たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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「人物叢書 前島密」(山口 修著/吉川弘文館/平成2年)より、面白そうな所を年表に
・・・するのに、すごく時間かかったです。orz
なんか、ここ最近、家帰ると11時だったりとかするんで、朝やろう、と思って寝て、
気づけば出勤時間みたいな。川
全然集中してやってないんで、また挿入場所まちがえたりしてるかもですが、
こちらの本は個人的にほんとお役立ち情報まんさいでございました。
だがしかし、ここからどう組み立ててやろうか。
陸運元会社については、別な本から。えーと「江戸・東京の水辺の事典」です。
荒玉水道道路のこと載ってないかな、と思ったんですけど、そっちは無かったですね…。
しかし、おもわぬ拾いもの。
京王が、日電に乗り換えたあとも、荒玉水道町村組合かなんかへの供給はまだ東京電灯から受電してた、ていうことなんで、もしかして桜上水ら辺の分譲地のことかと思ったんですが、そっちはいまだもって、よくわかりません。(^ ^;
まあ、おいおいで・・・。
あ、ヒソヒソ★はこの所、職場の仲間内で呼ぶ某漫画の同名キャラクターのあだ名です。
なんか、おかげでそれがちらつく(笑)
====================================
慶応3(1867)年5月前島来輔、開成所の数学教授に任ぜられる
(開成所にくる前は寺子屋をしており、生徒に星亨がいたらしい)
8月前島来輔、兵庫奉行の手附役となり、神戸開港の事務に従事
慶応4(1868)年1月9日前島来輔、神戸を退去し江戸に帰る
2月前島来輔、勘定役格徒目付にとなり東征軍応接のため東海道に出張
3月前島来輔、大久保利通に「江戸遷都」を献言
7月前島来輔、駿河藩留守居役となり静岡に移る
8月前島来輔、駿河藩公用人になる
9月8日明治と改元
10月13日天皇が東京に着き、江戸城を皇居と定めて、東京城と改称する
12月8日東京城を出る
明治2(1869)年3月前島来輔、遠州中泉奉行となる、このころ密と改名
7月8日官制改革により民部・大蔵など六省を設置
8月11日民部・大蔵両省を併合、省の形は残したまま首脳部が兼任、
租税司など四司を民部省に移管、通商司は大蔵省に移管
民部大蔵卿は伊達宗城(むねなり)、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文、大丞は井上馨
租税正として旧幕臣・渋沢栄一がむかえられる、推薦したのは民部大蔵少丞の郷純造だった
11月渋沢栄一が民部省に出仕、省内に新しい局を設けることを提案
11月末渋沢の提案を大隈が容れて改正掛を設置
12月25日東京(築地)横浜間に電信を開通(神奈川県知事・寺島宗則の手による)
12月28日前島密は上京し民部省に出頭、民部省九等出仕を拝命して改正業務を命じられる
12月29日通商司は回漕会所飛脚船を引き継ぎ『東京大阪商船規則』『東京大阪郵便船規則』を制定
公私の旅客・貨物の回漕を命じ、翌年正月から業務開始
明治3(1870)年1月明治政府は外国から蒸気船を買い入れ、旧来の廻船問屋や運送問屋に命じて
回漕会社をつくれせ月3回の定期航路を開く(通商司の配下)
使用船舶は旧幕府の軍艦の陽春・長鯨を霊厳島に回漕し回漕会社に運用させる
この組織に属した者は回漕問屋三軒(銭屋卯兵衛・利倉屋金三郎・越後屋喜右衛門)
定飛脚問屋四軒(京屋弥兵衛・和泉屋甚兵衛・江戸屋二三郎・島屋左右衛門)
外四軒(木村万平・松坂屋弥兵衛・木屋小左衛門・井上重次郎)
1月5日前島は民部省に出頭、改正掛の上席をしめる(上席には租税正(奏任)渋沢掛長のみ)
1月29日改めて『郵便商船規則』制定
3月太政官の会議にて大隈と伊藤は東京ー横浜間の鉄道着工を提議、
前島密は草案を命じられ、『鉄道憶測』を提出
3月14日改正掛は建議を作り、大隈はそれによって朝議に臨み、京浜間の鉄道建設が決定される
3月17日鉄道の測量を伝令
3月25日鉄道建設に着工
4月12日前島密は改正掛所属のまま、租税権正に任ぜられ、官等7等となる
6月17日大蔵大丞上野景範は特命大使として英国派遣、前島はその差副となる
(ネルソン=レイの100万ポンド起債契約の破棄のため)
6月28日上野一行は横浜からサンフランシスコ行きの船で出帆
8月大阪神戸間にも電信開通
8月11日「横浜毎日新聞」が創刊
明治4(1871)年1月霊厳島の回漕会所は為替会社に移管され、回漕取扱所と改名
構成員は旧飛脚屋仲間の江戸屋・京屋・島屋・和泉甚など
3月10日駅逓権正の杉浦譲は駅逓正に昇任
3月14日郵便開業
5月8日政府は元飛脚問屋の業務を「陸運元会社」に継承させる
(この会社は飛脚屋の蒸気船運輸業務への転換となる)
7月14日廃藩置県が断行される
