たまろぐ 武蔵国のタモさんと下河原線(2010.10.16) 忍者ブログ

たまろぐ

テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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大國魂神社の境外摂社に「坪宮(つぼのみや)」というのがあり、
それが武蔵国初代国造の兄多毛比命を祀っているということで、
場所と写真をネットで確認したら「ん?これみたことあるな???」
と思って、過去の写真をあさったら、3年前の今頃に下河原緑道を
歩いていたとき、緑道の足下にぴょろっとあった不可思議な神社だった事が判明。

せっかくだから、はんぱになってた下河原緑道の記事と一緒にあげておこう。
郷土カルタの柱がなんでここに建っていたのかも、これで納得。


府中には国造に関する伝説というか、関連設備(地名)が結構あります。
徳川の御殿地だって、国司の館があったことは証明されましたが、
もともとは国造の館があったとされる場所です。
おそらく、武蔵国のイニシアチブを握るためには、この伝説的人物
初代武蔵国造である兄多毛比命(えたもひのみこと)を祀っていることが
重要な証拠となるんです。

えたもひを祀っている神社は、ここ大國魂神社の境外摂社の坪宮の他に、
府中市住吉町の小野神社(武蔵国一の宮論社の府中側の小野神社)と
府中市若松町の人見稲荷神社(小野社から分祀したといわれる人見街道沿いの神社)と
埼玉県大宮の氷川神社(武蔵国三の宮・一の宮・総社の論社)と
埼玉県入間市の出雲祝神社(入間郡神火事件の論社の一つ)などがあります。

どれも、史料で有名な所を抑えた土地・神社です。

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エタモヒで覚えにくい場合は「武蔵のタモさん」でいいとおもいます!
(兄=えは偉大な、比=ひは彦とか姫とおなじで人をあらわすという説があり
エタモヒの本質は「タモ」にあると思われます。)
またタモは「多模=たも」という不弥国(ふみ国=北九州の宇美に否定される)の長官の
名前として中国の歴史書「魏志倭人伝」にみられ、これも官職名ではないかともいわれる。
ウィキペディアの「姓」の項には「玉・多模」として古い頃のかばねの一つに数えられています。
玉はつまり多摩、タモの名前が多摩の地名の由来とも考えられます。
やっぱり、武蔵と多摩は重複するんですねぇ。

埼玉県の由来である埼玉郡は『正倉院文書』に武蔵国前玉郡(さきたま)とあるらしく、
また上野国(群馬)に隣接して早くから発展していた児玉郡も「古玉(こだま)」
である可能性があるとすると、武蔵国における多摩はやはり埼玉県も含んだもっと
広い範囲であった可能性があります。
考古学でも3~4世紀に盛んであった南多摩の多摩川中流域の古墳群は
5世紀にはなりをひそめ、5~6世紀には埼玉の東松山や行田など北武蔵で
巨大古墳が作られる傾向がわかっていて、よく「武蔵国造の乱」として
安閑天皇紀に記された笠原直(かさはらのあたい)使主(おみ)と弟・小杵(おき)の
国造職争いに絡めて語られたりしています。
府中に国府が置かれるより以前は、たしかに埼玉方面の方が勢力優勢だったよう。
ただ、これらの南武蔵の多摩川中流域や、北武蔵の古墳群の埋葬主体が、
ただちに兄多毛比命の直系や後裔とはいえないようで、
そこにはかなりの系譜の混乱や、僭称(せんしょう)があるとみた方がいいでしょう。

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兄多毛比は主に「国造本紀」という全国の国造の系譜を記した書の、
武蔵国(无邪志・胸刺)の項に名前があるので有名です。
「国造本紀」は「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」という古文書(?)の
中に納められた数ある本紀のうちの最後の本紀です。

「先代旧事本紀」自体は徒然草で有名な吉田兼好(卜部兼好)の出身家
であり吉田神社の神職であった卜部家(吉田家)が「古事記」や「日本書紀」並に
重要な書物として大切に伝えてきた物で、中世から近世にかけては神道で絶大な人気のあった
書物なのですが、江戸後期に疑義が呈され、序文に聖徳太子と蘇我馬子が選したとあるのが
本文の内容と合わない上に、記紀(古事記と日本書紀)からの剽窃(切り貼りした引用文)が
目立つということで、後世の「偽書」と断定され、一時期学会から排除されていた書物です。
ただ、「国造本紀」は国造研究には、もうこれしか残っていないという唯一の手がかりなので
活用したいという研究者も多く、近年では「原書は失われてしまったが、元と成った書があり
「国造本紀」も序文を除けば、完全に偽書だとすること、あたわない」という考え方で
論文に取り入れられることも多くなったみたいです。

