たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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「人物叢書 前島密」(山口 修著/吉川弘文館/平成2年)より、面白そうな所を年表に
・・・するのに、すごく時間かかったです。orz
なんか、ここ最近、家帰ると11時だったりとかするんで、朝やろう、と思って寝て、
気づけば出勤時間みたいな。川
全然集中してやってないんで、また挿入場所まちがえたりしてるかもですが、
こちらの本は個人的にほんとお役立ち情報まんさいでございました。
だがしかし、ここからどう組み立ててやろうか。
陸運元会社については、別な本から。えーと「江戸・東京の水辺の事典」です。
荒玉水道道路のこと載ってないかな、と思ったんですけど、そっちは無かったですね…。
しかし、おもわぬ拾いもの。
京王が、日電に乗り換えたあとも、荒玉水道町村組合かなんかへの供給はまだ東京電灯から受電してた、ていうことなんで、もしかして桜上水ら辺の分譲地のことかと思ったんですが、そっちはいまだもって、よくわかりません。(^ ^;
まあ、おいおいで・・・。
あ、ヒソヒソ★はこの所、職場の仲間内で呼ぶ某漫画の同名キャラクターのあだ名です。
なんか、おかげでそれがちらつく(笑)
====================================
慶応3(1867)年5月前島来輔、開成所の数学教授に任ぜられる
(開成所にくる前は寺子屋をしており、生徒に星亨がいたらしい)
8月前島来輔、兵庫奉行の手附役となり、神戸開港の事務に従事
慶応4(1868)年1月9日前島来輔、神戸を退去し江戸に帰る
2月前島来輔、勘定役格徒目付にとなり東征軍応接のため東海道に出張
3月前島来輔、大久保利通に「江戸遷都」を献言
7月前島来輔、駿河藩留守居役となり静岡に移る
8月前島来輔、駿河藩公用人になる
9月8日明治と改元
10月13日天皇が東京に着き、江戸城を皇居と定めて、東京城と改称する
12月8日東京城を出る
明治2(1869)年3月前島来輔、遠州中泉奉行となる、このころ密と改名
7月8日官制改革により民部・大蔵など六省を設置
8月11日民部・大蔵両省を併合、省の形は残したまま首脳部が兼任、
租税司など四司を民部省に移管、通商司は大蔵省に移管
民部大蔵卿は伊達宗城(むねなり)、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文、大丞は井上馨
租税正として旧幕臣・渋沢栄一がむかえられる、推薦したのは民部大蔵少丞の郷純造だった
11月渋沢栄一が民部省に出仕、省内に新しい局を設けることを提案
11月末渋沢の提案を大隈が容れて改正掛を設置
12月25日東京(築地)横浜間に電信を開通(神奈川県知事・寺島宗則の手による)
12月28日前島密は上京し民部省に出頭、民部省九等出仕を拝命して改正業務を命じられる
12月29日通商司は回漕会所飛脚船を引き継ぎ『東京大阪商船規則』『東京大阪郵便船規則』を制定
公私の旅客・貨物の回漕を命じ、翌年正月から業務開始
明治3(1870)年1月明治政府は外国から蒸気船を買い入れ、旧来の廻船問屋や運送問屋に命じて
回漕会社をつくれせ月3回の定期航路を開く(通商司の配下)
使用船舶は旧幕府の軍艦の陽春・長鯨を霊厳島に回漕し回漕会社に運用させる
この組織に属した者は回漕問屋三軒(銭屋卯兵衛・利倉屋金三郎・越後屋喜右衛門)
定飛脚問屋四軒(京屋弥兵衛・和泉屋甚兵衛・江戸屋二三郎・島屋左右衛門)
外四軒(木村万平・松坂屋弥兵衛・木屋小左衛門・井上重次郎)
1月5日前島は民部省に出頭、改正掛の上席をしめる(上席には租税正(奏任)渋沢掛長のみ)
1月29日改めて『郵便商船規則』制定
3月太政官の会議にて大隈と伊藤は東京ー横浜間の鉄道着工を提議、
前島密は草案を命じられ、『鉄道憶測』を提出
3月14日改正掛は建議を作り、大隈はそれによって朝議に臨み、京浜間の鉄道建設が決定される
3月17日鉄道の測量を伝令
3月25日鉄道建設に着工
4月12日前島密は改正掛所属のまま、租税権正に任ぜられ、官等7等となる
6月17日大蔵大丞上野景範は特命大使として英国派遣、前島はその差副となる
(ネルソン=レイの100万ポンド起債契約の破棄のため)
6月28日上野一行は横浜からサンフランシスコ行きの船で出帆
8月大阪神戸間にも電信開通
8月11日「横浜毎日新聞」が創刊
明治4(1871)年1月霊厳島の回漕会所は為替会社に移管され、回漕取扱所と改名
構成員は旧飛脚屋仲間の江戸屋・京屋・島屋・和泉甚など
3月10日駅逓権正の杉浦譲は駅逓正に昇任
3月14日郵便開業
5月8日政府は元飛脚問屋の業務を「陸運元会社」に継承させる
(この会社は飛脚屋の蒸気船運輸業務への転換となる)
7月14日廃藩置県が断行される
7月15日横浜に郵便役所が設けられ、東京ー横浜間の間に直通便が開かれる
同時に金子入書状の取扱も開始
7月29日太政官の規模が拡張、三院八省がおかれる
民部省は廃止となり、駅逓司は大蔵省に移管、駅逓正の三浦は民部省から大蔵省出仕に、
駅逓正にはかわって田中儀兵衛が任ぜられる
大蔵卿は大久保利通、大蔵大輔は井上馨である
7月通商司を廃止
8月郵便線路は大阪から下関、四国の高松をへて宇和島まで伸ばされるがこれは民間の請負による
政府は「郵便蒸気船会社」を設立、前出の回漕会所との関連は不明
8月10日駅逓司は三等寮に昇格し、浜口義兵衛が駅逓頭に任ぜられる
8月15日前島密ら帰京
8月17日前島密、駅逓頭に任じられる
8月23日前島密、度量衡改正掛の兼務を命じられる
10月当初、東海道の郵便を府県藩の官吏を出張させて駅から駅へ郵便脚夫が運んでいたものを
陸運会社に委託
(これより各地に陸運会社が設立され、郵便事業に反対する旧飛脚業者に転向を促す)
12月5日郵便は長崎に達し、神戸と長崎とに郵便役所が設けられ、『郵便規則』が公布
従来は書状のみの取扱だったのに加え、日誌(雑誌)と新聞紙の取扱も開始
明治5(1872)年1月高崎で以前から民間より馬車の出願があり、駅逓寮はこれに「郵便馬車」の名称を付し
東京ー高崎間を認可、馬車会社には資金を貸与し無償で郵便物を輸送・配達することを命じる
1月5日郵便で書籍類、および見本品も取扱開始
2月「東京日日新聞」発刊
3月大蔵省内の駅逓寮は東京郵便役所に移転
『改正増補郵便規則』(ひながなまじりの易しい文章)公布
東京市内では1日3回の配達が開始
6月日本橋左内町(現中央区日本橋一丁目)の和泉屋甚兵衛邸内に陸運元会社が設立される
各駅(幕府制定の五街道の宿駅)の陸運会社と連絡を取りながら、専ら貨物を取り扱う
6月2日前島密、大蔵省四等出仕、駅逓頭との兼務、このころ駅逓寮は二等寮となる
6月10日「郵便報知新聞」を創刊、発行者は郵便取扱人の太田金右衛門だが後ろで前島が指導する
7月1日北海道の北半を除いて郵便が国内一般に施行される
このときの郵便最高額は全国を通じて五銭という低額を実現
8月廃藩置県によって大蔵省に属していた各藩の汽船を回漕会社の所有船とあわせて
民間に払い下げ、回漕取扱所を改称、「帝国郵便蒸気船会社」を設立
補助金を与えて東京ー大阪、函館ー石巻間を運航させ郵便物を無料運送する
8月末 伝馬所、助郷の制度を廃止
9月12日鉄道開通式
(この鉄道開通後は過当競争を続けた東京ー横浜間の蒸気船による交通は大部分が廃止される)
10月政府は琉球国王を琉球藩主とし、華族に列す(日本国への正式な編入)
11月『国立銀行条例』が公布
(このころ前島密は為替の規則や施行案を草起し大蔵省に建議、
井上馨大輔は為替を取り扱う人員がいないと資金下付に難色を示している)
12月3日改暦、太陽暦となって明治6年1月1日とする
明治6(1873)年2月「ひらがなまいにちしんぶんし」を発刊
2月電信が福岡から佐賀をへて長崎まで達する
3月『改定郵便規則、郵便犯罪規則』が公布、4月1日から施行
5月1日信書の扱いは駅逓頭の特任となり、ここに郵便の政府独占が確定し、
飛脚業者の信書送達は全く禁止される
5月14日大蔵大輔の井上馨と三等出仕の渋沢栄一らが財政改革に異議を唱え下野、
大蔵首脳部が欠員となる(大蔵卿の大久保利通は4年10月から遺歐副使として外遊中、
5月末に帰朝するが征韓論議をさけて出仕しない)
6月陸運元会社、水上運輸業務を開始、利根川・荒川・鬼怒川で航路開設
6月11日三井組と小野組を中核にして「東京第一国立銀行」が設立
しかし国立銀行は紙幣を発行しても支店がないため為替はまだ取り扱わない
6月15日前島密は大蔵省三等出仕に昇進し、駅逓頭と兼任、
6月17日にはまた「大蔵輔心得」を以て事務取扱を命じられる
8月郵便取扱人という名称が郵便取扱役と改められる
8月6日日米郵便交換条約調印
9月陸運元会社、航路を下総の町の境町まで開く
9月15日新橋駅ー横浜駅間で鉄道による貨物輸送開始
10月西郷等征韓派の参議がいっせいに辞任
11月10日あとをうけて内務省が新設、大久保利通が事実上の宰相となる、駅逓寮は内務省に移る
明治7(1874)年1月郵便蒸気船会社に命じ、琉球との間に郵便船の往復を開始
1月8日駅逓寮は大蔵省から内務省に移管、前島密は大蔵省三等出仕を解かれて駅逓頭に専任
1月29日前島密、内務大丞に任ぜられ駅逓頭と兼任
2月佐賀の乱がおこり、佐賀県庁が襲われ電信線が切断されて福岡から先が不通となる
3月陸運元会社、水運課を新設
下野・阿久津河岸(栃木県氏家)と小網町(中央区日本橋)に回漕所を開く
3月20日前島密は首里や那覇などに郵便仮役所、その他の要地に郵便取扱所の開設を強行し、
琉球の日本国帰属論の布石とする
4月去る明治4年10月に琉球の島民が台湾の南端に流れ着いて原住民に殺害されたことをうけ、
台湾遠征を推進する大久保・大隈は、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮地事務都督とし、
陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行
遠征に際して郵便蒸気船会社は役に立たず、かわりに岩崎弥太郎の三菱商会に、
政府が購入していた十三隻の船の運用を依託
軍事輸送を申しつけられた三菱は、これによって莫大な利益を得る
9月『郵便為替規則』制定
10月『国内回漕規則』制定
明治8(1875)年1月1日日米郵便交換条約が実施
1月2日全国を通じ百十ヶ所の郵便局で郵便為替を取り扱うことが公布される
1月8日横浜郵便局の外国郵便開業式
2月政府所有の汽船を三菱に委託、横浜ー上海の航路を開かせる
この航路にはすでに太平洋郵便がおり、三菱は運賃の値下げで対抗したが、
1航海に2万円の損失を出す
3月(2月?)左内町(中央区日本橋一丁目)の陸運元会社は「内国通運会社」と改称して
各地の陸運会社を統合して陸運を統轄する
3月電信が熊本まで通じる
5月2日郵便局において貯金の取扱が東京および横浜において開始
(当時は銀行においてもまだ金銭を預かる事務は未開で貯金といえば、郵便貯金をさした)
6月帝国郵便蒸気船、解散
8月度量衡取締条例が制定
9月15日三菱商会に政府所有の全船舶を無償で交付
上海への定期航路を開設し、助成金として年額25万円を与えるという命令書を出す
郵便蒸気船会社が倒産したので、その所有船舶も政府が買収し、三菱へ下付する
「三菱汽船会社」は改称して「郵便汽船三菱会社」と改称
10月三菱と太平洋郵船の競争は、横浜ー上海の三等船客運賃がはじめ30円だったのが最後には
8円にまでひきさげられ、三菱は政府に補助を請願、
このころには太平洋郵船も競争の不利を覚っており、三菱は政府から八十一万円の
貸与を受けて太平洋汽船に属する四隻の船と陸上施設の一切を買収する事に成功
上海航路を独占する
(※この頃明治八年度~九年度の駅逓寮の収入は約60万~70万円であり、
助成金だけでも19万弱~25万円の支出であった)
11月『国内回漕規則』廃止、それに伴い霊厳島船改所を閉鎖
11月25日上海を視察していた前島密は長崎をへて大阪へ帰朝
この日駅逓寮は一等寮に昇格したという電報を受け取る
11月28日一等寮の長官は三等官の勅任であり、四等官である前島密はいったん
駅逓権正を兼任し、この日あらためて駅逓頭兼任と発令される
明治9(1876)年2月英国のPO汽船会社が横浜ー上海間に就航
三菱のあらたな競争相手となり、また値下げの犠牲をはらう
4月15日上海で日本郵便局が開業
5月川蒸気通運丸就航
8月PO汽船もあきらめ航路を撤退
9月ベルヌ条約の万国郵便連合加盟を申し入れる
9月26日前島密は内務少輔に任じられる、駅逓頭兼任
10月神風連の乱起こる
10月30日三菱会社に朝鮮国への郵便運送が命令される
11月釜山に日本郵便局を開設すると布告
12月大規模な農民一揆が起こる
