たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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わすれてたけど、随分前に図書館でみつけた新橋駅復元の本の中に、
新橋駅2階の見取り図がのってました。残ってるのはこれだけみたい。意外だ。
(「新橋駅の考古学」「新橋駅発掘ー考古学からみた近代ー」福田俊一著/雄山閣/2004年)
~(東棟)2階には上局、主計課、運輸局、小使、倉庫課、三井組などの事務所があったことがわかる。(…)西棟の二階に関しては、図そのものがなく用途についてはまったく不明である。しかし、開業前に許可された構内食堂がここに存在した可能性があり、さらに中央の広場に関しても特に記載はないものの、やはり開業前に許可された新聞の販売が(許可されたのは横浜駅もしくは品川駅であろう)、その後新橋駅においても開始されたとしたら、ここで売られていた可能性が考えられる。
明治七年五月には広間中央に新しい出札所が完成する。この工事によって駅舎内の雰囲気はかなり異なったものになったはずである。記録によれば、新たな出札所の設置は同様に横浜駅にも行われたようで、(…)この出札所は、添付された図によれば、広間中央のコンコースとの境目内側に設置された五角形の施設で、二ヶ所の改札口が設けられていた。ここでは上等から下等までの乗車券を一括して取り扱うことになり、従来等級別に設けられていた複数の出札所はこれを機に廃止された。そして、もとの各出札所には(…)西洋酒や果実などの売店が設置されることになった。~
み、三井組!? Σ(・ロ・;
銀行がはいってたのか・・・?為替業務でもしてたんだろうか・・・。
う~ん、井上(馨)さんの事を考えると、複雑な気持ちになりそうだ。
渡り廊下につづいて、レストラン予想も当たった!
ブラタモリで万世橋駅の2階がそうだったというから、もしかして、とも思ったんだけど。
でも復元された駅舎の2階はあんまり広くない感じだったので、レストランっていう規模の物は無理な感じもします。カフェーくらいかな。
あると決まった訳ではないですが…。でも屋根に煙突ぽいもの、あるんだよな…。
ガス灯は明治五年九月にもう点ってるけど、ガス調理器は明治三八年から旅館などの高級な所で使われ始めるので、この頃あったとすれば燃料は薪炭か。
万世橋駅のレストランは「みかど」という店で山陽鉄道の食堂列車で営業をはじめ、調理には木炭をつかっていたという…。へえ。
新聞売店があるのは都合がいいなー、ちょうど条例からめて使いたかったし…。
今、前島密の人物叢書を読んでるんですが、前島さんがけっこう、新聞普及を奨励してて、自分とこでも郵便報知やら、ひらがなしんぶんやら作って配達していたらしい。
前島さんの伝記のお陰で、廻船問屋から三菱へのながれも少し分かるし、前に読んだおなじシリーズの大隈重信より全然参考になるな。こっちだったかー。
あとは「駅のはなしー明治から平成までー」(交通ブックス104交通研究会発行/成山堂書店/1997年)から追加情報。
~ 新橋・横浜の両駅舎は、開業わずか一年二ヶ月後に改良工事が行われている。
二階左右の事務室は相互に連絡されていなかったため使い勝手が非常に悪く、
そのため横浜駅長の土肥旨一から、二階に渡り廊下の増設工事の申請が出された。
同六年一二月二一日から一一日間の工期で、新橋・横浜両駅舎広間の屋根の上に、
工事費三五〇円をかけて木造の長さ一四・五メートル、幅一・四メートルのトタン葺き
屋根の渡り廊下が設置された。この渡り廊下は、明治一一年九月の台風で両駅共に
吹き飛ばされてしまった。その後、二度と渡り廊下は設けられることはなかった。~
あ、再設置しなかったんだ。じゃあ、渡り廊下つきの駅舎の写真の場合、
かなり年代がしぼられるんですね。明治後期の写真というのは勘違いか~。
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おまけ。
「新横浜停車場」明治四十三年七月十二日 朝日新聞
鉄道院は先年来京浜間鉄道連絡の改善に苦心したる結果
東海道列車を横浜へ引込むの不利を避くる為
現在の横浜駅は単に京浜間貨物集散駅に保留し之と同時に神奈川平沼の両駅を全廃し
新に同市戸部の天神山附近に一大新停車場建設の計画を立て居りたるも
再調の末鉄道経済上余り有利ならずとし更に別個の案を立て
右天神山停車場設計を全然抛棄し之に代ふるに現在の神奈川停車場に大拡張を施したる方
遥かに得策なるを覚り略之に変更する方針なりとの説あり
二代目横浜駅のまえに、天神山停車場計画というものがあったんですね。
このかんじだと、神奈川駅→二代目横浜駅ってかんじに解釈してもよさそうですね。^ ^)
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