たまろぐ 杉並区大宮八幡宮(8/11) 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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はてさて。
近頃なにやらメディアで近隣の露出が激しいんですが、どうしたことか。
タモリ倶楽部で二週続けて府中が出てきたと思ったら、
モヤモヤさまーず2では国立と国分寺が
アド天では聖蹟と埼玉大宮がとりあげられて、
なんだかあちこちに呼ばれているような気がしてなりません。どうしたものか。

とくにタモリ倶楽部で紹介された人見街道、甲州街道から分岐して高千穂大学・大宮八幡宮へ至る現役の道なのですが、ようするに「神社 to 神社」で始点と終点が神社ってどういう事ちゃねんと、大分気になったもので。コミケに参加するついでに覗いてきました。
てっきり丸ノ内線か中央線が沿線だと思っていたら、井の頭線が最寄りだという。これは便利。
おかげさまでスタートは西永福駅です。

殺風景な改札の前にこれだけが異様に主張しております。他に名物ないんだろうな。
西永福商店街の参道にある幟旗。なななんと、今年(平成25年)でちょうど950周年だそうで。
よ、呼ばれている・・・・・・?

   

最寄り駅といっても5分~10分位歩きました。
おお、鳥居だ、とおもって入ったら、行きなり本堂の随神門の横っ腹に出てしまったので、
「また、正面から入り損ねた・・・orz」
駐車場と幼稚園があって、ふれんどり~だな~とかおもってたら勝手口か。



ちなみに正面からの鳥居はあのくらい遠い。さすが。(くぐり直す気も起きない)
うわさによると都内でも三番目くらいにデカイ敷地だそうですね。
ちなみに1番目と2番目が明治神宮と靖国神社だというのだから、
だったら2つが出来る前は一番じゃんね?大宮の名は伊達じゃなかったガチだった。

 

9月にはお祝いの大祭があるらしいですよ。
あとは記念事業の資金募集。
大國魂が鎮座1900年で門を新しくするときも似たようなことをしていたな。

   

ああ!950年仕様なせいで、本来の姿がみえない!!(がーん 川゚Д゚)

お賽銭箱の横に、ご神水をとばす霧の扇風機みたいのがあって、
拝んでるあいだに左側がびたびたになりました。
なんだかな・・・(傍から見た分にはすっごく面白かったんだけど)

 

境内に立っている沿革の碑。文面は徳川家十六代当主の家達(いえさと)さんだというから、
明治以降のものなんだろうな、と思ったら大正時代だった。
徳川からは天正19年(1591年)社領30石と朱印状が与えられたらしい。
(という事は大國魂神社と同じ年か)
二町離れた所に別当大宮寺があり、そこと石をわけて15石づつでやりくりしたらしい。
明治5年11月に郷社、昭和18年6月府社に昇格(戦争の影響?)昭和41年7月に別表神社となる。
昭和37年に900年祭事業として社殿を改築した日にちなみ、
祭日を旧来の9月19日から15日に改めたんだそう。
(「文化財シリーズ 杉並の神社」より)

大宮八幡宮の縁起としては、後冷泉院の時代に奥州討伐へ向かう源頼義が白い八幡の瑞雲をみて
「宇佐八幡の影向せるならん」と思い、康平6年(1063年)凱旋の際、記念の地として石清水八幡宮から勧請したのを創建としているのだそうで。
宇佐八幡の神だ!と思ったのになぜか石清水八幡から勧請するんだね・・・いいけど。

源頼義という人は河内源氏二代目で源頼信の嫡男、ということは頼光の甥っ子か。
まえの記事で書いた、鎌倉に若宮八幡を勧請したのもこの人だった。
八幡神マニアなんかなぁ、と思ったら河内源氏の氏神なのか。納得。

大國魂神社のすもも祭の起源も、この源頼義・義家親子が奥州安倍氏平定(前9年の役)で大國魂神社に戦勝祈願をし、凱旋のとき、戦勝御礼詣りをして祭神饌の一つとして李子(すもも)を供えたことから始まったというから、大宮八幡宮の創建と大國魂神社のすもも祭とは一続きの出来事なのだな。

 

