たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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京王の資本に創立初期からかかわり、昭和12年に大日本電力の穴水系に
とってかわられるまで重役として関わり、最後は社長にまでなった
大正生命の金光庸夫さんですが、昭和15年に保険に関するこんな
新聞記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)
日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社
(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき
交渉中のところこの程譲渡価格約七百万円(会社株式、
所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会に
おいて考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される
形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが実質的には
協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の
保険運営を立体とする今後の活動は組合自体の新発展段階を
指示するものとして大いに注視されるとともに保険業界に与へる
波紋も極めて重大なるものがある、しかして問題の突破に
驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の
本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
【写真上から有馬伯、金光氏】
他同日別面掲載
「産組・保険進出の波紋 組合保険の経営と役職員共済制確立 産組の狙ひ一石二鳥」
「農林(事務)は猛反対 手続無し・随所に疑義」
「契約者保護に立脚 運営の実際を注目 全貌判明を待つ商工省」
「産組の保険経営に農林省近く態度決定 有馬会頭の決意強硬」昭和十五年二月十九日(月曜日)国民新聞
産業組合の保険会社買収問題は今や重大なる政治問題となって
議会の後半期に臨み複雑なる波紋を投ぜんとしている
問題の目標とされる点は
一、産組は事前に監督官庁たる農林省の諒解なく
一般的に不当と思われる高額の評価を以て保険会社を買収した、
この取引の間には有馬頼寧伯と金光庸夫氏との間に政治的談合が
行われた疑いがある
二、産組は保険会社を買収し組合員のみならず一般人の加入をも認める
方法をとるというが、これは産組本来の使命を逸脱したものである
という二点に集中され、民政党では政務調査会に於いて
その真相を徹底的に調査せんとしているし、
政友会久原派でも十七日この問題に対する特別調査委員会を設置して
産組を糺明することとなった、
これに対し農林省では十七日午後三時本省に
佐藤産組中央会副会頭を招致し、周東経済更生部長、黒河内産組課長より
この問題の経過につき聴取すると共に産組中央会より提出した経過報告書を
中心に協議を行ったが、
更に産組中央会頭たる有馬頼寧伯は十八日午前十一時農相官邸に於いて
島田農相と会見し、産組側の決意を披瀝して諒解を求むる筈で
この結果に基き両三日中に農林当局は同問題に対する
態度を明かにするものと見られる、
而して有馬伯並に産組側の態度は極めて強硬で、
産組共済会による保険会社買収を以て直ちに組合法規違反となす法的根拠は
薄弱で農林当局が同計画の中止を命令するが如きは不当抑圧であるとし、
万一農林当局が中止を命令するが如き事態に立到れば有馬伯としては
貴族院に於いて自己の見解態度を闡明し反産陣営及び一切の政治的策動に対し
反駁を加える決意を固めている、
従って農林省としても簡単に中止命令を発することの出来ぬ事情もあり、
島田農相がこれに対し如何なる裁断を下すかは
最も注目されるところとなっている
【写真上は島田農相…下は有馬伯】
有馬頼寧さんというと、競馬の有馬記念で名前が残っている方で
競馬に多大な尽力をした方のようですが、農林省官僚でもあり
産組=農林産業組合の保険制定にも並々ならぬ意欲をみせていたため
このような大正生命の金光庸夫さんとの癒着を疑われる羽目になった
ものと思われます。
金光さんというと、先にも書いたとおり、昭和12年頃から鉄道業と
手を切り始めていて、そのことが玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に
屈服するきっかけともなっていたりして中々油断できないお方なのです。
上の記事から察するに、自分の基盤事業たる保険業すら国に売ろうとして
いたようなので、なんらかの個人的な変化というか事情があったと
察せされるのですが、その辺はまだよくわかっていません。
一方の、有馬さんですが、御厨貴さんの「近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)」を借りたときに、たまたま有馬日記の事を知りまして、
これがわりと毎日マメに、しかも正直な気持ちを書いてらっしゃるという評価で、
これは使えそうだな、と昭和13年~昭和15年を収録している「有馬頼寧日記4」(山川出版社/2001年)をちょっと借りてみました。
以下は、その産業組合保険と金光さんに関わりのありそうな日記のメモの
抜き書きです。ちょこちょこ自前のコメントもはさんでいます。
(昭和13年)
4月27日午前十時枢密院会議に出席。帰途、日本青年館の産業組合大会に出席。
5月16日午後1時半、官邸に行き岡田喜久治君に面会。4時過ぎ、家に帰る。厚生部長見えて産業青年隊の話をする。未だ案が熟さぬ。青年団と産青連を一所にした様なものが作りたい。
7月9日官邸にて産青連の森、横尾両氏に面会、新国民運動の件につき愚見を述べ、続いて大阪朝日に記者来訪。事変下の農林対策につき三十分程話し、…
7月14日午後9時より官邸に於て経済部長会議あり。今日は各県の部長より中々元気のある質問や意見の開陳あり、中には商工省の態度に比し農林省が消極的だとの意見さへあり。商相が強いからといふて急に強くなる官僚気質、一寸苦笑ものだ。
7月21日神経痛は未だ未だ治らぬが11時半頃出勤。「産業組合中央会館」の額を書く。
8月18日12時に日本クラブに行く。工政会、日本技術協会、七省技術協議会の連合会に出席。「産業技術連盟」の名称の下に連合することに意見一致。
9月26日今日青年団の大会あり。産青連はぼんやりしては駄目だ。
12月21日午前中競馬委員会あり。
12月22日今朝は10時迄ねてしまった。会議にも出席せず、藤山氏の葬儀にも参列しなかった。(19日に藤山雷太が死んだらしい)
12月25日今朝は大正天皇祭に参列する筈であったが、神経痛なので参列せず。
どうも神経病を患っていたらしく、そのため公務を休みがち。
のわりに後楽園や上井草へ行って、ちょくちょく野球の試合を観戦して
その感想や愚痴を書き込んでいる有馬さん。野球好きらしい。
一方、競馬の話はあんまりでてこないのは、ご時世柄かな?
