たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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昨日は「風立ちぬ」公開日で上京してきた母親と一緒に見てきました~。
パルテノン多摩の近くだったんで、ついでに旧富澤家も覗いてきました。
入場者記念プレゼントでトマトジュースを貰ったんですけど、
「わざわざコラボ商品を作ったのか!?」と思ったら、但し書き見ると
堀辰雄作品関連で昔から商品化されているものだった。
多摩市が長野県富士見町と友好都市である関係から配布しているらしい。
このトマトジュースについてはイオンシネマ多摩センターのツイッターアカウントだけが
ヒットしたので、もしかしたら他の所では配ってないのかもしれない・・・。
(以下はややネタバレかもです)
お話は、面白いとかつまらないとか抜きで、理由は分からないけど感動しました。
大人な描写があったんで、お子さん連れはビックリしたんじゃないかな。
私も挙動不審になりました…(汗)
主人公の二郎さんが童顔でマツゲが長くて、やや小柄で個人的にやばい感じです。
あいくるいとおしい・・・。あんまり表面に葛藤がみえないのがまた魅力的。
あと飛行機マニアより鉄道マニアが垂涎じゃないですかねってくらい、
よさげな列車がいっっっぱいでてきます、オススメです。
登戸行きの電車は、あれ南武線でいいのかなぁ?背後の立体交差は小田急かな?
あと名古屋駅前のカブトビールの主張がすごかったけど、
東海道さんは駅前にビール看板建てるのが趣味なんですかね???
キリンビールと新橋・横浜駅の関係が面白かったから、カブトビール調べるのも面白そうだ。
などなど。
あと太平洋戦争をあつかった作品は多いけど、関東大震災を描写したアニメ映画って
あんまなかったかもしれない、というのが個人的に斬新な気持ちがしました。
ちょっと、地震を取り扱う時期が早かったような気がしないでもないけど、
そこを逃げないのも表現者の胆力かも知れない。
そのあとの、昭和初期の銀行の取り付け騒ぎとか、ちょっと悪いけど、
昭和史的ににやにやしますね。
そして、こちらが旧富澤家。
パルテノン多摩の上の中央公園で、いちばん奥まった場所にあります、
静かです。さいわい、曇りでそんなに暑くなかったんで散歩がじつに快適でした!
表門(医王門というらしい)を入ると、直ぐ目の前が形の良い池になってて、
鴨の親子がくつろいでます。
というか、この公園のあっちこっちで鴨の親子が練り歩いてるんで、
なんというか、なごみまくりです。
トンボも沢山とんでいて、じつに涼やか。
古民家風の家としてもかなりイカしてます。
勝手口の表札が「旧富澤家」なのが、ちょっと変な感じですが。
表玄関がまた立派なんだ。これが歴史ある名主の証なのか。田中家はまた武家風でしたけど。
庭の岩に碑文がありました。多摩ニュータウン実現に尽力した顕彰らしい。
小田急で帰る母親とはそこで別れて自分は永山でご飯を買い。
なんと、銀タコが昨日で最終営業だった、ショック!!
はじめてここのたこ焼き食べた時は、油でかりっと仕上げるという部分に衝撃を受けたもので。
あのころは、SEIYUの中にあったんですけどね。
聖蹟のもずいぶん前に撤退してしまったし、銀タコも後退気味なのかなー残念。
永山の山の中にあった諏訪の碑。
多摩ニュータウン入居は永山から、というのが有名だけど、じつは諏訪もいるんです。
諏訪の商店街は自分も自転車飛ばしてよく買い物しに行ったくらい、
市内で求心力のある地域だったんですけども、いまやシャッター街です。
スーパーもかなり前に撤退しましたし、永山駅が今その代わりを担っているんじゃないかな。
先々週の平成狸合戦ぽんぽこで、妖怪大作戦を決行していた団地はもしかしたら諏訪かもしれない。
基本的に公団型の団地って全部同じに見えるんで、愛宕とかの方の可能性もあるけど、
積み木みたいな屋根が画面下に見えたんで、もしかしてあそこの幼稚園かな?と少し感じたので。
この碑の説明みると諏訪の地区名はあとからつけたものなんですね。
地名としての諏訪はあったけど。
パルテノン多摩にある歴史ミュージアムも少し覗いたんですけど、
多摩ニュータウンの範囲自体は多摩市だけでなく八王子や稲城にも広がっているので、
ぽんぽこの舞台は必ずしも市域に拘る必要もないんですが。
実際冬のシーンは八王子の工事現場までロケハン行ったと、ジブリの公式にもかいてありましたし。
最後にぽん吉たちと再会するゴルフ場は、屏の形は府中カントリークラブっぽいような気もする(住宅街に隣接してるし)けど、自分のイメージはアメリカに接収された稲城の多摩弾薬庫跡ですね。
広いし静かなんだあそこは。俯瞰すると、多摩川や府中から先の夜景が綺麗だし。
昔、府中競馬場の花火大会で部活のみんなと行ったとき、
上々颱風さんが「いつでも誰かが」を演奏してて、恐ろしい事にあの曲リピートがなっっっがいんで、
後半気が狂いそうになりながら聞いてた思い出と、このシーンがリンクします。T▽T)
ところで第一次入居が諏訪永山はいいとして、次の入居がどこなのだかがイマイチ判然としない。
東寺方・和田・愛宕と貝取・豊ヶ丘はどっちが古いんだろう。
図書館の雰囲気からだと東寺方のが古そうだなぁ。(雫のお父さんの勤務先のモデルだと思われる)
一時的に計画が中断していた時期もあるみたいですが、
それは愛宕と豊ヶ丘ができる前かな?後かな???
