているものの、和田義盛の屋敷があったという史料も証拠もなく唯の伝承で終わっているそうです。
源頼義・義家親子や、和田義盛の伝承なんかがあるように、ここ、和田堀の大宮八幡宮へは武蔵国府からつづく官道があり、鎌倉には同じルートで鎌倉街道が設けられたようです。
どうも人見街道がそのルートの末裔らしいのですが、昭和59年に都だか国だかが、地元民から見ても外れたへんなところに「人見街道」の標識を立ててたんで、「人見街道といったら三鷹の方を通るやつだろう、なんでこんなところに標識たててんだ」と行政に質しに行ったら、「いや、学者とかの意見も容れて決定したんで」という返しで、どうも現在の位置や目印はいろいろ怪しいようです・・・。
大宮八幡宮の境内の中には、武神の神社らしく弓矢の道場がありまして、
ボランティアで公園内の清掃も行っているようでした。これだけ立派だと樹木の維持も大変だ。
あと、大宮様はなぜか境内でウコッケイも飼ってた(謎)
「府中の風土誌」(昭和42年発行)の街道の項にあった地図がなんだかすごい。
古代から近世までの道が大國魂神社(赤い部分)を中心にだいたい放射状に伸びています。
タモリ倶楽部で取り上げられていた人見街道や品川道も載っていますが、
どうもこれによると、品川道としてとりあげた候補の道は正確には「いききの道」の方らしい。
そういえば、最終的には品川でなく大井にでていたしな。
以下はそれぞれの道の説明。
◎品川街道
別名:筏(いかだ)の道。そう呼ばれるのは、多摩川や秋川の上流の青梅から、筏を組んで流した
筏師が川辺に筏を止めて休憩したり、宿に泊まったり、江戸や各方面への問屋に品物を引き渡して、
徒歩で帰って来るための道だから。
府中より東海道へ品川で合流する道なので、品川道または品川街道の名称があります。
◎いききの道
それに並行する「いききの道」もおなじく筏師が往来する為ついた名前で、こちらは後述する
旧甲州街道とつながるみたいです。
大國魂神社の東門からでて、八幡町、清水が丘、白糸台のハケ上、上丸子から東海道の大井に
合流します。
府中だけでなく調布でもこの崖道をいききの道とよび、
狛江の氷川神社の前の道でもいききの道と呼ぶそうです。
別名が「御滝道」なのですが、これ最初は滝山城か、滝坂道との関連か?と思ったんですけど、
府中市清水が丘に滝神社という大國魂神社の末社があるらしいので、そこへ行くための道
という意味なんでしょうね。
名前からして湧水による滝があるんでしょう(崖線下のようだし)。馬とも関連があるらしい。
(http://www.tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/shrine_fuchu_taki.html 滝神社|府中市清水が丘の神社)
◎甲州街道
今でこそ府中で甲州街道というと、昭和30年前後で開通した国道20号の
新バイパスのことをさしますが、ここでは徳川幕府が整備した旧甲州街道をさしているようです。
大國魂神社の大鳥居の目の前を走る、江戸幕府開府後に開設されたもので、軍事・警察・経済的にも
幕府にとって重要路であると説明されています。
なので甲府の城主の人選には心を配り重要な人材を登用したとも。
また駿府と甲府を直結するにも不可欠な道路だったそうです。
おかげで中世に荒廃した府中は往古の繁栄を取り戻し、徳川さまさまだった訳です。
◎旧甲州街道(古甲州道)
大國魂神社の随神門の北側から西へ出る道で、元はけもの道であったろうという。
善明寺の南側を降り本宿から谷保を経て、青柳に行き、日野万願寺で多摩川を渡り秋留、五日市、檜原、笛吹、数馬、小河内、丹波、勝沼を通って甲州の国府へ至ると説明されています。
要するに、武蔵国府から甲斐国府をむすぶ古代の道です。
もとが、けもの道なのでいつからあるのかわかりません。
「東京人8月号」に載っていた、延喜式にある駅からおこした古道地図(左)には、
この道が載っていないことから正式な官道ではないようですが、国府同士の交易や連絡用の路と
考えれば、非公式ながら当然あって然るべきものかもしれません。
もう少し、わかりやすい地図が「未完の多摩共和国」(佐藤文明/凱風社/2005)に
あったので、ちょっと引用。というか、まずこっちで、古甲州道の存在を知りました。良書です。
府中を西へ行き、日野の渡し(石田の渡しと万願寺の渡しの2つある)で多摩川を渡った後は
小田原北条氏の滝山城(八王子城に移る前の北条氏照の城で武田軍にぼっこぼこにされた)のそばを過ぎ、高尾へ向かいます。
ただ、ここでいう高尾とは高尾山ではなく、五日市の方で川のそばに高尾神社があります。
地図にも高尾街道とありますね。高尾山と高尾神社を結ぶ道にみえなくもなく・・・。
ただ高尾神社は創建などの詳細が明らかでなく、高尾山の薬王院は神社でなくお寺なので、
両社の関係は謎。きになるなぁ・・・。
その後は檜原村を通り、山梨へ向かいます。
檜原村は今でこそ本土側の東京都内唯一の村ですが、
このころは結構、流路として重要なポイントだったそうで。
「ひのはら」には「日野原」が由来という説があり、
西党・日奉氏の一族平山季重を祖とする平山氏が根拠地としていた多摩郡平山郷(日野市平山)から
檜原に移り、檜原城の城主となったということだから、
日野と檜原のつながりも、なかなか侮れないものがあります。
◎人見街道
この街道は武蔵国府から人見村を経て大宮八幡宮(杉並区)へ至る道で、
