たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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ちょうど、千川上水や品川がでてきたので、
この間まで調べていた荒玉水道町村組合について、分かった事をメモっとこう。
結論からいうと荒玉水道町村組合は、その名の通り町村組合制の水道管理組織のようで。
基本的に東京市内の水道は市が監理しているけど、その恩恵を受けれない市外の郡部は
町村組合制や町営を採っており、ほかにも私営の水道があって、その数13。
町村組合制のものが、江戸川上水と荒玉水道の2つ。
町営のものが戸塚町、大久保町、井荻町、淀橋町、千駄ヶ谷町、代々幡町、渋谷町、目黒町の8つ。
私営のものが玉川水道、矢口水道、日本水道の3つ。
で、それらの内町村組合と町営のものは昭和7年10月に5郡部82町村が東京市に併合し
「大東京」になったことで、一緒に合併されたらしい。
のこった3私営水道もおいおい合併されていったもよう。
京王が昭和6年12月に日本電力に受電先を切り替えたあとも、荒玉水道町村組合への
供給分はかわらず東京電灯から受け続けたのは、のちのち市との併合で足かせにならないように、
足並みをそろえていたのかなぁ、というのはただの想像ですが。
供給された電気はポンプの動力にでもしてたのかな?
淀橋町、千駄ヶ谷町、戸塚町、大久保町は東京市と隣接し、水道は市からの給水。
まあ、淀橋浄水場も近いし、この辺りは震災以後、移転による人口増加が深刻だったようで、
実質的な市域の拡張という面があったんでしょう。
一方、井荻町と代々幡町は地下水が水源で、これは台地の樹木に恵まれ水質が良好だった事と、
昭和の初めではまだそれ程、人口過密でなく先の地域よりは水量に余裕があったからのよう。
そして、荒玉水道は、玉川と荒川から取水することを目的にしての命名で、
起点の砧浄水場と、野方・大谷口の2つの給水所を擁し、
豊多摩郡の中野町、落合町、野方町、和田堀町、杉並町、
北豊島郡の板橋町、巣鴨町、王子町、滝之川町、高田町、西巣鴨町、長崎町、岩淵町
に給水、東京市の北から西にかけての外縁的な地域が対象。
もともとこれらの地域には、不動尊が祀られた場所には良質の掘り井戸があり、
千川上水、石神井川、谷田川などの水源も豊富で
大正の頃まではそれほど水に不自由していなかったのが、
やはり震災の影響で人口が増加し、地下水ではまかない切れなくなって、
民間による水道事業を計画するも失敗するし、町村間で組合を作って公営でいこう、と
したのが始まりだという。
大正13年4月豊多摩郡・北豊島郡の関係町村水道敷設準備調査会が設立。
大正14年1月荒玉水道町村組合が設置。
大正15年3月工事の認可を得る。
同年12月5日水源地の砧村にて起工式。
昭和3年10月に給水開始。
ただし、取水する浄水場は砧だけで、荒川からの取水は結局おこなわなかったそう。
それより南の地域は国内最大の私営水道会社、玉川水道会社のテリトリーで、
水源は多摩川、調布取入口より取水し、玉川・調布の2浄水場を擁す。給水地域は、
荏原郡の品川町、大森町、羽田町、大井町、大崎町、入新井町、蒲田町、六郷町、
東調布町、池上町、馬込町、荏原町、碑衾町、玉川町の14町村。
(なんか、東急にテリトリーかぶってるなぁ・・・)
京浜地帯は塩害がひどく、低湿地のため水質は不良、なので天水か余所から水を買う買水でしのいでいた、水に恵まれない地域だったそうで、明治の頃から早くも水道敷設が叫ばれていました。
明治44年3月の水道条例改正で私設水道が認められるようになり、
入新井、大森、羽田、蒲田などの有力者が集まって社団法人荏原水道組合を立ち上げ。
しかし資金難などで、せっかく進めていた工事も頓挫、しかし住民の要望やまず、
大正5年頃、有志によって組合の事業が引き継がれ、株式会社として
