たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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「府中の風土誌」(昭和42年発行)の街道の項にあった地図がなんだかすごい。
古代から近世までの道が大國魂神社(赤い部分)を中心にだいたい放射状に伸びています。
タモリ倶楽部で取り上げられていた人見街道や品川道も載っていますが、
どうもこれによると、品川道としてとりあげた候補の道は正確には「いききの道」の方らしい。
そういえば、最終的には品川でなく大井にでていたしな。
以下はそれぞれの道の説明。
◎品川街道
別名:筏(いかだ)の道。そう呼ばれるのは、多摩川や秋川の上流の青梅から、筏を組んで流した
筏師が川辺に筏を止めて休憩したり、宿に泊まったり、江戸や各方面への問屋に品物を引き渡して、
徒歩で帰って来るための道だから。
府中より東海道へ品川で合流する道なので、品川道または品川街道の名称があります。
◎いききの道
それに並行する「いききの道」もおなじく筏師が往来する為ついた名前で、こちらは後述する
旧甲州街道とつながるみたいです。
大國魂神社の東門からでて、八幡町、清水が丘、白糸台のハケ上、上丸子から東海道の大井に
合流します。
府中だけでなく調布でもこの崖道をいききの道とよび、
狛江の氷川神社の前の道でもいききの道と呼ぶそうです。
別名が「御滝道」なのですが、これ最初は滝山城か、滝坂道との関連か?と思ったんですけど、
府中市清水が丘に滝神社という大國魂神社の末社があるらしいので、そこへ行くための道
という意味なんでしょうね。
名前からして湧水による滝があるんでしょう(崖線下のようだし)。馬とも関連があるらしい。
(http://www.tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/shrine_fuchu_taki.html 滝神社|府中市清水が丘の神社)
◎甲州街道
今でこそ府中で甲州街道というと、昭和30年前後で開通した国道20号の
新バイパスのことをさしますが、ここでは徳川幕府が整備した旧甲州街道をさしているようです。
大國魂神社の大鳥居の目の前を走る、江戸幕府開府後に開設されたもので、軍事・警察・経済的にも
幕府にとって重要路であると説明されています。
なので甲府の城主の人選には心を配り重要な人材を登用したとも。
また駿府と甲府を直結するにも不可欠な道路だったそうです。
おかげで中世に荒廃した府中は往古の繁栄を取り戻し、徳川さまさまだった訳です。
◎旧甲州街道(古甲州道)
大國魂神社の随神門の北側から西へ出る道で、元はけもの道であったろうという。
善明寺の南側を降り本宿から谷保を経て、青柳に行き、日野万願寺で多摩川を渡り秋留、五日市、檜原、笛吹、数馬、小河内、丹波、勝沼を通って甲州の国府へ至ると説明されています。
要するに、武蔵国府から甲斐国府をむすぶ古代の道です。
もとが、けもの道なのでいつからあるのかわかりません。
「東京人8月号」に載っていた、延喜式にある駅からおこした古道地図(左)には、
この道が載っていないことから正式な官道ではないようですが、国府同士の交易や連絡用の路と
考えれば、非公式ながら当然あって然るべきものかもしれません。
もう少し、わかりやすい地図が「未完の多摩共和国」(佐藤文明/凱風社/2005)に
あったので、ちょっと引用。というか、まずこっちで、古甲州道の存在を知りました。良書です。
府中を西へ行き、日野の渡し(石田の渡しと万願寺の渡しの2つある)で多摩川を渡った後は
小田原北条氏の滝山城(八王子城に移る前の北条氏照の城で武田軍にぼっこぼこにされた)のそばを過ぎ、高尾へ向かいます。
ただ、ここでいう高尾とは高尾山ではなく、五日市の方で川のそばに高尾神社があります。
地図にも高尾街道とありますね。高尾山と高尾神社を結ぶ道にみえなくもなく・・・。
ただ高尾神社は創建などの詳細が明らかでなく、高尾山の薬王院は神社でなくお寺なので、
両社の関係は謎。きになるなぁ・・・。
その後は檜原村を通り、山梨へ向かいます。
檜原村は今でこそ本土側の東京都内唯一の村ですが、
このころは結構、流路として重要なポイントだったそうで。
「ひのはら」には「日野原」が由来という説があり、
西党・日奉氏の一族平山季重を祖とする平山氏が根拠地としていた多摩郡平山郷(日野市平山)から
檜原に移り、檜原城の城主となったということだから、
日野と檜原のつながりも、なかなか侮れないものがあります。
◎人見街道
この街道は武蔵国府から人見村を経て大宮八幡宮(杉並区)へ至る道で、
大宮街道とも野州街道ともいうそうです。
昔は人見街道を通って、三宮の氷川神社から御輿がやってきたそうです。
「え?大宮八幡宮じゃなくて??方角違うし、相当遠いけど???」
って、なにかの混同じゃないかと思ったんですが、人見で建長4年(1252年)の板碑が
発見されて、氷川神社が来てた、と書いてあるらしいから本当らしい。今は流石に来ない。
