たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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わああーい! \(*^▽^*)/
金光さんの大正生命が、鈴木財閥破綻後「川崎財閥の傘下になってたんじゃないか?」との仮説をたててたんですが、このほど、それを立証する資料にいきあたりました。
わーーーいっ
======================================
「保険・銀行・信託早解り. 昭和9年版」大衆経済社 編/昭和9年
p266
大正生命 (東京市麹町区有楽町)
当社は大正二年四月の創立、資本金は五十万円、社長には当初柳原義光伯就任し、
専務に岡烈氏当ったが、後金光庸夫氏襲任し、鈴木系並に貿易業者を地盤として著しく好調を辿った。
然るに鈴木商店の没落からその関係を懸念され少なからぬ影響を蒙るに至り
一時川崎家の支配下に置かれてゐたが、昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ、
専ら内容刷新に努力し今日に至っている。
当社八年度の業績を見るに、新契約は一千百四十万二千円にして、失効解約は千八百三十六万円、
結局六百二十一万四千円の契約減少を見て年末現在契約は六千四十一万五千円となったのである。
契約成績は近頃大分見直して来たとは云へ、失効解約が新契約を超過する様では問題にならぬ。
失効解約の防止に先づ努力するが肝要である。継ぎに八年度の収入保険料は二百三十一万四千円、
事業費は百四万五千円で、収入保険料百円に対して四十九円四十六銭を費ってゐる。
如何に積極的な経営とは云へこの事業費は余りに高きに失する。
もっと募集の合理化を図り、経費の節約に努めねばならぬ。
八年度末の資産は千七百七十九万二千円、諸利息収入は九十八万四千円で、平均資産利廻として高利廻と云はなければならぬ。
低金利の折柄資産利廻が前年より向上した所を見ると資産内容は七万円で内二万五千円を契約者利益配当準備金に繰入れ、株主配当は二万五千円(年五分)
を行ったが、契約者勘定に属する諸準備金は千六百九十五万七千円を算した。
△創立、大正二年四月
△現重役、社長金光庸夫、取締役田村周蔵、磯田正朝、植村俊平、監査役鈴木岩治郎
△支社所在地、東京、大阪、名古屋、仙台、京城、京都、広島、福岡、札幌、台北
△保険種類、利益配当附普通終身、祝寿養老金附終身、確定配当金附養老、生存分配金附養老、
利益配当附普通養老
======================================
やっぱり、鈴木没落後、川崎のお世話になっていたのですね。
しかも柳原義光伯が辞任したあと、「昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ」だとう!?
ということは、昭和9年の時点で川崎と手を切っているのか!
ダンスホール事件が昭和8年の末で、金光氏社長就任の報は確か、昭和9年2月だったからな・・・。
大正生命保険会社が、川崎の支配下にあったのは昭和6~8年あたりということか。せまいがドンピシャだな!!
でも、これで長年の疑問もとけたきがする。
池上電鉄の重役も、目蒲陣営と交代する時、金光さんと後藤さんは進退を一緒にしてるんで「あれれ?」とは感じていたんですよ。
大正生命に関しては、かなり初期から京王の筆頭株主だったみたいだし、
言及されてないのが不思議なくらい。
川崎が、西武や玉川に影響を及ぼせたのも大正生命の株があったからだろうな~。
(借入金については、さすがに内部資料じゃないとわからないけど)
一応、「川崎・鴻池コンツェルン読本」(日本コンツェルン全書Ⅹ/勝田貞治著/春秋社/昭和13年)にも「(昭和)6年大正生命の経営に参与し」と、一行だけ書かれていたんですが、そこはそれだけで、川崎の影響力とか、関係の深さが不明で。
しかも、後藤さんも高梨博司さんも、川崎内の主要人物紹介から外されちゃってるんですよ!?
「川崎財閥からして、河合良成や、後藤國彦などの番頭格が出たのも、夫は、自分の名声を高めんがために、川崎財閥の意響(向?)を無視して活動し、それがために、失策を演じ、刑事事件まで、引き起こした結果ではないか。川崎財閥が何も好んで、有為の人材を追ひ出したのではない。追ひ出されたものに、その罪があるのである」
とまで、書かれて、ええ!?「追い出された」!?「刑事事件」!!?