12月27日前島密がつくった外計書を基礎に、大久保が地租減額案を太政官の廟議にかける
明治10(1877)年1月4日地租を地価百分の二分五厘に減ずとの詔書が発せられる
1月11日官制の改革あり、各省の寮が廃止されて局となる
内務省には駅逓局のほか警視・勧農・勧商・地理・土木・社寺・会計の計八局が設置
東京警視庁が廃止され内局の警視局になる
6月20日第28番目の加盟国として日本でもベルヌ条約を実施開始
8月11日前島密、内国勧業博覧会審査官長を拝命
明治11(1878)年1月23日前島密は地租改正局三等出仕の兼務を命じられる
2月16日前島密、勧農局長の兼務を命じられる
3月6日前島密、元老院議官の兼務を命じられる
5月14日大久保利通は登庁の途中、紀尾井坂で不平士族の一団に襲われ殺害される
内務卿の後任には伊藤博文工部卿が任命される
12月6日益田克徳(益田孝の弟)渋沢栄一の東京海上保険会社設立を認可(初の損害保険会社)
12月29日休みが取れた前島密は、かねてから駅逓局において海上保険を研究していた少書記官の
塚原周造とその属官たち、益田らの関係者をともない熱海へ避寒と称して三菱の汽船に同船
この期間に専門書の翻訳をして規則の草案をととのえる
明治12(1879)年3月12日前島密は勧農局長の兼任を解かれるが
官の内務少輔・駅逓局長と地租改正局三等出仕にはかわりなし
7月東京地方衛生会が発足し前島は初代会長に挙げられる
明治13(1880)年2月28日前島密、内務大輔に任じられる、駅逓局長の兼務は従来通り
3月25日あらたに駅逓官の職制が改められ、前島は駅逓総官に任じられる
8月日本海員掖済会が結成
(旧来の悪習を矯正し、海員の品位を高めその福祉と厚生をはかろうというもの)
明治14(1881)年4月7日農商務省が発足、農務・商務・工務の三局が設けられる
駅逓局は内務省から農商務省に移管
また同省内に農工商上等会議が付設
6月28日前島密は農工商上等会員を拝命
6月末地租改正事業完了にともない地租改正事務局は廃止となる
7月16日前島密、勲三等旭日中授章を賜る
10月1日前島密は関西地方の視察のため大阪へ出発、
24日(14?)岡山に達したところ、電報で帰京を命じられる
10月14日いわゆる「十四年の政変」おこる、大隈重信が免官
10月20日農商務卿の河野敏鎌も辞任する
10月21日大隈の後任には松方正義、河野敏鎌の後任には西郷従道が発令される
11月2日前島密、辞表提出
明治15(1882)年2月前島密、日本海員掖済会の委員となる
4月16日立憲改進党が結成、これに参画
10月東京専門学校が大隈の発意により開設(のちの早稲田大学)
明治16(1883)年9月工部省は電話交換の開設について太政官に建議
12月太政官は官営民営の二案の内、後者の方案を求めるが、工部省は調査の上官営を至当と
考え17年、18年と上申を重ねる
明治18(1885)年12月内閣制度発足にともない逓信省が創設、農商務省から駅逓と管船の二局を移管、
廃止された工部省から電信と灯台の二局を移管しこれらをあわせて管轄する体制が確立、
初代逓信大臣は榎本武揚が任命される
明治19(1885)年3月前島の後任だった駅逓総官の野村靖が農商務省から駅逓次官に転任
明治20(1887)年3月逓信省で機構の改正があり、駅逓・電信の二局を廃して、内信・外信・工務の三局を置く
電話は内信および工務の分掌とし、内信局長には林董(ただす)元駅逓局長、
工務局長には志田林三郎が就任
5月前島密、関西鉄道株式会社の社長に就任
8月前島密、東京専門学校の校長に正式に就任
明治21(1888)年3月関西鉄道の免許が認可、正式に設立
5月電気事業に関係ある人達で電気学会を結成、会長に榎本を、副会長に前島密を推す
秋、榎本逓信大臣は次官の野村と意見が対立して電話政策と駅逓の第三種・新聞紙雑誌の
取扱で行き詰まっており、前島密に書簡を送って次官就任の決意をうながす
11月20日前島密、逓信次官任命の辞令を受ける(そのため関西鉄道社長を退くことになる)
12月6日前島密、従三位となる
明治22(1889)年3月22日榎本武揚は文部大臣に移って逓信省を去り、後任に後藤象二郎が逓信大臣に就任
明治23(1890)年4月19日『電話交換規則』制定
7月前島密、東京専門学校の校長を辞任
7月逓信省の官制を改正、総務局を廃して郵務・電務などの五局を置く
12月16日電話交換が東京、横浜で開始
明治24(1891)年3月17日前島密、逓信次官を免官、日本海員掖済会の副会長となる
8月電気事業の監督も逓信省の所管に加えられる
(以下、前島密の経歴)
明治26(1893)年12月東京馬車鉄道会社の監査役に就任
明治27(1894)年北越鉄道株式会社の社長に就任
明治29(1896)年6月東洋汽船株式会社の監査役に就任
明治34(1901)年6月京釜鉄道株式会社の取締役に就任
明治36(1903)年10月28日京釜鉄道株式会社の理事を拝命
明治38(1905)年6月日本海員掖済会の理事長に
明治39(1906)年4月1日勲二等瑞宝章を賜る
4月28日日本海員掖済会から有功賞を贈られる
12月京釜鉄道会社解散、創業以来の功労を表彰される
明治40(1907)年関西鉄道、北越鉄道解散につき功労を表彰される
明治41(1908)年1月日清生命保険株式会社の社長に就任
明治43(1910)年5月日本海員掖済会理事長、ほかほとんどすべての役職から退く
明治45(1912)年2月日清生命保険の社長を辞任
大正8(1919)年4月27日芦名邸にて永眠
====================================
えーと、なんだろう。
とりあえず明治維新で、東京遷都を建議したのは密さんらしい。しかも署名が江戸寒士で。
前島さんは渋沢さんと同じ、旧幕臣だったんで意外でした。
しかも郷さんのおやじさんに推薦されて政府入りしている。
なんとなく、イメージ長州閥だったんだけどな(井上馨・渋沢栄一・益田孝のグループかと)
それでその書状が大阪遷都を考えていた大久保さんの目に止まり、感心されたとかで採用。
明治政府内でも、大久保さんの信任を得て、その下でめきめきと頭角を現すんだけど、
大久保さんの死後は閥族にうとまれて、大隈さんに接近して行く・・・。
大隈さんがよく三菱との癒着を指摘されてるけど、それって前島さんが三菱に手厚い保護を与えたことからの繋がりなのかな?
大隈さんの人物叢書では、あんま三菱からお金貰ってる雰囲気なかったけども・・・。
ちなみに、早稲田大学の前身の東京専門学校の経営苦心から、高利貸しで悪名高い平沼専蔵さんと懇意になったっぽい感じでした。がそれ以上の言及はとくになく。あっちの本は、本当、拾えるもの少なかったなー。
しかし、両者の関係は気になりますよねー。今は関係ないけですけど。
さて、次は中上川さんと山陽鉄道かな。まだ記事の打ち込みがオワラーヌ!
・・・するのに、すごく時間かかったです。orz
なんか、ここ最近、家帰ると11時だったりとかするんで、朝やろう、と思って寝て、
気づけば出勤時間みたいな。川
全然集中してやってないんで、また挿入場所まちがえたりしてるかもですが、
こちらの本は個人的にほんとお役立ち情報まんさいでございました。
だがしかし、ここからどう組み立ててやろうか。
陸運元会社については、別な本から。えーと「江戸・東京の水辺の事典」です。
荒玉水道道路のこと載ってないかな、と思ったんですけど、そっちは無かったですね…。
しかし、おもわぬ拾いもの。
京王が、日電に乗り換えたあとも、荒玉水道町村組合かなんかへの供給はまだ東京電灯から受電してた、ていうことなんで、もしかして桜上水ら辺の分譲地のことかと思ったんですが、そっちはいまだもって、よくわかりません。(^ ^;
まあ、おいおいで・・・。
あ、ヒソヒソ★はこの所、職場の仲間内で呼ぶ某漫画の同名キャラクターのあだ名です。
なんか、おかげでそれがちらつく(笑)
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慶応3(1867)年5月前島来輔、開成所の数学教授に任ぜられる
(開成所にくる前は寺子屋をしており、生徒に星亨がいたらしい)
8月前島来輔、兵庫奉行の手附役となり、神戸開港の事務に従事
慶応4(1868)年1月9日前島来輔、神戸を退去し江戸に帰る
2月前島来輔、勘定役格徒目付にとなり東征軍応接のため東海道に出張
3月前島来輔、大久保利通に「江戸遷都」を献言
7月前島来輔、駿河藩留守居役となり静岡に移る
8月前島来輔、駿河藩公用人になる
9月8日明治と改元
10月13日天皇が東京に着き、江戸城を皇居と定めて、東京城と改称する
12月8日東京城を出る
明治2(1869)年3月前島来輔、遠州中泉奉行となる、このころ密と改名
7月8日官制改革により民部・大蔵など六省を設置
8月11日民部・大蔵両省を併合、省の形は残したまま首脳部が兼任、
租税司など四司を民部省に移管、通商司は大蔵省に移管
民部大蔵卿は伊達宗城(むねなり)、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文、大丞は井上馨
租税正として旧幕臣・渋沢栄一がむかえられる、推薦したのは民部大蔵少丞の郷純造だった
11月渋沢栄一が民部省に出仕、省内に新しい局を設けることを提案
11月末渋沢の提案を大隈が容れて改正掛を設置
12月25日東京(築地)横浜間に電信を開通(神奈川県知事・寺島宗則の手による)
12月28日前島密は上京し民部省に出頭、民部省九等出仕を拝命して改正業務を命じられる
12月29日通商司は回漕会所飛脚船を引き継ぎ『東京大阪商船規則』『東京大阪郵便船規則』を制定
公私の旅客・貨物の回漕を命じ、翌年正月から業務開始
明治3(1870)年1月明治政府は外国から蒸気船を買い入れ、旧来の廻船問屋や運送問屋に命じて
回漕会社をつくれせ月3回の定期航路を開く(通商司の配下)
使用船舶は旧幕府の軍艦の陽春・長鯨を霊厳島に回漕し回漕会社に運用させる
この組織に属した者は回漕問屋三軒(銭屋卯兵衛・利倉屋金三郎・越後屋喜右衛門)
定飛脚問屋四軒(京屋弥兵衛・和泉屋甚兵衛・江戸屋二三郎・島屋左右衛門)
外四軒(木村万平・松坂屋弥兵衛・木屋小左衛門・井上重次郎)
1月5日前島は民部省に出頭、改正掛の上席をしめる(上席には租税正(奏任)渋沢掛長のみ)
1月29日改めて『郵便商船規則』制定
3月太政官の会議にて大隈と伊藤は東京ー横浜間の鉄道着工を提議、
前島密は草案を命じられ、『鉄道憶測』を提出
3月14日改正掛は建議を作り、大隈はそれによって朝議に臨み、京浜間の鉄道建設が決定される
3月17日鉄道の測量を伝令
3月25日鉄道建設に着工
4月12日前島密は改正掛所属のまま、租税権正に任ぜられ、官等7等となる
6月17日大蔵大丞上野景範は特命大使として英国派遣、前島はその差副となる
(ネルソン=レイの100万ポンド起債契約の破棄のため)
6月28日上野一行は横浜からサンフランシスコ行きの船で出帆
8月大阪神戸間にも電信開通
8月11日「横浜毎日新聞」が創刊
明治4(1871)年1月霊厳島の回漕会所は為替会社に移管され、回漕取扱所と改名
構成員は旧飛脚屋仲間の江戸屋・京屋・島屋・和泉甚など
3月10日駅逓権正の杉浦譲は駅逓正に昇任
3月14日郵便開業
5月8日政府は元飛脚問屋の業務を「陸運元会社」に継承させる
(この会社は飛脚屋の蒸気船運輸業務への転換となる)
7月14日廃藩置県が断行される
7月15日横浜に郵便役所が設けられ、東京ー横浜間の間に直通便が開かれる
同時に金子入書状の取扱も開始
7月29日太政官の規模が拡張、三院八省がおかれる
民部省は廃止となり、駅逓司は大蔵省に移管、駅逓正の三浦は民部省から大蔵省出仕に、
駅逓正にはかわって田中儀兵衛が任ぜられる
大蔵卿は大久保利通、大蔵大輔は井上馨である
7月通商司を廃止
8月郵便線路は大阪から下関、四国の高松をへて宇和島まで伸ばされるがこれは民間の請負による
政府は「郵便蒸気船会社」を設立、前出の回漕会所との関連は不明
8月10日駅逓司は三等寮に昇格し、浜口義兵衛が駅逓頭に任ぜられる
8月15日前島密ら帰京
8月17日前島密、駅逓頭に任じられる
8月23日前島密、度量衡改正掛の兼務を命じられる
10月当初、東海道の郵便を府県藩の官吏を出張させて駅から駅へ郵便脚夫が運んでいたものを
陸運会社に委託
(これより各地に陸運会社が設立され、郵便事業に反対する旧飛脚業者に転向を促す)
12月5日郵便は長崎に達し、神戸と長崎とに郵便役所が設けられ、『郵便規則』が公布
従来は書状のみの取扱だったのに加え、日誌(雑誌)と新聞紙の取扱も開始
明治5(1872)年1月高崎で以前から民間より馬車の出願があり、駅逓寮はこれに「郵便馬車」の名称を付し
東京ー高崎間を認可、馬車会社には資金を貸与し無償で郵便物を輸送・配達することを命じる
1月5日郵便で書籍類、および見本品も取扱開始
2月「東京日日新聞」発刊
