たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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頭の中を整理する為に、本を読むのを少し控えていたんですが、
そうすると「日々全く何もしねぇ」状態になったので、読書解禁。
前島密の本を借りようと思って図書館行ったんですけど、
本棚にタイトルで気になる本を発見。
そっちを先に手出したら、中身ビンゴで。すごく、よかったです!
こんな、時代的にドンピシャな本て、ふつーにあるもんなんだなぁ、僥倖、僥倖。
昔、新宿駅には青梅街道側と甲州街道側とに二つホームがあって、「電車が2回止まってた」と
いうことは知ってたんですが、実際にそれを利用するということがどういう事なのかが、
この方の体験を通じると、実によく理解出来るのです。
「【図説】日本の鉄道 中部ライン第1巻 東京駅ー三鷹エリア」の新宿駅特集の大正時代の新宿駅の
配線を見ながら読むと、よりよく理解出来ると思うので、おすすめです。
=============以下はネタバレ================
著者は淀橋浄水場と煙草専売局の工場との間にあった中学校に通うため、
大塚駅から山手線に乗って、新宿で降り、甲州街道口のホームから、中央線を待って、
青梅街道口ホームで降りて学校に通うという事を毎日行ってたんですけど、
このたかだか200mの駅間距離のためにいつも15分くらい待たされて遅刻することもしばしば、
「中央線がこねええええ!!」って、いつもイライラしていた。
けど、そんなことしなくても甲州街道口から歩いて行けることを、わりと後になって気づき
「馬鹿のような大発見である」というお話。
受験の時、伯父さんがそういう乗り方をして、すりこまれちゃったんだと。
それが大正の12年3月で、震災の半年前。
ということは、中央線の「の」の字運転がまだ現役の頃か?と思って、前掲書を見ると、
山手線を半周して、東京駅から市街線を通って新宿へ戻ってきた中央線が、この問題の「こねええええ!#」の電車なんですね(笑)じつに面白い。
著者はもともと鹿児島の人で、けっこう大きくなるまで両親と離れて暮らしていたので、
東京にも、自分の家族にもまだ慣れきっていない状態。
大塚にしばらく暮らした後は、青梅街道沿いで転居を繰り返し、関東大震災を経験して、
青梅街道筋からみた新宿の転変振りを10年間ほど間近で見続け、その視点でこの本を書いています。
物語りではないので、エンターテイメント性はなく淡々としていますが、電車の話題をけっこう絡めてくるので面白い。
他にも、藤原あきとか、平沼騏一郎とか、床次竹二郎とか、いままでどっかで聞いてきたような人の名前もちらほらあって「フ、フォォォォォオ!? (゜ロ゜;;」てなります。(あ、これ私の場合だけか)
新宿も当時すでに結構なお偉方が住まう土地だったのですね。
藤原あきは中上川彦次郎のお嬢さんです。伝記の冒頭に紹介されていました。
この本の作者さんとしては、戦争で社会がどんどんおかしくなっていく空気を感じながら、
社会との関わり方がわからない「何者にも成れそうにない若者」という自分を、等身大で描いています。
このところ偉い人の「何事か成してきた人たち」の本ばかり読んできた身としては、なにかほっとするというか視点が地面に近くなった気がする。
しかし、私から見れば、この人も時代と「すごい関わり方」してんなぁ、ってかんじなんですが(笑)
=======================================
まずが、新宿のあの専売局と淀橋浄水場の「間」に立ってた中学校に通ってたというのが、すげー。
大塚から高円寺に引っ越したので、その中学校までは青梅街道沿いをずっと歩いて通っていて、
「青梅街道は馬糞の道であった」「それほどたくさん、荷車が通った」という空気を直に吸っていたというのも、すげー。ブラタモリで、甲州街道は「馬糞だらけだった!」てのはやってたと思うんですが、青梅街道も同じだったんですね。