大正7年2月に資本金30万円の玉川水道が創立。
同年9月組合から譲受した設備に修繕を加えて、
11月に入新井、大森の町に給水を開始。以後、増資を重ねて給水区域をひろげていく。
民間経営で計画倒れて組合制にした荒玉とは逆なのが、また面白い例ですね。
ついでに千川水道。千川上水は1786年に上水利用を廃止、以後灌漑用に具されていたのを
明治13年に岩崎弥太郎ほかが水道会社を立ち上げてこれを再興。
明治14年に完成した、かなり初期の水道会社で三菱系。
(以上は「江戸東京水をもとめて四〇〇年」と「東京都水道史」などより)
水道会社ではないけど、昨日いった品川歴史館に
品川用水についての解説シートがあり、頂いていてきました。
これにもやっぱり、品川区域は水に恵まれず・・・とあり、
1667年に長年嘆願を続けてきた灌漑用水の許可が下り、
武蔵野市(境浄水場?)あたりの玉川上水から分水され仙川村まで来ていたのを受けて開鑿。
「品川用水の工事は千川上水の分水を受けて取水」というのは「仙川用水」の勘違いかなぁ・・・(笑)
地図だと、こちらがわかりやすい。
http://tokyoriver.exblog.jp/tags/%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%A8%E6%B0%B4/
品川用水:東京の水
まあ、千川上水も境のちかい場所から分水してるので兄弟みたいな感じですが。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/rekishitenbyo/senkawa/gaisetsu.html
練馬区
前述「地図で読む昭和の日本」の地図には、品川用水のそばに三井邸があって、
これが今の戸越公園。
ここには今でも池があるけど、品川用水を引いていたのかは分からないなぁ。
+ + + + + + + + + + + +
幕末にはすでに玉川上水を水源とする木樋の水道設備にはがたが来ていたものの、
維新の混乱でその管理も組織体制も壊れ、水道を管理する明治新政府内での所管も転々としたため、なかなか改善できなかったよう。閥族は所詮、よそ者ですしね。
それで限界に来ていた木管にかわる鉄管にとりかえる計画がずっとたてたれていたものの、
予算の都合でなかなか実現せず、しまいには鉄管納入に関連した疑獄事件までおきて、この関係で雨宮さんなんかは投獄され、豆相人車鉄道の開通を獄中で報告されたという。
利光さんの親分の星亨の派閥の市会議員も鉛管納入、量水機納入なんかの関係で
賄賂を受けたという疑獄で拘引され、利光さん自身も塵芥処理業者指定の不正関与疑惑で拘引された事があるという。
これらは明治30年前後(29年と33年)の出来事だけど、
東京市はずーっとこのインフラ整備で頭を悩ませていたんですね。
東京市水道改良事務所が創設されたのが明治24年。
用地買収が難航し、買収が完了しない内に明治26年12月淀橋浄水場の工事に着手。
明治32年10月1日東京市役所が開設し、水道改良事務所は水道部と改名。
12月からは通水を開始、17日に淀橋浄水場で落成式を盛大に行う。
この淀橋浄水場の完成によって、東京市民は近代改良水道の恩恵を受けられるようになりました。
淀橋浄水場の存在意義って、想像以上だ。すごい。
浄水場が完成して明治44年には水道設備も完成した市域に対して、このころ
「泥を飲む郡部」と題された記事がでるくらい、市域外の水道設置はおくれ、
せっかく郊外に移転してきた市民も、郡部の水の悪さに辟易してまた市内にもどってしまうという現象もあったそう。
考えてみれば、水回りのインフラは、交通の便以上に深刻だよなぁ。
それが、震災による郊外移転の増加で、抜き差しならぬ状況になり、
最初の町村組合や町営による水道経営が昭和の初めに始まるのですね。
そして、昭和7年にそれらがほぼ、統合されて大東京になる、と。
なにげに、合併ブームだったのかもしれない。みっちゃんぷろじぇくともその年だし。