小川功さんの論文によると、八王子市内を走っていた
武蔵中央電気鉄道も有馬頼寧さんが関わっていたらしいのですが
日記からはそれに関することはうかがえませんでした。
ただ、藤山雷太の葬式について触れられていることから、
武蔵中央を経営していた藤山雷太やその長男・藤山愛一郎と
何らかのつながりはあったかもしれません。
(昭和14年)
3月15日米の法案と軍馬の法案、少々厄介なり。競馬の問題で委員会停頓す。
3月19日本会議に出席。米穀案上程。大河内子の質問中に産業組合の首脳部に対する非難あり。それに、農相の答弁中に産業組合の政治進出に対する非難あり。聞き捨てならぬ事である。
4月17日午後2時読売新聞社に行き、中川男と二人して正力氏に面会。いろいろ苦心談をきき、戦時ニュースの映画を見、三時過ぎ辞去。(正力松太郎さんの名前が出てきました。この後も読売新聞記者に目的地まで送ってもらったりして、読売新聞とは仲が良さそうな場面が垣間見えます)
5月3日午前10時、青年館に行く。第34回産業組合全国大会に出席、千石君の開会の辞に於て相当思ひ切った事をいふ大変よかった。
7月18日午前9時中央会の新館に行く。始め中講堂で修祓式あり。それより屋上の産業組合神社の御遷座祭あり。(産業組合神社???笑)
8月28日今日安倍(部)信行大将組閣の大命を拝す。宇垣氏を出したかった様な気がする。世界情勢より見て、日本の内閣が何となく軽い感じがする。国民の意向といふものが少しも考慮されぬ様に思はれる。(oh…このころも安部内閣なのね、しかも執拗に字を間違ってる)
8月29日就任式あり。安倍(部)総理、小原内相、厚相、畑陸軍、吉田海軍、宮城司法、河原田文相、伍堂農兼商、永井逓兼鉄、金光拓である。金光氏以外はよい顔触れ。五相会議をやめる方針はよい。青木蔵兼企、もある。(やっと金光さんの名前でてきたとおもったら、のっけから否定的印象。このころ金光さんは政界に進出し、拓務大臣や厚生大臣をやっていたらしい。)
9月3日今日ラヂオで英国が宣戦布告をしたやうにいふ。ほんとうかしら。こんな事に今の内閣は心細い。なぜ宇垣内閣を作らなかったのか。津久井君の意見のやうに、内閣の創作者が変わらなければ駄目だ。
9月27日夕五時より鉄道ホテルに於て農相の招待会あり、席上千石、高草氏、河野氏よりまるで議会の質問の様な詰問があって、少々気の毒の様であった。四人で相談の結果顧問制は中止される様に私から話すことに相談した。農相の意図は壮とするが、無理である。(鉄道ホテルってなんだ?)
9月30日午後同盟の板垣氏見えていろいろ話していった。農相専任問題が描く新聞でとり上げられ、通信の中には我々に対する反感もみられる。若し農相専任といふことになり伍堂氏が何等かの決意をしたら、私も何とか決心をせねば義理が済まぬ様にも思はれる。
10月2日1時半中央会に行き、4時に農相官邸にて農相に面会。顧問の件は当分見合わせといふことにする。専任問題については農相も固執せぬ意向らしく思はれた。
10月3日午前10時より事務協議会あり、農林大臣と会見の模様につき報告。午後は新聞記者やらいろいろの人が来て夕方迄続き少々疲れた
11月21日今朝東金の木村来訪、保険の事を頼まれる。
11月3時に東京会館に行き協力会議の総会あり。郷さんが常任委員の氏名を読んだ時千石よ太郎といふ。かうした公開の席で誤られたのは千石君も初めてだらう。郷さんの方が余程与太だ。(郷誠之助さんだろうか・・・?)
12月1日今日は興亜奉公日なので朝出るつもりで居たが、起きられぬのでやめる。正午ときわやにて、藤山、千石、金沢、豊福と会合、保険会社の事につき相談。大体順調に進む。
12月2日保険会社の事は四、五日決定を延期することが出来た。(なんの保険の事だろう。問題のやつかな)
12月9日10時より首相官邸に中小産業調査会の総会あり。午後1時より商相官邸にて物価委員会小麦部会の小委員会、4時より部会あり。徳永部長と佐藤副部長のコンビで常務を無視するのは困ったものだ。
12月14日午後10時より首相官邸に於て中小産業調査会の総会あり。反産的質問意見出て、岡本組合の論文を問題にしたり、大人気なし。
12月19日4時半頃終り、ぶらぶら歩いていたら読売の記者にひろはれ中央会に戻る。産青連の連中来て、近く全国協議会を開き、地主に収める小作米を産業組合に入れて組合の土地管理の糸口をつけるといふ。賛成す。
12月21日賀川氏見え保険会社の事につき話あり。近藤日出造氏と話をし、6時喜かくに行く。
12月24日三浦、馬場両代議士来訪。豊福も来て義ちゃんの事や保険会社の件につき話す。
12月26日午後は中央会で五人の集りあり、西田、石井、藤田氏と相談。保険会社の件急速に進む。
12月27日午頃読売の記者に組合の話をし、西田、井口等と保険会社の件につき打ち合わせをし、午後2時首相官邸の懇談会に出席。
12月29日浜田氏より保険会社の件につき話をきく。
12月31日日の井上氏来訪、内閣もいよいよ駄目らしいとの事。困ったものだ。自分達の力の及ばぬ事ではあるが、日本の為めに誰か此難局を処理する人はいないのか。
過去も今も、政治のリーダーシップ不足は変わらないんですね。
ましてや、このころは満州事変から大東亜戦争へ突入しようという時期…。
たまたま時局が安倍(部)内閣ということもあって、他人事とは思えません。
こわっ
(昭和15年)
1月4日中央会、全購連、監査連合の合同祝賀会を開き、西田、浜田、井口、若林等と保険会社の件につき相談、進行することにする。
1月6日保険の事は9日過ぎになる。山本氏からいろいろ意見をきく。豊福が易を見てもらった話をきく。私も当選は困難な様な気がする。
1月7日午前中保険の事で皆が訪ねて来ていろいろ話したが、不明の点もあるがとにかく買ふ事にして話を進めることにした。
1月9日信連の人達と保険の事につき相談。
1月13日中央会に行く。千石、佐藤、石黒、那須、西田氏欠席。他の人達に保険の事につき話す。皆賛成され、安心した。
1月14日米内大将大命を拝し、組閣に入る。自分お前から望んで居た首相故愉快だが、どうかよい閣僚を揃へたいものだ。大蔵石渡、外務野村だけ発表。先づ無難か。小栗一雄氏の書記官長はよし。
1月15日組閣進行今夜中に決定す。両政党に大蔵、農林を、実業界の藤原氏を商工に入れた事は善意か悪意か(王子製紙のボスこと藤原銀次郎氏の名前が出てきました。このころ商工大臣だったのですね。)
