たまろぐ 伊豆国分寺と三嶋大社 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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三島広小路駅からすこし行くと、伊豆国分寺があります。
こちらの墓地の一角には、かつての国分寺塔跡の礎石が一部残されています。
聖武天皇の詔によって建立されたので、その碑が門前にありました。

 

今の国分寺は南大門のあたりにあたるのかな?
北側の多くの地は失われているようです。

   

寺塔跡。
全ての礎石の真ん中に穴があいていました。
ここに木の柱のでっぱりを組むのかな?
背後は住宅街になっているようです。発掘はできそうもないな。

 

国指定の碑は大正13年になってました。
やっぱり大正11年辺りに内務省が全国的な国分寺跡を調査したんじゃないかな?と思う。
理由はわからないけど。

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国分寺を出て、駅の反対側の三嶋大社(伊豆国の総社扱い)に向かいます。
途中、四ノ宮川というのに出会いました。
源流の楽寿園の小浜池に、伊豆国四の宮の広瀬神社があり、
それでこの名前がついたのだと書いてあります。
(ウィキだと四ノ宮川の上流にあるから広瀬神社が四の宮なのでは、という逆の論調でしたが)

 

三嶋大社に着きました。
あっ、神社の目の前の道路は旧東海道だ。
ということは、相模国総社の六所神社とは同じ道でつながっているのか!
これはおもしろい、共通点ですね。

 

神社をはいって直ぐの左には池があり、厳島神社がありました。
厳島というと宗像三女神(いちきしまひめ三姉妹)ですね。
三嶋の名前となにか関係があるのかな?と思ったら、勧請したのは北条政子らしい。

神池じたいは天長4年(827年)に干ばつに遭ったとき、朝廷が雨乞いをおこなって
成功したことが「類聚国史」にありと、書いてあります。
この池には昔鰻が住んでいて、鰻は三嶋明神の使いだから
三嶋大社の氏子は鰻を食べないという、伝承があるそうです。
京都の三嶋神社でも、うなぎの神様がまつられていたよな?

  

総門をはいってすぐに見えるのが、拝殿でなく、舞殿という・・・。
まあ、正方形の形のいい殿ですけど。こういうのみると格式高そうだなぁ、と思う。

拝殿はその奥(中の写真)。
案内板によると、普通は拝殿の方がおおきいのだけど、
三嶋神社は出雲大社に並び、本殿の大きさが国内最大級なのだという。
金色の金具がやけに目立って立派です。

   

三嶋大社の創建年代は不明です。
由来もネットでみたところちょっとあやふやです。こんなに格式高い神社なのに。

祭神は大山祇命(おおやまつみ)と、大国主の息子の事代主命(ことしろぬし)です。
大山祇命は山の神、事代主命は海の神です。

どっちが本当の祭神かというのが、ずっと論議されてて明治に事代主とした事もあったようですが、戦後は二神同座にしたようです。

三嶋大社は伊豆国一の宮でありながら総社でもあります。
この時点で「は?」という気もしないではないですが、国分寺も近くにあるし、
ここに国府があって、そのなかに総社が祀られてたという事には疑問はありません。

ただ三嶋大社は遷座をしていて、もともとここにあった神社ではないらしい。
三嶋(御島)の名の通り、三嶋明神の本拠地は三宅島にあり、
海底火山噴火で造島のたびに神階が累進、伊豆諸島を妻としていたのを
平安時代中期に国府のある場所に新宮を建てて遷ってきたという。

その際、元からいた若宮八幡宮を押しのけたという伝承があるのです。
ということは、最初はその若宮八幡が総社だったんじゃないのか?←

遷座に際して、三嶋明神は若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言って、
若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三嶋明神は藁の束を解いて一本の長い輪にし
若宮八幡の広大な敷地を囲ってしまったという。
だから若宮八幡は境外摂社に祭られ、唯一、三嶋大社に対して背を向けている。

その時の 若宮八幡「」 という顔が浮かびます…。;´▽`)
八幡様っていつもは、他の神様の場所を取り上げちゃったり、
武神だけにそういう強引なイメージありますけど、ここでは逆ですね。

三嶋大社は延喜式にも載り、しかも明神大社という高い格式の古社ですが
その時代の三嶋大社は海路を守る、島の神という位置づけでの
一の宮だったんじゃ無いでしょうか。

しかし遷座以降は、平安末期の文治3年(1187年)以来800年の間に
26回造営されたといわれ、最終的に安政の大地震でも倒壊して、
安政5年から慶応2年にかけて復興されました。
富士山(東海地震)の影響をもろに受けてるんですね。
ここに遷ってきたことで富士山鎮撫の役目もあるという。

まあ、そんな経緯をみてると、海の神と山の神が両方祀られているのも頷ける気もする。
北条政子の時代は、まだ海の神・航海安全の神としての神格が残ってたのかも知れません。
だから宗像女神とも親和性が?