本殿の左サイドに小さなお社が二つ。赤くて派手です。ラインナップみたとこ準主役級かな?
若宮は仁徳天皇だけど「別宮わけのみや」だと荒魂になるとか怖いわ、八雲立つ思い出す。
そもそも、八幡神の一部、応神天皇の名前がホムタワケな訳で。
「ワケ」というと埼玉県行田市の稲荷山古墳から出た有名な鉄剣銘文にも
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
と、「ワケ」がつく。
「 国造制の成立と展開」に「ワケ」は一時期はやった皇族や地方豪族などの首級が有した称号の一種で、それがのちに名前の中にとりこまれていった、みたいな説明が書かれていたのだけど、読みかけなので、まだいまいち消化出来てないです。勉強中。

 

そのお隣が稲荷神社。こちらは生活神というかんじ。
明治に郷社だったというからここにまとめられたんだろう。

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そしてそして!こちら右サイドが天神社!!
いいですねぇ、左と違ってこの寂れた感じ!
また、所帯がごちゃついてるんだわ。

天満宮というと今でこそ大概、菅原道真に乗っ取られてますが、
もともとは少彦名神を祀っていた事が多いんですよ。しかも、古い。

「延喜式神名帳」に載る多摩の社は8つだけ。
そのうちの2つ、調布の「布多天神社」と稲城の「穴澤天神社」の神様も
少彦名神で、卒論の時にお参りにいきました。

天神社における、たいがいの由来が、菅原道真が左遷されたとき、移動の途中で足が痛くなって、
そこの神様に祈ったら治った、というもの。それでお礼にお祀りしたとかなんとか。
さらに出先で祈ることになった主体はときどき変わります。
上野公園の中にのこる五條天神社なんか象徴的なんじゃないかな。
(http://www.guidenet.jp/shop/4532/)
この場合の祈る主体はヤマトタケルなんですけども、やっぱり後から菅原ちんが一緒になってる。
天神様信仰であまりにも有名になった結果だとは思うのですが、天とつけばねじ込んで来るからなぁ・・・。

迂遠な関係性を考えれば菅原氏のもとは土師氏で、その一部が奈良の菅原邑に住んだからその姓を名乗るようになった。土師氏は、古事記によると出雲国造や武蔵国造とおなじ天穂日命(あめのほひ)を祖とすると書かれており、アメノホヒは天孫降臨の前段として、大国主に国譲りのつなぎをつけにいって、とりこまれて帰ってこなかった神様で、そのまま大国主を祭祀する立場になりました。
出雲大社の宮司の千家と北島がその神の後裔であり、南北朝時代を境に二家に別れたようです。
ちなみに明治時代に東京府知事になったり東京鉄道社長になったりした千家尊福(たかとみ)さんは、この出雲の宮司の家出身で、第80代出雲国造だそうです。

そう思うと菅原家の氏神かどうかは分かりませんが、
大国主・少彦名を奉るのもわからなくも・・・ない?
もうちょっとダイレクトな説をいえば間壁葭子さんの「古代出雲の医薬と鳥人」に、菅原道真があれだけ出世できた背景には医薬の技術の力があったんではないか、というものがありますが、そこつっこむ前に卒論の締切が来てしまったからなぁ。
それが裏付けられれば、道真が大国主でなく少彦名の方をやたら祀る理由も合点がいくのですが。


だがしかし、この神社で重要なのは「三崎神社」と「山神社」ですね。
これがもともとの、ここの神様たち。素朴な信仰だったと思うのですが、
国土開発の影響を受けて、大国主・少彦名の二神に上書きされて、さらに菅原道真に上書きされる。
そんな感じを想像しますね。(根拠はないっすよ)

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天神社をすぎ、本堂にむかって右側の門をでると和田堀公園につながります。
和田堀公園は善福寺川が弓なりになって流れる対岸にあります。

   

そして、なななんと!
この大宮八幡宮のすぐそばに、方形周溝墓(四角く溝に囲まれたお墓)の遺跡があるとな!
昭和44年に発掘された、都内初の方形周溝墓だそうで、遺跡としては弥生末期?
隣接する高千穂大学の中にも古墳時代のものと思われる円墳が残されているようで、
高千穂大学大宮遺跡は、旧石器時代・縄文時代中期・弥生時代・古墳時代・中世にわたる複合遺跡だと云われています。