1月17日保険の事未だ安心の域に達せぬ。過ちのなからん事を祈る。
1月20日夕六時より桑名に保険の事につき尽力してくれた人々を招き、西田、浜田にひきづられて雪村に行き、桑名に戻り十二時帰宅。
1月21日雨降らず、各地水少なくて困って居るらしく、電力も益々不足らしい。麦の生長も気づかはる。午前十時丸の内会館に行き、全国信連会長の協議会に出席。保険の問題幸に協賛を得、割当ても承認してくれた。無事に完了するを祈る。其後は全力を挙げ万難を排して進む覚悟である。どの様な目にあっても自分の為めでなく七百万組合員の為めなら少しもくゆる事はない。
1月22日石黒さんに保険の事を話す。断然止める筈であるがそれ迄進行したものなら致方なしとの事。周東部長来訪。次官に話してくれとの事。
1月23日午後出勤。三時より古野、千石、西田と四人にて話す。軍務局の石井中佐が公演中、産組の中に商人もやらぬ様な不正をやるものがあるといふたとか。どんな事か聞けばよいのに。
1月24日村山貯水池の水がかれるといふ。井戸にたよってゐるとかういふ時は安心だ。
1月25日今日は保険の会議があったけれど、又起きられなくて欠席した。取引所の会議も首相官邸にあったが、それも出なかった。保険の事は各地方とも絶対賛成らしい。主任官連中は何かいふて居るとか。
1月26日午後農林次官を訪問。次官は話がわかってくれ、いろいろ注意をしてくれる。夕銀ブラをして五時半鉄道クラブに行き、技術協会の総会に出席。
1月27日井口氏に面会。金光氏の不誠意につき話があった。
(やっとこ、金光さんの名前が出てきたと思ったら、また悪評。)
1月31日最近いやな気持ちがしてならぬ。不吉な事がなければよいと思ふ。今月は降雨量0といふレコードだ。電力、石炭問題重大。
2月1日電力もやはり天候に支配されるのかと思ふと、科学も結局は自然に勝てぬもの。大河内子の質問あまり感心せず。理研コンツェルンの大将と産業資本家藤原銀次郎商相の取り組みでは、是非もない。午後保険の事につき相談。夕帰宅。
2月2日午前十時登院。大河内輝耕子(爵)の質問、例により例の如く。よい点もあるが如何にも不真面目な感を与へる。有爵議員の存在価値を社会は如何に見るか。此様な態度で政府に参画して居ると言はれるのか。午後中央会に行く。更生部長来て、農林省より中央会頭宛警告文を出すとの事。反産を何故にそんなに恐れなければならぬのか。西田君とも相談、邁進する事にする。
2月4日山崎警保局長来訪。産業組合の取調べの事と、消費者結成の事について話す。富藤氏の事件を繞って政情混沌たるものあり。又名古屋方面工場に不穏なものがあるとの話。石炭問題につき、又鉄道省の協力を求めなかったとの事。困った事だ。
2月5日午後中金にて中農協の会合に出席。記者会の連中より保険の事を聞かれる。最早仕方なし、明日合同会見にて概要を話し、協定して掲載せぬ様に以来するつもり。産青連の人や中西君やに面会。保険の事は運を天に任せて腹をきめる。
2月6日夜板垣君より電話にて農林省のクラブも書かぬ事に話きまりし由。感謝す。
2月7日議会は休み、正午中央会に行く。新聞記者の連中は全部書かぬ事にしてくれたが、各社の経済部長が今日会合したとの事だから、或は書かれるかもしれぬ。問題になったら、腹をきめて闘ふつもり。已成政党、資本家、官僚、それに言論機関と闘ふのだから、一切を捨てる覚悟だ。時節柄思はぬ問題を引き起こすかもしれぬ。
2月8日三時中央会に行く。各社経済部長の会議も相当もめた由だが、一週間内に書くといふことに落ちついた由。其前に済ますことに運ぶつもり。
2月9日今日の衆院予算委員会に於て松村謙三氏保険の件につき質問す。止むなく各社共明日の新聞に発表することになる。
2月10日今日も議会を休んでしまった。今朝の新聞記事もあるので行くのがいやだった。夕六時星ヶ岡に行き、河野弁護士、安田読売経済部長、島田、宮部、豊福と会食。佐藤、井川両氏来て、保険問題につき相談をする。徳川氏強硬論の由。組合全体の動き注目。自分の声望を卜するによい機会だ。
2月11日四時より、徳川、佐藤、井川氏と相談、覚書の不備等につき明日の注意を聞く。此事件或は窮地に陥るやも知れず。覚悟はあるが、万事を用意する必要あり。
2月12日保険問題、今日東日が新説を書いただけ。それも如何にも資本家の味方の様で感心できぬ。佐治君から激励の手紙をもらう。
2月13日六時中央亭に行く。農村振興議員同盟の人々と会見、保険のことにつき了解を得。私の私案はどうやら工合がよいらしい。
2月15日中央会に行き、東日の藤岡経済部長来訪。軍事郵便機献納につき相談あり。農林省の形勢いろいろに変化す。民政党では調査会を設けて研究する由。
2月17日豊福の話によれば、農林当局は中止命令を出すとの事。石渡書記官長が荷見氏と打ち合わせたとの事。かくの如くして行くときは面目問題ともなり、引く(に)引かれぬ破目となるべし。農相は必ずしも反対ならず。黒木伯に進退の事につき相談した。
2月18日午前十時半に近衛邸に行き面会。産組保険問題に関連する私の去就につき話し、其他政治上の事につき話し、0時半農相を訪問。今迄の経過の報告をする。共済会の設立には異存なく、法人でなく任意組合の形式をとること、資金拠出の方法は個人とする案最上なりとの事故、其様に可成運ぶ旨を答ふ。二百万円の仮払仕末の案は尚研究を要すと思ふ。
2月19日正午中央会に行き、保険の事につき相談。いろいろの人が訪ねて来た。松村氏の質問につき板垣君より報告をきく。民政党の調査会の決定の中に私の行為が背任だといふものがある。私は法律を知らぬからどういう事になるかしらぬが、自分ではさうは思はぬが、苦しさうであって罪に問はれても少しも悔やむことはない。組合員や役職員の為めに図ったのだから。
2月20日保険問題、農林省の空気やや緩和す。
2月21日午前中在宅、正午嵯峨野に行き、国民新聞の木原、後藤、首藤の三氏に面会。いろいろ話し、保険問題については絶対賛成してくれるとの事。二時中央会に行き中農協の感じかい、連絡委員会にて話し、五時より中機産青連の人々に話しをす、それより豊福、西田、佐藤氏等と話す。成田氏来訪。金光氏との間に入り解消の話をしたいとの事。一応断る。千石氏は賛成したとの事、真意を疑ふ。石井氏より電話にて、延期の事金光氏は承諾せし由。
