たまろぐ 多摩一の宮・小野神社 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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昨日は多摩市一ノ宮にある小野神社を見てきました。
小野神社は大國魂神社のなかに奉られている六つのお宮の一番目です。

一の宮が多摩市:小野神社
二の宮が秋川市:小河神社
三の宮が大宮の:氷川神社
四の宮が秩父市:秩父神社
五の宮が神川町:金鑚神社(かなさなじんじゃ)
六の宮が都筑の:杉山神社

この番号は国司が国府から各地の有力神社を廻る順序だそうで、
ようするに近い順であり神社そのものの格式とは少し違うらしい。
五の宮のほうが六の宮より遠いけど、これは六の宮の杉山神社が
中央に帰属した時期が遅いから(最後だったから)ではないかと。

だからか大宮の氷川神社なんかは武蔵国一の宮を自称し、
金鑚神社はニの宮を自称している。
(このせいで、氷川神社では一の宮・三の宮論争というのが起こる)
実際、明治天皇も個別行幸の際、府中よりも先に大宮にお参りしているし、
大宮氷川神社から見たら府中の下という意識はないのかもしれない。
先にあった有力神社をあとからできた総社に祀るんだから、これはある意味当然かも。
金鑚神社はまた独特のご神体だし、武蔵国のはじっこ(東山道=中央との連絡に近い)だし
別の上位意識があるのかもしれない。

で、一の宮ながらいまいち小粒な小野神社ですが。
これも候補となる神社が3つほどあり、あまり正確にはどれかわからないらしい。
パルテノン多摩の展示でも「論社」として3社ほど紹介していました。
1つはこの多摩市一ノ宮の「一の宮小野神社」
2つめは府中市住吉町(本宿)にある「小野宮小野神社」
3つめは町田市小野路の「小野路小野神社」

しかも小野神社は百草山にある松連寺が別当であったことから、もともとはその近くの
もっと西方・多摩の横山に鎮座していたのを遷座したのではと云われており、
元祖はまた違うのかも知れない。
(建久4年8月刻印の経筒に一宮別当松連寺の銘あり「吾妻鏡」)
ちなみに、この松連寺、聞いた事があると思ったら、廃寺となってから豪商青木角蔵が買って庭園にし、
それも荒廃すると京王が買って百草園にしてた、あのお寺だった.。・・・お、おう。

また小野神社はもともと多摩北岸の府中本宿小野宮にあったのが、
天正のころと文禄5年の二度の多摩川の流路変更で村も神社ながされ
村民ごと南側に移動せざるを得なくなり、今の一の宮に神社をたてたんだとか。
(中河原なんかもこの頃までは多摩川の南側にあったという。
 分倍河原~中河原と続くのにあいだに川がないのが変な感じでしたが、これなら納得)
その後、多摩川の位置がおおよそ今のように定まり、その機会に村民の一部が元の地に戻って
村を再建し、小野神社も再建したので神社が2つになってしまった。
再建は貞享3年とも宝暦年間ともいい、定かではなく。
この経緯から、一の宮の神社では、5月5日の大國魂神社の大祭に参列する際は
空の御輿を背負ってまず旧地の小野宮へ行き、その後府中の仮殿に安置して、大祭の神幣を納め
帰社するならわしとなっていたんだそう。

ちなみに3の町田の小野神社は一の宮から勧請したものらしいから、
一の宮論争からは一歩ひいてる。

神社にある碑の由緒によると鎮座が3代・安寧天皇18年(紀元前531)らしいから
大宮氷川神社の5代・孝昭天皇3年(紀元前473)より、ちょい古い。
といっても、応神天皇以前の西暦換算って余興みたいなもので、本気にすることは出来ないから
「少なくともあっちの神社ができるより前からあった」くらいの記憶で決めたんじゃないかな。
一の宮論争のことも考えると、それすら素直にはいえないかもしれませんし。
(我の張り合いの可能性が・・・。)

そもそも神社の神様って、もとは自然崇拝だからなんか「コレ?」っていう形容しがたいものが祭神なわけで、宝亀3年「太政官符式部省」には小野神社の祭神は「雷(いかづち)」だとされているらしいし
小河神社は境内から石棒が出土していて本来の祭神はこっちじゃないかとかいわれている。
金鑚神社はもっと顕著で正殿が無いかわりに、背後の御室山そのものか、
その斜面にある珍しい自然現象の鏡岩がご神体だとされている。

社殿だって、仏教が入ってきて伽藍配置だとか仏像だとか、そういう具体的な崇拝の仕方に
ショックを受けて後追いで立てていったハコ物だから、鎮座とか創建だとか建立だとか再興だとか、
なんだか起源に時差が起きてくる(し用語も錯乱している気がする)。
自然崇拝の起源て、そもそもが年数定めるのが難しいのでこういう大きな数字になるんだろうと。
(ちなみに上の神社に関する情報は「続府中の風土誌」昭和51年発行を参照しました)

  *  *  *

以下は、そのとき行った道筋です。

 

小野神社へ行くのは私も初めてです。
聖蹟桜ヶ丘駅からザ・スクウェアの裏側へまわるとお宮への道っぽい名前の通りがありました。
ついでに、京王の駐車場マークが可愛くてつぼったv

   

途中、小さな塚のような区画が残されてて「ムム!これはあやしい。」
近づいてみると、2本ケヤキの神木と、一の宮の渡しの記念碑と、神奈川県時代の水量標識でした。

   

石にはたしかに「神奈川県庁」の文字が刻まれていました。

 

その向かいには、これまたかわいい「せせらぎ通り」というわりと新しめに舗装された道が。
どうも、これが参道っぽい。名に違わず用水?の水が玄関前を流れていて、
各戸の入り口が石橋になっていました。これまたおしゃれで風流だなぁ。

 

いよいよ神社の近くに来ると、庚申塚がありました。
道筋に良くあるのは村に悪いモノが入ってこないように、
塞の神(さいのかみ)の役割があるようで。
設置は江戸時代だそうで、信仰としては新しめか。

   

小野神社拝殿。真っ赤だな~。
表の鳥居もかなり新しく、菊の御紋がペカペカしておりました。
しかも、鳥居の次に山門?みたいな門がまえがあって、半分お寺のようでもある。

そして、祭神が多い多い。郷社だからかな?
でも主神は天下春命(あめのしたはる)と瀬織津媛(せおりつひめ)という、
ちょっと珍しめなところが、殊勝だなぁ。
天下春は八意思兼命(おもいかね=高天原にすむ策を色々練る神)の息子で
天表春命(あめのうわはる)という兄がいるらしい。でともに武蔵秩父国造の祖神らしい。
瀬織津媛は川の流れを表す神様なので、多摩川の流れと関係があるのだろう。
なんとなく、ほのぼのした野原と、清涼な川のイメージでなごむわぁ。

 

正門および正殿や拝殿は西を向いているけど、途中ななめに道が分かれ、もう一こ南門がある。
ただ、この南門は南西向きで、直角でないのがなんか不思議。
これが、むしろ聖跡側からくると最初に出合う入り口部分なので、
私も一度ここから入ってしまった。
地元の人は正面からで、よそ者は道筋的にここから入るのかなぁ?いや、でも普通逆だよな。
顔見知りは勝手口からきても構わないけど、正式な来客は正門から入るだろう普通。
神社も多摩川の方を向いてないし、鎌倉街道にも背を向けているので、
いったいどこを見ているんだ?という、いろいろ不思議な感じのする神社です・・・。
もしかしたら、もといた百草の地を懐かしんでいるのかも?

あと、南門のそばにあった碑の寄進が明治23年だったので、ちょっと気になった。

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