たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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京王の資本に創立初期からかかわり、昭和12年に大日本電力の穴水系に
とってかわられるまで重役として関わり、最後は社長にまでなった
大正生命の金光庸夫さんですが、昭和15年に保険に関するこんな
新聞記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)
日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社
(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき
交渉中のところこの程譲渡価格約七百万円(会社株式、
所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会に
おいて考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される
形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが実質的には
協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の
保険運営を立体とする今後の活動は組合自体の新発展段階を
指示するものとして大いに注視されるとともに保険業界に与へる
波紋も極めて重大なるものがある、しかして問題の突破に
驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の
本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
【写真上から有馬伯、金光氏】
他同日別面掲載
「産組・保険進出の波紋 組合保険の経営と役職員共済制確立 産組の狙ひ一石二鳥」
「農林(事務)は猛反対 手続無し・随所に疑義」
「契約者保護に立脚 運営の実際を注目 全貌判明を待つ商工省」
「産組の保険経営に農林省近く態度決定 有馬会頭の決意強硬」昭和十五年二月十九日(月曜日)国民新聞
産業組合の保険会社買収問題は今や重大なる政治問題となって
議会の後半期に臨み複雑なる波紋を投ぜんとしている
問題の目標とされる点は
一、産組は事前に監督官庁たる農林省の諒解なく
一般的に不当と思われる高額の評価を以て保険会社を買収した、
この取引の間には有馬頼寧伯と金光庸夫氏との間に政治的談合が
行われた疑いがある
二、産組は保険会社を買収し組合員のみならず一般人の加入をも認める
方法をとるというが、これは産組本来の使命を逸脱したものである
という二点に集中され、民政党では政務調査会に於いて
その真相を徹底的に調査せんとしているし、
政友会久原派でも十七日この問題に対する特別調査委員会を設置して
産組を糺明することとなった、
これに対し農林省では十七日午後三時本省に
佐藤産組中央会副会頭を招致し、周東経済更生部長、黒河内産組課長より
この問題の経過につき聴取すると共に産組中央会より提出した経過報告書を
中心に協議を行ったが、
更に産組中央会頭たる有馬頼寧伯は十八日午前十一時農相官邸に於いて
島田農相と会見し、産組側の決意を披瀝して諒解を求むる筈で
この結果に基き両三日中に農林当局は同問題に対する
態度を明かにするものと見られる、
而して有馬伯並に産組側の態度は極めて強硬で、
産組共済会による保険会社買収を以て直ちに組合法規違反となす法的根拠は
薄弱で農林当局が同計画の中止を命令するが如きは不当抑圧であるとし、
万一農林当局が中止を命令するが如き事態に立到れば有馬伯としては
貴族院に於いて自己の見解態度を闡明し反産陣営及び一切の政治的策動に対し
反駁を加える決意を固めている、
従って農林省としても簡単に中止命令を発することの出来ぬ事情もあり、
島田農相がこれに対し如何なる裁断を下すかは
最も注目されるところとなっている
【写真上は島田農相…下は有馬伯】
有馬頼寧さんというと、競馬の有馬記念で名前が残っている方で
競馬に多大な尽力をした方のようですが、農林省官僚でもあり
産組=農林産業組合の保険制定にも並々ならぬ意欲をみせていたため
このような大正生命の金光庸夫さんとの癒着を疑われる羽目になった
ものと思われます。
金光さんというと、先にも書いたとおり、昭和12年頃から鉄道業と
手を切り始めていて、そのことが玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に
屈服するきっかけともなっていたりして中々油断できないお方なのです。
上の記事から察するに、自分の基盤事業たる保険業すら国に売ろうとして
いたようなので、なんらかの個人的な変化というか事情があったと
察せされるのですが、その辺はまだよくわかっていません。
一方の、有馬さんですが、御厨貴さんの「近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)」を借りたときに、たまたま有馬日記の事を知りまして、
これがわりと毎日マメに、しかも正直な気持ちを書いてらっしゃるという評価で、
これは使えそうだな、と昭和13年~昭和15年を収録している「有馬頼寧日記4」(山川出版社/2001年)をちょっと借りてみました。
以下は、その産業組合保険と金光さんに関わりのありそうな日記のメモの
抜き書きです。ちょこちょこ自前のコメントもはさんでいます。
(昭和13年)
4月27日午前十時枢密院会議に出席。帰途、日本青年館の産業組合大会に出席。
5月16日午後1時半、官邸に行き岡田喜久治君に面会。4時過ぎ、家に帰る。厚生部長見えて産業青年隊の話をする。未だ案が熟さぬ。青年団と産青連を一所にした様なものが作りたい。
7月9日官邸にて産青連の森、横尾両氏に面会、新国民運動の件につき愚見を述べ、続いて大阪朝日に記者来訪。事変下の農林対策につき三十分程話し、…
7月14日午後9時より官邸に於て経済部長会議あり。今日は各県の部長より中々元気のある質問や意見の開陳あり、中には商工省の態度に比し農林省が消極的だとの意見さへあり。商相が強いからといふて急に強くなる官僚気質、一寸苦笑ものだ。
7月21日神経痛は未だ未だ治らぬが11時半頃出勤。「産業組合中央会館」の額を書く。
8月18日12時に日本クラブに行く。工政会、日本技術協会、七省技術協議会の連合会に出席。「産業技術連盟」の名称の下に連合することに意見一致。
9月26日今日青年団の大会あり。産青連はぼんやりしては駄目だ。
12月21日午前中競馬委員会あり。
12月22日今朝は10時迄ねてしまった。会議にも出席せず、藤山氏の葬儀にも参列しなかった。(19日に藤山雷太が死んだらしい)
12月25日今朝は大正天皇祭に参列する筈であったが、神経痛なので参列せず。
どうも神経病を患っていたらしく、そのため公務を休みがち。
のわりに後楽園や上井草へ行って、ちょくちょく野球の試合を観戦して
その感想や愚痴を書き込んでいる有馬さん。野球好きらしい。
一方、競馬の話はあんまりでてこないのは、ご時世柄かな?
小川功さんの論文によると、八王子市内を走っていた
武蔵中央電気鉄道も有馬頼寧さんが関わっていたらしいのですが
日記からはそれに関することはうかがえませんでした。
ただ、藤山雷太の葬式について触れられていることから、
武蔵中央を経営していた藤山雷太やその長男・藤山愛一郎と
何らかのつながりはあったかもしれません。
(昭和14年)
3月15日米の法案と軍馬の法案、少々厄介なり。競馬の問題で委員会停頓す。
3月19日本会議に出席。米穀案上程。大河内子の質問中に産業組合の首脳部に対する非難あり。それに、農相の答弁中に産業組合の政治進出に対する非難あり。聞き捨てならぬ事である。
4月17日午後2時読売新聞社に行き、中川男と二人して正力氏に面会。いろいろ苦心談をきき、戦時ニュースの映画を見、三時過ぎ辞去。(正力松太郎さんの名前が出てきました。この後も読売新聞記者に目的地まで送ってもらったりして、読売新聞とは仲が良さそうな場面が垣間見えます)
5月3日午前10時、青年館に行く。第34回産業組合全国大会に出席、千石君の開会の辞に於て相当思ひ切った事をいふ大変よかった。
7月18日午前9時中央会の新館に行く。始め中講堂で修祓式あり。それより屋上の産業組合神社の御遷座祭あり。(産業組合神社???笑)
8月28日今日安倍(部)信行大将組閣の大命を拝す。宇垣氏を出したかった様な気がする。世界情勢より見て、日本の内閣が何となく軽い感じがする。国民の意向といふものが少しも考慮されぬ様に思はれる。(oh…このころも安部内閣なのね、しかも執拗に字を間違ってる)
8月29日就任式あり。安倍(部)総理、小原内相、厚相、畑陸軍、吉田海軍、宮城司法、河原田文相、伍堂農兼商、永井逓兼鉄、金光拓である。金光氏以外はよい顔触れ。五相会議をやめる方針はよい。青木蔵兼企、もある。(やっと金光さんの名前でてきたとおもったら、のっけから否定的印象。このころ金光さんは政界に進出し、拓務大臣や厚生大臣をやっていたらしい。)
9月3日今日ラヂオで英国が宣戦布告をしたやうにいふ。ほんとうかしら。こんな事に今の内閣は心細い。なぜ宇垣内閣を作らなかったのか。津久井君の意見のやうに、内閣の創作者が変わらなければ駄目だ。
9月27日夕五時より鉄道ホテルに於て農相の招待会あり、席上千石、高草氏、河野氏よりまるで議会の質問の様な詰問があって、少々気の毒の様であった。四人で相談の結果顧問制は中止される様に私から話すことに相談した。農相の意図は壮とするが、無理である。(鉄道ホテルってなんだ?)
9月30日午後同盟の板垣氏見えていろいろ話していった。農相専任問題が描く新聞でとり上げられ、通信の中には我々に対する反感もみられる。若し農相専任といふことになり伍堂氏が何等かの決意をしたら、私も何とか決心をせねば義理が済まぬ様にも思はれる。
10月2日1時半中央会に行き、4時に農相官邸にて農相に面会。顧問の件は当分見合わせといふことにする。専任問題については農相も固執せぬ意向らしく思はれた。
10月3日午前10時より事務協議会あり、農林大臣と会見の模様につき報告。午後は新聞記者やらいろいろの人が来て夕方迄続き少々疲れた
11月21日今朝東金の木村来訪、保険の事を頼まれる。
11月3時に東京会館に行き協力会議の総会あり。郷さんが常任委員の氏名を読んだ時千石よ太郎といふ。かうした公開の席で誤られたのは千石君も初めてだらう。郷さんの方が余程与太だ。(郷誠之助さんだろうか・・・?)
