たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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ちょっと、基本的な部分を押さえる為に、
「鉄道をつくった人たち」の井上勝の項の内容を年表風になおしてみました。
まえに「つかえるかも!?」と思い直して買ったというのは、この内容のためで。
わりと、鉄道監督局のながれと、中のひとの役職がこまめに載ってたので、わかりやすい。
ただ、地の文ではけっこう年代が前後するので、出来事がどちらが後先かわかりにくいんですよね。
細かな日付まではないので、それを知りたい場合は、もっとちゃんとした資料から拾わないと、
だめだろうけど、今回はべつにそこまでは要らないから、これでいいかと。
後半は、後藤新平の項目から引用しました。
(各省の役職)卿ー大輔ー小輔ー大丞(複数)ー権大丞(複数)
1868(明治元年)3月大阪銅会所に鉱山掛を置く。
7月鉱山掛を鉱山司と改称し会計官に属しめる。
1869年(明治2年)5月鉱山司知事足立忠次郎が佐渡に来島し、旧金座役所跡に鉱山司支庁を設置
6月に帰郷した足立は、9月に鉱山権正兼佐渡兼大参事として赴任
7月大蔵省に属した鉱山司を民部省に移管
8月11日民部省は大蔵省と合併(形式上は両省とも存続)
9月英国公使パークスの紹介でレイが資金提供を申し入れ、
民部省・大蔵省の大輔大隈重信と小輔伊藤博文(両省兼務)が対応し井上勝が通訳を務める。
10月井上勝・大蔵省の造幣頭兼鉱山正に任じられる。
造幣寮・鉱山司は大阪にあるため、井上ははじめ大阪勤務が多く、
井上馨が民部、大蔵大丞で上司であった。
11月レイの申し入れを契機として、鉄道建設計画を承認
1870年(明治3年)3月モレルら英国技師、測量を始める。
鉄道の建設に当たっては、民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の職員が、
民部省統括の下で事務を担当。民部省監督正上野景範が事務総理となる。
3月19日東京築地の旧尾張藩邸に鉄道建設の為の事務局を置く。
3月22日横浜野毛町の神奈川県官舎(元修文館)に横浜出張所を置く。
4月山尾庸三、民部・大蔵権大丞に就任、横須賀・横浜製鉄所(造船所)を担当
5月井上勝、民部権大丞兼鉱山正となり鉱山事務に専務、東京勤務となる。
鉱山正兼民部権大丞井上勝の一行が来島し、佐渡鉱山を視察
7月民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
「鉄道掛」の組織・名称が確定
8月 鉱山採掘の事務は鉱山司にて、金属売買の事務は造幣寮にて扱うこととする。
閏10月20日太政官布告第581号を以て、民部省の殖産興業部門を工部省として新設。
横須賀・横浜の両製鉄所を民部省より継承
井上勝は工部権大丞兼鉱山正となる。
12月井上勝、工部大丞専務となる。
12月13日皇居内にあった工部省官庁舎を東京木挽町5丁目の元外務省跡に移転
鉄道掛も築地から同省内に移る。
12月19日工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
1871年(明治4年)6月16日鉄道掛は京都に出張所を設ける。
7月井上勝、山尾庸三、工部大丞となる。
鉄道掛は工事進行に従い、横浜駅に運輸掛を設置
7月27日民部省廃止
8月14日工部省に10寮1司が置かれる。鉱山掛を廃止し、鉱山寮を設置する。
(工学・勧工・鉱山・鉄道=1等、土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作=2等の10寮と測量司を設置)