昭和7年ていう年は、いろいろ激変の時機でもあったんだなぁ。
この間まで調べていた荒玉水道町村組合について、分かった事をメモっとこう。
結論からいうと荒玉水道町村組合は、その名の通り町村組合制の水道管理組織のようで。
基本的に東京市内の水道は市が監理しているけど、その恩恵を受けれない市外の郡部は
町村組合制や町営を採っており、ほかにも私営の水道があって、その数13。
町村組合制のものが、江戸川上水と荒玉水道の2つ。
町営のものが戸塚町、大久保町、井荻町、淀橋町、千駄ヶ谷町、代々幡町、渋谷町、目黒町の8つ。
私営のものが玉川水道、矢口水道、日本水道の3つ。
で、それらの内町村組合と町営のものは昭和7年10月に5郡部82町村が東京市に併合し
「大東京」になったことで、一緒に合併されたらしい。
のこった3私営水道もおいおい合併されていったもよう。
京王が昭和6年12月に日本電力に受電先を切り替えたあとも、荒玉水道町村組合への
供給分はかわらず東京電灯から受け続けたのは、のちのち市との併合で足かせにならないように、
足並みをそろえていたのかなぁ、というのはただの想像ですが。
供給された電気はポンプの動力にでもしてたのかな?
淀橋町、千駄ヶ谷町、戸塚町、大久保町は東京市と隣接し、水道は市からの給水。
まあ、淀橋浄水場も近いし、この辺りは震災以後、移転による人口増加が深刻だったようで、
実質的な市域の拡張という面があったんでしょう。
一方、井荻町と代々幡町は地下水が水源で、これは台地の樹木に恵まれ水質が良好だった事と、
昭和の初めではまだそれ程、人口過密でなく先の地域よりは水量に余裕があったからのよう。
そして、荒玉水道は、玉川と荒川から取水することを目的にしての命名で、
起点の砧浄水場と、野方・大谷口の2つの給水所を擁し、
豊多摩郡の中野町、落合町、野方町、和田堀町、杉並町、
北豊島郡の板橋町、巣鴨町、王子町、滝之川町、高田町、西巣鴨町、長崎町、岩淵町
に給水、東京市の北から西にかけての外縁的な地域が対象。
もともとこれらの地域には、不動尊が祀られた場所には良質の掘り井戸があり、
千川上水、石神井川、谷田川などの水源も豊富で
大正の頃まではそれほど水に不自由していなかったのが、
やはり震災の影響で人口が増加し、地下水ではまかない切れなくなって、
民間による水道事業を計画するも失敗するし、町村間で組合を作って公営でいこう、と
したのが始まりだという。
大正13年4月豊多摩郡・北豊島郡の関係町村水道敷設準備調査会が設立。
大正14年1月荒玉水道町村組合が設置。
大正15年3月工事の認可を得る。
同年12月5日水源地の砧村にて起工式。
昭和3年10月に給水開始。
ただし、取水する浄水場は砧だけで、荒川からの取水は結局おこなわなかったそう。
それより南の地域は国内最大の私営水道会社、玉川水道会社のテリトリーで、
水源は多摩川、調布取入口より取水し、玉川・調布の2浄水場を擁す。給水地域は、
荏原郡の品川町、大森町、羽田町、大井町、大崎町、入新井町、蒲田町、六郷町、
東調布町、池上町、馬込町、荏原町、碑衾町、玉川町の14町村。
(なんか、東急にテリトリーかぶってるなぁ・・・)
京浜地帯は塩害がひどく、低湿地のため水質は不良、なので天水か余所から水を買う買水でしのいでいた、水に恵まれない地域だったそうで、明治の頃から早くも水道敷設が叫ばれていました。
明治44年3月の水道条例改正で私設水道が認められるようになり、
入新井、大森、羽田、蒲田などの有力者が集まって社団法人荏原水道組合を立ち上げ。
しかし資金難などで、せっかく進めていた工事も頓挫、しかし住民の要望やまず、
大正5年頃、有志によって組合の事業が引き継がれ、株式会社として
大正7年2月に資本金30万円の玉川水道が創立。
同年9月組合から譲受した設備に修繕を加えて、
11月に入新井、大森の町に給水を開始。以後、増資を重ねて給水区域をひろげていく。