2月22日午前十時中金に行き、理事長以下同席、保険の事につき中金にて調査した結果を示し注意あり。要するに七百万円は高いといふことと、将来の経営困難なりとの理由により中止を可とする意見なり。それより常任委員会に出席。断行、非断行の両意見あり。結局明日の会合の結果により決定することとなる。
2月23日中央機関の共済会設立協議会あり、種々議論もあったが共済会設立の件は可決された。資金拠出の件も同様。
2月25日午後、石井、西田、奥氏等来訪、善後策につきいろいろ話す。私の案に大体賛成。夕方出る予定をやめて、夕食をとった後革新派の田辺幹事長来訪。島田、金光両氏と面会した事について話あり。私の案をもって島田氏に会ひに行かれた。豊福と三つ満に行き田辺市に面会。金光氏に明朝田辺氏が会へば、大体目鼻はつくかもしれぬ。
2月26日主査辞任の届出をする。研究会でも松村氏の話しを聞くとの議ある由。七時小磯拓相を訪問、懇談。金光氏に話をしてみるとの事。(このころ拓務大臣は小磯に移動している)二百万円返還、犠牲者出さぬ事、こちらより解約の申出なさぬ事を申出づ。農相も閣議では反対の意思を表明せる由。石黒氏、荷見氏と会見せしとの事。
2月27日五時官邸にて農相に面会。大河内子の質問に対し農相は中止の意思ある旨言明せし由新聞に出る。十一時帰宅。井上氏と話す。会頭も議員もやめたいと思ふ。
2月28日小磯拓相より電話あり、一時半拓相邸に行く。明二十九日午後六時小磯邸にて金光氏と会見、全部完了の事に決定。それより千石氏と金光氏と訪問して承諾を得、それより中央会に行き委員に告ぐ。一同愁眉を開く。先般の難問題解決、嬉し。今後大に奮闘するつもりである。
2月29日金光氏より電話にて、今日の取引は金光邸にて為したき旨希望あり。拓相に通じたるところそれにてもよしとの事。四時過金光邸にて取引全部完了。それにて全部白紙に還る。中央会に戻りて、新聞記者に発表。
3月1日午後は全国協議会あり。報告を感想を述べる。辞職反対の決議あり。意をひるがへして留任することにする。
松村謙三議員の質問というのが気になるところだけど、はじめ新聞に載っていたような、有馬さんと金光さんとの談合とか密談らしきものはとくに日記に記されていませんね。人を介して話を進めていたのか、その詳細についても触れられていません。そして、有馬さんの、金光さんに対する印象は、好適とはあまり言えない気が・・・。なんでそれで、金光さんと取引しようと思ったんだろうか。
しかもその情報の発信元である国民新聞の記者とも、記事の出た当日に会って賛成意を得ているし。各社の経済部長ともコンタクトをとって、記事を出すか出さないかの調整を行っているしで。裏側の事情は、紙面からはわからないものですね。
日記中に頻発する福富というのは、豊福保次のことですね。
有馬さんが衆議院議員になるのにも尽力し友達になったとか。
千石というのは千石興太郎でしょうね。
あと井川氏というのは井川忠雄かな?
有馬さん自身の概要については以下。
久留米藩主の子で、それゆえ有爵議員についてもこねこね云ってますが、
伯爵位を得て衆院から貴族院に入ったのかな。
※有馬頼寧 ( ありまよりやす )
1884年(明17)12月17日 東京都中央区日本橋蠣殻町(旧日本橋区)に生まれ。
父は久留米21万石の藩主頼万。東京帝国大学農科大学を卒業後、年有半欧米各国の農村を視察して
1911年(明44)帰国し,農商務省産業組合課に勤務して産業組合(産組)の指導に当たること6か年、辞して東京帝国大学農科大学講師ついで助教授として農政学を講じた。
1924年(大13)衆議院議員に当選し政友会に所属したが、この間信愛学院を創設し労働者の教育に当たり、早稲田大学の北沢新次郎らと日本教育者協会を組織し教育の機会均等を唱えた。
また同愛会を創立、部落の融和運動に尽くし、さらに鈴木文治らの農民組合運動に参加するなど社会の注目の的となった。
1927年(昭2)伯爵となり衆議院議員の議席を失う。
翌1928年,産業組合中央金庫(産組中金)の監事、さらに翌々年、産業組合中央会(産組中央会)の監事となり、とくに千石興太郎らと親交を結んだ。
1929年(昭4)貴族院議員に互選され、のち斎藤実内閣の農林政務次官となる。
1933年(昭8)産組中金理事長となり、翌々年、産組中央会会頭を兼任した。
この間産組の勢力伸長のために活動、また賀川豊彦が関東大震災後設立した学生消費組合(東大・早大・明大・拓大)の経営を援助した。
1937年(昭12)近衛文麿内閣の農林大臣となったが風見章らと図り、産業組合青年連盟を主体として、農村革新協議会を結成し国民組織再編成の一翼としようとした。
1939年(昭14)1月農林大臣を辞任し、ふたたび産組中央会会頭に就任した。
※彼はかねて産組の保険進出を企図していたが千石らとはかり産業組合役職員共済組合設立準備会を組織し、共済制度と保険会社の買収にのりだした。しかし当時熾烈をきわめた反産運動の勢力は議会および政府を動かし、ついに1940年(昭15)2月27日農林大臣島田俊雄の保険会社買収中止命令が発せられて産組の保険進出は挫折した。
しかし、なお保険進出は根強くすすめられ、ついに井川忠雄を社長とする共栄火災海上保険株式会社を設立する。戦争の拡大とともに近衛文麿は有馬らとはかり、大政翼賛会を結成する。
彼は産組中央会会頭と貴族院議員とを辞してその事務総長となったが、志を違い、その改組に際して職を辞した。
太平洋戦争の勃発に際しては賀川豊彦とともに未然に戦争防止すべく努力したが及ばず、
終戦とともに戦争犯罪容疑者として連合軍により巣鴨に収容されたが無罪となった。
晩年、日本中央競馬会の理事長となったが,常に協同組合の発展を念頭においていた。
随筆を得意とし、著作も多い。主著『農民離村の研究』『農村問題の知識』『七十年の回想』『農人形』など。1957年(昭32)1月9日没。
とってかわられるまで重役として関わり、最後は社長にまでなった
大正生命の金光庸夫さんですが、昭和15年に保険に関するこんな
新聞記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)
日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社
(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき
交渉中のところこの程譲渡価格約七百万円(会社株式、
