たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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とりあえず、官界復帰後の井上さんのあしどりをまとめてみたよ。
====================================
明治9年1月7日洋行することを条件に、朝鮮使節を引き受けた井上馨は下関を出発
3月4日朝鮮から帰朝、このとき木戸孝允はすぐに祝賀の書を贈り、その中で自身の辞意を相談する
井上は木戸を洋行へ誘う
4月22日欧州差遣の辞令が下る。理財研究を目的とし、滞在期間は約3年と定められた
それから井上馨は墓参のため30日間の暇乞いをする
5月5日故郷の山口県へ帰る為、東京を出発、途中大阪に滞在し、月末に帰京
6月2日木戸孝允は天皇の奥羽巡幸に同道するため、岩倉右大臣、大隈参議、徳大寺宮内卿らとともに
東京を出発
6月25日井上馨は木戸の洋行の準備が中々はかどらないなか、自身の洋行反対派の動きも察知し、
木戸を待たずして横浜から出発する
船は太平洋郵便会社のアラスカ号で、文部省留学生の杉浦重剛、穂積陣重等が監督官正木退蔵に
引率されて搭乗していた
7月18日桑港に到着、午前11時頃、駐在の副領事高木三郎と横浜のウォルスホール支配人アルウィン等に
迎えられてパーレスホテルに投宿、休養のため井上一行は数日同地に滞在
23日アルウィンの案内で同地を出発、翌日にはフリージニアを見物し金銀鉱山に到り視察
31日天皇一行は奥羽巡航を終え帰還
8月3日木戸は宮内省出仕を命じられ、洋行を断念する
8月3日井上一行はシカゴ・ナイアガラを経て費府(ペンシルベニア州デラウェア川西岸の港湾工業都市)
に到着、同地では博覧会が開催中で、内務大丞永与専斎が出張していた
16日井上は伊藤からの電報によって木戸の洋行中止を知る
17日華盛頓(メリーランドとバージニア両州境のポトマック川沿いにある
コロンビア特別区の政府直轄地)へ
24日ニューヨークに到達
9月2日木戸と合流するための米国滞在を打ち切り、英国へむけて出発
12日ロンドンに到着、日本公使館付近の宿舎に投宿
その後ハミリ―という英国人経済学者の家に下宿する
10月9日付けの手紙に「福澤書生三人罷在候処、至テ行跡等モ克ク勉強罷在申候」とある
この福澤書生とは、7年10月から渡英していた中上川彦次郎と小泉信吉ら留学生である
井上はわざわざ英国から太政官採用方を三条太政大臣に稟請し、伊藤にもその斡旋を頼んでいる
しかし留学生等の生活は放埒で井上はしかるべき人物をもって彼等を監督指導せしめる必要を感じ
木戸に相談したりしている
12月24日クリスマスの季節を利用してドイツへ遊ぶこととした井上はベルリンへ赴く
ドイツには駐在副公使として青木周蔵がおり、陸軍少佐桂太郎が公使館附武官として駐在していた
ついで11年の万国博覧会準備中のパリへも赴く
ここで井上は木戸を万博に派遣するよう書翰を飛ばす
それが到着するのは木戸が薨去する前二十日ばかりだった
※この頃政府と木戸の意見は兎に角衝突し、木戸はその不平を井上に訴える、その中には華士族家禄支消という
4年来の問題があり、政府の急激な支消方針に木戸は反対してきたが、
力及ばず金禄公債證書下付の発布は免れがたくなった。
そこで木戸は、この発布とともに予て陳述していた華士族制度の規定を制定するように希望したが、政府はこれを
頗る困難とし、8月5日に家禄賞典禄を廃止、公債證書を公布、書入・質入及び売買約定などを禁止した。