関東の古墳は方形周溝墓からはじまり、前方後方墳(間にくびれができる)に発達し、大和の影響を受けて大型の前方後円墳を作るようになり、また中央の流行にあわせて単純な円墳や方墳になって終わっていくのですが、その経緯を想像しても、ここはずいぶん昔から信仰を集めて来た歴史のある土地のようですね。善福寺川のおかげかな?
まあ、最終的にはそこを大宮八幡宮が乗っ取ったんだな。

ちなみに神話じみた名前の高千穂大学はもともと明治36年に大久保にできた私立学校で、
「日本民族の精神的原点」を学ぶためにつけられたらしい。
大正3年には高千穂高等商業学校だけが大宮にできてたけど、
東京大空襲で大久保の他の学部も杉並大宮に移ってきたらしい。

もともとはそこも大宮八幡宮の宮地だったんじゃないかと思う。

   

和田堀公園は都立公園らしい。そしてやたらとカラスが多くて、おっかない。
階段を下りて川に望みます。
・・・タモリ倶楽部のマーク?(たぶんちがう)

   

左~右~と見ると、すごく湾曲してる。
また公園側から、神社側(遺跡側)を見ると、高さが全然違う、崖の上にあることが分かります。
善福寺川沿いにはこの崖に、横に穴を掘って埋葬する、横穴式のお墓も多いそうです。

時間がなくて松ノ木遺跡のほうまでは見れませんでしたが、
こちらの低い方の岸には竪穴式住居や水田跡があるそうです。
祭祀と生活の場を、川をはさむ事で分けていたと解釈出来るそうですが、
この高低差もけっこうキーなんじゃないかと。
(中の台地の上に集落をおき、丘陵の上には古墳をおいた相模みたいに)

   

水田はありませんが、池はありました。
どこからか、水を引き入れているようで。


そろそろお昼になるので神社側へ戻ります。
また子細ありげな名前の橋だな~。
あの崖の上は高千穂大の運動場かな?

和田堀公園の「和田堀」というと和田堀給水所を思い浮かべるんで「お堀でもあるのかな?」と思ったら、明治22年に和田村と堀之内村、和泉村、永福寺村が合併してできた地名だそうで、和田堀というものがある訳ではないんですね。
しかも、この合併の時に和田村のほうがでかいから和田村にすると4か村の組合で決めたのに
堀之内村の妙法寺が「うちは堀之内妙法寺として有名なんだから和田村になりたくない!」と信者を導入して反対したため、揉めに揉めての折衷案で和田堀村になったらしい。oh…

その和田村と堀之内村ですが、和田は和田義盛の屋敷があったからという言い伝えが由来で、
堀之内村はお城の堀があったから、堀之内、という感じでついたらしく、
はい、出ましたね、鎌倉武士。
この和田義盛がおこした和田の乱には武蔵七党の有力党である横山党も荷担し、
そのことで滅びたりしてるんですが、杉並には北条に追われた和田側の落ち武者をかくまったものの、見つかって首をはねられた。その遺骸を葬ったという7つか8つ位の塚があって、実際さびさびになった刀も掘り出されたんだけど、開発によって保存されることもなく潰されたそうです。もったいない。

地名の由来にはなっているものの、和田義盛の屋敷があったという史料も証拠もなく唯の伝承で終わっているそうです。

源頼義・義家親子や、和田義盛の伝承なんかがあるように、ここ、和田堀の大宮八幡宮へは武蔵国府からつづく官道があり、鎌倉には同じルートで鎌倉街道が設けられたようです。
どうも人見街道がそのルートの末裔らしいのですが、昭和59年に都だか国だかが、地元民から見ても外れたへんなところに「人見街道」の標識を立ててたんで、「人見街道といったら三鷹の方を通るやつだろう、なんでこんなところに標識たててんだ」と行政に質しに行ったら、「いや、学者とかの意見も容れて決定したんで」という返しで、どうも現在の位置や目印はいろいろ怪しいようです・・・。



大宮八幡宮の境内の中には、武神の神社らしく弓矢の道場がありまして、
ボランティアで公園内の清掃も行っているようでした。これだけ立派だと樹木の維持も大変だ。
あと、大宮様はなぜか境内でウコッケイも飼ってた(謎)

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