神田のヤッチャバ(秋葉原電気街の前身だというのもブラタモでやってましたね)へ、近郊の農家が野菜を運ぶため、未明からひっきりなしにガタゴト音がしていて、新宿の大ガードの出口へ曲がる50m位の間にひしめくように飯屋が並んでいたのも、そこが農夫達がヤッチャバの帰りに朝飯をかっ込む場所だったからだそう。
そして市内や新興住宅の下肥を帰りに運ぶので、昼頃街道ででくわすのは、下肥車。
後ろを歩いていると、しずくが飛んでよく引っかかる。でも「それほど汚いとは感じなかった」ので、「馬糞などは論外」で。
でも下肥の処理が市の仕事になってからは、その荷車の往来もなくなり、新宿の飯屋もぽつぽつとなくなっていったんだそう。
それに青梅街道には西武軌道が路面運転している。
前述のように荷車がひっきりなしに通るため、市電に比べて路面の状態が良くない。
とても市電のようにぶら下がって爽快に乗る、ということができない(コラ/笑)。
雨の日は電車がガタガタして、しなった枕木が泥水を跳ね上げるので、とても脇を歩いていられない。
そのためその日は電車に乗るが、降りたとたんに発車するので跳ね上がった泥水をよけるのは至難の業だったそう。
関東大震災の起こった日には、市内から避難者が続々と歩いてきたけれど、青梅街道沿いではさしたる被害もなく、実感に乏しい著者。新宿の学校も無事だった。
しかし、それを期にしてか、「震災後、新宿でいちばんはじめに模様がえをはじめたのは新宿駅であった。青梅街道口新宿駅と、甲州街道口新宿駅をつなぐ工事」が始まります。
駅の工事が始まってからは、駅前にたむろしていた著者お気に入りの怪しげな露天も撤去され、目立つのが専売局の赤煉瓦だけ。
「ここだけはお前たちとちがう官庁の世界だぞ、という顔をしているようにみえた。」
「右にだらだらとゆるい坂を降りる。そこから新宿駅の工事の範囲に這入る。泥がほじくり返され、甲州街道口新宿駅のところまで、鉄骨と枕木とレールの山である。右側はみっともない専売局のどてっ腹が見えている。その中に廃止された青梅街道口新宿駅を通りこして、残された甲州街道口新宿北口の仮駅(正確には新宿駅北口)が、ちょこんと作られてている。その駅までの泥だらけの道に、延々と板が敷いてある。」
貴重な、大正末期の新宿駅の工事の様子です。
小田急が、もともとは青梅街道口に接続予定だったのを、この大規模改良工事のために、甲州街道側からの接続に変更し、設計済だった省線の計画図にねじこんだ、てのがこれだと思います。
そのため京王も、電車専用の跨線橋を甲州街道陸橋と統合するんですが、小田急的にはこの京王の跨線橋をくぐるための協議が一番やっかいだったらしいです(笑)
だから、うちのサイト的にはここで小田急が京王にトラウマをもった設定にしています。
話がそれました。わお
そんな小田急は「今まで国立の省線がやっとターミナル駅らしい姿をつくった新宿に、
国立私立併せてのターミナル駅らしい駅をつくり上げる重要な役割を果たした私鉄である。この他に、京王電車や西武鉄道などがあったが、省線にも匹敵するほどの遠距離を走る私鉄は、小田急がはじめてだった。」という印象で、やはりそれまでの新宿の電車とは一線を画すものであったようです。
(他だと、渋谷の東横などが省線と駅をならべた高速電車なのでしょうが、あっちは新宿ほどであったかどうか。)
この、今の位置に、本格的なコンクリート建物第1号の本屋が出来たことによって、新宿の人の流れがかわります。デパートなどが進出し、省線の駅から市電へ、そこから銀座や築地へ、という流れができあがり、本来の本屋であった甲州街道側は逆に廃れたところもあったらしい。
市電は「この新宿本屋ができる以前から、本屋の前が起点であった。四谷を通り、銀座を通り、築地まで行っていた。ここから少し行って角筈のところに、枝分かれしたように、角筈を起点とする市電が、飯田橋を通って万世橋まで行っていた。」
「市電の起点で終点の新宿停留所が、渋谷がそうであるように、品川がそうであるように、街道筋のつきあたりに、まるで放り投げられたように無愛想に、ぶち切れた形で終っているのがよくわかる。」