木戸は政府の疎漏極まる措置に憤慨し、深く士族の将来を憂え、その哀情を井上の許へ送った。
そして家禄支消によって、各地で士族の反乱が起き、最後は西南戦争によって反乱は幕を閉じることになる。
明治10年3月下旬井上は木戸の最後の書翰を受け取る
その内容は政府に対する不平不満の極に達するものであった
3月28日附けの返信を帰朝する原六郎、兼松一等書記生に託す
この手紙は惜しくも木戸の臨終には間に合わない
4月23日西南戦争勃発により心労が重なった木戸は重体に陥る
5月26日木戸孝允薨去
10月4日井上は祖国の危急に接し、3年間の滞在を諦め帰朝希望の意思を伊藤宛に開陳
明治11年1月4日ロンドンを出発、ベルリン・ウィーンを周遊して欧州大陸を視察
2月8日三条・岩倉大臣連署の書簡を井上へ送る、
9日付けをもって帰朝の命令が発せられる
井上は桂太郎とベルリンで合流
オーストリー、フランスを歴遊してロンドンに帰り、桂はまたベルリンに帰った
2月9日ロンドンに戻り、伊藤の返事を待つ
5月中旬旅装を整え、決別の宴などを催す
5月14日大久保が凶刃に倒れる、自由民権論が民心を発揚
黒田・伊藤はかさねて井上に帰朝をロンドンの客舎に飛電
6月2日桂にも帰朝を促す書を送り、ロンドンを出発
7月14日井上、欧州より横浜到着、同夜上京
7月17日政府に帰朝の届出を出す
宮中では、井上の参議入りに反対する声もあり、
吉井友実、土方久本、佐々木高行、皇后宮大夫元田永孚等は
「井上の如き不人望家を採用することは憂ふべき事である。」と
一同協議の上、三条・岩倉大臣に意見を上申する
大隈参議は職を賭して井上の任用を奏請し、伊藤は両大臣を説得する、
黒田は個人的には井上を好まなかったが野に置く事は国家の不利と見た
井上入閣賛成派は大隈、伊藤、黒田だった
7月25日御内諭を三条太政大臣・岩倉右大臣に賜り閣員一同の意見として上奏
7月29日参議兼工部卿に任命、ただし天皇の勅許は得ず
第5節 工部卿時代の事蹟
~併しなほこの任期中にあって、或は鉱業の発達を図り、
或は兵庫製作所・長崎造船所・深川製作所・赤羽製作所等の
修築経営より各種製鉄業の改良に心を用ひたことは少なくない。
事に郵便・電信の如きは、十一年に入って一般の需用が大いに増加した。
即ち十一年度の超過収益が、電信料に於て一万五千余円、郵便税に於て
一万三千余円となった程で、社会の進展と公衆の需要状態が如実に表れてゐる。
この世運に応じて、電信線を増加延長し、郵便為替取扱所の増設を図り、
通信網の拡張によって公衆の便益を増徴したことが著しい。
併し此等の些々たる省務上の業績は、公の国策に快挙した偉大を語るには
多く損益する所がないから、ここにはその煩を避け、その一二に就いて少しく
公の活躍を述べるに止めて置かう。~
明治11年8月13日石川島造船所に於て汽船長安丸の盛大な船御式 曲水式 が行われた
この石川島造船所は幕末に水戸藩が初めて旭日丸を建造した所で、
明治にこれを政府の所管とし、造船局製造所とした
のちに築地兵器局に合併されて、同所に於ける造船業は跡を絶ったが、
9年平野富二が海軍省より石川島借用の許可を得て工場を新築、
独力経営していた、これが邦人の私立工場で洋式船舶を製造した嚆矢となる
こうした経緯から井上は造船業の視察と奨励を兼ねて式場に臨み、
芳川顕正・安川繁成の両大書記官を従えて石川島に到った
8月30日~11月9日は北陸東海御巡幸に供奉
11月19日中国地方の海底電線沈架検分および灯台巡視のため出張を仰せつかる
この海底線は、岡山県渋川村より愛媛県及生村に至る間と、
山口県下関前田より福岡県小倉雨ヶ窪に増架するもので、その実地検分の傍ら
瀬戸内海の灯台状況を視察するためのもの
