たまろぐ 史料・史跡 忍者ブログ

たまろぐ

テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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知り合いから貰ったチケットが使えるの昨日までだったんで、
代休とっていってきました。芝~!

芝公園には芝丸山古墳があるので、それも見に行きたかったんです。
ついでに、平日しかやってない公文書館で、前から知りたかった
王電の下高井戸線についても調べる予定。

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地図だと大江戸線が芝公園駅の下を通ってるぽかったんで、
てっきり止まるのかと思ってたらなかった。

ので、いつもの三田線で芝到着。

   

すぐそばに東照宮があったので、覗いてみます。
二代将軍秀忠と、その妻のお江の方と、三代家光公が祀られているらしい。

 

境内に家光公お手植の伝説があるイチョウがありました。
だから「公孫樹?」なんちて。

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東照宮内から左横の小道に出ると梅樹園がありました。
が、なんとそれが「 銀 世 界 」!!?

銀世界というと前に新宿の地図を見ながら書いた記事で、
諦聴寺の裏(淀橋浄水場の南西)のところに公園らしきものがあり
「銀世界」という表示だったので「なんだろう?」と思ってたんですが、
これ(梅園)だったのか!!!

梅屋敷はともかく銀世界って、なんか江戸っぽくない名称だな~
(どちらかというと大正ロマン的な?)
その後、東京瓦斯タンクの敷地になったんですけど、
や~、まさかこんなところに移植されて残ってるとはー。
ここ、無駄に一番たぎったんですけど、伝わっているでしょうか。



それはともかく、その背後にある小山のような森のようなモノが芝丸山古墳です。
ここくる予習に、ブラタモリの芝・増上寺アンコール放送の録画を見て来たんですけどね。
縄文時代はこの辺り海で、芝丸山古墳のとこだけ、
ぽろっと岬が欠けて島みたいになってるんですよね。

芝の地名の由来は昔ここが柴村という入会地で
柴刈り用の柴がとれたのかもしれませんが
多摩川の由来が「たば川」だといわれるくらいだし、
「しま」が「しば」になったと夢想しても許されるんじゃないか、とか思いました。
(無理があるな・・・)

柴村は戦国時代は荏原郡だったのがのちに豊島郡にはいり、
明治時代に芝区になって、第二次大戦後は
芝・麻布・赤坂の3区が合併して港区になったらしい。

   

海岸地帯だったので貝塚(多分縄文時代の)もあるらしい。
有名な割に調査されてないのは、なんでなんだろう?

芝丸山古墳は都内でも最古最大級の前方後円古墳です。
関西の方だと200~300m級が(大王墓なので)普通で、
武蔵国の兄貴分である上野国(群馬県)では200mが最大級なんですが、
東京(南武蔵)では100m越えれば最大級です。
ちなみに埼玉(北武蔵)は100~120mがざら、上野国の影響かなぁ…。

 

上2つは「東京の古墳を考える」より、1が芝丸山古墳で、ここだけぽつんとあります。
都内で最も古く、前方後円墳が集中しているのは多摩川中流域の田園調布です。
大宮八幡宮の記事で書いたとおり、関東では周溝墓が前方後方墳になり、
中央の流行をうけて大型の前方後円墳を作り始め、これが本格的な古墳時代と見なされます。

都内で最も古いとされる古墳は4世紀前半の世田谷区富士見坂の扇塚古墳で、
これは円墳みたいだが前方後円墳じゃないかといわれていたのですが、
最終的には前方後方墳という結論になったっぽいです。
マンションの建設にともない、簡易調査しただけで壊されたらしいですが。

その次が多摩川中流域・田園調布の宝来山古墳97mで、これは確実に前方後円墳。
その次が芝丸山古墳で110mです(が、形が崩れている為、数値に幅があります)。
それと同時代に前方後方墳の稲荷前古墳(横浜市青葉区)や砧中学校7号墳(世田谷区)があり
このあたり(4世紀中ごろ)が後方墳から後円墳への過渡期だったみたいです。

東急東横線や田園都市線のまわりは、都内最古級最大級の古墳群だらけですね。
そんななか、東京低地といわれるところで芝丸山古墳に次ぐ古さと大きさなのが、
上野公園にある摺鉢山古墳70mでこれは5世紀~6世紀。埴輪もでているようです。
(※埴輪がでないと、より古いと云われる。ただし東海系の土器はでてくる。)

多摩川系や鶴見川系の古墳が何世代にもわたって作られている古墳群なのにたいし、
この芝丸山古墳は最大級でありながら孤高の存在です。
そんなわけで?か、初代武蔵国造である兄多毛比命(えたもひ)の墓ではないか
という噂もあるくらいです。これはおさえておかねば。



山の中腹、前方部のあたりに稲荷神社がありました。
どうも、古墳と神社って文化的タイムラグがあるかんじがして
一緒に置かれてると位相空間ぽい気がするんですけど。だんだん慣れてきました。

   

頭頂部(後円部)は真っ平らな展望台になってました。
江戸時代に削られちゃったらしく、伊能忠敬の記念碑が建ってました。oh…ぅ。
外からみると、総体が見えないくらいでかいんですが、
登ってみるとそんなに広くもないですね。

 

ただ、高い。
前方部と後円部の間のあたりに、先ほどの東照宮の裏手がみえます。
なんだか、東照宮が丸山古墳を祀っているみたいな格好です。



降りてみる後円部。
やっぱりでかいな。そういう視覚的効果をねらって築造されるんでしょうけども。
ただ、どこまでが自然の台地を利用していて、どこまでが人工物なのかは
よくわかりませんんでした。案外、この近辺、似たような小山が多いです。

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さて、では東京タワーにむかいます。
ブラタモリの放送日が2011年3月11日で、そのアンコール放送では
タワーのアンテナが地震で曲がってしまった、という冒頭OPだったんですけど、
ここから見る限り治ったっぽいな。
最近だと、エレベーターのワイヤーが切れたとか、なんとか。
そ、それももう、大丈夫なのよね・・・?