7月15日横浜に郵便役所が設けられ、東京ー横浜間の間に直通便が開かれる
同時に金子入書状の取扱も開始
7月29日太政官の規模が拡張、三院八省がおかれる
民部省は廃止となり、駅逓司は大蔵省に移管、駅逓正の三浦は民部省から大蔵省出仕に、
駅逓正にはかわって田中儀兵衛が任ぜられる
大蔵卿は大久保利通、大蔵大輔は井上馨である
7月通商司を廃止
8月郵便線路は大阪から下関、四国の高松をへて宇和島まで伸ばされるがこれは民間の請負による
政府は「郵便蒸気船会社」を設立、前出の回漕会所との関連は不明
8月10日駅逓司は三等寮に昇格し、浜口義兵衛が駅逓頭に任ぜられる
8月15日前島密ら帰京
8月17日前島密、駅逓頭に任じられる
8月23日前島密、度量衡改正掛の兼務を命じられる
10月当初、東海道の郵便を府県藩の官吏を出張させて駅から駅へ郵便脚夫が運んでいたものを
陸運会社に委託
(これより各地に陸運会社が設立され、郵便事業に反対する旧飛脚業者に転向を促す)
12月5日郵便は長崎に達し、神戸と長崎とに郵便役所が設けられ、『郵便規則』が公布
従来は書状のみの取扱だったのに加え、日誌(雑誌)と新聞紙の取扱も開始
明治5(1872)年1月高崎で以前から民間より馬車の出願があり、駅逓寮はこれに「郵便馬車」の名称を付し
東京ー高崎間を認可、馬車会社には資金を貸与し無償で郵便物を輸送・配達することを命じる
1月5日郵便で書籍類、および見本品も取扱開始
2月「東京日日新聞」発刊
3月大蔵省内の駅逓寮は東京郵便役所に移転
『改正増補郵便規則』(ひながなまじりの易しい文章)公布
東京市内では1日3回の配達が開始
6月日本橋左内町(現中央区日本橋一丁目)の和泉屋甚兵衛邸内に陸運元会社が設立される
各駅(幕府制定の五街道の宿駅)の陸運会社と連絡を取りながら、専ら貨物を取り扱う
6月2日前島密、大蔵省四等出仕、駅逓頭との兼務、このころ駅逓寮は二等寮となる
6月10日「郵便報知新聞」を創刊、発行者は郵便取扱人の太田金右衛門だが後ろで前島が指導する
7月1日北海道の北半を除いて郵便が国内一般に施行される
このときの郵便最高額は全国を通じて五銭という低額を実現
8月廃藩置県によって大蔵省に属していた各藩の汽船を回漕会社の所有船とあわせて
民間に払い下げ、回漕取扱所を改称、「帝国郵便蒸気船会社」を設立
補助金を与えて東京ー大阪、函館ー石巻間を運航させ郵便物を無料運送する
8月末 伝馬所、助郷の制度を廃止
9月12日鉄道開通式
(この鉄道開通後は過当競争を続けた東京ー横浜間の蒸気船による交通は大部分が廃止される)
10月政府は琉球国王を琉球藩主とし、華族に列す(日本国への正式な編入)
11月『国立銀行条例』が公布
(このころ前島密は為替の規則や施行案を草起し大蔵省に建議、
井上馨大輔は為替を取り扱う人員がいないと資金下付に難色を示している)
12月3日改暦、太陽暦となって明治6年1月1日とする
明治6(1873)年2月「ひらがなまいにちしんぶんし」を発刊
2月電信が福岡から佐賀をへて長崎まで達する
3月『改定郵便規則、郵便犯罪規則』が公布、4月1日から施行
5月1日信書の扱いは駅逓頭の特任となり、ここに郵便の政府独占が確定し、
飛脚業者の信書送達は全く禁止される
5月14日大蔵大輔の井上馨と三等出仕の渋沢栄一らが財政改革に異議を唱え下野、
大蔵首脳部が欠員となる(大蔵卿の大久保利通は4年10月から遺歐副使として外遊中、
5月末に帰朝するが征韓論議をさけて出仕しない)
6月陸運元会社、水上運輸業務を開始、利根川・荒川・鬼怒川で航路開設
6月11日三井組と小野組を中核にして「東京第一国立銀行」が設立
しかし国立銀行は紙幣を発行しても支店がないため為替はまだ取り扱わない
6月15日前島密は大蔵省三等出仕に昇進し、駅逓頭と兼任、
6月17日にはまた「大蔵輔心得」を以て事務取扱を命じられる
8月郵便取扱人という名称が郵便取扱役と改められる
8月6日日米郵便交換条約調印
9月陸運元会社、航路を下総の町の境町まで開く
9月15日新橋駅ー横浜駅間で鉄道による貨物輸送開始
10月西郷等征韓派の参議がいっせいに辞任
11月10日あとをうけて内務省が新設、大久保利通が事実上の宰相となる、駅逓寮は内務省に移る
明治7(1874)年1月郵便蒸気船会社に命じ、琉球との間に郵便船の往復を開始
1月8日駅逓寮は大蔵省から内務省に移管、前島密は大蔵省三等出仕を解かれて駅逓頭に専任
1月29日前島密、内務大丞に任ぜられ駅逓頭と兼任
2月佐賀の乱がおこり、佐賀県庁が襲われ電信線が切断されて福岡から先が不通となる
3月陸運元会社、水運課を新設
下野・阿久津河岸(栃木県氏家)と小網町(中央区日本橋)に回漕所を開く
3月20日前島密は首里や那覇などに郵便仮役所、その他の要地に郵便取扱所の開設を強行し、
琉球の日本国帰属論の布石とする
4月去る明治4年10月に琉球の島民が台湾の南端に流れ着いて原住民に殺害されたことをうけ、