所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会に
おいて考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される
形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが実質的には
協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の
保険運営を立体とする今後の活動は組合自体の新発展段階を
指示するものとして大いに注視されるとともに保険業界に与へる
波紋も極めて重大なるものがある、しかして問題の突破に
驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の
本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
【写真上から有馬伯、金光氏】
他同日別面掲載
「産組・保険進出の波紋 組合保険の経営と役職員共済制確立 産組の狙ひ一石二鳥」
「農林(事務)は猛反対 手続無し・随所に疑義」
「契約者保護に立脚 運営の実際を注目 全貌判明を待つ商工省」
「産組の保険経営に農林省近く態度決定 有馬会頭の決意強硬」昭和十五年二月十九日(月曜日)国民新聞
産業組合の保険会社買収問題は今や重大なる政治問題となって
議会の後半期に臨み複雑なる波紋を投ぜんとしている
問題の目標とされる点は
一、産組は事前に監督官庁たる農林省の諒解なく
一般的に不当と思われる高額の評価を以て保険会社を買収した、
この取引の間には有馬頼寧伯と金光庸夫氏との間に政治的談合が
行われた疑いがある
二、産組は保険会社を買収し組合員のみならず一般人の加入をも認める
方法をとるというが、これは産組本来の使命を逸脱したものである
という二点に集中され、民政党では政務調査会に於いて
その真相を徹底的に調査せんとしているし、
政友会久原派でも十七日この問題に対する特別調査委員会を設置して
産組を糺明することとなった、
これに対し農林省では十七日午後三時本省に
佐藤産組中央会副会頭を招致し、周東経済更生部長、黒河内産組課長より
この問題の経過につき聴取すると共に産組中央会より提出した経過報告書を
中心に協議を行ったが、
更に産組中央会頭たる有馬頼寧伯は十八日午前十一時農相官邸に於いて
島田農相と会見し、産組側の決意を披瀝して諒解を求むる筈で
この結果に基き両三日中に農林当局は同問題に対する
態度を明かにするものと見られる、
而して有馬伯並に産組側の態度は極めて強硬で、
産組共済会による保険会社買収を以て直ちに組合法規違反となす法的根拠は
薄弱で農林当局が同計画の中止を命令するが如きは不当抑圧であるとし、
万一農林当局が中止を命令するが如き事態に立到れば有馬伯としては
貴族院に於いて自己の見解態度を闡明し反産陣営及び一切の政治的策動に対し
反駁を加える決意を固めている、
従って農林省としても簡単に中止命令を発することの出来ぬ事情もあり、
島田農相がこれに対し如何なる裁断を下すかは
最も注目されるところとなっている
【写真上は島田農相…下は有馬伯】
有馬頼寧さんというと、競馬の有馬記念で名前が残っている方で
競馬に多大な尽力をした方のようですが、農林省官僚でもあり
産組=農林産業組合の保険制定にも並々ならぬ意欲をみせていたため
このような大正生命の金光庸夫さんとの癒着を疑われる羽目になった
ものと思われます。
金光さんというと、先にも書いたとおり、昭和12年頃から鉄道業と
手を切り始めていて、そのことが玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に
屈服するきっかけともなっていたりして中々油断できないお方なのです。
上の記事から察するに、自分の基盤事業たる保険業すら国に売ろうとして
いたようなので、なんらかの個人的な変化というか事情があったと
察せされるのですが、その辺はまだよくわかっていません。
一方の、有馬さんですが、御厨貴さんの「近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)」を借りたときに、たまたま有馬日記の事を知りまして、
これがわりと毎日マメに、しかも正直な気持ちを書いてらっしゃるという評価で、
これは使えそうだな、と昭和13年~昭和15年を収録している「有馬頼寧日記4」(山川出版社/2001年)をちょっと借りてみました。
以下は、その産業組合保険と金光さんに関わりのありそうな日記のメモの
抜き書きです。ちょこちょこ自前のコメントもはさんでいます。
(昭和13年)
4月27日午前十時枢密院会議に出席。帰途、日本青年館の産業組合大会に出席。
5月16日午後1時半、官邸に行き岡田喜久治君に面会。4時過ぎ、家に帰る。厚生部長見えて産業青年隊の話をする。未だ案が熟さぬ。青年団と産青連を一所にした様なものが作りたい。
7月9日官邸にて産青連の森、横尾両氏に面会、新国民運動の件につき愚見を述べ、続いて大阪朝日に記者来訪。事変下の農林対策につき三十分程話し、…
7月14日午後9時より官邸に於て経済部長会議あり。今日は各県の部長より中々元気のある質問や意見の開陳あり、中には商工省の態度に比し農林省が消極的だとの意見さへあり。商相が強いからといふて急に強くなる官僚気質、一寸苦笑ものだ。
7月21日神経痛は未だ未だ治らぬが11時半頃出勤。「産業組合中央会館」の額を書く。
8月18日12時に日本クラブに行く。工政会、日本技術協会、七省技術協議会の連合会に出席。「産業技術連盟」の名称の下に連合することに意見一致。
9月26日今日青年団の大会あり。産青連はぼんやりしては駄目だ。
12月21日午前中競馬委員会あり。
12月22日今朝は10時迄ねてしまった。会議にも出席せず、藤山氏の葬儀にも参列しなかった。(19日に藤山雷太が死んだらしい)
12月25日今朝は大正天皇祭に参列する筈であったが、神経痛なので参列せず。
どうも神経病を患っていたらしく、そのため公務を休みがち。
のわりに後楽園や上井草へ行って、ちょくちょく野球の試合を観戦して
その感想や愚痴を書き込んでいる有馬さん。野球好きらしい。
一方、競馬の話はあんまりでてこないのは、ご時世柄かな?
