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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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「明治の東京 外国人の見聞記」(岡田章雄/桃源社/昭和40年2月発行)に紹介されてる、
医師ヘンリー・フォールズの新橋横浜間鉄道の感想に、客車のことがありまして。

~線路は今では複線になっていて、一等車、二等車、三等車の8輌か10輌連結の客車が
およそ一時間毎に双方の終点を出発している。
運輸量はかなり多いし、その上に運賃の収益も素晴らしくいいという事である。

英国の技師によって建設された線路は、有名なアメリカの鉄道建設者の証言するところによると、
「その堅牢なこと岩の如き」ものである。ゲージは英国の普通の狭軌に比べてやや狭い。
機関車は英国で製造された物で、いくらか軽すぎる。しかし強力で、見た所は格好がいい。

車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。
一等車は三つの小室に区分され、中央の小室が他の二室に向かって開いている。

入り口はアメリカの車室と同様、車輌の両端にあるが、プラットホームは狭い。
腕木信号機は閉塞式を用い、私の見たとことでは、その働きは完全ではないようだ。
中間の停車場は、その設計も極めて優秀で、鉄の陸橋が線路をまたいでいる。
線路には全線に渡って柵が設けられられている。鉄道事故はほとんど発生した事がない。
ーもっとも自殺のために飛び込むのは別で、悲しい事にそれはよくある。ー

…小さな四角形の緑色のクッションが1回1ペニィ程で提供されるが、脂肪の塊に恵まれていない
三等客にはそれが結構役に立っている。~


……ヘンリーさんは鉄道マニアだったのだろうか?
ほかの外国人にくらべると、着眼点が妙に的を射ているというか。
参考になるので大変ありがたいですが。

「今では複線になっていて」ということは、最初は単線だったんですね。
wikiによるとまず、明治9年12月1日新橋ー 品川駅間複線化(同区間に田町仮停車場を開設)、
明治12年3月1日大森ー 川崎駅間が複線化、ついで11月1日川崎ー鶴見駅間が複線化。
明治13年11月14日に品川ー大森駅間が複線化。
明治14年5月7日鶴見ー横浜駅間複線化、これにより新橋ー横浜駅間の複線化が完成、
ということなので、意外と全線複線化まで時間が掛かってるんですねぇ。

うっ、ということは明治9年時点ではまだほとんど単線だということか・・・!

8輌か10輌連結というのは、今の感覚からしても結構多いような気が・・・。
蒸気機関車による牽引だから、当然電車とは違うのでしょうが。
(客車はほぼ木製ので軽いのだろうし)
「車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。」
ということは、ロングシートだったということかな?
三等客車はむしろクロスシートだったのかも。今のイメージと逆ですね。

大宮の鉄道博物館に残る三等客車はロングシートでしたけど、
あれは三扉でしたし時代が違うのかもな・・・。

そして、この頃からすでに自殺による人身事故はがんがんあるっぽいですね(川汗)

ヘンリー・フォールズさんは、大森貝塚のときにも書いたように、指紋研究の第一人者でしたが
明治7年、宣教師として来日、築地居留地18番館に住み、布教活動のかたわら医療に従事、
翌年築地川をへだてた南小田原町3丁目10に診療所を開いて健康社と称し、4丁目8に移転。
これがツキジホスピタル=筑地病院と呼ばれ東京で最初に開設されたミッション系病院となる。
明治8年にはおなじキリスト系の日本人たちやアメリカの宣教師とともに
楽善会という盲人教育の為の会をつくり、盲人の為の凸字聖書を取り寄せたりして
影ながら日本での盲学校の設立に尽力したのだとか。
(学校設立の申請書に外国人の名前があると東京府が認可しなかった)

楽善会はその後、仏教徒などの参加もあって、キリスト教的な色彩が薄くなり、
不満を覚えたフォールズは脱退を表明して、明治19年に帰国。滞日期間は12年程度でした。

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先週、神奈川公文書館へ行った際、立ち寄った資料室で見かけた本、
「ビールと日本人・明治・大正・昭和ビール普及史」(麒麟麦酒株式会社発行/昭和58年)が
面白かったのと、そこでわかったことでの情報の訂正をばこの機会に。

前に記事でちょっとでてきた、売店で売られていた「洋酒や果物」の洋酒の中の、
ビールは当時代表格であったということです。

明治5年のころ、新橋や横浜周辺でビールをつくっていたのはウィリアム・コープランドの
「スプリング・バレー・ブルワリー」だけであり、ここではイギリス人の好むエールも作られたため、
鉄道に係わったイギリス人技師たちにも売店での需要があったのではないかとしていますが、
そういう記録は残ってないそうです。

ただし明治8年新橋駅のすぐ近くにあった金沢三右衛門の店に、樽ビールや壜ビールを送ったという
コープランドの発送の手紙が麒麟麦酒所蔵資料に残っているので横浜から新橋へ運ばれていた事は
確かなよう。