民間経営で計画倒れて組合制にした荒玉とは逆なのが、また面白い例ですね。
ついでに千川水道。千川上水は1786年に上水利用を廃止、以後灌漑用に具されていたのを
明治13年に岩崎弥太郎ほかが水道会社を立ち上げてこれを再興。
明治14年に完成した、かなり初期の水道会社で三菱系。
(以上は「江戸東京水をもとめて四〇〇年」と「東京都水道史」などより)
水道会社ではないけど、昨日いった品川歴史館に
品川用水についての解説シートがあり、頂いていてきました。
これにもやっぱり、品川区域は水に恵まれず・・・とあり、
1667年に長年嘆願を続けてきた灌漑用水の許可が下り、
武蔵野市(境浄水場?)あたりの玉川上水から分水され仙川村まで来ていたのを受けて開鑿。
「品川用水の工事は千川上水の分水を受けて取水」というのは「仙川用水」の勘違いかなぁ・・・(笑)
地図だと、こちらがわかりやすい。
http://tokyoriver.exblog.jp/tags/%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%A8%E6%B0%B4/
品川用水:東京の水
まあ、千川上水も境のちかい場所から分水してるので兄弟みたいな感じですが。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/rekishitenbyo/senkawa/gaisetsu.html
練馬区
前述「地図で読む昭和の日本」の地図には、品川用水のそばに三井邸があって、
これが今の戸越公園。
ここには今でも池があるけど、品川用水を引いていたのかは分からないなぁ。
+ + + + + + + + + + + +
幕末にはすでに玉川上水を水源とする木樋の水道設備にはがたが来ていたものの、
維新の混乱でその管理も組織体制も壊れ、水道を管理する明治新政府内での所管も転々としたため、なかなか改善できなかったよう。閥族は所詮、よそ者ですしね。
それで限界に来ていた木管にかわる鉄管にとりかえる計画がずっとたてたれていたものの、
予算の都合でなかなか実現せず、しまいには鉄管納入に関連した疑獄事件までおきて、この関係で雨宮さんなんかは投獄され、豆相人車鉄道の開通を獄中で報告されたという。
利光さんの親分の星亨の派閥の市会議員も鉛管納入、量水機納入なんかの関係で
賄賂を受けたという疑獄で拘引され、利光さん自身も塵芥処理業者指定の不正関与疑惑で拘引された事があるという。
これらは明治30年前後(29年と33年)の出来事だけど、
東京市はずーっとこのインフラ整備で頭を悩ませていたんですね。
東京市水道改良事務所が創設されたのが明治24年。
用地買収が難航し、買収が完了しない内に明治26年12月淀橋浄水場の工事に着手。
明治32年10月1日東京市役所が開設し、水道改良事務所は水道部と改名。
12月からは通水を開始、17日に淀橋浄水場で落成式を盛大に行う。
この淀橋浄水場の完成によって、東京市民は近代改良水道の恩恵を受けられるようになりました。
淀橋浄水場の存在意義って、想像以上だ。すごい。
浄水場が完成して明治44年には水道設備も完成した市域に対して、このころ
「泥を飲む郡部」と題された記事がでるくらい、市域外の水道設置はおくれ、
せっかく郊外に移転してきた市民も、郡部の水の悪さに辟易してまた市内にもどってしまうという現象もあったそう。
考えてみれば、水回りのインフラは、交通の便以上に深刻だよなぁ。
それが、震災による郊外移転の増加で、抜き差しならぬ状況になり、
最初の町村組合や町営による水道経営が昭和の初めに始まるのですね。
そして、昭和7年にそれらがほぼ、統合されて大東京になる、と。
なにげに、合併ブームだったのかもしれない。みっちゃんぷろじぇくともその年だし。
昭和7年ていう年は、いろいろ激変の時機でもあったんだなぁ。
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