右はプリンスパークホテルをはさんで反対側にあった池が、
大都会の中とてもきれいでした。これも台地のハケによる湧水なのかな?
近くに出世弁財天の宝珠院がありました。
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東京タワーは子どもの頃、一回くらいはいったかな?
タワーへむかうときに立ちはだかる坂が、なんか懐かしいかんじでした。
電波塔だから、より高い所に造るのは当たり前なんですけどね、
なんか「坂登るのか」とガッカリした思い出が・・・。

ドラえもん100体は結局、新宿駅のも箱根のも見に行けなかったんで、見られてよかった。
やっぱり実物があると感動しますね。それにしても造りすぎだね。(笑)

 

史跡を廻ろうというのに、間に異質なイベントつっこんだせいで、
すごく脳波が乱されました。
藤子さんの世界は副作用が強いからな・・・。
生半可な心構えでは、いってはいかんわ。



御成門からふたたび三田線に乗って、大手町をめざします。
今日も頼りっきりです。

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大手町駅のC9出口からでると、将門塚の標識が目に入りました。
この近くにあるらしい。これは、ゆかねば!

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ビルの裏手、気象庁の横に自然にありました。

この間、BSプレミアムで平将門やってたんで、一応経歴は把握したんですけどね。
武蔵国府で足立郡司と興世王(おきよおう)の仲を取り持ったのが、
転落のはじまりだったな・・・。
というか、「将門記」では興世王が悪い入れ知恵を将門にしたってなってるのかな?

その放送では、のちの宿敵となる従兄弟の平貞盛が切れ長目の美形に描かれてて、
その時点でも「!!!」となるのに、地元の親族間の争いで
「(貞盛の父の)国香叔父を殺しちゃったよごめん」ていう将門の謝罪に
宮仕えで中央にいる貞盛が「いいよ、しょうがないよ」と許す文を返し、
将門がほほをピンクに染めるというのが、その番組のハイライトでした。
うぉい、NHKぇ・・・!となったよね。
そうか、将門の乱は従兄弟同士の感情のすれ違い上の悲劇だったのか・・・
BLだな、と変換されました。責任の所在はNHKです。

 

もともとは、ここが神田明神の所在地だったみたいです。
神社が移転したので、将門塚も何度かどかそうとしたけど、結局出来なかった、
という将門の呪いは有名ですね。

   

将門塚はとても美しく整備されてて、それはいいんですが、
その周囲のカエルが異様にキュートで、全部もってかれました。
なんだこれ、かわいいよ、なんでカエル、どうしてカエル???

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お堀端をつたって、国立公文書館をめざします。
公文書館は、北の丸公園の方にあって、どの駅からも遠い。
不便よね・・・。

途中にあった太田道灌の碑。
江戸の歴史の始まりとして、よく出てくる名前だけど、
本人自体はあんまり何した人か知らないですが、上杉氏の武将なんだね。

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芝公園や、はじめての公文書館の利用で手間取りすぎて、
すっかり日が暮れてきてしまいました。
本当なら、このあと神保町へ行ってカレーを食べてから、神田明神をみて
湯島天神と上野公園の五條天神社と摺鉢山古墳と京成のなにかを見てから帰ろうと
思ってたんですけど、もう日が短い季節ですし、無理ですね。

でも将門塚をみたんで、これは神田明神も見ないと、しまりが悪い!
時間との勝負でしたが、カレーを泣く泣く諦め、
空腹を抱えて神田の街を北上します。

あいだにあった中央線と総武緩行線。お茶の水を越えたあたり。
高架下のお店の光が綺麗です。

 

そこから100m位いって左にまがると、すぐ判りました。神社(への階段で)。
やっぱり、台地の上に建ってるんですね~
男坂というらしい。



のぼり切ってみると、やっぱり勝手口でした。
もうね、いいんですよ、最短ルートで、ね。

 

拝殿の横に、またあの3匹の狛犬!?
と思ったら、獅子を題材にした像みたい。
ということは、平塚神社のあの子狛犬、もじつはこれと同じモチーフだったのか。

   

神田明神の祭神は、大国主・少彦名と平将門です。将門はあとから合祀されました。
ネットの説明では、「秀忠の時代に武州の総社とし、江戸の総鎮守として」とあって
江戸の総鎮守はいいとして、武州の総社は ;゜Д゜)ハア!?
え…、あれ、明治時代だけでなく、江戸時代にも武州の総社の地位を奪われてたの?大國魂。
だったら、家康がくれた500石はなんだったのよ。
秀忠の時代になって扱い変わったのかと思いましたが、
境内の説明には総社とまでは書いてなかった。謎

祭神を一の宮、二の宮、三の宮、と数えるのはその名残なのかしら…?

   

神田明神でのお目当ては少彦名命の像でした。
神像はけっこう珍しいから、「おお!」と思ってずっと行きたかったんです。
でも行く機会逃してて、今度こそ、と思ってたんですけど。

あれ、これじゃない・・・これじゃないよ・・・。

たしか、学生時代にネットで見た像は黒くてもっと小さかったような・・・。
もしかして代替わりしちゃった???それとも神田明神じゃなかったのかな。
い、いや・・・なんというか。ちがうんです。


このページ(http://www.kandamyoujin.or.jp/info/keidai/detail.html?kid=4)によると
この彫像は東京藝術大学学長の宮田亮平さんがつくったらしい。
いや、このモチーフの解釈は正しい、正しいよ…とても。 orz

普通、エビス様というと、大国主の跡取りの事代主(息子)が習合されるんですが、
神田明神ではスクナヒコナがエビス神なんですね。
いいとおもいます!大黒様と恵比寿様のブロマンス的に。←
親子よりは、比肩出来る兄弟仲の方が、大黒エビスの関係に近いと私も正直思います。


