たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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「明治の東京 外国人の見聞記」(岡田章雄/桃源社/昭和40年2月発行)に紹介されてる、
医師ヘンリー・フォールズの新橋横浜間鉄道の感想に、客車のことがありまして。
~線路は今では複線になっていて、一等車、二等車、三等車の8輌か10輌連結の客車が
およそ一時間毎に双方の終点を出発している。
運輸量はかなり多いし、その上に運賃の収益も素晴らしくいいという事である。
英国の技師によって建設された線路は、有名なアメリカの鉄道建設者の証言するところによると、
「その堅牢なこと岩の如き」ものである。ゲージは英国の普通の狭軌に比べてやや狭い。
機関車は英国で製造された物で、いくらか軽すぎる。しかし強力で、見た所は格好がいい。
車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。
一等車は三つの小室に区分され、中央の小室が他の二室に向かって開いている。
入り口はアメリカの車室と同様、車輌の両端にあるが、プラットホームは狭い。
腕木信号機は閉塞式を用い、私の見たとことでは、その働きは完全ではないようだ。
中間の停車場は、その設計も極めて優秀で、鉄の陸橋が線路をまたいでいる。
線路には全線に渡って柵が設けられられている。鉄道事故はほとんど発生した事がない。
ーもっとも自殺のために飛び込むのは別で、悲しい事にそれはよくある。ー
…小さな四角形の緑色のクッションが1回1ペニィ程で提供されるが、脂肪の塊に恵まれていない
三等客にはそれが結構役に立っている。~
……ヘンリーさんは鉄道マニアだったのだろうか?
ほかの外国人にくらべると、着眼点が妙に的を射ているというか。
参考になるので大変ありがたいですが。
「今では複線になっていて」ということは、最初は単線だったんですね。
wikiによるとまず、明治9年12月1日新橋ー 品川駅間複線化(同区間に田町仮停車場を開設)、
明治12年3月1日大森ー 川崎駅間が複線化、ついで11月1日川崎ー鶴見駅間が複線化。
明治13年11月14日に品川ー大森駅間が複線化。
明治14年5月7日鶴見ー横浜駅間複線化、これにより新橋ー横浜駅間の複線化が完成、
ということなので、意外と全線複線化まで時間が掛かってるんですねぇ。
うっ、ということは明治9年時点ではまだほとんど単線だということか・・・!
8輌か10輌連結というのは、今の感覚からしても結構多いような気が・・・。
蒸気機関車による牽引だから、当然電車とは違うのでしょうが。
(客車はほぼ木製ので軽いのだろうし)
「車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。」
ということは、ロングシートだったということかな?
三等客車はむしろクロスシートだったのかも。今のイメージと逆ですね。
大宮の鉄道博物館に残る三等客車はロングシートでしたけど、
あれは三扉でしたし時代が違うのかもな・・・。
そして、この頃からすでに自殺による人身事故はがんがんあるっぽいですね(川汗)
ヘンリー・フォールズさんは、大森貝塚のときにも書いたように、指紋研究の第一人者でしたが
明治7年、宣教師として来日、築地居留地18番館に住み、布教活動のかたわら医療に従事、
翌年築地川をへだてた南小田原町3丁目10に診療所を開いて健康社と称し、4丁目8に移転。
これがツキジホスピタル=筑地病院と呼ばれ東京で最初に開設されたミッション系病院となる。
明治8年にはおなじキリスト系の日本人たちやアメリカの宣教師とともに
楽善会という盲人教育の為の会をつくり、盲人の為の凸字聖書を取り寄せたりして
影ながら日本での盲学校の設立に尽力したのだとか。
(学校設立の申請書に外国人の名前があると東京府が認可しなかった)
楽善会はその後、仏教徒などの参加もあって、キリスト教的な色彩が薄くなり、