8月15日井上勝は工部大丞兼鉱山頭兼鉄道頭になる。
山尾庸三は造船所担当から工学頭兼測量頭となる。
9月伊藤博文が工部大輔になる(工部省のトップ)
10月横須賀造船所・横浜製鉄所を海軍省に移管
11月岩倉使節団に伊藤が随行
12月山尾庸三が工部大丞から小輔に昇進し、大輔不在の為、実質工部省のトップに
1872年(明治5年)2月26日工部省庁舎が火災の為焼失、鉄道寮は汐留駅本屋に移転
3月鉄道寮は大阪堂島の元大村藩邸に出張所を新設して東鉄道寮とし、
元の大阪出張所(4年6月に堂島旧中津藩邸に移転)を西鉄道寮とする。
東鉄道寮は京都・大阪の、西鉄道寮は大阪・神戸の鉄道建設事務を主管とすることにした。
3月15日京都東本願寺枳殻邸を買収して京都出張所とし、
京都・大阪と京都以東の事務を担当することとする。
6月27日鉄道寮に主記・主計・倉庫・建築・運輸・技術の6課を設ける。
7月井上勝、鉱山頭との兼務を解かれ工部大丞兼鉄道頭に
8月30日赤坂葵坂旧佐賀藩邸跡に工部省新庁舎完成、鉄道寮もそちらへ移る。
9月12日新橋・横浜間鉄道の開業式を挙行、翌日から運輸営業開始
10月山尾庸三、工部大輔になる。
1873年(明治6年)7月井上勝は山尾大輔と意見があわず、辞表を提出
10月伊藤博文は洋行から帰国して、参議兼工部卿となる。
1874年(明治7年)1月伊藤等の説得によってか、井上勝、鉄道頭に復職
2月井上鉄道頭は鉄道寮の大阪移転を実行、5月から大阪勤務になる。
5月11日大阪~神戸間が仮営業開始
10月7日新橋建築課を廃止し運輸課修繕科に合併
1875年(明治8年)11月25日工部省の組織を改正、7寮を設ける。
土木寮は大蔵省へ、測量司は内務省へ、製鉄・造船・勧工は製作寮に合併、営繕が寮となる。
鉄道・鉱山の2寮は1等、灯台・電信・製作・営繕・工学の5寮は2等扱い。
1876年(明治9年)9月京都~大阪間まで仮開業
1877年(明治10年)1月官制改革により7寮および省中諸局を10局とする。
(工作・営繕・鉱山・鉄道・灯台・電信・書記・会計・検査・倉庫の10局)
鉄道寮・鉱山寮が廃止され鉄道局・鉱山局になる。井上勝は工部小輔兼鉄道局長となる。
製作・工学の2寮は工作局に所属することする。
鉄道局はひきつづき大阪に置かれ、新橋の運輸課を新橋鉄道局と改称
神戸出張所は神戸鉄道局と改称
大小丞の職制を廃止、奏任官は大書記官・権大書記官・少書記官・権少書記官
2月5日天皇を迎えて京都~神戸間の開業式を挙行
2月20日京都出張所を廃止し、本局に戻す。用地は5月25日東本願寺へ原価で売り戻した。
5月鉄道局は大阪駅に工技生養成所を設置、井上は技師長も兼ね指揮監督を行う。
1878年(明治11年)5月14日大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
7月29日大久保の死によって急遽帰国を命じられた井上馨は、
大久保の代わりに参議兼内務卿に就任した伊藤博文工部卿の代わりに
参議兼工部卿となる
このとき編集長の職を失い行く宛のない中上川彦次郎を工部省にさそい、
月棒八十円の御用掛として井上工部卿の秘書的な職務につかせていている
8月起業公債収入の一部が割かれて、京都~大津間の工事開始
1879年(明治12年)3月14日井上鉄道局長が工部技監に任命される。
9月20日井上馨工部卿が外務卿に任命され、中上川も外務省に転じる
後任の工部卿には長州出身の山田顕義があたった
11月5日中上川は外交通帳事務と海外外交官との連絡を司る重職、
公信局長に少書記官の身でありながら抜擢される(本来は大書記官がなる)
1880年(明治13年)7月京都~大津間が完成
