たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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関戸でかりた本の貸出期限がそろそろなので図書館に返すついでに
アド天でも紹介された熊野神社にいってみました。
関戸の地名の由来となった関所の木柵あとが復元されているんですが、
「霞の関」と呼ばれていたんですね。
この神社の奥の山の上に関戸城もあったという。
府中市郷土の森発行の「あるむぜお」No101に、この神社の目の前を通る旧鎌倉街道は
古代では相模国~武蔵国~上野国の国府を結ぶ道・東山道武蔵路であり
中世には鎌倉~武蔵府中~上野・信濃方面へ通じる鎌倉街道の上道としても設定されたとあります。
霞の関が設けられた時期はわからないものの、『曽我物語』に朱雀院の頃、平将門が関戸を設け、俵藤太秀郷が霞の関と名づけて打ち破った(有名無実の関という意)という伝承が紹介されているそうです。
将門は武士が政権を執る鎌倉時代よりも前の武士勃興期の人物なので、
鎌倉街道が設定されるより前からこの関はあったという見方ですね。
将門は千葉や茨城、群馬の土地をめぐって戦った人らしいので、
上野国府に通じる東山道武蔵路から連想したのかもしれませんが、
一応、この伝承は単なる後世の作と結論づけられているようです。
(武蔵国府も将門に支配を受けた時期があった)
東山道武蔵路は律令制度が施行され東山道に属していた武蔵国への連絡ルートとして
上野国府から武蔵国府へ設けられた道で、発掘調査で7世紀後半に造られた事がわかっているそう。
宝亀2年(771年)に交通不便を理由に武蔵国が東海道へ移管されたため、(上野~府中の)公道ではなくなるものの、碓氷峠(東山道)や足柄峠(東海道)へ強盗団などが逃亡したり、
「富豪の輩」「しゅう馬の党」が略奪行為をしながら東山道と東海道の間を行き来するため板東の乱においてこの連絡道は重要な位置を占め、関の意義もあったと予想されるようです。
(「霞の関」の伝承~平将門と東山道武蔵路~小野一之)
これがその旧鎌倉街道。
住宅地を一本はさんでむこうにできた鎌倉街道(多摩ニュータウン通り)にくらべると
狭くてけっこうアップダウンがあります。並行しているので裏道みたいな使われ方をしています。
ただしバスの運行系統は結構おおくて、京王バスがよく通ります。
もうすこし先へ行くと多摩市役所と市の中央図書館があります。
バス停の後ろの塀には参議院選挙の看板。山本太郎さんが仕事が早い。てか選挙区ここだったんだ??
神社の向かいにあった相澤さんの看板が気になりました。
連光寺の名主は富沢家でしたが、関戸の名主はじつは相沢家なんですよ。
だからもしかして、そのゆかりの方かな~?と。
相沢家では相沢伴主という人が、華道の允中流挿花の祖として有名で、
何年か前にパルテノン多摩が企画して紹介したらしいんですが、跡を継ぐ人がいなくて絶えてしまったので、流派は残っていないそうです。多摩市の数少ない歴史的風流文化です。
(http://www.parthenon.or.jp/goods/postcard/card06.html パルテノン多摩)
熊野神社の目の前の坂を下ると、今の鎌倉街道に突き当たります。
その先は乞田川です。このでかい2車線道路は乞田川の沖積地帯で低地です。
旧鎌倉街道はそれより数メートル高い場所を走っているので、
丘陵の影響を受けて上下にわりとうねっているんですね。
乞田川は多摩川の支流で、関戸から多摩センターのあたりまでのび、
そのあいだにはずっと桜並木が植わっているので桜の名所でもあります。春はとても綺麗ですよ。
(乞田川の写真はもっと昔に撮ったやつです)
写真だとわかりにくいので、自作の地図。
先週のタモリ倶楽部の影響(架空地図マニア特集)をうけて自分でもやってみました。むずい-
神社に復元された関をみるに、そのまま乞田川に向かって伸びていたんだろうと思われます。
鎌倉街道でバスに乗って聖蹟の駅へもどります。
途中で乞田川と合流する大栗川に出合います。
一昨日やってた「耳をすませば」で眼下にときどき見えてたのはこの大栗川だと思います。
乞田川に比べるとけっこう曲線を描いているんですよね。
写真でバスが渡っているのは旧鎌倉街道の大栗橋(奥)と、鎌倉街道の新大栗橋(手前)です。
その先で川崎街道と鎌倉街道が交差しています。
ここが、聖跡桜ヶ丘の駅へ向かう入り口となっていて、
直進すれば府中へいく関戸橋、左折して川崎街道へ入れば聖蹟の駅です。
聖蹟の駅では今週末にある朝顔市の準備の真っ最中でした。
先週今週は仕事でいそがしくて、色々なものが書きかけ放置でもうどれから手をつけたらいいやら。
そんななか金曜に耳すまやってて、また聖蹟の記事かかねば~!と再燃。
見たのは会社の食堂で冒頭までだったんですが、アド天で聖蹟やるよ、と教えてくれた地元民の人と、
ジブリが大好きで高校の時耳すまツアーで聖蹟行ったという職場の人にはさまれての鑑賞だったので、
異様な盛り上がりを(笑)
しずくが住んでる団地の最寄り駅は聖蹟じゃなくて、百草園駅がモチーフなんですね。
最初、高架で登場したはずの京王線が別カットで地上駅になってて「???」となったら、
一駅分電車乗ってた。サイドからの解説で、漸く脳内地図迷子から脱せられました。わはは
あと先ほどの相沢伴主さんのお墓があるという関戸の観音寺が、先の熊野神社と聖蹟駅の間にあるのを
あとで知ったのですがね、なんと毎月16日に関戸の合戦の弔いをしているとウィキにあったので
「(中世の戦の弔いを続けているなんて)な、なんて殊勝な寺なんだ・・・!」と思ったら、
昭和30年代にやたらと働き盛りの30代、40代が亡くなるんで
「呪われてるんじゃね?」という理由で始めた弔いだった(汗)
い、いや、それでも立派だと思います。
ただ、公式?そのお寺さんの方がやっているブログで
新名物のゆるキャラ仏像の写真を見たら撃沈しました。orz
うわーい、機会があったら次回は絶対ここ行こう!!
それと気になったのが、そのお寺さんのサイトに載ってた「京王観音霊場」の文字。
なんだ?これも京王の事業の一環か?と思って検索したら、これもまた撃沈する記事のオンパレード。
れ、霊場って登録制だったんだ・・・。それにしても、この京王霊場に関しては、お寺さんの方が
「ウチは参加してない」「きいてない」「そもそも観音様奉ってない」という珍回答。
いやいやいや、面白すぎるだろう!?なんだ、そのいい加減な設定。
「最近よく聞かれるんで仕方なく対応するようになった」みたいな文脈のところもあって、
むしろお寺さんにご迷惑がかかっているよう。
京王がのりで設定して、そのまま放置したんだろうか・・・。
けっこう、他の電鉄でもそういう霊場設定してるらしいですね。面白いわ~
いろんな趣味があるもので。勉強になりました。
それにしても昭和18年は超絶戦時中じゃないか???戦後の方が説得力あるけどなぁ。
それかハイキングブームの昭和9~10年頃なら納得。
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