たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
先週、まとめるのをさぼってしまったので、今日こそはと。
以下はイベントの時に本と一緒に配ったレジメの一部で、
「みっちゃんぷろじぇくと」のなかでも大元の記事です。
もう内容はほぼこれの引用といっていいかと。
日付は、三土鉄道大臣が三社を官邸に招致して合同を説いた翌々日のものとなります。
「三電鉄合同は議会後実現 玉川、目蒲等も第二次参加し 関西でも合同促進せん」
昭和七年八月二十八日(日曜日) 読売新聞
京成、王子及び京王の三電鉄会社の合同問題が具体化する時期は当事者の口吻に依れば
早くも議会閉会後で実現の能否は来月中旬と予測してゐる、合同の難点は普通の合同の例に漏れず重役の振当上から生ずる人事関係と合併比率の割当が先づ指摘されるが
更に右三社の内京成と王子電車は資本系統は同じく川崎系であり且つ実権を握っている
現重役も亦川崎の代表者と看做し得るので問題ないのみならず所要電力も挙げて東電から供給されてゐる
即ち王子は一万二千キロ京成は七千キロ全部東電から受電してゐる
然に京王は所要電力七千キロ(外に三百キロは東電から受電)は東電の競争会社日電から受電してゐるのみならず川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず
他の主力株は合併反対の傾向にある井上社長を擁護する地元関係である、
従って合併の最難点は人事関係と合併比率よりも周囲の事情から京成と王子に対する京王電車の向背にある
併し乍ら該合併計画は当事者一部の間には多年協議されてゐた事柄で最近には大勢上から見て
機熟し然も形式上とは言ひ乍ら三土鉄相が慫慂せるを考慮に入れると十分実現の可能性がある、
右三電鉄が合同された暁には東京郊外電車としては競争線たる玉川、目蒲及び東横の各電鉄会社も第二次的合同に参加するものと思はれ関西に於ては床次鉄相在職時代計画されてゐた阪急(小林一三)阪神(堀啓次郎)と宇治電系の兵庫電気軌道、大軌と大鉄、南海と阪和各並行線路を有する電鉄会社の合同を促進するものと思はる
「不景気がとり持って郊外電鉄の合併、熟す 四電鉄は年内に 他の三組も交渉中」
昭和四年一月十一日(金曜日) 読売新聞
東京付近の電鉄 会社は既に行詰りに達してゐるものが多く局面展開策として他会社と合併連絡して新生面を開き且経営を節約するのを得策とするが鉄道省でも私鉄の合同を慫慂してゐる為に合併気運が相当熟して来た模様で、就中資本系統に於て共通した点が多い京王、京成、王子、玉川の四電鉄は合併の可能性最も多く既に具体的の相談も行はれたことがあるので今年度中には合併談が進捗して実現するに到るかと観られてゐる
尚其他に合併談の交渉が行はれてゐるのは京浜電気鉄道と目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄、
東京横浜電鉄と湘南電気鉄道の三組がある模様でこの合併談は
電鉄界の不景気に 連れて益々その必要に迫られるので何れ近く実現されるものとして注目されてゐる
川崎系電鉄合同については、前に載せた記事と上の記事からも分かるように、昭和3、4年代から話はあったものの、一番本格的な動きを見せたのが、昭和7年の三土鉄相の時代であって、しかも、電鉄界の統制については、それ以前の床次鉄相のころから、準備がすすめられていたことがわかります。
昭和4年の記事の段階では玉川も含めた4社合同になってますが、昭和7年の合同ではなぜか外されています。(仲間はずれ/笑)
う~んと、気になるのは王子・京成は問題なく川崎系だけど、京王はちょっと違うみたいな書き方をされている所。
「右三社の内京成と王子電車は資本系統は同じく川崎系であり且つ実権を握っている」
「即ち王子は一万二千キロ京成は七千キロ全部東電から受電してゐる」が
「京王は所要電力七千キロは東電の競争会社日電から受電してゐる」
「川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず」
などのところが合同の話が進捗しない「京王電車の向背」の要因として挙げられています。
あいかわらずの、京王様様です。
まあ、一番の要因は、井上さんが合同に反対しているからなんでしょうけど。
京成・王子・京王の三社の中で、川崎財閥の支配力が最も顕著なのは京成であり、
それは社史からもあきらかなのですが、他の二社に関しては、その影響が不明で(汗)
王子の社史では一度だけ「川崎貯蓄銀行」の名が見えますが、文脈から見て主流資本とはとてもいえないかんじです。
「大正15年に東邦電力系の東京電力(今の東電とは別会社)が進出し、それまでの王子株の主流、大正生命(鈴木商店)及び森村銀行系(富士瓦斯紡績)の株の肩替わりを行って、東京電灯との競争の一手段としたものの、昭和3年4月に東京電灯が東京電力を合併、しかし王子の株は東京電灯に渡らず、そのまま東邦電力のもとに残されたので、王子社内には、東電系、東邦系、大正生命系の3大資本系統を有することとなった」とあるように、昭和初期の王子の主力株主は電力会社です。
京王に関しては、社史に資本の言及がありません(汗)
が「株式年鑑 昭和7年度」を見てみると、以下のように上位大株主にかなりの川崎系会社の名前がみてとれます(黄色字)
その関係でしょうが、後藤国彦さんが取締役に、高梨博司さんが監査役に就いています。
====================================
(p600)京王電気軌道 東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷1045
設立 明治43年9月21日(設立資本金125万円)
資本金 1290万円(内払込1030万円)
株数 旧株 12万8000株(額面50円払込済)
新株 13万株(30円払込)
重役 社長兼専務・井上篤太郎、取締役・金光庸夫、渡辺嘉一、磯田正朝、後藤国彦、木村篤太郎、
井上平左衛門、兼理事・渡辺 孝、青木重匡、常任監査役・二見満次郎、
監査役・宮本政次郎、高梨博司、芹澤新平、相談役・植村俊平
期末株主数 昭和6年11月末 1571名 同年5月末 1558名
大株主名 大正生命4万0095 川崎貯蓄2万0060 川崎信託9700
平沼久三郎5880 日華万歳4900 帝国生命3770
井上篤太郎3100 日本医師共済生命3000 山口恒吉2830
新日本火災海上2572 芹澤新平2315
購入電力 玉川電気鉄道400キロ 日本電力6500キロ
====================================
しかし、上に見る川崎系会社の合計株数は、3万4660株であり、
これでは第1位の大正生命の4万株にも届いていません。
それに新日本火災海上は大正生命とおなじく、もと鈴木商店系の保険会社なので、
これらを併せると、4万2667株になります。
ちなみに、京成と王子の株式はこう。
====================================
(p596) 京成電気軌道 東京市本所区向島押上町203
設立 明治42年7月30日(創立資本金150万円)
資本金 2025万円(内払込 150万0円)
株数 旧株10万5000株(額面50円 払込済)
第二新株10万株(42円50銭払込)
第三新株20万株(27円50銭払込)
(12年4月1日12円50銭払込)
重役 社長・本多貞次郎、常務・後藤国彦、取締役・上原鹿造、利光丈平、大井田瑞足、監査役・井上敬次郎、大塚 尚、
期末株主数 昭和6年11月末 2276名 同年5月末 2236名
大株主名 千歳商会4万 川崎貯蓄1万8588 本多合資1万8221
千葉合同銀行1万3779 日華万歳生命1万3730 日本火災7840
平沼久三郎6750 河野 通5228 大正生命5000
第一徴兵5000 国華徴兵3970
販売電力 5995馬力(上期) 5788馬力(下期)
(p598) 王子電気軌道 東京市北豊島郡西巣鴨町965
設立 明治43年4月23日(創立資本金100万円)
資本金 1400万円(内払込837万5000円)
株数 旧株 13万株(額面50円払込済)
新株 15万株(12円50銭払込)
重役 社長・金光庸夫、常務・小平保蔵、取締役・広橋嘉七郎、井上篤太郎、田村周蔵、佐々田懋、松永安左衞門、後藤国彦、監査役・宇都宮政市、宮川竹馬
期末株主数 昭和6年11月末 901名 同年5月末 898名
大株主名 東邦證券7万3500 東電證券4万5200 大正生命3万8580
日本教育生命1万0800 宇都宮合名6480 佐々田合名3550
日本医師共済生命2500 國光生命2500 日ノ出商会2470
石崎丈太郎2400 日本昼夜銀行2300 佐々田懋2200
千澤専助2100 千葉合同銀行2090 生保證券1820
====================================
京成においては、やはり川崎系の所有株数が圧倒的で、合計すると9万7907株。(1/4位)
対して王子は千葉合同銀行の2090株くらいで、浅野系の日本昼夜銀行よりも少ない。
かわりに、1位が東邦電力で2位が東京電灯で、3位が大正生命。
では、なぜ王子が「問題なく川崎系」なのかというと、これはもしかしてもっと単純な図式で、
「東京電灯の社長が郷誠之助氏だから」なのではないかと、最近思い至りました。
郷さんが川崎家の為に東京電灯をどうこうするようには思わないのですが、
当時の一般的な見解は、郷氏=川崎系だったのかもしれないですよね。oh…うっかり。
ついでに、東京電灯の株式は以下のよう。
====================================
(p582) 東京電灯 東京市芝区桜田本郷町23
設立 明治16年2月(創立資本金20万円)
資本金 4億2956万2000円(全額払込済)
株数 859万1240株(額面50円払込済)
重役 社長・郷誠之助、副社長・小林一三、常務・五十嵐直三、太刀川平治、本間利雄、鈴村秀三、
取締役・廣瀨為久、河西豊太郎、大橋新太郎、松永安左衞門、
常任監査役・伊東三郎、監査役・萩原拳吉、宮口竹雄
期末株主数 昭和6年11月末 6万1732名 同年5月末 6万1114名
大株主名 東電證券106万7899 東邦證券37万3196 東邦電力13万5000
雨宮保全10万9515 東信電気7万6406 岩崎久弥6万1030
安田保善社4万9508 山口誠太郎3万5000 田島合名3万3647
第一徴兵3万3070 三井合名3万1415 板谷定吉3万0940
小野耕一3万0936 大森慶次郎2万9744 安田銀行2万9567
三井信託2万7716 大森國平2万6709 安田貯蓄2万5300
帝国生命2万5243 穴水合名2万4986
====================================
「大株主」覧のなかには川崎系らしき会社の名前は見当たりませんね。
かわりに安田財閥系の名前がちらほらと、三菱(岩崎)と三井系もいますね。
第一徴兵は根津系かな、小野耕一さんは小野金六さんの息子さんでこの辺が甲州財閥の残りかと。
やはり川崎財閥が東京電灯に影響を及ぼすとしたら、郷さんを通じてしかなさそうですね。
京王が、昭和6年12月に、契約満了を以て、東京電灯から日本電力に受電先を替えているのが、タイミング的に面白い所です。
新聞で、京王が日電から受電していることも、合同の妨げになっている様な書き方をしているのは、この郷さんの影響のことをいっているのかもしれませんね。
京王電鉄30年史にはこの点について「これは契約更改時になっていたほかに、電力購入料金についての東京電灯側の値上げ要求(1キロあたり1銭)が、話合いで調整をみなかったからといわれる。」と書いてあり、ただの偶然かも知れませんが、本当のところは分かりません。
ただし、(外に三百キロは東電から受電)している、というのは恐らく「荒玉水道町村組合への供給分については、東京電灯から引き続き受電した」ための分だと思われます。
でも、川崎が電力事業にまったく投資してなかったというわけではなく、
昭和5年発行の「日本財閥の解体」(高橋亀吉 著/中央公論社)によると、
~川崎財閥には、その金融業を通じて吸収した資金を如何に運用するかと云ふ問題が、
当然起きて来る。…川崎には提携して立つ程の事業家もなければ、その巨額な金融資本を活用し得る程の事業を、川崎自らも経営して居らぬ。そこで従来は、その事業の安固にして収益の確実な点から、専ら電力事業にその資本を投じて来た(だが単なる収益目的の投資だった)。然るに電力界に漸く電力過剰時代が出現し、競争が激化し、前途不安の念が増大して来たので、その資本を電力界から電車界に移動させた。
而して電車事業に投資を始めると共に、後藤國彦をその方面の総司令官にして、川崎の対投資態度が頗る積極的になってきた。…斯くて現在その支配権を獲得したものに京成電軌と池上電鉄があり、準支配権を獲得したものに京王電軌がある。
殊に最近では川崎が中心となって、東京近郊電車会社中の有力なものを合併させることに依って、無益な競争を避けて、投下資本の収益率を高めんとする運動が著々進捗しつつある。~
と解説されて、川崎が鉄道に投資し始めた原因を、電力供給過剰による電力会社の競争激化の情勢によるとしています。
川崎家が昭和金融恐慌を境に台頭してきたのには、先代の川崎八右衛門当主が、それまで消極経営をしていて、政商と呼ばれるような遣り方も避けてきたため、恐慌の損失を免れていたこと、しかも当主が代替わりして積極経営に転じ、井上準之助に目を付けられ第百銀行という大銀行と合併を果たして、負債を負う代わりに上等の得意先を獲得出来た点などがあるようです。
事業規模が拡大するにつれて、川崎家だけではまかなえずに、顧問格の郷さんを通じて採用したのか、河合良成や後藤國彦などの番頭格がそれぞれの事業を担当するようになります。そしてそれを、川崎家を補佐するかんじで高梨さんが監視する役目だったようです。以下は再び「日本の財閥」より。
~ 川崎財閥は、その支配下の銀行会社に対し別に整った統制法を未だ有せず、
単にその信任する番頭連を差遣して、之に一切の権限を委ねて居る。而して
番頭連に対する監視役としては、八右衛門自身これに当り、足らざる所は
高梨博司をして補はさせて居る。従って高梨は川崎財閥の参謀長格である。
尤も、高梨の先輩には杉浦甲子郎が居るが、これは単に川崎子飼ひの長老で、
今日その実際の仕事は若手に委かしてゐる。而して爾余の番頭連には、
夫々その受持部分がある。例へば河合鐵二は銀行を、山崎清は損害保険を、
河合良成は生命保険を、後藤國彦は電鉄をと云ふ工合だ。~
つまり、電車業に関してはまとめて後藤さんが担当だった訳ですね。
ともなればやっぱり、合同運動の最大主力は川崎代表の後藤さんだったんでしょう。
以下の後藤さんのインタビュー記事がありました。
「電鉄合同は未だ進まぬ 後藤京成専務談」 昭和七年十月十四日(金曜日) 読売新聞