1881年(明治14年)6月鉄道局を神戸駅構内へ移転
同局に主記・建築・会計・倉庫・運輸の5課と工場を置く。
8月1日岩倉具視をはじめとする華族などが参加した私設鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定
11月11日日本鉄道の設立特許条約書が下付され会社設立、初代社長に吉井友実を選出
1882年(明治15年)2月鉄道局は日本鉄道批判の建白書を太政官政府に提出
東京~青森間を不急と決め、東京~高崎~前橋と長浜~大垣間に官設鉄道を建設すべしとの内容
4月インフレ対策で殖産興業関係費が抑えられる中、長浜~関ヶ原間の延長工事が認可
5月川口~熊谷間の工事を開始
6月赤坂区榎木坂町に鉄道局の東京出張所を設置
1883年(明治16年)3月井上鉄道局長は佐々木工部卿に稟議書を提出、官設鉄道の営業利益を用いて、
関ヶ原~名古屋間、高崎~高田間の鉄道建設に着手する提案だった。
6月参事院議長兼工部卿代理山縣有朋が鉄道局の提案を容れて、軍事的意義の重要な
中山道鉄道を政府が建設するよう訴える内容の建議書を提出
7月井上鉄道局長は、鉄道会社の役割は資金提供に限定し、建設・営業・財務は政府が
管掌するべしという方式を主張する。
7月28日上野~熊谷間が仮開業
新橋鉄道局に運輸・建築・汽車・会計・倉庫の5課を置く。
9月 鉱山局を廃止し、総務局に鉱山課を置く。
10月政府は中山道鉄道建設を内定
11月未完成区間建設の為の精密な測量と工事を開始
12月鉄道の幹線は官設鉄道が担当、私設鉄道は支線に限定するという政府の方針が確定
資金調達の為、「中山道鉄道公債証書条例」を公布
1884年(明治17年)4月長浜~敦賀間が全通
11月鉄道局、東京へ移転
1885年(明治18年)12月22日工部省を廃止し、農商務省に工鉱業行政を移管
鉄道局は暫定措置として、内閣直属となる。
農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して逓信省が発足。
鉄道局は中央機関として、庶務・管業・会計3部を、
現業監督機関として新橋・神戸に建築・汽車・運輸・会計・倉庫の5課を設置
1886年(明治19年)2月1日鉄道局は神戸から東京の旧工部省内に戻る。
2月2日新橋倉庫課は雑務・購買・受払・外国品取扱・主簿の5掛を、
新橋会計課は雑務・調査・出納・主簿の4掛をそれぞれ設置
4月14日鉄道局はさらに赤坂区霊南坂町1番地に移る。
7月木曽渓谷地帯の測量の結果、工期・費用の面で中山道は東海道の1.5倍~2倍かかる
ことが判明、井上鉄道局長は東京~名古屋間は東海道線の建設を優先させるべきことを上申
7月伊藤博文内閣は幹線についても私設鉄道の建設を認める方針を示す。
1887年(明治20年)3月松方正義蔵相は伊藤首相に幹線建設を希望する九州鉄道、山陽鉄道に保護を与え
建設するのがよいと意見書を提出。井上勝は陳情書を伊藤首相に提出し、軍事的、政治的に
幹線鉄道は鉄道局が担当するのが望ましいとの持論を述べ私鉄に厳しい条件を付けるよう要望。
5月「私設鉄道条例」を制定、86年度5社、87年度11社、88年度5社、89年度15社の出願があった。
1889年(明治22年)6月25日井上長官は新橋・神戸両倉庫課を廃して、新橋駅構内に鉄道局倉庫課を置く
7月1日新橋~神戸間が全通
1890年(明治23年)9月6日官設私設の蒸気鉄道を所管し内閣に直属していた鉄道局は
内務省外局の鉄道庁になる。鉄道庁官制公布。軌道は元から内務省管轄
鉄道は内務省土木局や地方官庁と密接に関わるという理由からであった。
12月新橋建築課の下に国府津・沼津・静岡・横川の4建築事務所を