そして、そのお隣の大黒様がまだ……。でかいし表情が(なんでこう凶悪なインパクト?)
たぶん、ライトの加減のしかただと思うんですが。
たそがれ時かな!たそがれ時にきたのが全部悪いな!うん!
ほんま、すみませんでした。

 

その他もろもろ、裏手にあった小さな神社。
江戸神社というのがありました。
大宝二年(702年)創建の江戸最古の地主神だそうです。
ただ祭神は大国主ではなく建速須佐ノ男命(すさのお)。
初めはこちらが江戸大明神または天王と呼ばれたらしい。

そういえばスサノオは八坂神社の牛頭天王と習合しているんだよな。

鎌倉時代には江戸氏の氏神で、江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の跡は
太田道灌によって祀られてたのが、江戸開府以降、江戸城拡張で
神田明神と共に神田台に移り、さらにまたここに遷ってきたと。

神田明神は天平2年(730年)に武蔵国豊島郡柴崎村(大手町)に創建とあったから
それよりこっちのが古いですね。大宝律令時代だ。

 

その他、いっぱい。ぜんぶ有名所やな。
籠祖神社(猿田彦=サルタヒコと塩土老翁=シオツチノオヂ)、八幡神社、
富士神社(浅間神社と同じ意味だろう)、天神社(菅原道真と柿本人麻呂)、
大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大神)、諏訪神社(建御名方=タケミナカタ)

 

ちょっとよかったのが、金刀比羅神社(と三宿稲荷神社)があったこと。
こんぴら様というと、ガンジス川のワニの神格化なんですけど、
日本ではなぜか奈良三輪山の大物主(おおものぬし)が習合してるんですよね。

ワニというと、大国主の息子の事代主(ことしろぬし)が
大阪三島の溝咋姫(みぞくいひめ)の元へ通うのにワニに変身して淀川を上った、
というのがあるから事代主でもいい気がするんですが、大物主なんですね。

大物主は大国主と同格ですが、大国魂神ほどには同一視されてない気がします。
ああ、だいすきだ、大物主と少彦名。

それにしても、この神社、事代主をとことん排除するような。

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今日は久しぶりに錦糸町にいったので、そのまま下総国府みにいこう!
とやって来ました。市川駅

地図とかもらえるかな、と覗いた観光案内所でなんと京成展のポスターを発見!!!
ちょうど、下総国分寺への途中にあるギャラリーでやってるらしいので、
急遽いってみることに。



途中にあった踏切からみた京成真間駅。
ここの北側に京成の本多さんの屋敷があったらしい。
駅には碑もあったらしいので、見ていけばよかった~

真間というのは、万葉集にも謳われている、古い地名だそうですね。

 

ついた~。
8月末からやってるわりには人多いと思ったら、今日は京成パンダとちーば君がくるらしい。
そのせいか、家族づれやお子様多かった。

京成のビデオ流してるうしろでプラレールコーナー設置したのは失敗だと思う・・・。
音がうるさくて、全然音声きこえなかった。

てっきり100周年の企画展かと思ったら、押上の本社引っ越すから記念だったらしい。

原敬の許可のついた特許が展示されてました!
利光鶴松さんの名前も井上敬次郎さんの名前も森久保作蔵さんの名前もあった!
もちろん本多貞次郎さんの名前もね。
でも筆頭は飯村丈三郎さんだったね。

路線案内図も見ました!
京成が開業した頃の国府台は鴻之台になってましたね。
江戸川が渡れなかったので、とりあえず東京側の川の手前で市川駅を開業。
その後、市川駅は江戸川になり、川を渡ったところが市川国府台駅になって、
その後、さらに市川の名前は次の駅の市川真間駅に移ったんですね。

国府台はこのあと行こうと思っている下総国府があったとされる場所です。
その前に国分寺を見ますけど。

京成は、意外と成田まで全通するのに時間がかかってるんですねぇ。
未成年時代が長いということか・・・ふう萌える・・・。

それにしても成田空港騒動は予想以上だった。
昭和50年代にもなって電車焼き打ちとか、ぱねえっ。6両も被害にあったらしい。
開港の遅れがもろに経営に響いてるし京成がものすごく可哀相な目に。
戦後30年振りに無配に転落とか、デベロッパー失敗しただけじゃなさそうだ。
今は羽田が国際線増設をしはじめてるからなぁ、京成の不幸運勢はまだまだ続きそうだ。

井上洋介さんの絵本絵コーナーがまた強烈だった。
京成パンダに通じる強烈さがあるというか、だから京成パンダがマスコットになったんだな
と妙に納得もしました。

京成パンダの相関図と設定の細かさもやばかった。
誰が考えるんだろうね。趣味は京成ストアを制覇すること!支払は京成カードで!

結局パンダにもちーば君にも会わなかったけど、面白かったです。

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ギャラリーを出て、須和田公園の遺跡で峠を越え、坂を降りるとまた崖がありました。
この~みち~はいつか見たみち~? 相模国分寺と風景が一緒だよ・・・!

   

ついた。
この総門は当時の再現かな?

   

昭和41年の発掘でここの国分寺は百済風の法隆寺伽藍様だとわかったらしい。
他はだいたい東大寺(国分寺の総本山)にならった伽藍配置なので、これはちょっと珍しい。
瓦も発見され朝鮮新羅系の忍文様であったことから朝鮮系帰化人が参画していたかもと。

武蔵国では入間を分割しておそらく職人としても雇っていたであろう
新羅や高句麗系の人を集めた新座郡や高麗郡を新設してるし、
白村江の戦いのあとでは滅亡した百済の民を大量に亡命させたりもしてたから
そういう人達の入植も影響してるんだろう。

それにしても、下総国分寺周辺の説明碑は文字がみっっっっちりていて読むのが大変です。



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近くに国分尼寺跡もあるらしいのでいってみます。
これは途中にあった庚申様。
猿が閻魔様?に告げ口しているところかな。

