たまろぐ 熊野神社古墳(8/25) 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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今日も今日とて、休日出勤ですが。
午前中の時間を利用して武蔵府中熊野神社古墳を見てきました。

ふるさと府中歴史館のチラシで国衙跡とともに、一押しされてた古墳なので
考古学的にはどのくらいの位置付けなんだろう・・・?と、このあいだまで
「東京の古墳を考える」( 品川区立品川歴史館企画/雄山閣発行)を読んでました。

・・・一応、最近の発掘としては大きなもののようですね。←

 

最寄駅はなんと南武線の西府駅~!
新駅開業して以来ですよ見に来るの。しかも、外観みたのはこれがはじめてです。

 

ロータリーのまわりままだまだ草地が多いな。
ただ駅前に着々と巨大なマンションが建設中。
入居予約は無事満員になったらしい。
あとは、お寺さんみたいのが、空き地の先にのこってるのが気になるな。
もう少し北へ行くと甲州街道にあたり、いなげやとかがあるのでそんなに不便な土地ではない。

   

熊野神社は甲州街道に面していますが、それより一本手前の裏道をいく方が近道みたいです。
甲州街道の南側にある本宿内の道だから本宿南裏道らしい。
車通りも少なく、歩きやすい住宅路です。

 

そこから甲州街道へ出る北の道に曲がります。
その近くにあったポスターによると9月に例大祭があるようですね。

 

つきました~。
樹木が少なくて殺風景なのが、甲州街道のせいなのか古墳の発掘のせいなのか。
しかし、鳥居に巻きつく緑の巨大なしめ縄が印象的です。(どういう意味が?)

   

敷地の左側には古墳に関する資料館が立っていました。
この黒い建物は、古墳内部の復元らしい・・・。
その壁には「くまじい」と「おくまちゃん」のマスコットキャラクターが・・・。
くまじいはギリギリじゃないかな?ヒゲは出土物の七曜紋の鞘尻金具がモチーフのようだ。

資料館は後回しにして、まずは神社にごあいさつ。

 

拝殿に向かって二礼二拍一礼。
してる先にちょうど、お猫様がいて、なんだか猫に向かって頭を下げている気分に。
それにしても、この猫様堂々としていて偉そう。
首輪していて毛並みもいいので、神社で飼われているのかもしれない。

 

そして、セミに無体な遊びを。(高速で羽ばたいてるので蝉がみえませんが)

 

この社殿自体もなかなか、歴史のあるものらしく。市の文化財になってます。
ご祭神はとりあえず素戔嗚尊(すさのお)さん。

熊野神社って、いまいち実態が分からなくていつも理解がむつかしい・・・。(苦手)
なんか、どこにでもあるんだけど、熊野で信仰してるのって神?仏?てところからあいまいで。
融合してるというか、どろどろでよくわからない。熊野信仰を広めたのは修行僧らしいけど。
熊野の神社が3つくらいあって、熊野の名前の神様それぞれがいて基本はそれでいいんだろうけど、
でも各地の熊野神社の祭神はだいたいイザナミ・イザナギ・スサノオとかで。?
根の国の入り口が熊野だから、てところから始まるみたいなんだけど。
熊野権現って、べんりな言い方だよなぁ・・・。つきつめていくとよくわからないんだけど。
十三念仏みたいな、有名どころの神様の「もりもりのましまし」で、いいのかなぁ?

各地域の熊野神社はべつに嫌いじゃないんですけどね、むしろ自然でいつきがいい。

 

それとは別に境内の右隅では八衢比古(やちまたひこ)と八衢比売(やちまたひめ)を祀っていました。
これは、道の交差する衢(ちまた)を守る道祖神の一種のつがい神ですね。
道祖神はイザナギがイザナミから逃げる黄泉比良坂(よもつひらさか)のお話しの中で発生している神で、道を通して入ってくる悪いものを防ぐ役割があります。
これも熊野関連(黄泉の国)で祀っているのか、
それとも府中高札場のあたりなんかが甲州街道と川越街道=川崎街道=府中街道と新旧鎌倉街道なんかが混じり合う、まさしく八衢(やちまた)な交差点なので、そこを守っていた神様なのかもしれない。
こっちのほうが興味あるところです。

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さて、本命の古墳です。
復元がなされて、公園のアスレチックの一種みたいな異様な姿に。の、のぼりたい・・・。
発見される以前は、木がぼうぼうのプチ裏山みたいな感じだったんですけど。鎮守の森というか。
たいがいの神社が墳丘の上に社殿をたてて、墳丘を破壊してしまうなか、
その手前に社殿を立てて森をそのままにした熊野さんは、なんというか殊勝だなぁ・・・。

平成17年に復元が終わってセレモニーしたらしいです。



さて、なんで熊野神社古墳が国指定の遺跡なのかというと、これが上円下方墳という
正方形の基壇の上に半円の墳墓をのっけちゃった、終末期といわれる飛鳥時代にかかる
めずらしい形の古墳だからで、全国でもまだ片手で数える位しかこの形の古墳は発見されてない。
そのなかでも、この熊野神社古墳は最大級なんだそうで。

前方後円墳がだんだん作られなくなって(古墳時代の終わりといわれる)、
八角墳とか円墳とか方墳とかになってくるですけど
そのうちそれ等を組み併せた最終形態の上円下方墳が登場する。

天智天皇陵がまずそれだといわれていて、明治天皇や大正天皇の御陵もそれにならって
上円下方墳が選択されたんだけど、のちの研究で天智天皇の墳墓は
実は八角墳だということが分かった(笑)
だから、天皇陵で上円下方墳なのはむしろ近代からなんですよね。