その辺の詳しい経緯については「奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる」(批評社)がわかりやすい。
私も論文で「新撰姓氏録」や「三代実録」は参照したんですけど、
「先代旧事本紀」は「引用するなら、きちんと気をつけなさいよ?」と教授にいわれて
真偽をいちいち確認するのも時間がないし面倒だったんで、使わなかった本なのですが、
今頃になって読む破目になるとはなぁ・・・。
(個人的には「新撰姓氏録」のほうがケアレスミスな部分が多くてイラっとする史料でした。)
神社の由緒なんかは日本書紀や古事記や先代旧事本紀を拠り所に編まれたものが多いみたいです。

で、肝心の国造とはなんぞや?というのを、このところ専門書を探して読んでみたりもしたんですけど、学会でも意見が分かれているのか、いろんなタイプがあって、掴みきれませんでした。

最初は、「国司制度になる前が国造制度なんだろう」と単純に考えていたんですけど、
国司が派遣されるようになってからでも、国造は家となったり名誉職となったりして
一応残っていたんだそうで、案外簡単に「交代!廃止!」というものでもないよう。

大宝律令で国司が派遣されるように制度が整うので、それ以前と以後の国造を学会では
「旧国造」「新国造」とか、「律令国造」とかいって区別しているようなんですが。
人によっては代々国造を勤めて居た家が、そのまま国造家を名乗り、それが滅んでからは、
一種の称号として、功績のあった貴族や武将に与えたとする説を唱えたりもして。
「うおおおおお!追い切れんわ!ダァホ!!!(@Д@;」

とりあえず、律令以後、1郡司になった国造家とか、2なれなかった国造家とか、
3国造家じゃないけど地元で力を持ってた郡司家とかがあるっぽい。
また、郡も大宝律令以前は「評(ひょう・こほり)」と言っていたことが藤原京木簡から
判明しており、郡司は評督といっていたらしいのだが、史料では「評造」という言葉があって
それの定義もあんまりわかっていない。1かもしれないし3かもしれない。
さらに中央で天皇の側近の貴族は伴造(とものみやっこ)というらしい。

律令以前の小さなクニ単位の地元有力者で中央に服属し認定されたのが「国造」であり
それ以前は県主(あがたぬし)とか稲置(いなぎ)とか小さな役職(地方官職)が
あったらしいんだけど、それはさらによく分かってない。まあ、そんなかんじ!

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下河原線跡を歩こう編
スタートはインテリジェントパークから。
なんでか知らないけど、そういう名前なんです。インテリ・・・

地下を走っていた武蔵野線が顔を出すポイントでもあります。
なぜか橋の上なのに時刻表もありという、鉄にも優しい???場所です。

 

下河原緑道のはじまり。
路肩の側溝にちょいちょい杭が残ってるのが気になります。




別の側道と合流するあたりがちょっとした公園というか、
休憩場所みたいになっています。

   

それらしく駅名標とレール跡も残してあります。

 

レールは数十メートルで一旦とぎれ、その先は京王線と交差しています。

  

開業は下河原線の方が先だったから、
玉南鉄道も開業当初から土盛りで立体交差にしたと思うんですよね。

前にも載せたけど、大正13年の府中街道の交差地点ですでに土盛りの立体だったから(右)。
府中駅は地上駅だから、そこを出てから段々と勾配がついてそのまま府中街道と下河原線を
のっこしたんじゃないかなぁ。

   

南武線が開業する前なので(工事計画が同時期なので打ち合わせはしただろうけど)
それ以降はまた地上を走ったんだと思う。
分倍河原駅はもうちょっと北側にあったのかな?
南武線が開業したときに南武の駅へ寄せてきたという話も聞くし、
開業当初のルートは若干謎のままだなぁ・・・。

   

京王線を越え再び南下。
道々に地図や看板がちょいちょいあります。

 

また線路跡が部分だけ。
ここはこれだけです。



道路に面して左を向くと
かつての番場宿の名残をおもわせる料亭。
しかし「ラ・バンバ」というはじけたネーミングはどうしたものか・・・。



鹿島坂の説明碑。
大國魂神社の大祭の時に坪の宮に御輿が出発したことを坪の宮に報告する「
国造代奉幣式」という儀式とゆかりの深い坂だそうです。
大宝律令で国造に代わり中央から派遣されてくる官人の国司が
国の神を奉祀するようになることから「国造代」なんでしょうけども。
坪の宮は崖線下にあるので坂を下るんでしょうなぁ。
社家の鹿島田家ができたのは、おそらく鎌倉時代。
鎌倉幕府が成立してから祭祀の主体は国司から宮司や社家にうつりますんで。



旧鎌倉散歩の街道案内版になかなかいい写真が。だいぶ摩耗してますけども。
下河原線は単線なので、よく蒸気機関車がバックしながら走ってたというんですけど、
頭は常に国分寺駅方面を向いていたということかな?