3月大蔵省内の駅逓寮は東京郵便役所に移転
『改正増補郵便規則』(ひながなまじりの易しい文章)公布
東京市内では1日3回の配達が開始
6月日本橋左内町(現中央区日本橋一丁目)の和泉屋甚兵衛邸内に陸運元会社が設立される
各駅(幕府制定の五街道の宿駅)の陸運会社と連絡を取りながら、専ら貨物を取り扱う
6月2日前島密、大蔵省四等出仕、駅逓頭との兼務、このころ駅逓寮は二等寮となる
6月10日「郵便報知新聞」を創刊、発行者は郵便取扱人の太田金右衛門だが後ろで前島が指導する
7月1日北海道の北半を除いて郵便が国内一般に施行される
このときの郵便最高額は全国を通じて五銭という低額を実現
8月廃藩置県によって大蔵省に属していた各藩の汽船を回漕会社の所有船とあわせて
民間に払い下げ、回漕取扱所を改称、「帝国郵便蒸気船会社」を設立
補助金を与えて東京ー大阪、函館ー石巻間を運航させ郵便物を無料運送する
8月末 伝馬所、助郷の制度を廃止
9月12日鉄道開通式
(この鉄道開通後は過当競争を続けた東京ー横浜間の蒸気船による交通は大部分が廃止される)
10月政府は琉球国王を琉球藩主とし、華族に列す(日本国への正式な編入)
11月『国立銀行条例』が公布
(このころ前島密は為替の規則や施行案を草起し大蔵省に建議、
井上馨大輔は為替を取り扱う人員がいないと資金下付に難色を示している)
12月3日改暦、太陽暦となって明治6年1月1日とする
明治6(1873)年2月「ひらがなまいにちしんぶんし」を発刊
2月電信が福岡から佐賀をへて長崎まで達する
3月『改定郵便規則、郵便犯罪規則』が公布、4月1日から施行
5月1日信書の扱いは駅逓頭の特任となり、ここに郵便の政府独占が確定し、
飛脚業者の信書送達は全く禁止される
5月14日大蔵大輔の井上馨と三等出仕の渋沢栄一らが財政改革に異議を唱え下野、
大蔵首脳部が欠員となる(大蔵卿の大久保利通は4年10月から遺歐副使として外遊中、
5月末に帰朝するが征韓論議をさけて出仕しない)
6月陸運元会社、水上運輸業務を開始、利根川・荒川・鬼怒川で航路開設
6月11日三井組と小野組を中核にして「東京第一国立銀行」が設立
しかし国立銀行は紙幣を発行しても支店がないため為替はまだ取り扱わない
6月15日前島密は大蔵省三等出仕に昇進し、駅逓頭と兼任、
6月17日にはまた「大蔵輔心得」を以て事務取扱を命じられる
8月郵便取扱人という名称が郵便取扱役と改められる
8月6日日米郵便交換条約調印
9月陸運元会社、航路を下総の町の境町まで開く
9月15日新橋駅ー横浜駅間で鉄道による貨物輸送開始
10月西郷等征韓派の参議がいっせいに辞任
11月10日あとをうけて内務省が新設、大久保利通が事実上の宰相となる、駅逓寮は内務省に移る
明治7(1874)年1月郵便蒸気船会社に命じ、琉球との間に郵便船の往復を開始
1月8日駅逓寮は大蔵省から内務省に移管、前島密は大蔵省三等出仕を解かれて駅逓頭に専任
1月29日前島密、内務大丞に任ぜられ駅逓頭と兼任
2月佐賀の乱がおこり、佐賀県庁が襲われ電信線が切断されて福岡から先が不通となる
3月陸運元会社、水運課を新設
下野・阿久津河岸(栃木県氏家)と小網町(中央区日本橋)に回漕所を開く
3月20日前島密は首里や那覇などに郵便仮役所、その他の要地に郵便取扱所の開設を強行し、
琉球の日本国帰属論の布石とする
4月去る明治4年10月に琉球の島民が台湾の南端に流れ着いて原住民に殺害されたことをうけ、
台湾遠征を推進する大久保・大隈は、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮地事務都督とし、
陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行
遠征に際して郵便蒸気船会社は役に立たず、かわりに岩崎弥太郎の三菱商会に、
政府が購入していた十三隻の船の運用を依託
軍事輸送を申しつけられた三菱は、これによって莫大な利益を得る
9月『郵便為替規則』制定
10月『国内回漕規則』制定
明治8(1875)年1月1日日米郵便交換条約が実施
1月2日全国を通じ百十ヶ所の郵便局で郵便為替を取り扱うことが公布される
1月8日横浜郵便局の外国郵便開業式
2月政府所有の汽船を三菱に委託、横浜ー上海の航路を開かせる
この航路にはすでに太平洋郵便がおり、三菱は運賃の値下げで対抗したが、
1航海に2万円の損失を出す
3月(2月?)左内町(中央区日本橋一丁目)の陸運元会社は「内国通運会社」と改称して
各地の陸運会社を統合して陸運を統轄する
3月電信が熊本まで通じる
5月2日郵便局において貯金の取扱が東京および横浜において開始
(当時は銀行においてもまだ金銭を預かる事務は未開で貯金といえば、郵便貯金をさした)
6月帝国郵便蒸気船、解散
8月度量衡取締条例が制定
9月15日三菱商会に政府所有の全船舶を無償で交付
上海への定期航路を開設し、助成金として年額25万円を与えるという命令書を出す
郵便蒸気船会社が倒産したので、その所有船舶も政府が買収し、三菱へ下付する
「三菱汽船会社」は改称して「郵便汽船三菱会社」と改称
10月三菱と太平洋郵船の競争は、横浜ー上海の三等船客運賃がはじめ30円だったのが最後には
8円にまでひきさげられ、三菱は政府に補助を請願、
このころには太平洋郵船も競争の不利を覚っており、三菱は政府から八十一万円の
貸与を受けて太平洋汽船に属する四隻の船と陸上施設の一切を買収する事に成功
上海航路を独占する
(※この頃明治八年度~九年度の駅逓寮の収入は約60万~70万円であり、
助成金だけでも19万弱~25万円の支出であった)
11月『国内回漕規則』廃止、それに伴い霊厳島船改所を閉鎖
11月25日上海を視察していた前島密は長崎をへて大阪へ帰朝
この日駅逓寮は一等寮に昇格したという電報を受け取る
11月28日一等寮の長官は三等官の勅任であり、四等官である前島密はいったん
駅逓権正を兼任し、この日あらためて駅逓頭兼任と発令される
明治9(1876)年2月英国のPO汽船会社が横浜ー上海間に就航
三菱のあらたな競争相手となり、また値下げの犠牲をはらう
4月15日上海で日本郵便局が開業
5月川蒸気通運丸就航
8月PO汽船もあきらめ航路を撤退
9月ベルヌ条約の万国郵便連合加盟を申し入れる
9月26日前島密は内務少輔に任じられる、駅逓頭兼任
10月神風連の乱起こる
10月30日三菱会社に朝鮮国への郵便運送が命令される
11月釜山に日本郵便局を開設すると布告
12月大規模な農民一揆が起こる
12月27日前島密がつくった外計書を基礎に、大久保が地租減額案を太政官の廟議にかける
明治10(1877)年1月4日地租を地価百分の二分五厘に減ずとの詔書が発せられる
1月11日官制の改革あり、各省の寮が廃止されて局となる
内務省には駅逓局のほか警視・勧農・勧商・地理・土木・社寺・会計の計八局が設置
東京警視庁が廃止され内局の警視局になる
6月20日第28番目の加盟国として日本でもベルヌ条約を実施開始
8月11日前島密、内国勧業博覧会審査官長を拝命
明治11(1878)年1月23日前島密は地租改正局三等出仕の兼務を命じられる
2月16日前島密、勧農局長の兼務を命じられる
3月6日前島密、元老院議官の兼務を命じられる
5月14日大久保利通は登庁の途中、紀尾井坂で不平士族の一団に襲われ殺害される
内務卿の後任には伊藤博文工部卿が任命される
12月6日益田克徳(益田孝の弟)渋沢栄一の東京海上保険会社設立を認可(初の損害保険会社)
12月29日休みが取れた前島密は、かねてから駅逓局において海上保険を研究していた少書記官の
塚原周造とその属官たち、益田らの関係者をともない熱海へ避寒と称して三菱の汽船に同船
この期間に専門書の翻訳をして規則の草案をととのえる
明治12(1879)年3月12日前島密は勧農局長の兼任を解かれるが
官の内務少輔・駅逓局長と地租改正局三等出仕にはかわりなし
7月東京地方衛生会が発足し前島は初代会長に挙げられる
明治13(1880)年2月28日前島密、内務大輔に任じられる、駅逓局長の兼務は従来通り
3月25日あらたに駅逓官の職制が改められ、前島は駅逓総官に任じられる
8月日本海員掖済会が結成
(旧来の悪習を矯正し、海員の品位を高めその福祉と厚生をはかろうというもの)
明治14(1881)年4月7日農商務省が発足、農務・商務・工務の三局が設けられる
駅逓局は内務省から農商務省に移管
また同省内に農工商上等会議が付設
6月28日前島密は農工商上等会員を拝命
6月末地租改正事業完了にともない地租改正事務局は廃止となる
7月16日前島密、勲三等旭日中授章を賜る
10月1日前島密は関西地方の視察のため大阪へ出発、
24日(14?)岡山に達したところ、電報で帰京を命じられる
10月14日いわゆる「十四年の政変」おこる、大隈重信が免官
10月20日農商務卿の河野敏鎌も辞任する
10月21日大隈の後任には松方正義、河野敏鎌の後任には西郷従道が発令される
11月2日前島密、辞表提出
明治15(1882)年2月前島密、日本海員掖済会の委員となる
4月16日立憲改進党が結成、これに参画
10月東京専門学校が大隈の発意により開設(のちの早稲田大学)
明治16(1883)年9月工部省は電話交換の開設について太政官に建議
12月太政官は官営民営の二案の内、後者の方案を求めるが、工部省は調査の上官営を至当と
考え17年、18年と上申を重ねる
明治18(1885)年12月内閣制度発足にともない逓信省が創設、農商務省から駅逓と管船の二局を移管、
廃止された工部省から電信と灯台の二局を移管しこれらをあわせて管轄する体制が確立、
初代逓信大臣は榎本武揚が任命される
明治19(1885)年3月前島の後任だった駅逓総官の野村靖が農商務省から駅逓次官に転任
明治20(1887)年3月逓信省で機構の改正があり、駅逓・電信の二局を廃して、内信・外信・工務の三局を置く
電話は内信および工務の分掌とし、内信局長には林董(ただす)元駅逓局長、
工務局長には志田林三郎が就任
5月前島密、関西鉄道株式会社の社長に就任
8月前島密、東京専門学校の校長に正式に就任
明治21(1888)年3月関西鉄道の免許が認可、正式に設立
5月電気事業に関係ある人達で電気学会を結成、会長に榎本を、副会長に前島密を推す
秋、榎本逓信大臣は次官の野村と意見が対立して電話政策と駅逓の第三種・新聞紙雑誌の
取扱で行き詰まっており、前島密に書簡を送って次官就任の決意をうながす
11月20日前島密、逓信次官任命の辞令を受ける(そのため関西鉄道社長を退くことになる)
12月6日前島密、従三位となる
明治22(1889)年3月22日榎本武揚は文部大臣に移って逓信省を去り、後任に後藤象二郎が逓信大臣に就任
明治23(1890)年4月19日『電話交換規則』制定
7月前島密、東京専門学校の校長を辞任
7月逓信省の官制を改正、総務局を廃して郵務・電務などの五局を置く
12月16日電話交換が東京、横浜で開始
明治24(1891)年3月17日前島密、逓信次官を免官、日本海員掖済会の副会長となる
8月電気事業の監督も逓信省の所管に加えられる
(以下、前島密の経歴)
明治26(1893)年12月東京馬車鉄道会社の監査役に就任
明治27(1894)年北越鉄道株式会社の社長に就任
明治29(1896)年6月東洋汽船株式会社の監査役に就任
明治34(1901)年6月京釜鉄道株式会社の取締役に就任
明治36(1903)年10月28日京釜鉄道株式会社の理事を拝命
明治38(1905)年6月日本海員掖済会の理事長に
明治39(1906)年4月1日勲二等瑞宝章を賜る
4月28日日本海員掖済会から有功賞を贈られる
12月京釜鉄道会社解散、創業以来の功労を表彰される
明治40(1907)年関西鉄道、北越鉄道解散につき功労を表彰される
明治41(1908)年1月日清生命保険株式会社の社長に就任
明治43(1910)年5月日本海員掖済会理事長、ほかほとんどすべての役職から退く
明治45(1912)年2月日清生命保険の社長を辞任
大正8(1919)年4月27日芦名邸にて永眠
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えーと、なんだろう。
とりあえず明治維新で、東京遷都を建議したのは密さんらしい。しかも署名が江戸寒士で。
前島さんは渋沢さんと同じ、旧幕臣だったんで意外でした。
しかも郷さんのおやじさんに推薦されて政府入りしている。
なんとなく、イメージ長州閥だったんだけどな(井上馨・渋沢栄一・益田孝のグループかと)
それでその書状が大阪遷都を考えていた大久保さんの目に止まり、感心されたとかで採用。
明治政府内でも、大久保さんの信任を得て、その下でめきめきと頭角を現すんだけど、
大久保さんの死後は閥族にうとまれて、大隈さんに接近して行く・・・。
大隈さんがよく三菱との癒着を指摘されてるけど、それって前島さんが三菱に手厚い保護を与えたことからの繋がりなのかな?