小川功さんの論文によると、八王子市内を走っていた
武蔵中央電気鉄道も有馬頼寧さんが関わっていたらしいのですが
日記からはそれに関することはうかがえませんでした。
ただ、藤山雷太の葬式について触れられていることから、
武蔵中央を経営していた藤山雷太やその長男・藤山愛一郎と
何らかのつながりはあったかもしれません。
(昭和14年)
3月15日米の法案と軍馬の法案、少々厄介なり。競馬の問題で委員会停頓す。
3月19日本会議に出席。米穀案上程。大河内子の質問中に産業組合の首脳部に対する非難あり。それに、農相の答弁中に産業組合の政治進出に対する非難あり。聞き捨てならぬ事である。
4月17日午後2時読売新聞社に行き、中川男と二人して正力氏に面会。いろいろ苦心談をきき、戦時ニュースの映画を見、三時過ぎ辞去。(正力松太郎さんの名前が出てきました。この後も読売新聞記者に目的地まで送ってもらったりして、読売新聞とは仲が良さそうな場面が垣間見えます)
5月3日午前10時、青年館に行く。第34回産業組合全国大会に出席、千石君の開会の辞に於て相当思ひ切った事をいふ大変よかった。
7月18日午前9時中央会の新館に行く。始め中講堂で修祓式あり。それより屋上の産業組合神社の御遷座祭あり。(産業組合神社???笑)
8月28日今日安倍(部)信行大将組閣の大命を拝す。宇垣氏を出したかった様な気がする。世界情勢より見て、日本の内閣が何となく軽い感じがする。国民の意向といふものが少しも考慮されぬ様に思はれる。(oh…このころも安部内閣なのね、しかも執拗に字を間違ってる)
8月29日就任式あり。安倍(部)総理、小原内相、厚相、畑陸軍、吉田海軍、宮城司法、河原田文相、伍堂農兼商、永井逓兼鉄、金光拓である。金光氏以外はよい顔触れ。五相会議をやめる方針はよい。青木蔵兼企、もある。(やっと金光さんの名前でてきたとおもったら、のっけから否定的印象。このころ金光さんは政界に進出し、拓務大臣や厚生大臣をやっていたらしい。)
9月3日今日ラヂオで英国が宣戦布告をしたやうにいふ。ほんとうかしら。こんな事に今の内閣は心細い。なぜ宇垣内閣を作らなかったのか。津久井君の意見のやうに、内閣の創作者が変わらなければ駄目だ。
9月27日夕五時より鉄道ホテルに於て農相の招待会あり、席上千石、高草氏、河野氏よりまるで議会の質問の様な詰問があって、少々気の毒の様であった。四人で相談の結果顧問制は中止される様に私から話すことに相談した。農相の意図は壮とするが、無理である。(鉄道ホテルってなんだ?)
9月30日午後同盟の板垣氏見えていろいろ話していった。農相専任問題が描く新聞でとり上げられ、通信の中には我々に対する反感もみられる。若し農相専任といふことになり伍堂氏が何等かの決意をしたら、私も何とか決心をせねば義理が済まぬ様にも思はれる。
10月2日1時半中央会に行き、4時に農相官邸にて農相に面会。顧問の件は当分見合わせといふことにする。専任問題については農相も固執せぬ意向らしく思はれた。
10月3日午前10時より事務協議会あり、農林大臣と会見の模様につき報告。午後は新聞記者やらいろいろの人が来て夕方迄続き少々疲れた
11月21日今朝東金の木村来訪、保険の事を頼まれる。
11月3時に東京会館に行き協力会議の総会あり。郷さんが常任委員の氏名を読んだ時千石よ太郎といふ。かうした公開の席で誤られたのは千石君も初めてだらう。郷さんの方が余程与太だ。(郷誠之助さんだろうか・・・?)
12月1日今日は興亜奉公日なので朝出るつもりで居たが、起きられぬのでやめる。正午ときわやにて、藤山、千石、金沢、豊福と会合、保険会社の事につき相談。大体順調に進む。
12月2日保険会社の事は四、五日決定を延期することが出来た。(なんの保険の事だろう。問題のやつかな)
12月9日10時より首相官邸に中小産業調査会の総会あり。午後1時より商相官邸にて物価委員会小麦部会の小委員会、4時より部会あり。徳永部長と佐藤副部長のコンビで常務を無視するのは困ったものだ。
12月14日午後10時より首相官邸に於て中小産業調査会の総会あり。反産的質問意見出て、岡本組合の論文を問題にしたり、大人気なし。
12月19日4時半頃終り、ぶらぶら歩いていたら読売の記者にひろはれ中央会に戻る。産青連の連中来て、近く全国協議会を開き、地主に収める小作米を産業組合に入れて組合の土地管理の糸口をつけるといふ。賛成す。
12月21日賀川氏見え保険会社の事につき話あり。近藤日出造氏と話をし、6時喜かくに行く。
12月24日三浦、馬場両代議士来訪。豊福も来て義ちゃんの事や保険会社の件につき話す。
12月26日午後は中央会で五人の集りあり、西田、石井、藤田氏と相談。保険会社の件急速に進む。
12月27日午頃読売の記者に組合の話をし、西田、井口等と保険会社の件につき打ち合わせをし、午後2時首相官邸の懇談会に出席。
12月29日浜田氏より保険会社の件につき話をきく。
12月31日日の井上氏来訪、内閣もいよいよ駄目らしいとの事。困ったものだ。自分達の力の及ばぬ事ではあるが、日本の為めに誰か此難局を処理する人はいないのか。
過去も今も、政治のリーダーシップ不足は変わらないんですね。
ましてや、このころは満州事変から大東亜戦争へ突入しようという時期…。
たまたま時局が安倍(部)内閣ということもあって、他人事とは思えません。
こわっ
(昭和15年)
1月4日中央会、全購連、監査連合の合同祝賀会を開き、西田、浜田、井口、若林等と保険会社の件につき相談、進行することにする。
1月6日保険の事は9日過ぎになる。山本氏からいろいろ意見をきく。豊福が易を見てもらった話をきく。私も当選は困難な様な気がする。
1月7日午前中保険の事で皆が訪ねて来ていろいろ話したが、不明の点もあるがとにかく買ふ事にして話を進めることにした。
1月9日信連の人達と保険の事につき相談。
1月13日中央会に行く。千石、佐藤、石黒、那須、西田氏欠席。他の人達に保険の事につき話す。皆賛成され、安心した。
1月14日米内大将大命を拝し、組閣に入る。自分お前から望んで居た首相故愉快だが、どうかよい閣僚を揃へたいものだ。大蔵石渡、外務野村だけ発表。先づ無難か。小栗一雄氏の書記官長はよし。