一見なんでもない農道のようなこの辺の道も、
古代の道の残りかもしれないなぁ。

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ついた~
ここはちゃんと国分寺址っぽい保存のされ方してますね。



しかし、その敷地内に一軒の家がちゃっかり建ってて、いいのかこれ・・・。

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下総国府跡と思われる国府台公園へは、また谷へ降りて、坂を上らねばなりません。
江戸川へ注ぐわき水かなにかの浸食で渓谷がたくさんできたのかな?
しょうじき、そろそろしんどいです・・・・。

 

ついた!!のですが、国府台公園はすっかりスポーツ施設で埋め尽くされてて、
面影も痕跡もまったくありません・・・。
あとは千葉商科大学や女子大の敷地になっているようです。

ただ、景色はいい。さすがの立地です。

 

若干の肩すかしをくらいながら、京成の国府台駅へ向かいます。
掘り割りが見事なみち。見ると県道の一ケタナンバー、しかも1番。
松戸街道だそうです。これもなんか古そうな道だなぁ。

 

崖の終わり目、といっても坂はまだまだ下へ続いているんですが。
右は女子大の敷地の端っこです。

 

諦めかけた所で、突如左に国府神社が!!!!
いやったー!やっと国府跡っぽいものめっけたー!

 

案内板に、「鴻之台」時代の由来を書いた説明がありました。
もちろんこれは後世の後付で、「こうのだい」の由来は国府があったから。
それで今の地名もこっちの表記になってるんでしょうが
ヤマトタケルとコウノトリの伝説かぁ・・・。ロマンチックだな。

わかりやすいくらい急な階段が、神社が崖の上に建っていることを強調します。

 

ここからだと、江戸川の河川がよく見えるなぁ。
建物や電線がなければもっと、絶景だったんだろうな。

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国府台駅ついた~!
これで、予定のはんぶんくりあ~・・・orz

京成展が途中にはいっちゃったから、時間がだいぶ過ぎちゃった・・・
このあと、豊島郡衙跡をみてから、大宮の氷川神社いこうと思ってたんですけど
ちょっと無理かな・・・。夜の6時から団地役員の規約勉強会があるから、
それまでには戻らなきゃ。ぐぬぬ・・・

 

国府台駅からは江戸川がよく見えますね~
このまま日暮里へ向かいます。
江戸川だけじゃなく荒川とか中川とか、いろんな川があるから
千葉の鉄道は多摩のにくらべると大変だなぁ。

前にテレビで荒川がもし決壊したらというシミュレーションをしていて、
京成の鉄橋の辺りが、土手より数m低くて、一番ヤバイポイントだと云われてました。
でも、かんたんに直せもしないのだろうな・・・不幸ボーイ京成。

ちなみにそのシミュレーションでは、高島平駅も水に沈んでしまってました。
み、三田線ーーーんん!!!

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豊島郡衙は、豊島郡の郡役所で、武蔵国府を出て下総国府へ向かう途中の駅にあたります。
JRでなく京成本線でいくのは、ちょっと上野線に乗って見たかったっていうのと、
かつて古道が通っていた場所に駅名が一致するからです。

上の古地図は、いつものように「東京人」の古道特集から。
豊島郡衙~町屋~千住~関屋~堀切~青戸とあります。
天智天皇が号令をだして建設されたころの道はとにかくまっっすぐで巨大ですが、
後世、中央が疲弊するころの道は、整備が容易なように地形に添って
蛇行したものになっていきます。

「更級日記」がかかれた頃のような平安時代には、
当初よりもやや南よりの道になっていたようです。

『続日本紀』神護景雲2年(686年)の記事には
「武蔵国・乗潴、豊島駅、下総国・井上、浮嶋、河曲駅」のルートがのっています。
このルートは支路であり馬の配備は5匹でしたが、使用頻度が高く馬の疲弊が激しい為、
東海道や東山道のような中路並の10匹にしてほしい、との要望がでました。
本来の東海道は相模国から船で海を渡り、房総半島の先の、上総の国に入るのが正道です。
だから千葉県は、陸路で行ったら先に入るはずのほうが「下」総で、
半島の先のほうが「上」総なのだと、中学校の歴史でならったなぁ。

でも千葉県の半島から茨城県へ行くというルートが不人気で、官吏がやたらとこの
武蔵国府~下総国府の支路を使い、東山道ルートで着任するはずの国司も
東海道から武蔵路をつかって東北へ入っていくので需要に供給がおいついてなかったのですね。

この記事の3年後には、結局東山道所属だった武蔵国は東海道所属になり、
上総国行きの海路は正式な官道ではなくなり、この武蔵~下総ルートが格上げになったのです。
こちらの地図がわかりやすいかな。
(http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/T-route.html)東山道武蔵路のルート

乗潴というのは、正式な読み方が判ってないのですが、
「のりぬま」とか「あまぬま」ではないかといわれてて、
杉並区の天沼地区の沓掛が比定されています。
練馬区の練馬の由来がこの「のりぬま」ではないか、という説もあるらしいです。

この間いった、大宮八幡神社は天沼地区よりだいぶ南にあるのですが、
源頼義・義家の奥州平定時代には、もう南ルートに変遷していたのかもしれませんね。



青砥駅。地図では「青戸」の表記になっています。
次の駅の立石には「立石様」といわれる地名の由来になった石が祀られていて、
これが古代東海道の痕跡のひとつとして、「東京人」では紹介されてました。

 

そして京成本線の駅名は、その古道の地名にまんま重なるんですね。
これはすごい。

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日暮里で降りて京浜東北線で、上中里駅へ。
おお、80周年なのか。ここも節目なのですね。
豊島郡衙はこの近くにあります。



滝野川公園というところが、その豊島郡衙だそうです。
ここから、ちょっと北へ行った飛鳥山の博物館には郡衙を再現した展示もされているようです。

 

さきに平塚神社の方へ行ってみます。
階段を登ってみると、いきなり本堂。
しまった、また勝手口から入っちゃったか。

 