大隈さんの人物叢書では、あんま三菱からお金貰ってる雰囲気なかったけども・・・。
ちなみに、早稲田大学の前身の東京専門学校の経営苦心から、高利貸しで悪名高い平沼専蔵さんと懇意になったっぽい感じでした。がそれ以上の言及はとくになく。あっちの本は、本当、拾えるもの少なかったなー。
しかし、両者の関係は気になりますよねー。今は関係ないけですけど。
さて、次は中上川さんと山陽鉄道かな。まだ記事の打ち込みがオワラーヌ!
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わすれてたけど、随分前に図書館でみつけた新橋駅復元の本の中に、
新橋駅2階の見取り図がのってました。残ってるのはこれだけみたい。意外だ。
(「新橋駅の考古学」「新橋駅発掘ー考古学からみた近代ー」福田俊一著/雄山閣/2004年)
~(東棟)2階には上局、主計課、運輸局、小使、倉庫課、三井組などの事務所があったことがわかる。(…)西棟の二階に関しては、図そのものがなく用途についてはまったく不明である。しかし、開業前に許可された構内食堂がここに存在した可能性があり、さらに中央の広場に関しても特に記載はないものの、やはり開業前に許可された新聞の販売が(許可されたのは横浜駅もしくは品川駅であろう)、その後新橋駅においても開始されたとしたら、ここで売られていた可能性が考えられる。
明治七年五月には広間中央に新しい出札所が完成する。この工事によって駅舎内の雰囲気はかなり異なったものになったはずである。記録によれば、新たな出札所の設置は同様に横浜駅にも行われたようで、(…)この出札所は、添付された図によれば、広間中央のコンコースとの境目内側に設置された五角形の施設で、二ヶ所の改札口が設けられていた。ここでは上等から下等までの乗車券を一括して取り扱うことになり、従来等級別に設けられていた複数の出札所はこれを機に廃止された。そして、もとの各出札所には(…)西洋酒や果実などの売店が設置されることになった。~
み、三井組!? Σ(・ロ・;
銀行がはいってたのか・・・?為替業務でもしてたんだろうか・・・。
う~ん、井上(馨)さんの事を考えると、複雑な気持ちになりそうだ。
渡り廊下につづいて、レストラン予想も当たった!
ブラタモリで万世橋駅の2階がそうだったというから、もしかして、とも思ったんだけど。
でも復元された駅舎の2階はあんまり広くない感じだったので、レストランっていう規模の物は無理な感じもします。カフェーくらいかな。
あると決まった訳ではないですが…。でも屋根に煙突ぽいもの、あるんだよな…。
ガス灯は明治五年九月にもう点ってるけど、ガス調理器は明治三八年から旅館などの高級な所で使われ始めるので、この頃あったとすれば燃料は薪炭か。
万世橋駅のレストランは「みかど」という店で山陽鉄道の食堂列車で営業をはじめ、調理には木炭をつかっていたという…。へえ。
新聞売店があるのは都合がいいなー、ちょうど条例からめて使いたかったし…。
今、前島密の人物叢書を読んでるんですが、前島さんがけっこう、新聞普及を奨励してて、自分とこでも郵便報知やら、ひらがなしんぶんやら作って配達していたらしい。
前島さんの伝記のお陰で、廻船問屋から三菱へのながれも少し分かるし、前に読んだおなじシリーズの大隈重信より全然参考になるな。こっちだったかー。
あとは「駅のはなしー明治から平成までー」(交通ブックス104交通研究会発行/成山堂書店/1997年)から追加情報。
~ 新橋・横浜の両駅舎は、開業わずか一年二ヶ月後に改良工事が行われている。
二階左右の事務室は相互に連絡されていなかったため使い勝手が非常に悪く、
そのため横浜駅長の土肥旨一から、二階に渡り廊下の増設工事の申請が出された。
同六年一二月二一日から一一日間の工期で、新橋・横浜両駅舎広間の屋根の上に、
工事費三五〇円をかけて木造の長さ一四・五メートル、幅一・四メートルのトタン葺き
屋根の渡り廊下が設置された。この渡り廊下は、明治一一年九月の台風で両駅共に
吹き飛ばされてしまった。その後、二度と渡り廊下は設けられることはなかった。~
あ、再設置しなかったんだ。じゃあ、渡り廊下つきの駅舎の写真の場合、
かなり年代がしぼられるんですね。明治後期の写真というのは勘違いか~。
====================================
おまけ。
「新横浜停車場」明治四十三年七月十二日 朝日新聞
鉄道院は先年来京浜間鉄道連絡の改善に苦心したる結果
東海道列車を横浜へ引込むの不利を避くる為
現在の横浜駅は単に京浜間貨物集散駅に保留し之と同時に神奈川平沼の両駅を全廃し
新に同市戸部の天神山附近に一大新停車場建設の計画を立て居りたるも
再調の末鉄道経済上余り有利ならずとし更に別個の案を立て
右天神山停車場設計を全然抛棄し之に代ふるに現在の神奈川停車場に大拡張を施したる方
遥かに得策なるを覚り略之に変更する方針なりとの説あり
二代目横浜駅のまえに、天神山停車場計画というものがあったんですね。
このかんじだと、神奈川駅→二代目横浜駅ってかんじに解釈してもよさそうですね。^ ^)
明治43年7月27日の東京朝日新聞の広告に鬼怒川水力電気株式会社の創立委員と発起人の一覧が載ってたんですが、京王の初期重役陣とメンバーが完全に一致してた。
ここまで露骨だと・・・なんだかな・・・。(=口=;;)
明治43年9月の京王電気軌道の創立総会で決定した面子が↓
取締役社長 川田 鷹
専務取締役 利光丈平
取締役 豊原基臣、太田信光、井倉和欽、濱 太郎
監査役 吉田幸作、岡 烈
緑の●がそうです。青いほうは京成の重役で名前があった人たち。
明治42年6月30日の創立総会の京成の役員は以下。
専務取締役 本多貞次郎
取締役 桂二郎、関博直、土居貞次、板橋 信
監査役 渡辺勘十郎、皆川文明、
相談役 松平正直
明治44年3月17日の約款改正での新規重役(利光議長の指名による)は以下
取締役 井上敬次郎、本多貞治郎、森久保善太郎、北岡鶴松、
土居貞次、利光鶴松、上原鹿造、安東敏之、木村省吾、梅原亀七
監査役 平沼専蔵、乙訓寛吉、藤江章夫、安藤保太郎
で、会長、専務は後日、井上敬次郎、本多貞治郎両氏が互選されます。
「京成電鉄五十五年史」によると、京成の胎動期、計画線の路線部分が3派競願になり、
第一:本多貞次郎、利光鶴松、野中万助、井上敬次郎の東京市街鉄道派
第二:郷誠之助男爵、飯村丈三郎、川崎八右衛門、本多弘の川崎財閥派
第三:松平正直男爵、内藤善雄、鈴木峯吉ら貴衆両議員約200名による一派
の泥沼の様相となったものの、本多氏の献身的な工作と、内務大臣原敬信任の
小山田信蔵代議士の仲介で合同を条件の特許内意があり、と
なりたちが東京市街鉄道のときと同様の内容だったといいます。
それゆえ京成はかならずしも利光一派が全部、というわけでもなかったみたいですが、
それでも京成開業まで会社を引っぱっていったのは、本多さんの努力あってだからなぁ。
鬼怒電の大口受電先の確保として小田急を、という話は聞きますが、
時代的には京成や京王もおもいっきり、そうだったんじゃないかなーと。
これは広告から四日後の続報。
「●鬼怒川水電許可 ▽市内配電も許可」明治四十三年七月三十一日 朝日新聞
従来逓信省に於ては無用なる競争と危険を防止せんが為に東京鉄道以外には
東京市内に於ける配電を許可せざることに内定せり
其結果桂川水電を始め各種の水電は早くより市内配電を申請せるも其都度之を却下せり
然るに鬼怒川水電は愈之が創立も確実となれるのみか太田黒派と合同して
企業一層有望となれるを以て大に逓信省の信用する所となり本月二十七日附けの申請に
対し意外にも昨三十日附けを以て東京市の外府下荏原、豊多摩、豊島、南足立、南葛飾
の郡部への配電を許可したり
命令書に依れば配電許可の期間は二十五ヶ年にして六ヶ月以内に会社を組織して
三ヶ年以内に営業を開始し郡部は架空線式の配電を許可するも市内にありては最初より
地下線式を採るべき義務を負ひ配電の分量には一邸宅又は構内に付き百馬力以下の送電
を禁止して東灯及び東鉄との競争を或程度まで予防したり尤も動力を使用する工場への
配電分量には何等の制限なきものの如し
配電許可の範囲も、東京市内だけでなく府下の豊多摩や南葛飾など市内外縁まであったようです。
実際、京成は大正2年5月15日鬼怒川水力と電力需給契約を締結していますし。
太田黒派と合同というのは、これかな。
「●両鬼怒水電合同」明治四十三年七月十七日 朝日新聞
鬼怒川流域中の中の島より中岩橋に至る区域は太田黒一派が水利権を掌握し居りしが
鬼怒川水電は之と合同せんとする希望を抱き従来秘密に協議進行中なりしが
愈十六日に至り鬼怒水電の利光鶴松氏が太田黒重五郎、白杉政愛、久野昌一の三氏と
会見の結果円満に合同談は成立し契約を締結するに至りたり
其の合同條件は太田黒派にて水利権一切を鬼怒電に移転する代りに之が調査設計其他
の費用として三万円を鬼怒水電に於て支出弁償し且権利株五十株を分与する事、
太田黒派の発起人は全員を挙げて鬼怒川水電の発起人に加名し其内久野、白杉、太田黒
の三氏は創立委員として参加するに決せり
太田黒一派といのは、発起人広告の紫●のひとたちです。無事合流したんだね。
さらにこれに日英水電が加わるかどうか、という記事が以下。
「●両水電合同難」明治四十三年七月二十三日 朝日新聞
太田黒重五郎久野昌一両氏は今回の鬼怒両水電合併後更に一歩進めて
鬼怒日英両水電の合同を企てたるも日英水電の主力は今や邦人の手を離れて
英国なる神戸シンジケートの掌中にあり
実に英人側に於て先にハウエル技師等に三万の俸給を払ひ遙々日本に渡航せしめたるを始め
スペヤリング商会のストラッセー氏渡米に至るまで日英水電の為に投ぜられたる資金は
英国側にのみにて既に五十万円に達し今や気息奄々たるの窮状にありとは云へ
相当の補償條件を与へて英人を満足せしめざる限り無条件の下に鬼怒水電と合同するを悦ばず
現に英京なる神戸シンジケート宛て合同賛否の照電を発せるに其回答は遅々として明快なる応答を与へず
加ふるに本邦株主側は既に申込証拠金の返戻を受けて
日英水電と関係を絶ちたる今日とて合同の成行を冷視するの傾きあり
一説には鬼怒電の進行上、日英水電側と和衷協同の態度に出でざる限り
三菱、三井、十五各銀行の系統は井、松両侯の手前を憚り鬼怒電に賛助を与へざるが為め
頻りに合同を声言して其歓心を買はんとするものなりと観察するものなり
利光さんの手記に、
「明治四十三年頃は、日露戦役後、成金時代の反動期にして、成金時代に各種の事業を
発起し財界の恐慌に襲はれて新事業は皆悉く悲惨なる逆境に陥り、未だ全く恐怖心の
消散せざる時代なれば、一般に新事業を起す事は殆んど絶望と称すべき形勢なり。