1月15日組閣進行今夜中に決定す。両政党に大蔵、農林を、実業界の藤原氏を商工に入れた事は善意か悪意か(王子製紙のボスこと藤原銀次郎氏の名前が出てきました。このころ商工大臣だったのですね。)
1月17日保険の事未だ安心の域に達せぬ。過ちのなからん事を祈る。
1月20日夕六時より桑名に保険の事につき尽力してくれた人々を招き、西田、浜田にひきづられて雪村に行き、桑名に戻り十二時帰宅。
1月21日雨降らず、各地水少なくて困って居るらしく、電力も益々不足らしい。麦の生長も気づかはる。午前十時丸の内会館に行き、全国信連会長の協議会に出席。保険の問題幸に協賛を得、割当ても承認してくれた。無事に完了するを祈る。其後は全力を挙げ万難を排して進む覚悟である。どの様な目にあっても自分の為めでなく七百万組合員の為めなら少しもくゆる事はない。
1月22日石黒さんに保険の事を話す。断然止める筈であるがそれ迄進行したものなら致方なしとの事。周東部長来訪。次官に話してくれとの事。
1月23日午後出勤。三時より古野、千石、西田と四人にて話す。軍務局の石井中佐が公演中、産組の中に商人もやらぬ様な不正をやるものがあるといふたとか。どんな事か聞けばよいのに。
1月24日村山貯水池の水がかれるといふ。井戸にたよってゐるとかういふ時は安心だ。
1月25日今日は保険の会議があったけれど、又起きられなくて欠席した。取引所の会議も首相官邸にあったが、それも出なかった。保険の事は各地方とも絶対賛成らしい。主任官連中は何かいふて居るとか。
1月26日午後農林次官を訪問。次官は話がわかってくれ、いろいろ注意をしてくれる。夕銀ブラをして五時半鉄道クラブに行き、技術協会の総会に出席。
1月27日井口氏に面会。金光氏の不誠意につき話があった。
(やっとこ、金光さんの名前が出てきたと思ったら、また悪評。)
1月31日最近いやな気持ちがしてならぬ。不吉な事がなければよいと思ふ。今月は降雨量0といふレコードだ。電力、石炭問題重大。
2月1日電力もやはり天候に支配されるのかと思ふと、科学も結局は自然に勝てぬもの。大河内子の質問あまり感心せず。理研コンツェルンの大将と産業資本家藤原銀次郎商相の取り組みでは、是非もない。午後保険の事につき相談。夕帰宅。
2月2日午前十時登院。大河内輝耕子(爵)の質問、例により例の如く。よい点もあるが如何にも不真面目な感を与へる。有爵議員の存在価値を社会は如何に見るか。此様な態度で政府に参画して居ると言はれるのか。午後中央会に行く。更生部長来て、農林省より中央会頭宛警告文を出すとの事。反産を何故にそんなに恐れなければならぬのか。西田君とも相談、邁進する事にする。
2月4日山崎警保局長来訪。産業組合の取調べの事と、消費者結成の事について話す。富藤氏の事件を繞って政情混沌たるものあり。又名古屋方面工場に不穏なものがあるとの話。石炭問題につき、又鉄道省の協力を求めなかったとの事。困った事だ。
2月5日午後中金にて中農協の会合に出席。記者会の連中より保険の事を聞かれる。最早仕方なし、明日合同会見にて概要を話し、協定して掲載せぬ様に以来するつもり。産青連の人や中西君やに面会。保険の事は運を天に任せて腹をきめる。
2月6日夜板垣君より電話にて農林省のクラブも書かぬ事に話きまりし由。感謝す。
2月7日議会は休み、正午中央会に行く。新聞記者の連中は全部書かぬ事にしてくれたが、各社の経済部長が今日会合したとの事だから、或は書かれるかもしれぬ。問題になったら、腹をきめて闘ふつもり。已成政党、資本家、官僚、それに言論機関と闘ふのだから、一切を捨てる覚悟だ。時節柄思はぬ問題を引き起こすかもしれぬ。
2月8日三時中央会に行く。各社経済部長の会議も相当もめた由だが、一週間内に書くといふことに落ちついた由。其前に済ますことに運ぶつもり。
2月9日今日の衆院予算委員会に於て松村謙三氏保険の件につき質問す。止むなく各社共明日の新聞に発表することになる。
2月10日今日も議会を休んでしまった。今朝の新聞記事もあるので行くのがいやだった。夕六時星ヶ岡に行き、河野弁護士、安田読売経済部長、島田、宮部、豊福と会食。佐藤、井川両氏来て、保険問題につき相談をする。徳川氏強硬論の由。組合全体の動き注目。自分の声望を卜するによい機会だ。
2月11日四時より、徳川、佐藤、井川氏と相談、覚書の不備等につき明日の注意を聞く。此事件或は窮地に陥るやも知れず。覚悟はあるが、万事を用意する必要あり。
2月12日保険問題、今日東日が新説を書いただけ。それも如何にも資本家の味方の様で感心できぬ。佐治君から激励の手紙をもらう。
2月13日六時中央亭に行く。農村振興議員同盟の人々と会見、保険のことにつき了解を得。私の私案はどうやら工合がよいらしい。
2月15日中央会に行き、東日の藤岡経済部長来訪。軍事郵便機献納につき相談あり。農林省の形勢いろいろに変化す。民政党では調査会を設けて研究する由。
2月17日豊福の話によれば、農林当局は中止命令を出すとの事。石渡書記官長が荷見氏と打ち合わせたとの事。かくの如くして行くときは面目問題ともなり、引く(に)引かれぬ破目となるべし。農相は必ずしも反対ならず。黒木伯に進退の事につき相談した。
2月18日午前十時半に近衛邸に行き面会。産組保険問題に関連する私の去就につき話し、其他政治上の事につき話し、0時半農相を訪問。今迄の経過の報告をする。共済会の設立には異存なく、法人でなく任意組合の形式をとること、資金拠出の方法は個人とする案最上なりとの事故、其様に可成運ぶ旨を答ふ。二百万円の仮払仕末の案は尚研究を要すと思ふ。
2月19日正午中央会に行き、保険の事につき相談。いろいろの人が訪ねて来た。松村氏の質問につき板垣君より報告をきく。民政党の調査会の決定の中に私の行為が背任だといふものがある。私は法律を知らぬからどういう事になるかしらぬが、自分ではさうは思はぬが、苦しさうであって罪に問はれても少しも悔やむことはない。組合員や役職員の為めに図ったのだから。
2月20日保険問題、農林省の空気やや緩和す。
2月21日午前中在宅、正午嵯峨野に行き、国民新聞の木原、後藤、首藤の三氏に面会。いろいろ話し、保険問題については絶対賛成してくれるとの事。二時中央会に行き中農協の感じかい、連絡委員会にて話し、五時より中機産青連の人々に話しをす、それより豊福、西田、佐藤氏等と話す。成田氏来訪。金光氏との間に入り解消の話をしたいとの事。一応断る。千石氏は賛成したとの事、真意を疑ふ。石井氏より電話にて、延期の事金光氏は承諾せし由。