王子京成京王三電鉄の合同問題に後藤京成専務は左の如く語った
合同問題は京成としても自分が病気してゐる関係から進まず王子としても態度未定である、従って合同の成否も明確を欠き合併比率、重役の顔触れ等は未だ問題になる処まで行ってゐない
ちなみに、他の電鉄会社で川崎と関係がありそうなのが以下。
====================================
(p611) 池上電気鉄道 東京市京橋区銀座8丁目1
事務所 東京市外大崎町五反田272
設立 大正6年10月23日(創立資本金40万円)
資本金 700万円(内払込305万1250円)
株数 旧株 1万8500株(額面50円払込済)
新株 12万1500株(17円半払込)
重役 社長・中島久万吉、専務・後藤国彦、取締役・益田元亮、金光庸夫、高橋熊三、上原鹿造、野村 孝、
常任監査役・高梨博司、監査役・立石知満
期末株主数 昭和6年11月末 1373名 同年5月末1367名
大株主名 日華生命3万4265 日本火災3万3364 大正生命1万7140
日本教育生命5000 内海頴二2300 後藤国彦2000
中島久万吉2000 林 磯吉2000 天春虎一2000
計画線 五反田ー品川
中延ー池上
自動車線 品川駅前ー丸子多摩川
大森駅前ー池上駅前
(p610) 西武鉄道 東京市京橋区五郎兵衛町10
仮事務所 東京府豊多摩郡淀橋町角筈
設立 大正11年8月15日(創立資本金600万円)
資本金 1300万円(内払込810万円)
株数 旧株 12万株(額面50円払込済)
新株 14万株(15円払込)
重役 社長・岡野 昇、取締役・根津嘉一郎、大川平三郎、諸井四郎、脇田貞三、綾部利右衛門、山崎覚太郎、
監査役・後藤国彦、斎藤 力
期末株主数 昭和6年11月末 2121名 同年5月末 2085名
大株主名 大川合名6300 斎藤長八郎6100 大正生命5370
根本秀太郎4130 千葉利雄3687 綾部利右衛門3500
岡野 昇3250 山崎嘉七3010 国華徴兵2700
東京動産輔兼2650 根津合名2600 脇田貞三2500
計画線 早稲田線(早稲田ー高田馬場)
立川線(新宿ー立川)
(p602) 玉川電気鉄道 東京府豊多摩郡渋谷町大和田1
設立 明治36年10月10日(創立資本金40万円)
資本金 1250万円(内払込725万円)
株数 旧株 11万株(額面50円 払込済)
新株 14万株(12円50銭払込)
重役 社長・平沼亮三、常務・鵜飼重雄、取締役・井上篤太郎、金光庸夫、村瀬末一、
監査役・金澤冬三郎、後藤国彦
期末株主数 昭和6年11月末 978名 同年5月末 966名
大株主名 内国貯蓄銀行2万8284 日本徴兵2万3299 千代田生命2万500
大同大地1万5466 大正生命9176 新日本火災7040
北川日出二郎4910 目黒蒲 田電鉄4500 帝国生命4000
門野幾之進3000 大塚録二2400 徳川達孝2000
販売電力 5227馬力(上期) 5993馬力(下期)
====================================
池上は京成に次ぐ、川崎の直系電鉄会社といってよく、大株主の内訳も納得ですが、
西武(武蔵野鉄道と合併前の)と、玉川にも後藤さんが監査役として参加しています。
そして、これまで見てきて当然気になってくるのが、川崎以上にどの電鉄会社にも大株主として名を連ねている大正生命の存在です。
生命保険会社ですから、投資先として鉄道を有力視するのはあるとおもいますが、しかしその投資先のどれにも後藤さんの名前があるのは気になる所です。
大正生命は金光庸夫さんが鈴木商店をバックに設立した会社で、京王や王子などとは大正時代からの関わりであり、川崎よりも関係は古いです。
しかし、昭和恐慌の中、鈴木が破綻して、その後ろ盾を失った後どうしたのかがよく分かりません。株式年鑑にも途中から記載されなくなってしまいます。
可能性としては、恐慌を機に台頭した川崎財閥系に頼ったというのがありそうですが、
川崎と大正生命が支配関係にあったかどうかは、まだわかりません。
大正14年発行の「財界の名士とはこんなもの?」には、金光庸夫氏について、
~◇従来の経歴を見れば直ぐ分かる事であるが、彼れは明治十年生れ本年とって四
十九歳の働き盛りである。既に政界に於ても相当成功の域に達し、多年下院に席
を置き政友本党の幹事迄勤め上げたものである。又実業界に於ては南武鉄道帝国
石油王子電気等の重役を兼ね、何処に於ても用ひるに足る事を示して居る。
◇即ち山本系かと見れば後藤系と気脈を通じ、浅野系かと見れば鈴木系と握手す
る等、玄妙自在の変通振りを発揮して其間毫も無理らしき痕跡を留めない。さり
とて彼れの方から進んで権勢富貴に接近したと云ふ訳でなく、寧ろ反対に彼れを
利用せんとする分子の多い事は、彼れの有為の材である事を立証するものであ
らねばならぬ。~
とあり、あらゆる財閥と関係をもっていたようです。
浅野系とも関わりがあるから、南武鉄道の重役にもなっていたんでしょうか。
大正14年というと、南武線開通前であり、この頃の南武の大株主に京王と玉川もいて、
井上さんも取締役などになっていたはずなので、どちらの関わりからなのかはよく分かりません。
また昭和13年発行の「非常時財界の首脳」では
~ 大正二年太陽生命を辞すると共に、鈴木を中心にして大正生命を創立し、その専務として財界
の本舞台に登場し、鈴木商店の関東鎮台たる地位についた。
財界パニックに依って大鈴木が没落の惨運に於かれた時、その後援を得てゐる氏の関係事業も
破産を免かれないの如く噂され、大正生命も余程の打撃は受けたものの、
流石は後年の大政治家だけあって、秘策と辣腕を思ふ存分ふり廻して難局を反って
有利に転換し、より以上成績を向上させた程であった。~
と書かれています。「秘策」とはなんなのか、それについての記述はないですが、
やはり鈴木を失って危機的状況になったのは確かなようです。
また、神戸の鈴木商店が、「関東鎮台」として大正生命を扱っていたというのも、大正時代に、東京方面の事業に進出する足場になっていたことを窺わせます。
金光さん自身は「中庸の徳」でどこからも頼りにされ、またその信頼に応える力のある人、という評価で、京王の穴水系との交代の間の社長も務めておりなにかと「中立的な立場の人」だったのではないかと思います。
後藤さんのインタビュー記事でも合併に関して「王子(金光氏社長)としても態度未定である」とあるように、必ずしも川崎とまったく同調していたともいいがたいようです。
しかし、「川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず」という文言が気になる所です。京王の株が旧株12万8000株、新株13万株の総数25万8000株だとすると、大株主覧にみる川崎系の株数3万4660株では不足で、大正生命系の4万2667株を足して、漸く「1/3」位の比率になります。
問題は、世間一般が大正生命を=川崎系と見なしていたかどうかです。
それによって、これまで見てきた川崎系の電鉄への影響力もだいぶ違った見方になってくると思うのです。
私は、はじめ、川崎と大正生命は別カウントだと思っていました。そう思った根拠は、
「京王グループの系譜」(小川功)において、
~従来「つつましくして居った」「京王の経営方針が随分変って」「積極策を執った」のは、
この頃京王自体の資本系統が昭和9年3月京王取締役に就任した穴水熊雄率いる
北海道電灯(9年5月では筆頭株主の大正生命40105株に次ぐ36080株を保有する
京王の第二位の大株主、大日本電力と改称)に組み込まれたという「経営陣の変更と
共に」生じた急激な転換であった~
とあるように、川崎が所有していた4万株(よりは実際は少ないか)を後の大日本電力の穴水氏に渡しているときも、大正生命はあいかわらず第一位の地位にとどまっているような書き方をされていたからです。
実際そうなのでしょうが、昭和13年頃の京王の株主名簿には、大正生命のたの字も見いだせません。
綺麗さっぱり居なくなっているのです。
「株式年鑑」の昭和12年度では大正生命4万0105株、北電興業3万8130株、大日本電力8830株、で第2位第3位が穴水株で、併せると一位の大正生命を凌いでいます。
京王の社長も、穴水熊雄氏が就任済です。
それが昭和13年度になると、北電興業が9万5749株の第一位株主となり、
大正生命の名前は消えているのです。
総株数は25万8000株で動いてませんから、大正生命が北電興業に株を譲って消えたということでしょう。社長の座を金光氏が退いたためだと思いますが、具体的に何があったのかはわかりません。
新聞で見る、大正生命のうごきとしては、昭和15年2月10日付けの読売に以下のような記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」
昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき交渉中のところこの程
譲渡価格約七百万円(会社株式、所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会において考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが
実質的には協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の保険運営を立体とする
今後の活動は組合自体の新発展段階を指示するものとして大いに注視されるとともに
保険業界に与へる波紋も極めて重大なるものがある、
しかして問題の突破に驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
産業組合が保険業に進出するにあたって、金光さんの経営する保険会社を買い取ろうというもの。
ここにきて、何故金光さんが自分の会社を売ろうとしたのかは分かりませんが、
何か重大な転換期だったんでしょうか。ちなみにこの買収は実現には至りません。
有馬頼寧さんというと、京王が買収して結局廃線にした武蔵中央電気鉄道の取締役だった人というのも、面白い縁ですね。
なにはともあれ、後藤さんと金光さんの関係については、もうすこし精査していきたいところです。
以下はイベントの時に本と一緒に配ったレジメの一部で、
「みっちゃんぷろじぇくと」のなかでも大元の記事です。
もう内容はほぼこれの引用といっていいかと。
日付は、三土鉄道大臣が三社を官邸に招致して合同を説いた翌々日のものとなります。
「三電鉄合同は議会後実現 玉川、目蒲等も第二次参加し 関西でも合同促進せん」
昭和七年八月二十八日(日曜日) 読売新聞
京成、王子及び京王の三電鉄会社の合同問題が具体化する時期は当事者の口吻に依れば
早くも議会閉会後で実現の能否は来月中旬と予測してゐる、合同の難点は普通の合同の例に漏れず重役の振当上から生ずる人事関係と合併比率の割当が先づ指摘されるが
更に右三社の内京成と王子電車は資本系統は同じく川崎系であり且つ実権を握っている
現重役も亦川崎の代表者と看做し得るので問題ないのみならず所要電力も挙げて東電から供給されてゐる
即ち王子は一万二千キロ京成は七千キロ全部東電から受電してゐる
然に京王は所要電力七千キロ(外に三百キロは東電から受電)は東電の競争会社日電から受電してゐるのみならず川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず
他の主力株は合併反対の傾向にある井上社長を擁護する地元関係である、
従って合併の最難点は人事関係と合併比率よりも周囲の事情から京成と王子に対する京王電車の向背にある
併し乍ら該合併計画は当事者一部の間には多年協議されてゐた事柄で最近には大勢上から見て
機熟し然も形式上とは言ひ乍ら三土鉄相が慫慂せるを考慮に入れると十分実現の可能性がある、
右三電鉄が合同された暁には東京郊外電車としては競争線たる玉川、目蒲及び東横の各電鉄会社も第二次的合同に参加するものと思はれ関西に於ては床次鉄相在職時代計画されてゐた阪急(小林一三)阪神(堀啓次郎)と宇治電系の兵庫電気軌道、大軌と大鉄、南海と阪和各並行線路を有する電鉄会社の合同を促進するものと思はる
「不景気がとり持って郊外電鉄の合併、熟す 四電鉄は年内に 他の三組も交渉中」
昭和四年一月十一日(金曜日) 読売新聞
東京付近の電鉄 会社は既に行詰りに達してゐるものが多く局面展開策として他会社と合併連絡して新生面を開き且経営を節約するのを得策とするが鉄道省でも私鉄の合同を慫慂してゐる為に合併気運が相当熟して来た模様で、就中資本系統に於て共通した点が多い京王、京成、王子、玉川の四電鉄は合併の可能性最も多く既に具体的の相談も行はれたことがあるので今年度中には合併談が進捗して実現するに到るかと観られてゐる
尚其他に合併談の交渉が行はれてゐるのは京浜電気鉄道と目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄、
東京横浜電鉄と湘南電気鉄道の三組がある模様でこの合併談は
電鉄界の不景気に 連れて益々その必要に迫られるので何れ近く実現されるものとして注目されてゐる
川崎系電鉄合同については、前に載せた記事と上の記事からも分かるように、昭和3、4年代から話はあったものの、一番本格的な動きを見せたのが、昭和7年の三土鉄相の時代であって、しかも、電鉄界の統制については、それ以前の床次鉄相のころから、準備がすすめられていたことがわかります。
昭和4年の記事の段階では玉川も含めた4社合同になってますが、昭和7年の合同ではなぜか外されています。(仲間はずれ/笑)
う~んと、気になるのは王子・京成は問題なく川崎系だけど、京王はちょっと違うみたいな書き方をされている所。
「右三社の内京成と王子電車は資本系統は同じく川崎系であり且つ実権を握っている」
「即ち王子は一万二千キロ京成は七千キロ全部東電から受電してゐる」が
「京王は所要電力七千キロは東電の競争会社日電から受電してゐる」
「川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず」
などのところが合同の話が進捗しない「京王電車の向背」の要因として挙げられています。
あいかわらずの、京王様様です。
まあ、一番の要因は、井上さんが合同に反対しているからなんでしょうけど。
京成・王子・京王の三社の中で、川崎財閥の支配力が最も顕著なのは京成であり、
それは社史からもあきらかなのですが、他の二社に関しては、その影響が不明で(汗)
王子の社史では一度だけ「川崎貯蓄銀行」の名が見えますが、文脈から見て主流資本とはとてもいえないかんじです。
「大正15年に東邦電力系の東京電力(今の東電とは別会社)が進出し、それまでの王子株の主流、大正生命(鈴木商店)及び森村銀行系(富士瓦斯紡績)の株の肩替わりを行って、東京電灯との競争の一手段としたものの、昭和3年4月に東京電灯が東京電力を合併、しかし王子の株は東京電灯に渡らず、そのまま東邦電力のもとに残されたので、王子社内には、東電系、東邦系、大正生命系の3大資本系統を有することとなった」とあるように、昭和初期の王子の主力株主は電力会社です。