それって、やっぱり帝人事件が、川崎内でもかなーり、立場を悪くする原因になったってことなんでしょうかね・・・。刑事事件でおもいつくのって、それしか・・・。
川崎財閥の研究本って、この昭和13年の本か、昭和5年の「日本財閥の解剖」くらいしかないんですよね。でも、ちょうど、この川崎(後藤)全盛の、昭和5年と、帝人事件後の手痛い一発喰らった後の、昭和13年という時期に、本がでてるってのは、実に・・・ラッキーというか。時勢をついてんなぁ、と。ありがたいことです。
そして、今は、利光さんと岡さんの交流関係がきになるところ。
いっても、大正生命の設立は大正2年4月で京王線の開業と同時なんですよ。
じゃあ、それ以前はどうだったのかと。
千代田瓦斯会社から探してみようと思ってるんですが、「東京ガス100年史」には、千代田ガスの経営陣にまでは言及がされてないんで、ちょっと肩すかしですね~。
そのかわり、京王プラザの冷暖房設備について、なんか書いてありました。
「ガス灯」が「電灯」と競合してて、なぜか東京電灯が、東京ガスと千代田ガスの合併について、とりもってて、電気とガスの相互関係もみていくと、色々おもしろそうです。
「千代田瓦斯払込終了」明治四十三年四月十一日(月曜日) 読売新聞
千代田瓦斯第一回払込は今十一日〆切当日なるが期日前既に払込を了せしもの多く最終日の払込は小数者に過ぎずして至極良好なれば近々創立総会を開き直に事業着手の筈なるが社長は安樂兼道氏 常務取締役は岡烈、磯部保次両氏に内定し居と云
おや?社長が利光さんじゃない。東京ガスの社史の方でも、この安樂さんになってましたが、合併時点(明治四十五年)では社長は利光さんのはず。
鈴木がどの時点から、千代田瓦斯にかかわってたのかな、とおもったら、この記事見てる限り、最初からっぽいですね。
もうちょっと、岡烈さん個人の経歴と交友関係が分かると、楽なんですがねぇ・・・。
京成の社史を読んだ時にも、初期の資金募集に参加してたらしいし。あなどれぬ。
金光さんの大正生命が、鈴木財閥破綻後「川崎財閥の傘下になってたんじゃないか?」との仮説をたててたんですが、このほど、それを立証する資料にいきあたりました。
わーーーいっ
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「保険・銀行・信託早解り. 昭和9年版」大衆経済社 編/昭和9年
p266
大正生命 (東京市麹町区有楽町)
当社は大正二年四月の創立、資本金は五十万円、社長には当初柳原義光伯就任し、
専務に岡烈氏当ったが、後金光庸夫氏襲任し、鈴木系並に貿易業者を地盤として著しく好調を辿った。
然るに鈴木商店の没落からその関係を懸念され少なからぬ影響を蒙るに至り
一時川崎家の支配下に置かれてゐたが、昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ、
専ら内容刷新に努力し今日に至っている。
当社八年度の業績を見るに、新契約は一千百四十万二千円にして、失効解約は千八百三十六万円、
結局六百二十一万四千円の契約減少を見て年末現在契約は六千四十一万五千円となったのである。
契約成績は近頃大分見直して来たとは云へ、失効解約が新契約を超過する様では問題にならぬ。
失効解約の防止に先づ努力するが肝要である。継ぎに八年度の収入保険料は二百三十一万四千円、
事業費は百四万五千円で、収入保険料百円に対して四十九円四十六銭を費ってゐる。
如何に積極的な経営とは云へこの事業費は余りに高きに失する。
もっと募集の合理化を図り、経費の節約に努めねばならぬ。
八年度末の資産は千七百七十九万二千円、諸利息収入は九十八万四千円で、平均資産利廻として高利廻と云はなければならぬ。
低金利の折柄資産利廻が前年より向上した所を見ると資産内容は七万円で内二万五千円を契約者利益配当準備金に繰入れ、株主配当は二万五千円(年五分)
を行ったが、契約者勘定に属する諸準備金は千六百九十五万七千円を算した。
△創立、大正二年四月
△現重役、社長金光庸夫、取締役田村周蔵、磯田正朝、植村俊平、監査役鈴木岩治郎
△支社所在地、東京、大阪、名古屋、仙台、京城、京都、広島、福岡、札幌、台北
△保険種類、利益配当附普通終身、祝寿養老金附終身、確定配当金附養老、生存分配金附養老、
利益配当附普通養老
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やっぱり、鈴木没落後、川崎のお世話になっていたのですね。
しかも柳原義光伯が辞任したあと、「昭和八年金光氏社長に就任して川崎の手を離れ」だとう!?