台湾遠征を推進する大久保・大隈は、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮地事務都督とし、
陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行
遠征に際して郵便蒸気船会社は役に立たず、かわりに岩崎弥太郎の三菱商会に、
政府が購入していた十三隻の船の運用を依託
軍事輸送を申しつけられた三菱は、これによって莫大な利益を得る
9月『郵便為替規則』制定
10月『国内回漕規則』制定
明治8(1875)年1月1日日米郵便交換条約が実施
1月2日全国を通じ百十ヶ所の郵便局で郵便為替を取り扱うことが公布される
1月8日横浜郵便局の外国郵便開業式
2月政府所有の汽船を三菱に委託、横浜ー上海の航路を開かせる
この航路にはすでに太平洋郵便がおり、三菱は運賃の値下げで対抗したが、
1航海に2万円の損失を出す
3月(2月?)左内町(中央区日本橋一丁目)の陸運元会社は「内国通運会社」と改称して
各地の陸運会社を統合して陸運を統轄する
3月電信が熊本まで通じる
5月2日郵便局において貯金の取扱が東京および横浜において開始
(当時は銀行においてもまだ金銭を預かる事務は未開で貯金といえば、郵便貯金をさした)
6月帝国郵便蒸気船、解散
8月度量衡取締条例が制定
9月15日三菱商会に政府所有の全船舶を無償で交付
上海への定期航路を開設し、助成金として年額25万円を与えるという命令書を出す
郵便蒸気船会社が倒産したので、その所有船舶も政府が買収し、三菱へ下付する
「三菱汽船会社」は改称して「郵便汽船三菱会社」と改称
10月三菱と太平洋郵船の競争は、横浜ー上海の三等船客運賃がはじめ30円だったのが最後には
8円にまでひきさげられ、三菱は政府に補助を請願、
このころには太平洋郵船も競争の不利を覚っており、三菱は政府から八十一万円の
貸与を受けて太平洋汽船に属する四隻の船と陸上施設の一切を買収する事に成功
上海航路を独占する
(※この頃明治八年度~九年度の駅逓寮の収入は約60万~70万円であり、
助成金だけでも19万弱~25万円の支出であった)
11月『国内回漕規則』廃止、それに伴い霊厳島船改所を閉鎖
11月25日上海を視察していた前島密は長崎をへて大阪へ帰朝
この日駅逓寮は一等寮に昇格したという電報を受け取る
11月28日一等寮の長官は三等官の勅任であり、四等官である前島密はいったん
駅逓権正を兼任し、この日あらためて駅逓頭兼任と発令される
明治9(1876)年2月英国のPO汽船会社が横浜ー上海間に就航
三菱のあらたな競争相手となり、また値下げの犠牲をはらう
4月15日上海で日本郵便局が開業
5月川蒸気通運丸就航
8月PO汽船もあきらめ航路を撤退
9月ベルヌ条約の万国郵便連合加盟を申し入れる
9月26日前島密は内務少輔に任じられる、駅逓頭兼任
10月神風連の乱起こる
10月30日三菱会社に朝鮮国への郵便運送が命令される
11月釜山に日本郵便局を開設すると布告
12月大規模な農民一揆が起こる
12月27日前島密がつくった外計書を基礎に、大久保が地租減額案を太政官の廟議にかける
明治10(1877)年1月4日地租を地価百分の二分五厘に減ずとの詔書が発せられる
1月11日官制の改革あり、各省の寮が廃止されて局となる
内務省には駅逓局のほか警視・勧農・勧商・地理・土木・社寺・会計の計八局が設置
東京警視庁が廃止され内局の警視局になる
6月20日第28番目の加盟国として日本でもベルヌ条約を実施開始
8月11日前島密、内国勧業博覧会審査官長を拝命
明治11(1878)年1月23日前島密は地租改正局三等出仕の兼務を命じられる
2月16日前島密、勧農局長の兼務を命じられる
3月6日前島密、元老院議官の兼務を命じられる
5月14日大久保利通は登庁の途中、紀尾井坂で不平士族の一団に襲われ殺害される
内務卿の後任には伊藤博文工部卿が任命される
12月6日益田克徳(益田孝の弟)渋沢栄一の東京海上保険会社設立を認可(初の損害保険会社)
12月29日休みが取れた前島密は、かねてから駅逓局において海上保険を研究していた少書記官の
塚原周造とその属官たち、益田らの関係者をともない熱海へ避寒と称して三菱の汽船に同船
この期間に専門書の翻訳をして規則の草案をととのえる
明治12(1879)年3月12日前島密は勧農局長の兼任を解かれるが
官の内務少輔・駅逓局長と地租改正局三等出仕にはかわりなし
7月東京地方衛生会が発足し前島は初代会長に挙げられる
明治13(1880)年2月28日前島密、内務大輔に任じられる、駅逓局長の兼務は従来通り
3月25日あらたに駅逓官の職制が改められ、前島は駅逓総官に任じられる
8月日本海員掖済会が結成
(旧来の悪習を矯正し、海員の品位を高めその福祉と厚生をはかろうというもの)
明治14(1881)年4月7日農商務省が発足、農務・商務・工務の三局が設けられる
駅逓局は内務省から農商務省に移管
また同省内に農工商上等会議が付設