京王に関しては、社史に資本の言及がありません(汗)
が「株式年鑑 昭和7年度」を見てみると、以下のように上位大株主にかなりの川崎系会社の名前がみてとれます(黄色字)
その関係でしょうが、後藤国彦さんが取締役に、高梨博司さんが監査役に就いています。
====================================
(p600)京王電気軌道 東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷1045
設立 明治43年9月21日(設立資本金125万円)
資本金 1290万円(内払込1030万円)
株数 旧株 12万8000株(額面50円払込済)
新株 13万株(30円払込)
重役 社長兼専務・井上篤太郎、取締役・金光庸夫、渡辺嘉一、磯田正朝、後藤国彦、木村篤太郎、
井上平左衛門、兼理事・渡辺 孝、青木重匡、常任監査役・二見満次郎、
監査役・宮本政次郎、高梨博司、芹澤新平、相談役・植村俊平
期末株主数 昭和6年11月末 1571名 同年5月末 1558名
大株主名 大正生命4万0095 川崎貯蓄2万0060 川崎信託9700
平沼久三郎5880 日華万歳4900 帝国生命3770
井上篤太郎3100 日本医師共済生命3000 山口恒吉2830
新日本火災海上2572 芹澤新平2315
購入電力 玉川電気鉄道400キロ 日本電力6500キロ
====================================
しかし、上に見る川崎系会社の合計株数は、3万4660株であり、
これでは第1位の大正生命の4万株にも届いていません。
それに新日本火災海上は大正生命とおなじく、もと鈴木商店系の保険会社なので、
これらを併せると、4万2667株になります。
ちなみに、京成と王子の株式はこう。
====================================
(p596) 京成電気軌道 東京市本所区向島押上町203
設立 明治42年7月30日(創立資本金150万円)
資本金 2025万円(内払込 150万0円)
株数 旧株10万5000株(額面50円 払込済)
第二新株10万株(42円50銭払込)
第三新株20万株(27円50銭払込)
(12年4月1日12円50銭払込)
重役 社長・本多貞次郎、常務・後藤国彦、取締役・上原鹿造、利光丈平、大井田瑞足、監査役・井上敬次郎、大塚 尚、
期末株主数 昭和6年11月末 2276名 同年5月末 2236名
大株主名 千歳商会4万 川崎貯蓄1万8588 本多合資1万8221
千葉合同銀行1万3779 日華万歳生命1万3730 日本火災7840
平沼久三郎6750 河野 通5228 大正生命5000
第一徴兵5000 国華徴兵3970
販売電力 5995馬力(上期) 5788馬力(下期)
(p598) 王子電気軌道 東京市北豊島郡西巣鴨町965
設立 明治43年4月23日(創立資本金100万円)
資本金 1400万円(内払込837万5000円)
株数 旧株 13万株(額面50円払込済)
新株 15万株(12円50銭払込)
重役 社長・金光庸夫、常務・小平保蔵、取締役・広橋嘉七郎、井上篤太郎、田村周蔵、佐々田懋、松永安左衞門、後藤国彦、監査役・宇都宮政市、宮川竹馬
期末株主数 昭和6年11月末 901名 同年5月末 898名
大株主名 東邦證券7万3500 東電證券4万5200 大正生命3万8580
日本教育生命1万0800 宇都宮合名6480 佐々田合名3550
日本医師共済生命2500 國光生命2500 日ノ出商会2470
石崎丈太郎2400 日本昼夜銀行2300 佐々田懋2200
千澤専助2100 千葉合同銀行2090 生保證券1820
====================================
京成においては、やはり川崎系の所有株数が圧倒的で、合計すると9万7907株。(1/4位)
対して王子は千葉合同銀行の2090株くらいで、浅野系の日本昼夜銀行よりも少ない。
かわりに、1位が東邦電力で2位が東京電灯で、3位が大正生命。
では、なぜ王子が「問題なく川崎系」なのかというと、これはもしかしてもっと単純な図式で、
「東京電灯の社長が郷誠之助氏だから」なのではないかと、最近思い至りました。
郷さんが川崎家の為に東京電灯をどうこうするようには思わないのですが、
当時の一般的な見解は、郷氏=川崎系だったのかもしれないですよね。oh…うっかり。
ついでに、東京電灯の株式は以下のよう。
====================================
(p582) 東京電灯 東京市芝区桜田本郷町23
設立 明治16年2月(創立資本金20万円)
資本金 4億2956万2000円(全額払込済)
株数 859万1240株(額面50円払込済)
重役 社長・郷誠之助、副社長・小林一三、常務・五十嵐直三、太刀川平治、本間利雄、鈴村秀三、
取締役・廣瀨為久、河西豊太郎、大橋新太郎、松永安左衞門、
常任監査役・伊東三郎、監査役・萩原拳吉、宮口竹雄
期末株主数 昭和6年11月末 6万1732名 同年5月末 6万1114名
大株主名 東電證券106万7899 東邦證券37万3196 東邦電力13万5000
雨宮保全10万9515 東信電気7万6406 岩崎久弥6万1030
安田保善社4万9508 山口誠太郎3万5000 田島合名3万3647
第一徴兵3万3070 三井合名3万1415 板谷定吉3万0940
小野耕一3万0936 大森慶次郎2万9744 安田銀行2万9567
三井信託2万7716 大森國平2万6709 安田貯蓄2万5300
帝国生命2万5243 穴水合名2万4986
====================================
「大株主」覧のなかには川崎系らしき会社の名前は見当たりませんね。
かわりに安田財閥系の名前がちらほらと、三菱(岩崎)と三井系もいますね。
第一徴兵は根津系かな、小野耕一さんは小野金六さんの息子さんでこの辺が甲州財閥の残りかと。
やはり川崎財閥が東京電灯に影響を及ぼすとしたら、郷さんを通じてしかなさそうですね。
京王が、昭和6年12月に、契約満了を以て、東京電灯から日本電力に受電先を替えているのが、タイミング的に面白い所です。
新聞で、京王が日電から受電していることも、合同の妨げになっている様な書き方をしているのは、この郷さんの影響のことをいっているのかもしれませんね。
京王電鉄30年史にはこの点について「これは契約更改時になっていたほかに、電力購入料金についての東京電灯側の値上げ要求(1キロあたり1銭)が、話合いで調整をみなかったからといわれる。」と書いてあり、ただの偶然かも知れませんが、本当のところは分かりません。
ただし、(外に三百キロは東電から受電)している、というのは恐らく「荒玉水道町村組合への供給分については、東京電灯から引き続き受電した」ための分だと思われます。
でも、川崎が電力事業にまったく投資してなかったというわけではなく、
昭和5年発行の「日本財閥の解体」(高橋亀吉 著/中央公論社)によると、
~川崎財閥には、その金融業を通じて吸収した資金を如何に運用するかと云ふ問題が、
当然起きて来る。…川崎には提携して立つ程の事業家もなければ、その巨額な金融資本を活用し得る程の事業を、川崎自らも経営して居らぬ。そこで従来は、その事業の安固にして収益の確実な点から、専ら電力事業にその資本を投じて来た(だが単なる収益目的の投資だった)。然るに電力界に漸く電力過剰時代が出現し、競争が激化し、前途不安の念が増大して来たので、その資本を電力界から電車界に移動させた。
而して電車事業に投資を始めると共に、後藤國彦をその方面の総司令官にして、川崎の対投資態度が頗る積極的になってきた。…斯くて現在その支配権を獲得したものに京成電軌と池上電鉄があり、準支配権を獲得したものに京王電軌がある。
殊に最近では川崎が中心となって、東京近郊電車会社中の有力なものを合併させることに依って、無益な競争を避けて、投下資本の収益率を高めんとする運動が著々進捗しつつある。~
と解説されて、川崎が鉄道に投資し始めた原因を、電力供給過剰による電力会社の競争激化の情勢によるとしています。
川崎家が昭和金融恐慌を境に台頭してきたのには、先代の川崎八右衛門当主が、それまで消極経営をしていて、政商と呼ばれるような遣り方も避けてきたため、恐慌の損失を免れていたこと、しかも当主が代替わりして積極経営に転じ、井上準之助に目を付けられ第百銀行という大銀行と合併を果たして、負債を負う代わりに上等の得意先を獲得出来た点などがあるようです。
事業規模が拡大するにつれて、川崎家だけではまかなえずに、顧問格の郷さんを通じて採用したのか、河合良成や後藤國彦などの番頭格がそれぞれの事業を担当するようになります。そしてそれを、川崎家を補佐するかんじで高梨さんが監視する役目だったようです。以下は再び「日本の財閥」より。
~ 川崎財閥は、その支配下の銀行会社に対し別に整った統制法を未だ有せず、
単にその信任する番頭連を差遣して、之に一切の権限を委ねて居る。而して
番頭連に対する監視役としては、八右衛門自身これに当り、足らざる所は
高梨博司をして補はさせて居る。従って高梨は川崎財閥の参謀長格である。
尤も、高梨の先輩には杉浦甲子郎が居るが、これは単に川崎子飼ひの長老で、
今日その実際の仕事は若手に委かしてゐる。而して爾余の番頭連には、
夫々その受持部分がある。例へば河合鐵二は銀行を、山崎清は損害保険を、
河合良成は生命保険を、後藤國彦は電鉄をと云ふ工合だ。~
つまり、電車業に関してはまとめて後藤さんが担当だった訳ですね。
ともなればやっぱり、合同運動の最大主力は川崎代表の後藤さんだったんでしょう。
以下の後藤さんのインタビュー記事がありました。
「電鉄合同は未だ進まぬ 後藤京成専務談」 昭和七年十月十四日(金曜日) 読売新聞
王子京成京王三電鉄の合同問題に後藤京成専務は左の如く語った
合同問題は京成としても自分が病気してゐる関係から進まず王子としても態度未定である、従って合同の成否も明確を欠き合併比率、重役の顔触れ等は未だ問題になる処まで行ってゐない
ちなみに、他の電鉄会社で川崎と関係がありそうなのが以下。
====================================
(p611) 池上電気鉄道 東京市京橋区銀座8丁目1
事務所 東京市外大崎町五反田272
設立 大正6年10月23日(創立資本金40万円)
資本金 700万円(内払込305万1250円)
株数 旧株 1万8500株(額面50円払込済)
新株 12万1500株(17円半払込)
重役 社長・中島久万吉、専務・後藤国彦、取締役・益田元亮、金光庸夫、高橋熊三、上原鹿造、野村 孝、
常任監査役・高梨博司、監査役・立石知満
期末株主数 昭和6年11月末 1373名 同年5月末1367名
大株主名 日華生命3万4265 日本火災3万3364 大正生命1万7140
日本教育生命5000 内海頴二2300 後藤国彦2000
中島久万吉2000 林 磯吉2000 天春虎一2000
計画線 五反田ー品川
中延ー池上
自動車線 品川駅前ー丸子多摩川
大森駅前ー池上駅前
(p610) 西武鉄道 東京市京橋区五郎兵衛町10
仮事務所 東京府豊多摩郡淀橋町角筈
設立 大正11年8月15日(創立資本金600万円)
資本金 1300万円(内払込810万円)
株数 旧株 12万株(額面50円払込済)
新株 14万株(15円払込)
重役 社長・岡野 昇、取締役・根津嘉一郎、大川平三郎、諸井四郎、脇田貞三、綾部利右衛門、山崎覚太郎、
監査役・後藤国彦、斎藤 力
期末株主数 昭和6年11月末 2121名 同年5月末 2085名
大株主名 大川合名6300 斎藤長八郎6100 大正生命5370
根本秀太郎4130 千葉利雄3687 綾部利右衛門3500
岡野 昇3250 山崎嘉七3010 国華徴兵2700
東京動産輔兼2650 根津合名2600 脇田貞三2500
計画線 早稲田線(早稲田ー高田馬場)
立川線(新宿ー立川)
(p602) 玉川電気鉄道 東京府豊多摩郡渋谷町大和田1
設立 明治36年10月10日(創立資本金40万円)
資本金 1250万円(内払込725万円)
株数 旧株 11万株(額面50円 払込済)
新株 14万株(12円50銭払込)
重役 社長・平沼亮三、常務・鵜飼重雄、取締役・井上篤太郎、金光庸夫、村瀬末一、
監査役・金澤冬三郎、後藤国彦
期末株主数 昭和6年11月末 978名 同年5月末 966名
大株主名 内国貯蓄銀行2万8284 日本徴兵2万3299 千代田生命2万500
大同大地1万5466 大正生命9176 新日本火災7040
北川日出二郎4910 目黒蒲 田電鉄4500 帝国生命4000
門野幾之進3000 大塚録二2400 徳川達孝2000
販売電力 5227馬力(上期) 5993馬力(下期)
====================================
池上は京成に次ぐ、川崎の直系電鉄会社といってよく、大株主の内訳も納得ですが、
西武(武蔵野鉄道と合併前の)と、玉川にも後藤さんが監査役として参加しています。
そして、これまで見てきて当然気になってくるのが、川崎以上にどの電鉄会社にも大株主として名を連ねている大正生命の存在です。
生命保険会社ですから、投資先として鉄道を有力視するのはあるとおもいますが、しかしその投資先のどれにも後藤さんの名前があるのは気になる所です。
大正生命は金光庸夫さんが鈴木商店をバックに設立した会社で、京王や王子などとは大正時代からの関わりであり、川崎よりも関係は古いです。
しかし、昭和恐慌の中、鈴木が破綻して、その後ろ盾を失った後どうしたのかがよく分かりません。株式年鑑にも途中から記載されなくなってしまいます。
可能性としては、恐慌を機に台頭した川崎財閥系に頼ったというのがありそうですが、
川崎と大正生命が支配関係にあったかどうかは、まだわかりません。
大正14年発行の「財界の名士とはこんなもの?」には、金光庸夫氏について、
~◇従来の経歴を見れば直ぐ分かる事であるが、彼れは明治十年生れ本年とって四
十九歳の働き盛りである。既に政界に於ても相当成功の域に達し、多年下院に席
を置き政友本党の幹事迄勤め上げたものである。又実業界に於ては南武鉄道帝国
石油王子電気等の重役を兼ね、何処に於ても用ひるに足る事を示して居る。
◇即ち山本系かと見れば後藤系と気脈を通じ、浅野系かと見れば鈴木系と握手す
る等、玄妙自在の変通振りを発揮して其間毫も無理らしき痕跡を留めない。さり
とて彼れの方から進んで権勢富貴に接近したと云ふ訳でなく、寧ろ反対に彼れを
利用せんとする分子の多い事は、彼れの有為の材である事を立証するものであ
らねばならぬ。~
とあり、あらゆる財閥と関係をもっていたようです。