12月1日今日は興亜奉公日なので朝出るつもりで居たが、起きられぬのでやめる。正午ときわやにて、藤山、千石、金沢、豊福と会合、保険会社の事につき相談。大体順調に進む。
12月2日保険会社の事は四、五日決定を延期することが出来た。(なんの保険の事だろう。問題のやつかな)
12月9日10時より首相官邸に中小産業調査会の総会あり。午後1時より商相官邸にて物価委員会小麦部会の小委員会、4時より部会あり。徳永部長と佐藤副部長のコンビで常務を無視するのは困ったものだ。
12月14日午後10時より首相官邸に於て中小産業調査会の総会あり。反産的質問意見出て、岡本組合の論文を問題にしたり、大人気なし。
12月19日4時半頃終り、ぶらぶら歩いていたら読売の記者にひろはれ中央会に戻る。産青連の連中来て、近く全国協議会を開き、地主に収める小作米を産業組合に入れて組合の土地管理の糸口をつけるといふ。賛成す。
12月21日賀川氏見え保険会社の事につき話あり。近藤日出造氏と話をし、6時喜かくに行く。
12月24日三浦、馬場両代議士来訪。豊福も来て義ちゃんの事や保険会社の件につき話す。
12月26日午後は中央会で五人の集りあり、西田、石井、藤田氏と相談。保険会社の件急速に進む。
12月27日午頃読売の記者に組合の話をし、西田、井口等と保険会社の件につき打ち合わせをし、午後2時首相官邸の懇談会に出席。
12月29日浜田氏より保険会社の件につき話をきく。
12月31日日の井上氏来訪、内閣もいよいよ駄目らしいとの事。困ったものだ。自分達の力の及ばぬ事ではあるが、日本の為めに誰か此難局を処理する人はいないのか。
過去も今も、政治のリーダーシップ不足は変わらないんですね。
ましてや、このころは満州事変から大東亜戦争へ突入しようという時期…。
たまたま時局が安倍(部)内閣ということもあって、他人事とは思えません。
こわっ
(昭和15年)
1月4日中央会、全購連、監査連合の合同祝賀会を開き、西田、浜田、井口、若林等と保険会社の件につき相談、進行することにする。
1月6日保険の事は9日過ぎになる。山本氏からいろいろ意見をきく。豊福が易を見てもらった話をきく。私も当選は困難な様な気がする。
1月7日午前中保険の事で皆が訪ねて来ていろいろ話したが、不明の点もあるがとにかく買ふ事にして話を進めることにした。
1月9日信連の人達と保険の事につき相談。
1月13日中央会に行く。千石、佐藤、石黒、那須、西田氏欠席。他の人達に保険の事につき話す。皆賛成され、安心した。
1月14日米内大将大命を拝し、組閣に入る。自分お前から望んで居た首相故愉快だが、どうかよい閣僚を揃へたいものだ。大蔵石渡、外務野村だけ発表。先づ無難か。小栗一雄氏の書記官長はよし。
1月15日組閣進行今夜中に決定す。両政党に大蔵、農林を、実業界の藤原氏を商工に入れた事は善意か悪意か(王子製紙のボスこと藤原銀次郎氏の名前が出てきました。このころ商工大臣だったのですね。)
1月17日保険の事未だ安心の域に達せぬ。過ちのなからん事を祈る。
1月20日夕六時より桑名に保険の事につき尽力してくれた人々を招き、西田、浜田にひきづられて雪村に行き、桑名に戻り十二時帰宅。
1月21日雨降らず、各地水少なくて困って居るらしく、電力も益々不足らしい。麦の生長も気づかはる。午前十時丸の内会館に行き、全国信連会長の協議会に出席。保険の問題幸に協賛を得、割当ても承認してくれた。無事に完了するを祈る。其後は全力を挙げ万難を排して進む覚悟である。どの様な目にあっても自分の為めでなく七百万組合員の為めなら少しもくゆる事はない。
1月22日石黒さんに保険の事を話す。断然止める筈であるがそれ迄進行したものなら致方なしとの事。周東部長来訪。次官に話してくれとの事。
1月23日午後出勤。三時より古野、千石、西田と四人にて話す。軍務局の石井中佐が公演中、産組の中に商人もやらぬ様な不正をやるものがあるといふたとか。どんな事か聞けばよいのに。
1月24日村山貯水池の水がかれるといふ。井戸にたよってゐるとかういふ時は安心だ。
1月25日今日は保険の会議があったけれど、又起きられなくて欠席した。取引所の会議も首相官邸にあったが、それも出なかった。保険の事は各地方とも絶対賛成らしい。主任官連中は何かいふて居るとか。
1月26日午後農林次官を訪問。次官は話がわかってくれ、いろいろ注意をしてくれる。夕銀ブラをして五時半鉄道クラブに行き、技術協会の総会に出席。
1月27日井口氏に面会。金光氏の不誠意につき話があった。
(やっとこ、金光さんの名前が出てきたと思ったら、また悪評。)
1月31日最近いやな気持ちがしてならぬ。不吉な事がなければよいと思ふ。今月は降雨量0といふレコードだ。電力、石炭問題重大。
2月1日電力もやはり天候に支配されるのかと思ふと、科学も結局は自然に勝てぬもの。大河内子の質問あまり感心せず。理研コンツェルンの大将と産業資本家藤原銀次郎商相の取り組みでは、是非もない。午後保険の事につき相談。夕帰宅。
2月2日午前十時登院。大河内輝耕子(爵)の質問、例により例の如く。よい点もあるが如何にも不真面目な感を与へる。有爵議員の存在価値を社会は如何に見るか。此様な態度で政府に参画して居ると言はれるのか。午後中央会に行く。更生部長来て、農林省より中央会頭宛警告文を出すとの事。反産を何故にそんなに恐れなければならぬのか。西田君とも相談、邁進する事にする。
2月4日山崎警保局長来訪。産業組合の取調べの事と、消費者結成の事について話す。富藤氏の事件を繞って政情混沌たるものあり。又名古屋方面工場に不穏なものがあるとの話。石炭問題につき、又鉄道省の協力を求めなかったとの事。困った事だ。
2月5日午後中金にて中農協の会合に出席。記者会の連中より保険の事を聞かれる。最早仕方なし、明日合同会見にて概要を話し、協定して掲載せぬ様に以来するつもり。産青連の人や中西君やに面会。保険の事は運を天に任せて腹をきめる。
2月6日夜板垣君より電話にて農林省のクラブも書かぬ事に話きまりし由。感謝す。
2月7日議会は休み、正午中央会に行く。新聞記者の連中は全部書かぬ事にしてくれたが、各社の経済部長が今日会合したとの事だから、或は書かれるかもしれぬ。問題になったら、腹をきめて闘ふつもり。已成政党、資本家、官僚、それに言論機関と闘ふのだから、一切を捨てる覚悟だ。時節柄思はぬ問題を引き起こすかもしれぬ。
2月8日三時中央会に行く。各社経済部長の会議も相当もめた由だが、一週間内に書くといふことに落ちついた由。其前に済ますことに運ぶつもり。
2月9日今日の衆院予算委員会に於て松村謙三氏保険の件につき質問す。止むなく各社共明日の新聞に発表することになる。
2月10日今日も議会を休んでしまった。今朝の新聞記事もあるので行くのがいやだった。夕六時星ヶ岡に行き、河野弁護士、安田読売経済部長、島田、宮部、豊福と会食。佐藤、井川両氏来て、保険問題につき相談をする。徳川氏強硬論の由。組合全体の動き注目。自分の声望を卜するによい機会だ。
2月11日四時より、徳川、佐藤、井川氏と相談、覚書の不備等につき明日の注意を聞く。此事件或は窮地に陥るやも知れず。覚悟はあるが、万事を用意する必要あり。
2月12日保険問題、今日東日が新説を書いただけ。それも如何にも資本家の味方の様で感心できぬ。佐治君から激励の手紙をもらう。
2月13日六時中央亭に行く。農村振興議員同盟の人々と会見、保険のことにつき了解を得。私の私案はどうやら工合がよいらしい。
2月15日中央会に行き、東日の藤岡経済部長来訪。軍事郵便機献納につき相談あり。農林省の形勢いろいろに変化す。民政党では調査会を設けて研究する由。
2月17日豊福の話によれば、農林当局は中止命令を出すとの事。石渡書記官長が荷見氏と打ち合わせたとの事。かくの如くして行くときは面目問題ともなり、引く(に)引かれぬ破目となるべし。農相は必ずしも反対ならず。黒木伯に進退の事につき相談した。
2月18日午前十時半に近衛邸に行き面会。産組保険問題に関連する私の去就につき話し、其他政治上の事につき話し、0時半農相を訪問。今迄の経過の報告をする。共済会の設立には異存なく、法人でなく任意組合の形式をとること、資金拠出の方法は個人とする案最上なりとの事故、其様に可成運ぶ旨を答ふ。二百万円の仮払仕末の案は尚研究を要すと思ふ。
2月19日正午中央会に行き、保険の事につき相談。いろいろの人が訪ねて来た。松村氏の質問につき板垣君より報告をきく。民政党の調査会の決定の中に私の行為が背任だといふものがある。私は法律を知らぬからどういう事になるかしらぬが、自分ではさうは思はぬが、苦しさうであって罪に問はれても少しも悔やむことはない。組合員や役職員の為めに図ったのだから。
2月20日保険問題、農林省の空気やや緩和す。
2月21日午前中在宅、正午嵯峨野に行き、国民新聞の木原、後藤、首藤の三氏に面会。いろいろ話し、保険問題については絶対賛成してくれるとの事。二時中央会に行き中農協の感じかい、連絡委員会にて話し、五時より中機産青連の人々に話しをす、それより豊福、西田、佐藤氏等と話す。成田氏来訪。金光氏との間に入り解消の話をしたいとの事。一応断る。千石氏は賛成したとの事、真意を疑ふ。石井氏より電話にて、延期の事金光氏は承諾せし由。
2月22日午前十時中金に行き、理事長以下同席、保険の事につき中金にて調査した結果を示し注意あり。要するに七百万円は高いといふことと、将来の経営困難なりとの理由により中止を可とする意見なり。それより常任委員会に出席。断行、非断行の両意見あり。結局明日の会合の結果により決定することとなる。
2月23日中央機関の共済会設立協議会あり、種々議論もあったが共済会設立の件は可決された。資金拠出の件も同様。
2月25日午後、石井、西田、奥氏等来訪、善後策につきいろいろ話す。私の案に大体賛成。夕方出る予定をやめて、夕食をとった後革新派の田辺幹事長来訪。島田、金光両氏と面会した事について話あり。私の案をもって島田氏に会ひに行かれた。豊福と三つ満に行き田辺市に面会。金光氏に明朝田辺氏が会へば、大体目鼻はつくかもしれぬ。
2月26日主査辞任の届出をする。研究会でも松村氏の話しを聞くとの議ある由。七時小磯拓相を訪問、懇談。金光氏に話をしてみるとの事。(このころ拓務大臣は小磯に移動している)二百万円返還、犠牲者出さぬ事、こちらより解約の申出なさぬ事を申出づ。農相も閣議では反対の意思を表明せる由。石黒氏、荷見氏と会見せしとの事。
2月27日五時官邸にて農相に面会。大河内子の質問に対し農相は中止の意思ある旨言明せし由新聞に出る。十一時帰宅。井上氏と話す。会頭も議員もやめたいと思ふ。
2月28日小磯拓相より電話あり、一時半拓相邸に行く。明二十九日午後六時小磯邸にて金光氏と会見、全部完了の事に決定。それより千石氏と金光氏と訪問して承諾を得、それより中央会に行き委員に告ぐ。一同愁眉を開く。先般の難問題解決、嬉し。今後大に奮闘するつもりである。
2月29日金光氏より電話にて、今日の取引は金光邸にて為したき旨希望あり。拓相に通じたるところそれにてもよしとの事。四時過金光邸にて取引全部完了。それにて全部白紙に還る。中央会に戻りて、新聞記者に発表。
3月1日午後は全国協議会あり。報告を感想を述べる。辞職反対の決議あり。意をひるがへして留任することにする。
松村謙三議員の質問というのが気になるところだけど、はじめ新聞に載っていたような、有馬さんと金光さんとの談合とか密談らしきものはとくに日記に記されていませんね。人を介して話を進めていたのか、その詳細についても触れられていません。そして、有馬さんの、金光さんに対する印象は、好適とはあまり言えない気が・・・。なんでそれで、金光さんと取引しようと思ったんだろうか。
しかもその情報の発信元である国民新聞の記者とも、記事の出た当日に会って賛成意を得ているし。各社の経済部長ともコンタクトをとって、記事を出すか出さないかの調整を行っているしで。裏側の事情は、紙面からはわからないものですね。
日記中に頻発する福富というのは、豊福保次のことですね。
有馬さんが衆議院議員になるのにも尽力し友達になったとか。
千石というのは千石興太郎でしょうね。
あと井川氏というのは井川忠雄かな?