不満を覚えたフォールズは脱退を表明して、明治19年に帰国。滞日期間は12年程度でした。
医師ヘンリー・フォールズの新橋横浜間鉄道の感想に、客車のことがありまして。
~線路は今では複線になっていて、一等車、二等車、三等車の8輌か10輌連結の客車が
およそ一時間毎に双方の終点を出発している。
運輸量はかなり多いし、その上に運賃の収益も素晴らしくいいという事である。
英国の技師によって建設された線路は、有名なアメリカの鉄道建設者の証言するところによると、
「その堅牢なこと岩の如き」ものである。ゲージは英国の普通の狭軌に比べてやや狭い。
機関車は英国で製造された物で、いくらか軽すぎる。しかし強力で、見た所は格好がいい。
車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。
一等車は三つの小室に区分され、中央の小室が他の二室に向かって開いている。
入り口はアメリカの車室と同様、車輌の両端にあるが、プラットホームは狭い。
腕木信号機は閉塞式を用い、私の見たとことでは、その働きは完全ではないようだ。
中間の停車場は、その設計も極めて優秀で、鉄の陸橋が線路をまたいでいる。
線路には全線に渡って柵が設けられられている。鉄道事故はほとんど発生した事がない。
ーもっとも自殺のために飛び込むのは別で、悲しい事にそれはよくある。ー
…小さな四角形の緑色のクッションが1回1ペニィ程で提供されるが、脂肪の塊に恵まれていない
三等客にはそれが結構役に立っている。~
……ヘンリーさんは鉄道マニアだったのだろうか?
ほかの外国人にくらべると、着眼点が妙に的を射ているというか。
参考になるので大変ありがたいですが。
「今では複線になっていて」ということは、最初は単線だったんですね。
wikiによるとまず、明治9年12月1日新橋ー 品川駅間複線化(同区間に田町仮停車場を開設)、
明治12年3月1日大森ー 川崎駅間が複線化、ついで11月1日川崎ー鶴見駅間が複線化。
明治13年11月14日に品川ー大森駅間が複線化。
明治14年5月7日鶴見ー横浜駅間複線化、これにより新橋ー横浜駅間の複線化が完成、
ということなので、意外と全線複線化まで時間が掛かってるんですねぇ。
うっ、ということは明治9年時点ではまだほとんど単線だということか・・・!
8輌か10輌連結というのは、今の感覚からしても結構多いような気が・・・。
蒸気機関車による牽引だから、当然電車とは違うのでしょうが。
(客車はほぼ木製ので軽いのだろうし)
「車室は三等車は別として、ちょうど市内電車の車室のように、座席が縦の方向に附いている。」
ということは、ロングシートだったということかな?
三等客車はむしろクロスシートだったのかも。今のイメージと逆ですね。
大宮の鉄道博物館に残る三等客車はロングシートでしたけど、
あれは三扉でしたし時代が違うのかもな・・・。
そして、この頃からすでに自殺による人身事故はがんがんあるっぽいですね(川汗)
ヘンリー・フォールズさんは、大森貝塚のときにも書いたように、指紋研究の第一人者でしたが
明治7年、宣教師として来日、築地居留地18番館に住み、布教活動のかたわら医療に従事、
翌年築地川をへだてた南小田原町3丁目10に診療所を開いて健康社と称し、4丁目8に移転。
これがツキジホスピタル=筑地病院と呼ばれ東京で最初に開設されたミッション系病院となる。
明治8年にはおなじキリスト系の日本人たちやアメリカの宣教師とともに
楽善会という盲人教育の為の会をつくり、盲人の為の凸字聖書を取り寄せたりして
影ながら日本での盲学校の設立に尽力したのだとか。
(学校設立の申請書に外国人の名前があると東京府が認可しなかった)
楽善会はその後、仏教徒などの参加もあって、キリスト教的な色彩が薄くなり、
不満を覚えたフォールズは脱退を表明して、明治19年に帰国。滞日期間は12年程度でした。
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