たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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先週、神奈川公文書館へ行った際、立ち寄った資料室で見かけた本、
「ビールと日本人・明治・大正・昭和ビール普及史」(麒麟麦酒株式会社発行/昭和58年)が
面白かったのと、そこでわかったことでの情報の訂正をばこの機会に。
前に記事でちょっとでてきた、売店で売られていた「洋酒や果物」の洋酒の中の、
ビールは当時代表格であったということです。
明治5年のころ、新橋や横浜周辺でビールをつくっていたのはウィリアム・コープランドの
「スプリング・バレー・ブルワリー」だけであり、ここではイギリス人の好むエールも作られたため、
鉄道に係わったイギリス人技師たちにも売店での需要があったのではないかとしていますが、
そういう記録は残ってないそうです。
ただし明治8年新橋駅のすぐ近くにあった金沢三右衛門の店に、樽ビールや壜ビールを送ったという
コープランドの発送の手紙が麒麟麦酒所蔵資料に残っているので横浜から新橋へ運ばれていた事は
確かなよう。
この金沢ビール店の創業は明治8年10月で、
「アレキサンドル・バロン・ボン・シーボルト氏及び舎弟ヘンリー・ボン・シーボルト氏の
薦めにより新橋畔に売店を設けた」と三右衛門さんの日記に残っていて、
開店当初は横浜の山手六十八番にあったババリア・ブルワリーでドイツ人のウィーガントが
醸造していたビールを販売していたものの、明治9年6月以降はコープランドとウィーガントが
共同経営で始めた山手百二十三番(天沼)のスプリング・バレー・ブルワリーの
ババリアン・ビールを売り、これを「横浜ビール」と広告していたそうです。
金沢店では横浜ビールとして売られましたが、地元横浜では百二十三番の地名にちなんで
「天沼ビヤザケ」と呼ばれていたみたい。
金沢家はもともと江戸城や大名出入りの菓子商だったのが、幕府外国方をつとめるようになり、
幕府から諸外国へ品物を送る際の調達係として莫大な利益を収め、
横浜での見聞も早くからひろめていたそうです。(森村さんと似た経歴だな・・・)
最初の店舗は新橋南金六町四番地、明治10年には十三番地に煉瓦造りの新築へ移転したものの、
どちらも新橋駅とは目と鼻の先で、横浜からの往復に便利だったということです。
電報で、ブルワリーへ注文すると、その日の内に汽車で運ばれてくるという手はずで、
築地の外国人居留地に近い事もあり、外国人への葡萄酒、ビールの売り込みにも有利だったよう。
鉄道の開通はビールの普及に役立っており、新潟では上野ー直江津を走る官線の信越線が開通し、
北越鉄道もできてくると、かつては街道や海路を通って運ばれ、廻船問屋や薬屋の専売品のように
なっていたビールが、東京からの利用客の急増で繁盛した料理店からの注文で
地元の酒屋でも扱われるようになったとしています。
そして肝心なのがここから。
明治22年、停車場の待合室に広告を掲出する許可が出て、
キリンビールがさっそく上野と新橋にポスターを貼りました。
「キリンビール」という商品が登場するのが明治21年ですから時宜に適していたのでしょうが、
これは場所が悪くてあまり目立たなかったので、翌23年には原画に110ドルを投じて大型の
豪華ポスターをつくらせ、額縁に入れて新橋駅の待合室の壁面に飾ります。
ポスターは大型が15枚、小型の物は数は分からないものの、かなりの枚数を全国の主要駅に
貼り出したそう。
そして、明治32年秋、新橋と横浜両停車場に食堂が設けられ、ここでキリンの生ビールの販売が開始されます。
駅に食堂をつくって、ビールを売る事を強く主張したのが、なんとあのトーマス・ブレーク・グラバー氏。
彼はスプリング・バレー・ブルワリーの跡地にできたジャパン・ブルワリー・カンパニーの重役となっていて、ジャパン・ブルワリーがこのキリンビールを売り出していました。