有馬さん自身の概要については以下。
久留米藩主の子で、それゆえ有爵議員についてもこねこね云ってますが、
伯爵位を得て衆院から貴族院に入ったのかな。
※有馬頼寧 ( ありまよりやす )
1884年(明17)12月17日 東京都中央区日本橋蠣殻町(旧日本橋区)に生まれ。
父は久留米21万石の藩主頼万。東京帝国大学農科大学を卒業後、年有半欧米各国の農村を視察して
1911年(明44)帰国し,農商務省産業組合課に勤務して産業組合(産組)の指導に当たること6か年、辞して東京帝国大学農科大学講師ついで助教授として農政学を講じた。
1924年(大13)衆議院議員に当選し政友会に所属したが、この間信愛学院を創設し労働者の教育に当たり、早稲田大学の北沢新次郎らと日本教育者協会を組織し教育の機会均等を唱えた。
また同愛会を創立、部落の融和運動に尽くし、さらに鈴木文治らの農民組合運動に参加するなど社会の注目の的となった。
1927年(昭2)伯爵となり衆議院議員の議席を失う。
翌1928年,産業組合中央金庫(産組中金)の監事、さらに翌々年、産業組合中央会(産組中央会)の監事となり、とくに千石興太郎らと親交を結んだ。
1929年(昭4)貴族院議員に互選され、のち斎藤実内閣の農林政務次官となる。
1933年(昭8)産組中金理事長となり、翌々年、産組中央会会頭を兼任した。
この間産組の勢力伸長のために活動、また賀川豊彦が関東大震災後設立した学生消費組合(東大・早大・明大・拓大)の経営を援助した。
1937年(昭12)近衛文麿内閣の農林大臣となったが風見章らと図り、産業組合青年連盟を主体として、農村革新協議会を結成し国民組織再編成の一翼としようとした。
1939年(昭14)1月農林大臣を辞任し、ふたたび産組中央会会頭に就任した。
※彼はかねて産組の保険進出を企図していたが千石らとはかり産業組合役職員共済組合設立準備会を組織し、共済制度と保険会社の買収にのりだした。しかし当時熾烈をきわめた反産運動の勢力は議会および政府を動かし、ついに1940年(昭15)2月27日農林大臣島田俊雄の保険会社買収中止命令が発せられて産組の保険進出は挫折した。
しかし、なお保険進出は根強くすすめられ、ついに井川忠雄を社長とする共栄火災海上保険株式会社を設立する。戦争の拡大とともに近衛文麿は有馬らとはかり、大政翼賛会を結成する。
彼は産組中央会会頭と貴族院議員とを辞してその事務総長となったが、志を違い、その改組に際して職を辞した。
太平洋戦争の勃発に際しては賀川豊彦とともに未然に戦争防止すべく努力したが及ばず、
終戦とともに戦争犯罪容疑者として連合軍により巣鴨に収容されたが無罪となった。
晩年、日本中央競馬会の理事長となったが,常に協同組合の発展を念頭においていた。
随筆を得意とし、著作も多い。主著『農民離村の研究』『農村問題の知識』『七十年の回想』『農人形』など。1957年(昭32)1月9日没。
とってかわられるまで重役として関わり、最後は社長にまでなった
大正生命の金光庸夫さんですが、昭和15年に保険に関するこんな
新聞記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)
日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社
(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき
交渉中のところこの程譲渡価格約七百万円(会社株式、
所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会に
おいて考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される
形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが実質的には
協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の
保険運営を立体とする今後の活動は組合自体の新発展段階を
指示するものとして大いに注視されるとともに保険業界に与へる
波紋も極めて重大なるものがある、しかして問題の突破に
驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の
本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
【写真上から有馬伯、金光氏】
他同日別面掲載
「産組・保険進出の波紋 組合保険の経営と役職員共済制確立 産組の狙ひ一石二鳥」
「農林(事務)は猛反対 手続無し・随所に疑義」
「契約者保護に立脚 運営の実際を注目 全貌判明を待つ商工省」
「産組の保険経営に農林省近く態度決定 有馬会頭の決意強硬」昭和十五年二月十九日(月曜日)国民新聞
産業組合の保険会社買収問題は今や重大なる政治問題となって
議会の後半期に臨み複雑なる波紋を投ぜんとしている
問題の目標とされる点は
一、産組は事前に監督官庁たる農林省の諒解なく
一般的に不当と思われる高額の評価を以て保険会社を買収した、
この取引の間には有馬頼寧伯と金光庸夫氏との間に政治的談合が
行われた疑いがある
二、産組は保険会社を買収し組合員のみならず一般人の加入をも認める
方法をとるというが、これは産組本来の使命を逸脱したものである
という二点に集中され、民政党では政務調査会に於いて
その真相を徹底的に調査せんとしているし、
政友会久原派でも十七日この問題に対する特別調査委員会を設置して
産組を糺明することとなった、
これに対し農林省では十七日午後三時本省に
佐藤産組中央会副会頭を招致し、周東経済更生部長、黒河内産組課長より
この問題の経過につき聴取すると共に産組中央会より提出した経過報告書を
中心に協議を行ったが、
更に産組中央会頭たる有馬頼寧伯は十八日午前十一時農相官邸に於いて
島田農相と会見し、産組側の決意を披瀝して諒解を求むる筈で
この結果に基き両三日中に農林当局は同問題に対する
態度を明かにするものと見られる、
而して有馬伯並に産組側の態度は極めて強硬で、
産組共済会による保険会社買収を以て直ちに組合法規違反となす法的根拠は
薄弱で農林当局が同計画の中止を命令するが如きは不当抑圧であるとし、
万一農林当局が中止を命令するが如き事態に立到れば有馬伯としては
貴族院に於いて自己の見解態度を闡明し反産陣営及び一切の政治的策動に対し
反駁を加える決意を固めている、
従って農林省としても簡単に中止命令を発することの出来ぬ事情もあり、
島田農相がこれに対し如何なる裁断を下すかは
最も注目されるところとなっている
【写真上は島田農相…下は有馬伯】
有馬頼寧さんというと、競馬の有馬記念で名前が残っている方で
競馬に多大な尽力をした方のようですが、農林省官僚でもあり
産組=農林産業組合の保険制定にも並々ならぬ意欲をみせていたため
このような大正生命の金光庸夫さんとの癒着を疑われる羽目になった
ものと思われます。
金光さんというと、先にも書いたとおり、昭和12年頃から鉄道業と
手を切り始めていて、そのことが玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に
屈服するきっかけともなっていたりして中々油断できないお方なのです。
上の記事から察するに、自分の基盤事業たる保険業すら国に売ろうとして
いたようなので、なんらかの個人的な変化というか事情があったと
察せされるのですが、その辺はまだよくわかっていません。
一方の、有馬さんですが、御厨貴さんの「近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)」を借りたときに、たまたま有馬日記の事を知りまして、
これがわりと毎日マメに、しかも正直な気持ちを書いてらっしゃるという評価で、
これは使えそうだな、と昭和13年~昭和15年を収録している「有馬頼寧日記4」(山川出版社/2001年)をちょっと借りてみました。
以下は、その産業組合保険と金光さんに関わりのありそうな日記のメモの
抜き書きです。ちょこちょこ自前のコメントもはさんでいます。
(昭和13年)
4月27日午前十時枢密院会議に出席。帰途、日本青年館の産業組合大会に出席。
5月16日午後1時半、官邸に行き岡田喜久治君に面会。4時過ぎ、家に帰る。厚生部長見えて産業青年隊の話をする。未だ案が熟さぬ。青年団と産青連を一所にした様なものが作りたい。
7月9日官邸にて産青連の森、横尾両氏に面会、新国民運動の件につき愚見を述べ、続いて大阪朝日に記者来訪。事変下の農林対策につき三十分程話し、…
7月14日午後9時より官邸に於て経済部長会議あり。今日は各県の部長より中々元気のある質問や意見の開陳あり、中には商工省の態度に比し農林省が消極的だとの意見さへあり。商相が強いからといふて急に強くなる官僚気質、一寸苦笑ものだ。
7月21日神経痛は未だ未だ治らぬが11時半頃出勤。「産業組合中央会館」の額を書く。
8月18日12時に日本クラブに行く。工政会、日本技術協会、七省技術協議会の連合会に出席。「産業技術連盟」の名称の下に連合することに意見一致。
9月26日今日青年団の大会あり。産青連はぼんやりしては駄目だ。
12月21日午前中競馬委員会あり。
12月22日今朝は10時迄ねてしまった。会議にも出席せず、藤山氏の葬儀にも参列しなかった。(19日に藤山雷太が死んだらしい)
12月25日今朝は大正天皇祭に参列する筈であったが、神経痛なので参列せず。
どうも神経病を患っていたらしく、そのため公務を休みがち。
のわりに後楽園や上井草へ行って、ちょくちょく野球の試合を観戦して
その感想や愚痴を書き込んでいる有馬さん。野球好きらしい。
一方、競馬の話はあんまりでてこないのは、ご時世柄かな?
小川功さんの論文によると、八王子市内を走っていた
武蔵中央電気鉄道も有馬頼寧さんが関わっていたらしいのですが
日記からはそれに関することはうかがえませんでした。
ただ、藤山雷太の葬式について触れられていることから、
武蔵中央を経営していた藤山雷太やその長男・藤山愛一郎と
何らかのつながりはあったかもしれません。
(昭和14年)
3月15日米の法案と軍馬の法案、少々厄介なり。競馬の問題で委員会停頓す。
3月19日本会議に出席。米穀案上程。大河内子の質問中に産業組合の首脳部に対する非難あり。それに、農相の答弁中に産業組合の政治進出に対する非難あり。聞き捨てならぬ事である。
4月17日午後2時読売新聞社に行き、中川男と二人して正力氏に面会。いろいろ苦心談をきき、戦時ニュースの映画を見、三時過ぎ辞去。(正力松太郎さんの名前が出てきました。この後も読売新聞記者に目的地まで送ってもらったりして、読売新聞とは仲が良さそうな場面が垣間見えます)
5月3日午前10時、青年館に行く。第34回産業組合全国大会に出席、千石君の開会の辞に於て相当思ひ切った事をいふ大変よかった。
7月18日午前9時中央会の新館に行く。始め中講堂で修祓式あり。それより屋上の産業組合神社の御遷座祭あり。(産業組合神社???笑)
8月28日今日安倍(部)信行大将組閣の大命を拝す。宇垣氏を出したかった様な気がする。世界情勢より見て、日本の内閣が何となく軽い感じがする。国民の意向といふものが少しも考慮されぬ様に思はれる。(oh…このころも安部内閣なのね、しかも執拗に字を間違ってる)
8月29日就任式あり。安倍(部)総理、小原内相、厚相、畑陸軍、吉田海軍、宮城司法、河原田文相、伍堂農兼商、永井逓兼鉄、金光拓である。金光氏以外はよい顔触れ。五相会議をやめる方針はよい。青木蔵兼企、もある。(やっと金光さんの名前でてきたとおもったら、のっけから否定的印象。このころ金光さんは政界に進出し、拓務大臣や厚生大臣をやっていたらしい。)
9月3日今日ラヂオで英国が宣戦布告をしたやうにいふ。ほんとうかしら。こんな事に今の内閣は心細い。なぜ宇垣内閣を作らなかったのか。津久井君の意見のやうに、内閣の創作者が変わらなければ駄目だ。
9月27日夕五時より鉄道ホテルに於て農相の招待会あり、席上千石、高草氏、河野氏よりまるで議会の質問の様な詰問があって、少々気の毒の様であった。四人で相談の結果顧問制は中止される様に私から話すことに相談した。農相の意図は壮とするが、無理である。(鉄道ホテルってなんだ?)
9月30日午後同盟の板垣氏見えていろいろ話していった。農相専任問題が描く新聞でとり上げられ、通信の中には我々に対する反感もみられる。若し農相専任といふことになり伍堂氏が何等かの決意をしたら、私も何とか決心をせねば義理が済まぬ様にも思はれる。
10月2日1時半中央会に行き、4時に農相官邸にて農相に面会。顧問の件は当分見合わせといふことにする。専任問題については農相も固執せぬ意向らしく思はれた。
10月3日午前10時より事務協議会あり、農林大臣と会見の模様につき報告。午後は新聞記者やらいろいろの人が来て夕方迄続き少々疲れた
11月21日今朝東金の木村来訪、保険の事を頼まれる。
11月3時に東京会館に行き協力会議の総会あり。郷さんが常任委員の氏名を読んだ時千石よ太郎といふ。かうした公開の席で誤られたのは千石君も初めてだらう。郷さんの方が余程与太だ。(郷誠之助さんだろうか・・・?)