2月22日午前十時中金に行き、理事長以下同席、保険の事につき中金にて調査した結果を示し注意あり。要するに七百万円は高いといふことと、将来の経営困難なりとの理由により中止を可とする意見なり。それより常任委員会に出席。断行、非断行の両意見あり。結局明日の会合の結果により決定することとなる。
2月23日中央機関の共済会設立協議会あり、種々議論もあったが共済会設立の件は可決された。資金拠出の件も同様。
2月25日午後、石井、西田、奥氏等来訪、善後策につきいろいろ話す。私の案に大体賛成。夕方出る予定をやめて、夕食をとった後革新派の田辺幹事長来訪。島田、金光両氏と面会した事について話あり。私の案をもって島田氏に会ひに行かれた。豊福と三つ満に行き田辺市に面会。金光氏に明朝田辺氏が会へば、大体目鼻はつくかもしれぬ。
2月26日主査辞任の届出をする。研究会でも松村氏の話しを聞くとの議ある由。七時小磯拓相を訪問、懇談。金光氏に話をしてみるとの事。(このころ拓務大臣は小磯に移動している)二百万円返還、犠牲者出さぬ事、こちらより解約の申出なさぬ事を申出づ。農相も閣議では反対の意思を表明せる由。石黒氏、荷見氏と会見せしとの事。
2月27日五時官邸にて農相に面会。大河内子の質問に対し農相は中止の意思ある旨言明せし由新聞に出る。十一時帰宅。井上氏と話す。会頭も議員もやめたいと思ふ。
2月28日小磯拓相より電話あり、一時半拓相邸に行く。明二十九日午後六時小磯邸にて金光氏と会見、全部完了の事に決定。それより千石氏と金光氏と訪問して承諾を得、それより中央会に行き委員に告ぐ。一同愁眉を開く。先般の難問題解決、嬉し。今後大に奮闘するつもりである。
2月29日金光氏より電話にて、今日の取引は金光邸にて為したき旨希望あり。拓相に通じたるところそれにてもよしとの事。四時過金光邸にて取引全部完了。それにて全部白紙に還る。中央会に戻りて、新聞記者に発表。
3月1日午後は全国協議会あり。報告を感想を述べる。辞職反対の決議あり。意をひるがへして留任することにする。
松村謙三議員の質問というのが気になるところだけど、はじめ新聞に載っていたような、有馬さんと金光さんとの談合とか密談らしきものはとくに日記に記されていませんね。人を介して話を進めていたのか、その詳細についても触れられていません。そして、有馬さんの、金光さんに対する印象は、好適とはあまり言えない気が・・・。なんでそれで、金光さんと取引しようと思ったんだろうか。
しかもその情報の発信元である国民新聞の記者とも、記事の出た当日に会って賛成意を得ているし。各社の経済部長ともコンタクトをとって、記事を出すか出さないかの調整を行っているしで。裏側の事情は、紙面からはわからないものですね。
日記中に頻発する福富というのは、豊福保次のことですね。
有馬さんが衆議院議員になるのにも尽力し友達になったとか。
千石というのは千石興太郎でしょうね。
あと井川氏というのは井川忠雄かな?
有馬さん自身の概要については以下。
久留米藩主の子で、それゆえ有爵議員についてもこねこね云ってますが、
伯爵位を得て衆院から貴族院に入ったのかな。
※有馬頼寧 ( ありまよりやす )
1884年(明17)12月17日 東京都中央区日本橋蠣殻町(旧日本橋区)に生まれ。
父は久留米21万石の藩主頼万。東京帝国大学農科大学を卒業後、年有半欧米各国の農村を視察して
1911年(明44)帰国し,農商務省産業組合課に勤務して産業組合(産組)の指導に当たること6か年、辞して東京帝国大学農科大学講師ついで助教授として農政学を講じた。
1924年(大13)衆議院議員に当選し政友会に所属したが、この間信愛学院を創設し労働者の教育に当たり、早稲田大学の北沢新次郎らと日本教育者協会を組織し教育の機会均等を唱えた。
また同愛会を創立、部落の融和運動に尽くし、さらに鈴木文治らの農民組合運動に参加するなど社会の注目の的となった。
1927年(昭2)伯爵となり衆議院議員の議席を失う。
翌1928年,産業組合中央金庫(産組中金)の監事、さらに翌々年、産業組合中央会(産組中央会)の監事となり、とくに千石興太郎らと親交を結んだ。
1929年(昭4)貴族院議員に互選され、のち斎藤実内閣の農林政務次官となる。
1933年(昭8)産組中金理事長となり、翌々年、産組中央会会頭を兼任した。
この間産組の勢力伸長のために活動、また賀川豊彦が関東大震災後設立した学生消費組合(東大・早大・明大・拓大)の経営を援助した。
1937年(昭12)近衛文麿内閣の農林大臣となったが風見章らと図り、産業組合青年連盟を主体として、農村革新協議会を結成し国民組織再編成の一翼としようとした。
1939年(昭14)1月農林大臣を辞任し、ふたたび産組中央会会頭に就任した。
※彼はかねて産組の保険進出を企図していたが千石らとはかり産業組合役職員共済組合設立準備会を組織し、共済制度と保険会社の買収にのりだした。しかし当時熾烈をきわめた反産運動の勢力は議会および政府を動かし、ついに1940年(昭15)2月27日農林大臣島田俊雄の保険会社買収中止命令が発せられて産組の保険進出は挫折した。
しかし、なお保険進出は根強くすすめられ、ついに井川忠雄を社長とする共栄火災海上保険株式会社を設立する。戦争の拡大とともに近衛文麿は有馬らとはかり、大政翼賛会を結成する。
彼は産組中央会会頭と貴族院議員とを辞してその事務総長となったが、志を違い、その改組に際して職を辞した。
太平洋戦争の勃発に際しては賀川豊彦とともに未然に戦争防止すべく努力したが及ばず、
終戦とともに戦争犯罪容疑者として連合軍により巣鴨に収容されたが無罪となった。
晩年、日本中央競馬会の理事長となったが,常に協同組合の発展を念頭においていた。
随筆を得意とし、著作も多い。主著『農民離村の研究』『農村問題の知識』『七十年の回想』『農人形』など。1957年(昭32)1月9日没。
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