6月28日前島密は農工商上等会員を拝命
6月末地租改正事業完了にともない地租改正事務局は廃止となる
7月16日前島密、勲三等旭日中授章を賜る
10月1日前島密は関西地方の視察のため大阪へ出発、
24日(14?)岡山に達したところ、電報で帰京を命じられる
10月14日いわゆる「十四年の政変」おこる、大隈重信が免官
10月20日農商務卿の河野敏鎌も辞任する
10月21日大隈の後任には松方正義、河野敏鎌の後任には西郷従道が発令される
11月2日前島密、辞表提出
明治15(1882)年2月前島密、日本海員掖済会の委員となる
4月16日立憲改進党が結成、これに参画
10月東京専門学校が大隈の発意により開設(のちの早稲田大学)
明治16(1883)年9月工部省は電話交換の開設について太政官に建議
12月太政官は官営民営の二案の内、後者の方案を求めるが、工部省は調査の上官営を至当と
考え17年、18年と上申を重ねる
明治18(1885)年12月内閣制度発足にともない逓信省が創設、農商務省から駅逓と管船の二局を移管、
廃止された工部省から電信と灯台の二局を移管しこれらをあわせて管轄する体制が確立、
初代逓信大臣は榎本武揚が任命される
明治19(1885)年3月前島の後任だった駅逓総官の野村靖が農商務省から駅逓次官に転任
明治20(1887)年3月逓信省で機構の改正があり、駅逓・電信の二局を廃して、内信・外信・工務の三局を置く
電話は内信および工務の分掌とし、内信局長には林董(ただす)元駅逓局長、
工務局長には志田林三郎が就任
5月前島密、関西鉄道株式会社の社長に就任
8月前島密、東京専門学校の校長に正式に就任
明治21(1888)年3月関西鉄道の免許が認可、正式に設立
5月電気事業に関係ある人達で電気学会を結成、会長に榎本を、副会長に前島密を推す
秋、榎本逓信大臣は次官の野村と意見が対立して電話政策と駅逓の第三種・新聞紙雑誌の
取扱で行き詰まっており、前島密に書簡を送って次官就任の決意をうながす
11月20日前島密、逓信次官任命の辞令を受ける(そのため関西鉄道社長を退くことになる)
12月6日前島密、従三位となる
明治22(1889)年3月22日榎本武揚は文部大臣に移って逓信省を去り、後任に後藤象二郎が逓信大臣に就任
明治23(1890)年4月19日『電話交換規則』制定
7月前島密、東京専門学校の校長を辞任
7月逓信省の官制を改正、総務局を廃して郵務・電務などの五局を置く
12月16日電話交換が東京、横浜で開始
明治24(1891)年3月17日前島密、逓信次官を免官、日本海員掖済会の副会長となる
8月電気事業の監督も逓信省の所管に加えられる
(以下、前島密の経歴)
明治26(1893)年12月東京馬車鉄道会社の監査役に就任
明治27(1894)年北越鉄道株式会社の社長に就任
明治29(1896)年6月東洋汽船株式会社の監査役に就任
明治34(1901)年6月京釜鉄道株式会社の取締役に就任
明治36(1903)年10月28日京釜鉄道株式会社の理事を拝命
明治38(1905)年6月日本海員掖済会の理事長に
明治39(1906)年4月1日勲二等瑞宝章を賜る
4月28日日本海員掖済会から有功賞を贈られる
12月京釜鉄道会社解散、創業以来の功労を表彰される
明治40(1907)年関西鉄道、北越鉄道解散につき功労を表彰される
明治41(1908)年1月日清生命保険株式会社の社長に就任
明治43(1910)年5月日本海員掖済会理事長、ほかほとんどすべての役職から退く
明治45(1912)年2月日清生命保険の社長を辞任
大正8(1919)年4月27日芦名邸にて永眠
====================================
えーと、なんだろう。
とりあえず明治維新で、東京遷都を建議したのは密さんらしい。しかも署名が江戸寒士で。
前島さんは渋沢さんと同じ、旧幕臣だったんで意外でした。
しかも郷さんのおやじさんに推薦されて政府入りしている。
なんとなく、イメージ長州閥だったんだけどな(井上馨・渋沢栄一・益田孝のグループかと)
それでその書状が大阪遷都を考えていた大久保さんの目に止まり、感心されたとかで採用。
明治政府内でも、大久保さんの信任を得て、その下でめきめきと頭角を現すんだけど、
大久保さんの死後は閥族にうとまれて、大隈さんに接近して行く・・・。
大隈さんがよく三菱との癒着を指摘されてるけど、それって前島さんが三菱に手厚い保護を与えたことからの繋がりなのかな?
大隈さんの人物叢書では、あんま三菱からお金貰ってる雰囲気なかったけども・・・。
ちなみに、早稲田大学の前身の東京専門学校の経営苦心から、高利貸しで悪名高い平沼専蔵さんと懇意になったっぽい感じでした。がそれ以上の言及はとくになく。あっちの本は、本当、拾えるもの少なかったなー。
しかし、両者の関係は気になりますよねー。今は関係ないけですけど。
さて、次は中上川さんと山陽鉄道かな。まだ記事の打ち込みがオワラーヌ!