ただ、全国の古墳の総数がだいたい15万~20万基で前方後円墳が約5000基、
前方後方墳をふくめても6500基くらいで、一番多いのが円墳。
ということは、今後はただの円墳とおもわれているものの中から
上円下方墳が発見されることもあるかもしれませんね。

熊野神社古墳の特徴は、内部構造が玄室と奥室(後室)と前室(羨道)の3室。
版築工法という種類の異なる土を何層にもとんとん突き固める方法で
強度をましている。(超手間が掛かる)
石室は軟質で加工のしやすいシルト岩の切石で、わざと石をL字にして組み合わせて強度を増す切石切組積みという飛鳥時代の古墳に特徴的な積み方で、仏塔の基壇づくりなんかでつかわれる新しめの技術を導入してる。
のわりには玄室は胴張り型という、武蔵地域によく見られる従来型の仕様である。
上円下方墳という最新モードを、しかも基壇と方墳と円墳という3段重ねで実現(ほかはだいたい2段)、1段目と2段目には葺き石(でかい岩)と張り石(平べったい石)を箇所によって使い分けて、
みっちり表面を覆っている。(葺き石の角が直角で残っていたから下方墳だとわかった)
その上保存状態がかなり良好である。

 

というようなかんじで比較的大型の手間の掛かる作り方がされているので、総合すると被葬者はかなり地域で力のあるトレンディな人物である一方、玄室が武蔵型なので中央官人ではなく在地の首長級なのではと云われています。

そのうえ、時期が終末期の7世紀中葉で、武蔵国府ができる直前につくられたところから、
国府選定にもなんらかの影響力(協力?)もした人かもしれないという。
ただ、考古学は他の例との相異を積み重ねて結論を出していくので、
5年や10年で結論のでるものでもなく、まだまだ可能性の話らしいですが。



ところで、この玄室には明治時代までは入れたそうです。
明治17年発行の「武蔵野叢誌」には石室の中に入ったときの様子が書かれているそうで。


発掘の時には玄室の壁になにやら文字が書いてあって、学者が「ファ!?(墓誌?)」ってなったんだけど「歩兵第一聯隊第一大隊附四名」というらくがきだった。陸軍・・・の、やんちゃさんめ!!
ただ発掘の時には玄室の天井が崩れており、石室がやわらかいため、関東大震災のときにでも
崩落して入り口が分からなくなり、そのまま忘れ去られていたんだろう、ということでした。

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あとですね。神社の正殿が、まったくの白木で新しくなってて、すごく気になりました。
まさか発掘や復元作業の為に壊 し た・・・んじゃないよね? ((川゜Д゜)))ブルブル

   

裏手に回って、全体の大きさを堪能。
こちらからも拝めるように鳥居が設けられていますね。
三段重ねにする事で、平地でも高さが強調されてます。なんだかパワーありそうです。
それにしても、住宅街のど真ん中にあるので、へんな空間になっていることも確か。

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熊野神社古墳展示室の方は、入館無料でコンパクトな展示室でした。
あまり時間がないので、例の石室内部の方はみませんでしたが、
一定時間おきに映像が流れていました。
復元の時の、石張り作業がすごく大変そうvvv
よくあんだけの石、あつめたなぁ。(という部分にだけ感心)

あと古墳まつりというのを毎年やっていて、映像見る限り飛鳥・平安時代のコスプレするらしいv
今年は10月20日に開催のようです。

映像では府中で復元栽培されている古代米もふるまっていました。
赤黒くて白米とたくとお赤飯のような色が付くのですが、この古代米はたしか府中駅構内のぷらりとの和菓子屋さんでも売られていて、モナムールのレストランでも食べられるのかな?
あとはコンチネンタルホテルのなかのレストラン、ヴァンフランのランチでも提供されています。
食感はさくさくとしていて、それほど味はありません。

ところで、展示室で紹介されていた上円下方墳の例が4つしか無かったんですけど。なぜに?
ウィキだと石のカラト古墳(奈良県・京都府)、清水柳北一号墳(静岡県)、野地久保古墳(福島県)と熊野神社古墳(東京都府中市)、天文台構内古墳(東京都三鷹市)の5例が報告されてるんですけど、ここの展示だと天文台構内古墳がフリップがもれている。
比較的新しい発見だからかな~と思ったけど、だったら野地久保古墳のほうが後じゃんね。

場所もここから近いですし、規模も熊野神社古墳の9割くらい、基壇と葺き石はなく、熊野神社古墳にはなかった方形周溝があるものの、3室で胴張り玄室という、熊野神社古墳にとても近いものなのに、ここに紹介がないのはなぜ。

「東京の古墳を考える」(発行2006年)でも、発見からまもなくてまだ報告程度にとどめた内容で、上円下方墳かさえ書かれていなかったんですけど、「多摩のあゆみNo.137」(発行2010年)にはちゃんと上円下方墳だったって、結果が載っているのにな?謎です。

ちなみに野地久保古墳が、高さ1.5mの、上円直径10m、下方一辺16m、
清水柳北一号墳が、高さ推定2.8mの、上円直径9m、下方一辺12.4mで最小、
石のカラト古墳が、高さ2.9m以上の、上円直径9.7m、下方一辺13.8m、
天文台構内古墳が、高さ2.1m以上の、上円直径18m、下方一辺30mで円墳がでかい、
熊野神社古墳が、高さ4.8m以上の、上円直径16m、下方一辺32mの最大級で
武蔵国内の上円下方墳は比較的大型なのがわかります。

今後、両墳の関係性が、いろいろ判明するといいな。と

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