   

次が南武線との交差地点。
南武線は府中崖線の下を通っているので、崖下に線路があり、
ここは崖の終わり目でもあります。
なので、後から開業した南武線の方が下を通り、下河原線はオーバークロスしています。

橋の上から分倍河原方面の南武線をみる。
右側の茂みは高安寺です。
南武線の昭和初期の写真をみると、この高安寺の下を通っているのがけっこう残っています。

高安寺は武蔵国安国寺であるといわれ、国分寺にならって足利政権時代に
1国1寺1塔として設立された全国の安国寺のひとつです。
しかし、平将門を倒した藤原秀郷(俵藤太)とも縁が深いとか、
源義経が立ち寄ったときに弁慶が使った井戸があるとか、伝説には事欠かないお寺です。

一番右の写真は、橋の上から府中本町駅方面を望んだもの。
この頃って駅前のイトーヨーカドーが撤退した時期だったんだなぁ。
セブンマークの看板が覆い隠されてて、みょうに寂しい気分だった。

今はラウンドワンになって、ボーリングピンがすごい光ってます。



そして、南武線もこえて、しばらく歩くと、今度は左側の足下に気になる茂みと
社の背中が目に入ったので、道を外れて正面に廻ってみると、
先ほどの坪の宮(冒頭の写真参照)だったのです。

この時は、「なんだか随分こじんまりとした社が変な位置に残っているな???」と
気になったものの、そのままにして調べませんでしたが、まさかそんなに重要なお社とは。

ということは、ですよ?
下河原線が現役の頃は、この坪宮の後ろを、蒸気機関車や貨車がガンガン走っていた、
と、こういう面白い景色が見られた訳ですね?
いやー、そんな当寺の写真が残ってるのなら、みてみたいわー。
今では、とても閑静な場所になってよかったですね・・・?



再び緑道にもどって、あとはひたすらゴールまで歩きます。
この辺になると、もうめぼしい遺蹟もなくてですね。
競馬場へ向かう路線の分岐点が残っている位です。↑

かわりに、華やかな植物がわわ~!っとサイドを飾って居る。
こころひそかに「花葬」を連想したものです。

 
   
 


 

中央自動車道を越えた辺りで、農地と工場地帯に入っていきます。
サントリーの工場があるせいか、左側がビール瓶ケースの山。

   

そして右側がいまがさかりのコスモス畑でとても綺麗です。

 

更に進むと、今度は化学工場があるらしく、ツンとした刺激臭が漂います。
反対側は収穫後の稲田です。

 

ふたたび緑のトンネルっぽい隔絶された道に戻りました。
周囲は住宅街なのか、あまり動きもありません。
道端にあったベンチが、ちょっと野外向きでないかんじなので
「これも駅の備品かなぁ?」と思いました。

 

終点に近づき、道が大きくカーブします。
多摩川の河川敷が近いのか、砂利採集の跡地なのか。
開けた場所に気になる施設とテトラポッド。

 

ゴールはなんの変哲もない、ちいさな公園です。
これといった記念物があるわけでもなく、とても静かなフェードアウトっぷりです。

 

公園はこの交差点で切れますが、道(緑道ではない)はまだまだつづきます。
下河原の土地を説明する碑がありました。
下河原は昔は対岸の連光寺に属していたんですね。
連光寺とか、市外の人はほとんど知らないローカルな地名だと思うんですけど、
歴史はけっこうありそうな感じですね。



先ほどの交差点の道を、道になりにすすむと、いくばくも歩かないうちに
実は京王線の中河原駅に着きます。
つまり、下河原線の終点と、玉南の中河原駅は案外近いということです。
このへん、話し相手ができたってことで、個人的にはうはうはなポイントです。

撮影日から随分間が空きましたが、今時分がちょうど同じ景色だとおもうので
機会がありましたら是非。

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