神戸建築課の下に浜松・名古屋・彦根・長浜・京都の5建築事務所を設ける。
また新橋汽車課の下に新橋運転係事務所、神戸汽車課に名古屋・神戸の運転係事務所を設ける。
1891年(明治24年)7月井上鉄道庁長官は「鉄道政略に関する議」を提出、不採算路線でも必要ならば建設し、
そのためには官設鉄道を基軸とし、必要に応じて私鉄の買収を行うとする建議を行う。
品川弥二郎内務大臣はこの建議を受けて、新鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出、
閣議で修正され議会に提出されたが、通過しなかった。
1892年(明治25年)5月第3回帝国議会に再提出された両法案は、議員提出の諸法案と共に特別委員会に付託、
折衷されて「鉄道敷設法」と名づけられ、衆議院で修正された後、両院を通過、
6月に公布された。
7月21日鉄道庁は内務省から逓信省所管となる
1893年(明治26年)3月国会内で井上勝の批判が高まり、井上は辞表を提出、逓信大臣黒田清隆が自宅を訪問し
説得を試みるが、井上の決意は変わらず、辞表が受理される。
11月1日鉄道局は逓信省の外局となり鉄道局となる
1897年(明治30年)8月18日鉄道作業局官制公布。鉄道起業熱時代を迎えて監督行政が忙しくなった為、
官鉄と私鉄の監督を一つの機構で処理するのが適当でないとされ、
鉄道局と鉄道作業局に分離された。鉄道局長は逓信次官の鈴木大亮が兼任
1898年(明治31年)松方内閣、第三次伊藤内閣、隈板内閣、第二次山縣内閣と内閣が次々更迭され、
鉄道局長も鈴木大亮から田健治郎、中橋徳五郎、伊藤大八、古市公威と
次々かわった。このうち鈴木、田、古市は逓信次官との兼務
1899年(明治32年)異動により鉄道局長は大塚勝太郎が就任
10月新橋駅と横浜駅でレストラン開業
1990年(明治33年)3月16日私設鉄道条例にかわる私設鉄道法、私鉄を規制する鉄道営業法が公布
1994年(明治37年)逓信省鉄道局長の大塚勝太郎が退いて、青森県知事山之内一次が後任に就く
1月25日鉄道政策では戦時輸送のための鉄道軍用供用令(勅令)が制定、
鉄道軍事輸送規程としてそれの細則が定められ、軍事費調達のための通行税が新設される
これにより各私鉄は軍事輸送優先となり特に山陽鉄道が一般列車に対する影響大であった
1995年(明治38年)3月13日鉄道抵当法公布
1906年(明治39年)3月「鉄道国有法案」成立
10月から翌10月にかけて私鉄17社が国有化
11月南満州鉄道が設立
1907年(明治40年)4月逓信省内に帝国鉄道庁設置、国有化後の私鉄はこちらの所管となる。
1908年(明治41年)7月後藤新平が第2次桂内閣の逓信大臣となる。
12月国有化で巨大化した帝国鉄道を統括する為には庁では不十分とし、
内閣に直属し省からは独立した官庁としてあらたに鉄道院が誕生。
後藤新平が初代総裁に就任する。
鉄道院は鉄道庁より強い権限を持ち、監督機関であった逓信省鉄道局の業務も吸収した。
1909年(明治42年)12月16日「鉄道院官制」が改正され、日本政府が朝鮮で経営していた鉄道も鉄道院の管轄に
井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三が最初のほうにけっこういます。
御覧の通り、山尾さんの方がなぜか出世が早い(笑)
目立たないけど、案外出来る人だったのだろうか・・・
井上さんは性格が災いしてそうな気も。
明治9年はまだ「鉄道寮」の時代なので、井上さんの役職は「鉄道頭」なんですね。
う・・・「井上局長」なら、呼ばせやすいと思ったのに、「頭」なのか。
そもそもこれ、なんて読むんだっけ。かみ?とう?かしら??