くらやみ祭がいつごろからあるのかは詳らかでないようですが、平安中期にはもうあったらしく
そのころには一の宮から六の宮までの御輿が本当に来ていたと想像されるそうです。
いろいろ命がけだ。
今でこそ、大宮氷川神社と大宮八幡宮は三大大宮といわれて、別物にカウントされてますけど、
本当は、氷川神社の中継地点として、杉並区の大宮は冠されているのかもしれない・・・。
◎鎌倉街道
鎌倉街道上の道と東山道武蔵路はルート的に同じですが、一致してはいません。
府中市内の鎌倉街道と思われる道は、武蔵路よりやや西に比定されています。
大規模の軍隊を徒歩でドロドロ向かわせる官道と、馬足速達の鎌倉道では用途がちがうというか、
朝廷と鎌倉幕府ではそもそもの基盤が違うのかも知れません。
鎌倉道といわれる道は、幅が九尺かそれ以下の道で、いざ鎌倉でかけつけるには1つでは不足で
何筋(メインとバイパス)にも分けて設けるのが普通だったみたいです。
範囲も関東山麓を北限に、南の鎌倉までなので、古道ほど広い範囲で展開してはいないみたい。
古道が東西の流路がメインなのに対して、鎌倉街道は南北の流路がメインという違いもあります。
それが、江戸幕府開設でまた東西流路に戻ったという。
鎌倉には幕府を開く前から若宮八幡を京都の石清水八幡から勧請してあり、そこから町を展開したものの市街地が火事になり焼失して、市街地を避けたほうがいいと頼朝が丘の上へ持ってったのが今の鶴岡八幡宮だそうで。しかも丘の上にお稲荷さんあったのに、それをどかしちゃったんだと。
若宮八幡というと応神天皇(八幡宮の祭神)の若宮(皇子)の仁徳天皇を祀るのが普通らしいですが、鶴岡八幡宮は祭神が応神天皇と神功皇后(応神天皇の母)に戻っちゃってますね。
鎌倉幕府には武蔵七党が従い、平家と源氏が対立していた頃から一緒に戦っていました。
武蔵七党の内訳には何パターンかあるようですが、横山党、西党、児玉党、猪俣党、村山党、丹党は関東山地の渓口集落を拠点に経済的な地盤を持っていた党だといいます。
藤原俊成に師事し優れた歌人として敵味方に惜しまれた平忠度を討ち取ったのは
猪股党の岡部弥太郎です。
鉄道でキセルをした人を「あいつは薩摩守をきめこんだ」というらしいですが、これは「ただのり」だからだそうです。悲哀の美談も鉄道にかかっては不正乗車犯あつかい・・・。
畠山重忠に従い衣笠城(横須賀市)の三浦氏を攻めて21本の矢を受けつつも戦ったという金子十郎は
村山党。JR衣笠駅にはこの衣笠城合戦の慰霊碑があり、衣笠から三崎に行く途中の「金子トンネル」は
この金子十郎からつけられたそうです。
畠山重忠は板東八平氏の一つ、秩父平氏の出身で、祖父の重弘の代から秩父氏を名乗り始めました。
その子の小山田有重(叔父)は町田市小山田の大泉寺のあたりに館を築き、自分の城にしました。
またその子の重成(従兄弟)は向ヶ丘遊園のあたりに稲毛の城を築いたため稲毛二郎を名乗りました。
上の地図にあった稲毛街道というのは、そこへ向かう道という意味なんだろう。
(稲城市の由来もこれかなぁ?小山田領だったらしいし)
また畠山重忠は夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女を寵愛していました。
しかし平家を討つため畠山が西国へ旅立たなければならなくなり、夙妻太夫は泣き暮らします。
そこへ横恋慕した男が畠山が戦死したという嘘を教え、夙妻太夫は姿見の池へ身を投げました。
これが国分寺市の恋ヶ窪伝説で鎌倉街道にまつわるお話の一つでもあります。
西党で有名なのは日奉氏出身で平山を名乗った平山武者所( 季重)で
これは多摩動物公園の辺りを拠点にしていたらしい。
京王線の駅の中に、平山城址公園として城の名も残っています。
この平山氏の末裔が檜原に移住したので「ひの」の名前がついたという話は上でしました。
東京都日野市栄町にある日野宮神社では、その祖神である日奉氏をお祀りしているという事です。
これら、頼朝にしたがって戦った武蔵七党や板東八平氏も、
頼朝の死後は執権の北条氏の計略に掛かって次々と消されてしまいました。
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国分寺街道については「府中の風土誌」に説明がないので、いつからあるのかわかりませんが
国分寺への参道として、東山道武蔵路と国分寺街道を結ぶ斜行路が発掘されているので、
結構古いのかも知れません。
そして、この地図の中で自分が気になったのは「薬師道」です。
府中街道(川越街道)から直に国分寺へ直結するみちなのですが、これはどうなのだろう。
国分寺といえば薬師如来。国分寺が荒廃した中世には薬師堂が立ちますがその参道なのは間違いない。
ただ、いつできたのかというのがまだ謎で、本に説明もない。気になる・・・。
今では間を府中刑務所がぶったぎっているので、府中刑務所ができる前からの道であることは確かです。
というわけで、次回はこの薬師道をぶっとばして、
国分寺跡を見てきたときの記事をまとめたいと思います。
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