11月23日明治丸に搭乗、横浜を出発、芳川電信局長がこれに随行した
11月25日大阪に到着、2,3日滞在したのち巡視
12月26日帰京、その途次で京都西本願寺で帰敬式を行い超然の法名を受ける
明治12年2月10日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を賜る
2月19日法制局長官兼任を仰せつかる
4月28日長崎の立神造船所落成のため検分出張を命じられる
同造船所は井上が長崎在任時代に経営していたもので、経営は不振だったが
長崎造船局長渡邊嵩蔵の建議を納れて、政府も立神郷に造船所建設を企画し、
今その落成をみたものである
4月29日井上卿は大書記官林董を随えて新潟丸に搭乗、横浜を出発
5月11日下関に到着、それより山口にいたって暫く滞在する
5月21日落成式に臨む、内海長崎県令・外国領事などの地方顧官貴紳が陪席する
5月26日木戸孝允の三周忌が京都西本願寺で行われることになったので、それに参会
6月8日帰京、以降は外国貴賓の来朝接遇に忙殺される
9月20日外務省に転じ、条約改正に傾注
※工部省の御造営
明治6年5月5日後宮で失火、皇城が灰燼に帰し明治天皇は赤坂離宮に遷幸し仮皇居とする
これが手狭で不自由であったが、勅令を下して皇居経営を急速にする事は止めた
明治7年12月ここに到って皇居再営を仰出、直ちに造営にあたるはずが、国情で進捗を見ず
明治9年5月ようやくその運びとなり、10年より五箇年を期して、皇居造営を工部省へ命じる
当時工部省は、諸官衙の建築修繕を掌っていたので、造営も工部省に於いて万端経営することになった
明治11年1月政府に減祖行われ経費節用のため建築を延期、一時中止の格好となる
明治12年御造営の議が廟堂において盛んに起こり、その測量製図に取りかかることとなった
工部省からは吉井工部少輔・平岡営繕局長を、宮内省からは土方宮内少輔・櫻井内匠課長を
出して旧本丸巡検、その結果皇城を造築するには適さないとわかり、議を改めて西丸跡を測量調査、
表謁見所・宮内省などを西丸跡に、常御殿を山里に、女官部屋を紅葉山にそれぞれ候補地と定め、
略図を製して計画を立て、これを上奏した
7月24日天皇には吹上御苑に行幸、御造営地を叡覧され、
井上工部卿は岩倉右大臣・山尾工部大輔等と参謁
9月苦慮の末、ほぼ計画が出来、これによって御造営の由を仰出
9月12日工部省へ協議の上費額支出の方法を取り調べて伺い出すべき旨を命じる
9月20日天皇再び吹上御苑に行幸、岩倉右大臣および諸参議とともに井上卿も参謁
西丸跡に表謁見所・宮内省を、山里に奥向御築造の議を内決する
これによって工部省に於ける造営の工事分担を定め、工事に着手する
明治15年5月御造営事務が宮内省に移管、副総裁を置く事となる
5月27日総裁に三条太政大臣、副総裁に榎本武揚を任命するが、これは井上馨卿の配慮である
明治21年10月10日真皇居がようやく落成する
明治22年1月9日に賢所の御遷座
1月11日御移徒ある
====================================
中上川さんの伝記のなかに、電話機を初めて設置したラインが、まず内務省と警視庁、
宮内省と工部省とあって、前者は分かるけど、後者はなんで?って思ったんですが、
この頃、工部省の責任において新皇居を造営中だったからなんですね。すごく納得。
それなら、宮内省から工部省へ密な連絡がいくよねぇ。
それにしても、天皇陛下はえらい待たされたんだな。16年くらい赤坂離宮にいたんだ。
タモリさんがブラタモリで見学してた、あそこも離宮の一部でしたよね???