大宮街道とも野州街道ともいうそうです。
昔は人見街道を通って、三宮の氷川神社から御輿がやってきたそうです。
「え?大宮八幡宮じゃなくて??方角違うし、相当遠いけど???」
って、なにかの混同じゃないかと思ったんですが、人見で建長4年(1252年)の板碑が
発見されて、氷川神社が来てた、と書いてあるらしいから本当らしい。今は流石に来ない。
くらやみ祭がいつごろからあるのかは詳らかでないようですが、平安中期にはもうあったらしく
そのころには一の宮から六の宮までの御輿が本当に来ていたと想像されるそうです。
いろいろ命がけだ。
今でこそ、大宮氷川神社と大宮八幡宮は三大大宮といわれて、別物にカウントされてますけど、
本当は、氷川神社の中継地点として、杉並区の大宮は冠されているのかもしれない・・・。
◎鎌倉街道
鎌倉街道上の道と東山道武蔵路はルート的に同じですが、一致してはいません。
府中市内の鎌倉街道と思われる道は、武蔵路よりやや西に比定されています。
大規模の軍隊を徒歩でドロドロ向かわせる官道と、馬足速達の鎌倉道では用途がちがうというか、
朝廷と鎌倉幕府ではそもそもの基盤が違うのかも知れません。
鎌倉道といわれる道は、幅が九尺かそれ以下の道で、いざ鎌倉でかけつけるには1つでは不足で
何筋(メインとバイパス)にも分けて設けるのが普通だったみたいです。
範囲も関東山麓を北限に、南の鎌倉までなので、古道ほど広い範囲で展開してはいないみたい。
古道が東西の流路がメインなのに対して、鎌倉街道は南北の流路がメインという違いもあります。
それが、江戸幕府開設でまた東西流路に戻ったという。
鎌倉には幕府を開く前から若宮八幡を京都の石清水八幡から勧請してあり、そこから町を展開したものの市街地が火事になり焼失して、市街地を避けたほうがいいと頼朝が丘の上へ持ってったのが今の鶴岡八幡宮だそうで。しかも丘の上にお稲荷さんあったのに、それをどかしちゃったんだと。
若宮八幡というと応神天皇(八幡宮の祭神)の若宮(皇子)の仁徳天皇を祀るのが普通らしいですが、鶴岡八幡宮は祭神が応神天皇と神功皇后(応神天皇の母)に戻っちゃってますね。
鎌倉幕府には武蔵七党が従い、平家と源氏が対立していた頃から一緒に戦っていました。
武蔵七党の内訳には何パターンかあるようですが、横山党、西党、児玉党、猪俣党、村山党、丹党は関東山地の渓口集落を拠点に経済的な地盤を持っていた党だといいます。
藤原俊成に師事し優れた歌人として敵味方に惜しまれた平忠度を討ち取ったのは
猪股党の岡部弥太郎です。
鉄道でキセルをした人を「あいつは薩摩守をきめこんだ」というらしいですが、これは「ただのり」だからだそうです。悲哀の美談も鉄道にかかっては不正乗車犯あつかい・・・。
畠山重忠に従い衣笠城(横須賀市)の三浦氏を攻めて21本の矢を受けつつも戦ったという金子十郎は
村山党。JR衣笠駅にはこの衣笠城合戦の慰霊碑があり、衣笠から三崎に行く途中の「金子トンネル」は
この金子十郎からつけられたそうです。
畠山重忠は板東八平氏の一つ、秩父平氏の出身で、祖父の重弘の代から秩父氏を名乗り始めました。
その子の小山田有重(叔父)は町田市小山田の大泉寺のあたりに館を築き、自分の城にしました。
またその子の重成(従兄弟)は向ヶ丘遊園のあたりに稲毛の城を築いたため稲毛二郎を名乗りました。
上の地図にあった稲毛街道というのは、そこへ向かう道という意味なんだろう。
(稲城市の由来もこれかなぁ?小山田領だったらしいし)
また畠山重忠は夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女を寵愛していました。
しかし平家を討つため畠山が西国へ旅立たなければならなくなり、夙妻太夫は泣き暮らします。
そこへ横恋慕した男が畠山が戦死したという嘘を教え、夙妻太夫は姿見の池へ身を投げました。
これが国分寺市の恋ヶ窪伝説で鎌倉街道にまつわるお話の一つでもあります。
西党で有名なのは日奉氏出身で平山を名乗った平山武者所( 季重)で
これは多摩動物公園の辺りを拠点にしていたらしい。
京王線の駅の中に、平山城址公園として城の名も残っています。
この平山氏の末裔が檜原に移住したので「ひの」の名前がついたという話は上でしました。
東京都日野市栄町にある日野宮神社では、その祖神である日奉氏をお祀りしているという事です。
これら、頼朝にしたがって戦った武蔵七党や板東八平氏も、
頼朝の死後は執権の北条氏の計略に掛かって次々と消されてしまいました。
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国分寺街道については「府中の風土誌」に説明がないので、いつからあるのかわかりませんが
国分寺への参道として、東山道武蔵路と国分寺街道を結ぶ斜行路が発掘されているので、
結構古いのかも知れません。
そして、この地図の中で自分が気になったのは「薬師道」です。
府中街道(川越街道)から直に国分寺へ直結するみちなのですが、これはどうなのだろう。
国分寺といえば薬師如来。国分寺が荒廃した中世には薬師堂が立ちますがその参道なのは間違いない。
ただ、いつできたのかというのがまだ謎で、本に説明もない。気になる・・・。
今では間を府中刑務所がぶったぎっているので、府中刑務所ができる前からの道であることは確かです。
というわけで、次回はこの薬師道をぶっとばして、
国分寺跡を見てきたときの記事をまとめたいと思います。