狛犬が、3匹目の子どもがいて、ちょっとめずらしい。
この神社には秩父平氏だった豊島氏の平塚城があったらしいです。
ご神体は、源義家・義綱・義光の三兄弟で、奥州平定の帰還で
豊島近義の居館にとどまり、鎧一式と11面観音像を下賜し、
豊島氏はそれを清浄な土地に埋めた。それが平塚のおこりなのだと。

 

その三兄弟の名前のある碑。
それにしても、この神社の鳥居は古いね。文化文政とか、普通に書いてありますし。

 

境内にあった石室神社。
豊島氏のあとに平塚城主になり、平塚明神を厚く祀った
蘓坂兵庫頭秀次(そすざか?)を祀っています。
この神社、普通に人間を祀るんだよなぁ。珍しい。

平塚城は文明10年(1478年)に太田道灌との戦いで落城したそうです。
他には、二つのお稲荷さんと、天神様が祀られていました。
天神様の方は、祭神が菅原道真と大国主になってたたんで、
もとは少名彦名なんじゃねーの?と思いました。

 

それにしても、境内のイチョウの並びがとても美しいです。
昭和8年に、上中里駅の誘致をした地元の人が植えた銀杏を、
駅改築で移植したものだそうです。
開業式典もこの平塚神社で行ったらしい。

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さいご。長かったですが、これで終わりです。
ここも、完全に公園として整備されているので、それらしい面影はありません。

   

しかし、滝野川公園の名にふさわしく、水の流れが豊かです。
地元の方のとてもよい、憩いの場になっているようで。



ふたたびの古地図。
ちょうど、この緑の崖線の下を、京浜東北線が添うように走っています。

今週のTBSラジオ「日曜天国」のゲストの方が、古地図マニアでちょうど、
ここの荒川による崖線の話をしていったのですが、ここは京浜東北線に乗っていると
まるで要塞のような見事な崖が見れることで有名な場所でもあります。
武蔵野台地との高低差が6~7mはあり、川の水は滝のように流れていたため
このような名前になったのだろうと「東京人」に書いてあります。

 

それから、ここには農商務省による農業研究所があったようですね。

 

公園側から上中里駅へ向かう、崖下の道。飛鳥の道という名前がついています。
飛鳥時代の道、という訳ではなく、左へいけば王子・飛鳥山があるからです。
飛鳥山は、さきほどの豊島氏が飛鳥明神を祀ったため、その名前がついたようです。

本当は、この近くに旧古河財閥の庭園があるのですが、ちょっとタイムオーバーです。
駒場の六義園にもいってみたいし、それはまた今度にします。

拍手

   
三島広小路駅からすこし行くと、伊豆国分寺があります。
こちらの墓地の一角には、かつての国分寺塔跡の礎石が一部残されています。
聖武天皇の詔によって建立されたので、その碑が門前にありました。

 

今の国分寺は南大門のあたりにあたるのかな?
北側の多くの地は失われているようです。

   

寺塔跡。
全ての礎石の真ん中に穴があいていました。
ここに木の柱のでっぱりを組むのかな?
背後は住宅街になっているようです。発掘はできそうもないな。

 

国指定の碑は大正13年になってました。
やっぱり大正11年辺りに内務省が全国的な国分寺跡を調査したんじゃないかな?と思う。
理由はわからないけど。

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国分寺を出て、駅の反対側の三嶋大社(伊豆国の総社扱い)に向かいます。
途中、四ノ宮川というのに出会いました。
源流の楽寿園の小浜池に、伊豆国四の宮の広瀬神社があり、
それでこの名前がついたのだと書いてあります。
(ウィキだと四ノ宮川の上流にあるから広瀬神社が四の宮なのでは、という逆の論調でしたが)

 

三嶋大社に着きました。
あっ、神社の目の前の道路は旧東海道だ。
ということは、相模国総社の六所神社とは同じ道でつながっているのか!
これはおもしろい、共通点ですね。

 

神社をはいって直ぐの左には池があり、厳島神社がありました。
厳島というと宗像三女神(いちきしまひめ三姉妹)ですね。
三嶋の名前となにか関係があるのかな?と思ったら、勧請したのは北条政子らしい。

神池じたいは天長4年(827年)に干ばつに遭ったとき、朝廷が雨乞いをおこなって
成功したことが「類聚国史」にありと、書いてあります。
この池には昔鰻が住んでいて、鰻は三嶋明神の使いだから
三嶋大社の氏子は鰻を食べないという、伝承があるそうです。
京都の三嶋神社でも、うなぎの神様がまつられていたよな?

  

総門をはいってすぐに見えるのが、拝殿でなく、舞殿という・・・。
まあ、正方形の形のいい殿ですけど。こういうのみると格式高そうだなぁ、と思う。

拝殿はその奥(中の写真)。
案内板によると、普通は拝殿の方がおおきいのだけど、
三嶋神社は出雲大社に並び、本殿の大きさが国内最大級なのだという。
金色の金具がやけに目立って立派です。

   

三嶋大社の創建年代は不明です。
由来もネットでみたところちょっとあやふやです。こんなに格式高い神社なのに。

祭神は大山祇命(おおやまつみ)と、大国主の息子の事代主命(ことしろぬし)です。
大山祇命は山の神、事代主命は海の神です。

どっちが本当の祭神かというのが、ずっと論議されてて明治に事代主とした事もあったようですが、戦後は二神同座にしたようです。

三嶋大社は伊豆国一の宮でありながら総社でもあります。
この時点で「は?」という気もしないではないですが、国分寺も近くにあるし、
ここに国府があって、そのなかに総社が祀られてたという事には疑問はありません。

ただ三嶋大社は遷座をしていて、もともとここにあった神社ではないらしい。
三嶋(御島)の名の通り、三嶋明神の本拠地は三宅島にあり、
海底火山噴火で造島のたびに神階が累進、伊豆諸島を妻としていたのを
平安時代中期に国府のある場所に新宮を建てて遷ってきたという。