呼ばせづらいわ~~どうしましょう。
======================================
「世外井上公伝」と「日本国有鉄道百年史」から補足してみました。
鉄道はともかく、鉱山業が・・・情報の齟齬が激しいので、
とりあえずペーパーメディア優先で削除訂正していますが、これもあやしい。
これはいよいよ工部省文書系を参照しないと答えが出ないかもなぁ・・・。
まあ、鉱山は蛇足なのでいまはいいです。
「鉄道をつくった人たち」の井上勝の項の内容を年表風になおしてみました。
まえに「つかえるかも!?」と思い直して買ったというのは、この内容のためで。
わりと、鉄道監督局のながれと、中のひとの役職がこまめに載ってたので、わかりやすい。
ただ、地の文ではけっこう年代が前後するので、出来事がどちらが後先かわかりにくいんですよね。
細かな日付まではないので、それを知りたい場合は、もっとちゃんとした資料から拾わないと、
だめだろうけど、今回はべつにそこまでは要らないから、これでいいかと。
後半は、後藤新平の項目から引用しました。
(各省の役職)卿ー大輔ー小輔ー大丞(複数)ー権大丞(複数)
1868(明治元年)3月大阪銅会所に鉱山掛を置く。
7月鉱山掛を鉱山司と改称し会計官に属しめる。
1869年(明治2年)5月鉱山司知事足立忠次郎が佐渡に来島し、旧金座役所跡に鉱山司支庁を設置
6月に帰郷した足立は、9月に鉱山権正兼佐渡兼大参事として赴任
7月大蔵省に属した鉱山司を民部省に移管
8月11日民部省は大蔵省と合併(形式上は両省とも存続)
9月英国公使パークスの紹介でレイが資金提供を申し入れ、
民部省・大蔵省の大輔大隈重信と小輔伊藤博文(両省兼務)が対応し井上勝が通訳を務める。
10月井上勝・大蔵省の造幣頭兼鉱山正に任じられる。
造幣寮・鉱山司は大阪にあるため、井上ははじめ大阪勤務が多く、
井上馨が民部、大蔵大丞で上司であった。
11月レイの申し入れを契機として、鉄道建設計画を承認
1870年(明治3年)3月モレルら英国技師、測量を始める。
鉄道の建設に当たっては、民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の職員が、
民部省統括の下で事務を担当。民部省監督正上野景範が事務総理となる。
3月19日東京築地の旧尾張藩邸に鉄道建設の為の事務局を置く。
3月22日横浜野毛町の神奈川県官舎(元修文館)に横浜出張所を置く。
4月山尾庸三、民部・大蔵権大丞に就任、横須賀・横浜製鉄所(造船所)を担当
5月井上勝、民部権大丞兼鉱山正となり鉱山事務に専務、東京勤務となる。
鉱山正兼民部権大丞井上勝の一行が来島し、佐渡鉱山を視察
7月民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
「鉄道掛」の組織・名称が確定
8月 鉱山採掘の事務は鉱山司にて、金属売買の事務は造幣寮にて扱うこととする。
閏10月20日太政官布告第581号を以て、民部省の殖産興業部門を工部省として新設。
横須賀・横浜の両製鉄所を民部省より継承
井上勝は工部権大丞兼鉱山正となる。
12月井上勝、工部大丞専務となる。
12月13日皇居内にあった工部省官庁舎を東京木挽町5丁目の元外務省跡に移転
鉄道掛も築地から同省内に移る。
12月19日工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
1871年(明治4年)6月16日鉄道掛は京都に出張所を設ける。
7月井上勝、山尾庸三、工部大丞となる。
鉄道掛は工事進行に従い、横浜駅に運輸掛を設置
7月27日民部省廃止
8月14日工部省に10寮1司が置かれる。鉱山掛を廃止し、鉱山寮を設置する。
(工学・勧工・鉱山・鉄道=1等、土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作=2等の10寮と測量司を設置)