12月1日今日は興亜奉公日なので朝出るつもりで居たが、起きられぬのでやめる。正午ときわやにて、藤山、千石、金沢、豊福と会合、保険会社の事につき相談。大体順調に進む。
12月2日保険会社の事は四、五日決定を延期することが出来た。(なんの保険の事だろう。問題のやつかな)
12月9日10時より首相官邸に中小産業調査会の総会あり。午後1時より商相官邸にて物価委員会小麦部会の小委員会、4時より部会あり。徳永部長と佐藤副部長のコンビで常務を無視するのは困ったものだ。
12月14日午後10時より首相官邸に於て中小産業調査会の総会あり。反産的質問意見出て、岡本組合の論文を問題にしたり、大人気なし。
12月19日4時半頃終り、ぶらぶら歩いていたら読売の記者にひろはれ中央会に戻る。産青連の連中来て、近く全国協議会を開き、地主に収める小作米を産業組合に入れて組合の土地管理の糸口をつけるといふ。賛成す。
12月21日賀川氏見え保険会社の事につき話あり。近藤日出造氏と話をし、6時喜かくに行く。
12月24日三浦、馬場両代議士来訪。豊福も来て義ちゃんの事や保険会社の件につき話す。
12月26日午後は中央会で五人の集りあり、西田、石井、藤田氏と相談。保険会社の件急速に進む。
12月27日午頃読売の記者に組合の話をし、西田、井口等と保険会社の件につき打ち合わせをし、午後2時首相官邸の懇談会に出席。
12月29日浜田氏より保険会社の件につき話をきく。
12月31日日の井上氏来訪、内閣もいよいよ駄目らしいとの事。困ったものだ。自分達の力の及ばぬ事ではあるが、日本の為めに誰か此難局を処理する人はいないのか。
過去も今も、政治のリーダーシップ不足は変わらないんですね。
ましてや、このころは満州事変から大東亜戦争へ突入しようという時期…。
たまたま時局が安倍(部)内閣ということもあって、他人事とは思えません。
こわっ
(昭和15年)
1月4日中央会、全購連、監査連合の合同祝賀会を開き、西田、浜田、井口、若林等と保険会社の件につき相談、進行することにする。
1月6日保険の事は9日過ぎになる。山本氏からいろいろ意見をきく。豊福が易を見てもらった話をきく。私も当選は困難な様な気がする。
1月7日午前中保険の事で皆が訪ねて来ていろいろ話したが、不明の点もあるがとにかく買ふ事にして話を進めることにした。
1月9日信連の人達と保険の事につき相談。
1月13日中央会に行く。千石、佐藤、石黒、那須、西田氏欠席。他の人達に保険の事につき話す。皆賛成され、安心した。
1月14日米内大将大命を拝し、組閣に入る。自分お前から望んで居た首相故愉快だが、どうかよい閣僚を揃へたいものだ。大蔵石渡、外務野村だけ発表。先づ無難か。小栗一雄氏の書記官長はよし。
1月15日組閣進行今夜中に決定す。両政党に大蔵、農林を、実業界の藤原氏を商工に入れた事は善意か悪意か(王子製紙のボスこと藤原銀次郎氏の名前が出てきました。このころ商工大臣だったのですね。)
1月17日保険の事未だ安心の域に達せぬ。過ちのなからん事を祈る。
1月20日夕六時より桑名に保険の事につき尽力してくれた人々を招き、西田、浜田にひきづられて雪村に行き、桑名に戻り十二時帰宅。
1月21日雨降らず、各地水少なくて困って居るらしく、電力も益々不足らしい。麦の生長も気づかはる。午前十時丸の内会館に行き、全国信連会長の協議会に出席。保険の問題幸に協賛を得、割当ても承認してくれた。無事に完了するを祈る。其後は全力を挙げ万難を排して進む覚悟である。どの様な目にあっても自分の為めでなく七百万組合員の為めなら少しもくゆる事はない。
1月22日石黒さんに保険の事を話す。断然止める筈であるがそれ迄進行したものなら致方なしとの事。周東部長来訪。次官に話してくれとの事。
1月23日午後出勤。三時より古野、千石、西田と四人にて話す。軍務局の石井中佐が公演中、産組の中に商人もやらぬ様な不正をやるものがあるといふたとか。どんな事か聞けばよいのに。
1月24日村山貯水池の水がかれるといふ。井戸にたよってゐるとかういふ時は安心だ。
1月25日今日は保険の会議があったけれど、又起きられなくて欠席した。取引所の会議も首相官邸にあったが、それも出なかった。保険の事は各地方とも絶対賛成らしい。主任官連中は何かいふて居るとか。
1月26日午後農林次官を訪問。次官は話がわかってくれ、いろいろ注意をしてくれる。夕銀ブラをして五時半鉄道クラブに行き、技術協会の総会に出席。
1月27日井口氏に面会。金光氏の不誠意につき話があった。
(やっとこ、金光さんの名前が出てきたと思ったら、また悪評。)
1月31日最近いやな気持ちがしてならぬ。不吉な事がなければよいと思ふ。今月は降雨量0といふレコードだ。電力、石炭問題重大。
2月1日電力もやはり天候に支配されるのかと思ふと、科学も結局は自然に勝てぬもの。大河内子の質問あまり感心せず。理研コンツェルンの大将と産業資本家藤原銀次郎商相の取り組みでは、是非もない。午後保険の事につき相談。夕帰宅。
2月2日午前十時登院。大河内輝耕子(爵)の質問、例により例の如く。よい点もあるが如何にも不真面目な感を与へる。有爵議員の存在価値を社会は如何に見るか。此様な態度で政府に参画して居ると言はれるのか。午後中央会に行く。更生部長来て、農林省より中央会頭宛警告文を出すとの事。反産を何故にそんなに恐れなければならぬのか。西田君とも相談、邁進する事にする。
2月4日山崎警保局長来訪。産業組合の取調べの事と、消費者結成の事について話す。富藤氏の事件を繞って政情混沌たるものあり。又名古屋方面工場に不穏なものがあるとの話。石炭問題につき、又鉄道省の協力を求めなかったとの事。困った事だ。
2月5日午後中金にて中農協の会合に出席。記者会の連中より保険の事を聞かれる。最早仕方なし、明日合同会見にて概要を話し、協定して掲載せぬ様に以来するつもり。産青連の人や中西君やに面会。保険の事は運を天に任せて腹をきめる。
2月6日夜板垣君より電話にて農林省のクラブも書かぬ事に話きまりし由。感謝す。
2月7日議会は休み、正午中央会に行く。新聞記者の連中は全部書かぬ事にしてくれたが、各社の経済部長が今日会合したとの事だから、或は書かれるかもしれぬ。問題になったら、腹をきめて闘ふつもり。已成政党、資本家、官僚、それに言論機関と闘ふのだから、一切を捨てる覚悟だ。時節柄思はぬ問題を引き起こすかもしれぬ。
2月8日三時中央会に行く。各社経済部長の会議も相当もめた由だが、一週間内に書くといふことに落ちついた由。其前に済ますことに運ぶつもり。
2月9日今日の衆院予算委員会に於て松村謙三氏保険の件につき質問す。止むなく各社共明日の新聞に発表することになる。
2月10日今日も議会を休んでしまった。今朝の新聞記事もあるので行くのがいやだった。夕六時星ヶ岡に行き、河野弁護士、安田読売経済部長、島田、宮部、豊福と会食。佐藤、井川両氏来て、保険問題につき相談をする。徳川氏強硬論の由。組合全体の動き注目。自分の声望を卜するによい機会だ。
2月11日四時より、徳川、佐藤、井川氏と相談、覚書の不備等につき明日の注意を聞く。此事件或は窮地に陥るやも知れず。覚悟はあるが、万事を用意する必要あり。
2月12日保険問題、今日東日が新説を書いただけ。それも如何にも資本家の味方の様で感心できぬ。佐治君から激励の手紙をもらう。
2月13日六時中央亭に行く。農村振興議員同盟の人々と会見、保険のことにつき了解を得。私の私案はどうやら工合がよいらしい。
2月15日中央会に行き、東日の藤岡経済部長来訪。軍事郵便機献納につき相談あり。農林省の形勢いろいろに変化す。民政党では調査会を設けて研究する由。
2月17日豊福の話によれば、農林当局は中止命令を出すとの事。石渡書記官長が荷見氏と打ち合わせたとの事。かくの如くして行くときは面目問題ともなり、引く(に)引かれぬ破目となるべし。農相は必ずしも反対ならず。黒木伯に進退の事につき相談した。
2月18日午前十時半に近衛邸に行き面会。産組保険問題に関連する私の去就につき話し、其他政治上の事につき話し、0時半農相を訪問。今迄の経過の報告をする。共済会の設立には異存なく、法人でなく任意組合の形式をとること、資金拠出の方法は個人とする案最上なりとの事故、其様に可成運ぶ旨を答ふ。二百万円の仮払仕末の案は尚研究を要すと思ふ。
2月19日正午中央会に行き、保険の事につき相談。いろいろの人が訪ねて来た。松村氏の質問につき板垣君より報告をきく。民政党の調査会の決定の中に私の行為が背任だといふものがある。私は法律を知らぬからどういう事になるかしらぬが、自分ではさうは思はぬが、苦しさうであって罪に問はれても少しも悔やむことはない。組合員や役職員の為めに図ったのだから。
2月20日保険問題、農林省の空気やや緩和す。
2月21日午前中在宅、正午嵯峨野に行き、国民新聞の木原、後藤、首藤の三氏に面会。いろいろ話し、保険問題については絶対賛成してくれるとの事。二時中央会に行き中農協の感じかい、連絡委員会にて話し、五時より中機産青連の人々に話しをす、それより豊福、西田、佐藤氏等と話す。成田氏来訪。金光氏との間に入り解消の話をしたいとの事。一応断る。千石氏は賛成したとの事、真意を疑ふ。石井氏より電話にて、延期の事金光氏は承諾せし由。
2月22日午前十時中金に行き、理事長以下同席、保険の事につき中金にて調査した結果を示し注意あり。要するに七百万円は高いといふことと、将来の経営困難なりとの理由により中止を可とする意見なり。それより常任委員会に出席。断行、非断行の両意見あり。結局明日の会合の結果により決定することとなる。
2月23日中央機関の共済会設立協議会あり、種々議論もあったが共済会設立の件は可決された。資金拠出の件も同様。
2月25日午後、石井、西田、奥氏等来訪、善後策につきいろいろ話す。私の案に大体賛成。夕方出る予定をやめて、夕食をとった後革新派の田辺幹事長来訪。島田、金光両氏と面会した事について話あり。私の案をもって島田氏に会ひに行かれた。豊福と三つ満に行き田辺市に面会。金光氏に明朝田辺氏が会へば、大体目鼻はつくかもしれぬ。
2月26日主査辞任の届出をする。研究会でも松村氏の話しを聞くとの議ある由。七時小磯拓相を訪問、懇談。金光氏に話をしてみるとの事。(このころ拓務大臣は小磯に移動している)二百万円返還、犠牲者出さぬ事、こちらより解約の申出なさぬ事を申出づ。農相も閣議では反対の意思を表明せる由。石黒氏、荷見氏と会見せしとの事。
2月27日五時官邸にて農相に面会。大河内子の質問に対し農相は中止の意思ある旨言明せし由新聞に出る。十一時帰宅。井上氏と話す。会頭も議員もやめたいと思ふ。
2月28日小磯拓相より電話あり、一時半拓相邸に行く。明二十九日午後六時小磯邸にて金光氏と会見、全部完了の事に決定。それより千石氏と金光氏と訪問して承諾を得、それより中央会に行き委員に告ぐ。一同愁眉を開く。先般の難問題解決、嬉し。今後大に奮闘するつもりである。
2月29日金光氏より電話にて、今日の取引は金光邸にて為したき旨希望あり。拓相に通じたるところそれにてもよしとの事。四時過金光邸にて取引全部完了。それにて全部白紙に還る。中央会に戻りて、新聞記者に発表。
3月1日午後は全国協議会あり。報告を感想を述べる。辞職反対の決議あり。意をひるがへして留任することにする。
松村謙三議員の質問というのが気になるところだけど、はじめ新聞に載っていたような、有馬さんと金光さんとの談合とか密談らしきものはとくに日記に記されていませんね。人を介して話を進めていたのか、その詳細についても触れられていません。そして、有馬さんの、金光さんに対する印象は、好適とはあまり言えない気が・・・。なんでそれで、金光さんと取引しようと思ったんだろうか。
しかもその情報の発信元である国民新聞の記者とも、記事の出た当日に会って賛成意を得ているし。各社の経済部長ともコンタクトをとって、記事を出すか出さないかの調整を行っているしで。裏側の事情は、紙面からはわからないものですね。
日記中に頻発する福富というのは、豊福保次のことですね。
有馬さんが衆議院議員になるのにも尽力し友達になったとか。
千石というのは千石興太郎でしょうね。
あと井川氏というのは井川忠雄かな?