・・・するのに、すごく時間かかったです。orz
なんか、ここ最近、家帰ると11時だったりとかするんで、朝やろう、と思って寝て、
気づけば出勤時間みたいな。川
全然集中してやってないんで、また挿入場所まちがえたりしてるかもですが、
こちらの本は個人的にほんとお役立ち情報まんさいでございました。
だがしかし、ここからどう組み立ててやろうか。
陸運元会社については、別な本から。えーと「江戸・東京の水辺の事典」です。
荒玉水道道路のこと載ってないかな、と思ったんですけど、そっちは無かったですね…。
しかし、おもわぬ拾いもの。
京王が、日電に乗り換えたあとも、荒玉水道町村組合かなんかへの供給はまだ東京電灯から受電してた、ていうことなんで、もしかして桜上水ら辺の分譲地のことかと思ったんですが、そっちはいまだもって、よくわかりません。(^ ^;
まあ、おいおいで・・・。
あ、ヒソヒソ★はこの所、職場の仲間内で呼ぶ某漫画の同名キャラクターのあだ名です。
なんか、おかげでそれがちらつく(笑)
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慶応3(1867)年5月前島来輔、開成所の数学教授に任ぜられる
(開成所にくる前は寺子屋をしており、生徒に星亨がいたらしい)
8月前島来輔、兵庫奉行の手附役となり、神戸開港の事務に従事
慶応4(1868)年1月9日前島来輔、神戸を退去し江戸に帰る
2月前島来輔、勘定役格徒目付にとなり東征軍応接のため東海道に出張
3月前島来輔、大久保利通に「江戸遷都」を献言
7月前島来輔、駿河藩留守居役となり静岡に移る
8月前島来輔、駿河藩公用人になる
9月8日明治と改元
10月13日天皇が東京に着き、江戸城を皇居と定めて、東京城と改称する
12月8日東京城を出る
明治2(1869)年3月前島来輔、遠州中泉奉行となる、このころ密と改名
7月8日官制改革により民部・大蔵など六省を設置
8月11日民部・大蔵両省を併合、省の形は残したまま首脳部が兼任、
租税司など四司を民部省に移管、通商司は大蔵省に移管
民部大蔵卿は伊達宗城(むねなり)、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文、大丞は井上馨
租税正として旧幕臣・渋沢栄一がむかえられる、推薦したのは民部大蔵少丞の郷純造だった
11月渋沢栄一が民部省に出仕、省内に新しい局を設けることを提案
11月末渋沢の提案を大隈が容れて改正掛を設置
12月25日東京(築地)横浜間に電信を開通(神奈川県知事・寺島宗則の手による)
12月28日前島密は上京し民部省に出頭、民部省九等出仕を拝命して改正業務を命じられる
12月29日通商司は回漕会所飛脚船を引き継ぎ『東京大阪商船規則』『東京大阪郵便船規則』を制定
公私の旅客・貨物の回漕を命じ、翌年正月から業務開始
明治3(1870)年1月明治政府は外国から蒸気船を買い入れ、旧来の廻船問屋や運送問屋に命じて
回漕会社をつくれせ月3回の定期航路を開く(通商司の配下)
使用船舶は旧幕府の軍艦の陽春・長鯨を霊厳島に回漕し回漕会社に運用させる
この組織に属した者は回漕問屋三軒(銭屋卯兵衛・利倉屋金三郎・越後屋喜右衛門)
定飛脚問屋四軒(京屋弥兵衛・和泉屋甚兵衛・江戸屋二三郎・島屋左右衛門)
外四軒(木村万平・松坂屋弥兵衛・木屋小左衛門・井上重次郎)
1月5日前島は民部省に出頭、改正掛の上席をしめる(上席には租税正(奏任)渋沢掛長のみ)
1月29日改めて『郵便商船規則』制定
3月太政官の会議にて大隈と伊藤は東京ー横浜間の鉄道着工を提議、
前島密は草案を命じられ、『鉄道憶測』を提出
3月14日改正掛は建議を作り、大隈はそれによって朝議に臨み、京浜間の鉄道建設が決定される
3月17日鉄道の測量を伝令
3月25日鉄道建設に着工
4月12日前島密は改正掛所属のまま、租税権正に任ぜられ、官等7等となる
6月17日大蔵大丞上野景範は特命大使として英国派遣、前島はその差副となる
(ネルソン=レイの100万ポンド起債契約の破棄のため)
6月28日上野一行は横浜からサンフランシスコ行きの船で出帆
8月大阪神戸間にも電信開通
8月11日「横浜毎日新聞」が創刊
明治4(1871)年1月霊厳島の回漕会所は為替会社に移管され、回漕取扱所と改名
構成員は旧飛脚屋仲間の江戸屋・京屋・島屋・和泉甚など
3月10日駅逓権正の杉浦譲は駅逓正に昇任
3月14日郵便開業
5月8日政府は元飛脚問屋の業務を「陸運元会社」に継承させる
(この会社は飛脚屋の蒸気船運輸業務への転換となる)
7月14日廃藩置県が断行される
7月15日横浜に郵便役所が設けられ、東京ー横浜間の間に直通便が開かれる
同時に金子入書状の取扱も開始
7月29日太政官の規模が拡張、三院八省がおかれる
民部省は廃止となり、駅逓司は大蔵省に移管、駅逓正の三浦は民部省から大蔵省出仕に、