特に水力電気に対する国民一般の智識経験は頗る幼稚にして、
資産家は容易に之に投資するを肯ぜざるなり。
現に日英水力の如きは、園田孝吉男(爵)氏を委員長とし、三井家の朝吹英二(常吉
氏の厳父)早川千吉郎氏等之に加はり、其他三菱系は勿論我邦一流の富豪を網羅したる
団体にして、国家の元老井上(馨)松方(正義)の両侯を後援し、桂首相、小村外相は
英国資本家を之に結び付くるの役目を承はりて斡旋の労を取り、其委員会は時々永田町
の首相官邸に開けり。而して日英水力は東京鉄道に電力供給の契約を締結し居りたれば、
会社を創立するは実に容易の筈なり。然るに其創立容易ならず、東鉄会社に対する電力
供給契約を再度迄延期したるも遂に契約所定の期日迄に会社を創立すること能はずして
供給契約は解除となれり。此一例を以て之れをとするも、当時水力電気事業を起すの
頗る困難なるを了解するに充分ならん。」
とあり、日英水力とは、英国資本と提携して、大財閥と元老がバックに付いたかなり大規模な水電計画だったことがうかがえます。
記事中の「井、松両侯」というのは、井上馨と松方正義両氏のことだったんですね。
しかもまずは「日英水力は東京鉄道に電力供給の契約を締結し」ていたというのも、この大御所メンツならさもありなんです。
しかし、東京水力電気を前身とする鬼怒川水力創立準備組合が、エー・ウェンデル・ジャクソン氏の英国外資導入で躓いたのと同様、こちらもなかなか話が進捗しなかったようです。
しかし、利光氏は頓挫しかかった鬼怒電の事業に憤然と起ち上がって、内資でもって計画を継承し、その資金集めのために東奔西走して、事業を成し遂げます。
「外資導入計画が不成功に終わったので、鬼怒川水力電気株式会社準備組合の常任委員田 健治郎氏は、到底会社設立の見込み立たず、と断念して手をひくこととなり、創立準備組合も明治四十三年五月三十一日で解消してしまった。
ここに新進気鋭の幾人かは、徒らに他力本願的な外資導入に依存して、折角の計画を
不成功に終わらせた結果に憤激して、新たに内資によってあくまで素志を貫徹しようと蹶起した。
利光鶴松氏は、その主唱者であった。」(小田急二十五年史)
「●水電界の外交」明治四十三年四月一日 朝日新聞
鬼怒川水電は既報の如くジャクソン氏と絶縁し内資起業に決定し居れるも
四月同水電組合の定時総会を俟って発表すべき予定の下に満を持して放たず
利光鶴松氏の如き殆どジ氏契約を忘れたるが如く京阪地方より名古屋方面に
閑遊を試みジ氏の相手とならず是に於てジャクソン氏の懊悩は今や極点に達し
屡々倫敦に飛電を発して何事かハナウ氏と打合する模様なりしが最近に於て
先に提唱せる條件中(一)英国法の下に会社を組織すると(二)存続期間
二十年を五十年に改むるとの二ヶ条は之を取消し単に対東鉄契約期間十年を
二十年とする條件のみを保留して新に協議を進めたき意向を漏らせるも
鬼怒川幹部は未だ耳を傾くに至らず
「●鬼怒川水電関西発起人」明治四十三年七月六日 朝日新聞
鬼怒川水電の発起人は東西を通じて既に百余名に達したるが関西実業家より
発起希望を申込み会社側に於いても年来の関係上今更関西有力者を度外視する
能はざるの事情あり利光鶴松小林清一郎の両氏は去月末右発起者引続纏めの為
下阪し関係者を一堂に会して他日の誤解なき様実測図に就きて詳細なる説明を
与へ帰京せられたるが主なる発起者及賛成者左の如し
(大阪)田中市兵衛、土居通夫、田邊貞吉、浮田圭造、本山彦一、岩下清周、
広岡恵三、片岡直温、中橋徳五郎、島村久、田艇吉、梅原亀七、野村徳七、
宅徳平諸氏の外三十六名
(京都)田中源太郎、木村省吾、谷村一太郎、曾野作太郎、古河為三郎、
藤井善介、津田栄太郎、稲垣敬次郎、藤原忠一郎
(神戸)村野山人、金子直吉
金子さんでてきた!\(^0^)/
この結果、鬼怒電の発起人には東西の資本家が勢揃いするすごい人数になったのですね。
金子直吉さんは、賛成人ですが、岡烈さんは、発起人の一人として名を連ねています。
千代田瓦斯の創立は、鬼怒川水力の発起と時期が並行していて、どっちが先とか後とかは分からないんですが、この辺を通じて神戸鈴木商店の関東進出がすすんでいったのかなぁ・・・と。
ちなみに、京成の社史p145にも
「こうして会社は創立されましたが、このままでは第2回の払い込みも不安なばかりでなく、今後の社運営業上からも急速に経営内容充実を図る必要があるので本多専務は先輩知人を煩わし、更に整理委員を設けて株主強化に着手、このため安樂兼道を委員長とし、そのほか多数の委員を委嘱しました。そして大阪方面では野村徳七・松本重太郎・梅原亀七・竹原荘次郎・柴山鷲雄・京都では木村省吾、名古屋では奥田正香・横浜では平沼専蔵など多くの援助賛成者を獲得・更に賀田金三郎・太田黒重五郎・大塚常治郎・岡烈・小池国三・荒井泰治・藤江章夫・横田千之助など東京周辺の協力者も得て懇請した結果、野村徳七、奥田正香、木村省吾のほか賀田・大塚・岡・小池・荒井・太田黒・平沼・岩下などが引き受け、肩替わりに成功しました。この努力によって第2回の払い込みはもちろん会社として積極的運営の目標が確立しましたので、測量・土地買取に取りかかることになったのです。」
と岡烈さん、他、鬼怒電で一緒になった人たちの名前が随分散見されます。
ちなみに、広告の赤●は、東京電車鉄道時代からの東鉄の重役です。
京成の青●の人でも、井上敬次郎さんは東鉄常務だし、安藤保太郎さんは東鉄の電灯部の主任だったみたいで、「これもう出来レースじゃねえか (=口´=;」って思うんですが、事はそう簡単な話じゃなかったみたいで、
ふたたび利光さんの手記より
「東京鉄道と電力供給契約を締結せしは、会社創立の前年即ち明治四十二年にして、
準備組合時代なり。其契約に於ては最高弐万馬力を供給するの約束なり。後会社創立
の翌年、即ち明治四十四年五月に至り追加契約を為し結局五万馬力迄を供給するの
約束となれり。
初め東鉄は、日英水力と弐万馬力買収の契約を結びたるに、日英水力は会社を成立
すること能はず、再度迄契約の延期をなしたるも遂に会社を成立し能はざるに依り、
東鉄は日英水力の契約は之れを破棄し、他に電源を求むるに至れり。
鬼怒川動力会社準備組合は是に於て、日英水力に代りて東鉄と電力供給契約を結び
たるなり。其電力供給契約を結ぶに当りて非常なる競争起り、予は此際より既に幾多
の苦労せり。其の時東鉄に電力を売込まんとして競争を試みたるは、安田(善次郎)
雨宮(敬次郎)小野(金六)氏等の桂川水力、浅野総一郎氏の吾妻川水力、大岡育造、
川原茂輔氏等の大利根水力、東京電灯会社、前に一旦破約されたる日英水力並に
鬼怒川動力会社準備組合等なり。
競争劇甚の結果、東鉄は其取捨に迷ひ、井上敬次郎、児玉隼槌、吉村恵吉氏等は、
実地を踏査し、工費低廉にして速成の見込充分なるものを撰び之れと契約を結ぶを、
東鉄の利益と決し、鬼怒川水力は其条件を具備する水力と認められて月桂冠を戴けり。
再び云ふ予が其間の苦心は容易ならざるものありたり。」
日英水電がダメになって、東鉄が電源をほかにもとめ、それを狙って奪い合いがおこり、
鬼怒電に決まったのが明治42年ということなので、利光さんが先頭に立って事を起こす前ですね。
むしろ、そこから両社が接近していったと考えるべきか・・・。ふむ~ん。
京王に関しては、初期重役陣がしくって、川田鷹さんが森村さんに相談をし、森村さんが和田さんにはかって、和田さんがこれを引き受けたため、途中から富士瓦斯紡績圏内にはいっちゃうんですよねぇ。
富士紡の和田さんは玉電の津田興二専務と知り合いで、富士紡の余剰電力を活かすために電力需給契約を締結、駒沢に変電所を設け「東京幹線」を確立させる事によって、富士紡は供給区域をゲットするんですが、それが明治44年~大正2年10月。
京王は大正4年、玉電から受電を開始するようになります。
わああーい! \(*^▽^*)/
金光さんの大正生命が、鈴木財閥破綻後「川崎財閥の傘下になってたんじゃないか?」との仮説をたててたんですが、このほど、それを立証する資料にいきあたりました。
わーーーいっ
======================================
「保険・銀行・信託早解り. 昭和9年版」大衆経済社 編/昭和9年
p266
大正生命 (東京市麹町区有楽町)
当社は大正二年四月の創立、資本金は五十万円、社長には当初柳原義光伯就任し、
専務に岡烈氏当ったが、後金光庸夫氏襲任し、鈴木系並に貿易業者を地盤として著しく好調を辿った。
然るに鈴木商店の没落からその関係を懸念され少なからぬ影響を蒙るに至り
一時川崎家の支配下に置かれてゐたが、昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ、
専ら内容刷新に努力し今日に至っている。
当社八年度の業績を見るに、新契約は一千百四十万二千円にして、失効解約は千八百三十六万円、
結局六百二十一万四千円の契約減少を見て年末現在契約は六千四十一万五千円となったのである。
契約成績は近頃大分見直して来たとは云へ、失効解約が新契約を超過する様では問題にならぬ。
失効解約の防止に先づ努力するが肝要である。継ぎに八年度の収入保険料は二百三十一万四千円、
事業費は百四万五千円で、収入保険料百円に対して四十九円四十六銭を費ってゐる。
如何に積極的な経営とは云へこの事業費は余りに高きに失する。
もっと募集の合理化を図り、経費の節約に努めねばならぬ。
八年度末の資産は千七百七十九万二千円、諸利息収入は九十八万四千円で、平均資産利廻として高利廻と云はなければならぬ。
低金利の折柄資産利廻が前年より向上した所を見ると資産内容は七万円で内二万五千円を契約者利益配当準備金に繰入れ、株主配当は二万五千円(年五分)
を行ったが、契約者勘定に属する諸準備金は千六百九十五万七千円を算した。
△創立、大正二年四月
△現重役、社長金光庸夫、取締役田村周蔵、磯田正朝、植村俊平、監査役鈴木岩治郎
△支社所在地、東京、大阪、名古屋、仙台、京城、京都、広島、福岡、札幌、台北
△保険種類、利益配当附普通終身、祝寿養老金附終身、確定配当金附養老、生存分配金附養老、
利益配当附普通養老
======================================
やっぱり、鈴木没落後、川崎のお世話になっていたのですね。
しかも柳原義光伯が辞任したあと、「昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ」だとう!?
ということは、昭和9年の時点で川崎と手を切っているのか!
ダンスホール事件が昭和8年の末で、金光氏社長就任の報は確か、昭和9年2月だったからな・・・。
大正生命保険会社が、川崎の支配下にあったのは昭和6~8年あたりということか。せまいがドンピシャだな!!
