たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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明治43年7月27日の東京朝日新聞の広告に鬼怒川水力電気株式会社の創立委員と発起人の一覧が載ってたんですが、京王の初期重役陣とメンバーが完全に一致してた。
ここまで露骨だと・・・なんだかな・・・。(=口=;;)
明治43年9月の京王電気軌道の創立総会で決定した面子が↓
取締役社長 川田 鷹
専務取締役 利光丈平
取締役 豊原基臣、太田信光、井倉和欽、濱 太郎
監査役 吉田幸作、岡 烈
緑の●がそうです。青いほうは京成の重役で名前があった人たち。
明治42年6月30日の創立総会の京成の役員は以下。
専務取締役 本多貞次郎
取締役 桂二郎、関博直、土居貞次、板橋 信
監査役 渡辺勘十郎、皆川文明、
相談役 松平正直
明治44年3月17日の約款改正での新規重役(利光議長の指名による)は以下
取締役 井上敬次郎、本多貞治郎、森久保善太郎、北岡鶴松、
土居貞次、利光鶴松、上原鹿造、安東敏之、木村省吾、梅原亀七
監査役 平沼専蔵、乙訓寛吉、藤江章夫、安藤保太郎
で、会長、専務は後日、井上敬次郎、本多貞治郎両氏が互選されます。
「京成電鉄五十五年史」によると、京成の胎動期、計画線の路線部分が3派競願になり、
第一:本多貞次郎、利光鶴松、野中万助、井上敬次郎の東京市街鉄道派
第二:郷誠之助男爵、飯村丈三郎、川崎八右衛門、本多弘の川崎財閥派
第三:松平正直男爵、内藤善雄、鈴木峯吉ら貴衆両議員約200名による一派
の泥沼の様相となったものの、本多氏の献身的な工作と、内務大臣原敬信任の
小山田信蔵代議士の仲介で合同を条件の特許内意があり、と
なりたちが東京市街鉄道のときと同様の内容だったといいます。
それゆえ京成はかならずしも利光一派が全部、というわけでもなかったみたいですが、
それでも京成開業まで会社を引っぱっていったのは、本多さんの努力あってだからなぁ。
鬼怒電の大口受電先の確保として小田急を、という話は聞きますが、
時代的には京成や京王もおもいっきり、そうだったんじゃないかなーと。
これは広告から四日後の続報。
「●鬼怒川水電許可 ▽市内配電も許可」明治四十三年七月三十一日 朝日新聞
従来逓信省に於ては無用なる競争と危険を防止せんが為に東京鉄道以外には
東京市内に於ける配電を許可せざることに内定せり
其結果桂川水電を始め各種の水電は早くより市内配電を申請せるも其都度之を却下せり
然るに鬼怒川水電は愈之が創立も確実となれるのみか太田黒派と合同して
企業一層有望となれるを以て大に逓信省の信用する所となり本月二十七日附けの申請に
対し意外にも昨三十日附けを以て東京市の外府下荏原、豊多摩、豊島、南足立、南葛飾
の郡部への配電を許可したり
命令書に依れば配電許可の期間は二十五ヶ年にして六ヶ月以内に会社を組織して
三ヶ年以内に営業を開始し郡部は架空線式の配電を許可するも市内にありては最初より
地下線式を採るべき義務を負ひ配電の分量には一邸宅又は構内に付き百馬力以下の送電
を禁止して東灯及び東鉄との競争を或程度まで予防したり尤も動力を使用する工場への
配電分量には何等の制限なきものの如し
配電許可の範囲も、東京市内だけでなく府下の豊多摩や南葛飾など市内外縁まであったようです。
実際、京成は大正2年5月15日鬼怒川水力と電力需給契約を締結していますし。
太田黒派と合同というのは、これかな。
「●両鬼怒水電合同」明治四十三年七月十七日 朝日新聞
鬼怒川流域中の中の島より中岩橋に至る区域は太田黒一派が水利権を掌握し居りしが
鬼怒川水電は之と合同せんとする希望を抱き従来秘密に協議進行中なりしが
愈十六日に至り鬼怒水電の利光鶴松氏が太田黒重五郎、白杉政愛、久野昌一の三氏と
会見の結果円満に合同談は成立し契約を締結するに至りたり
其の合同條件は太田黒派にて水利権一切を鬼怒電に移転する代りに之が調査設計其他
の費用として三万円を鬼怒水電に於て支出弁償し且権利株五十株を分与する事、
太田黒派の発起人は全員を挙げて鬼怒川水電の発起人に加名し其内久野、白杉、太田黒
の三氏は創立委員として参加するに決せり
太田黒一派といのは、発起人広告の紫●のひとたちです。無事合流したんだね。
さらにこれに日英水電が加わるかどうか、という記事が以下。
「●両水電合同難」明治四十三年七月二十三日 朝日新聞
太田黒重五郎久野昌一両氏は今回の鬼怒両水電合併後更に一歩進めて