「停留所らしい設備はなにもない。ただ折り返しの線路が延びていて、最初は乗客が乗るためのプラットホームさえなかった。線路はここで終わりました。乗りたい方は勝手にお乗りなさいといったような顔をしている。」
「その新宿の市電が、省線の新宿駅本屋ができてから、まるで様子が変わってきた。
本屋の改札を出た人の波は、もちろん新宿の町に流れて行く人が多かったが、そのかなりの数が市電に流れ込んでいく。殊に、銀座、築地に出るのには便利だったからだ。」
という感じだったらしい。
そして「新宿の町に、二番目のコンクリートの大きな建物が建った。大正十四年のことである。
場所は新宿駅本屋の目の前、市電の起点のまん前である。」「これが三越新宿支店である。」
「その翌年、大正十五年(昭和元年)には、今度はほてい屋というデパートが新宿にできた。
場所は追分である。今の伊勢丹の明治通り寄り半分がそうである。この場所はもともと大美濃、池美濃という妓楼があった場所だという。」と二つのデパートが新宿に進出します。
ほてい屋は明治十五年に四谷に呉服店を構えましたが、その前は神楽坂にあり、四谷に移ったのは、四谷の賑わいと将来性にかけたから。それがこんどは新宿に進出するのだから「余程の英断であったにちがいない」としています。
街道筋の妓楼は新宿御苑に近く表筋にあると目障りだという理由で、大正七年に牛屋の原(牧場跡地)に移転命令が出され、それが新宿二丁目となります。
「引き込み線があって、奥には大きなストレート屋根の車庫があった。ずいぶん大きな車庫であった。
電車が何十台も入っていた。そこを電車が出たり入ったりしていた。そこの出口のところに、事務所と車掌と運転手の溜り場があった。」
「ここを走っている電車はボギー車で、西武鉄道や京王電車の車輌よりはるかに大きい。」
「ほてい屋の隣にあった市電の車庫の思い出である。」
昭和六年に、その敷地全体が買収され、昭和八年に伊勢丹が建ちます。
伊勢丹はもともと神田旅籠町にあり、「帯は伊勢丹」というほど名の通った呉服店だったんですが、震災で丸焼けになり、大正十三年に旅籠町に百貨店形式の新築店をオープン、昭和三年に同じ場所に地下1階地上4階の店を完成させデパートへの脱皮を始める。
しかし、神田ではそろそろ場所が悪く、中央線と山手線の全通電化によって神田は交通の「穴」となり、震災の影響で下町人口が郊外へ流出、しまいには最寄り駅だった万世橋駅が廃駅になってしまって、どうしても新しい場所探しが必要となった。ゆえに新宿進出を決めたんだとか。
「隣がほてい屋で、同じデパートが二つ並ぶという異様な進出であった。異様というよりは常識はずれの進出であった。」
「こんな立派な建物を建てるのに、ほてい屋との間が常識はずれに狭い。こんなことが許されるのだろうか。」
「後に、伊勢丹がほてい屋を買収する。買収して二つの建物を一つにする。その工事で大して手なおしもしないで、両方の無駄な壁面をぶちぬいて、二つを一つにした。」
「中を歩きながらなにも不自然を感じなかった。」
これは、伊勢丹の方でほてい屋の図面を手に入れて、それに合わせて建てたためだったそうです。買収を見越して、それがすんだ暁には建物を一つにする。
ほてい屋は昭和二年十月株式会社に改組、昭和四年増築工事が完了したものの、
昭和五年に社主の西条氏が自殺をし、それを女社長が引き継ぐが、素人のため経営がうまくいかない、それで昭和六年、松屋の内藤彦一常務が伊勢丹に話を持ちかけて、あの土地を買ったらどうかという。合併はほてい屋が抵抗をしたので、その時点ではせず、昭和六年に土地を買って、隣に建物を建てた。
それに対抗してほてい屋もいろいろするものの、昭和十年五月二十五日ついに不渡手形を出てしまい、伊勢丹に合併され、壁をぶち抜いて増設工事、完成させたのが昭和十一年でした。
この他にも、小田急が開通した頃に映画館の武蔵野館の新装館ができて、そこへ入り浸ったり、
ムーランルージュができて、そこの役者の先輩の飯代をもつかわりに観劇したり、
山の手文化を満喫しまくっている。
はては玉川学園の出版部に就職して、小原国芳と学園との確執を目の当たりにする。