この金沢ビール店の創業は明治8年10月で、
「アレキサンドル・バロン・ボン・シーボルト氏及び舎弟ヘンリー・ボン・シーボルト氏の
薦めにより新橋畔に売店を設けた」と三右衛門さんの日記に残っていて、
開店当初は横浜の山手六十八番にあったババリア・ブルワリーでドイツ人のウィーガントが
醸造していたビールを販売していたものの、明治9年6月以降はコープランドとウィーガントが
共同経営で始めた山手百二十三番(天沼)のスプリング・バレー・ブルワリーの
ババリアン・ビールを売り、これを「横浜ビール」と広告していたそうです。
金沢店では横浜ビールとして売られましたが、地元横浜では百二十三番の地名にちなんで
「天沼ビヤザケ」と呼ばれていたみたい。

金沢家はもともと江戸城や大名出入りの菓子商だったのが、幕府外国方をつとめるようになり、
幕府から諸外国へ品物を送る際の調達係として莫大な利益を収め、
横浜での見聞も早くからひろめていたそうです。(森村さんと似た経歴だな・・・)

最初の店舗は新橋南金六町四番地、明治10年には十三番地に煉瓦造りの新築へ移転したものの、
どちらも新橋駅とは目と鼻の先で、横浜からの往復に便利だったということです。
電報で、ブルワリーへ注文すると、その日の内に汽車で運ばれてくるという手はずで、
築地の外国人居留地に近い事もあり、外国人への葡萄酒、ビールの売り込みにも有利だったよう。


鉄道の開通はビールの普及に役立っており、新潟では上野ー直江津を走る官線の信越線が開通し、
北越鉄道もできてくると、かつては街道や海路を通って運ばれ、廻船問屋や薬屋の専売品のように
なっていたビールが、東京からの利用客の急増で繁盛した料理店からの注文で
地元の酒屋でも扱われるようになったとしています。


そして肝心なのがここから。
明治22年、停車場の待合室に広告を掲出する許可が出て、
キリンビールがさっそく上野と新橋にポスターを貼りました。

「キリンビール」という商品が登場するのが明治21年ですから時宜に適していたのでしょうが、
これは場所が悪くてあまり目立たなかったので、翌23年には原画に110ドルを投じて大型の
豪華ポスターをつくらせ、額縁に入れて新橋駅の待合室の壁面に飾ります。
ポスターは大型が15枚、小型の物は数は分からないものの、かなりの枚数を全国の主要駅に
貼り出したそう。

そして、明治32年秋、新橋と横浜両停車場に食堂が設けられ、ここでキリンの生ビールの販売が開始されます。
駅に食堂をつくって、ビールを売る事を強く主張したのが、なんとあのトーマス・ブレーク・グラバー氏。
彼はスプリング・バレー・ブルワリーの跡地にできたジャパン・ブルワリー・カンパニーの重役となっていて、ジャパン・ブルワリーがこのキリンビールを売り出していました。

その食堂が出来た前後に、新橋・横浜の駅舎の脇に大々的なキリンビールの電飾看板が登場し、
看板のまわりを囲んで豆電球が明滅、それによって看板の文字が浮かび上がったり消えたりして、
ネオン看板のはしりとなります。


えーと、つまり、明治の新橋停車場や横浜停車場の昔の写真でよく見かけるキリンビールの大看板は、
少なくとも明治32年以降のものだということ。

新橋駅の渡り廊下と、キリンの看板が同時に映っている写真が残ってますので、
台風で明治11年に一度吹き飛ばされたはずの渡り廊下が30年代の写真にあるという事は、
「二度と架けられる事はなかった」というのは誤情報ですね。
そもそも「キリンビール」という商品の発売が明治21年以降ですから。以下参考写真
(http://showcase.meijitaisho.net/entry/shinbashi_station_02.php 明治大正プロジェクト所蔵)
(http://photozou.jp/photo/show/150060/25895610 写真共有サイト フォト蔵)


そういえば、ウィキにあったのですが、このキリンビールの工場は山手から生麦に移転したそうですね。
しばらくして京急の方でキリンビール前駅を開業し、東急に合併されたとき引き継がれたんだとか。
戦時中で贅沢品であるビールの文字が消え、キリン駅になりそのうち営業も休止され戦後廃止に。
今でもキリンビール工場の最寄り駅は生麦駅ですが、ビールに生麦とは・・・(笑)
地名で移転先にシンパシーを感じた訳じゃないですよね?まさか。
(生麦の地名自体は古くからあるものですが、由来はいくつか説があるみたいです。)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%A7%85 キリン駅)
(http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=144 はまれぽ.com「生麦の由来って?」)