でも、これで長年の疑問もとけたきがする。
池上電鉄の重役も、目蒲陣営と交代する時、金光さんと後藤さんは進退を一緒にしてるんで「あれれ?」とは感じていたんですよ。
大正生命に関しては、かなり初期から京王の筆頭株主だったみたいだし、
言及されてないのが不思議なくらい。
川崎が、西武や玉川に影響を及ぼせたのも大正生命の株があったからだろうな~。
(借入金については、さすがに内部資料じゃないとわからないけど)
一応、「川崎・鴻池コンツェルン読本」(日本コンツェルン全書Ⅹ/勝田貞治著/春秋社/昭和13年)にも「(昭和)6年大正生命の経営に参与し」と、一行だけ書かれていたんですが、そこはそれだけで、川崎の影響力とか、関係の深さが不明で。
しかも、後藤さんも高梨博司さんも、川崎内の主要人物紹介から外されちゃってるんですよ!?
「川崎財閥からして、河合良成や、後藤國彦などの番頭格が出たのも、夫は、自分の名声を高めんがために、川崎財閥の意響(向?)を無視して活動し、それがために、失策を演じ、刑事事件まで、引き起こした結果ではないか。川崎財閥が何も好んで、有為の人材を追ひ出したのではない。追ひ出されたものに、その罪があるのである」
とまで、書かれて、ええ!?「追い出された」!?「刑事事件」!!?
それって、やっぱり帝人事件が、川崎内でもかなーり、立場を悪くする原因になったってことなんでしょうかね・・・。刑事事件でおもいつくのって、それしか・・・。
川崎財閥の研究本って、この昭和13年の本か、昭和5年の「日本財閥の解剖」くらいしかないんですよね。でも、ちょうど、この川崎(後藤)全盛の、昭和5年と、帝人事件後の手痛い一発喰らった後の、昭和13年という時期に、本がでてるってのは、実に・・・ラッキーというか。時勢をついてんなぁ、と。ありがたいことです。
そして、今は、利光さんと岡さんの交流関係がきになるところ。
いっても、大正生命の設立は大正2年4月で京王線の開業と同時なんですよ。
じゃあ、それ以前はどうだったのかと。
千代田瓦斯会社から探してみようと思ってるんですが、「東京ガス100年史」には、千代田ガスの経営陣にまでは言及がされてないんで、ちょっと肩すかしですね~。
そのかわり、京王プラザの冷暖房設備について、なんか書いてありました。
「ガス灯」が「電灯」と競合してて、なぜか東京電灯が、東京ガスと千代田ガスの合併について、とりもってて、電気とガスの相互関係もみていくと、色々おもしろそうです。
「千代田瓦斯払込終了」明治四十三年四月十一日(月曜日) 読売新聞
千代田瓦斯第一回払込は今十一日〆切当日なるが期日前既に払込を了せしもの多く最終日の払込は小数者に過ぎずして至極良好なれば近々創立総会を開き直に事業着手の筈なるが社長は安樂兼道氏 常務取締役は岡烈、磯部保次両氏に内定し居と云
おや?社長が利光さんじゃない。東京ガスの社史の方でも、この安樂さんになってましたが、合併時点(明治四十五年)では社長は利光さんのはず。
鈴木がどの時点から、千代田瓦斯にかかわってたのかな、とおもったら、この記事見てる限り、最初からっぽいですね。
もうちょっと、岡烈さん個人の経歴と交友関係が分かると、楽なんですがねぇ・・・。
京成の社史を読んだ時にも、初期の資金募集に参加してたらしいし。あなどれぬ。
金光さんの大正生命が、鈴木財閥破綻後「川崎財閥の傘下になってたんじゃないか?」との仮説をたててたんですが、このほど、それを立証する資料にいきあたりました。
わーーーいっ
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「保険・銀行・信託早解り. 昭和9年版」大衆経済社 編/昭和9年
p266
大正生命 (東京市麹町区有楽町)
当社は大正二年四月の創立、資本金は五十万円、社長には当初柳原義光伯就任し、
専務に岡烈氏当ったが、後金光庸夫氏襲任し、鈴木系並に貿易業者を地盤として著しく好調を辿った。
然るに鈴木商店の没落からその関係を懸念され少なからぬ影響を蒙るに至り
一時川崎家の支配下に置かれてゐたが、昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ、
専ら内容刷新に努力し今日に至っている。
当社八年度の業績を見るに、新契約は一千百四十万二千円にして、失効解約は千八百三十六万円、
結局六百二十一万四千円の契約減少を見て年末現在契約は六千四十一万五千円となったのである。
契約成績は近頃大分見直して来たとは云へ、失効解約が新契約を超過する様では問題にならぬ。
失効解約の防止に先づ努力するが肝要である。継ぎに八年度の収入保険料は二百三十一万四千円、
事業費は百四万五千円で、収入保険料百円に対して四十九円四十六銭を費ってゐる。
如何に積極的な経営とは云へこの事業費は余りに高きに失する。
もっと募集の合理化を図り、経費の節約に努めねばならぬ。
八年度末の資産は千七百七十九万二千円、諸利息収入は九十八万四千円で、平均資産利廻として高利廻と云はなければならぬ。
低金利の折柄資産利廻が前年より向上した所を見ると資産内容は七万円で内二万五千円を契約者利益配当準備金に繰入れ、株主配当は二万五千円(年五分)
を行ったが、契約者勘定に属する諸準備金は千六百九十五万七千円を算した。
△創立、大正二年四月
△現重役、社長金光庸夫、取締役田村周蔵、磯田正朝、植村俊平、監査役鈴木岩治郎
△支社所在地、東京、大阪、名古屋、仙台、京城、京都、広島、福岡、札幌、台北
△保険種類、利益配当附普通終身、祝寿養老金附終身、確定配当金附養老、生存分配金附養老、
利益配当附普通養老
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やっぱり、鈴木没落後、川崎のお世話になっていたのですね。
しかも柳原義光伯が辞任したあと、「昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ」だとう!?
ということは、昭和9年の時点で川崎と手を切っているのか!
ダンスホール事件が昭和8年の末で、金光氏社長就任の報は確か、昭和9年2月だったからな・・・。
大正生命保険会社が、川崎の支配下にあったのは昭和6~8年あたりということか。せまいがドンピシャだな!!
でも、これで長年の疑問もとけたきがする。
池上電鉄の重役も、目蒲陣営と交代する時、金光さんと後藤さんは進退を一緒にしてるんで「あれれ?」とは感じていたんですよ。
大正生命に関しては、かなり初期から京王の筆頭株主だったみたいだし、
言及されてないのが不思議なくらい。
川崎が、西武や玉川に影響を及ぼせたのも大正生命の株があったからだろうな~。
(借入金については、さすがに内部資料じゃないとわからないけど)
一応、「川崎・鴻池コンツェルン読本」(日本コンツェルン全書Ⅹ/勝田貞治著/春秋社/昭和13年)にも「(昭和)6年大正生命の経営に参与し」と、一行だけ書かれていたんですが、そこはそれだけで、川崎の影響力とか、関係の深さが不明で。
しかも、後藤さんも高梨博司さんも、川崎内の主要人物紹介から外されちゃってるんですよ!?
「川崎財閥からして、河合良成や、後藤國彦などの番頭格が出たのも、夫は、自分の名声を高めんがために、川崎財閥の意響(向?)を無視して活動し、それがために、失策を演じ、刑事事件まで、引き起こした結果ではないか。川崎財閥が何も好んで、有為の人材を追ひ出したのではない。追ひ出されたものに、その罪があるのである」
とまで、書かれて、ええ!?「追い出された」!?「刑事事件」!!?
それって、やっぱり帝人事件が、川崎内でもかなーり、立場を悪くする原因になったってことなんでしょうかね・・・。刑事事件でおもいつくのって、それしか・・・。
川崎財閥の研究本って、この昭和13年の本か、昭和5年の「日本財閥の解剖」くらいしかないんですよね。でも、ちょうど、この川崎(後藤)全盛の、昭和5年と、帝人事件後の手痛い一発喰らった後の、昭和13年という時期に、本がでてるってのは、実に・・・ラッキーというか。時勢をついてんなぁ、と。ありがたいことです。
そして、今は、利光さんと岡さんの交流関係がきになるところ。
いっても、大正生命の設立は大正2年4月で京王線の開業と同時なんですよ。
じゃあ、それ以前はどうだったのかと。
千代田瓦斯会社から探してみようと思ってるんですが、「東京ガス100年史」には、千代田ガスの経営陣にまでは言及がされてないんで、ちょっと肩すかしですね~。
そのかわり、京王プラザの冷暖房設備について、なんか書いてありました。
「ガス灯」が「電灯」と競合してて、なぜか東京電灯が、東京ガスと千代田ガスの合併について、とりもってて、電気とガスの相互関係もみていくと、色々おもしろそうです。
「千代田瓦斯払込終了」明治四十三年四月十一日(月曜日) 読売新聞
千代田瓦斯第一回払込は今十一日〆切当日なるが期日前既に払込を了せしもの多く最終日の払込は小数者に過ぎずして至極良好なれば近々創立総会を開き直に事業着手の筈なるが社長は安樂兼道氏 常務取締役は岡烈、磯部保次両氏に内定し居と云
おや?社長が利光さんじゃない。東京ガスの社史の方でも、この安樂さんになってましたが、合併時点(明治四十五年)では社長は利光さんのはず。
鈴木がどの時点から、千代田瓦斯にかかわってたのかな、とおもったら、この記事見てる限り、最初からっぽいですね。
もうちょっと、岡烈さん個人の経歴と交友関係が分かると、楽なんですがねぇ・・・。
京成の社史を読んだ時にも、初期の資金募集に参加してたらしいし。あなどれぬ。
頭の中を整理する為に、本を読むのを少し控えていたんですが、
そうすると「日々全く何もしねぇ」状態になったので、読書解禁。
前島密の本を借りようと思って図書館行ったんですけど、
本棚にタイトルで気になる本を発見。
そっちを先に手出したら、中身ビンゴで。すごく、よかったです!