8月15日井上勝は工部大丞兼鉱山頭兼鉄道頭になる。
山尾庸三は造船所担当から工学頭兼測量頭となる。
9月伊藤博文が工部大輔になる(工部省のトップ)
10月横須賀造船所・横浜製鉄所を海軍省に移管
11月岩倉使節団に伊藤が随行
12月山尾庸三が工部大丞から小輔に昇進し、大輔不在の為、実質工部省のトップに
1872年(明治5年)2月26日工部省庁舎が火災の為焼失、鉄道寮は汐留駅本屋に移転
3月鉄道寮は大阪堂島の元大村藩邸に出張所を新設して東鉄道寮とし、
元の大阪出張所(4年6月に堂島旧中津藩邸に移転)を西鉄道寮とする。
東鉄道寮は京都・大阪の、西鉄道寮は大阪・神戸の鉄道建設事務を主管とすることにした。
3月15日京都東本願寺枳殻邸を買収して京都出張所とし、
京都・大阪と京都以東の事務を担当することとする。
6月27日鉄道寮に主記・主計・倉庫・建築・運輸・技術の6課を設ける。
7月井上勝、鉱山頭との兼務を解かれ工部大丞兼鉄道頭に
8月30日赤坂葵坂旧佐賀藩邸跡に工部省新庁舎完成、鉄道寮もそちらへ移る。
9月12日新橋・横浜間鉄道の開業式を挙行、翌日から運輸営業開始
10月山尾庸三、工部大輔になる。
1873年(明治6年)7月井上勝は山尾大輔と意見があわず、辞表を提出
10月伊藤博文は洋行から帰国して、参議兼工部卿となる。
1874年(明治7年)1月伊藤等の説得によってか、井上勝、鉄道頭に復職
2月井上鉄道頭は鉄道寮の大阪移転を実行、5月から大阪勤務になる。
5月11日大阪~神戸間が仮営業開始
10月7日新橋建築課を廃止し運輸課修繕科に合併
1875年(明治8年)11月25日工部省の組織を改正、7寮を設ける。
土木寮は大蔵省へ、測量司は内務省へ、製鉄・造船・勧工は製作寮に合併、営繕が寮となる。
鉄道・鉱山の2寮は1等、灯台・電信・製作・営繕・工学の5寮は2等扱い。
1876年(明治9年)9月京都~大阪間まで仮開業
1877年(明治10年)1月官制改革により7寮および省中諸局を10局とする。
(工作・営繕・鉱山・鉄道・灯台・電信・書記・会計・検査・倉庫の10局)
鉄道寮・鉱山寮が廃止され鉄道局・鉱山局になる。井上勝は工部小輔兼鉄道局長となる。
製作・工学の2寮は工作局に所属することする。
鉄道局はひきつづき大阪に置かれ、新橋の運輸課を新橋鉄道局と改称
神戸出張所は神戸鉄道局と改称
大小丞の職制を廃止、奏任官は大書記官・権大書記官・少書記官・権少書記官
2月5日天皇を迎えて京都~神戸間の開業式を挙行
2月20日京都出張所を廃止し、本局に戻す。用地は5月25日東本願寺へ原価で売り戻した。
5月鉄道局は大阪駅に工技生養成所を設置、井上は技師長も兼ね指揮監督を行う。
1878年(明治11年)5月14日大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
7月29日大久保の死によって急遽帰国を命じられた井上馨は、
大久保の代わりに参議兼内務卿に就任した伊藤博文工部卿の代わりに
参議兼工部卿となる
このとき編集長の職を失い行く宛のない中上川彦次郎を工部省にさそい、
月棒八十円の御用掛として井上工部卿の秘書的な職務につかせていている
8月起業公債収入の一部が割かれて、京都~大津間の工事開始
1879年(明治12年)3月14日井上鉄道局長が工部技監に任命される。
9月20日井上馨工部卿が外務卿に任命され、中上川も外務省に転じる
後任の工部卿には長州出身の山田顕義があたった
11月5日中上川は外交通帳事務と海外外交官との連絡を司る重職、
公信局長に少書記官の身でありながら抜擢される(本来は大書記官がなる)
1880年(明治13年)7月京都~大津間が完成
1881年(明治14年)6月鉄道局を神戸駅構内へ移転
同局に主記・建築・会計・倉庫・運輸の5課と工場を置く。