もうひとつ、面白いエピソードとして、山陽鉄道が明治32年に食堂車をはしらせ、
おくれて官線の東海道線でも明治34年に食堂車を連結し、
1等、2等の乗客にフルコースの洋食を出すようになるんですが、
明治35年、東海道線に乗車した外国人が、食堂車でキリンビールを注文したところ、
ヱビスビールしかないと断られたと、キリンビールに苦情が来たそうで、
調べたら東海道線の食堂車への納入を落札した精養軒が、ヱビスビール派だったんだそう。

駅で、さんざんキリンビールを広告して客をその気にさせておきながら、
食堂車ではキリンをださない、という東海道さんのドSぶり・・・(笑)
これもうツンデレじゃないよね。デレてないもんね。

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ー蛇足ー

山陽鉄道の食堂車に納入していたのは神戸の自由亭、のちのみかどホテル。
明治34年に自由亭からみかどホテルに改名し、明治36年には山陽鉄道の直営となる。
国有化後は、新橋ー神戸間、新橋ー下関間、大阪ー下関間の急行列車の営業を請け負う。

精養軒は明治5年に東京市京橋区に開設した西洋料理店で、上野公園のと2店舗あった。
明治34年12月15日に官設新橋ー神戸間急行列車に初めて食堂車が連結され、その営業を任される。
その後も官設鉄道の食堂車の多くを担当する。

明治39年4月16日、新橋ー神戸間の夜行三等急行が新設され、はじめて和食の食堂車が連結される。
そこの担当は東松軒で、駅構内ですでに駅弁の販売を行っていた業者だった。
その後、東海道・山陽線の和食堂車の一部も担当。

日本鉄道が食堂車を開始したのは明治36年8月21日、上野ー青森間本線経由急行で、
車体が16mしかなく、食堂の定員は5人、食堂車の前後に1等と2等の寝台車がついた。
定員わずか5名でありながら、その営業は外部の仙台ホテルに請け負わせる。
これは上流階級・高級官僚の利用に限定されたレイアウトのようで、
日本鉄道は半官半民、会社の体質が保守的・官僚的のため一般へのサービスが悪かったという。
(以上は「特殊仕様車両「食堂車」」三宅俊彦著/講談社/2012より)

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ちょうど、千川上水や品川がでてきたので、
この間まで調べていた荒玉水道町村組合について、分かった事をメモっとこう。

結論からいうと荒玉水道町村組合は、その名の通り町村組合制の水道管理組織のようで。

基本的に東京市内の水道は市が監理しているけど、その恩恵を受けれない市外の郡部は
町村組合制や町営を採っており、ほかにも私営の水道があって、その数13。

町村組合制のものが、江戸川上水と荒玉水道の2つ。
町営のものが戸塚町、大久保町、井荻町、淀橋町、千駄ヶ谷町、代々幡町、渋谷町、目黒町の8つ。
私営のものが玉川水道、矢口水道、日本水道の3つ。

で、それらの内町村組合と町営のものは昭和7年10月に5郡部82町村が東京市に併合し
「大東京」になったことで、一緒に合併されたらしい。
のこった3私営水道もおいおい合併されていったもよう。

京王が昭和6年12月に日本電力に受電先を切り替えたあとも、荒玉水道町村組合への
供給分はかわらず東京電灯から受け続けたのは、のちのち市との併合で足かせにならないように、
足並みをそろえていたのかなぁ、というのはただの想像ですが。
供給された電気はポンプの動力にでもしてたのかな?



淀橋町、千駄ヶ谷町、戸塚町、大久保町は東京市と隣接し、水道は市からの給水。
まあ、淀橋浄水場も近いし、この辺りは震災以後、移転による人口増加が深刻だったようで、
実質的な市域の拡張という面があったんでしょう。
一方、井荻町と代々幡町は地下水が水源で、これは台地の樹木に恵まれ水質が良好だった事と、
昭和の初めではまだそれ程、人口過密でなく先の地域よりは水量に余裕があったからのよう。



そして、荒玉水道は、玉川と荒川から取水することを目的にしての命名で、
起点の砧浄水場と、野方・大谷口の2つの給水所を擁し、
豊多摩郡の中野町、落合町、野方町、和田堀町、杉並町、
北豊島郡の板橋町、巣鴨町、王子町、滝之川町、高田町、西巣鴨町、長崎町、岩淵町
に給水、東京市の北から西にかけての外縁的な地域が対象。

もともとこれらの地域には、不動尊が祀られた場所には良質の掘り井戸があり、
千川上水、石神井川、谷田川などの水源も豊富で
大正の頃まではそれほど水に不自由していなかったのが、
やはり震災の影響で人口が増加し、地下水ではまかない切れなくなって、
民間による水道事業を計画するも失敗するし、町村間で組合を作って公営でいこう、と
したのが始まりだという。