こんな、時代的にドンピシャな本て、ふつーにあるもんなんだなぁ、僥倖、僥倖。
昔、新宿駅には青梅街道側と甲州街道側とに二つホームがあって、「電車が2回止まってた」と
いうことは知ってたんですが、実際にそれを利用するということがどういう事なのかが、
この方の体験を通じると、実によく理解出来るのです。
「【図説】日本の鉄道 中部ライン第1巻 東京駅ー三鷹エリア」の新宿駅特集の大正時代の新宿駅の
配線を見ながら読むと、よりよく理解出来ると思うので、おすすめです。
=============以下はネタバレ================
著者は淀橋浄水場と煙草専売局の工場との間にあった中学校に通うため、
大塚駅から山手線に乗って、新宿で降り、甲州街道口のホームから、中央線を待って、
青梅街道口ホームで降りて学校に通うという事を毎日行ってたんですけど、
このたかだか200mの駅間距離のためにいつも15分くらい待たされて遅刻することもしばしば、
「中央線がこねええええ!!」って、いつもイライラしていた。
けど、そんなことしなくても甲州街道口から歩いて行けることを、わりと後になって気づき
「馬鹿のような大発見である」というお話。
受験の時、伯父さんがそういう乗り方をして、すりこまれちゃったんだと。
それが大正の12年3月で、震災の半年前。
ということは、中央線の「の」の字運転がまだ現役の頃か?と思って、前掲書を見ると、
山手線を半周して、東京駅から市街線を通って新宿へ戻ってきた中央線が、この問題の「こねええええ!#」の電車なんですね(笑)じつに面白い。
著者はもともと鹿児島の人で、けっこう大きくなるまで両親と離れて暮らしていたので、
東京にも、自分の家族にもまだ慣れきっていない状態。
大塚にしばらく暮らした後は、青梅街道沿いで転居を繰り返し、関東大震災を経験して、
青梅街道筋からみた新宿の転変振りを10年間ほど間近で見続け、その視点でこの本を書いています。
物語りではないので、エンターテイメント性はなく淡々としていますが、電車の話題をけっこう絡めてくるので面白い。
他にも、藤原あきとか、平沼騏一郎とか、床次竹二郎とか、いままでどっかで聞いてきたような人の名前もちらほらあって「フ、フォォォォォオ!? (゜ロ゜;;」てなります。(あ、これ私の場合だけか)
新宿も当時すでに結構なお偉方が住まう土地だったのですね。
藤原あきは中上川彦次郎のお嬢さんです。伝記の冒頭に紹介されていました。
この本の作者さんとしては、戦争で社会がどんどんおかしくなっていく空気を感じながら、
社会との関わり方がわからない「何者にも成れそうにない若者」という自分を、等身大で描いています。
このところ偉い人の「何事か成してきた人たち」の本ばかり読んできた身としては、なにかほっとするというか視点が地面に近くなった気がする。
しかし、私から見れば、この人も時代と「すごい関わり方」してんなぁ、ってかんじなんですが(笑)
=======================================
まずが、新宿のあの専売局と淀橋浄水場の「間」に立ってた中学校に通ってたというのが、すげー。
大塚から高円寺に引っ越したので、その中学校までは青梅街道沿いをずっと歩いて通っていて、
「青梅街道は馬糞の道であった」「それほどたくさん、荷車が通った」という空気を直に吸っていたというのも、すげー。ブラタモリで、甲州街道は「馬糞だらけだった!」てのはやってたと思うんですが、青梅街道も同じだったんですね。
神田のヤッチャバ(秋葉原電気街の前身だというのもブラタモでやってましたね)へ、近郊の農家が野菜を運ぶため、未明からひっきりなしにガタゴト音がしていて、新宿の大ガードの出口へ曲がる50m位の間にひしめくように飯屋が並んでいたのも、そこが農夫達がヤッチャバの帰りに朝飯をかっ込む場所だったからだそう。
そして市内や新興住宅の下肥を帰りに運ぶので、昼頃街道ででくわすのは、下肥車。
後ろを歩いていると、しずくが飛んでよく引っかかる。でも「それほど汚いとは感じなかった」ので、「馬糞などは論外」で。
でも下肥の処理が市の仕事になってからは、その荷車の往来もなくなり、新宿の飯屋もぽつぽつとなくなっていったんだそう。
それに青梅街道には西武軌道が路面運転している。
前述のように荷車がひっきりなしに通るため、市電に比べて路面の状態が良くない。
とても市電のようにぶら下がって爽快に乗る、ということができない(コラ/笑)。
雨の日は電車がガタガタして、しなった枕木が泥水を跳ね上げるので、とても脇を歩いていられない。
そのためその日は電車に乗るが、降りたとたんに発車するので跳ね上がった泥水をよけるのは至難の業だったそう。
関東大震災の起こった日には、市内から避難者が続々と歩いてきたけれど、青梅街道沿いではさしたる被害もなく、実感に乏しい著者。新宿の学校も無事だった。
しかし、それを期にしてか、「震災後、新宿でいちばんはじめに模様がえをはじめたのは新宿駅であった。青梅街道口新宿駅と、甲州街道口新宿駅をつなぐ工事」が始まります。
駅の工事が始まってからは、駅前にたむろしていた著者お気に入りの怪しげな露天も撤去され、目立つのが専売局の赤煉瓦だけ。
「ここだけはお前たちとちがう官庁の世界だぞ、という顔をしているようにみえた。」
「右にだらだらとゆるい坂を降りる。そこから新宿駅の工事の範囲に這入る。泥がほじくり返され、甲州街道口新宿駅のところまで、鉄骨と枕木とレールの山である。右側はみっともない専売局のどてっ腹が見えている。その中に廃止された青梅街道口新宿駅を通りこして、残された甲州街道口新宿北口の仮駅(正確には新宿駅北口)が、ちょこんと作られてている。その駅までの泥だらけの道に、延々と板が敷いてある。」
貴重な、大正末期の新宿駅の工事の様子です。
小田急が、もともとは青梅街道口に接続予定だったのを、この大規模改良工事のために、甲州街道側からの接続に変更し、設計済だった省線の計画図にねじこんだ、てのがこれだと思います。
そのため京王も、電車専用の跨線橋を甲州街道陸橋と統合するんですが、小田急的にはこの京王の跨線橋をくぐるための協議が一番やっかいだったらしいです(笑)
だから、うちのサイト的にはここで小田急が京王にトラウマをもった設定にしています。
話がそれました。わお
そんな小田急は「今まで国立の省線がやっとターミナル駅らしい姿をつくった新宿に、
国立私立併せてのターミナル駅らしい駅をつくり上げる重要な役割を果たした私鉄である。この他に、京王電車や西武鉄道などがあったが、省線にも匹敵するほどの遠距離を走る私鉄は、小田急がはじめてだった。」という印象で、やはりそれまでの新宿の電車とは一線を画すものであったようです。
(他だと、渋谷の東横などが省線と駅をならべた高速電車なのでしょうが、あっちは新宿ほどであったかどうか。)
この、今の位置に、本格的なコンクリート建物第1号の本屋が出来たことによって、新宿の人の流れがかわります。デパートなどが進出し、省線の駅から市電へ、そこから銀座や築地へ、という流れができあがり、本来の本屋であった甲州街道側は逆に廃れたところもあったらしい。
市電は「この新宿本屋ができる以前から、本屋の前が起点であった。四谷を通り、銀座を通り、築地まで行っていた。ここから少し行って角筈のところに、枝分かれしたように、角筈を起点とする市電が、飯田橋を通って万世橋まで行っていた。」
「市電の起点で終点の新宿停留所が、渋谷がそうであるように、品川がそうであるように、街道筋のつきあたりに、まるで放り投げられたように無愛想に、ぶち切れた形で終っているのがよくわかる。」
「停留所らしい設備はなにもない。ただ折り返しの線路が延びていて、最初は乗客が乗るためのプラットホームさえなかった。線路はここで終わりました。乗りたい方は勝手にお乗りなさいといったような顔をしている。」
「その新宿の市電が、省線の新宿駅本屋ができてから、まるで様子が変わってきた。
本屋の改札を出た人の波は、もちろん新宿の町に流れて行く人が多かったが、そのかなりの数が市電に流れ込んでいく。殊に、銀座、築地に出るのには便利だったからだ。」
という感じだったらしい。
そして「新宿の町に、二番目のコンクリートの大きな建物が建った。大正十四年のことである。
場所は新宿駅本屋の目の前、市電の起点のまん前である。」「これが三越新宿支店である。」
「その翌年、大正十五年(昭和元年)には、今度はほてい屋というデパートが新宿にできた。
場所は追分である。今の伊勢丹の明治通り寄り半分がそうである。この場所はもともと大美濃、池美濃という妓楼があった場所だという。」と二つのデパートが新宿に進出します。
ほてい屋は明治十五年に四谷に呉服店を構えましたが、その前は神楽坂にあり、四谷に移ったのは、四谷の賑わいと将来性にかけたから。それがこんどは新宿に進出するのだから「余程の英断であったにちがいない」としています。
街道筋の妓楼は新宿御苑に近く表筋にあると目障りだという理由で、大正七年に牛屋の原(牧場跡地)に移転命令が出され、それが新宿二丁目となります。
「引き込み線があって、奥には大きなストレート屋根の車庫があった。ずいぶん大きな車庫であった。
電車が何十台も入っていた。そこを電車が出たり入ったりしていた。そこの出口のところに、事務所と車掌と運転手の溜り場があった。」
「ここを走っている電車はボギー車で、西武鉄道や京王電車の車輌よりはるかに大きい。」
「ほてい屋の隣にあった市電の車庫の思い出である。」
昭和六年に、その敷地全体が買収され、昭和八年に伊勢丹が建ちます。
伊勢丹はもともと神田旅籠町にあり、「帯は伊勢丹」というほど名の通った呉服店だったんですが、震災で丸焼けになり、大正十三年に旅籠町に百貨店形式の新築店をオープン、昭和三年に同じ場所に地下1階地上4階の店を完成させデパートへの脱皮を始める。
しかし、神田ではそろそろ場所が悪く、中央線と山手線の全通電化によって神田は交通の「穴」となり、震災の影響で下町人口が郊外へ流出、しまいには最寄り駅だった万世橋駅が廃駅になってしまって、どうしても新しい場所探しが必要となった。ゆえに新宿進出を決めたんだとか。
「隣がほてい屋で、同じデパートが二つ並ぶという異様な進出であった。異様というよりは常識はずれの進出であった。」
「こんな立派な建物を建てるのに、ほてい屋との間が常識はずれに狭い。こんなことが許されるのだろうか。」
「後に、伊勢丹がほてい屋を買収する。買収して二つの建物を一つにする。その工事で大して手なおしもしないで、両方の無駄な壁面をぶちぬいて、二つを一つにした。」
「中を歩きながらなにも不自然を感じなかった。」
これは、伊勢丹の方でほてい屋の図面を手に入れて、それに合わせて建てたためだったそうです。買収を見越して、それがすんだ暁には建物を一つにする。
ほてい屋は昭和二年十月株式会社に改組、昭和四年増築工事が完了したものの、
昭和五年に社主の西条氏が自殺をし、それを女社長が引き継ぐが、素人のため経営がうまくいかない、それで昭和六年、松屋の内藤彦一常務が伊勢丹に話を持ちかけて、あの土地を買ったらどうかという。合併はほてい屋が抵抗をしたので、その時点ではせず、昭和六年に土地を買って、隣に建物を建てた。
それに対抗してほてい屋もいろいろするものの、昭和十年五月二十五日ついに不渡手形を出てしまい、伊勢丹に合併され、壁をぶち抜いて増設工事、完成させたのが昭和十一年でした。
この他にも、小田急が開通した頃に映画館の武蔵野館の新装館ができて、そこへ入り浸ったり、
ムーランルージュができて、そこの役者の先輩の飯代をもつかわりに観劇したり、
山の手文化を満喫しまくっている。
はては玉川学園の出版部に就職して、小原国芳と学園との確執を目の当たりにする。
「そこで、まさかの小原国芳かーーーーー!! ;゜ロ゜)」と。
小田急の歴史に成城学園都市や玉川学園ははずせませんもんね。
そこでの内部のごたごたも、少し書いてありました。
やはり、昭和に入ってからは満州事変なども起こり、昭和一桁年代でもすでに戦時統制がはじまり出していたようです。不況もありますが、昭和七年の電鉄界の統制もあながち、戦争の影響を受けていない訳でもなさそう。その「雰囲気」があるかがこの場合、大事。
そして新宿が発展するにつれて、やたらと銀座を基準に張り合っているのも面白い。
当時の感覚だと銀座が首位で、新宿がそれを追い上げている感覚だったらしい。
それと、汽車の客(遠出)と、電車の客(近郊)を区別してみているところも今とちがう感覚。
中央線の電化がまだ中野とかそこいらだから、「汽車の客」は八王子か立川か、行商のため大きな荷物で汽車を待っている。新本屋の新宿駅には居心地のいい待合室があり、中学生時分はそこで利用客を観察するのが好きだったらしい。
年表でみている限りではたんなる横の糸だったものが、人の視点を借りることで縦糸が通った気持ちです。
この本は多少、文献や内部情報などで補完されていますが、内容はオーラルヒストリー系ですね。
記憶が頼りなので正確ではないけれども、意外な情報が載ってたりして、他に代え難いものがあります。
そしてなにがしかの筋が通っているから、気持ち的にも理解がしやすい。
「ボクは人間の記憶というものの、恐ろしいまでの恣意性におどろいている。実に都合のいい思いちがいをしたものだ」と、著者自身、その曖昧さを自覚しているとおり、オーラルヒストリーでは欠けた記憶を恣意性によって補完するので、参照するには注意が必要です。
効率性を求めるんなら、データ系なんでしょうけど、小難しくて感情に乏しいデータ系よりは、こっちのが私は好きですね。心にも残りやすい。そこを足場にデータ求めていってもいいじゃない!
あまり数はないので、個人的な需用にぴったりと合うものにあたると大変嬉しいです。
(「新宿駅が二つあった頃」阿坂卯一郎/第三文明社/昭和六十年五月発行)
そうすると「日々全く何もしねぇ」状態になったので、読書解禁。
前島密の本を借りようと思って図書館行ったんですけど、
本棚にタイトルで気になる本を発見。
そっちを先に手出したら、中身ビンゴで。すごく、よかったです!