有馬さん自身の概要については以下。
久留米藩主の子で、それゆえ有爵議員についてもこねこね云ってますが、
伯爵位を得て衆院から貴族院に入ったのかな。
※有馬頼寧 ( ありまよりやす )
1884年(明17)12月17日 東京都中央区日本橋蠣殻町(旧日本橋区)に生まれ。
父は久留米21万石の藩主頼万。東京帝国大学農科大学を卒業後、年有半欧米各国の農村を視察して
1911年(明44)帰国し,農商務省産業組合課に勤務して産業組合(産組)の指導に当たること6か年、辞して東京帝国大学農科大学講師ついで助教授として農政学を講じた。
1924年(大13)衆議院議員に当選し政友会に所属したが、この間信愛学院を創設し労働者の教育に当たり、早稲田大学の北沢新次郎らと日本教育者協会を組織し教育の機会均等を唱えた。
また同愛会を創立、部落の融和運動に尽くし、さらに鈴木文治らの農民組合運動に参加するなど社会の注目の的となった。
1927年(昭2)伯爵となり衆議院議員の議席を失う。
翌1928年,産業組合中央金庫(産組中金)の監事、さらに翌々年、産業組合中央会(産組中央会)の監事となり、とくに千石興太郎らと親交を結んだ。
1929年(昭4)貴族院議員に互選され、のち斎藤実内閣の農林政務次官となる。
1933年(昭8)産組中金理事長となり、翌々年、産組中央会会頭を兼任した。
この間産組の勢力伸長のために活動、また賀川豊彦が関東大震災後設立した学生消費組合(東大・早大・明大・拓大)の経営を援助した。
1937年(昭12)近衛文麿内閣の農林大臣となったが風見章らと図り、産業組合青年連盟を主体として、農村革新協議会を結成し国民組織再編成の一翼としようとした。
1939年(昭14)1月農林大臣を辞任し、ふたたび産組中央会会頭に就任した。
※彼はかねて産組の保険進出を企図していたが千石らとはかり産業組合役職員共済組合設立準備会を組織し、共済制度と保険会社の買収にのりだした。しかし当時熾烈をきわめた反産運動の勢力は議会および政府を動かし、ついに1940年(昭15)2月27日農林大臣島田俊雄の保険会社買収中止命令が発せられて産組の保険進出は挫折した。
しかし、なお保険進出は根強くすすめられ、ついに井川忠雄を社長とする共栄火災海上保険株式会社を設立する。戦争の拡大とともに近衛文麿は有馬らとはかり、大政翼賛会を結成する。
彼は産組中央会会頭と貴族院議員とを辞してその事務総長となったが、志を違い、その改組に際して職を辞した。
太平洋戦争の勃発に際しては賀川豊彦とともに未然に戦争防止すべく努力したが及ばず、
終戦とともに戦争犯罪容疑者として連合軍により巣鴨に収容されたが無罪となった。
晩年、日本中央競馬会の理事長となったが,常に協同組合の発展を念頭においていた。
随筆を得意とし、著作も多い。主著『農民離村の研究』『農村問題の知識』『七十年の回想』『農人形』など。1957年(昭32)1月9日没。
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人見街道のちかくに、小野神社から分祀したと思われる
人見稲荷神社があるのでいってみました。
スタートは京王線東府中駅です。
駅前の道の名が品川街道でした。
府中の古道の地図にみえた、品川道かもしれません。
新小金井街道をしばらく北上すると人見街道の入り口が右に見えます。
街道とはおもえないほど、狭い裏道にみえます。
しかし人見稲荷はさらにもう一本先の浅間山通りに面しています。
というか、浅間山の麓にあります。
昔の人見街道がどこを通っていたのかはわかりませんが、
現在では神社と街道は隔たっている気がします。
浅間山は多摩丘陵と同じ地層でできているそうです。
「新宿学」で地層の話もちょっと載っていたのですが、それによると東京は西から
多摩丘陵(T面)下末吉面(S面)武蔵野段丘(M面)立川段丘(Tc面)沖積地帯(A面)と
大昔に海岸浸食で地層が削られた関係で、東に行くほど地表としては時代が新しい
のですが浅間山は立川段丘に取り残された丘陵面なんでしょうね。
ただ武蔵台のあたりよりは標高低いらしい?
浅間山通から人見街道へ斜めに出る道があり、
△のデッドスペースが緑地になってました。
こういうのが昔の道の名残だったりするんですよね多分。
稲荷神社に到着。入り口の銀杏がなかなか見事です。
小山の上には鮮やかな彩りの社と石碑がありました。
祭神は住吉町の小野宮小野神社とおなじです。
ただ、江戸時代の流行神信仰のせいか、倉稲魂神(うかのみたま)が上位にいますね。
名前も稲荷神社になってますし。
そして、稲荷の社殿の右後ろになんと祓戸神社の小さな社もありました!
祭神は瀬織津姫・速開都姫・気吹戸主・速佐須良姫です。
祓戸神社は三嶋大社の横にもありました。出雲大社の参道の途中にもあります。
本殿(拝殿)にお参りする前に、穢れを祓うためにお参りする神社です。
この4柱は「大祓詞」という祝詞?にでてくるので祓戸四柱または祓戸大神といわれ、
「大祓詞」は「祓い給え~清め給え~」の元ネタです。
速開都姫(はやあきつひめ)を除いては、瀬織津姫も気吹戸主(いぶきどぬし)も
速佐須良姫(はやさすらひめ)も記紀神話にはでてきません。
この「大祓詞」にだけでてくるので、この4柱は普通セットです。
しかし、小野神社では、このなかの瀬織津姫だけを選んで祀っているのが特徴的なのです。
さらに、この人見稲荷神社では祓戸大神も祀っているので、瀬織津姫を二重に祀って
いることになりますね。
「大祓詞」は延喜式に掲載され、江戸時代には吉田神道が入門する神職に課すカリキュラムの必修テキストにしていたんだそうで、ということは神職ならまず覚える文章(教義?)なんですね。
マイナーだと思っていた瀬織津姫はその筋の人にとっては超メジャーだった。
「大祓詞の解釈と信仰」(神社本庁調査部長 岡田米夫 著)に祝詞のパターンが数例
載っていたので書いておこう。実際には文意は同じでも、文章は神社によって色々らしい。
そして、大祓詞がながったらしいので、ショートカットした文もいろいろ作られたらしい。
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大祓詞(中臣祓詞 または 中臣禊詞 とも)
高天原に神留り坐す 皇親(すめむつ)神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)の命以ちて
八百万神等を 神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命(すめまみこと)は
豊葦原瑞穂国を 安国と平けく知ろし食(め)せと 事依さし奉りき
此く依さし奉りし国中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて
語問ひし磐根 樹根立ち 草の片葉をも語止めて
天の八重雲を 伊頭(いつ)の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき
此く依さし奉りし四方の国中と 大倭日高見国を安国と定め奉りて
下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて
天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安国と平けく知ろし食せさむ国中に
成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種々の罪事は 天津罪 国津罪
許許太久(ここだく)の罪出でむ
此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて
千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を本刈り断ち 末刈り切りて
八針(やはり)に取り辟(さ)きて 天つ祝詞の太祝詞事を宣れ
此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披(ひら)きて
天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 聞こし食(め)さむ
国つ神は高山の末 短山(ひきやま)の末に上り坐して
高山の伊褒理(いほり) 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ
此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと
科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く
朝の御霧 夕の御霧を 朝風夕風の吹き払ふ事の如く
大津辺に居る大船を 舳(へ)解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く
彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌(とがま)以ちて 打ち掃ふ事の如く
遺る罪は在らじと
祓へ給ひ清給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐つ
速川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持ち出でなむ
此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の
潮の八百会(やほあひ)に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と言ふ神
持ち加加(かか)呑みてむ
此く加加呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神
根国 底国に気吹き放ちてむ
此く気吹き放ちてば 根国 底国に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ)と言ふ神
持ち佐須良ひ失ひてむ
此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清給ふ事を
天つ神 国つ神 八百万神等共に 聞こし食せと白(まを)す
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中略祓(伊勢大宮司家聞書、春日社家大東家本中臣祓)
高天原に神留ります 皇親神漏岐神漏美の命以ちて
八百万の神等を神集へに集へ給ひ 皇御孫命をば
豊葦原の瑞穂の国を 安国と平けく知食せと事寄さし奉りき
此く寄さし奉りし国中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし給ひ 神掃ひに掃ひ給ひて
天つ祝詞の太祝詞の事を以ちて宣れ
此く宣らば 罪といふ罪 咎といふ咎は在らじ者をと 祓へ給ひ清め給ふ事を
科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 大津の辺に居る大船の舳綱解放ちて
大海原に押放つ事の如く 彼方や繁木が本を 焼鎌の敏鎌を以ちて 打ち掃ふ事の如く
祓へ給ひ清給ふ事を 祓戸の八百万の神達 左男鹿の八つの耳振り立てて聞食せと申す
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最要中臣祓(神祇提要本)
高天原に神留ります 皇親神漏岐神漏美の命を以ちて
八百万の神等を神集へに集へ賜ひ 吾が皇御孫命をば
豊葦原の水穂の国を 安国と平けく知食せと 事寄さし奉りき
此く寄さし奉りし国中に 荒振る神等をば神問はしに問はし給ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて
天つ祝詞の太祝詞の事を以て宣れ
此く宣らば 罪といふ罪 咎といふ咎はあらじ物をと 祓へ給へ清め給ふ事を
八百万の神達共に 左男鹿の八つの御耳振立てて聞食せと申す
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最要祓(春日社家大東家本中臣祓 吉田家八部祓)
高天原に神留ります 皇親神漏岐神漏美の命を以ちて
天つ祝詞の太祝詞事を宣れ
此く宣らば 罪といふ罪 咎といふ咎はあらじ物をと 祓へ給へ清め給へと申す事の由を
八百万の神達共に 左男鹿の八つの耳を振立てて 聞食せと申す
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最上祓(吉田家八部祓本)
高天原の天つ祝詞の太祝詞を持ちかがむ呑むでん 祓へ給ひ清め給ふ
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蒼生大祓(春日社家大東家本中臣祓)
天つ祝詞の太祝詞の事を以ちて 祓へ給ひ清め給ふ
(昭和37年7月1日発行 神社本庁調査部長 岡田米夫 著 神社新報社 発行)
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大祓詞は中臣祓詞ともよばれます。
これは、大祓の儀式の時に藤原氏の祖の中臣氏が朱雀門でこの祝詞を読み上げるのを
役目としていたからだそうです。中臣氏が文を読み上げて、実際の祓えの作業は
忌部氏(いんべ)が行っていたそうです。
この本には色々とこの祝詞に関する解説が載っていたのだけども、
発行が戦後まもなくで、国家神道の影響とか、キリスト教への対抗心とかが
なんか、すけてみえる気がします。
江戸後期に盛んになった国学で、平田篤胤の国学論が、キリスト教の影響を受けていた
という話も聞くので、国家神道を作成するもとにしたときにでも、混じったのかな?
まあ、国家神道そのものが西欧列強に対抗する宗教の模索の結果だからどっちとも?