「そこで、まさかの小原国芳かーーーーー!! ;゜ロ゜)」と。
小田急の歴史に成城学園都市や玉川学園ははずせませんもんね。
そこでの内部のごたごたも、少し書いてありました。
やはり、昭和に入ってからは満州事変なども起こり、昭和一桁年代でもすでに戦時統制がはじまり出していたようです。不況もありますが、昭和七年の電鉄界の統制もあながち、戦争の影響を受けていない訳でもなさそう。その「雰囲気」があるかがこの場合、大事。
そして新宿が発展するにつれて、やたらと銀座を基準に張り合っているのも面白い。
当時の感覚だと銀座が首位で、新宿がそれを追い上げている感覚だったらしい。
それと、汽車の客(遠出)と、電車の客(近郊)を区別してみているところも今とちがう感覚。
中央線の電化がまだ中野とかそこいらだから、「汽車の客」は八王子か立川か、行商のため大きな荷物で汽車を待っている。新本屋の新宿駅には居心地のいい待合室があり、中学生時分はそこで利用客を観察するのが好きだったらしい。
年表でみている限りではたんなる横の糸だったものが、人の視点を借りることで縦糸が通った気持ちです。
この本は多少、文献や内部情報などで補完されていますが、内容はオーラルヒストリー系ですね。
記憶が頼りなので正確ではないけれども、意外な情報が載ってたりして、他に代え難いものがあります。
そしてなにがしかの筋が通っているから、気持ち的にも理解がしやすい。
「ボクは人間の記憶というものの、恐ろしいまでの恣意性におどろいている。実に都合のいい思いちがいをしたものだ」と、著者自身、その曖昧さを自覚しているとおり、オーラルヒストリーでは欠けた記憶を恣意性によって補完するので、参照するには注意が必要です。
効率性を求めるんなら、データ系なんでしょうけど、小難しくて感情に乏しいデータ系よりは、こっちのが私は好きですね。心にも残りやすい。そこを足場にデータ求めていってもいいじゃない!
あまり数はないので、個人的な需用にぴったりと合うものにあたると大変嬉しいです。
(「新宿駅が二つあった頃」阿坂卯一郎/第三文明社/昭和六十年五月発行)
そうすると「日々全く何もしねぇ」状態になったので、読書解禁。
前島密の本を借りようと思って図書館行ったんですけど、
本棚にタイトルで気になる本を発見。
そっちを先に手出したら、中身ビンゴで。すごく、よかったです!
こんな、時代的にドンピシャな本て、ふつーにあるもんなんだなぁ、僥倖、僥倖。
昔、新宿駅には青梅街道側と甲州街道側とに二つホームがあって、「電車が2回止まってた」と
いうことは知ってたんですが、実際にそれを利用するということがどういう事なのかが、
この方の体験を通じると、実によく理解出来るのです。
「【図説】日本の鉄道 中部ライン第1巻 東京駅ー三鷹エリア」の新宿駅特集の大正時代の新宿駅の
配線を見ながら読むと、よりよく理解出来ると思うので、おすすめです。
=============以下はネタバレ================
著者は淀橋浄水場と煙草専売局の工場との間にあった中学校に通うため、
大塚駅から山手線に乗って、新宿で降り、甲州街道口のホームから、中央線を待って、
青梅街道口ホームで降りて学校に通うという事を毎日行ってたんですけど、
このたかだか200mの駅間距離のためにいつも15分くらい待たされて遅刻することもしばしば、
「中央線がこねええええ!!」って、いつもイライラしていた。
けど、そんなことしなくても甲州街道口から歩いて行けることを、わりと後になって気づき
「馬鹿のような大発見である」というお話。
受験の時、伯父さんがそういう乗り方をして、すりこまれちゃったんだと。
それが大正の12年3月で、震災の半年前。
ということは、中央線の「の」の字運転がまだ現役の頃か?と思って、前掲書を見ると、
山手線を半周して、東京駅から市街線を通って新宿へ戻ってきた中央線が、この問題の「こねええええ!#」の電車なんですね(笑)じつに面白い。
著者はもともと鹿児島の人で、けっこう大きくなるまで両親と離れて暮らしていたので、