大正13年4月豊多摩郡・北豊島郡の関係町村水道敷設準備調査会が設立。
大正14年1月荒玉水道町村組合が設置。
大正15年3月工事の認可を得る。
同年12月5日水源地の砧村にて起工式。
昭和3年10月に給水開始。

ただし、取水する浄水場は砧だけで、荒川からの取水は結局おこなわなかったそう。



それより南の地域は国内最大の私営水道会社、玉川水道会社のテリトリーで、
水源は多摩川、調布取入口より取水し、玉川・調布の2浄水場を擁す。給水地域は、
荏原郡の品川町、大森町、羽田町、大井町、大崎町、入新井町、蒲田町、六郷町、
東調布町、池上町、馬込町、荏原町、碑衾町、玉川町の14町村。
(なんか、東急にテリトリーかぶってるなぁ・・・)

京浜地帯は塩害がひどく、低湿地のため水質は不良、なので天水か余所から水を買う買水でしのいでいた、水に恵まれない地域だったそうで、明治の頃から早くも水道敷設が叫ばれていました。
明治44年3月の水道条例改正で私設水道が認められるようになり、
入新井、大森、羽田、蒲田などの有力者が集まって社団法人荏原水道組合を立ち上げ。
しかし資金難などで、せっかく進めていた工事も頓挫、しかし住民の要望やまず、
大正5年頃、有志によって組合の事業が引き継がれ、株式会社として
大正7年2月に資本金30万円の玉川水道が創立。
同年9月組合から譲受した設備に修繕を加えて、
11月に入新井、大森の町に給水を開始。以後、増資を重ねて給水区域をひろげていく。
民間経営で計画倒れて組合制にした荒玉とは逆なのが、また面白い例ですね。


ついでに千川水道。千川上水は1786年に上水利用を廃止、以後灌漑用に具されていたのを
明治13年に岩崎弥太郎ほかが水道会社を立ち上げてこれを再興。
明治14年に完成した、かなり初期の水道会社で三菱系。
(以上は「江戸東京水をもとめて四〇〇年」と「東京都水道史」などより)


水道会社ではないけど、昨日いった品川歴史館に
品川用水についての解説シートがあり、頂いていてきました。

これにもやっぱり、品川区域は水に恵まれず・・・とあり、
1667年に長年嘆願を続けてきた灌漑用水の許可が下り、
武蔵野市(境浄水場?)あたりの玉川上水から分水され仙川村まで来ていたのを受けて開鑿。
「品川用水の工事は千川上水の分水を受けて取水」というのは「仙川用水」の勘違いかなぁ・・・(笑)
地図だと、こちらがわかりやすい。
http://tokyoriver.exblog.jp/tags/%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%A8%E6%B0%B4/ 
品川用水:東京の水

まあ、千川上水も境のちかい場所から分水してるので兄弟みたいな感じですが。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/rekishitenbyo/senkawa/gaisetsu.html
練馬区

前述「地図で読む昭和の日本」の地図には、品川用水のそばに三井邸があって、
これが今の戸越公園。
ここには今でも池があるけど、品川用水を引いていたのかは分からないなぁ。

   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +   +

幕末にはすでに玉川上水を水源とする木樋の水道設備にはがたが来ていたものの、
維新の混乱でその管理も組織体制も壊れ、水道を管理する明治新政府内での所管も転々としたため、なかなか改善できなかったよう。閥族は所詮、よそ者ですしね。
それで限界に来ていた木管にかわる鉄管にとりかえる計画がずっとたてたれていたものの、
予算の都合でなかなか実現せず、しまいには鉄管納入に関連した疑獄事件までおきて、この関係で雨宮さんなんかは投獄され、豆相人車鉄道の開通を獄中で報告されたという。
利光さんの親分の星亨の派閥の市会議員も鉛管納入、量水機納入なんかの関係で
賄賂を受けたという疑獄で拘引され、利光さん自身も塵芥処理業者指定の不正関与疑惑で拘引された事があるという。
これらは明治30年前後(29年と33年)の出来事だけど、
東京市はずーっとこのインフラ整備で頭を悩ませていたんですね。

東京市水道改良事務所が創設されたのが明治24年。
用地買収が難航し、買収が完了しない内に明治26年12月淀橋浄水場の工事に着手。
明治32年10月1日東京市役所が開設し、水道改良事務所は水道部と改名。
12月からは通水を開始、17日に淀橋浄水場で落成式を盛大に行う。