天照大神(あまてらす)が穢れを浄化するために一切を引き受けて岩屋にこもった
(一度死んだ)というのも、キリストがユダヤ人の罪の一切を引き受けて磔になった後、
葬られた洞窟の中を数日後確かめたら空になっていて、復活したとわかった、
という話に付会しているような気がしますし、神道に無理に教義を見いだして
読者を教化しよう、という文体もちょと鼻につきます。
でも、そこ以外ではおもしろい解釈もいっぱいだし、勉強になりました。
神道の教えというか、「主義」(という方がしっくりくるな)というのは要約すれば
「きれいにしなさいよ」と「なかよくしなさいよ」の二つです。
そしてこれは祝詞の最初の「皇親」(すめらがむつ、すめむつ)の二文字で
あらわせてしまうようです。文字を切り離して一文字ずつの原義をみれば
「皇(すめ)」は、清浄な、神聖なという意味があり、後世になって「統べる」という
意味も含まれるようになったのだとか。
「親(むつ)」は=「睦」で仲良くするであり、神道の教義はこの二文字で終わってしまいます。
まあ、ですが皇親とつなげていった場合は、その見た目通り「天祖」(あめのみおや)とか、
すべての人や神の親神という意味でいいんでしょう。
本では高皇産霊(たかみむすひ)神皇産霊(かみむすひ)と、
伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)と、天照大神がこれにあたるという解釈でした。
神漏岐(かむろぎ) 神漏美(かむろみ)というのも、人類の祖となる男女神、
アダムとイブとか、ジョカとフッギとかのようなのの日本版、普通にいったら
伊弉諾、伊弉冉や上記の神のことをいうのでしょう。
それ以降は記紀神話の要約で天孫降臨までを述べてから、祝詞は本題にはいります。
「荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて」というあたりで、
国中に溜まった不平不満、ぶつぶつ文句を言うさま、それが大きくなると国禍となるので
その文句を根掘り葉掘り聞いてやり、その後でその問題を掃いてよけてしまえ、
というのがこの祓えの重要なポイントなんだそうです。
「聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと」は、よく話を聞いてさえやれば、
悪いものは取り去られるので、またみんな仲良く清い心持ちでやっていける、という
考え方なんだそうです。水に流せってことで、まあとても日本的ではある。
そしてその掃いた「穢れ」やそれが増幅して悪さをするようになった「罪」を処理する
実働部隊がこの祓戸四柱なんですね。(いわばゴミ収集車や焼却炉や夢の島)
川の早瀬である瀬織津姫が罪を海まで運び、
港・潮流の神である速開都姫が沖まで運んで飲み込み、
風の神である気吹戸主が底の国まで運び、
風化・摩耗の神である速佐須良姫が塵にしてなくしてしまう。
途中、水から風にエレメンツが転化しているような気がするけど、まあ気にしない。
気吹戸主以外は女神なんですね。
速開都姫(速秋津姫)には速秋津彦という対となる男神(夫か兄か)がいて
記紀神話ではイザナギ・イザナミの子として一緒に生まれてくるらしい。
そもそも神話を編纂するときに、自然崇拝での精霊(エレメンツ)は
ほとんどイザナギ・イザナミの子として整理されたみたいですね。
大祓詞のなかに「科戸(しなど)の風」とあるように、記紀神話では
イザナギが朝霧を吹いたときに風の神として級長戸辺神(しなとべ)が生まれます。
大山祇神は山の神、句句廼馳(くくのち)は木の神、埴安神(はにやす)は土の神、
倉稲魂神(うかのみたま)は穀物の神、火之迦具土神(かぐつち)は火の神で、
水の神は罔象女神(みつはのめ)とか高龗神(たかおかみ)闇龗神(くらおかみ)
とかいろいといるのですが、水戸(港)の神として速秋津姫・速秋津彦も生まれます。
瀬織津姫や気吹戸主や速佐須良姫はいたけど記入漏れ、ってことですかね。
ちょっと、おもしろいのが
「荒潮の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の潮の八百会(やほあひ)に坐す
速開都比売(はやあきつひめ)と言ふ神 持ち加加(かか)呑みてむ」の
「加加呑みてむ」の「加加」がオノマトペぽいってこと。
ギリシャ語に未分明の状態をあらわす「混沌(カオス)」という言葉があり、これは
「あくびする(カスケイン)」と同源なんだそうですね。
「はじめにカオスあり」は「はじめにあくびする」に通じ、赤子の産声の兆候ともとれますが
この「カカ」という音もそれに似ている気がしたのです。
速開都比売は複雑な潮流の上にいる神らしいので、たぶんイメージは渦潮のなんでも
みこんでいく穴なんでしょうけども。余談でした。
(まあ、中国の神話の混沌は目も口も耳もない穴なしだったので、
お友達の神が親切で七穴開けたら死んじゃったらしいですけども)
境内から街道の方をみる。
今はすぐにどん詰まりになりますけど、昔は人見街道の方まで伸びていたのかなぁ?
時期は10月の半ばだったので、ハロウィーンの地域祭りがあるらしいです。
あとは、熊野神社古墳で古墳まつりが予定されていたのだけど、
おもいっきり台風が直撃した日だったので、おそらく中止になったのでしょう。
資料館でのVTRでは、飛鳥時代の衣装を着て歩くコスプレ祭りっぽかったので、
見てみたかったんですけども。
あと、ツイッターで「古墳にコーフン」というアカウントから、全国の古墳まつりの日程が
流れてきたので、古墳まつりは府中だけじゃなく、全国的なイベントになってるらしいです。
京王線中河原駅から鎌倉街道を北上し、左に折れると宮前公園というのがあり、
その奥に武蔵国一宮の論社・小野宮小野神社があります。
多摩市一宮にも小野神社があり、多摩川の洪水により、この府中市の小野宮から遷座し、
水がひいて、再びこの地に戻ったのが小野宮で、多摩市に残ったのが一宮だというのが
府中市の見解です。
なので祭神は多摩市一宮とおなじ天下春命と瀬織津姫命なのですが、
ここではさらに兄多毛比命を祀っているという話です。
狛犬、子持ちなのが「子取り」で、毬持ちなのが「玉取り」で、これは東京ではよくある
わりと新し目のスタイルなんだそう。
獅子の千尋の谷とは様子がちがい、和やかな雰囲気。
境内地は洪水で一度流されてしまったためか、古樹は見当たらず
木も細っこいのしかありません。
しかし一宮の小野神社よりもすがすがしくて居心地がいい。
(あちらはごてごてしてて、若干どんよりした雰囲気だったからな・・・)
そのかわりお社の後ろに古木の株が祀られていました。
これがご神体ないしは洪水前のご神木だったのかな・・・。
小野神社のほうを向いて、小さな社がもうひとつ。
「府中の風土記」に倉稲魂命(うかのみたま)も祭祀されているとあったから、
これがそのお稲荷さんだな。
そして、この小野宮で重要なのが小野神社の由緒を篆刻した1795年建立の碑文。
三代安寧天皇の時代に使いとして兄武日(えたけひ)がやってきて
国を造り、府や廟をこの地に置いたと読めます。
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小野宮者在武藏州多麻縣小野村在昔
安寧天皇使兄武日命國造 此州兄武建府於此縣置祖廟於此地
兄武者下春大神之後 二井諸忍野神狭命九世孫
下春者天孫隨駕三十二神之一 而威靈之最也 遂稱縣曰縣府中 號廟一宮
時謂州爲國 謂守爲造 謂廟爲宮 謂創爲一皆古言也
小野元縣名府中日顯 而小野月隱 地屬多麻縣 而名僅存於村落耳
葢上古質朴無廟號 獨依地而稱矣 今也小祠存羊
亦其名見於延喜式神名帳 爲古廟也 明矣旁有枯株
周囲十尋許 其上可坐百人 瀰枝高聳摩天 殆乎有二千餘歳之想
爲故地也明矣 創降建置莫古焉 舊制威靈鍾於此 宜也四方祈福隨應有驗
内藤子章名重喬好古善醫 今茲傷其衰 修廟勒碑使余銘焉 長島侯援筆篆碑面
銘曰 鍾靈創祠 二千餘年 志士勒碑 不朽是傳 寛政七年九月望日
出雲國下大夫江都鳩谷孔平信敏撰 男信龍渉筆
次信鳳修約 長島侯人藤原巖恭書 内藤重喬肅建
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兄武日は兄多毛比の「毛」を「け」と読んだために、あてられた文字のようです。
またここでは小野神社の祭神である天下春命が、
兄武の十世代前の祖とされているように見えます。
二井諸忍野神狭命というのは「国造本紀」で
无邪志国造(むさしのくにのみやつこ)
成務朝の御世に、出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命を国造に定められた。
知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)
崇神朝の御世に、八意思金命の十世孫の知々夫命を国造に定められ、大神をお祀りした。
とあるのを混同したもののようです。
天下春命は八意思金命(おもいかね)の息子であり、秩父国造の祖です。
二井之宇迦諸忍之神狭命は国造本紀にしかでてこない名前ですが、
出雲臣の祖・天穂日命からわかれた分家筋の祖であり、武蔵国造の兄多毛比の先祖です。
この小野宮の碑文では
天神(八意思金と天穂日を混同)ー天下春(1)ー二井諸忍野神狭(2)ー兄多毛比(10)
と解釈し、「兄武者 下春大神之後 二井諸忍野神狭命九世孫」と書いたのでしょう。
いずれにしても、男系社会が好む「男神の系譜」であり瀬織津姫については触れていませんね。
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小野神社へ向かうとき、中河原駅の隣に建っているスーパーの根本に、なんか小さな神社があるのに気づいたんですが、「住吉町だし住吉様かな?」と思ったら、庚申様の立派な奴だった。
庚申は普通西南方向をさすので西南向きだけど、ここのは真西を向いているので
「西向庚申塔」の扁額がでっかく飾ってあります。
肝心の住吉様はどこにあるんだ、とおもったら大國魂神社の境内に
合祀されてしまっているみたいですね。
住吉銀座なのに住吉様いない・・・!(笑)
「府中のまち 紹介」(http://library.city.fuchu.tokyo.jp/about/pdf/20121228kodomohakase.pdf)
によると、中河原というのは、かつて多摩川がもっと北側(中河原と分倍河原の間くらい?)
を流路としていた頃は、浅川との間にはさまれた地域で、そのためその名前がついた
んではないか、としています。
今では浅川と多摩川の合流点はもっと上流の日野の万願寺あたりですが。
また、白糸台では繭の生産が盛んだったため、その名前がついたようで
ここで生産された繭は、世田ヶ谷の砧にもっていってさらして、
さらに八王子で織物にして国府に納めたという話でした。
そういえば、下河原緑道の入り口のインテリジェントパーク近くのマンションに
でっかい繭のオブジェがあったなぁ・・・。
タイトルは「繭のかけ橋」だそうで。
世田ヶ谷に持って行っていたということは、船の往来が盛んだったということですね。
住吉様は航海の神で海神のイメージが強いけど、海と川で区別することもないのか。
海へ行っていた神様が、船や馬に乗って川を遡って山へ帰るというのも
良くある構図だし。
ただ、小野神社に関しては、やはり多摩川南岸で祀られるのが正しいみたい。
小野神社の分布や、横山氏とのつながりなんかをみても、
瀬織津姫は多摩川南岸がテリトリーなんだな。
住吉様は北岸の、国府(中央政府)と一緒にやってきた神様ってかんじがするなぁ。
遠州にやたらと多かった、六所神社の祭神も住吉様とおなじ筒男三兄弟だし。
瀬織津姫と小野氏こと横山氏の関係も、そのうちどこかでやろうと思います。
大國魂神社の境外摂社に「坪宮(つぼのみや)」というのがあり、
それが武蔵国初代国造の兄多毛比命を祀っているということで、
場所と写真をネットで確認したら「ん?これみたことあるな???」
と思って、過去の写真をあさったら、3年前の今頃に下河原緑道を
歩いていたとき、緑道の足下にぴょろっとあった不可思議な神社だった事が判明。
せっかくだから、はんぱになってた下河原緑道の記事と一緒にあげておこう。
郷土カルタの柱がなんでここに建っていたのかも、これで納得。
府中には国造に関する伝説というか、関連設備(地名)が結構あります。
徳川の御殿地だって、国司の館があったことは証明されましたが、
もともとは国造の館があったとされる場所です。
おそらく、武蔵国のイニシアチブを握るためには、この伝説的人物
初代武蔵国造である兄多毛比命(えたもひのみこと)を祀っていることが
重要な証拠となるんです。
えたもひを祀っている神社は、ここ大國魂神社の境外摂社の坪宮の他に、
府中市住吉町の小野神社(武蔵国一の宮論社の府中側の小野神社)と
府中市若松町の人見稲荷神社(小野社から分祀したといわれる人見街道沿いの神社)と
埼玉県大宮の氷川神社(武蔵国三の宮・一の宮・総社の論社)と
埼玉県入間市の出雲祝神社(入間郡神火事件の論社の一つ)などがあります。
どれも、史料で有名な所を抑えた土地・神社です。
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エタモヒで覚えにくい場合は「武蔵のタモさん」でいいとおもいます!