飛鳥奈良の頃は、天智天皇により古代道路が建設されるまでは
海路が主流で、三宅島や大島なんかの役割が大きかったんでしょうが、
官道が完成してからは、天気の影響を受けやすい海路よりは、
東海道の陸路の方が、租税を安定的に運び、伝令を速やかに伝達できるので
重要視されるようになった、三嶋大社遷座はその結果かもしれませんね。

 

そんな、安政の大地震の時に功労のあった矢田部盛治氏の像が境内の目立つ場所にありました。
社主矢田部伊織の養子にはいり、倒壊後の社殿の造営や社領の開墾などにつくし、
戊辰戦争では伊豆伊吹隊を結成して新政府軍の進行に協力した人らしいです。
まあ、旧東海道が目の前だしね。

 

境内のはしっこに見目神社(みるめ)という小さな祠がありました。
妃神6柱ということは、もしかして伊豆諸島の奥さんをつれてきた?
なんか、旦那を監視する6人の妻の目、みたいでちょっと怖いです・・・。
ちなみに事代主命の方の妃です。



そのほかにも、なにか5柱をこまごまとまとめているようでした。
が、説明板がない・・・。

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そして、個人的にめあてだった伊豆魂神社(いづたまじんじゃ)

大國魂神社とおなじく、魂を「たま」と読ませています。
ただ、こちらは戦没者を祀るかなり新しい神社で、
社殿もちょっと異例のコンクリート造りです。

こちらの国府一覧(http://komatsu0513.heteml.jp/kokuhulist.html)によると、
総社のなかで「くにたま」を冠している神社は大國魂神社以外には
尾張国・大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮)と
遠江国・淡海国玉神社(静岡県磐田市見附 )がありますが
どちらも字が魂ではないんですね。

なので魂と書いて「たま」と読ませる例があった!と思ったんですけど…。戦後じゃなぁ。

ちなみに遠江国の淡海国玉神社は大國魂神社とおなじく、大国魂神が大国主になってますけど
尾張の大国霊神社の方は一時混同が起きたものの、昭和になってちゃんと
大歳神の子の大国魂神として祀るようにしたようです。

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境内の中ではなぜか鹿も飼ってました。

 

一通りみたので、大社を後にし三島駅の方へむかいます。
出口にあったケヤキ?がまた高い!根っこがえらいことになってました。
総社って、だいたいケヤキの古木があることが目印らしいですね。

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西側の出入り口付近にある祓所神社。
本来はここでお参りして穢れを落としてから、本殿にお参りするのかもしれぬ・・・。
出雲大社がそうですし。

瀬織津媛(せおりつひめ)をはじめ女神が多いな。
桜川と関わりが深いよう。

   

神社を出て西側の道を北西に向かいます。
脇に用水路が流れていて、これが桜川なのかな?
各戸の入り口になる石橋のしたで、鴨が休んでました。



反対側の道の脇には、なんか、文化人の言葉が刻まれた碑が、等間隔で建っています。
これは司馬遼太郎先生。

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桜川の上流には「く」の字に曲がった場所があり、
その上に観音堂が立ってました。なかなかすごい立地で見ほれちゃいます。

この水のながれの先には、源流である白滝公園があります。

 

案内板によると、この桜川は三ヶ所用水ともいわれ、旧三嶋宿と錦田村字中、中郷村字中島へ農業用水として利用されていたそうです。
横浜ゴム附近で複雑に分水され、ってことは、横浜ゴムが下流にあるのか?!Σ(゚ロ゜;

もうひとつ、平井源太郎というひとの案内板で、
韮山代官坦庵が農兵隊の行進訓練のときに謳わせていた「ノーエ節」のことが!!!!

彼のお影で「三島といえば農兵節」というくらい、有名になったそうです。
明治になってそんな流行歌になっていたとは・・・。

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白瀧観音堂を抜けると、交差点に出ます。
右へいくと、もう三島駅ですが、そのまえに寄り道。

交差点の向こう側に見えている碑があります。
伊豆国ニの宮・浅間神社の碑です。

   

このニの宮にも、なんだか色々あって、もともとは三の宮だったのが
二の宮である八幡宮が三嶋大社の中に移されて、繰り上げで二の宮になったそうで。
(もしかして、あの五連になってた社の右はじっこにいた八幡宮がそれなのかな・・・)
現在三の宮である楊原神社も繰り上げで今の地位にいるらしい。
じゃあ四の宮・広瀬神社は五の宮だったのか?そうすると四ノ宮川の由来がどうなるんだ。

三の宮・楊原神社も、もともと沼津にあったのが、徳川家光上洛の際、
三島御殿造営にあわせて現在位置(三島田町駅北側)に移されたらしい。
三嶋神社の周囲にやたら二~四の宮が集中しているのは、
もしかして徳川時代の交通制度のせい?


もう、伊豆国さぁ・・・。
三嶋大社の影響にされされすぎ。

二の宮も由緒は古そうなのに、随分こぢんまりとした扱い受けてるなぁ・・・。

さて夏休みもおわり、明日(9/5)から会社なので、そうそうに帰ります。

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