その食堂が出来た前後に、新橋・横浜の駅舎の脇に大々的なキリンビールの電飾看板が登場し、
看板のまわりを囲んで豆電球が明滅、それによって看板の文字が浮かび上がったり消えたりして、
ネオン看板のはしりとなります。
えーと、つまり、明治の新橋停車場や横浜停車場の昔の写真でよく見かけるキリンビールの大看板は、
少なくとも明治32年以降のものだということ。
新橋駅の渡り廊下と、キリンの看板が同時に映っている写真が残ってますので、
台風で明治11年に一度吹き飛ばされたはずの渡り廊下が30年代の写真にあるという事は、
「二度と架けられる事はなかった」というのは誤情報ですね。
そもそも「キリンビール」という商品の発売が明治21年以降ですから。以下参考写真
(http://showcase.meijitaisho.net/entry/shinbashi_station_02.php 明治大正プロジェクト所蔵)
(http://photozou.jp/photo/show/150060/25895610 写真共有サイト フォト蔵)
そういえば、ウィキにあったのですが、このキリンビールの工場は山手から生麦に移転したそうですね。
しばらくして京急の方でキリンビール前駅を開業し、東急に合併されたとき引き継がれたんだとか。
戦時中で贅沢品であるビールの文字が消え、キリン駅になりそのうち営業も休止され戦後廃止に。
今でもキリンビール工場の最寄り駅は生麦駅ですが、ビールに生麦とは・・・(笑)
地名で移転先にシンパシーを感じた訳じゃないですよね?まさか。
(生麦の地名自体は古くからあるものですが、由来はいくつか説があるみたいです。)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%A7%85 キリン駅)
(http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=144 はまれぽ.com「生麦の由来って?」)
もうひとつ、面白いエピソードとして、山陽鉄道が明治32年に食堂車をはしらせ、
おくれて官線の東海道線でも明治34年に食堂車を連結し、
1等、2等の乗客にフルコースの洋食を出すようになるんですが、
明治35年、東海道線に乗車した外国人が、食堂車でキリンビールを注文したところ、
ヱビスビールしかないと断られたと、キリンビールに苦情が来たそうで、
調べたら東海道線の食堂車への納入を落札した精養軒が、ヱビスビール派だったんだそう。
駅で、さんざんキリンビールを広告して客をその気にさせておきながら、
食堂車ではキリンをださない、という東海道さんのドSぶり・・・(笑)
これもうツンデレじゃないよね。デレてないもんね。
======================================
ー蛇足ー
山陽鉄道の食堂車に納入していたのは神戸の自由亭、のちのみかどホテル。
明治34年に自由亭からみかどホテルに改名し、明治36年には山陽鉄道の直営となる。
国有化後は、新橋ー神戸間、新橋ー下関間、大阪ー下関間の急行列車の営業を請け負う。
精養軒は明治5年に東京市京橋区に開設した西洋料理店で、上野公園のと2店舗あった。
明治34年12月15日に官設新橋ー神戸間急行列車に初めて食堂車が連結され、その営業を任される。
その後も官設鉄道の食堂車の多くを担当する。
明治39年4月16日、新橋ー神戸間の夜行三等急行が新設され、はじめて和食の食堂車が連結される。
そこの担当は東松軒で、駅構内ですでに駅弁の販売を行っていた業者だった。
その後、東海道・山陽線の和食堂車の一部も担当。
日本鉄道が食堂車を開始したのは明治36年8月21日、上野ー青森間本線経由急行で、
車体が16mしかなく、食堂の定員は5人、食堂車の前後に1等と2等の寝台車がついた。
定員わずか5名でありながら、その営業は外部の仙台ホテルに請け負わせる。
これは上流階級・高級官僚の利用に限定されたレイアウトのようで、
日本鉄道は半官半民、会社の体質が保守的・官僚的のため一般へのサービスが悪かったという。