浅野系とも関わりがあるから、南武鉄道の重役にもなっていたんでしょうか。
大正14年というと、南武線開通前であり、この頃の南武の大株主に京王と玉川もいて、
井上さんも取締役などになっていたはずなので、どちらの関わりからなのかはよく分かりません。
また昭和13年発行の「非常時財界の首脳」では
~ 大正二年太陽生命を辞すると共に、鈴木を中心にして大正生命を創立し、その専務として財界
の本舞台に登場し、鈴木商店の関東鎮台たる地位についた。
財界パニックに依って大鈴木が没落の惨運に於かれた時、その後援を得てゐる氏の関係事業も
破産を免かれないの如く噂され、大正生命も余程の打撃は受けたものの、
流石は後年の大政治家だけあって、秘策と辣腕を思ふ存分ふり廻して難局を反って
有利に転換し、より以上成績を向上させた程であった。~
と書かれています。「秘策」とはなんなのか、それについての記述はないですが、
やはり鈴木を失って危機的状況になったのは確かなようです。
また、神戸の鈴木商店が、「関東鎮台」として大正生命を扱っていたというのも、大正時代に、東京方面の事業に進出する足場になっていたことを窺わせます。
金光さん自身は「中庸の徳」でどこからも頼りにされ、またその信頼に応える力のある人、という評価で、京王の穴水系との交代の間の社長も務めておりなにかと「中立的な立場の人」だったのではないかと思います。
後藤さんのインタビュー記事でも合併に関して「王子(金光氏社長)としても態度未定である」とあるように、必ずしも川崎とまったく同調していたともいいがたいようです。
しかし、「川崎系の所有株数(代表者監査役高梨博司氏)は三分の一に過ぎず」という文言が気になる所です。京王の株が旧株12万8000株、新株13万株の総数25万8000株だとすると、大株主覧にみる川崎系の株数3万4660株では不足で、大正生命系の4万2667株を足して、漸く「1/3」位の比率になります。
問題は、世間一般が大正生命を=川崎系と見なしていたかどうかです。
それによって、これまで見てきた川崎系の電鉄への影響力もだいぶ違った見方になってくると思うのです。
私は、はじめ、川崎と大正生命は別カウントだと思っていました。そう思った根拠は、
「京王グループの系譜」(小川功)において、
~従来「つつましくして居った」「京王の経営方針が随分変って」「積極策を執った」のは、
この頃京王自体の資本系統が昭和9年3月京王取締役に就任した穴水熊雄率いる
北海道電灯(9年5月では筆頭株主の大正生命40105株に次ぐ36080株を保有する
京王の第二位の大株主、大日本電力と改称)に組み込まれたという「経営陣の変更と
共に」生じた急激な転換であった~
とあるように、川崎が所有していた4万株(よりは実際は少ないか)を後の大日本電力の穴水氏に渡しているときも、大正生命はあいかわらず第一位の地位にとどまっているような書き方をされていたからです。
実際そうなのでしょうが、昭和13年頃の京王の株主名簿には、大正生命のたの字も見いだせません。
綺麗さっぱり居なくなっているのです。
「株式年鑑」の昭和12年度では大正生命4万0105株、北電興業3万8130株、大日本電力8830株、で第2位第3位が穴水株で、併せると一位の大正生命を凌いでいます。
京王の社長も、穴水熊雄氏が就任済です。
それが昭和13年度になると、北電興業が9万5749株の第一位株主となり、
大正生命の名前は消えているのです。
総株数は25万8000株で動いてませんから、大正生命が北電興業に株を譲って消えたということでしょう。社長の座を金光氏が退いたためだと思いますが、具体的に何があったのかはわかりません。
新聞で見る、大正生命のうごきとしては、昭和15年2月10日付けの読売に以下のような記事があります。
「保険事業(生命損害)経営へ 産組突如乗出す 政財界の動向注目さる」
昭和十五年二月十日(土曜日)読売新聞
産業組合中央会会頭有馬頼寧伯は旧臘以来金光庸夫氏との間に
同氏経営の大正生命(資本金五十万円全額払込済)日本教育生命(資本金三十万円三分の一払込済)及び
新日本火災海上(資本金五百万円四分の一払込済)三社(資本金総額五百八十万円中百八十五万円払込済)の買収につき交渉中のところこの程
譲渡価格約七百万円(会社株式、所有有価証券及び営業権を含む)の基本契約に調印した、
右肩替り資金は産組役職員退職共済基金造成委員会において考究中の社団法人もしくは任意団体により
近く組織される産組役職員共済会の基金の一部が運用される形式をとってをりこれが経営主体となってゐるが
実質的には協同組合主義による組合保険への一大飛躍であり、
全国的に役職員五十万、組合員七百万を持つ産組組合の保険運営を立体とする
今後の活動は組合自体の新発展段階を指示するものとして大いに注視されるとともに
保険業界に与へる波紋も極めて重大なるものがある、
しかして問題の突破に驚いた農林、商工両省は既に賛否両論が対立、議会においては
松村謙三氏の簡単なる質問論檄となって現れてをり政財界の本問題を中心とする動向は大いに注目を要する
産業組合が保険業に進出するにあたって、金光さんの経営する保険会社を買い取ろうというもの。
ここにきて、何故金光さんが自分の会社を売ろうとしたのかは分かりませんが、
何か重大な転換期だったんでしょうか。ちなみにこの買収は実現には至りません。
有馬頼寧さんというと、京王が買収して結局廃線にした武蔵中央電気鉄道の取締役だった人というのも、面白い縁ですね。
なにはともあれ、後藤さんと金光さんの関係については、もうすこし精査していきたいところです。
PR
「鉄道と街 横浜駅」(大正出版)を見ていたら、新橋駅は
「1階は右側手前から上等待合所、湯呑所、上等婦人待合所、上等出札所、不寝番詰所駅長詰所など。
左側は手前から中・下等待合所、同出札所、守線(保線)詰所、車長(車掌)詰所などがあった」
って書いてあって、ビジュアル日本の歴史と逆だ。おかしいな・・・。
まあ、待合室は書かないんで、別にいいんですけど。
問題はですね、、、
「二階は左右とも事務室で、コンコースの中程に階段がついていた。
したがって右の事務所から左の事務所へゆくのには一旦コンコースへ降りて、
それから反対側の階段を登る。
電話なんてない頃だから緊急の場合など血相を変えてコンコースを走る。」(笑)
「それで、(明治)六年十二月、中央の屋根上に丸屋根の太鼓橋のような渡り通路をつくった。」
「古い写真には無様な恰好の通路が写っているのがあるが、新橋駅も横浜駅も
幸か不幸か十七年の台風で吹きとばされてしまった。」えーっっΣΣ(゚▽゚ ;;)
やっぱり、渡り廊下あったーーーーーー!!
手元の写真見てる限り、ないのかな、って思ったけど、やっぱりないと不便ですよね、あの造り。
事務所も予想通り2階にあるんだな。
問題は、その渡り廊下が写った写真が、ここには載ってないということだ。orz
「古い写真には」あるにはあるらしいので、探さねば・・・・・・。うをおおおお・・・
ついでに、当時、新橋横浜間で稼働していた機関車の種類も調べたんですが、
ウィキ様々です・・・。最初の機関車だけあって見つけやすい。
でも、国鉄150形、160形、190形、110形まではすぐ分かったけのだど、
あと一形式がなかなかみつからなくて、120形~140形や170形はちがうし、
180形もちがうし・・・って思ったら「A3形」かよ!イレギュラーだな!!!
1号機関車は、大宮いったときに多分みている・・・。
でも、原形とは似ても似つかぬ位、改造を受けて居るらしいので、参考にはならないかな・・・。
参考になったのは、むしろ12号機関車について書いているサイト様だった。(´▽`人 ♪
うーん、車両の細かな違いとか、自分はさっぱりわかんないんで、
こういう細かい所に気を配れる方って、すごいですね。
煙突部分に、番号がふってあったらしいんだけど、ちょうど明治九年に、西の機関車とわけるための改番があって、新橋横浜のはぜんぶ奇数になったらしいんだわ。わわわ。
ふつうに偶数の機関車描いたらアウトだった。
車両はこういう所が怖いよ~~(川;□;)
機関車なんて、鉄道趣味の粋の粋だから、余計にな~~
わかれば、もうちょっと積極的に描いていきたんですが・・・。
====================================
「鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式」
っていい方、なんかカッコイイ。キセキの世代かっ+(←前日晩になんか見たらしい)
明治九年の改番
150形蒸気機関車(1号機関車)
160形蒸気機関車(2,3,4,5→17,19,15,13) 明治7年到着車両(22, 23→21,23)
A3形蒸気機関車(6,7→5,7)
190形蒸気機関車(8,9→11,9)
110形蒸気機関車(10→3)
1,3,5,7,9,11,13,15,17,19,21,23がいたわけですね。
青梅鉄道公園にある機関車って、元10号機関車だったのか。結局まだ見ていない。
台北新公園にも元7号機関車が残ってるし、なんかすごいな~。
でも資料的には12号(元23号)機関車がやっぱり一番かなっ。
====================================
画像検索でさがしてみたら、いくつかでてきた・・・。これかなぁ?
http://isonojii.blog28.fc2.com/blog-entry-92.html 個人のブログ
ちょっと、遠くて小さいけど・・・。なんか間についてますね。
あとは、これとか。こちらは、新橋停車場の方になりますが。
http://www.taisei.co.jp/about_us/corp/ayumi/1169092558082.html 大成建設
これもちいちゃいな・・・・・・。
こんなのも。でもこっちは明治後期らしいから、別物かと。
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Shiodome/Tky021013.htm 汐留
もしかして、めげずにまた造った?
う~ん、やっぱ現地の資料館いけって話ですね。絵葉書売ってるらしいし。f^ ^;
こんど横浜いく用事があるとすれば、7月20日のミネラルショー・・・。ちょっと、遠いな。
とりあえず、明日は新橋だ!
「1階は右側手前から上等待合所、湯呑所、上等婦人待合所、上等出札所、不寝番詰所駅長詰所など。
左側は手前から中・下等待合所、同出札所、守線(保線)詰所、車長(車掌)詰所などがあった」
って書いてあって、ビジュアル日本の歴史と逆だ。おかしいな・・・。
まあ、待合室は書かないんで、別にいいんですけど。
問題はですね、、、
「二階は左右とも事務室で、コンコースの中程に階段がついていた。
したがって右の事務所から左の事務所へゆくのには一旦コンコースへ降りて、
それから反対側の階段を登る。
電話なんてない頃だから緊急の場合など血相を変えてコンコースを走る。」(笑)
「それで、(明治)六年十二月、中央の屋根上に丸屋根の太鼓橋のような渡り通路をつくった。」
「古い写真には無様な恰好の通路が写っているのがあるが、新橋駅も横浜駅も
幸か不幸か十七年の台風で吹きとばされてしまった。」えーっっΣΣ(゚▽゚ ;;)
やっぱり、渡り廊下あったーーーーーー!!
手元の写真見てる限り、ないのかな、って思ったけど、やっぱりないと不便ですよね、あの造り。
事務所も予想通り2階にあるんだな。
問題は、その渡り廊下が写った写真が、ここには載ってないということだ。orz
「古い写真には」あるにはあるらしいので、探さねば・・・・・・。うをおおおお・・・
ついでに、当時、新橋横浜間で稼働していた機関車の種類も調べたんですが、
ウィキ様々です・・・。最初の機関車だけあって見つけやすい。
でも、国鉄150形、160形、190形、110形まではすぐ分かったけのだど、
あと一形式がなかなかみつからなくて、120形~140形や170形はちがうし、
180形もちがうし・・・って思ったら「A3形」かよ!イレギュラーだな!!!
1号機関車は、大宮いったときに多分みている・・・。
でも、原形とは似ても似つかぬ位、改造を受けて居るらしいので、参考にはならないかな・・・。
参考になったのは、むしろ12号機関車について書いているサイト様だった。(´▽`人 ♪
うーん、車両の細かな違いとか、自分はさっぱりわかんないんで、
こういう細かい所に気を配れる方って、すごいですね。
煙突部分に、番号がふってあったらしいんだけど、ちょうど明治九年に、西の機関車とわけるための改番があって、新橋横浜のはぜんぶ奇数になったらしいんだわ。わわわ。
ふつうに偶数の機関車描いたらアウトだった。
車両はこういう所が怖いよ~~(川;□;)
機関車なんて、鉄道趣味の粋の粋だから、余計にな~~
わかれば、もうちょっと積極的に描いていきたんですが・・・。
====================================
「鉄道開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車5形式10両中の1形式」
っていい方、なんかカッコイイ。キセキの世代かっ+(←前日晩になんか見たらしい)
明治九年の改番
150形蒸気機関車(1号機関車)
160形蒸気機関車(2,3,4,5→17,19,15,13) 明治7年到着車両(22, 23→21,23)
A3形蒸気機関車(6,7→5,7)
190形蒸気機関車(8,9→11,9)
110形蒸気機関車(10→3)
1,3,5,7,9,11,13,15,17,19,21,23がいたわけですね。
青梅鉄道公園にある機関車って、元10号機関車だったのか。結局まだ見ていない。
台北新公園にも元7号機関車が残ってるし、なんかすごいな~。
でも資料的には12号(元23号)機関車がやっぱり一番かなっ。
====================================
画像検索でさがしてみたら、いくつかでてきた・・・。これかなぁ?
http://isonojii.blog28.fc2.com/blog-entry-92.html 個人のブログ
ちょっと、遠くて小さいけど・・・。なんか間についてますね。
あとは、これとか。こちらは、新橋停車場の方になりますが。
http://www.taisei.co.jp/about_us/corp/ayumi/1169092558082.html 大成建設
これもちいちゃいな・・・・・・。
こんなのも。でもこっちは明治後期らしいから、別物かと。
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Shiodome/Tky021013.htm 汐留
もしかして、めげずにまた造った?
う~ん、やっぱ現地の資料館いけって話ですね。絵葉書売ってるらしいし。f^ ^;
こんど横浜いく用事があるとすれば、7月20日のミネラルショー・・・。ちょっと、遠いな。
とりあえず、明日は新橋だ!