鬼怒日英両水電の合同を企てたるも日英水電の主力は今や邦人の手を離れて
英国なる神戸シンジケートの掌中にあり
実に英人側に於て先にハウエル技師等に三万の俸給を払ひ遙々日本に渡航せしめたるを始め
スペヤリング商会のストラッセー氏渡米に至るまで日英水電の為に投ぜられたる資金は
英国側にのみにて既に五十万円に達し今や気息奄々たるの窮状にありとは云へ
相当の補償條件を与へて英人を満足せしめざる限り無条件の下に鬼怒水電と合同するを悦ばず
現に英京なる神戸シンジケート宛て合同賛否の照電を発せるに其回答は遅々として明快なる応答を与へず
加ふるに本邦株主側は既に申込証拠金の返戻を受けて
日英水電と関係を絶ちたる今日とて合同の成行を冷視するの傾きあり
一説には鬼怒電の進行上、日英水電側と和衷協同の態度に出でざる限り
三菱、三井、十五各銀行の系統は井、松両侯の手前を憚り鬼怒電に賛助を与へざるが為め
頻りに合同を声言して其歓心を買はんとするものなりと観察するものなり
利光さんの手記に、
「明治四十三年頃は、日露戦役後、成金時代の反動期にして、成金時代に各種の事業を
発起し財界の恐慌に襲はれて新事業は皆悉く悲惨なる逆境に陥り、未だ全く恐怖心の
消散せざる時代なれば、一般に新事業を起す事は殆んど絶望と称すべき形勢なり。
特に水力電気に対する国民一般の智識経験は頗る幼稚にして、
資産家は容易に之に投資するを肯ぜざるなり。
現に日英水力の如きは、園田孝吉男(爵)氏を委員長とし、三井家の朝吹英二(常吉
氏の厳父)早川千吉郎氏等之に加はり、其他三菱系は勿論我邦一流の富豪を網羅したる
団体にして、国家の元老井上(馨)松方(正義)の両侯を後援し、桂首相、小村外相は
英国資本家を之に結び付くるの役目を承はりて斡旋の労を取り、其委員会は時々永田町
の首相官邸に開けり。而して日英水力は東京鉄道に電力供給の契約を締結し居りたれば、
会社を創立するは実に容易の筈なり。然るに其創立容易ならず、東鉄会社に対する電力
供給契約を再度迄延期したるも遂に契約所定の期日迄に会社を創立すること能はずして
供給契約は解除となれり。此一例を以て之れをとするも、当時水力電気事業を起すの
頗る困難なるを了解するに充分ならん。」
とあり、日英水力とは、英国資本と提携して、大財閥と元老がバックに付いたかなり大規模な水電計画だったことがうかがえます。
記事中の「井、松両侯」というのは、井上馨と松方正義両氏のことだったんですね。
しかもまずは「日英水力は東京鉄道に電力供給の契約を締結し」ていたというのも、この大御所メンツならさもありなんです。
しかし、東京水力電気を前身とする鬼怒川水力創立準備組合が、エー・ウェンデル・ジャクソン氏の英国外資導入で躓いたのと同様、こちらもなかなか話が進捗しなかったようです。
しかし、利光氏は頓挫しかかった鬼怒電の事業に憤然と起ち上がって、内資でもって計画を継承し、その資金集めのために東奔西走して、事業を成し遂げます。
「外資導入計画が不成功に終わったので、鬼怒川水力電気株式会社準備組合の常任委員田 健治郎氏は、到底会社設立の見込み立たず、と断念して手をひくこととなり、創立準備組合も明治四十三年五月三十一日で解消してしまった。
ここに新進気鋭の幾人かは、徒らに他力本願的な外資導入に依存して、折角の計画を
不成功に終わらせた結果に憤激して、新たに内資によってあくまで素志を貫徹しようと蹶起した。
利光鶴松氏は、その主唱者であった。」(小田急二十五年史)
「●水電界の外交」明治四十三年四月一日 朝日新聞
鬼怒川水電は既報の如くジャクソン氏と絶縁し内資起業に決定し居れるも
四月同水電組合の定時総会を俟って発表すべき予定の下に満を持して放たず
利光鶴松氏の如き殆どジ氏契約を忘れたるが如く京阪地方より名古屋方面に
閑遊を試みジ氏の相手とならず是に於てジャクソン氏の懊悩は今や極点に達し
屡々倫敦に飛電を発して何事かハナウ氏と打合する模様なりしが最近に於て
先に提唱せる條件中(一)英国法の下に会社を組織すると(二)存続期間
二十年を五十年に改むるとの二ヶ条は之を取消し単に対東鉄契約期間十年を
二十年とする條件のみを保留して新に協議を進めたき意向を漏らせるも
鬼怒川幹部は未だ耳を傾くに至らず
「●鬼怒川水電関西発起人」明治四十三年七月六日 朝日新聞
鬼怒川水電の発起人は東西を通じて既に百余名に達したるが関西実業家より
発起希望を申込み会社側に於いても年来の関係上今更関西有力者を度外視する
能はざるの事情あり利光鶴松小林清一郎の両氏は去月末右発起者引続纏めの為
下阪し関係者を一堂に会して他日の誤解なき様実測図に就きて詳細なる説明を