こんな、時代的にドンピシャな本て、ふつーにあるもんなんだなぁ、僥倖、僥倖。
昔、新宿駅には青梅街道側と甲州街道側とに二つホームがあって、「電車が2回止まってた」と
いうことは知ってたんですが、実際にそれを利用するということがどういう事なのかが、
この方の体験を通じると、実によく理解出来るのです。
「【図説】日本の鉄道 中部ライン第1巻 東京駅ー三鷹エリア」の新宿駅特集の大正時代の新宿駅の
配線を見ながら読むと、よりよく理解出来ると思うので、おすすめです。
=============以下はネタバレ================
著者は淀橋浄水場と煙草専売局の工場との間にあった中学校に通うため、
大塚駅から山手線に乗って、新宿で降り、甲州街道口のホームから、中央線を待って、
青梅街道口ホームで降りて学校に通うという事を毎日行ってたんですけど、
このたかだか200mの駅間距離のためにいつも15分くらい待たされて遅刻することもしばしば、
「中央線がこねええええ!!」って、いつもイライラしていた。
けど、そんなことしなくても甲州街道口から歩いて行けることを、わりと後になって気づき
「馬鹿のような大発見である」というお話。
受験の時、伯父さんがそういう乗り方をして、すりこまれちゃったんだと。
それが大正の12年3月で、震災の半年前。
ということは、中央線の「の」の字運転がまだ現役の頃か?と思って、前掲書を見ると、
山手線を半周して、東京駅から市街線を通って新宿へ戻ってきた中央線が、この問題の「こねええええ!#」の電車なんですね(笑)じつに面白い。
著者はもともと鹿児島の人で、けっこう大きくなるまで両親と離れて暮らしていたので、
東京にも、自分の家族にもまだ慣れきっていない状態。
大塚にしばらく暮らした後は、青梅街道沿いで転居を繰り返し、関東大震災を経験して、
青梅街道筋からみた新宿の転変振りを10年間ほど間近で見続け、その視点でこの本を書いています。
物語りではないので、エンターテイメント性はなく淡々としていますが、電車の話題をけっこう絡めてくるので面白い。
他にも、藤原あきとか、平沼騏一郎とか、床次竹二郎とか、いままでどっかで聞いてきたような人の名前もちらほらあって「フ、フォォォォォオ!? (゜ロ゜;;」てなります。(あ、これ私の場合だけか)
新宿も当時すでに結構なお偉方が住まう土地だったのですね。
藤原あきは中上川彦次郎のお嬢さんです。伝記の冒頭に紹介されていました。
この本の作者さんとしては、戦争で社会がどんどんおかしくなっていく空気を感じながら、
社会との関わり方がわからない「何者にも成れそうにない若者」という自分を、等身大で描いています。
このところ偉い人の「何事か成してきた人たち」の本ばかり読んできた身としては、なにかほっとするというか視点が地面に近くなった気がする。
しかし、私から見れば、この人も時代と「すごい関わり方」してんなぁ、ってかんじなんですが(笑)
=======================================
まずが、新宿のあの専売局と淀橋浄水場の「間」に立ってた中学校に通ってたというのが、すげー。
大塚から高円寺に引っ越したので、その中学校までは青梅街道沿いをずっと歩いて通っていて、
「青梅街道は馬糞の道であった」「それほどたくさん、荷車が通った」という空気を直に吸っていたというのも、すげー。ブラタモリで、甲州街道は「馬糞だらけだった!」てのはやってたと思うんですが、青梅街道も同じだったんですね。
神田のヤッチャバ(秋葉原電気街の前身だというのもブラタモでやってましたね)へ、近郊の農家が野菜を運ぶため、未明からひっきりなしにガタゴト音がしていて、新宿の大ガードの出口へ曲がる50m位の間にひしめくように飯屋が並んでいたのも、そこが農夫達がヤッチャバの帰りに朝飯をかっ込む場所だったからだそう。
そして市内や新興住宅の下肥を帰りに運ぶので、昼頃街道ででくわすのは、下肥車。
後ろを歩いていると、しずくが飛んでよく引っかかる。でも「それほど汚いとは感じなかった」ので、「馬糞などは論外」で。
でも下肥の処理が市の仕事になってからは、その荷車の往来もなくなり、新宿の飯屋もぽつぽつとなくなっていったんだそう。
それに青梅街道には西武軌道が路面運転している。
前述のように荷車がひっきりなしに通るため、市電に比べて路面の状態が良くない。
とても市電のようにぶら下がって爽快に乗る、ということができない(コラ/笑)。
雨の日は電車がガタガタして、しなった枕木が泥水を跳ね上げるので、とても脇を歩いていられない。
そのためその日は電車に乗るが、降りたとたんに発車するので跳ね上がった泥水をよけるのは至難の業だったそう。
関東大震災の起こった日には、市内から避難者が続々と歩いてきたけれど、青梅街道沿いではさしたる被害もなく、実感に乏しい著者。新宿の学校も無事だった。
しかし、それを期にしてか、「震災後、新宿でいちばんはじめに模様がえをはじめたのは新宿駅であった。青梅街道口新宿駅と、甲州街道口新宿駅をつなぐ工事」が始まります。
駅の工事が始まってからは、駅前にたむろしていた著者お気に入りの怪しげな露天も撤去され、目立つのが専売局の赤煉瓦だけ。
「ここだけはお前たちとちがう官庁の世界だぞ、という顔をしているようにみえた。」
「右にだらだらとゆるい坂を降りる。そこから新宿駅の工事の範囲に這入る。泥がほじくり返され、甲州街道口新宿駅のところまで、鉄骨と枕木とレールの山である。右側はみっともない専売局のどてっ腹が見えている。その中に廃止された青梅街道口新宿駅を通りこして、残された甲州街道口新宿北口の仮駅(正確には新宿駅北口)が、ちょこんと作られてている。その駅までの泥だらけの道に、延々と板が敷いてある。」
貴重な、大正末期の新宿駅の工事の様子です。
小田急が、もともとは青梅街道口に接続予定だったのを、この大規模改良工事のために、甲州街道側からの接続に変更し、設計済だった省線の計画図にねじこんだ、てのがこれだと思います。
そのため京王も、電車専用の跨線橋を甲州街道陸橋と統合するんですが、小田急的にはこの京王の跨線橋をくぐるための協議が一番やっかいだったらしいです(笑)
だから、うちのサイト的にはここで小田急が京王にトラウマをもった設定にしています。
話がそれました。わお
そんな小田急は「今まで国立の省線がやっとターミナル駅らしい姿をつくった新宿に、
国立私立併せてのターミナル駅らしい駅をつくり上げる重要な役割を果たした私鉄である。この他に、京王電車や西武鉄道などがあったが、省線にも匹敵するほどの遠距離を走る私鉄は、小田急がはじめてだった。」という印象で、やはりそれまでの新宿の電車とは一線を画すものであったようです。
(他だと、渋谷の東横などが省線と駅をならべた高速電車なのでしょうが、あっちは新宿ほどであったかどうか。)
この、今の位置に、本格的なコンクリート建物第1号の本屋が出来たことによって、新宿の人の流れがかわります。デパートなどが進出し、省線の駅から市電へ、そこから銀座や築地へ、という流れができあがり、本来の本屋であった甲州街道側は逆に廃れたところもあったらしい。
市電は「この新宿本屋ができる以前から、本屋の前が起点であった。四谷を通り、銀座を通り、築地まで行っていた。ここから少し行って角筈のところに、枝分かれしたように、角筈を起点とする市電が、飯田橋を通って万世橋まで行っていた。」
「市電の起点で終点の新宿停留所が、渋谷がそうであるように、品川がそうであるように、街道筋のつきあたりに、まるで放り投げられたように無愛想に、ぶち切れた形で終っているのがよくわかる。」
「停留所らしい設備はなにもない。ただ折り返しの線路が延びていて、最初は乗客が乗るためのプラットホームさえなかった。線路はここで終わりました。乗りたい方は勝手にお乗りなさいといったような顔をしている。」
「その新宿の市電が、省線の新宿駅本屋ができてから、まるで様子が変わってきた。
本屋の改札を出た人の波は、もちろん新宿の町に流れて行く人が多かったが、そのかなりの数が市電に流れ込んでいく。殊に、銀座、築地に出るのには便利だったからだ。」
という感じだったらしい。
そして「新宿の町に、二番目のコンクリートの大きな建物が建った。大正十四年のことである。
場所は新宿駅本屋の目の前、市電の起点のまん前である。」「これが三越新宿支店である。」
「その翌年、大正十五年(昭和元年)には、今度はほてい屋というデパートが新宿にできた。
場所は追分である。今の伊勢丹の明治通り寄り半分がそうである。この場所はもともと大美濃、池美濃という妓楼があった場所だという。」と二つのデパートが新宿に進出します。
ほてい屋は明治十五年に四谷に呉服店を構えましたが、その前は神楽坂にあり、四谷に移ったのは、四谷の賑わいと将来性にかけたから。それがこんどは新宿に進出するのだから「余程の英断であったにちがいない」としています。
街道筋の妓楼は新宿御苑に近く表筋にあると目障りだという理由で、大正七年に牛屋の原(牧場跡地)に移転命令が出され、それが新宿二丁目となります。
「引き込み線があって、奥には大きなストレート屋根の車庫があった。ずいぶん大きな車庫であった。
電車が何十台も入っていた。そこを電車が出たり入ったりしていた。そこの出口のところに、事務所と車掌と運転手の溜り場があった。」
「ここを走っている電車はボギー車で、西武鉄道や京王電車の車輌よりはるかに大きい。」
「ほてい屋の隣にあった市電の車庫の思い出である。」
昭和六年に、その敷地全体が買収され、昭和八年に伊勢丹が建ちます。
伊勢丹はもともと神田旅籠町にあり、「帯は伊勢丹」というほど名の通った呉服店だったんですが、震災で丸焼けになり、大正十三年に旅籠町に百貨店形式の新築店をオープン、昭和三年に同じ場所に地下1階地上4階の店を完成させデパートへの脱皮を始める。
しかし、神田ではそろそろ場所が悪く、中央線と山手線の全通電化によって神田は交通の「穴」となり、震災の影響で下町人口が郊外へ流出、しまいには最寄り駅だった万世橋駅が廃駅になってしまって、どうしても新しい場所探しが必要となった。ゆえに新宿進出を決めたんだとか。
「隣がほてい屋で、同じデパートが二つ並ぶという異様な進出であった。異様というよりは常識はずれの進出であった。」
「こんな立派な建物を建てるのに、ほてい屋との間が常識はずれに狭い。こんなことが許されるのだろうか。」
「後に、伊勢丹がほてい屋を買収する。買収して二つの建物を一つにする。その工事で大して手なおしもしないで、両方の無駄な壁面をぶちぬいて、二つを一つにした。」
「中を歩きながらなにも不自然を感じなかった。」
これは、伊勢丹の方でほてい屋の図面を手に入れて、それに合わせて建てたためだったそうです。買収を見越して、それがすんだ暁には建物を一つにする。
ほてい屋は昭和二年十月株式会社に改組、昭和四年増築工事が完了したものの、
昭和五年に社主の西条氏が自殺をし、それを女社長が引き継ぐが、素人のため経営がうまくいかない、それで昭和六年、松屋の内藤彦一常務が伊勢丹に話を持ちかけて、あの土地を買ったらどうかという。合併はほてい屋が抵抗をしたので、その時点ではせず、昭和六年に土地を買って、隣に建物を建てた。
それに対抗してほてい屋もいろいろするものの、昭和十年五月二十五日ついに不渡手形を出てしまい、伊勢丹に合併され、壁をぶち抜いて増設工事、完成させたのが昭和十一年でした。
この他にも、小田急が開通した頃に映画館の武蔵野館の新装館ができて、そこへ入り浸ったり、
ムーランルージュができて、そこの役者の先輩の飯代をもつかわりに観劇したり、
山の手文化を満喫しまくっている。
はては玉川学園の出版部に就職して、小原国芳と学園との確執を目の当たりにする。
「そこで、まさかの小原国芳かーーーーー!! ;゜ロ゜)」と。
小田急の歴史に成城学園都市や玉川学園ははずせませんもんね。
そこでの内部のごたごたも、少し書いてありました。
やはり、昭和に入ってからは満州事変なども起こり、昭和一桁年代でもすでに戦時統制がはじまり出していたようです。不況もありますが、昭和七年の電鉄界の統制もあながち、戦争の影響を受けていない訳でもなさそう。その「雰囲気」があるかがこの場合、大事。
そして新宿が発展するにつれて、やたらと銀座を基準に張り合っているのも面白い。
当時の感覚だと銀座が首位で、新宿がそれを追い上げている感覚だったらしい。
それと、汽車の客(遠出)と、電車の客(近郊)を区別してみているところも今とちがう感覚。
中央線の電化がまだ中野とかそこいらだから、「汽車の客」は八王子か立川か、行商のため大きな荷物で汽車を待っている。新本屋の新宿駅には居心地のいい待合室があり、中学生時分はそこで利用客を観察するのが好きだったらしい。
年表でみている限りではたんなる横の糸だったものが、人の視点を借りることで縦糸が通った気持ちです。
この本は多少、文献や内部情報などで補完されていますが、内容はオーラルヒストリー系ですね。
記憶が頼りなので正確ではないけれども、意外な情報が載ってたりして、他に代え難いものがあります。
そしてなにがしかの筋が通っているから、気持ち的にも理解がしやすい。
「ボクは人間の記憶というものの、恐ろしいまでの恣意性におどろいている。実に都合のいい思いちがいをしたものだ」と、著者自身、その曖昧さを自覚しているとおり、オーラルヒストリーでは欠けた記憶を恣意性によって補完するので、参照するには注意が必要です。
効率性を求めるんなら、データ系なんでしょうけど、小難しくて感情に乏しいデータ系よりは、こっちのが私は好きですね。心にも残りやすい。そこを足場にデータ求めていってもいいじゃない!
あまり数はないので、個人的な需用にぴったりと合うものにあたると大変嬉しいです。
(「新宿駅が二つあった頃」阿坂卯一郎/第三文明社/昭和六十年五月発行)