ちょっと、基本的な部分を押さえる為に、
「鉄道をつくった人たち」の井上勝の項の内容を年表風になおしてみました。
まえに「つかえるかも!?」と思い直して買ったというのは、この内容のためで。
わりと、鉄道監督局のながれと、中のひとの役職がこまめに載ってたので、わかりやすい。
ただ、地の文ではけっこう年代が前後するので、出来事がどちらが後先かわかりにくいんですよね。
細かな日付まではないので、それを知りたい場合は、もっとちゃんとした資料から拾わないと、
だめだろうけど、今回はべつにそこまでは要らないから、これでいいかと。
後半は、後藤新平の項目から引用しました。
(各省の役職)卿ー大輔ー小輔ー大丞(複数)ー権大丞(複数)
1868(明治元年)3月大阪銅会所に鉱山掛を置く。
7月鉱山掛を鉱山司と改称し会計官に属しめる。
1869年(明治2年)5月鉱山司知事足立忠次郎が佐渡に来島し、旧金座役所跡に鉱山司支庁を設置
6月に帰郷した足立は、9月に鉱山権正兼佐渡兼大参事として赴任
7月大蔵省に属した鉱山司を民部省に移管
8月11日民部省は大蔵省と合併(形式上は両省とも存続)
9月英国公使パークスの紹介でレイが資金提供を申し入れ、
民部省・大蔵省の大輔大隈重信と小輔伊藤博文(両省兼務)が対応し井上勝が通訳を務める。
10月井上勝・大蔵省の造幣頭兼鉱山正に任じられる。
造幣寮・鉱山司は大阪にあるため、井上ははじめ大阪勤務が多く、
井上馨が民部、大蔵大丞で上司であった。
11月レイの申し入れを契機として、鉄道建設計画を承認
1870年(明治3年)3月モレルら英国技師、測量を始める。
鉄道の建設に当たっては、民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の職員が、
民部省統括の下で事務を担当。民部省監督正上野景範が事務総理となる。
3月19日東京築地の旧尾張藩邸に鉄道建設の為の事務局を置く。
3月22日横浜野毛町の神奈川県官舎(元修文館)に横浜出張所を置く。
4月山尾庸三、民部・大蔵権大丞に就任、横須賀・横浜製鉄所(造船所)を担当
5月井上勝、民部権大丞兼鉱山正となり鉱山事務に専務、東京勤務となる。
鉱山正兼民部権大丞井上勝の一行が来島し、佐渡鉱山を視察
7月民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
「鉄道掛」の組織・名称が確定
8月 鉱山採掘の事務は鉱山司にて、金属売買の事務は造幣寮にて扱うこととする。
閏10月20日太政官布告第581号を以て、民部省の殖産興業部門を工部省として新設。
横須賀・横浜の両製鉄所を民部省より継承
井上勝は工部権大丞兼鉱山正となる。
12月井上勝、工部大丞専務となる。
12月13日皇居内にあった工部省官庁舎を東京木挽町5丁目の元外務省跡に移転
鉄道掛も築地から同省内に移る。
12月19日工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
1871年(明治4年)6月16日鉄道掛は京都に出張所を設ける。
7月井上勝、山尾庸三、工部大丞となる。
鉄道掛は工事進行に従い、横浜駅に運輸掛を設置
7月27日民部省廃止
8月14日工部省に10寮1司が置かれる。鉱山掛を廃止し、鉱山寮を設置する。
(工学・勧工・鉱山・鉄道=1等、土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作=2等の10寮と測量司を設置)
8月15日井上勝は工部大丞兼鉱山頭兼鉄道頭になる。
山尾庸三は造船所担当から工学頭兼測量頭となる。
9月伊藤博文が工部大輔になる(工部省のトップ)
10月横須賀造船所・横浜製鉄所を海軍省に移管
11月岩倉使節団に伊藤が随行
12月山尾庸三が工部大丞から小輔に昇進し、大輔不在の為、実質工部省のトップに
1872年(明治5年)2月26日工部省庁舎が火災の為焼失、鉄道寮は汐留駅本屋に移転
3月鉄道寮は大阪堂島の元大村藩邸に出張所を新設して東鉄道寮とし、
元の大阪出張所(4年6月に堂島旧中津藩邸に移転)を西鉄道寮とする。
東鉄道寮は京都・大阪の、西鉄道寮は大阪・神戸の鉄道建設事務を主管とすることにした。
3月15日京都東本願寺枳殻邸を買収して京都出張所とし、
京都・大阪と京都以東の事務を担当することとする。
6月27日鉄道寮に主記・主計・倉庫・建築・運輸・技術の6課を設ける。
7月井上勝、鉱山頭との兼務を解かれ工部大丞兼鉄道頭に
8月30日赤坂葵坂旧佐賀藩邸跡に工部省新庁舎完成、鉄道寮もそちらへ移る。
9月12日新橋・横浜間鉄道の開業式を挙行、翌日から運輸営業開始
10月山尾庸三、工部大輔になる。
1873年(明治6年)7月井上勝は山尾大輔と意見があわず、辞表を提出
10月伊藤博文は洋行から帰国して、参議兼工部卿となる。
1874年(明治7年)1月伊藤等の説得によってか、井上勝、鉄道頭に復職
2月井上鉄道頭は鉄道寮の大阪移転を実行、5月から大阪勤務になる。
5月11日大阪~神戸間が仮営業開始
10月7日新橋建築課を廃止し運輸課修繕科に合併
1875年(明治8年)11月25日工部省の組織を改正、7寮を設ける。
土木寮は大蔵省へ、測量司は内務省へ、製鉄・造船・勧工は製作寮に合併、営繕が寮となる。
鉄道・鉱山の2寮は1等、灯台・電信・製作・営繕・工学の5寮は2等扱い。
1876年(明治9年)9月京都~大阪間まで仮開業
1877年(明治10年)1月官制改革により7寮および省中諸局を10局とする。
(工作・営繕・鉱山・鉄道・灯台・電信・書記・会計・検査・倉庫の10局)
鉄道寮・鉱山寮が廃止され鉄道局・鉱山局になる。井上勝は工部小輔兼鉄道局長となる。
製作・工学の2寮は工作局に所属することする。
鉄道局はひきつづき大阪に置かれ、新橋の運輸課を新橋鉄道局と改称
神戸出張所は神戸鉄道局と改称
大小丞の職制を廃止、奏任官は大書記官・権大書記官・少書記官・権少書記官
2月5日天皇を迎えて京都~神戸間の開業式を挙行
2月20日京都出張所を廃止し、本局に戻す。用地は5月25日東本願寺へ原価で売り戻した。
5月鉄道局は大阪駅に工技生養成所を設置、井上は技師長も兼ね指揮監督を行う。
1878年(明治11年)5月14日大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
7月29日大久保の死によって急遽帰国を命じられた井上馨は、
大久保の代わりに参議兼内務卿に就任した伊藤博文工部卿の代わりに
参議兼工部卿となる
このとき編集長の職を失い行く宛のない中上川彦次郎を工部省にさそい、
月棒八十円の御用掛として井上工部卿の秘書的な職務につかせていている
8月起業公債収入の一部が割かれて、京都~大津間の工事開始
1879年(明治12年)3月14日井上鉄道局長が工部技監に任命される。
9月20日井上馨工部卿が外務卿に任命され、中上川も外務省に転じる
後任の工部卿には長州出身の山田顕義があたった
11月5日中上川は外交通帳事務と海外外交官との連絡を司る重職、
公信局長に少書記官の身でありながら抜擢される(本来は大書記官がなる)
1880年(明治13年)7月京都~大津間が完成
1881年(明治14年)6月鉄道局を神戸駅構内へ移転
同局に主記・建築・会計・倉庫・運輸の5課と工場を置く。
8月1日岩倉具視をはじめとする華族などが参加した私設鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定
11月11日日本鉄道の設立特許条約書が下付され会社設立、初代社長に吉井友実を選出
1882年(明治15年)2月鉄道局は日本鉄道批判の建白書を太政官政府に提出
東京~青森間を不急と決め、東京~高崎~前橋と長浜~大垣間に官設鉄道を建設すべしとの内容
4月インフレ対策で殖産興業関係費が抑えられる中、長浜~関ヶ原間の延長工事が認可
5月川口~熊谷間の工事を開始
6月赤坂区榎木坂町に鉄道局の東京出張所を設置
1883年(明治16年)3月井上鉄道局長は佐々木工部卿に稟議書を提出、官設鉄道の営業利益を用いて、
関ヶ原~名古屋間、高崎~高田間の鉄道建設に着手する提案だった。
6月参事院議長兼工部卿代理山縣有朋が鉄道局の提案を容れて、軍事的意義の重要な
中山道鉄道を政府が建設するよう訴える内容の建議書を提出
7月井上鉄道局長は、鉄道会社の役割は資金提供に限定し、建設・営業・財務は政府が
管掌するべしという方式を主張する。
7月28日上野~熊谷間が仮開業
新橋鉄道局に運輸・建築・汽車・会計・倉庫の5課を置く。
9月 鉱山局を廃止し、総務局に鉱山課を置く。
10月政府は中山道鉄道建設を内定
11月未完成区間建設の為の精密な測量と工事を開始
12月鉄道の幹線は官設鉄道が担当、私設鉄道は支線に限定するという政府の方針が確定
資金調達の為、「中山道鉄道公債証書条例」を公布
1884年(明治17年)4月長浜~敦賀間が全通
11月鉄道局、東京へ移転
1885年(明治18年)12月22日工部省を廃止し、農商務省に工鉱業行政を移管
鉄道局は暫定措置として、内閣直属となる。
農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して逓信省が発足。
鉄道局は中央機関として、庶務・管業・会計3部を、
現業監督機関として新橋・神戸に建築・汽車・運輸・会計・倉庫の5課を設置
1886年(明治19年)2月1日鉄道局は神戸から東京の旧工部省内に戻る。
2月2日新橋倉庫課は雑務・購買・受払・外国品取扱・主簿の5掛を、
新橋会計課は雑務・調査・出納・主簿の4掛をそれぞれ設置
4月14日鉄道局はさらに赤坂区霊南坂町1番地に移る。
7月木曽渓谷地帯の測量の結果、工期・費用の面で中山道は東海道の1.5倍~2倍かかる
ことが判明、井上鉄道局長は東京~名古屋間は東海道線の建設を優先させるべきことを上申
7月伊藤博文内閣は幹線についても私設鉄道の建設を認める方針を示す。
1887年(明治20年)3月松方正義蔵相は伊藤首相に幹線建設を希望する九州鉄道、山陽鉄道に保護を与え
建設するのがよいと意見書を提出。井上勝は陳情書を伊藤首相に提出し、軍事的、政治的に
幹線鉄道は鉄道局が担当するのが望ましいとの持論を述べ私鉄に厳しい条件を付けるよう要望。
5月「私設鉄道条例」を制定、86年度5社、87年度11社、88年度5社、89年度15社の出願があった。
1889年(明治22年)6月25日井上長官は新橋・神戸両倉庫課を廃して、新橋駅構内に鉄道局倉庫課を置く
7月1日新橋~神戸間が全通
1890年(明治23年)9月6日官設私設の蒸気鉄道を所管し内閣に直属していた鉄道局は
内務省外局の鉄道庁になる。鉄道庁官制公布。軌道は元から内務省管轄
鉄道は内務省土木局や地方官庁と密接に関わるという理由からであった。
12月新橋建築課の下に国府津・沼津・静岡・横川の4建築事務所を
神戸建築課の下に浜松・名古屋・彦根・長浜・京都の5建築事務所を設ける。
また新橋汽車課の下に新橋運転係事務所、神戸汽車課に名古屋・神戸の運転係事務所を設ける。
1891年(明治24年)7月井上鉄道庁長官は「鉄道政略に関する議」を提出、不採算路線でも必要ならば建設し、
そのためには官設鉄道を基軸とし、必要に応じて私鉄の買収を行うとする建議を行う。
品川弥二郎内務大臣はこの建議を受けて、新鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出、
閣議で修正され議会に提出されたが、通過しなかった。
1892年(明治25年)5月第3回帝国議会に再提出された両法案は、議員提出の諸法案と共に特別委員会に付託、
折衷されて「鉄道敷設法」と名づけられ、衆議院で修正された後、両院を通過、
6月に公布された。
7月21日鉄道庁は内務省から逓信省所管となる
1893年(明治26年)3月国会内で井上勝の批判が高まり、井上は辞表を提出、逓信大臣黒田清隆が自宅を訪問し
説得を試みるが、井上の決意は変わらず、辞表が受理される。
11月1日鉄道局は逓信省の外局となり鉄道局となる
1897年(明治30年)8月18日鉄道作業局官制公布。鉄道起業熱時代を迎えて監督行政が忙しくなった為、
官鉄と私鉄の監督を一つの機構で処理するのが適当でないとされ、
鉄道局と鉄道作業局に分離された。鉄道局長は逓信次官の鈴木大亮が兼任
1898年(明治31年)松方内閣、第三次伊藤内閣、隈板内閣、第二次山縣内閣と内閣が次々更迭され、
鉄道局長も鈴木大亮から田健治郎、中橋徳五郎、伊藤大八、古市公威と
次々かわった。このうち鈴木、田、古市は逓信次官との兼務
1899年(明治32年)異動により鉄道局長は大塚勝太郎が就任
10月新橋駅と横浜駅でレストラン開業
1990年(明治33年)3月16日私設鉄道条例にかわる私設鉄道法、私鉄を規制する鉄道営業法が公布
1994年(明治37年)逓信省鉄道局長の大塚勝太郎が退いて、青森県知事山之内一次が後任に就く
1月25日鉄道政策では戦時輸送のための鉄道軍用供用令(勅令)が制定、
鉄道軍事輸送規程としてそれの細則が定められ、軍事費調達のための通行税が新設される
これにより各私鉄は軍事輸送優先となり特に山陽鉄道が一般列車に対する影響大であった
1995年(明治38年)3月13日鉄道抵当法公布
1906年(明治39年)3月「鉄道国有法案」成立
10月から翌10月にかけて私鉄17社が国有化
11月南満州鉄道が設立
1907年(明治40年)4月逓信省内に帝国鉄道庁設置、国有化後の私鉄はこちらの所管となる。
1908年(明治41年)7月後藤新平が第2次桂内閣の逓信大臣となる。
12月国有化で巨大化した帝国鉄道を統括する為には庁では不十分とし、
内閣に直属し省からは独立した官庁としてあらたに鉄道院が誕生。
後藤新平が初代総裁に就任する。
鉄道院は鉄道庁より強い権限を持ち、監督機関であった逓信省鉄道局の業務も吸収した。
1909年(明治42年)12月16日「鉄道院官制」が改正され、日本政府が朝鮮で経営していた鉄道も鉄道院の管轄に
井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三が最初のほうにけっこういます。
御覧の通り、山尾さんの方がなぜか出世が早い(笑)
目立たないけど、案外出来る人だったのだろうか・・・
井上さんは性格が災いしてそうな気も。
明治9年はまだ「鉄道寮」の時代なので、井上さんの役職は「鉄道頭」なんですね。
う・・・「井上局長」なら、呼ばせやすいと思ったのに、「頭」なのか。
そもそもこれ、なんて読むんだっけ。かみ?とう?かしら??