東京にも、自分の家族にもまだ慣れきっていない状態。
大塚にしばらく暮らした後は、青梅街道沿いで転居を繰り返し、関東大震災を経験して、
青梅街道筋からみた新宿の転変振りを10年間ほど間近で見続け、その視点でこの本を書いています。
物語りではないので、エンターテイメント性はなく淡々としていますが、電車の話題をけっこう絡めてくるので面白い。
他にも、藤原あきとか、平沼騏一郎とか、床次竹二郎とか、いままでどっかで聞いてきたような人の名前もちらほらあって「フ、フォォォォォオ!? (゜ロ゜;;」てなります。(あ、これ私の場合だけか)
新宿も当時すでに結構なお偉方が住まう土地だったのですね。
藤原あきは中上川彦次郎のお嬢さんです。伝記の冒頭に紹介されていました。
この本の作者さんとしては、戦争で社会がどんどんおかしくなっていく空気を感じながら、
社会との関わり方がわからない「何者にも成れそうにない若者」という自分を、等身大で描いています。
このところ偉い人の「何事か成してきた人たち」の本ばかり読んできた身としては、なにかほっとするというか視点が地面に近くなった気がする。
しかし、私から見れば、この人も時代と「すごい関わり方」してんなぁ、ってかんじなんですが(笑)
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まずが、新宿のあの専売局と淀橋浄水場の「間」に立ってた中学校に通ってたというのが、すげー。
大塚から高円寺に引っ越したので、その中学校までは青梅街道沿いをずっと歩いて通っていて、
「青梅街道は馬糞の道であった」「それほどたくさん、荷車が通った」という空気を直に吸っていたというのも、すげー。ブラタモリで、甲州街道は「馬糞だらけだった!」てのはやってたと思うんですが、青梅街道も同じだったんですね。
神田のヤッチャバ(秋葉原電気街の前身だというのもブラタモでやってましたね)へ、近郊の農家が野菜を運ぶため、未明からひっきりなしにガタゴト音がしていて、新宿の大ガードの出口へ曲がる50m位の間にひしめくように飯屋が並んでいたのも、そこが農夫達がヤッチャバの帰りに朝飯をかっ込む場所だったからだそう。
そして市内や新興住宅の下肥を帰りに運ぶので、昼頃街道ででくわすのは、下肥車。
後ろを歩いていると、しずくが飛んでよく引っかかる。でも「それほど汚いとは感じなかった」ので、「馬糞などは論外」で。
でも下肥の処理が市の仕事になってからは、その荷車の往来もなくなり、新宿の飯屋もぽつぽつとなくなっていったんだそう。
それに青梅街道には西武軌道が路面運転している。
前述のように荷車がひっきりなしに通るため、市電に比べて路面の状態が良くない。
とても市電のようにぶら下がって爽快に乗る、ということができない(コラ/笑)。
雨の日は電車がガタガタして、しなった枕木が泥水を跳ね上げるので、とても脇を歩いていられない。
そのためその日は電車に乗るが、降りたとたんに発車するので跳ね上がった泥水をよけるのは至難の業だったそう。
関東大震災の起こった日には、市内から避難者が続々と歩いてきたけれど、青梅街道沿いではさしたる被害もなく、実感に乏しい著者。新宿の学校も無事だった。
しかし、それを期にしてか、「震災後、新宿でいちばんはじめに模様がえをはじめたのは新宿駅であった。青梅街道口新宿駅と、甲州街道口新宿駅をつなぐ工事」が始まります。
駅の工事が始まってからは、駅前にたむろしていた著者お気に入りの怪しげな露天も撤去され、目立つのが専売局の赤煉瓦だけ。
「ここだけはお前たちとちがう官庁の世界だぞ、という顔をしているようにみえた。」
「右にだらだらとゆるい坂を降りる。そこから新宿駅の工事の範囲に這入る。泥がほじくり返され、甲州街道口新宿駅のところまで、鉄骨と枕木とレールの山である。右側はみっともない専売局のどてっ腹が見えている。その中に廃止された青梅街道口新宿駅を通りこして、残された甲州街道口新宿北口の仮駅(正確には新宿駅北口)が、ちょこんと作られてている。その駅までの泥だらけの道に、延々と板が敷いてある。」
貴重な、大正末期の新宿駅の工事の様子です。