8月1日岩倉具視をはじめとする華族などが参加した私設鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定
11月11日日本鉄道の設立特許条約書が下付され会社設立、初代社長に吉井友実を選出
1882年(明治15年)2月鉄道局は日本鉄道批判の建白書を太政官政府に提出
東京~青森間を不急と決め、東京~高崎~前橋と長浜~大垣間に官設鉄道を建設すべしとの内容
4月インフレ対策で殖産興業関係費が抑えられる中、長浜~関ヶ原間の延長工事が認可
5月川口~熊谷間の工事を開始
6月赤坂区榎木坂町に鉄道局の東京出張所を設置
1883年(明治16年)3月井上鉄道局長は佐々木工部卿に稟議書を提出、官設鉄道の営業利益を用いて、
関ヶ原~名古屋間、高崎~高田間の鉄道建設に着手する提案だった。
6月参事院議長兼工部卿代理山縣有朋が鉄道局の提案を容れて、軍事的意義の重要な
中山道鉄道を政府が建設するよう訴える内容の建議書を提出
7月井上鉄道局長は、鉄道会社の役割は資金提供に限定し、建設・営業・財務は政府が
管掌するべしという方式を主張する。
7月28日上野~熊谷間が仮開業
新橋鉄道局に運輸・建築・汽車・会計・倉庫の5課を置く。
9月 鉱山局を廃止し、総務局に鉱山課を置く。
10月政府は中山道鉄道建設を内定
11月未完成区間建設の為の精密な測量と工事を開始
12月鉄道の幹線は官設鉄道が担当、私設鉄道は支線に限定するという政府の方針が確定
資金調達の為、「中山道鉄道公債証書条例」を公布
1884年(明治17年)4月長浜~敦賀間が全通
11月鉄道局、東京へ移転
1885年(明治18年)12月22日工部省を廃止し、農商務省に工鉱業行政を移管
鉄道局は暫定措置として、内閣直属となる。
農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して逓信省が発足。
鉄道局は中央機関として、庶務・管業・会計3部を、
現業監督機関として新橋・神戸に建築・汽車・運輸・会計・倉庫の5課を設置
1886年(明治19年)2月1日鉄道局は神戸から東京の旧工部省内に戻る。
2月2日新橋倉庫課は雑務・購買・受払・外国品取扱・主簿の5掛を、
新橋会計課は雑務・調査・出納・主簿の4掛をそれぞれ設置
4月14日鉄道局はさらに赤坂区霊南坂町1番地に移る。
7月木曽渓谷地帯の測量の結果、工期・費用の面で中山道は東海道の1.5倍~2倍かかる
ことが判明、井上鉄道局長は東京~名古屋間は東海道線の建設を優先させるべきことを上申
7月伊藤博文内閣は幹線についても私設鉄道の建設を認める方針を示す。
1887年(明治20年)3月松方正義蔵相は伊藤首相に幹線建設を希望する九州鉄道、山陽鉄道に保護を与え
建設するのがよいと意見書を提出。井上勝は陳情書を伊藤首相に提出し、軍事的、政治的に
幹線鉄道は鉄道局が担当するのが望ましいとの持論を述べ私鉄に厳しい条件を付けるよう要望。
5月「私設鉄道条例」を制定、86年度5社、87年度11社、88年度5社、89年度15社の出願があった。
1889年(明治22年)6月25日井上長官は新橋・神戸両倉庫課を廃して、新橋駅構内に鉄道局倉庫課を置く
7月1日新橋~神戸間が全通
1890年(明治23年)9月6日官設私設の蒸気鉄道を所管し内閣に直属していた鉄道局は
内務省外局の鉄道庁になる。鉄道庁官制公布。軌道は元から内務省管轄
鉄道は内務省土木局や地方官庁と密接に関わるという理由からであった。
12月新橋建築課の下に国府津・沼津・静岡・横川の4建築事務所を
神戸建築課の下に浜松・名古屋・彦根・長浜・京都の5建築事務所を設ける。
また新橋汽車課の下に新橋運転係事務所、神戸汽車課に名古屋・神戸の運転係事務所を設ける。
1891年(明治24年)7月井上鉄道庁長官は「鉄道政略に関する議」を提出、不採算路線でも必要ならば建設し、
そのためには官設鉄道を基軸とし、必要に応じて私鉄の買収を行うとする建議を行う。
