たまろぐ 韮山だ~江川代官だ~! 忍者ブログ

たまろぐ

テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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反 射 炉 です。キターーーーーァ!

てか、まあ、反射炉ってなんぞやってレベルで来ちゃったんですけど。
江川代官です。韮山です。西伊豆です。

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こちらが伊豆韮山代官。江川太郎左衛門英龍こと坦庵です。
千年近い歴史を持つ名家の江川家、徳川時代は徳川の天領の代官でした。
その管轄は伊豆から相模、武蔵、駿河、甲斐と時代によってその範囲は変わりますがとにかく広範囲です。本拠地はここ伊豆の韮山ですが、ここから多摩の西の大部分の辺りまでを監視下に置いていたというのは驚くべき事です。しかも少数精鋭で。
ていうか、私の住んでるテリトリーをまるごと抱えてるんで、正直たまげましたよ。
多摩って、伊豆とこんなにもつながってたんだ?!て

いやね、開架図書のなかでもイカしたタイトルが気になって手にした
「未完の多摩共和国~新選組と民権の郷~」(佐藤文明/凱風社 /2005)で
もろめちゃカッコよく描かれていたんで、すっかり惚れてしまったんですよ。

幕末史のなかで贔屓の人物って、いままでいなかったんですけど、
坦庵代官ならもう「尊敬する政治家」にあげてもいい! 
・・・池波正太郎先生がご存命なら、ぜひ書いて欲しかった。

長谷川平蔵なみのカリスマぶり、そして周辺にいる手代の柏木さん、
日野本宿の佐藤彦五郎に佐藤芳三郎の年若き名主たち、
そしてその手先となってはたらく岡っ引きの八五郎なんて、
佐嶋忠介さんや大滝の五郎蔵親分や彦十さんみたいじゃないですかー。
いやー!もーたぎるわーーー!!

著者の佐藤さんは上佐藤(日野には代々・上佐藤家と下佐藤家という家の造りも規模もそっくりな二つの家があって、名主業などを交代してやってた。幕末に日野の本宿となっていた下佐藤の屋敷はまだそこに遺ってる)の末裔らしくて、多摩の歴史をよく研究されている。
しかも視点が反体制派の多摩擁護派なんで、幕末の多摩の立場をよく汲んでくれる。
多摩民としては読んでてとても気持ちいいカタルシスがあります(ただ中立な視点とはいいがたい)

中世史もすこしカバーしてくれているので、近代以前の多摩史に全然手をつっこんでなかった自分にはとてもありがたい指南書となりました。
啓文堂で注文したら1週間で届いたので、まだ出版元には在庫あるみたいですよ。

 

そして、こちらが韮山反射炉の当時の敷地図。
反射炉ってのは、なんだか怖そうな響きですが、ようするに耐火煉瓦を利用して
窯内の温度を反射させて効率よく高温にし、鉄の溶解をする炉のことなんですね。
資料館ないで上映しているCGのVTRがとてもわかりやすく説明してくれました。

   


窯の奥で炭を燃やし、温度が上がった所で石炭を投入してさらに温度を増し
その手前に置いた銑鉄を溶かして、傾斜を利用して鋳型へと溶液を流し込んで
大砲をつくる、とこういう施設です。

つくった大砲の鋳鉄はまだ大きな棒であり、これに水車の回転力を利用して
何ヶ月も掛けて穴を掘り進めて行き、筒にするんだそうです。
右上のはその水力に利用された古川です。

   

耐火煉瓦は伊豆の河津で作った特別製で、他の煉瓦と混じらないように「○」印をつけたそうです。

維新後は荒れるに任せていたそうですが、明治40年代になって陸軍が補修を行ったそうです。
右のは、そのときのものかな?
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反射炉から数㎞離れたところに、江川の代官邸ものこっているので、歩いてそちらへ向かいます。
途中、大きな池のある公園に出ました。
左へ行くと、韮山城跡があるらしいです。
ということは、これは韮山城のお堀の意味もあるのかな。
この規模だと、この辺りの水田用の水甕も兼ねていそうですが。

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江川代官邸。
い~や~!まだ残ってくれてて、うれしい!!
ここで坦庵代官が執務を行っていたのかと思うと・・・!(鼻血)
篤姫や仁-JIN-のロケ地にもなったみたいで、写真がべたべたありました。
受付のおじさんが、真ん中に写ってるの、俺なんだよと嬉しそうにいってました。

     

玄関の前にはきささげ(豆)の木が前に張り出していました。
これがここの大きな特徴といえば、特徴かな。
北条早雲が植えたという伝承のある木なので、むやみに切れないのだろう。
北条早雲は後北条氏の始祖だそうで、桓武平氏の一つの伊勢氏らしい。
鎌倉執権の北条氏とは関係ないことから、後北条とか小田原北条氏とわざわざいわれる。
江川家が戦国時代に仕えたおうちです。

江川家の始祖は源満仲の次男・宇野頼親で清和源氏だそうです。
6代・宇野七郎親治の代に崇徳院側として保元の乱に参加し敗北。
9代・宇野太郎親信の代のときに従者13人と伊豆国八牧郷に入り、源頼朝に従う。
10代・宇野太郎治信の時に戦功あり、江川荘を賜る。
15代・宇野英親のとき伊東に流罪となった日蓮聖人を招きその教義に信心する。
21代・英信のときに江川姓を名乗る。
23代・英佳のとき、北条早雲伊豆進出で幕僚となる。
27代・英吉のとき、豊臣秀吉の小田原攻めから韮山城を守る。
28代・英長のとき、徳川家康配下となり韮山城開城、慶長元年代官となる。
36代・英龍(坦庵)
38代・英武、韮山県知事となり、その後渡米して土木学を修養、丹那トンネルを献策。
40代・英晴、東芝副社長。
42代・洋、都内建築事務所勤務、一等建築士。

