たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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京王の前史1で発起人が玉川ゆかりの人たちであること、
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
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