(兄=えは偉大な、比=ひは彦とか姫とおなじで人をあらわすという説があり
エタモヒの本質は「タモ」にあると思われます。)
またタモは「多模=たも」という不弥国(ふみ国=北九州の宇美に否定される)の長官の
名前として中国の歴史書「魏志倭人伝」にみられ、これも官職名ではないかともいわれる。
ウィキペディアの「姓」の項には「玉・多模」として古い頃のかばねの一つに数えられています。
玉はつまり多摩、タモの名前が多摩の地名の由来とも考えられます。
やっぱり、武蔵と多摩は重複するんですねぇ。
埼玉県の由来である埼玉郡は『正倉院文書』に武蔵国前玉郡(さきたま)とあるらしく、
また上野国(群馬)に隣接して早くから発展していた児玉郡も「古玉(こだま)」
である可能性があるとすると、武蔵国における多摩はやはり埼玉県も含んだもっと
広い範囲であった可能性があります。
考古学でも3~4世紀に盛んであった南多摩の多摩川中流域の古墳群は
5世紀にはなりをひそめ、5~6世紀には埼玉の東松山や行田など北武蔵で
巨大古墳が作られる傾向がわかっていて、よく「武蔵国造の乱」として
安閑天皇紀に記された笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と弟・小杵(おき)の
国造職争いに絡めて語られたりしています。
府中に国府が置かれるより以前は、たしかに埼玉方面の方が勢力優勢だったよう。
ただ、これらの南武蔵の多摩川中流域や、北武蔵の古墳群の埋葬主体が、
ただちに兄多毛比命の直系や後裔とはいえないようで、
そこにはかなりの系譜の混乱や、僭称(せんしょう)があるとみた方がいいでしょう。
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兄多毛比は主に「国造本紀」という全国の国造の系譜を記した書の、
武蔵国(无邪志・胸刺)の項に名前があるので有名です。
「国造本紀」は「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」という古文書(?)の
中に納められた数ある本紀のうちの最後の本紀です。
「先代旧事本紀」自体は徒然草で有名な吉田兼好(卜部兼好)の出身家
であり吉田神社の神職であった卜部家(吉田家)が「古事記」や「日本書紀」並に
重要な書物として大切に伝えてきた物で、中世から近世にかけては神道で絶大な人気のあった
書物なのですが、江戸後期に疑義が呈され、序文に聖徳太子と蘇我馬子が選したとあるのが
本文の内容と合わない上に、記紀(古事記と日本書紀)からの剽窃(切り貼りした引用文)が
目立つということで、後世の「偽書」と断定され、一時期学会から排除されていた書物です。
ただ、「国造本紀」は国造研究には、もうこれしか残っていないという唯一の手がかりなので
活用したいという研究者も多く、近年では「原書は失われてしまったが、元と成った書があり
「国造本紀」も序文を除けば、完全に偽書だとすること、あたわない」という考え方で
論文に取り入れられることも多くなったみたいです。
その辺の詳しい経緯については「奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる」(批評社)がわかりやすい。
私も論文で「新撰姓氏録」や「三代実録」は参照したんですけど、
「先代旧事本紀」は「引用するなら、きちんと気をつけなさいよ?」と教授にいわれて
真偽をいちいち確認するのも時間がないし面倒だったんで、使わなかった本なのですが、
今頃になって読む破目になるとはなぁ・・・。
(個人的には「新撰姓氏録」のほうがケアレスミスな部分が多くてイラっとする史料でした。)
神社の由緒なんかは日本書紀や古事記や先代旧事本紀を拠り所に編まれたものが多いみたいです。
で、肝心の国造とはなんぞや?というのを、このところ専門書を探して読んでみたりもしたんですけど、学会でも意見が分かれているのか、いろんなタイプがあって、掴みきれませんでした。
最初は、「国司制度になる前が国造制度なんだろう」と単純に考えていたんですけど、
国司が派遣されるようになってからでも、国造は家となったり名誉職となったりして
一応残っていたんだそうで、案外簡単に「交代!廃止!」というものでもないよう。
大宝律令で国司が派遣されるように制度が整うので、それ以前と以後の国造を学会では
「旧国造」「新国造」とか、「律令国造」とかいって区別しているようなんですが。
人によっては代々国造を勤めて居た家が、そのまま国造家を名乗り、それが滅んでからは、
一種の称号として、功績のあった貴族や武将に与えたとする説を唱えたりもして。
「うおおおおお!追い切れんわ!ダァホ!!!(@Д@;」
とりあえず、律令以後、1郡司になった国造家とか、2なれなかった国造家とか、
3国造家じゃないけど地元で力を持ってた郡司家とかがあるっぽい。
また、郡も大宝律令以前は「評(ひょう・こほり)」と言っていたことが藤原京木簡から
判明しており、郡司は評督といっていたらしいのだが、史料では「評造」という言葉があって
それの定義もあんまりわかっていない。1かもしれないし3かもしれない。
さらに中央で天皇の側近の貴族は伴造(とものみやっこ)というらしい。
律令以前の小さなクニ単位の地元有力者で中央に服属し認定されたのが「国造」であり
それ以前は県主(あがたぬし)とか稲置(いなぎ)とか小さな役職(地方官職)が
あったらしいんだけど、それはさらによく分かってない。まあ、そんなかんじ!
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下河原線跡を歩こう編
スタートはインテリジェントパークから。
なんでか知らないけど、そういう名前なんです。インテリ・・・
地下を走っていた武蔵野線が顔を出すポイントでもあります。
なぜか橋の上なのに時刻表もありという、鉄にも優しい???場所です。
下河原緑道のはじまり。
路肩の側溝にちょいちょい杭が残ってるのが気になります。
別の側道と合流するあたりがちょっとした公園というか、
休憩場所みたいになっています。
それらしく駅名標とレール跡も残してあります。
レールは数十メートルで一旦とぎれ、その先は京王線と交差しています。
開業は下河原線の方が先だったから、
玉南鉄道も開業当初から土盛りで立体交差にしたと思うんですよね。
前にも載せたけど、大正13年の府中街道の交差地点ですでに土盛りの立体だったから(右)。
府中駅は地上駅だから、そこを出てから段々と勾配がついてそのまま府中街道と下河原線を
のっこしたんじゃないかなぁ。
南武線が開業する前なので(工事計画が同時期なので打ち合わせはしただろうけど)
それ以降はまた地上を走ったんだと思う。
分倍河原駅はもうちょっと北側にあったのかな?
南武線が開業したときに南武の駅へ寄せてきたという話も聞くし、
開業当初のルートは若干謎のままだなぁ・・・。
京王線を越え再び南下。
道々に地図や看板がちょいちょいあります。
また線路跡が部分だけ。
ここはこれだけです。
道路に面して左を向くと
かつての番場宿の名残をおもわせる料亭。
しかし「ラ・バンバ」というはじけたネーミングはどうしたものか・・・。
鹿島坂の説明碑。
大國魂神社の大祭の時に坪の宮に御輿が出発したことを坪の宮に報告する「
国造代奉幣式」という儀式とゆかりの深い坂だそうです。
大宝律令で国造に代わり中央から派遣されてくる官人の国司が
国の神を奉祀するようになることから「国造代」なんでしょうけども。
坪の宮は崖線下にあるので坂を下るんでしょうなぁ。
社家の鹿島田家ができたのは、おそらく鎌倉時代。
鎌倉幕府が成立してから祭祀の主体は国司から宮司や社家にうつりますんで。
旧鎌倉散歩の街道案内版になかなかいい写真が。だいぶ摩耗してますけども。
下河原線は単線なので、よく蒸気機関車がバックしながら走ってたというんですけど、
頭は常に国分寺駅方面を向いていたということかな?
次が南武線との交差地点。
南武線は府中崖線の下を通っているので、崖下に線路があり、
ここは崖の終わり目でもあります。
なので、後から開業した南武線の方が下を通り、下河原線はオーバークロスしています。
橋の上から分倍河原方面の南武線をみる。
右側の茂みは高安寺です。
南武線の昭和初期の写真をみると、この高安寺の下を通っているのがけっこう残っています。
高安寺は武蔵国安国寺であるといわれ、国分寺にならって足利政権時代に
1国1寺1塔として設立された全国の安国寺のひとつです。
しかし、平将門を倒した藤原秀郷(俵藤太)とも縁が深いとか、
源義経が立ち寄ったときに弁慶が使った井戸があるとか、伝説には事欠かないお寺です。
一番右の写真は、橋の上から府中本町駅方面を望んだもの。
この頃って駅前のイトーヨーカドーが撤退した時期だったんだなぁ。
セブンマークの看板が覆い隠されてて、みょうに寂しい気分だった。
今はラウンドワンになって、ボーリングピンがすごい光ってます。
そして、南武線もこえて、しばらく歩くと、今度は左側の足下に気になる茂みと
社の背中が目に入ったので、道を外れて正面に廻ってみると、
先ほどの坪の宮(冒頭の写真参照)だったのです。
この時は、「なんだか随分こじんまりとした社が変な位置に残っているな???」と
気になったものの、そのままにして調べませんでしたが、まさかそんなに重要なお社とは。
ということは、ですよ?
下河原線が現役の頃は、この坪宮の後ろを、蒸気機関車や貨車がガンガン走っていた、
と、こういう面白い景色が見られた訳ですね?
いやー、そんな当寺の写真が残ってるのなら、みてみたいわー。
今では、とても閑静な場所になってよかったですね・・・?