駅逓正にはかわって田中儀兵衛が任ぜられる
大蔵卿は大久保利通、大蔵大輔は井上馨である
7月通商司を廃止
8月郵便線路は大阪から下関、四国の高松をへて宇和島まで伸ばされるがこれは民間の請負による
政府は「郵便蒸気船会社」を設立、前出の回漕会所との関連は不明
8月10日駅逓司は三等寮に昇格し、浜口義兵衛が駅逓頭に任ぜられる
8月15日前島密ら帰京
8月17日前島密、駅逓頭に任じられる
8月23日前島密、度量衡改正掛の兼務を命じられる
10月当初、東海道の郵便を府県藩の官吏を出張させて駅から駅へ郵便脚夫が運んでいたものを
陸運会社に委託
(これより各地に陸運会社が設立され、郵便事業に反対する旧飛脚業者に転向を促す)
12月5日郵便は長崎に達し、神戸と長崎とに郵便役所が設けられ、『郵便規則』が公布
従来は書状のみの取扱だったのに加え、日誌(雑誌)と新聞紙の取扱も開始
明治5(1872)年1月高崎で以前から民間より馬車の出願があり、駅逓寮はこれに「郵便馬車」の名称を付し
東京ー高崎間を認可、馬車会社には資金を貸与し無償で郵便物を輸送・配達することを命じる
1月5日郵便で書籍類、および見本品も取扱開始
2月「東京日日新聞」発刊
3月大蔵省内の駅逓寮は東京郵便役所に移転
『改正増補郵便規則』(ひながなまじりの易しい文章)公布
東京市内では1日3回の配達が開始
6月日本橋左内町(現中央区日本橋一丁目)の和泉屋甚兵衛邸内に陸運元会社が設立される
各駅(幕府制定の五街道の宿駅)の陸運会社と連絡を取りながら、専ら貨物を取り扱う
6月2日前島密、大蔵省四等出仕、駅逓頭との兼務、このころ駅逓寮は二等寮となる
6月10日「郵便報知新聞」を創刊、発行者は郵便取扱人の太田金右衛門だが後ろで前島が指導する
7月1日北海道の北半を除いて郵便が国内一般に施行される
このときの郵便最高額は全国を通じて五銭という低額を実現
8月廃藩置県によって大蔵省に属していた各藩の汽船を回漕会社の所有船とあわせて
民間に払い下げ、回漕取扱所を改称、「帝国郵便蒸気船会社」を設立
補助金を与えて東京ー大阪、函館ー石巻間を運航させ郵便物を無料運送する
8月末 伝馬所、助郷の制度を廃止
9月12日鉄道開通式
(この鉄道開通後は過当競争を続けた東京ー横浜間の蒸気船による交通は大部分が廃止される)
10月政府は琉球国王を琉球藩主とし、華族に列す(日本国への正式な編入)
11月『国立銀行条例』が公布
(このころ前島密は為替の規則や施行案を草起し大蔵省に建議、
井上馨大輔は為替を取り扱う人員がいないと資金下付に難色を示している)
12月3日改暦、太陽暦となって明治6年1月1日とする
明治6(1873)年2月「ひらがなまいにちしんぶんし」を発刊
2月電信が福岡から佐賀をへて長崎まで達する
3月『改定郵便規則、郵便犯罪規則』が公布、4月1日から施行
5月1日信書の扱いは駅逓頭の特任となり、ここに郵便の政府独占が確定し、
飛脚業者の信書送達は全く禁止される
5月14日大蔵大輔の井上馨と三等出仕の渋沢栄一らが財政改革に異議を唱え下野、
大蔵首脳部が欠員となる(大蔵卿の大久保利通は4年10月から遺歐副使として外遊中、
5月末に帰朝するが征韓論議をさけて出仕しない)
6月陸運元会社、水上運輸業務を開始、利根川・荒川・鬼怒川で航路開設
6月11日三井組と小野組を中核にして「東京第一国立銀行」が設立
しかし国立銀行は紙幣を発行しても支店がないため為替はまだ取り扱わない
6月15日前島密は大蔵省三等出仕に昇進し、駅逓頭と兼任、
6月17日にはまた「大蔵輔心得」を以て事務取扱を命じられる
8月郵便取扱人という名称が郵便取扱役と改められる
8月6日日米郵便交換条約調印
9月陸運元会社、航路を下総の町の境町まで開く
9月15日新橋駅ー横浜駅間で鉄道による貨物輸送開始
10月西郷等征韓派の参議がいっせいに辞任
11月10日あとをうけて内務省が新設、大久保利通が事実上の宰相となる、駅逓寮は内務省に移る
明治7(1874)年1月郵便蒸気船会社に命じ、琉球との間に郵便船の往復を開始
1月8日駅逓寮は大蔵省から内務省に移管、前島密は大蔵省三等出仕を解かれて駅逓頭に専任
1月29日前島密、内務大丞に任ぜられ駅逓頭と兼任
2月佐賀の乱がおこり、佐賀県庁が襲われ電信線が切断されて福岡から先が不通となる
3月陸運元会社、水運課を新設
下野・阿久津河岸(栃木県氏家)と小網町(中央区日本橋)に回漕所を開く
3月20日前島密は首里や那覇などに郵便仮役所、その他の要地に郵便取扱所の開設を強行し、
琉球の日本国帰属論の布石とする
4月去る明治4年10月に琉球の島民が台湾の南端に流れ着いて原住民に殺害されたことをうけ、
台湾遠征を推進する大久保・大隈は、陸軍中将・西郷従道を台湾蛮地事務都督とし、
陸軍少将・谷干城、海軍少将・赤松則良らを従軍させ、台湾出兵を実行
遠征に際して郵便蒸気船会社は役に立たず、かわりに岩崎弥太郎の三菱商会に、