この淀橋浄水場の完成によって、東京市民は近代改良水道の恩恵を受けられるようになりました。
淀橋浄水場の存在意義って、想像以上だ。すごい。

浄水場が完成して明治44年には水道設備も完成した市域に対して、このころ
「泥を飲む郡部」と題された記事がでるくらい、市域外の水道設置はおくれ、
せっかく郊外に移転してきた市民も、郡部の水の悪さに辟易してまた市内にもどってしまうという現象もあったそう。
考えてみれば、水回りのインフラは、交通の便以上に深刻だよなぁ。
それが、震災による郊外移転の増加で、抜き差しならぬ状況になり、
最初の町村組合や町営による水道経営が昭和の初めに始まるのですね。

そして、昭和7年にそれらがほぼ、統合されて大東京になる、と。
なにげに、合併ブームだったのかもしれない。みっちゃんぷろじぇくともその年だし。
昭和7年ていう年は、いろいろ激変の時機でもあったんだなぁ。

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とりあえず、官界復帰後の井上さんのあしどりをまとめてみたよ。

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明治9年1月7日洋行することを条件に、朝鮮使節を引き受けた井上馨は下関を出発
    3月4日朝鮮から帰朝、このとき木戸孝允はすぐに祝賀の書を贈り、その中で自身の辞意を相談する
        井上は木戸を洋行へ誘う
    4月22日欧州差遣の辞令が下る。理財研究を目的とし、滞在期間は約3年と定められた
        それから井上馨は墓参のため30日間の暇乞いをする
    5月5日故郷の山口県へ帰る為、東京を出発、途中大阪に滞在し、月末に帰京
    6月2日木戸孝允は天皇の奥羽巡幸に同道するため、岩倉右大臣、大隈参議、徳大寺宮内卿らとともに
        東京を出発
    6月25日井上馨は木戸の洋行の準備が中々はかどらないなか、自身の洋行反対派の動きも察知し、
        木戸を待たずして横浜から出発する
        船は太平洋郵便会社のアラスカ号で、文部省留学生の杉浦重剛、穂積陣重等が監督官正木退蔵に
        引率されて搭乗していた
    7月18日桑港に到着、午前11時頃、駐在の副領事高木三郎と横浜のウォルスホール支配人アルウィン等に
        迎えられてパーレスホテルに投宿、休養のため井上一行は数日同地に滞在
      23日アルウィンの案内で同地を出発、翌日にはフリージニアを見物し金銀鉱山に到り視察
      31日天皇一行は奥羽巡航を終え帰還
    8月3日木戸は宮内省出仕を命じられ、洋行を断念する
    8月3日井上一行はシカゴ・ナイアガラを経て費府(ペンシルベニア州デラウェア川西岸の港湾工業都市)
        に到着、同地では博覧会が開催中で、内務大丞永与専斎が出張していた
      16日井上は伊藤からの電報によって木戸の洋行中止を知る
      17日華盛頓(メリーランドとバージニア両州境のポトマック川沿いにある
        コロンビア特別区の政府直轄地)へ
      24日ニューヨークに到達
    9月2日木戸と合流するための米国滞在を打ち切り、英国へむけて出発
      12日ロンドンに到着、日本公使館付近の宿舎に投宿
        その後ハミリ―という英国人経済学者の家に下宿する
    10月9日付けの手紙に「福澤書生三人罷在候処、至テ行跡等モ克ク勉強罷在申候」とある
        この福澤書生とは、7年10月から渡英していた中上川彦次郎と小泉信吉ら留学生である
        井上はわざわざ英国から太政官採用方を三条太政大臣に稟請し、伊藤にもその斡旋を頼んでいる
        しかし留学生等の生活は放埒で井上はしかるべき人物をもって彼等を監督指導せしめる必要を感じ
        木戸に相談したりしている
    12月24日クリスマスの季節を利用してドイツへ遊ぶこととした井上はベルリンへ赴く
        ドイツには駐在副公使として青木周蔵がおり、陸軍少佐桂太郎が公使館附武官として駐在していた
        ついで11年の万国博覧会準備中のパリへも赴く
        ここで井上は木戸を万博に派遣するよう書翰を飛ばす
        それが到着するのは木戸が薨去する前二十日ばかりだった

※この頃政府と木戸の意見は兎に角衝突し、木戸はその不平を井上に訴える、その中には華士族家禄支消という
4年来の問題があり、政府の急激な支消方針に木戸は反対してきたが、
力及ばず金禄公債證書下付の発布は免れがたくなった。
そこで木戸は、この発布とともに予て陳述していた華士族制度の規定を制定するように希望したが、政府はこれを
頗る困難とし、8月5日に家禄賞典禄を廃止、公債證書を公布、書入・質入及び売買約定などを禁止した。
木戸は政府の疎漏極まる措置に憤慨し、深く士族の将来を憂え、その哀情を井上の許へ送った。
そして家禄支消によって、各地で士族の反乱が起き、最後は西南戦争によって反乱は幕を閉じることになる。