と、なんと現在もその家系は継続中です。
下手な戦国武将よりよっぽど息が長いぞー。

 

1160年代に建造され、以後増改築を経て現在に至る。
日蓮上人が書いたとされる護符が梁の上に貼られ火災にも遭わなかったので、
明暦の大火の時に、徳川に家の棟木を献上したこともあるらしい。

  

洋式兵糧の研究のため設けられたパン窯。
おもいっきり、家内の台所ですけども。本来はもうちょっと大きかったみたい。

韮山反射炉のお土産屋さんでは、復元されたパンも売られています。
パンていうか乾パンなので、固いですが、形はおまんじゅうみたいです。

庭には全国パン協議会と静岡県パン協同組合による碑がありました。
前衛的なかたちしてます。

庭に並び立つ倉の中には、大砲の模型とか、火薬の原料である硝石・硫黄・松脂や、
反射炉で出た鉄の鉱滓、品川台場の見取り図なんかが展示されてました。

台場は12個建造される計画だったものの半分しかできませんでしが、
それぞれの形を見ると、菱形だったり扇形みたいだったりほぼ三角形な5角形だったりと
かなりバラバラで用途も違うみたいですね。

松杭を多摩の鑓水から切り出したことは前に書きましたが、
「多摩のあゆみNo.137」を読んでいたら、その時の鑓水名主から幕府の役人へ請求書というか
嘆願書みたいのが載っていて、かなり重労働だったみたいです。

鑓水村には幕府の御森林があって、嘉永7年の6月と7月に品川台場建設のための切り出し命令がでて
6月に3967本、7月に660本を納入していますが、これは命令の4分の1程度だそうです。
足りなかった分は他から調達したのでしょう。
「地図と楽しむ東京歴史散歩 地形篇」には台場の芝の調達先まで書いてありましたが。
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韮山塾の風景。
当時の韮山塾は大変人気で、高島秋帆流の砲術を納めた坦庵の元には、色々な人が学びに来ました。
その中には福澤諭吉とか、井上馨などもいたそうで、
福澤さんなんかは坦庵の質素倹約な生活態度を真似して挫折した経験があるそうです。
江川家の江戸屋敷は慶應義塾に払い下げられたりもしたみたい。

江川邸は重要文化財ながら、個人の管理によって維持されていて、なかなか大変みたいです。

   

江川邸から帰る道すがらにあった路上碑。

坦庵の最期。過労死だったらしいけど、具合が急変していることから毒殺だったんではないか、
と本では言われてました。
あと「江川大明神の幟」
これは幕末に内戦で兵糧の確保から米価が値上がりして、困窮した山梨の民が買い占めを行った米問屋を打ち毀しながら東上するという一揆騒動にたいして、坦庵が多摩の農兵隊を指揮して多摩川際でこれの南下をくいとめた事から、江川代官領が山梨にも拡大し、そこで世直し大明神として坦庵が信仰されている様を象徴する旗です。
いやもう、この辺りの綱捌きが見事というか、まあカッコイイです。燃えます。
多摩の農兵隊は坦庵が伊豆の海防の為に農民に刀を持たせて兵士にするという献策から生まれたもので、崩壊した幕府の治安維持をかわって自治体が行うようになった成功例です。
天然離心流の流行もこの辺に一役かってます。

ここでできあがった素地が、明治にいたって自由民権の神奈川自由党なんかに受け継がれて行くわけですね。

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ついでに坦庵の個人年表

享和元年(1801年)5月13日、英毅の次男として韮山に生まれる
文化10年(1813年)5月韮山代官江戸役所の事務見習いとなる(13歳)
文政4年(1821年)6月25日兄・英虎が没す、11月江川家嫡子となる
天保5年(1834年)3月父・英毅が没す
天保6年(1835年)5月4日家督相続で代官に就任、太郎左衛門を襲名
天保8年(1837年)3月甲州に民情視察、9月渡辺崋山と体面
天保10年(1839年)1~3月江戸湾巡見、5月伊豆国警備策を建議
天保12年(1841年)4月10日砲術家・高島秋帆に入門
         5月9日徳丸原(板橋区)砲術演習に参加
         7月高島秋帆より砲術伝授を受ける
天保13年(1842年)4月2日手代・柏木総蔵に製パン技術を習得させる
         9月砲術師範許可、佐久間象山、川路聖謨が入門
天保14年(1843年)5月18日鉄砲方兼帯を命ぜられる、9月水野忠邦老中罷免
嘉永2年(1849年)閏4月英国艦マリナー号来航、退帆交渉に成功
嘉永3年(1850年)5月農兵制度採用を建議、6月支配地域にて種痘を実施
嘉永6年(1853年)4月下田警備を命ぜられる、6月勘定吟味役格に任じられる
         6月20日江戸湾巡見、7月品川台場建造の命を受け工事起工
         8月海防掛を命ぜられる、12月下田反射炉建造の命を受ける
安政元年(1854年)1月ペリー再来航、3月日米和親条約を締結(下田・函館開港)
         4月品川第1・2・3番台場竣工、10月反射炉を下田から移転
         11月安政の大地震、ロシア船ディアナ号座礁、被害地域の見聞、
           ディアナ号船員救助と戸田への移送を命じる、
           第5・6番台場と御殿山下砲台竣工
安政2年(1855年)1月16日江戸屋敷にて死去
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