与へ帰京せられたるが主なる発起者及賛成者左の如し
(大阪)田中市兵衛、土居通夫、田邊貞吉、浮田圭造、本山彦一、岩下清周、
広岡恵三、片岡直温、中橋徳五郎、島村久、田艇吉、梅原亀七、野村徳七、
宅徳平諸氏の外三十六名
(京都)田中源太郎、木村省吾、谷村一太郎、曾野作太郎、古河為三郎、
藤井善介、津田栄太郎、稲垣敬次郎、藤原忠一郎
(神戸)村野山人、金子直吉
金子さんでてきた!\(^0^)/
この結果、鬼怒電の発起人には東西の資本家が勢揃いするすごい人数になったのですね。
金子直吉さんは、賛成人ですが、岡烈さんは、発起人の一人として名を連ねています。
千代田瓦斯の創立は、鬼怒川水力の発起と時期が並行していて、どっちが先とか後とかは分からないんですが、この辺を通じて神戸鈴木商店の関東進出がすすんでいったのかなぁ・・・と。
ちなみに、京成の社史p145にも
「こうして会社は創立されましたが、このままでは第2回の払い込みも不安なばかりでなく、今後の社運営業上からも急速に経営内容充実を図る必要があるので本多専務は先輩知人を煩わし、更に整理委員を設けて株主強化に着手、このため安樂兼道を委員長とし、そのほか多数の委員を委嘱しました。そして大阪方面では野村徳七・松本重太郎・梅原亀七・竹原荘次郎・柴山鷲雄・京都では木村省吾、名古屋では奥田正香・横浜では平沼専蔵など多くの援助賛成者を獲得・更に賀田金三郎・太田黒重五郎・大塚常治郎・岡烈・小池国三・荒井泰治・藤江章夫・横田千之助など東京周辺の協力者も得て懇請した結果、野村徳七、奥田正香、木村省吾のほか賀田・大塚・岡・小池・荒井・太田黒・平沼・岩下などが引き受け、肩替わりに成功しました。この努力によって第2回の払い込みはもちろん会社として積極的運営の目標が確立しましたので、測量・土地買取に取りかかることになったのです。」
と岡烈さん、他、鬼怒電で一緒になった人たちの名前が随分散見されます。
ちなみに、広告の赤●は、東京電車鉄道時代からの東鉄の重役です。
京成の青●の人でも、井上敬次郎さんは東鉄常務だし、安藤保太郎さんは東鉄の電灯部の主任だったみたいで、「これもう出来レースじゃねえか (=口´=;」って思うんですが、事はそう簡単な話じゃなかったみたいで、
ふたたび利光さんの手記より
「東京鉄道と電力供給契約を締結せしは、会社創立の前年即ち明治四十二年にして、
準備組合時代なり。其契約に於ては最高弐万馬力を供給するの約束なり。後会社創立
の翌年、即ち明治四十四年五月に至り追加契約を為し結局五万馬力迄を供給するの
約束となれり。
初め東鉄は、日英水力と弐万馬力買収の契約を結びたるに、日英水力は会社を成立
すること能はず、再度迄契約の延期をなしたるも遂に会社を成立し能はざるに依り、
東鉄は日英水力の契約は之れを破棄し、他に電源を求むるに至れり。
鬼怒川動力会社準備組合は是に於て、日英水力に代りて東鉄と電力供給契約を結び
たるなり。其電力供給契約を結ぶに当りて非常なる競争起り、予は此際より既に幾多
の苦労せり。其の時東鉄に電力を売込まんとして競争を試みたるは、安田(善次郎)
雨宮(敬次郎)小野(金六)氏等の桂川水力、浅野総一郎氏の吾妻川水力、大岡育造、
川原茂輔氏等の大利根水力、東京電灯会社、前に一旦破約されたる日英水力並に
鬼怒川動力会社準備組合等なり。
競争劇甚の結果、東鉄は其取捨に迷ひ、井上敬次郎、児玉隼槌、吉村恵吉氏等は、
実地を踏査し、工費低廉にして速成の見込充分なるものを撰び之れと契約を結ぶを、
東鉄の利益と決し、鬼怒川水力は其条件を具備する水力と認められて月桂冠を戴けり。
再び云ふ予が其間の苦心は容易ならざるものありたり。」
日英水電がダメになって、東鉄が電源をほかにもとめ、それを狙って奪い合いがおこり、
鬼怒電に決まったのが明治42年ということなので、利光さんが先頭に立って事を起こす前ですね。
むしろ、そこから両社が接近していったと考えるべきか・・・。ふむ~ん。
京王に関しては、初期重役陣がしくって、川田鷹さんが森村さんに相談をし、森村さんが和田さんにはかって、和田さんがこれを引き受けたため、途中から富士瓦斯紡績圏内にはいっちゃうんですよねぇ。
富士紡の和田さんは玉電の津田興二専務と知り合いで、富士紡の余剰電力を活かすために電力需給契約を締結、駒沢に変電所を設け「東京幹線」を確立させる事によって、富士紡は供給区域をゲットするんですが、それが明治44年~大正2年10月。
京王は大正4年、玉電から受電を開始するようになります。
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