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明治9年1月7日洋行することを条件に、朝鮮使節を引き受けた井上馨は下関を出発
3月4日朝鮮から帰朝、このとき木戸孝允はすぐに祝賀の書を贈り、その中で自身の辞意を相談する
井上は木戸を洋行へ誘う
4月22日欧州差遣の辞令が下る。理財研究を目的とし、滞在期間は約3年と定められた
それから井上馨は墓参のため30日間の暇乞いをする
5月5日故郷の山口県へ帰る為、東京を出発、途中大阪に滞在し、月末に帰京
6月2日木戸孝允は天皇の奥羽巡幸に同道するため、岩倉右大臣、大隈参議、徳大寺宮内卿らとともに
東京を出発
6月25日井上馨は木戸の洋行の準備が中々はかどらないなか、自身の洋行反対派の動きも察知し、
木戸を待たずして横浜から出発する
船は太平洋郵便会社のアラスカ号で、文部省留学生の杉浦重剛、穂積陣重等が監督官正木退蔵に
引率されて搭乗していた
7月18日桑港に到着、午前11時頃、駐在の副領事高木三郎と横浜のウォルスホール支配人アルウィン等に
迎えられてパーレスホテルに投宿、休養のため井上一行は数日同地に滞在
23日アルウィンの案内で同地を出発、翌日にはフリージニアを見物し金銀鉱山に到り視察
31日天皇一行は奥羽巡航を終え帰還
8月3日木戸は宮内省出仕を命じられ、洋行を断念する
8月3日井上一行はシカゴ・ナイアガラを経て費府(ペンシルベニア州デラウェア川西岸の港湾工業都市)
に到着、同地では博覧会が開催中で、内務大丞永与専斎が出張していた
16日井上は伊藤からの電報によって木戸の洋行中止を知る
17日華盛頓(メリーランドとバージニア両州境のポトマック川沿いにある
コロンビア特別区の政府直轄地)へ
24日ニューヨークに到達
9月2日木戸と合流するための米国滞在を打ち切り、英国へむけて出発
12日ロンドンに到着、日本公使館付近の宿舎に投宿
その後ハミリ―という英国人経済学者の家に下宿する
10月9日付けの手紙に「福澤書生三人罷在候処、至テ行跡等モ克ク勉強罷在申候」とある
この福澤書生とは、7年10月から渡英していた中上川彦次郎と小泉信吉ら留学生である
井上はわざわざ英国から太政官採用方を三条太政大臣に稟請し、伊藤にもその斡旋を頼んでいる
しかし留学生等の生活は放埒で井上はしかるべき人物をもって彼等を監督指導せしめる必要を感じ
木戸に相談したりしている
12月24日クリスマスの季節を利用してドイツへ遊ぶこととした井上はベルリンへ赴く
ドイツには駐在副公使として青木周蔵がおり、陸軍少佐桂太郎が公使館附武官として駐在していた
ついで11年の万国博覧会準備中のパリへも赴く
ここで井上は木戸を万博に派遣するよう書翰を飛ばす
それが到着するのは木戸が薨去する前二十日ばかりだった
※この頃政府と木戸の意見は兎に角衝突し、木戸はその不平を井上に訴える、その中には華士族家禄支消という
4年来の問題があり、政府の急激な支消方針に木戸は反対してきたが、
力及ばず金禄公債證書下付の発布は免れがたくなった。
そこで木戸は、この発布とともに予て陳述していた華士族制度の規定を制定するように希望したが、政府はこれを
頗る困難とし、8月5日に家禄賞典禄を廃止、公債證書を公布、書入・質入及び売買約定などを禁止した。
木戸は政府の疎漏極まる措置に憤慨し、深く士族の将来を憂え、その哀情を井上の許へ送った。
そして家禄支消によって、各地で士族の反乱が起き、最後は西南戦争によって反乱は幕を閉じることになる。
明治10年3月下旬井上は木戸の最後の書翰を受け取る