再び緑道にもどって、あとはひたすらゴールまで歩きます。
この辺になると、もうめぼしい遺蹟もなくてですね。
競馬場へ向かう路線の分岐点が残っている位です。↑
かわりに、華やかな植物がわわ~!っとサイドを飾って居る。
こころひそかに「花葬」を連想したものです。
中央自動車道を越えた辺りで、農地と工場地帯に入っていきます。
サントリーの工場があるせいか、左側がビール瓶ケースの山。
そして右側がいまがさかりのコスモス畑でとても綺麗です。
更に進むと、今度は化学工場があるらしく、ツンとした刺激臭が漂います。
反対側は収穫後の稲田です。
ふたたび緑のトンネルっぽい隔絶された道に戻りました。
周囲は住宅街なのか、あまり動きもありません。
道端にあったベンチが、ちょっと野外向きでないかんじなので
「これも駅の備品かなぁ?」と思いました。
終点に近づき、道が大きくカーブします。
多摩川の河川敷が近いのか、砂利採集の跡地なのか。
開けた場所に気になる施設とテトラポッド。
ゴールはなんの変哲もない、ちいさな公園です。
これといった記念物があるわけでもなく、とても静かなフェードアウトっぷりです。
公園はこの交差点で切れますが、道(緑道ではない)はまだまだつづきます。
下河原の土地を説明する碑がありました。
下河原は昔は対岸の連光寺に属していたんですね。
連光寺とか、市外の人はほとんど知らないローカルな地名だと思うんですけど、
歴史はけっこうありそうな感じですね。
先ほどの交差点の道を、道になりにすすむと、いくばくも歩かないうちに
実は京王線の中河原駅に着きます。
つまり、下河原線の終点と、玉南の中河原駅は案外近いということです。
このへん、話し相手ができたってことで、個人的にはうはうはなポイントです。
撮影日から随分間が空きましたが、今時分がちょうど同じ景色だとおもうので
機会がありましたら是非。
公文書で概要はある程度わかったので、書き起こした部分だけでも載せておこう。
ようするに、植村俊平社長の積極策により新宿へ延伸する予定だったのが
度重なる延長申請の末、東京市の循環道路計画もあって却下され、
かわりに学習院裏から分岐して、中央線高円寺駅を経由し
京王線下高井戸駅へ連絡する計画に変更したということなんですね。
それについては、地元民の方も歓迎ムードだったみたい。
以下、その文書。
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第一六八四号 大正十三年 八月一日 九月十二日
第一六三一号 大正十三年 七月十九日
王子電気軌道 巣鴨町 高田町間 工事竣功期限
延期許可 及 高田町 新宿町間 特許取得取消の件
案
(東京府経由)番号
王子電気軌道株式会社
大正十二年三月十二日附二七度第六七号
及大正十三年七月二日附三十度第二八号申請
巣鴨町・新宿町間工事竣功期限延期の件
巣鴨町・高田町間に限り
大正十四年三月二十六日迄許可す
軌道法第二十七條の規定に依り
明治四十五年七月十八日監
第一〇八〇号を以て特許したる軌道線路
北豊島郡高田町大字高田字高田千登世三十六番地、
四谷区新宿町大字三丁目十二番地間の特許を取消す
十三年九月十二日
鉄道大臣
内務大臣
官報掲載案
軌道特許失効 明治四十五年七月十八日王子電気軌道株式会社に対し
特許したる東京府北豊島郡巣鴨町、四谷区新宿町間軌道線路中
東京府北豊島郡高田町大字高田字高田千登世三十六番地、
四谷区新宿町大字三丁目十二番地間は指定の期限迄、
工事竣功せざる為特許取消せり (鉄道省 内務省)九月二十五日
通牒案
逓信者電気局長宛
通牒
王子電気軌道株式会社、巣鴨町、新宿町間軌道特許線路中
北豊島郡高田町大字高田字高田千登世三十六番地、
四谷区新宿町大字三丁目十二番地間、指定の期限迄に工事
竣功せざる為右特許取返也、候条了知相成度
(理由)
本延長線は既に数年延期を重ねたるも南目白、新宿間は
循環道路新設計画に伴ひ線路変更の出願中に係り
然も該循環道路の実現に近き将来に於て望むべがらざるの
状態に在り会社に於ても右区間の短縮せらるのことを
絶体に拒まざるものにして別紙の追申の次第もあり
旁々整理の意味に於て此の際伺案の通り処理可然と認む
追て会社は御右区間短縮に代ふるに別途出願延長線特許を希望せるも
之は他の出願とも関連するものあるを以て本件と分離審議することとせり
特許線路竣功期限延期願
明治四十五年七月十八日附監第一〇八〇号を以て御聴許相蒙り候
東京府北豊島郡巣鴨町地内既設特許線路終点より
西巣鴨町、高田町戸塚町大久保町を経て四谷区新宿町に至る
線路竣功期限は大正十二年三月二十六日に御座候処
本線路沿線は東京市郊外発展に伴ひ地価昂騰し
用地買収予期の如く進捗不仕且又地上物件の移転に付ても
建物密集せるを以て居住者立退に相当日時を要し居候事情に付
到底右期限内竣功致兼候間
大正十三年三月二十六日迄一ヶ年竣功延期の義御聴許被成下度
尤も用地買収は西巣鴨町を了し目下高田町地内交渉中に有之
工事も買収用地内に於て着々進行進行致居候に付
特別の御詮議相成度工程表相添へ此御奉願候也
大正十三年三月十二日
鉄道大臣 伯爵 大木遠吉殿
内務大臣 水野錬太郎殿
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△王子電気軌道巣鴨町新宿間工事竣功期限延期の件
特許 (明治)四五・七・一八
工事着手 (大正)六・三・二四
工事竣功期限 (大正)七・三・二三
第1回延期期限(大正)八・三・二六
第2回延期期限(大正)九・三・二六
第3回延期期限(大正)一〇・三・二六
第4回延期期限(大正)一一・三・二六
第5回延期期限(大正)一二・三・二六(本年二月二十二日許可)
今回延期期限 (大正)一三・三・二六(一ヶ年)
備考 巣鴨町(大塚)、内藤新宿間 三哩四十九鎖・軌間 四呎六吋
新宿・高田監特許線路一部変更申請書(会社提出工程表口参照)は府にて審査中
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新宿線特許放棄に関する答申書
先に特許を得たる当社営業線大塚終点より
新宿に至る軌道線路中大塚目白間は既に工事中にして
当年内には必ず運転開始可致 夫より新宿に至る間は
東京府環状道路を一致致し居候間 是に併用敷設可然旨
兼て東京府の内意も有之末 着手と相成居候処
今般東京市電気局が右区間に軌道敷設の希望を有し
市の費用を持って一時立替 府道路にも築造して
之に市電車線併用したき申出有之候趣
交通促進の意味に於て当社の該特許権を放棄しては
如何にとの御勧告有之 篤と熟慮致候処
至極 御尤もの義と存候の元 併本線路は元来
京王電車 新宿起点と連絡するを目的とし連絡の上は
是非両社を合併して交通機関の完成を計り度き旨
両社重役間の内談も有之候間 若し御内示に基き
該区画を打切るときは両社の久敷を期待したる希望は
永久に達せられざることと相成且つ目下工事中線路は
短距離なれ共 家屋密接致居候為め土地収用には多大の
費用を投じ候得共 其終点が市電又は省線停車場とも
距離ありて不便不少 交通上の効用を全ふせず
従て折角 投じたる多額の建設費に対し
其成績不良に終り可申 誠に遺憾に御座候間
新宿に至る代りに同特許線路中 学習院下より北折して
中野方面に延長し高円寺より堀之内を経て下高井戸に至り
京王電車線と連絡すれば兼ねて会社との内約も達成し得べく
尚当社投下資本に対しても他日相当有利の計画を得べき
見込みに付き特許特に前述の主旨御諒察の上何卒右新線路
特許有之候様 御詮議相成度 尤も該線路の義は既に
東京府へ願書提出致したるものに有之
若し特許を得たる上は直ちに用地買収に着手し
二ヶ年以内に高円寺迄は開通可致 確信を有し候へば
期限を附し特許被下候共 更に差又無之候此段答申候也
進で今般放棄する目白新宿間の線路は万一近き将来を於て
東京市電気局が軌道を敷設せざるときは従来の縁故に因り
特に当社に優先再特許相成候様御詮議相成度予め願上置候
大正十三年五月 日
王子電気軌道株式会社
取締役社長 植村俊平
鉄道省監督局長 岡田意一殿
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電気軌道敷設願
東京府下高田町落合村を経て中野町に至る方面は近来其発展著しく
工場受託激増する状況にあるも交通機関不充分にして北に武蔵野線
南に中央線が西行せるも此両線は最近二哩以上を隔て何れを利用するも
乗客は十四五丁を徒歩するの不便あり依て弊社が目下工事中の
新宿線を目白学習院裏より分岐して中央線高円寺駅を経て京王線
下高井戸に至る間別紙図面の通り電気軌道敷設致候はば
交通上の利便を増し郊外住宅地としての各方面の発展亦大なるもの
可有之而も弊社は相当利益を可得見込にして間該軌道敷設之義
何卒御許可被成下度関係書類相添此段奉願候也
大正十三年五月九日
東京府北豊島区西巣鴨町大字巣鴨九百六拾五番地
王子電気軌道株式会社
取締役社長 植村俊平
内務大臣 水野錬太郎殿
鉄道大臣 小松謙次郎殿
添付書類目録
一、起業目論見書
二、路線予測図
三、建設費概算書
四、運輸事業の収支概算書
五、軌道を道路に敷設することを得ざる事由書
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大正十五年三月二十九日
東京府北豊島区西巣鴨町大字巣鴨九百六拾五番地
王子電気軌道株式会社
取締役社長 植村俊平
鉄道大臣 仙石貢殿
内務大臣 若槻礼次郎殿
電気軌道敷設願
弊社と京王電車とは資本関係其他諸種の事情に於て密接なる連鎖を有するに付
弊社は両線連絡のため大塚、新宿間の特許を得て其一部工事施行中の処
過設目白、新宿間特許取消相成候に付弊社は両線連絡の路を失ひたるを
遺憾とし他の方法に依り之が完成を計り度実施調査の結果先に弊社が出願せる
目白、江古田間の一部より延長して野方町、中新井村、杉並町、和田堀内村等を
経て京王線下高井戸に至る路線尤も適当と存じ候に付該区間に軌道敷設致度
前地方は土地高燥にして住宅地として漸次発展の状態に御座欠得共何分
交通機関に乏しきため開発遅々なるを以て中新井は野方を始め地方有志者より
弊社へ対し用地買収其他特に便宜を計る可きを以て電車敷設せられ度旨の希望
一再に止まらざるに付同有志者と共に急速開通の為最善を可計候間何卒御許可
被可成下度関係書類相添へ此段奉願候也
添付書類目録
一、起業目論見書
二、路線予測図
三、建設費概算書
四、運輸事業の収支概算書
五、軌道を道路に敷設することを得ざる事由書
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陳情書
今般王子電気軌道株式会社より出願に相成候目白を起点として
高田、落合野方町を経て下高井戸に至る軌道は本町民多数の
歓迎する方向にして竣功の上は当町交通の利便非常に増加可致
ものと確信罷在候
且 同社は大塚より目白迄の延長線工事着手に相成居候間
其延長として引続き右線路を敷設致度希望の由
単に権利を獲得せんとする新会社と異なり一般に其の実現を
確実と認め居候間 冀(こいねがは)くば一足の落成期限を
附して至急許可相成候様御詮議相願度町民多数熱望に基き
此段陳情候成
大正拾参年拾月貳日
野方町町 深野亀太郎
同 助役 鈴木喜太郎
同町会議員 島崎秀五郎
同 佐伯辰五郎
同 窪寺忠次郎
同 花崎初太郎
同 吉田惣五郎
同 矢島粂五郎
同 窪寺寅吉
同 小出徳馬
同 小池長太郎
同 鈴木奥太郎
同 篠崎弥吉
同 菊田倉吉
同 篠 辰五郎
同有志総代 山崎松太郎
同 大野又蔵
同 大野(さんずい+菫)(がんだれ+義)
同 熊沢宗一
同 細田又平エ
鉄道大臣 仙石貢殿
内務大臣 若槻礼次郎殿
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ほんで、これがその新宿線。戸山学校の西側をいく計画だったみたいですね。
分岐線起点 東京北豊島郡高田町大字高田字稲荷1363番地とあります。
分岐線はそのまま東進してからおおきくカーブし、
中央本線の高円寺駅のところでクロスしています。
そして、そのまま南下して京王線下高井戸駅で終点です。
途中「大宮」の文字がみえるので、大宮八幡宮を経由しているんですね。
このころは玉電とも共通の資本だったので、玉電さんが下高井戸へ世田谷線を延ばした理由も
王電が下高井戸に経路を変更したことが関連あるのかもしれません。
その後の計画は、おなじ大正生命出身の金光庸夫さんが引き継いだようです。
あと、宛先が熱海の起雲閣の内田信也鉄道大臣だ!という発見つき。