政府が購入していた十三隻の船の運用を依託
軍事輸送を申しつけられた三菱は、これによって莫大な利益を得る
9月『郵便為替規則』制定
10月『国内回漕規則』制定
明治8(1875)年1月1日日米郵便交換条約が実施
1月2日全国を通じ百十ヶ所の郵便局で郵便為替を取り扱うことが公布される
1月8日横浜郵便局の外国郵便開業式
2月政府所有の汽船を三菱に委託、横浜ー上海の航路を開かせる
この航路にはすでに太平洋郵便がおり、三菱は運賃の値下げで対抗したが、
1航海に2万円の損失を出す
3月(2月?)左内町(中央区日本橋一丁目)の陸運元会社は「内国通運会社」と改称して
各地の陸運会社を統合して陸運を統轄する
3月電信が熊本まで通じる
5月2日郵便局において貯金の取扱が東京および横浜において開始
(当時は銀行においてもまだ金銭を預かる事務は未開で貯金といえば、郵便貯金をさした)
6月帝国郵便蒸気船、解散
8月度量衡取締条例が制定
9月15日三菱商会に政府所有の全船舶を無償で交付
上海への定期航路を開設し、助成金として年額25万円を与えるという命令書を出す
郵便蒸気船会社が倒産したので、その所有船舶も政府が買収し、三菱へ下付する
「三菱汽船会社」は改称して「郵便汽船三菱会社」と改称
10月三菱と太平洋郵船の競争は、横浜ー上海の三等船客運賃がはじめ30円だったのが最後には
8円にまでひきさげられ、三菱は政府に補助を請願、
このころには太平洋郵船も競争の不利を覚っており、三菱は政府から八十一万円の
貸与を受けて太平洋汽船に属する四隻の船と陸上施設の一切を買収する事に成功
上海航路を独占する
(※この頃明治八年度~九年度の駅逓寮の収入は約60万~70万円であり、
助成金だけでも19万弱~25万円の支出であった)
11月『国内回漕規則』廃止、それに伴い霊厳島船改所を閉鎖
11月25日上海を視察していた前島密は長崎をへて大阪へ帰朝
この日駅逓寮は一等寮に昇格したという電報を受け取る
11月28日一等寮の長官は三等官の勅任であり、四等官である前島密はいったん
駅逓権正を兼任し、この日あらためて駅逓頭兼任と発令される
明治9(1876)年2月英国のPO汽船会社が横浜ー上海間に就航
三菱のあらたな競争相手となり、また値下げの犠牲をはらう
4月15日上海で日本郵便局が開業
5月川蒸気通運丸就航
8月PO汽船もあきらめ航路を撤退
9月ベルヌ条約の万国郵便連合加盟を申し入れる
9月26日前島密は内務少輔に任じられる、駅逓頭兼任
10月神風連の乱起こる
10月30日三菱会社に朝鮮国への郵便運送が命令される
11月釜山に日本郵便局を開設すると布告
12月大規模な農民一揆が起こる
12月27日前島密がつくった外計書を基礎に、大久保が地租減額案を太政官の廟議にかける
明治10(1877)年1月4日地租を地価百分の二分五厘に減ずとの詔書が発せられる
1月11日官制の改革あり、各省の寮が廃止されて局となる
内務省には駅逓局のほか警視・勧農・勧商・地理・土木・社寺・会計の計八局が設置
東京警視庁が廃止され内局の警視局になる
6月20日第28番目の加盟国として日本でもベルヌ条約を実施開始
8月11日前島密、内国勧業博覧会審査官長を拝命
明治11(1878)年1月23日前島密は地租改正局三等出仕の兼務を命じられる
2月16日前島密、勧農局長の兼務を命じられる
3月6日前島密、元老院議官の兼務を命じられる
5月14日大久保利通は登庁の途中、紀尾井坂で不平士族の一団に襲われ殺害される
内務卿の後任には伊藤博文工部卿が任命される
12月6日益田克徳(益田孝の弟)渋沢栄一の東京海上保険会社設立を認可(初の損害保険会社)
12月29日休みが取れた前島密は、かねてから駅逓局において海上保険を研究していた少書記官の
塚原周造とその属官たち、益田らの関係者をともない熱海へ避寒と称して三菱の汽船に同船
この期間に専門書の翻訳をして規則の草案をととのえる
明治12(1879)年3月12日前島密は勧農局長の兼任を解かれるが
官の内務少輔・駅逓局長と地租改正局三等出仕にはかわりなし
7月東京地方衛生会が発足し前島は初代会長に挙げられる
明治13(1880)年2月28日前島密、内務大輔に任じられる、駅逓局長の兼務は従来通り
3月25日あらたに駅逓官の職制が改められ、前島は駅逓総官に任じられる
8月日本海員掖済会が結成
(旧来の悪習を矯正し、海員の品位を高めその福祉と厚生をはかろうというもの)
明治14(1881)年4月7日農商務省が発足、農務・商務・工務の三局が設けられる
駅逓局は内務省から農商務省に移管
また同省内に農工商上等会議が付設
6月28日前島密は農工商上等会員を拝命
6月末地租改正事業完了にともない地租改正事務局は廃止となる
7月16日前島密、勲三等旭日中授章を賜る
10月1日前島密は関西地方の視察のため大阪へ出発、