明治10年3月下旬井上は木戸の最後の書翰を受け取る
    その内容は政府に対する不平不満の極に達するものであった
    3月28日附けの返信を帰朝する原六郎、兼松一等書記生に託す
    この手紙は惜しくも木戸の臨終には間に合わない
    4月23日西南戦争勃発により心労が重なった木戸は重体に陥る
    5月26日木戸孝允薨去
    10月4日井上は祖国の危急に接し、3年間の滞在を諦め帰朝希望の意思を伊藤宛に開陳
明治11年1月4日ロンドンを出発、ベルリン・ウィーンを周遊して欧州大陸を視察
    2月8日三条・岩倉大臣連署の書簡を井上へ送る、
      9日付けをもって帰朝の命令が発せられる
      井上は桂太郎とベルリンで合流
      オーストリー、フランスを歴遊してロンドンに帰り、桂はまたベルリンに帰った
    2月9日ロンドンに戻り、伊藤の返事を待つ
    5月中旬旅装を整え、決別の宴などを催す
    5月14日大久保が凶刃に倒れる、自由民権論が民心を発揚
      黒田・伊藤はかさねて井上に帰朝をロンドンの客舎に飛電
    6月2日桂にも帰朝を促す書を送り、ロンドンを出発
    7月14日井上、欧州より横浜到着、同夜上京
    7月17日政府に帰朝の届出を出す
    宮中では、井上の参議入りに反対する声もあり、
    吉井友実、土方久本、佐々木高行、皇后宮大夫元田永孚等は
    「井上の如き不人望家を採用することは憂ふべき事である。」と
    一同協議の上、三条・岩倉大臣に意見を上申する
    大隈参議は職を賭して井上の任用を奏請し、伊藤は両大臣を説得する、
    黒田は個人的には井上を好まなかったが野に置く事は国家の不利と見た
    井上入閣賛成派は大隈、伊藤、黒田だった
    7月25日御内諭を三条太政大臣・岩倉右大臣に賜り閣員一同の意見として上奏
    7月29日参議兼工部卿に任命、ただし天皇の勅許は得ず

第5節 工部卿時代の事蹟

~併しなほこの任期中にあって、或は鉱業の発達を図り、
或は兵庫製作所・長崎造船所・深川製作所・赤羽製作所等の
修築経営より各種製鉄業の改良に心を用ひたことは少なくない。
事に郵便・電信の如きは、十一年に入って一般の需用が大いに増加した。
即ち十一年度の超過収益が、電信料に於て一万五千余円、郵便税に於て
一万三千余円となった程で、社会の進展と公衆の需要状態が如実に表れてゐる。
この世運に応じて、電信線を増加延長し、郵便為替取扱所の増設を図り、
通信網の拡張によって公衆の便益を増徴したことが著しい。
併し此等の些々たる省務上の業績は、公の国策に快挙した偉大を語るには
多く損益する所がないから、ここにはその煩を避け、その一二に就いて少しく
公の活躍を述べるに止めて置かう。~


明治11年8月13日石川島造船所に於て汽船長安丸の盛大な船御式 曲水式 が行われた
        この石川島造船所は幕末に水戸藩が初めて旭日丸を建造した所で、
        明治にこれを政府の所管とし、造船局製造所とした
        のちに築地兵器局に合併されて、同所に於ける造船業は跡を絶ったが、
        9年平野富二が海軍省より石川島借用の許可を得て工場を新築、
        独力経営していた、これが邦人の私立工場で洋式船舶を製造した嚆矢となる
        こうした経緯から井上は造船業の視察と奨励を兼ねて式場に臨み、
        芳川顕正・安川繁成の両大書記官を従えて石川島に到った
    8月30日~11月9日は北陸東海御巡幸に供奉
    11月19日中国地方の海底電線沈架検分および灯台巡視のため出張を仰せつかる
    この海底線は、岡山県渋川村より愛媛県及生村に至る間と、
    山口県下関前田より福岡県小倉雨ヶ窪に増架するもので、その実地検分の傍ら
    瀬戸内海の灯台状況を視察するためのもの
    11月23日明治丸に搭乗、横浜を出発、芳川電信局長がこれに随行した
    11月25日大阪に到着、2,3日滞在したのち巡視
    12月26日帰京、その途次で京都西本願寺で帰敬式を行い超然の法名を受ける 
明治12年2月10日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を賜る
    2月19日法制局長官兼任を仰せつかる
    4月28日長崎の立神造船所落成のため検分出張を命じられる
    同造船所は井上が長崎在任時代に経営していたもので、経営は不振だったが
    長崎造船局長渡邊嵩蔵の建議を納れて、政府も立神郷に造船所建設を企画し、
    今その落成をみたものである
    4月29日井上卿は大書記官林董を随えて新潟丸に搭乗、横浜を出発
    5月11日下関に到着、それより山口にいたって暫く滞在する
    5月21日落成式に臨む、内海長崎県令・外国領事などの地方顧官貴紳が陪席する
    5月26日木戸孝允の三周忌が京都西本願寺で行われることになったので、それに参会
    6月8日帰京、以降は外国貴賓の来朝接遇に忙殺される
    9月20日外務省に転じ、条約改正に傾注