その際、元からいた若宮八幡宮を押しのけたという伝承があるのです。
ということは、最初はその若宮八幡が総社だったんじゃないのか?←

遷座に際して、三嶋明神は若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言って、
若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三嶋明神は藁の束を解いて一本の長い輪にし
若宮八幡の広大な敷地を囲ってしまったという。
だから若宮八幡は境外摂社に祭られ、唯一、三嶋大社に対して背を向けている。

その時の 若宮八幡「」 という顔が浮かびます…。;´▽`)
八幡様っていつもは、他の神様の場所を取り上げちゃったり、
武神だけにそういう強引なイメージありますけど、ここでは逆ですね。

三嶋大社は延喜式にも載り、しかも明神大社という高い格式の古社ですが
その時代の三嶋大社は海路を守る、島の神という位置づけでの
一の宮だったんじゃ無いでしょうか。

しかし遷座以降は、平安末期の文治3年(1187年)以来800年の間に
26回造営されたといわれ、最終的に安政の大地震でも倒壊して、
安政5年から慶応2年にかけて復興されました。
富士山(東海地震)の影響をもろに受けてるんですね。
ここに遷ってきたことで富士山鎮撫の役目もあるという。

まあ、そんな経緯をみてると、海の神と山の神が両方祀られているのも頷ける気もする。
北条政子の時代は、まだ海の神・航海安全の神としての神格が残ってたのかも知れません。
だから宗像女神とも親和性が?

飛鳥奈良の頃は、天智天皇により古代道路が建設されるまでは
海路が主流で、三宅島や大島なんかの役割が大きかったんでしょうが、
官道が完成してからは、天気の影響を受けやすい海路よりは、
東海道の陸路の方が、租税を安定的に運び、伝令を速やかに伝達できるので
重要視されるようになった、三嶋大社遷座はその結果かもしれませんね。

 

そんな、安政の大地震の時に功労のあった矢田部盛治氏の像が境内の目立つ場所にありました。
社主矢田部伊織の養子にはいり、倒壊後の社殿の造営や社領の開墾などにつくし、
戊辰戦争では伊豆伊吹隊を結成して新政府軍の進行に協力した人らしいです。
まあ、旧東海道が目の前だしね。

 

境内のはしっこに見目神社(みるめ)という小さな祠がありました。
妃神6柱ということは、もしかして伊豆諸島の奥さんをつれてきた?
なんか、旦那を監視する6人の妻の目、みたいでちょっと怖いです・・・。
ちなみに事代主命の方の妃です。



そのほかにも、なにか5柱をこまごまとまとめているようでした。
が、説明板がない・・・。

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そして、個人的にめあてだった伊豆魂神社(いづたまじんじゃ)

大國魂神社とおなじく、魂を「たま」と読ませています。
ただ、こちらは戦没者を祀るかなり新しい神社で、
社殿もちょっと異例のコンクリート造りです。

こちらの国府一覧(http://komatsu0513.heteml.jp/kokuhulist.html)によると、
総社のなかで「くにたま」を冠している神社は大國魂神社以外には
尾張国・大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮)と
遠江国・淡海国玉神社(静岡県磐田市見附 )がありますが
どちらも字が魂ではないんですね。

なので魂と書いて「たま」と読ませる例があった!と思ったんですけど…。戦後じゃなぁ。

ちなみに遠江国の淡海国玉神社は大國魂神社とおなじく、大国魂神が大国主になってますけど
尾張の大国霊神社の方は一時混同が起きたものの、昭和になってちゃんと
大歳神の子の大国魂神として祀るようにしたようです。

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境内の中ではなぜか鹿も飼ってました。

 

一通りみたので、大社を後にし三島駅の方へむかいます。
出口にあったケヤキ?がまた高い!根っこがえらいことになってました。
総社って、だいたいケヤキの古木があることが目印らしいですね。

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西側の出入り口付近にある祓所神社。
本来はここでお参りして穢れを落としてから、本殿にお参りするのかもしれぬ・・・。
出雲大社がそうですし。

瀬織津媛(せおりつひめ)をはじめ女神が多いな。
桜川と関わりが深いよう。

   

神社を出て西側の道を北西に向かいます。
脇に用水路が流れていて、これが桜川なのかな?
各戸の入り口になる石橋のしたで、鴨が休んでました。



反対側の道の脇には、なんか、文化人の言葉が刻まれた碑が、等間隔で建っています。
これは司馬遼太郎先生。

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桜川の上流には「く」の字に曲がった場所があり、
その上に観音堂が立ってました。なかなかすごい立地で見ほれちゃいます。

この水のながれの先には、源流である白滝公園があります。

 

案内板によると、この桜川は三ヶ所用水ともいわれ、旧三嶋宿と錦田村字中、中郷村字中島へ農業用水として利用されていたそうです。
横浜ゴム附近で複雑に分水され、ってことは、横浜ゴムが下流にあるのか?!Σ(゚ロ゜;

もうひとつ、平井源太郎というひとの案内板で、
韮山代官坦庵が農兵隊の行進訓練のときに謳わせていた「ノーエ節」のことが!!!!

彼のお影で「三島といえば農兵節」というくらい、有名になったそうです。
明治になってそんな流行歌になっていたとは・・・。

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白瀧観音堂を抜けると、交差点に出ます。
右へいくと、もう三島駅ですが、そのまえに寄り道。

交差点の向こう側に見えている碑があります。
伊豆国ニの宮・浅間神社の碑です。

   

このニの宮にも、なんだか色々あって、もともとは三の宮だったのが
二の宮である八幡宮が三嶋大社の中に移されて、繰り上げで二の宮になったそうで。
(もしかして、あの五連になってた社の右はじっこにいた八幡宮がそれなのかな・・・)
現在三の宮である楊原神社も繰り上げで今の地位にいるらしい。
じゃあ四の宮・広瀬神社は五の宮だったのか?そうすると四ノ宮川の由来がどうなるんだ。

三の宮・楊原神社も、もともと沼津にあったのが、徳川家光上洛の際、
三島御殿造営にあわせて現在位置(三島田町駅北側)に移されたらしい。
三嶋神社の周囲にやたら二~四の宮が集中しているのは、
もしかして徳川時代の交通制度のせい?