(以上は「特殊仕様車両「食堂車」」三宅俊彦著/講談社/2012より)
「ビールと日本人・明治・大正・昭和ビール普及史」(麒麟麦酒株式会社発行/昭和58年)が
面白かったのと、そこでわかったことでの情報の訂正をばこの機会に。
前に記事でちょっとでてきた、売店で売られていた「洋酒や果物」の洋酒の中の、
ビールは当時代表格であったということです。
明治5年のころ、新橋や横浜周辺でビールをつくっていたのはウィリアム・コープランドの
「スプリング・バレー・ブルワリー」だけであり、ここではイギリス人の好むエールも作られたため、
鉄道に係わったイギリス人技師たちにも売店での需要があったのではないかとしていますが、
そういう記録は残ってないそうです。
ただし明治8年新橋駅のすぐ近くにあった金沢三右衛門の店に、樽ビールや壜ビールを送ったという
コープランドの発送の手紙が麒麟麦酒所蔵資料に残っているので横浜から新橋へ運ばれていた事は
確かなよう。
この金沢ビール店の創業は明治8年10月で、
「アレキサンドル・バロン・ボン・シーボルト氏及び舎弟ヘンリー・ボン・シーボルト氏の
薦めにより新橋畔に売店を設けた」と三右衛門さんの日記に残っていて、
開店当初は横浜の山手六十八番にあったババリア・ブルワリーでドイツ人のウィーガントが
醸造していたビールを販売していたものの、明治9年6月以降はコープランドとウィーガントが
共同経営で始めた山手百二十三番(天沼)のスプリング・バレー・ブルワリーの
ババリアン・ビールを売り、これを「横浜ビール」と広告していたそうです。
金沢店では横浜ビールとして売られましたが、地元横浜では百二十三番の地名にちなんで
「天沼ビヤザケ」と呼ばれていたみたい。
金沢家はもともと江戸城や大名出入りの菓子商だったのが、幕府外国方をつとめるようになり、
幕府から諸外国へ品物を送る際の調達係として莫大な利益を収め、
横浜での見聞も早くからひろめていたそうです。(森村さんと似た経歴だな・・・)
最初の店舗は新橋南金六町四番地、明治10年には十三番地に煉瓦造りの新築へ移転したものの、
どちらも新橋駅とは目と鼻の先で、横浜からの往復に便利だったということです。
電報で、ブルワリーへ注文すると、その日の内に汽車で運ばれてくるという手はずで、
築地の外国人居留地に近い事もあり、外国人への葡萄酒、ビールの売り込みにも有利だったよう。
鉄道の開通はビールの普及に役立っており、新潟では上野ー直江津を走る官線の信越線が開通し、
北越鉄道もできてくると、かつては街道や海路を通って運ばれ、廻船問屋や薬屋の専売品のように
なっていたビールが、東京からの利用客の急増で繁盛した料理店からの注文で
地元の酒屋でも扱われるようになったとしています。
そして肝心なのがここから。
明治22年、停車場の待合室に広告を掲出する許可が出て、
キリンビールがさっそく上野と新橋にポスターを貼りました。
「キリンビール」という商品が登場するのが明治21年ですから時宜に適していたのでしょうが、
これは場所が悪くてあまり目立たなかったので、翌23年には原画に110ドルを投じて大型の
豪華ポスターをつくらせ、額縁に入れて新橋駅の待合室の壁面に飾ります。
ポスターは大型が15枚、小型の物は数は分からないものの、かなりの枚数を全国の主要駅に
貼り出したそう。
そして、明治32年秋、新橋と横浜両停車場に食堂が設けられ、ここでキリンの生ビールの販売が開始されます。
駅に食堂をつくって、ビールを売る事を強く主張したのが、なんとあのトーマス・ブレーク・グラバー氏。
彼はスプリング・バレー・ブルワリーの跡地にできたジャパン・ブルワリー・カンパニーの重役となっていて、ジャパン・ブルワリーがこのキリンビールを売り出していました。
その食堂が出来た前後に、新橋・横浜の駅舎の脇に大々的なキリンビールの電飾看板が登場し、
看板のまわりを囲んで豆電球が明滅、それによって看板の文字が浮かび上がったり消えたりして、
ネオン看板のはしりとなります。