呼ばせづらいわ~~どうしましょう。
======================================
「世外井上公伝」と「日本国有鉄道百年史」から補足してみました。
鉄道はともかく、鉱山業が・・・情報の齟齬が激しいので、
とりあえずペーパーメディア優先で削除訂正していますが、これもあやしい。
これはいよいよ工部省文書系を参照しないと答えが出ないかもなぁ・・・。
まあ、鉱山は蛇足なのでいまはいいです。
「鉄道をつくった人たち」の井上勝の項の内容を年表風になおしてみました。
まえに「つかえるかも!?」と思い直して買ったというのは、この内容のためで。
わりと、鉄道監督局のながれと、中のひとの役職がこまめに載ってたので、わかりやすい。
ただ、地の文ではけっこう年代が前後するので、出来事がどちらが後先かわかりにくいんですよね。
細かな日付まではないので、それを知りたい場合は、もっとちゃんとした資料から拾わないと、
だめだろうけど、今回はべつにそこまでは要らないから、これでいいかと。
後半は、後藤新平の項目から引用しました。
(各省の役職)卿ー大輔ー小輔ー大丞(複数)ー権大丞(複数)
1868(明治元年)3月大阪銅会所に鉱山掛を置く。
7月鉱山掛を鉱山司と改称し会計官に属しめる。
1869年(明治2年)5月鉱山司知事足立忠次郎が佐渡に来島し、旧金座役所跡に鉱山司支庁を設置
6月に帰郷した足立は、9月に鉱山権正兼佐渡兼大参事として赴任
7月大蔵省に属した鉱山司を民部省に移管
8月11日民部省は大蔵省と合併(形式上は両省とも存続)
9月英国公使パークスの紹介でレイが資金提供を申し入れ、
民部省・大蔵省の大輔大隈重信と小輔伊藤博文(両省兼務)が対応し井上勝が通訳を務める。
10月井上勝・大蔵省の造幣頭兼鉱山正に任じられる。
造幣寮・鉱山司は大阪にあるため、井上ははじめ大阪勤務が多く、
井上馨が民部、大蔵大丞で上司であった。
11月レイの申し入れを契機として、鉄道建設計画を承認
1870年(明治3年)3月モレルら英国技師、測量を始める。
鉄道の建設に当たっては、民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の職員が、
民部省統括の下で事務を担当。民部省監督正上野景範が事務総理となる。
3月19日東京築地の旧尾張藩邸に鉄道建設の為の事務局を置く。
3月22日横浜野毛町の神奈川県官舎(元修文館)に横浜出張所を置く。
4月山尾庸三、民部・大蔵権大丞に就任、横須賀・横浜製鉄所(造船所)を担当
5月井上勝、民部権大丞兼鉱山正となり鉱山事務に専務、東京勤務となる。
鉱山正兼民部権大丞井上勝の一行が来島し、佐渡鉱山を視察
7月民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
「鉄道掛」の組織・名称が確定
8月 鉱山採掘の事務は鉱山司にて、金属売買の事務は造幣寮にて扱うこととする。
閏10月20日太政官布告第581号を以て、民部省の殖産興業部門を工部省として新設。
横須賀・横浜の両製鉄所を民部省より継承
井上勝は工部権大丞兼鉱山正となる。
12月井上勝、工部大丞専務となる。
12月13日皇居内にあった工部省官庁舎を東京木挽町5丁目の元外務省跡に移転
鉄道掛も築地から同省内に移る。
12月19日工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
1871年(明治4年)6月16日鉄道掛は京都に出張所を設ける。
7月井上勝、山尾庸三、工部大丞となる。
鉄道掛は工事進行に従い、横浜駅に運輸掛を設置
7月27日民部省廃止
8月14日工部省に10寮1司が置かれる。鉱山掛を廃止し、鉱山寮を設置する。
(工学・勧工・鉱山・鉄道=1等、土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作=2等の10寮と測量司を設置)
8月15日井上勝は工部大丞兼鉱山頭兼鉄道頭になる。
山尾庸三は造船所担当から工学頭兼測量頭となる。
9月伊藤博文が工部大輔になる(工部省のトップ)
10月横須賀造船所・横浜製鉄所を海軍省に移管
11月岩倉使節団に伊藤が随行
12月山尾庸三が工部大丞から小輔に昇進し、大輔不在の為、実質工部省のトップに
1872年(明治5年)2月26日工部省庁舎が火災の為焼失、鉄道寮は汐留駅本屋に移転
3月鉄道寮は大阪堂島の元大村藩邸に出張所を新設して東鉄道寮とし、
元の大阪出張所(4年6月に堂島旧中津藩邸に移転)を西鉄道寮とする。
東鉄道寮は京都・大阪の、西鉄道寮は大阪・神戸の鉄道建設事務を主管とすることにした。
3月15日京都東本願寺枳殻邸を買収して京都出張所とし、
京都・大阪と京都以東の事務を担当することとする。
6月27日鉄道寮に主記・主計・倉庫・建築・運輸・技術の6課を設ける。
7月井上勝、鉱山頭との兼務を解かれ工部大丞兼鉄道頭に
8月30日赤坂葵坂旧佐賀藩邸跡に工部省新庁舎完成、鉄道寮もそちらへ移る。
9月12日新橋・横浜間鉄道の開業式を挙行、翌日から運輸営業開始
10月山尾庸三、工部大輔になる。
1873年(明治6年)7月井上勝は山尾大輔と意見があわず、辞表を提出
10月伊藤博文は洋行から帰国して、参議兼工部卿となる。
1874年(明治7年)1月伊藤等の説得によってか、井上勝、鉄道頭に復職
2月井上鉄道頭は鉄道寮の大阪移転を実行、5月から大阪勤務になる。
5月11日大阪~神戸間が仮営業開始
10月7日新橋建築課を廃止し運輸課修繕科に合併
1875年(明治8年)11月25日工部省の組織を改正、7寮を設ける。
土木寮は大蔵省へ、測量司は内務省へ、製鉄・造船・勧工は製作寮に合併、営繕が寮となる。
鉄道・鉱山の2寮は1等、灯台・電信・製作・営繕・工学の5寮は2等扱い。
1876年(明治9年)9月京都~大阪間まで仮開業
1877年(明治10年)1月官制改革により7寮および省中諸局を10局とする。
(工作・営繕・鉱山・鉄道・灯台・電信・書記・会計・検査・倉庫の10局)
鉄道寮・鉱山寮が廃止され鉄道局・鉱山局になる。井上勝は工部小輔兼鉄道局長となる。
製作・工学の2寮は工作局に所属することする。
鉄道局はひきつづき大阪に置かれ、新橋の運輸課を新橋鉄道局と改称
神戸出張所は神戸鉄道局と改称
大小丞の職制を廃止、奏任官は大書記官・権大書記官・少書記官・権少書記官
2月5日天皇を迎えて京都~神戸間の開業式を挙行
2月20日京都出張所を廃止し、本局に戻す。用地は5月25日東本願寺へ原価で売り戻した。
5月鉄道局は大阪駅に工技生養成所を設置、井上は技師長も兼ね指揮監督を行う。
1878年(明治11年)5月14日大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
7月29日大久保の死によって急遽帰国を命じられた井上馨は、
大久保の代わりに参議兼内務卿に就任した伊藤博文工部卿の代わりに
参議兼工部卿となる
このとき編集長の職を失い行く宛のない中上川彦次郎を工部省にさそい、
月棒八十円の御用掛として井上工部卿の秘書的な職務につかせていている
8月起業公債収入の一部が割かれて、京都~大津間の工事開始
1879年(明治12年)3月14日井上鉄道局長が工部技監に任命される。
9月20日井上馨工部卿が外務卿に任命され、中上川も外務省に転じる
後任の工部卿には長州出身の山田顕義があたった
11月5日中上川は外交通帳事務と海外外交官との連絡を司る重職、
公信局長に少書記官の身でありながら抜擢される(本来は大書記官がなる)
1880年(明治13年)7月京都~大津間が完成
1881年(明治14年)6月鉄道局を神戸駅構内へ移転
同局に主記・建築・会計・倉庫・運輸の5課と工場を置く。
8月1日岩倉具視をはじめとする華族などが参加した私設鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定
11月11日日本鉄道の設立特許条約書が下付され会社設立、初代社長に吉井友実を選出
1882年(明治15年)2月鉄道局は日本鉄道批判の建白書を太政官政府に提出
東京~青森間を不急と決め、東京~高崎~前橋と長浜~大垣間に官設鉄道を建設すべしとの内容
4月インフレ対策で殖産興業関係費が抑えられる中、長浜~関ヶ原間の延長工事が認可
5月川口~熊谷間の工事を開始
6月赤坂区榎木坂町に鉄道局の東京出張所を設置
1883年(明治16年)3月井上鉄道局長は佐々木工部卿に稟議書を提出、官設鉄道の営業利益を用いて、
関ヶ原~名古屋間、高崎~高田間の鉄道建設に着手する提案だった。
6月参事院議長兼工部卿代理山縣有朋が鉄道局の提案を容れて、軍事的意義の重要な
中山道鉄道を政府が建設するよう訴える内容の建議書を提出
7月井上鉄道局長は、鉄道会社の役割は資金提供に限定し、建設・営業・財務は政府が
管掌するべしという方式を主張する。
7月28日上野~熊谷間が仮開業
新橋鉄道局に運輸・建築・汽車・会計・倉庫の5課を置く。
9月 鉱山局を廃止し、総務局に鉱山課を置く。
10月政府は中山道鉄道建設を内定
11月未完成区間建設の為の精密な測量と工事を開始
12月鉄道の幹線は官設鉄道が担当、私設鉄道は支線に限定するという政府の方針が確定
資金調達の為、「中山道鉄道公債証書条例」を公布
1884年(明治17年)4月長浜~敦賀間が全通
11月鉄道局、東京へ移転
1885年(明治18年)12月22日工部省を廃止し、農商務省に工鉱業行政を移管
鉄道局は暫定措置として、内閣直属となる。
農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して逓信省が発足。
鉄道局は中央機関として、庶務・管業・会計3部を、
現業監督機関として新橋・神戸に建築・汽車・運輸・会計・倉庫の5課を設置
1886年(明治19年)2月1日鉄道局は神戸から東京の旧工部省内に戻る。
2月2日新橋倉庫課は雑務・購買・受払・外国品取扱・主簿の5掛を、
新橋会計課は雑務・調査・出納・主簿の4掛をそれぞれ設置
4月14日鉄道局はさらに赤坂区霊南坂町1番地に移る。
7月木曽渓谷地帯の測量の結果、工期・費用の面で中山道は東海道の1.5倍~2倍かかる
ことが判明、井上鉄道局長は東京~名古屋間は東海道線の建設を優先させるべきことを上申
7月伊藤博文内閣は幹線についても私設鉄道の建設を認める方針を示す。
1887年(明治20年)3月松方正義蔵相は伊藤首相に幹線建設を希望する九州鉄道、山陽鉄道に保護を与え
建設するのがよいと意見書を提出。井上勝は陳情書を伊藤首相に提出し、軍事的、政治的に
幹線鉄道は鉄道局が担当するのが望ましいとの持論を述べ私鉄に厳しい条件を付けるよう要望。
5月「私設鉄道条例」を制定、86年度5社、87年度11社、88年度5社、89年度15社の出願があった。
1889年(明治22年)6月25日井上長官は新橋・神戸両倉庫課を廃して、新橋駅構内に鉄道局倉庫課を置く
7月1日新橋~神戸間が全通
1890年(明治23年)9月6日官設私設の蒸気鉄道を所管し内閣に直属していた鉄道局は
内務省外局の鉄道庁になる。鉄道庁官制公布。軌道は元から内務省管轄
鉄道は内務省土木局や地方官庁と密接に関わるという理由からであった。
12月新橋建築課の下に国府津・沼津・静岡・横川の4建築事務所を
神戸建築課の下に浜松・名古屋・彦根・長浜・京都の5建築事務所を設ける。
また新橋汽車課の下に新橋運転係事務所、神戸汽車課に名古屋・神戸の運転係事務所を設ける。
1891年(明治24年)7月井上鉄道庁長官は「鉄道政略に関する議」を提出、不採算路線でも必要ならば建設し、
そのためには官設鉄道を基軸とし、必要に応じて私鉄の買収を行うとする建議を行う。
品川弥二郎内務大臣はこの建議を受けて、新鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出、
閣議で修正され議会に提出されたが、通過しなかった。
1892年(明治25年)5月第3回帝国議会に再提出された両法案は、議員提出の諸法案と共に特別委員会に付託、
折衷されて「鉄道敷設法」と名づけられ、衆議院で修正された後、両院を通過、
6月に公布された。
7月21日鉄道庁は内務省から逓信省所管となる
1893年(明治26年)3月国会内で井上勝の批判が高まり、井上は辞表を提出、逓信大臣黒田清隆が自宅を訪問し
説得を試みるが、井上の決意は変わらず、辞表が受理される。
11月1日鉄道局は逓信省の外局となり鉄道局となる
1897年(明治30年)8月18日鉄道作業局官制公布。鉄道起業熱時代を迎えて監督行政が忙しくなった為、
官鉄と私鉄の監督を一つの機構で処理するのが適当でないとされ、
鉄道局と鉄道作業局に分離された。鉄道局長は逓信次官の鈴木大亮が兼任
1898年(明治31年)松方内閣、第三次伊藤内閣、隈板内閣、第二次山縣内閣と内閣が次々更迭され、
鉄道局長も鈴木大亮から田健治郎、中橋徳五郎、伊藤大八、古市公威と
次々かわった。このうち鈴木、田、古市は逓信次官との兼務
1899年(明治32年)異動により鉄道局長は大塚勝太郎が就任
10月新橋駅と横浜駅でレストラン開業
1990年(明治33年)3月16日私設鉄道条例にかわる私設鉄道法、私鉄を規制する鉄道営業法が公布
1994年(明治37年)逓信省鉄道局長の大塚勝太郎が退いて、青森県知事山之内一次が後任に就く
1月25日鉄道政策では戦時輸送のための鉄道軍用供用令(勅令)が制定、
鉄道軍事輸送規程としてそれの細則が定められ、軍事費調達のための通行税が新設される
これにより各私鉄は軍事輸送優先となり特に山陽鉄道が一般列車に対する影響大であった
1995年(明治38年)3月13日鉄道抵当法公布
1906年(明治39年)3月「鉄道国有法案」成立
10月から翌10月にかけて私鉄17社が国有化
11月南満州鉄道が設立
1907年(明治40年)4月逓信省内に帝国鉄道庁設置、国有化後の私鉄はこちらの所管となる。
1908年(明治41年)7月後藤新平が第2次桂内閣の逓信大臣となる。
12月国有化で巨大化した帝国鉄道を統括する為には庁では不十分とし、
内閣に直属し省からは独立した官庁としてあらたに鉄道院が誕生。
後藤新平が初代総裁に就任する。
鉄道院は鉄道庁より強い権限を持ち、監督機関であった逓信省鉄道局の業務も吸収した。
1909年(明治42年)12月16日「鉄道院官制」が改正され、日本政府が朝鮮で経営していた鉄道も鉄道院の管轄に
井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三が最初のほうにけっこういます。
御覧の通り、山尾さんの方がなぜか出世が早い(笑)
目立たないけど、案外出来る人だったのだろうか・・・
井上さんは性格が災いしてそうな気も。
明治9年はまだ「鉄道寮」の時代なので、井上さんの役職は「鉄道頭」なんですね。
う・・・「井上局長」なら、呼ばせやすいと思ったのに、「頭」なのか。
そもそもこれ、なんて読むんだっけ。かみ?とう?かしら??