小田急が、もともとは青梅街道口に接続予定だったのを、この大規模改良工事のために、甲州街道側からの接続に変更し、設計済だった省線の計画図にねじこんだ、てのがこれだと思います。
そのため京王も、電車専用の跨線橋を甲州街道陸橋と統合するんですが、小田急的にはこの京王の跨線橋をくぐるための協議が一番やっかいだったらしいです(笑)
だから、うちのサイト的にはここで小田急が京王にトラウマをもった設定にしています。
話がそれました。わお
そんな小田急は「今まで国立の省線がやっとターミナル駅らしい姿をつくった新宿に、
国立私立併せてのターミナル駅らしい駅をつくり上げる重要な役割を果たした私鉄である。この他に、京王電車や西武鉄道などがあったが、省線にも匹敵するほどの遠距離を走る私鉄は、小田急がはじめてだった。」という印象で、やはりそれまでの新宿の電車とは一線を画すものであったようです。
(他だと、渋谷の東横などが省線と駅をならべた高速電車なのでしょうが、あっちは新宿ほどであったかどうか。)
この、今の位置に、本格的なコンクリート建物第1号の本屋が出来たことによって、新宿の人の流れがかわります。デパートなどが進出し、省線の駅から市電へ、そこから銀座や築地へ、という流れができあがり、本来の本屋であった甲州街道側は逆に廃れたところもあったらしい。
市電は「この新宿本屋ができる以前から、本屋の前が起点であった。四谷を通り、銀座を通り、築地まで行っていた。ここから少し行って角筈のところに、枝分かれしたように、角筈を起点とする市電が、飯田橋を通って万世橋まで行っていた。」
「市電の起点で終点の新宿停留所が、渋谷がそうであるように、品川がそうであるように、街道筋のつきあたりに、まるで放り投げられたように無愛想に、ぶち切れた形で終っているのがよくわかる。」
「停留所らしい設備はなにもない。ただ折り返しの線路が延びていて、最初は乗客が乗るためのプラットホームさえなかった。線路はここで終わりました。乗りたい方は勝手にお乗りなさいといったような顔をしている。」
「その新宿の市電が、省線の新宿駅本屋ができてから、まるで様子が変わってきた。
本屋の改札を出た人の波は、もちろん新宿の町に流れて行く人が多かったが、そのかなりの数が市電に流れ込んでいく。殊に、銀座、築地に出るのには便利だったからだ。」
という感じだったらしい。
そして「新宿の町に、二番目のコンクリートの大きな建物が建った。大正十四年のことである。
場所は新宿駅本屋の目の前、市電の起点のまん前である。」「これが三越新宿支店である。」
「その翌年、大正十五年(昭和元年)には、今度はほてい屋というデパートが新宿にできた。
場所は追分である。今の伊勢丹の明治通り寄り半分がそうである。この場所はもともと大美濃、池美濃という妓楼があった場所だという。」と二つのデパートが新宿に進出します。
ほてい屋は明治十五年に四谷に呉服店を構えましたが、その前は神楽坂にあり、四谷に移ったのは、四谷の賑わいと将来性にかけたから。それがこんどは新宿に進出するのだから「余程の英断であったにちがいない」としています。
街道筋の妓楼は新宿御苑に近く表筋にあると目障りだという理由で、大正七年に牛屋の原(牧場跡地)に移転命令が出され、それが新宿二丁目となります。
「引き込み線があって、奥には大きなストレート屋根の車庫があった。ずいぶん大きな車庫であった。
電車が何十台も入っていた。そこを電車が出たり入ったりしていた。そこの出口のところに、事務所と車掌と運転手の溜り場があった。」
「ここを走っている電車はボギー車で、西武鉄道や京王電車の車輌よりはるかに大きい。」
「ほてい屋の隣にあった市電の車庫の思い出である。」
昭和六年に、その敷地全体が買収され、昭和八年に伊勢丹が建ちます。
伊勢丹はもともと神田旅籠町にあり、「帯は伊勢丹」というほど名の通った呉服店だったんですが、震災で丸焼けになり、大正十三年に旅籠町に百貨店形式の新築店をオープン、昭和三年に同じ場所に地下1階地上4階の店を完成させデパートへの脱皮を始める。