えーと、つまり、明治の新橋停車場や横浜停車場の昔の写真でよく見かけるキリンビールの大看板は、
少なくとも明治32年以降のものだということ。
新橋駅の渡り廊下と、キリンの看板が同時に映っている写真が残ってますので、
台風で明治11年に一度吹き飛ばされたはずの渡り廊下が30年代の写真にあるという事は、
「二度と架けられる事はなかった」というのは誤情報ですね。
そもそも「キリンビール」という商品の発売が明治21年以降ですから。以下参考写真
(http://showcase.meijitaisho.net/entry/shinbashi_station_02.php 明治大正プロジェクト所蔵)
(http://photozou.jp/photo/show/150060/25895610 写真共有サイト フォト蔵)
そういえば、ウィキにあったのですが、このキリンビールの工場は山手から生麦に移転したそうですね。
しばらくして京急の方でキリンビール前駅を開業し、東急に合併されたとき引き継がれたんだとか。
戦時中で贅沢品であるビールの文字が消え、キリン駅になりそのうち営業も休止され戦後廃止に。
今でもキリンビール工場の最寄り駅は生麦駅ですが、ビールに生麦とは・・・(笑)
地名で移転先にシンパシーを感じた訳じゃないですよね?まさか。
(生麦の地名自体は古くからあるものですが、由来はいくつか説があるみたいです。)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%A7%85 キリン駅)
(http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=144 はまれぽ.com「生麦の由来って?」)
もうひとつ、面白いエピソードとして、山陽鉄道が明治32年に食堂車をはしらせ、
おくれて官線の東海道線でも明治34年に食堂車を連結し、
1等、2等の乗客にフルコースの洋食を出すようになるんですが、
明治35年、東海道線に乗車した外国人が、食堂車でキリンビールを注文したところ、
ヱビスビールしかないと断られたと、キリンビールに苦情が来たそうで、
調べたら東海道線の食堂車への納入を落札した精養軒が、ヱビスビール派だったんだそう。
駅で、さんざんキリンビールを広告して客をその気にさせておきながら、
食堂車ではキリンをださない、という東海道さんのドSぶり・・・(笑)
これもうツンデレじゃないよね。デレてないもんね。
======================================
ー蛇足ー
山陽鉄道の食堂車に納入していたのは神戸の自由亭、のちのみかどホテル。
明治34年に自由亭からみかどホテルに改名し、明治36年には山陽鉄道の直営となる。
国有化後は、新橋ー神戸間、新橋ー下関間、大阪ー下関間の急行列車の営業を請け負う。
精養軒は明治5年に東京市京橋区に開設した西洋料理店で、上野公園のと2店舗あった。
明治34年12月15日に官設新橋ー神戸間急行列車に初めて食堂車が連結され、その営業を任される。
その後も官設鉄道の食堂車の多くを担当する。
明治39年4月16日、新橋ー神戸間の夜行三等急行が新設され、はじめて和食の食堂車が連結される。
そこの担当は東松軒で、駅構内ですでに駅弁の販売を行っていた業者だった。
その後、東海道・山陽線の和食堂車の一部も担当。
日本鉄道が食堂車を開始したのは明治36年8月21日、上野ー青森間本線経由急行で、
車体が16mしかなく、食堂の定員は5人、食堂車の前後に1等と2等の寝台車がついた。
定員わずか5名でありながら、その営業は外部の仙台ホテルに請け負わせる。
これは上流階級・高級官僚の利用に限定されたレイアウトのようで、
日本鉄道は半官半民、会社の体質が保守的・官僚的のため一般へのサービスが悪かったという。
(以上は「特殊仕様車両「食堂車」」三宅俊彦著/講談社/2012より)
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