呼ばせづらいわ~~どうしましょう。
======================================
「世外井上公伝」と「日本国有鉄道百年史」から補足してみました。
鉄道はともかく、鉱山業が・・・情報の齟齬が激しいので、
とりあえずペーパーメディア優先で削除訂正していますが、これもあやしい。
これはいよいよ工部省文書系を参照しないと答えが出ないかもなぁ・・・。
まあ、鉱山は蛇足なのでいまはいいです。
うーん、京王のまわりが大分県人だらけ!!! Σ/// ゜Д゜)///
という驚きを、どういうふうにまとめたら、上手く伝わるのか、その端緒をここ数日考えてたんですが、
やっぱり、自分が気になった順から書いていくのが、(自分の中で)通りがいいな、と思いまして。
写真は、高幡不動尊境内に立っている、玉南鉄道の碑(碑文の日付は昭和2年10月)です。
題額は当時の鉄相・小川平吉氏。
玉南関係の記述は、だいたいこの表面の碑文によったものが多いと思うんですが、重要なのは、この裏面で。
大正11年設立当時の役員(上段)と昭和の解散当時の役員(下段)の名前が書かれているのです。
これは、日野市郷土資料館調査報告書1の「日野の石碑」(平成20年3月31日発行)にも、
表面の碑文しか載っていないので、自分で撮りに行ったのですが。
ここに載っている、玉南に関係した人たちをすこしずつ、つぶしていく作業を去年から他と同時並行でしてったのですね。
そのなかの、解散当時の相談役に「金光庸夫」という人の名前が、記憶に引っかかってて、王子電軌の社史を読んでて、「この名前、な~んか、覚えあるなー」と思ってたら、「あ!玉南の碑にいたなぁ!」と気付き調べはじめたのです。
普通にウィキに載っている人です。ただ、政治家としての記述が主で、京王、その他の鉄道会社との関わりは省略されているのでわかりにくいですが、代表的な肩書きは「大正生命保険」および「王子電気軌道」の社長です。
ただ、井上さんが会長職に退き、穴水熊雄さんが社長に就任する間のわずかな時期に、
社長を務めているんです。つまり、王子と京王、両方の社長経験がある!!
これ、けっこう見逃せない繋がりだと思うんですが、どうかな。
======================================
「京王電車回顧十五年」の写真と王子の社史を見比べるとわかるんですが、
この頃の京王と王子の役員て、すげー重複してるんですよ。
大正8年度の株式年鑑をみてると、京王と王子の役員は、こう。
「京王電気軌道」 東京府豊多摩郡代々幡村幡ヶ谷
設立 明治43年9月21日
資本金 125万円(払込済)
株数 2万5000株(額面50円 払込済)(大正7年3月払込終了)
重役 会長・藤井諸照、専務・井上篤太郎、取締役・井上平左衛門、小田切忠四郎、榛葉良男、
金光庸夫、渡辺嘉一、監査役・山口憲、上山良吉、相談役・和田豊治、森村開作
「王子電気軌道」 東京府北豊島群巣鴨町大字巣鴨
設立 明治43年4月
資本金 300万円(内払込150万円)
株数 旧株 2万株(額面50円 払込済)
新株 4万株(12円50銭払込)
重役 社長・植村俊平、常務・榛葉良男、取締役・広橋嘉七郎、小野耕一、福田祐二、宮本政次郎、
金光庸夫、監査役・佐々田懋、山田八三郎、山口憲、相談役・和田豊治、森村開作、井上篤太郎
前に大正7年6月25日付の王子京王の合併予想記事を紹介したと思うんですけど、
「東京市外の王子電車軌道会社並に京成電気軌道会社等の郊外電車鉄道は久しく経営困難に苦しみつつありしが、両社共近年森村銀行系及び富士瓦斯関係者の入りて大株主となり重役を更迭して自社関係者を出し経営せしむるに及び幾分其経営方法も改善せられたると共に両社の実権者たる森村、富士瓦斯関係者間には両社の合併計画を開始し」
たというのが、これにあたるんだろう。王子の社史には
「更に同年秋、北濱銀行破綻に基因し、同銀行所有株式一万二千株を神戸鈴木商店、東京森村銀行に競落の結果、再び重役に変動を来し、同年十月三谷社長退き、次いで同月の臨時株主総会に於て植村俊平社長に、榛葉良男氏常務取締役に、岡烈、宮本政次郎の両氏各取締役に就任す。」
とあるとおり、神戸鈴木商店=大正生命系と、森村銀行=富士瓦斯紡績系が北浜銀行系だった電気信託会長の三谷軌秀氏と入れ替わりにはいります。
この中の、和田豊治、森村開作、藤井諸照、榛葉良男、小田切忠四郎、井上篤太郎などが少なくとも富士瓦斯紡績からの出向であり、植村俊平、金光庸夫、岡烈が大正生命からの出向になります。
山口憲氏はよくわかんないf^ ^;
ちなみに、同時期の玉川がこう。
「玉川電気鉄道」 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷
設立 明治40年3月
資本金 250万円(内払込80万円)
株数 旧株 1万6000株(額面50円 払込済)
新株 3万4000株
重役 専務・津田興二、取締役・青山孝宜、早川政広、藍?田奥造、北川礼弼、井上篤太郎、
棟居喜久馬、兼支配人・永井菅治、監査役・村上定、藤井諸照、相談役・和田豊治
「和田豊治伝」では、この玉川、京王、王子の救済を和田氏の財界世話業の一端のように扱っています。
榛葉良男氏(富士紡小名木川工場長)ははじめ京王の支配人として入ったらしいのだけど、
王子の件が持ち込まれるや「大正5年10月に京王からぬいて、王子の専務にした」とある。
けど、名簿上の役職は常務ですね。
「京王電車回顧十五年」での表記は、金光庸夫氏、津田興二氏、榛葉良男氏が取締役で、
植村俊平氏が相談役となっています。
======================================
植村さんは大阪市長として市電の整理をしようとしていたようですが、
明治45年(大正元年)市長辞任後に実業界へって、鈴木入りしてたのか。
この大阪市電の話は、東京市電発足と時期的にも近いですね。(=wiki)
九州鉄道の支配人から国有化で、鉄道院理事になり、九州鉄道管理局長も経験。
王子の経営再建には適任だったのでしょう。
金光氏に話を戻しますが、その前に、もう一人重要なキーマンがいます。岡烈氏です。
明治43年9月の京王電気軌道の創立総会で、創立委員長の牟田口元学氏が議長となり、
利光氏が選任した重役陣の中に、すでに岡氏の名前があります。↓
取締役社長 川田 鷹氏
専務取締役 利光丈平氏
取締役 豊原基臣氏
同 太田信光氏
同 井倉和欽氏
同 濱 太郎氏
監査役 吉田幸作氏
同 岡 烈氏
そして大正6年の京王の年表に「5月25日取締役岡烈氏逝去、6月18日金光庸夫氏取締役に就任」
王子の社史に「大正六年五月岡取締役死去す、同年六月金光庸夫氏取締役に就任す」
とあるように、岡烈氏の死によって、金光氏が京王・王子においてその跡を継いだ事がわかります。
『大日本人物誌』(明治人名辞典Ⅲ)によると、岡烈さんの経歴はこのようなかんじ。
「旧山口藩士岡治助の長男、元治元年四月二十三日安佐郡舟木村に生る、
明治二十二年九月家督す夙に郷里の松下塾に入り漢籍を修む後
上京して明治法律学校に入る後 職を大蔵省に奉じ税務官となり
金沢、広島、小倉等の各税務署に勤務す
明治三十九年官を辞して身を実業に委し神戸鈴木商店の支配人となる」
一方の金光さんは『財界フースヒー』(日本産業人名資料事典 Ⅱ)によると
「明治十年三月大分県宇佐郡高家村に生る 金光芳蔵の二男にして同三十一年家督を相続す
夙に官界に入り税務署長長崎税関熊本税務監督局等に歴任す
同四十一年転じて神戸鈴木商店に入り実業界の人となる後
太陽生命保険会社取締役支配人となり尋で大正生命保険会社を創立し
現に其の専務取締たる…」とあります。
さらに小川功さんの「京王グループの系譜」(鉄道ピクトリアル)には
「明治41年上司の岡烈とともに鈴木商店に入り」とあり
税務官時代からの上司部下関係だったらしいのです。
「和田豊治伝」では才賀氏所有の王子の株が北浜銀行(大阪)に抵当流れになっているのを
東京の資本家で肩替わりしようとの話になった時に
「岡烈君等は此の事を森村家に相談するや森村男等は之に応ずることとなり」
とあるように、王子に関しては岡烈さんが森村さんに話を持ち込んだようなのです。
金光さんが創立したといわれる大正生命にしても、大正5年度の株式年鑑では
「大正生命保険」 東京市麹町区有楽町1丁目3
設立 大正2年
資本金 50万円(内払込 12万5000円)
株数 1万株(額面50円 内払込12円50銭)
重役 取締役社長・柳原義光、専務・岡烈、取締役・植村俊平、荒井泰治、下阪藤太郎、藤田助七、
金光庸夫、監査役・鈴木岩治郎、金子直吉、柳田富士松
とあるように、元々は岡烈さんが専務で金光さんは平取締役でした。
おそらく岡さんの死後、こちらもまた引き継いだのではないかと。
監査役3名は鈴木商店の中核です。
ちなみに大正生命社長の柳原義光氏は伯爵、鈴木商店系のもう一つの保険会社、
日本教育生命保険の社長も兼ねています。金光さんが社長になるのは昭和になってから。
「大正生命社長に金光庸夫氏」昭和九年二月二十日(火曜日) 読売新聞
大正生命では今回柳原義光伯の社長辞任に伴ひ重役互選の結果
現専務金光庸夫氏当選し専務を兼ねる事となったが二十八日の
総会に於て後任取締役を選任の筈
という記事があります。おそらく「ダンスホール事件」が響いているんではないかと。時期的に。
しかし、大正生命の創立は大正2年で京王の開業と同年。
岡さんはその前は何をやっていたかというと、
「千代田瓦斯」 東京市芝区浜松町2丁目23番地
(東京瓦斯会社と合併の予定)
設立 明治43年5月14日
資本金 1000万円(内払込額 250万円)
株数 20万株(1株額面50円、内払込12円50銭)
役員 社長・利光鶴松、常務・岡烈、磯野保次、取締役・桂二郎、金子直吉、林謙吉郎、河合芳太郎、
岡本榎?監査役・神野金之助、平沼専蔵、三枝守富、中山佐市、木村省吾
(株式年鑑・明治45年度)
なんと千代田瓦斯の常務。利光さんの会社の関係者だったのね~。
取締役に鈴木の大番頭・金子氏がはいってるってことは、鈴木が関係してたのかこの会社。
大正3年度の株式年鑑では千代田瓦斯の面々が、合併によりこっちにも移ってきてます。
「東京瓦斯」
設立 明治18年10月
資本金 4500万円(内払込 3100万円)
株数 新株43万株(額面50円払込済)
旧株56万株×(25円払込)
重役 社長・高松豊吉、副社長・久米良作、取締役・浅野総一郎、大橋新太郎、渡辺福三郎、
袴田嘉四郎、種島甲子三、平松末吉、利光鶴松、岡烈、磯部保次、林謙吉郎、
監査役・渡部朔、伊藤幹一、若尾民造
利光さんが、京王の監査役に岡氏を選んだのも、このつながりかな。
もしかして、千代田瓦斯合併後の受け皿も兼ねていたのか・・・京王。
そういえば、出身校も明治法律学校で、利光さんと一緒ですね。
======================================
なんだか、長くなりすぎる上に、どんどんタイトルから乖離してきているので、
やっぱり一つ一つ全部話すのはやめて、とっととまとめます。
大正生命に関しては、まだ全部のデータ確認出来た訳じゃないし・・・。いつか別項で。
とりあえず、金光さんあるところに、後藤国彦さんあり、みたいなかんじで、
川崎系と行動を共にしているのが気になるんですが、検索しても、川崎系の研究本読んでても、両者の関わりがさっぱりぽん。見つけられないのでして。?
鈴木商店が、震災手形だかの整理のあおりを食って、共依存関係だった台湾銀行からぶっちされ、倒産するのが昭和3年4月。
昭和恐慌内の大事件として数えられるんですが、鈴木傘下だった大正生命も当然影響を受けたはずで、代わりにこの頃、何故か台頭してくるのが川崎財閥系。
だから、もしかしてこの時に川崎傘下になったのかな?と仮説をたててみたのですが、
それを立証出来るような資料に行き当たらなくて、よくわからない。
帝人事件も多少読んでみたけど、全体像がでかすぎて、いまだに全容掴めてません。
帝国人造絹糸会社はもともと鈴木系列の優良会社で、鈴木倒産後、台銀の担保から引き出そうと色々な会社が挑戦するもののうまくいかず、鈴木復活を画する金子直吉さんが郷誠之助を慕う会の番町会メンバーを通じて多量の株の買い戻しに成功をしたことを、財界世話人が大嫌いの武藤山治時事新報社長が番町会批判を絡めて不正指摘して、よくわからない内に、政財界の有力者が多数検挙される、という事件なのですが…。
昭和9年12月27日、28日の新聞には「三土、中島両氏以下16名を公判に回付 免訴は1人高梨博司氏」「大蔵省事件に予審免訴一名 高梨博司氏と見らる」などと書かれ、
川崎財閥中枢的人物の高梨氏にも容疑がかかっていたようです。
しかし、番町会の中心的メンバーは後藤国彦氏のはず、なぜに高梨氏に…?