※工部省の御造営
明治6年5月5日後宮で失火、皇城が灰燼に帰し明治天皇は赤坂離宮に遷幸し仮皇居とする
    これが手狭で不自由であったが、勅令を下して皇居経営を急速にする事は止めた
明治7年12月ここに到って皇居再営を仰出、直ちに造営にあたるはずが、国情で進捗を見ず
明治9年5月ようやくその運びとなり、10年より五箇年を期して、皇居造営を工部省へ命じる
    当時工部省は、諸官衙の建築修繕を掌っていたので、造営も工部省に於いて万端経営することになった
明治11年1月政府に減祖行われ経費節用のため建築を延期、一時中止の格好となる
明治12年御造営の議が廟堂において盛んに起こり、その測量製図に取りかかることとなった
    工部省からは吉井工部少輔・平岡営繕局長を、宮内省からは土方宮内少輔・櫻井内匠課長を
    出して旧本丸巡検、その結果皇城を造築するには適さないとわかり、議を改めて西丸跡を測量調査、
    表謁見所・宮内省などを西丸跡に、常御殿を山里に、女官部屋を紅葉山にそれぞれ候補地と定め、
    略図を製して計画を立て、これを上奏した
    7月24日天皇には吹上御苑に行幸、御造営地を叡覧され、
    井上工部卿は岩倉右大臣・山尾工部大輔等と参謁
    9月苦慮の末、ほぼ計画が出来、これによって御造営の由を仰出
    9月12日工部省へ協議の上費額支出の方法を取り調べて伺い出すべき旨を命じる
    9月20日天皇再び吹上御苑に行幸、岩倉右大臣および諸参議とともに井上卿も参謁
    西丸跡に表謁見所・宮内省を、山里に奥向御築造の議を内決する
    これによって工部省に於ける造営の工事分担を定め、工事に着手する
明治15年5月御造営事務が宮内省に移管、副総裁を置く事となる
    5月27日総裁に三条太政大臣、副総裁に榎本武揚を任命するが、これは井上馨卿の配慮である
明治21年10月10日真皇居がようやく落成する
明治22年1月9日に賢所の御遷座
    1月11日御移徒ある

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中上川さんの伝記のなかに、電話機を初めて設置したラインが、まず内務省と警視庁、
宮内省と工部省とあって、前者は分かるけど、後者はなんで?って思ったんですが、
この頃、工部省の責任において新皇居を造営中だったからなんですね。すごく納得。

それなら、宮内省から工部省へ密な連絡がいくよねぇ。
それにしても、天皇陛下はえらい待たされたんだな。16年くらい赤坂離宮にいたんだ。
タモリさんがブラタモリで見学してた、あそこも離宮の一部でしたよね???

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前掲「川辺と水の事典」に載っていた海運の荷揚げ場所と官有地の関係をあらわした地図がかなり使えそうな。

ちょっと、昔買った「江戸散歩東京地図」(成美堂ブック/2005年)を引っ張り出してきて、地図を比べてみました。(一時期「鬼平犯科帳」と「剣客商売」にはまっていたので、池波正太郎に反応して買い。
佐嶋さんがデラかわいいのですっっっ基本長官×佐嶋さん、逆でも萌。おま)