その内容は政府に対する不平不満の極に達するものであった
3月28日附けの返信を帰朝する原六郎、兼松一等書記生に託す
この手紙は惜しくも木戸の臨終には間に合わない
4月23日西南戦争勃発により心労が重なった木戸は重体に陥る
5月26日木戸孝允薨去
10月4日井上は祖国の危急に接し、3年間の滞在を諦め帰朝希望の意思を伊藤宛に開陳
明治11年1月4日ロンドンを出発、ベルリン・ウィーンを周遊して欧州大陸を視察
2月8日三条・岩倉大臣連署の書簡を井上へ送る、
9日付けをもって帰朝の命令が発せられる
井上は桂太郎とベルリンで合流
オーストリー、フランスを歴遊してロンドンに帰り、桂はまたベルリンに帰った
2月9日ロンドンに戻り、伊藤の返事を待つ
5月中旬旅装を整え、決別の宴などを催す
5月14日大久保が凶刃に倒れる、自由民権論が民心を発揚
黒田・伊藤はかさねて井上に帰朝をロンドンの客舎に飛電
6月2日桂にも帰朝を促す書を送り、ロンドンを出発
7月14日井上、欧州より横浜到着、同夜上京
7月17日政府に帰朝の届出を出す
宮中では、井上の参議入りに反対する声もあり、
吉井友実、土方久本、佐々木高行、皇后宮大夫元田永孚等は
「井上の如き不人望家を採用することは憂ふべき事である。」と
一同協議の上、三条・岩倉大臣に意見を上申する
大隈参議は職を賭して井上の任用を奏請し、伊藤は両大臣を説得する、
黒田は個人的には井上を好まなかったが野に置く事は国家の不利と見た
井上入閣賛成派は大隈、伊藤、黒田だった
7月25日御内諭を三条太政大臣・岩倉右大臣に賜り閣員一同の意見として上奏
7月29日参議兼工部卿に任命、ただし天皇の勅許は得ず
第5節 工部卿時代の事蹟
~併しなほこの任期中にあって、或は鉱業の発達を図り、
或は兵庫製作所・長崎造船所・深川製作所・赤羽製作所等の
修築経営より各種製鉄業の改良に心を用ひたことは少なくない。
事に郵便・電信の如きは、十一年に入って一般の需用が大いに増加した。
即ち十一年度の超過収益が、電信料に於て一万五千余円、郵便税に於て
一万三千余円となった程で、社会の進展と公衆の需要状態が如実に表れてゐる。
この世運に応じて、電信線を増加延長し、郵便為替取扱所の増設を図り、
通信網の拡張によって公衆の便益を増徴したことが著しい。
併し此等の些々たる省務上の業績は、公の国策に快挙した偉大を語るには
多く損益する所がないから、ここにはその煩を避け、その一二に就いて少しく
公の活躍を述べるに止めて置かう。~
明治11年8月13日石川島造船所に於て汽船長安丸の盛大な船御式 曲水式 が行われた
この石川島造船所は幕末に水戸藩が初めて旭日丸を建造した所で、
明治にこれを政府の所管とし、造船局製造所とした
のちに築地兵器局に合併されて、同所に於ける造船業は跡を絶ったが、
9年平野富二が海軍省より石川島借用の許可を得て工場を新築、
独力経営していた、これが邦人の私立工場で洋式船舶を製造した嚆矢となる
こうした経緯から井上は造船業の視察と奨励を兼ねて式場に臨み、
芳川顕正・安川繁成の両大書記官を従えて石川島に到った
8月30日~11月9日は北陸東海御巡幸に供奉
11月19日中国地方の海底電線沈架検分および灯台巡視のため出張を仰せつかる
この海底線は、岡山県渋川村より愛媛県及生村に至る間と、
山口県下関前田より福岡県小倉雨ヶ窪に増架するもので、その実地検分の傍ら
瀬戸内海の灯台状況を視察するためのもの
11月23日明治丸に搭乗、横浜を出発、芳川電信局長がこれに随行した
11月25日大阪に到着、2,3日滞在したのち巡視