そもそも「免訴」ってなんなんだ(笑)不起訴じゃないのか。
後藤さんはもともと、郷さん(川崎財閥と血縁関係をもち、関係が深い)の推薦によって、川崎入りした恩があるのですが、つまりは川崎の外の人なんだな。
だからか、たびたび川崎八右衛門さんから裏切りを受けている…。
高梨さんは川崎第百銀行常務監査役で内側の人なのかな。
後藤さんと一緒に、方々の鉄道会社に顔を出してるんだけど、具体的に何をやったのかは不明。
この事件で川崎資本を根拠に京王・王子・京成の合併をわりと強く慫慂していた三土忠造鉄道大臣が捕まり、辞めるはめになってるのがまた因縁くさいというか。
この事件、なにか川崎と直接の関わりがあったんでしょうか?そこまで、詰めてない(というか興味が尽きた…)のでわかりませんが。
======================================
はてさて、ここでやっと大分県人なのですが、関係者の名前でヒットした文献の中に
「大分県人士録」(大正3年発行)というのがあって、
なにやらどこかで見たことがある名前がずら~~~~っとなってたんですね。
抜き出すと、だいたいこんなかんじ↓
貿易商 甲斐織衞
前三井同族會理事 朝吹英二
玉川電氣鐵道會社長 津田興二
逓信大臣 元田肇
富士瓦斯紡績會社専務取締役 和田豐治
鬼怒川水力電氣會社長 利光鶴松
鐵道院技監 石丸重美
横濱正金銀行頭取 井上準之助
京王電氣會社長 利光丈平
富士瓦斯紡績會社營業部長 高橋茂澄
千代田組商會主 朝吹常吉
實業家 中上川次郎吉
鬼怒川水電會社事務部長 利光學一
利光さん一族がまず大分県出身なんですよね。
んで、和田豊治さんと津田興二さんが同郷なんですよ。
もともと玉電が富士紡の水力発電電気を買うようになったきっかけというのが、
同藩同郷が集まる会合での和田さんと津田さんの「電気あまってんだけど、いる?」
「いる!ついでに玉電の資金もだしてくれたら!」ていう合意だったらしい。
朝吹常吉さんは朝吹英二さんの息子で、のちの帝国生命の取締役。
昭和13年5月時点で、大正生命と川崎の第1第2大株主が抜けた後の、
大日本電力に次ぐ大株主がこの帝国生命です。つっても一位と二位が、一桁ちがう・・(^ ^;
帝国生命(のち朝日生命)は古河財閥系だったらしいんだけど、菊池さんの本によると財閥解体後、
古河は第一銀行(のち第一勧業銀行)をよりどころにした為、今では一勧系らしい。
ちなみにこの朝日生命、多摩センター駅前に文書関連扱う本社がある・・・偶然かねぇ。
中上川次郎吉さんは中上川彦次郎さんの息子です。当然お父上も大分出身。
中上川彦次郎さんは慶應義塾卒業後、留学先の英国で井上馨の信任を得て、井上工部卿の推薦で工部省に入り、井上さんについて外務省に移り、14年の政変で官を辞したのち、時事新報社社長、山陽鉄道社長を経て、井上さんの推挙で三井銀行理事に主任。
三野村さん亡き後の三井改革を断行し、鐘紡の経営危機には、朝吹英二、和田豊治、武藤山治を引き連れ、自ら乗り込んでこれを再建。三井家との対立を深くし、三井を去りました。(「日本の15大財閥」)
和田豊治、武藤山治両氏は鐘紡内でそれぞれ頭角を現すものの、
旧来の設備で稼働する和田さんの向島本社と、新鋭の設備で万端な武藤さんの兵庫支店の成績で、
手腕比較がなされ和田武藤優劣論が社内に興り、両者の対立も深まるなか、中上川さんも和田さんをかばいきれなくなって、和田さんは鐘紡をやめ、経営難にあった富士紡績に請われて小山工場へ入る。
このとき森村さんは、朝吹英二さんを訪ねて、和田さんの富士紡入りの環境整備に努めたという。
そして和田さんは富士紡を鐘紡に負けない大紡績会社へと成長させるために心血を注ぐ。
以前紹介したこの時の記事はそんな二人の因縁を背景としたものだったのですね。
和田さんも武藤さんもお互いを超意識してたみたいです。
武藤さんの財界世話人嫌いは和田さんに端を発しているとおもわれます。
それが帝人事件にまで発展・・・。因果は和田さん亡き後も廻ったというか。
ちなみに富士紡は、大正9年上期に普通配当5割の上に特別配当8割の、
合計13割という、異常配当を実現しています。13割・・・ありえるのか。鐘紡を意識しすぎ(笑)
そしてこの中上川さんは福沢諭吉(中津藩出身で慶應義塾を設立)の甥っ子だという。
だから、中津藩出身の人は大抵慶應義塾に入る。
一番上の、貿易商 甲斐織衞というのはアメリカで甲斐商店という店を開いていて、
和田さんはサンフランシスコ滞在中、そこで働いていていました。
それで訪米中だった、森村さんに見物にさそわれたことがあったらしい。
甲斐さんはもともと森村ブラザーズ(森村豊さんのニューヨークのお店)で働いていて、
独立した人。
この頃の森村組は、渡米してくる福沢門下生の拠点になっていて、
福澤諭吉の二人の息子さんが渡米した時も、森村さんに「息子をくれぐれもよろしく」と手紙をよこしたそう。
ここには載ってませんが、前述、金光庸夫さんと後藤国彦さんもなんと、大分出身です。
・・・ようするに、京王の経営においてだいたい
利光さん一族→森村・和田さんの富士紡組→金光・後藤の川崎大正生命組と3段階あり、そのどれにも大分県出身者が影響を持っていたという、それだけの話です。長かったな・・・。
あ、ついでに、京王の常務の渡辺孝さんですが、「郷里の先輩和田豊治に認められ富士瓦斯紡績小山工場技師長に就任の傍ら、玉川電気鉄道取締役、王子電気軌道工務課長を兼ね、京王営業部長を経て昭和3年取締役就任、理事・営業部長、8年5月京王常務就任、京王砂利監査役、甲州街道乗合自動車監査役、豊洲鉄道相談役、東都乗合自動車取締役、山手乗合自動車取締役」(「京王グループの系譜」)という、これまでの話を体現するような、見事な大分県人でした(^ ^;;;)
さすが、小川功さん、情報の精度がちがう・・・プロや・・・。
======================================
あ~、で一番冒頭の写真、ちょうど同じ日に撮ってたんで載せたんですが、
大分県とは関係なくてですね、
玉南の碑に「取締役 森久保善太郎、商議員 森久保作蔵(成立当時役員)」とある
森久保親子のお父さんの方の献納と思われる石柱が、
高幡不動入り口の一番正面の所に立ってたんで「おお」っと思ってパシャリ。
森久保さんは星亨亡き後の自由民権運動の壮士を率いる首領でして、
高幡・七生村の出身なので地元派・・・に入るのかな。
多摩出身なので、米国の政治団体にかけて「タマニー派」とかいわれて、
夜の東京市長、と異名をとる程の、東京市政に影響を持っていた人です。
京王電気軌道の発起人の名簿にも名前があり最初期からの関係者…(ちなみに根津さんもいる…)
森久保善太郎さんは作蔵さんの跡継ぎで、京成電気軌道の取締役でもあったんですが、
大正12年2月4日に狭心症のため、急逝してしまいます。
玉南の碑、解散当時の役員の中に名前がないのはそういう理由でしょう。
おおう・・・わずか数年間しか存在しなかった会社なのに色々起きるもんです。
鬼怒川水力電気の役員でもあったようなので、利松さんとの関わりが深かったんでしょうね。以上
「みっちゃんぷろじぇくと」において、後半のネタ元になった記事。
漫画内でかなり蛇足感つよい流れになっちゃったけど、いれずには居れなかった。
おそらく京王関係の合併計画においてはこれが最古なんじゃないかと。
「●五大電鉄合同計画」明治四十四年八月十九日(土曜日) 読売新聞
旧東鉄重役川田、利光の両氏は今回相提携して
京成電気軌道会社(資本金百五十万円会長利光鶴松)
京王電気軌道会社(資本金百五十万円社長川田鷹)
武蔵電気鉄道会社(資本金三百五十万円社長伯爵廣澤金次郎)
王子電気軌道会社(資本金百万円社長才賀藤吉)の五電鉄会社を
合同し以て市を囲繞する理想的一大市外電鉄会社を起こさんとするの計画を立て
利光氏は既に武蔵電鉄取締役岩下清周、才賀王子電鉄社長と会見を遂げ
其の賛同を得たる由なるも刻下両瓦斯合併問題の横はれるを以て
同問題解決後にあらずんば該計画の実現を見んこと蓋し困難なるべしと云ふ
明治44年の8月というと、東京鉄道が市営化され市電として運転を開始した直後なんですが、
その時期に、なんでこんな大それた計画立ててるのか謎な記事です。
だいたい、「五大電鉄」ってなんですか。私鉄の名前、4つしか挙がってないないんですけど!
まさか、市電含めての話なのか、一体どういう見通しがあって、そんな話に?!
そして主犯格が利光さんぽい(笑)
「旧東鉄重役川田」氏というのは、京王の初代社長です。
市営化される前の、東京鉄道の常務の一人でしたが、もともとは東京電気鉄道の専務でした。
この時期の京王には、旧東鉄の重役の名前がちらほらみえます。
「京王電気軌道」の設立は明治43年4月(創立総会は9月21日)、創立委員長は東京鉄道社長で、東京馬車鉄道時代からの東京電車鉄道の元社長・牟田口元学氏。
京王の専務は利光さんの同族・利光丈平氏で、京王の重役はすべて利光さんの指名によって決められたので、京王の中に東京鉄道の、元三大勢力が大集合かもです。
時期的に市営化を見越した受け皿にされた感がなくもない・・・。
京成電気軌道はこの時期、開業に向けて工事中。
創立以来、京成は会長も社長もおかず、本多専務が切り盛りしてるんですが、
本多さんはもともと東京市街鉄道・工務課長です。
そして、明治44年3月17日の初の株主臨時総会で定款が改められ、役員が置かれることになったんですが、その選出は議長である利光さんに一任され、初代会長には井上敬次郎さんが就任。
しかし、東鉄市営化によって、井上さんは東京市電気局の理事に就任することになり、8月5日には早くも辞任、代わりに利光氏が会長となったので、この記事は、その直後のものということになります。
ちなみに、井上敬次郎氏は東京市街鉄道時代は取締役、東京鉄道では常務の一人でした。
なので、京成・京王=旧東鉄組とみなされても、仕方がないというか、
利光さんの影響下にあったといっていいかと。
武蔵電鉄が岡田治衛武社長じゃなくて、廣澤金次郎氏になっているのは、
明治44年7月3日に岡田氏が辞任し、監査役だった廣澤氏が就任した時期だったからで、こちらもトップが変わったばかりという。どうもどこも不穏当な時期。
ちなみに、岡田氏は明治45年7月に社長に復帰します。
ここで面白いのが、岩下清周氏が武蔵電鉄にいて、王子電軌の才賀氏と同調しているところ。
岩下氏の北浜銀行は才賀電機商会が破綻した時に王子を引き受けようとしていた位、
密な関係だったので、ここでもそれがあらわれているのかなと(笑)
明治末期の鉄道は、40年に日露戦争勝利の短期の好景気のあと、すぐに反動がくるので、
玉川の開業くらいまでが「駆け込み」であるといわれ、それ以降の鉄道軌道は免許はあっても、
開業までに軒並み難儀する時代だったようで、このような合同による計画の実現を考えたのかも知れません。
ところで「刻下両瓦斯合併問題の横はれる」というのは、44年8月ごろ、「市有化問題」と一緒に世間を騒がせていた、東京瓦斯と利光さんの千代田瓦斯の合併問題のことです。
もともと東鉄市営化についても議論のある所で、両方の問題の裏に利光さんがいたのため、随分矢面に立っていたんではと。
ついでに、東鉄の清算人にもなっているので、問題を抱えまくっていたらしい。
======================================
う~ん、ところで、武蔵電鉄=東横線と何も考えずに、作中ではしてしまったんですけど、
この頃の免許って、大正時代に一度失効してしまってて、軽便鉄道として取り直してるんですよね。
そうすると、今の東横の本体って、そっちか。と。ちょっと、しくった。
でもまあ、苦い思い出には違いないから、いいはいいか。
漫画内でかなり蛇足感つよい流れになっちゃったけど、いれずには居れなかった。
おそらく京王関係の合併計画においてはこれが最古なんじゃないかと。
「●五大電鉄合同計画」明治四十四年八月十九日(土曜日) 読売新聞
旧東鉄重役川田、利光の両氏は今回相提携して
京成電気軌道会社(資本金百五十万円会長利光鶴松)
京王電気軌道会社(資本金百五十万円社長川田鷹)
武蔵電気鉄道会社(資本金三百五十万円社長伯爵廣澤金次郎)
王子電気軌道会社(資本金百万円社長才賀藤吉)の五電鉄会社を
合同し以て市を囲繞する理想的一大市外電鉄会社を起こさんとするの計画を立て
利光氏は既に武蔵電鉄取締役岩下清周、才賀王子電鉄社長と会見を遂げ
其の賛同を得たる由なるも刻下両瓦斯合併問題の横はれるを以て
同問題解決後にあらずんば該計画の実現を見んこと蓋し困難なるべしと云ふ
明治44年の8月というと、東京鉄道が市営化され市電として運転を開始した直後なんですが、
その時期に、なんでこんな大それた計画立ててるのか謎な記事です。
だいたい、「五大電鉄」ってなんですか。私鉄の名前、4つしか挙がってないないんですけど!
まさか、市電含めての話なのか、一体どういう見通しがあって、そんな話に?!
そして主犯格が利光さんぽい(笑)
「旧東鉄重役川田」氏というのは、京王の初代社長です。
市営化される前の、東京鉄道の常務の一人でしたが、もともとは東京電気鉄道の専務でした。
この時期の京王には、旧東鉄の重役の名前がちらほらみえます。
「京王電気軌道」の設立は明治43年4月(創立総会は9月21日)、創立委員長は東京鉄道社長で、東京馬車鉄道時代からの東京電車鉄道の元社長・牟田口元学氏。
京王の専務は利光さんの同族・利光丈平氏で、京王の重役はすべて利光さんの指名によって決められたので、京王の中に東京鉄道の、元三大勢力が大集合かもです。
時期的に市営化を見越した受け皿にされた感がなくもない・・・。
京成電気軌道はこの時期、開業に向けて工事中。
創立以来、京成は会長も社長もおかず、本多専務が切り盛りしてるんですが、
本多さんはもともと東京市街鉄道・工務課長です。
そして、明治44年3月17日の初の株主臨時総会で定款が改められ、役員が置かれることになったんですが、その選出は議長である利光さんに一任され、初代会長には井上敬次郎さんが就任。
しかし、東鉄市営化によって、井上さんは東京市電気局の理事に就任することになり、8月5日には早くも辞任、代わりに利光氏が会長となったので、この記事は、その直後のものということになります。
ちなみに、井上敬次郎氏は東京市街鉄道時代は取締役、東京鉄道では常務の一人でした。
なので、京成・京王=旧東鉄組とみなされても、仕方がないというか、
利光さんの影響下にあったといっていいかと。
武蔵電鉄が岡田治衛武社長じゃなくて、廣澤金次郎氏になっているのは、
明治44年7月3日に岡田氏が辞任し、監査役だった廣澤氏が就任した時期だったからで、こちらもトップが変わったばかりという。どうもどこも不穏当な時期。
ちなみに、岡田氏は明治45年7月に社長に復帰します。
ここで面白いのが、岩下清周氏が武蔵電鉄にいて、王子電軌の才賀氏と同調しているところ。
岩下氏の北浜銀行は才賀電機商会が破綻した時に王子を引き受けようとしていた位、
密な関係だったので、ここでもそれがあらわれているのかなと(笑)
明治末期の鉄道は、40年に日露戦争勝利の短期の好景気のあと、すぐに反動がくるので、
玉川の開業くらいまでが「駆け込み」であるといわれ、それ以降の鉄道軌道は免許はあっても、
開業までに軒並み難儀する時代だったようで、このような合同による計画の実現を考えたのかも知れません。
ところで「刻下両瓦斯合併問題の横はれる」というのは、44年8月ごろ、「市有化問題」と一緒に世間を騒がせていた、東京瓦斯と利光さんの千代田瓦斯の合併問題のことです。
もともと東鉄市営化についても議論のある所で、両方の問題の裏に利光さんがいたのため、随分矢面に立っていたんではと。
ついでに、東鉄の清算人にもなっているので、問題を抱えまくっていたらしい。
======================================
う~ん、ところで、武蔵電鉄=東横線と何も考えずに、作中ではしてしまったんですけど、
この頃の免許って、大正時代に一度失効してしまってて、軽便鉄道として取り直してるんですよね。
そうすると、今の東横の本体って、そっちか。と。ちょっと、しくった。
でもまあ、苦い思い出には違いないから、いいはいいか。