品川弥二郎内務大臣はこの建議を受けて、新鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出、
閣議で修正され議会に提出されたが、通過しなかった。
1892年(明治25年)5月第3回帝国議会に再提出された両法案は、議員提出の諸法案と共に特別委員会に付託、
折衷されて「鉄道敷設法」と名づけられ、衆議院で修正された後、両院を通過、
6月に公布された。
7月21日鉄道庁は内務省から逓信省所管となる
1893年(明治26年)3月国会内で井上勝の批判が高まり、井上は辞表を提出、逓信大臣黒田清隆が自宅を訪問し
説得を試みるが、井上の決意は変わらず、辞表が受理される。
11月1日鉄道局は逓信省の外局となり鉄道局となる
1897年(明治30年)8月18日鉄道作業局官制公布。鉄道起業熱時代を迎えて監督行政が忙しくなった為、
官鉄と私鉄の監督を一つの機構で処理するのが適当でないとされ、
鉄道局と鉄道作業局に分離された。鉄道局長は逓信次官の鈴木大亮が兼任
1898年(明治31年)松方内閣、第三次伊藤内閣、隈板内閣、第二次山縣内閣と内閣が次々更迭され、
鉄道局長も鈴木大亮から田健治郎、中橋徳五郎、伊藤大八、古市公威と
次々かわった。このうち鈴木、田、古市は逓信次官との兼務
1899年(明治32年)異動により鉄道局長は大塚勝太郎が就任
10月新橋駅と横浜駅でレストラン開業
1990年(明治33年)3月16日私設鉄道条例にかわる私設鉄道法、私鉄を規制する鉄道営業法が公布
1994年(明治37年)逓信省鉄道局長の大塚勝太郎が退いて、青森県知事山之内一次が後任に就く
1月25日鉄道政策では戦時輸送のための鉄道軍用供用令(勅令)が制定、
鉄道軍事輸送規程としてそれの細則が定められ、軍事費調達のための通行税が新設される
これにより各私鉄は軍事輸送優先となり特に山陽鉄道が一般列車に対する影響大であった
1995年(明治38年)3月13日鉄道抵当法公布
1906年(明治39年)3月「鉄道国有法案」成立
10月から翌10月にかけて私鉄17社が国有化
11月南満州鉄道が設立
1907年(明治40年)4月逓信省内に帝国鉄道庁設置、国有化後の私鉄はこちらの所管となる。
1908年(明治41年)7月後藤新平が第2次桂内閣の逓信大臣となる。
12月国有化で巨大化した帝国鉄道を統括する為には庁では不十分とし、
内閣に直属し省からは独立した官庁としてあらたに鉄道院が誕生。
後藤新平が初代総裁に就任する。
鉄道院は鉄道庁より強い権限を持ち、監督機関であった逓信省鉄道局の業務も吸収した。
1909年(明治42年)12月16日「鉄道院官制」が改正され、日本政府が朝鮮で経営していた鉄道も鉄道院の管轄に
井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三が最初のほうにけっこういます。
御覧の通り、山尾さんの方がなぜか出世が早い(笑)
目立たないけど、案外出来る人だったのだろうか・・・
井上さんは性格が災いしてそうな気も。
明治9年はまだ「鉄道寮」の時代なので、井上さんの役職は「鉄道頭」なんですね。
う・・・「井上局長」なら、呼ばせやすいと思ったのに、「頭」なのか。
そもそもこれ、なんて読むんだっけ。かみ?とう?かしら??
呼ばせづらいわ~~どうしましょう。
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「世外井上公伝」と「日本国有鉄道百年史」から補足してみました。
鉄道はともかく、鉱山業が・・・情報の齟齬が激しいので、
とりあえずペーパーメディア優先で削除訂正していますが、これもあやしい。
これはいよいよ工部省文書系を参照しないと答えが出ないかもなぁ・・・。
まあ、鉱山は蛇足なのでいまはいいです。
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