12月26日帰京、その途次で京都西本願寺で帰敬式を行い超然の法名を受ける
明治12年2月10日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を賜る
2月19日法制局長官兼任を仰せつかる
4月28日長崎の立神造船所落成のため検分出張を命じられる
同造船所は井上が長崎在任時代に経営していたもので、経営は不振だったが
長崎造船局長渡邊嵩蔵の建議を納れて、政府も立神郷に造船所建設を企画し、
今その落成をみたものである
4月29日井上卿は大書記官林董を随えて新潟丸に搭乗、横浜を出発
5月11日下関に到着、それより山口にいたって暫く滞在する
5月21日落成式に臨む、内海長崎県令・外国領事などの地方顧官貴紳が陪席する
5月26日木戸孝允の三周忌が京都西本願寺で行われることになったので、それに参会
6月8日帰京、以降は外国貴賓の来朝接遇に忙殺される
9月20日外務省に転じ、条約改正に傾注
※工部省の御造営
明治6年5月5日後宮で失火、皇城が灰燼に帰し明治天皇は赤坂離宮に遷幸し仮皇居とする
これが手狭で不自由であったが、勅令を下して皇居経営を急速にする事は止めた
明治7年12月ここに到って皇居再営を仰出、直ちに造営にあたるはずが、国情で進捗を見ず
明治9年5月ようやくその運びとなり、10年より五箇年を期して、皇居造営を工部省へ命じる
当時工部省は、諸官衙の建築修繕を掌っていたので、造営も工部省に於いて万端経営することになった
明治11年1月政府に減祖行われ経費節用のため建築を延期、一時中止の格好となる
明治12年御造営の議が廟堂において盛んに起こり、その測量製図に取りかかることとなった
工部省からは吉井工部少輔・平岡営繕局長を、宮内省からは土方宮内少輔・櫻井内匠課長を
出して旧本丸巡検、その結果皇城を造築するには適さないとわかり、議を改めて西丸跡を測量調査、
表謁見所・宮内省などを西丸跡に、常御殿を山里に、女官部屋を紅葉山にそれぞれ候補地と定め、
略図を製して計画を立て、これを上奏した
7月24日天皇には吹上御苑に行幸、御造営地を叡覧され、
井上工部卿は岩倉右大臣・山尾工部大輔等と参謁
9月苦慮の末、ほぼ計画が出来、これによって御造営の由を仰出
9月12日工部省へ協議の上費額支出の方法を取り調べて伺い出すべき旨を命じる
9月20日天皇再び吹上御苑に行幸、岩倉右大臣および諸参議とともに井上卿も参謁
西丸跡に表謁見所・宮内省を、山里に奥向御築造の議を内決する
これによって工部省に於ける造営の工事分担を定め、工事に着手する
明治15年5月御造営事務が宮内省に移管、副総裁を置く事となる
5月27日総裁に三条太政大臣、副総裁に榎本武揚を任命するが、これは井上馨卿の配慮である
明治21年10月10日真皇居がようやく落成する
明治22年1月9日に賢所の御遷座
1月11日御移徒ある
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中上川さんの伝記のなかに、電話機を初めて設置したラインが、まず内務省と警視庁、
宮内省と工部省とあって、前者は分かるけど、後者はなんで?って思ったんですが、
この頃、工部省の責任において新皇居を造営中だったからなんですね。すごく納得。
それなら、宮内省から工部省へ密な連絡がいくよねぇ。
それにしても、天皇陛下はえらい待たされたんだな。16年くらい赤坂離宮にいたんだ。
タモリさんがブラタモリで見学してた、あそこも離宮の一部でしたよね???
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