もう、伊豆国さぁ・・・。
三嶋大社の影響にされされすぎ。

二の宮も由緒は古そうなのに、随分こぢんまりとした扱い受けてるなぁ・・・。

さて夏休みもおわり、明日(9/5)から会社なので、そうそうに帰ります。

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反 射 炉 です。キターーーーーァ!

てか、まあ、反射炉ってなんぞやってレベルで来ちゃったんですけど。
江川代官です。韮山です。西伊豆です。

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こちらが伊豆韮山代官。江川太郎左衛門英龍こと坦庵です。
千年近い歴史を持つ名家の江川家、徳川時代は徳川の天領の代官でした。
その管轄は伊豆から相模、武蔵、駿河、甲斐と時代によってその範囲は変わりますがとにかく広範囲です。本拠地はここ伊豆の韮山ですが、ここから多摩の西の大部分の辺りまでを監視下に置いていたというのは驚くべき事です。しかも少数精鋭で。
ていうか、私の住んでるテリトリーをまるごと抱えてるんで、正直たまげましたよ。
多摩って、伊豆とこんなにもつながってたんだ?!て

いやね、開架図書のなかでもイカしたタイトルが気になって手にした
「未完の多摩共和国~新選組と民権の郷~」(佐藤文明/凱風社 /2005)で
もろめちゃカッコよく描かれていたんで、すっかり惚れてしまったんですよ。

幕末史のなかで贔屓の人物って、いままでいなかったんですけど、
坦庵代官ならもう「尊敬する政治家」にあげてもいい! 
・・・池波正太郎先生がご存命なら、ぜひ書いて欲しかった。

長谷川平蔵なみのカリスマぶり、そして周辺にいる手代の柏木さん、
日野本宿の佐藤彦五郎に佐藤芳三郎の年若き名主たち、
そしてその手先となってはたらく岡っ引きの八五郎なんて、
佐嶋忠介さんや大滝の五郎蔵親分や彦十さんみたいじゃないですかー。
いやー!もーたぎるわーーー!!

著者の佐藤さんは上佐藤(日野には代々・上佐藤家と下佐藤家という家の造りも規模もそっくりな二つの家があって、名主業などを交代してやってた。幕末に日野の本宿となっていた下佐藤の屋敷はまだそこに遺ってる)の末裔らしくて、多摩の歴史をよく研究されている。
しかも視点が反体制派の多摩擁護派なんで、幕末の多摩の立場をよく汲んでくれる。
多摩民としては読んでてとても気持ちいいカタルシスがあります(ただ中立な視点とはいいがたい)

中世史もすこしカバーしてくれているので、近代以前の多摩史に全然手をつっこんでなかった自分にはとてもありがたい指南書となりました。
啓文堂で注文したら1週間で届いたので、まだ出版元には在庫あるみたいですよ。

 

そして、こちらが韮山反射炉の当時の敷地図。
反射炉ってのは、なんだか怖そうな響きですが、ようするに耐火煉瓦を利用して
窯内の温度を反射させて効率よく高温にし、鉄の溶解をする炉のことなんですね。
資料館ないで上映しているCGのVTRがとてもわかりやすく説明してくれました。

   


窯の奥で炭を燃やし、温度が上がった所で石炭を投入してさらに温度を増し
その手前に置いた銑鉄を溶かして、傾斜を利用して鋳型へと溶液を流し込んで
大砲をつくる、とこういう施設です。

つくった大砲の鋳鉄はまだ大きな棒であり、これに水車の回転力を利用して
何ヶ月も掛けて穴を掘り進めて行き、筒にするんだそうです。
右上のはその水力に利用された古川です。

   

耐火煉瓦は伊豆の河津で作った特別製で、他の煉瓦と混じらないように「○」印をつけたそうです。

維新後は荒れるに任せていたそうですが、明治40年代になって陸軍が補修を行ったそうです。
右のは、そのときのものかな?
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反射炉から数㎞離れたところに、江川の代官邸ものこっているので、歩いてそちらへ向かいます。
途中、大きな池のある公園に出ました。
左へ行くと、韮山城跡があるらしいです。
ということは、これは韮山城のお堀の意味もあるのかな。
この規模だと、この辺りの水田用の水甕も兼ねていそうですが。

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江川代官邸。
い~や~!まだ残ってくれてて、うれしい!!
ここで坦庵代官が執務を行っていたのかと思うと・・・!(鼻血)
篤姫や仁-JIN-のロケ地にもなったみたいで、写真がべたべたありました。
受付のおじさんが、真ん中に写ってるの、俺なんだよと嬉しそうにいってました。

     

玄関の前にはきささげ(豆)の木が前に張り出していました。
これがここの大きな特徴といえば、特徴かな。
北条早雲が植えたという伝承のある木なので、むやみに切れないのだろう。
北条早雲は後北条氏の始祖だそうで、桓武平氏の一つの伊勢氏らしい。
鎌倉執権の北条氏とは関係ないことから、後北条とか小田原北条氏とわざわざいわれる。
江川家が戦国時代に仕えたおうちです。