しかし、神田ではそろそろ場所が悪く、中央線と山手線の全通電化によって神田は交通の「穴」となり、震災の影響で下町人口が郊外へ流出、しまいには最寄り駅だった万世橋駅が廃駅になってしまって、どうしても新しい場所探しが必要となった。ゆえに新宿進出を決めたんだとか。
「隣がほてい屋で、同じデパートが二つ並ぶという異様な進出であった。異様というよりは常識はずれの進出であった。」
「こんな立派な建物を建てるのに、ほてい屋との間が常識はずれに狭い。こんなことが許されるのだろうか。」
「後に、伊勢丹がほてい屋を買収する。買収して二つの建物を一つにする。その工事で大して手なおしもしないで、両方の無駄な壁面をぶちぬいて、二つを一つにした。」
「中を歩きながらなにも不自然を感じなかった。」
これは、伊勢丹の方でほてい屋の図面を手に入れて、それに合わせて建てたためだったそうです。買収を見越して、それがすんだ暁には建物を一つにする。
ほてい屋は昭和二年十月株式会社に改組、昭和四年増築工事が完了したものの、
昭和五年に社主の西条氏が自殺をし、それを女社長が引き継ぐが、素人のため経営がうまくいかない、それで昭和六年、松屋の内藤彦一常務が伊勢丹に話を持ちかけて、あの土地を買ったらどうかという。合併はほてい屋が抵抗をしたので、その時点ではせず、昭和六年に土地を買って、隣に建物を建てた。
それに対抗してほてい屋もいろいろするものの、昭和十年五月二十五日ついに不渡手形を出てしまい、伊勢丹に合併され、壁をぶち抜いて増設工事、完成させたのが昭和十一年でした。
この他にも、小田急が開通した頃に映画館の武蔵野館の新装館ができて、そこへ入り浸ったり、
ムーランルージュができて、そこの役者の先輩の飯代をもつかわりに観劇したり、
山の手文化を満喫しまくっている。
はては玉川学園の出版部に就職して、小原国芳と学園との確執を目の当たりにする。
「そこで、まさかの小原国芳かーーーーー!! ;゜ロ゜)」と。
小田急の歴史に成城学園都市や玉川学園ははずせませんもんね。
そこでの内部のごたごたも、少し書いてありました。
やはり、昭和に入ってからは満州事変なども起こり、昭和一桁年代でもすでに戦時統制がはじまり出していたようです。不況もありますが、昭和七年の電鉄界の統制もあながち、戦争の影響を受けていない訳でもなさそう。その「雰囲気」があるかがこの場合、大事。
そして新宿が発展するにつれて、やたらと銀座を基準に張り合っているのも面白い。
当時の感覚だと銀座が首位で、新宿がそれを追い上げている感覚だったらしい。
それと、汽車の客(遠出)と、電車の客(近郊)を区別してみているところも今とちがう感覚。
中央線の電化がまだ中野とかそこいらだから、「汽車の客」は八王子か立川か、行商のため大きな荷物で汽車を待っている。新本屋の新宿駅には居心地のいい待合室があり、中学生時分はそこで利用客を観察するのが好きだったらしい。
年表でみている限りではたんなる横の糸だったものが、人の視点を借りることで縦糸が通った気持ちです。
この本は多少、文献や内部情報などで補完されていますが、内容はオーラルヒストリー系ですね。
記憶が頼りなので正確ではないけれども、意外な情報が載ってたりして、他に代え難いものがあります。
そしてなにがしかの筋が通っているから、気持ち的にも理解がしやすい。
「ボクは人間の記憶というものの、恐ろしいまでの恣意性におどろいている。実に都合のいい思いちがいをしたものだ」と、著者自身、その曖昧さを自覚しているとおり、オーラルヒストリーでは欠けた記憶を恣意性によって補完するので、参照するには注意が必要です。
効率性を求めるんなら、データ系なんでしょうけど、小難しくて感情に乏しいデータ系よりは、こっちのが私は好きですね。心にも残りやすい。そこを足場にデータ求めていってもいいじゃない!
あまり数はないので、個人的な需用にぴったりと合うものにあたると大変嬉しいです。
(「新宿駅が二つあった頃」阿坂卯一郎/第三文明社/昭和六十年五月発行)
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