ということは、昭和9年の時点で川崎と手を切っているのか!
ダンスホール事件が昭和8年の末で、金光氏社長就任の報は確か、昭和9年2月だったからな・・・。
大正生命保険会社が、川崎の支配下にあったのは昭和6~8年あたりということか。せまいがドンピシャだな!!
でも、これで長年の疑問もとけたきがする。
池上電鉄の重役も、目蒲陣営と交代する時、金光さんと後藤さんは進退を一緒にしてるんで「あれれ?」とは感じていたんですよ。
大正生命に関しては、かなり初期から京王の筆頭株主だったみたいだし、
言及されてないのが不思議なくらい。
川崎が、西武や玉川に影響を及ぼせたのも大正生命の株があったからだろうな~。
(借入金については、さすがに内部資料じゃないとわからないけど)
一応、「川崎・鴻池コンツェルン読本」(日本コンツェルン全書Ⅹ/勝田貞治著/春秋社/昭和13年)にも「(昭和)6年大正生命の経営に参与し」と、一行だけ書かれていたんですが、そこはそれだけで、川崎の影響力とか、関係の深さが不明で。
しかも、後藤さんも高梨博司さんも、川崎内の主要人物紹介から外されちゃってるんですよ!?
「川崎財閥からして、河合良成や、後藤國彦などの番頭格が出たのも、夫は、自分の名声を高めんがために、川崎財閥の意響(向?)を無視して活動し、それがために、失策を演じ、刑事事件まで、引き起こした結果ではないか。川崎財閥が何も好んで、有為の人材を追ひ出したのではない。追ひ出されたものに、その罪があるのである」
とまで、書かれて、ええ!?「追い出された」!?「刑事事件」!!?
それって、やっぱり帝人事件が、川崎内でもかなーり、立場を悪くする原因になったってことなんでしょうかね・・・。刑事事件でおもいつくのって、それしか・・・。
川崎財閥の研究本って、この昭和13年の本か、昭和5年の「日本財閥の解剖」くらいしかないんですよね。でも、ちょうど、この川崎(後藤)全盛の、昭和5年と、帝人事件後の手痛い一発喰らった後の、昭和13年という時期に、本がでてるってのは、実に・・・ラッキーというか。時勢をついてんなぁ、と。ありがたいことです。
そして、今は、利光さんと岡さんの交流関係がきになるところ。
いっても、大正生命の設立は大正2年4月で京王線の開業と同時なんですよ。
じゃあ、それ以前はどうだったのかと。
千代田瓦斯会社から探してみようと思ってるんですが、「東京ガス100年史」には、千代田ガスの経営陣にまでは言及がされてないんで、ちょっと肩すかしですね~。
そのかわり、京王プラザの冷暖房設備について、なんか書いてありました。
「ガス灯」が「電灯」と競合してて、なぜか東京電灯が、東京ガスと千代田ガスの合併について、とりもってて、電気とガスの相互関係もみていくと、色々おもしろそうです。
「千代田瓦斯払込終了」明治四十三年四月十一日(月曜日) 読売新聞
千代田瓦斯第一回払込は今十一日〆切当日なるが期日前既に払込を了せしもの多く最終日の払込は小数者に過ぎずして至極良好なれば近々創立総会を開き直に事業着手の筈なるが社長は安樂兼道氏 常務取締役は岡烈、磯部保次両氏に内定し居と云
おや?社長が利光さんじゃない。東京ガスの社史の方でも、この安樂さんになってましたが、合併時点(明治四十五年)では社長は利光さんのはず。
鈴木がどの時点から、千代田瓦斯にかかわってたのかな、とおもったら、この記事見てる限り、最初からっぽいですね。
もうちょっと、岡烈さん個人の経歴と交友関係が分かると、楽なんですがねぇ・・・。
京成の社史を読んだ時にも、初期の資金募集に参加してたらしいし。あなどれぬ。
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