江川家の始祖は源満仲の次男・宇野頼親で清和源氏だそうです。
6代・宇野七郎親治の代に崇徳院側として保元の乱に参加し敗北。
9代・宇野太郎親信の代のときに従者13人と伊豆国八牧郷に入り、源頼朝に従う。
10代・宇野太郎治信の時に戦功あり、江川荘を賜る。
15代・宇野英親のとき伊東に流罪となった日蓮聖人を招きその教義に信心する。
21代・英信のときに江川姓を名乗る。
23代・英佳のとき、北条早雲伊豆進出で幕僚となる。
27代・英吉のとき、豊臣秀吉の小田原攻めから韮山城を守る。
28代・英長のとき、徳川家康配下となり韮山城開城、慶長元年代官となる。
36代・英龍(坦庵)
38代・英武、韮山県知事となり、その後渡米して土木学を修養、丹那トンネルを献策。
40代・英晴、東芝副社長。
42代・洋、都内建築事務所勤務、一等建築士。

と、なんと現在もその家系は継続中です。
下手な戦国武将よりよっぽど息が長いぞー。

 

1160年代に建造され、以後増改築を経て現在に至る。
日蓮上人が書いたとされる護符が梁の上に貼られ火災にも遭わなかったので、
明暦の大火の時に、徳川に家の棟木を献上したこともあるらしい。

  

洋式兵糧の研究のため設けられたパン窯。
おもいっきり、家内の台所ですけども。本来はもうちょっと大きかったみたい。

韮山反射炉のお土産屋さんでは、復元されたパンも売られています。
パンていうか乾パンなので、固いですが、形はおまんじゅうみたいです。

庭には全国パン協議会と静岡県パン協同組合による碑がありました。
前衛的なかたちしてます。

庭に並び立つ倉の中には、大砲の模型とか、火薬の原料である硝石・硫黄・松脂や、
反射炉で出た鉄の鉱滓、品川台場の見取り図なんかが展示されてました。

台場は12個建造される計画だったものの半分しかできませんでしが、
それぞれの形を見ると、菱形だったり扇形みたいだったりほぼ三角形な5角形だったりと
かなりバラバラで用途も違うみたいですね。

松杭を多摩の鑓水から切り出したことは前に書きましたが、
「多摩のあゆみNo.137」を読んでいたら、その時の鑓水名主から幕府の役人へ請求書というか
嘆願書みたいのが載っていて、かなり重労働だったみたいです。

鑓水村には幕府の御森林があって、嘉永7年の6月と7月に品川台場建設のための切り出し命令がでて
6月に3967本、7月に660本を納入していますが、これは命令の4分の1程度だそうです。
足りなかった分は他から調達したのでしょう。
「地図と楽しむ東京歴史散歩 地形篇」には台場の芝の調達先まで書いてありましたが。
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韮山塾の風景。
当時の韮山塾は大変人気で、高島秋帆流の砲術を納めた坦庵の元には、色々な人が学びに来ました。
その中には福澤諭吉とか、井上馨などもいたそうで、
福澤さんなんかは坦庵の質素倹約な生活態度を真似して挫折した経験があるそうです。
江川家の江戸屋敷は慶應義塾に払い下げられたりもしたみたい。

江川邸は重要文化財ながら、個人の管理によって維持されていて、なかなか大変みたいです。

   

江川邸から帰る道すがらにあった路上碑。

坦庵の最期。過労死だったらしいけど、具合が急変していることから毒殺だったんではないか、
と本では言われてました。
あと「江川大明神の幟」
これは幕末に内戦で兵糧の確保から米価が値上がりして、困窮した山梨の民が買い占めを行った米問屋を打ち毀しながら東上するという一揆騒動にたいして、坦庵が多摩の農兵隊を指揮して多摩川際でこれの南下をくいとめた事から、江川代官領が山梨にも拡大し、そこで世直し大明神として坦庵が信仰されている様を象徴する旗です。
いやもう、この辺りの綱捌きが見事というか、まあカッコイイです。燃えます。
多摩の農兵隊は坦庵が伊豆の海防の為に農民に刀を持たせて兵士にするという献策から生まれたもので、崩壊した幕府の治安維持をかわって自治体が行うようになった成功例です。
天然離心流の流行もこの辺に一役かってます。

ここでできあがった素地が、明治にいたって自由民権の神奈川自由党なんかに受け継がれて行くわけですね。

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ついでに坦庵の個人年表

享和元年(1801年)5月13日、英毅の次男として韮山に生まれる
文化10年(1813年)5月韮山代官江戸役所の事務見習いとなる(13歳)
文政4年(1821年)6月25日兄・英虎が没す、11月江川家嫡子となる
天保5年(1834年)3月父・英毅が没す
天保6年(1835年)5月4日家督相続で代官に就任、太郎左衛門を襲名
天保8年(1837年)3月甲州に民情視察、9月渡辺崋山と体面
天保10年(1839年)1~3月江戸湾巡見、5月伊豆国警備策を建議
天保12年(1841年)4月10日砲術家・高島秋帆に入門
         5月9日徳丸原(板橋区)砲術演習に参加
         7月高島秋帆より砲術伝授を受ける
天保13年(1842年)4月2日手代・柏木総蔵に製パン技術を習得させる
         9月砲術師範許可、佐久間象山、川路聖謨が入門
天保14年(1843年)5月18日鉄砲方兼帯を命ぜられる、9月水野忠邦老中罷免
嘉永2年(1849年)閏4月英国艦マリナー号来航、退帆交渉に成功
嘉永3年(1850年)5月農兵制度採用を建議、6月支配地域にて種痘を実施
嘉永6年(1853年)4月下田警備を命ぜられる、6月勘定吟味役格に任じられる
         6月20日江戸湾巡見、7月品川台場建造の命を受け工事起工
         8月海防掛を命ぜられる、12月下田反射炉建造の命を受ける
安政元年(1854年)1月ペリー再来航、3月日米和親条約を締結(下田・函館開港)
         4月品川第1・2・3番台場竣工、10月反射炉を下田から移転
         11月安政の大地震、ロシア船ディアナ号座礁、被害地域の見聞、
           ディアナ号船員救助と戸田への移送を命じる、
           第5・6番台場と御殿山下砲台竣工
安政2年(1855年)1月16日江戸屋敷にて死去
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