24日(14?)岡山に達したところ、電報で帰京を命じられる
10月14日いわゆる「十四年の政変」おこる、大隈重信が免官
10月20日農商務卿の河野敏鎌も辞任する
10月21日大隈の後任には松方正義、河野敏鎌の後任には西郷従道が発令される
11月2日前島密、辞表提出
明治15(1882)年2月前島密、日本海員掖済会の委員となる
4月16日立憲改進党が結成、これに参画
10月東京専門学校が大隈の発意により開設(のちの早稲田大学)
明治16(1883)年9月工部省は電話交換の開設について太政官に建議
12月太政官は官営民営の二案の内、後者の方案を求めるが、工部省は調査の上官営を至当と
考え17年、18年と上申を重ねる
明治18(1885)年12月内閣制度発足にともない逓信省が創設、農商務省から駅逓と管船の二局を移管、
廃止された工部省から電信と灯台の二局を移管しこれらをあわせて管轄する体制が確立、
初代逓信大臣は榎本武揚が任命される
明治19(1885)年3月前島の後任だった駅逓総官の野村靖が農商務省から駅逓次官に転任
明治20(1887)年3月逓信省で機構の改正があり、駅逓・電信の二局を廃して、内信・外信・工務の三局を置く
電話は内信および工務の分掌とし、内信局長には林董(ただす)元駅逓局長、
工務局長には志田林三郎が就任
5月前島密、関西鉄道株式会社の社長に就任
8月前島密、東京専門学校の校長に正式に就任
明治21(1888)年3月関西鉄道の免許が認可、正式に設立
5月電気事業に関係ある人達で電気学会を結成、会長に榎本を、副会長に前島密を推す
秋、榎本逓信大臣は次官の野村と意見が対立して電話政策と駅逓の第三種・新聞紙雑誌の
取扱で行き詰まっており、前島密に書簡を送って次官就任の決意をうながす
11月20日前島密、逓信次官任命の辞令を受ける(そのため関西鉄道社長を退くことになる)
12月6日前島密、従三位となる
明治22(1889)年3月22日榎本武揚は文部大臣に移って逓信省を去り、後任に後藤象二郎が逓信大臣に就任
明治23(1890)年4月19日『電話交換規則』制定
7月前島密、東京専門学校の校長を辞任
7月逓信省の官制を改正、総務局を廃して郵務・電務などの五局を置く
12月16日電話交換が東京、横浜で開始
明治24(1891)年3月17日前島密、逓信次官を免官、日本海員掖済会の副会長となる
8月電気事業の監督も逓信省の所管に加えられる
(以下、前島密の経歴)
明治26(1893)年12月東京馬車鉄道会社の監査役に就任
明治27(1894)年北越鉄道株式会社の社長に就任
明治29(1896)年6月東洋汽船株式会社の監査役に就任
明治34(1901)年6月京釜鉄道株式会社の取締役に就任
明治36(1903)年10月28日京釜鉄道株式会社の理事を拝命
明治38(1905)年6月日本海員掖済会の理事長に
明治39(1906)年4月1日勲二等瑞宝章を賜る
4月28日日本海員掖済会から有功賞を贈られる
12月京釜鉄道会社解散、創業以来の功労を表彰される
明治40(1907)年関西鉄道、北越鉄道解散につき功労を表彰される
明治41(1908)年1月日清生命保険株式会社の社長に就任
明治43(1910)年5月日本海員掖済会理事長、ほかほとんどすべての役職から退く
明治45(1912)年2月日清生命保険の社長を辞任
大正8(1919)年4月27日芦名邸にて永眠
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えーと、なんだろう。
とりあえず明治維新で、東京遷都を建議したのは密さんらしい。しかも署名が江戸寒士で。
前島さんは渋沢さんと同じ、旧幕臣だったんで意外でした。
しかも郷さんのおやじさんに推薦されて政府入りしている。
なんとなく、イメージ長州閥だったんだけどな(井上馨・渋沢栄一・益田孝のグループかと)
それでその書状が大阪遷都を考えていた大久保さんの目に止まり、感心されたとかで採用。
明治政府内でも、大久保さんの信任を得て、その下でめきめきと頭角を現すんだけど、
大久保さんの死後は閥族にうとまれて、大隈さんに接近して行く・・・。
大隈さんがよく三菱との癒着を指摘されてるけど、それって前島さんが三菱に手厚い保護を与えたことからの繋がりなのかな?
大隈さんの人物叢書では、あんま三菱からお金貰ってる雰囲気なかったけども・・・。
ちなみに、早稲田大学の前身の東京専門学校の経営苦心から、高利貸しで悪名高い平沼専蔵さんと懇意になったっぽい感じでした。がそれ以上の言及はとくになく。あっちの本は、本当、拾えるもの少なかったなー。
しかし、両者の関係は気になりますよねー。今は関係ないけですけど。
さて、次は中上川さんと山陽鉄道かな。まだ記事の打ち込みがオワラーヌ!
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