①の小石川砲兵工廠は元「水戸殿」かな。現小石川後楽園で東京ドームの近くだな。
②の靖国神社は突起部分が「歩兵屯所」と「馬場」であとは細かい苗字が列なってるから旗本か御家人かな?
③の近衛兵営は元「田安殿」と「清水殿」で②の機能が移ってきた感じ?
④陸軍軍馬局は元「一橋殿」で、今は丸紅と、き、気象庁??(笑)
⑤紙幣寮は「酒井左衛門」「小田原右近」「松平越前」「太田備後」「太田備中」「夏目左近」で
大手町駅の北側から北東、東の一帯。逓信総合博物館と、新聞社が多いですね。
⑥太政官、右の細長いの、「松平三河」「水野出羽」「松平内蔵」「松平和泉」「松平誠之助」「稲垣長門」「松平丹波」「水野周防」で、上の空白は「北町奉行所」だったっぽい。下の空白は「南町奉行所」とか「松平阿波」「松平土佐」。で現、え、あ東京駅だ。
左のでっかいの。「安藤対馬」「内藤紀伊」「松平下総」「酒井右京」「本多越中」「本庄区内」「間部下総」と「御厩」、皇居外苑。
下の小さいの、「牧野越中」で日比谷駅南東部、劇場が多い。
⑦日比谷練兵場は「松平大膳」「松平肥前」「南部美濃」「上杉弾正」「大岡越前」など、いわずもがな日比谷公園。霞ヶ関駅のあたり。
⑧工学寮(工部大学校)は「内藤右近」「内藤紀伊」「丹波左京」「松平伯耆」など、で、国会議事堂、首相官邸、内閣府、合同庁舎四号、財務省、経産省、日本郵政公社(この辺は今はもう名前ちがうのかな?)と、虎の門ホール。うをを、一気に中枢に。
⑨工部省製作寮は「松平肥前」「京極佐渡」「木下飛驒」「相良越前」「勘定奉行」など、
金比羅さまがのこってますね。虎ノ門駅南側です。
⑩博物館は「薩州殿」「鍋島加賀」「阿部播磨」「松平時之助」で帝国ホテルです。
⑪鉄道寮(新橋・汐留)は「松平肥後」「松平奥平」「脇坂中務」で新橋停車場だ。ゆりかもめが今いる。
⑫海軍用地は「鉄砲稽古場」「酒井左衛門」
⑬ガス局は「紀伊殿」で今の浜松町駅東側。旧芝離宮。
⑭鉄道寮は「松平肥後」、シーバスや東芝があるあたりかしら、日の出駅の辺はまだ海。
⑮海軍用地(水平本部)は増上寺の西側社地、溜め池かお堀のようだ。隣接地に東京プリンスホテルがたってる。
⑯海軍砲兵屯所は増上寺の南側川縁だな。社地と学寮のようだ。今は芝公園内。
⑰工部省製作寮は「有馬中務」で救生会中央病院や三田高校、赤羽小学校、三田大郵便局など。
⑱勧業寮は「薩州」「松平阿波」「内藤金一郎」「松平伊勢」で三田駅の北東側。NECがある。
⑲浜離宮は「御浜殿」でまんま
⑳海軍省は「稲葉長門」「一橋殿」「松平安芸」「尾張殿」で築地市場!!
㉑電信倉庫局は「奥平大膳」屋敷地で銀座郵便局と銀座中。郵便局は電信も兼務したからかな?
㉒官有波止場は江戸の地図にはまだないかんじだから、埋め立て地かな?はとば公園で残ってる。
㉓㉔の造船局造船所と東京府懲役所は「石川島人足寄場」と「佃煮島」。あれタモリ倶楽部でクルーズしてたのここだっけ。すこし海中にずれますが有楽町線月島駅がありますね。
㉕越中島練兵所は「松平下総」「松平阿波」と「越中島調練場」で元からの軍事訓練場だったのですね。
㉖北海道開拓使は「久世大和」「松平伊豆」「土井大炊」かな。「田安殿」もはいってるのかな?今の箱崎ジャンクションあたり。
㉗の陸軍省倉庫は「御竹蔵」で今は 両国国技館や江戸東京博物館、慰霊堂、復興記念館のある一帯。
㉘のくし形の湊の御蔵は「浅草御蔵」ですね。総武線浅草橋の北側あたり。都営の蔵前駅の由来です。

幕末の大名一覧というページがあったので、そこで当時の持ち主がわかりそうです。
http://bakumatu.727.net/iroha/mame-kanmei.htm こちら
ただ、参考にした古地図も、年代的に多少のずれがあるかもな~。敷地交換してる可能性もあるし。

一橋殿はいわずもがなの徳川慶喜でしょうね。
松平阿波守は蜂須賀さんか。
松平肥後守は・・おお!会津公(松平容保)じゃないっすか。
薩州殿てのは薩摩藩邸ってことでいいのかな・・・。鉄道通すのに反対したっていう(笑)
田町駅のあたりも薩州殿だな。

御覧のように、11,12,13,14の官有地を新橋横浜間鉄道だった東海道線が通っています。
幕府側から接収した官有地をフル活用したようですね。
田町から先は海に張り出してますが(^ ^;)

「水の事典」によると、江戸の荷揚げ場所は市場の機能をもっており、
その規模は武家地の方が町地より遥かに大きかったんだとか。
そして陸揚げに有利な海岸のいい土地は大名の広大な土地屋敷となっていて、
呼び方も武家地の岸を「物揚場」、町地のを「河岸」と読んで、区別していた。
これは火除け地でも「火除明き地」と「広小路」と区別したので文字通り、
武士と町人では棲み分けがはっきりしていた証なんですねぇ・・・。
そういえば、新宿駅南側の「火除け地」も武家屋敷だったか。

江戸の文化に詳しくない明治政府は「河岸」のことを単なる水辺の岸と解釈し、市場の機能の有無を考慮せず、かなり無理な官有地化を強行したようで。
その後、「松方緊縮財政」頃から民間への払い下げが進行してったそうです・・・。
こういう視点もおもしろいものですね。

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