聖ヶ丘や唐木田は昭和60年代入居がメインで計画の中では新しい方だから、計画続行後だとは思う。
ミュージアムに昭和50年末頃の唐木田の映像が残ってましたが、
ほんと山奥の田舎の景色まんまでした。
今では瀟洒な西洋風の住宅街になってますけど、あれは小田急の影響なんだろうか???
はるひの駅周辺も似たような西洋風のちょっと中産階級よりは上風味なかんじでしたし。
う~ん、どうにも、戦後の行政系の文書って膨大な割に中身も面白味も見つけられなくて
読む気がしないんですが、どっかにとっかかりがないかなー。
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ぐだぐだに1ヶ月たってしまった・・・。
漫画の続きをアップしました。
もともと用意していた落ちはここまでだけど、
前半とつなげる為にもうちょい、続くかもです。
それにしても、あつい。
追記:あ~~、それと今更ですがもしかしたら、女性向けなアレかも知れないです。一応ご注意を。
漫画の続きをアップしました。
もともと用意していた落ちはここまでだけど、
前半とつなげる為にもうちょい、続くかもです。
それにしても、あつい。
追記:あ~~、それと今更ですがもしかしたら、女性向けなアレかも知れないです。一応ご注意を。
東京人8月号が東京古道特集だったんで、ちょっと高いけど買ってしまった。
今なら、京王ポイント券で本を買うとクリアファイルもらえるよ!ひゃっほーっ
それと、今更ながら銀の匙にも手を出しました。
やっぱり面白いね。動物のお医者さんの再来かと錯覚する、この懐かしい感じも!!
「開拓使」という言葉がわりと頻出するのがぐいぐい来ますね。
開拓使というと、幕末に八王子千人同心が北海道開拓で派遣されてるんですよね。
多摩はほぼ天領だったから藩主が居なくて半士半農、豊臣の刀狩りも及ばなかった土地なので、刀を持ちながら鍬も持ったような家が多くて、完全サラリーマンな藩士よりも開拓に向いてたんだそうで。
すると、この中にも八王子出身のご先祖様の末裔が・・・!!
アキのひいばあちゃんがいちばん好きです。御言葉がカッコ良すぎて。
卒論で少彦名神が奉られている主な神社を調べたときに知ったんですが
少彦名神って大国主命と国土開拓した神様だから、
明治期に北海道でばんばか神社が創立してるんです。
なんで、明治にこんな乱立されてんの!?って思ったら、北方開発の守り神だったんだーね。
府中の大国魂神社もご祭神は大国主命と同一視されているらしいけどよく分からない。
大国魂神っていったら大歳神の子であって、大己貴命ではないような気もするんですが
神社に飾られる絵馬には、あきらかに因幡の白兎伝説っぽい絵が描かれているんで。
でもまあ、当時の蝦夷地開拓の性質から行ったら、これであってるのかもしれない。
魂はあきらか多摩とかかってるから地元の国神が中央の国神と合体した結果なのか。
武蔵野と多摩の使い分けもよくわからないけど。
どっちも万葉集時代から使われてる地名だから古いは古いし。
武蔵野台地のように原っぽいのが武蔵野で、多摩川に近い沖積地帯が多摩なのかな~?
大国魂神社はこのボーダーにあるイメージです。(北と南で)
ただし、そこまできっちり分化してる感じもしないのが悩ましい所ですね。
結論:よくわからない。古代って、いつもそう。
ブラタモリでやってた府中の古道も、国衙の跡も、
2000年代になって発掘でわかったばっかりのわりと新しい研究成果なんですよね。
それまでは国府の場所すら憶測に過ぎなくて、幻の国府よばわりされてて、候補地が高安寺だとか御殿跡地だとか高倉だとか坪の宮だとか、色々いわれてたらしい。宮司の猿渡盛厚さんなんかは京所を主張されてたらしいけど、神社の真下だとはだれも云わないんだ不思議。
大国魂神社は昭和40年~50年代には今ほど立派ではなく、改築の必要があって、その機会に発掘調査ができないかという話になり、当時の矢部市長と相談して協力を得、埋蔵文化財担当がいなかった教育委員会に専任を用意して「武蔵国府関連遺跡」として昭和51年に発掘調査を開始。
参集殿の調査で8世紀のものと思われる大きな掘立柱の遺構が、それまでの竪穴式住居の上を突っ切って建てられた事が分かり、これが国庁の一部であろうということになる。
ただ、民家の建っている土地にはなかなか手が出せないので、社地以外は売地が出たら市で買収して、ということをしてって、ようやっと国衙の位置を近年特定したのですね。
国分尼寺の跡地もはじめは分からなくて、
国分寺と東山道武蔵路をはさんで建っていた事がやっと分かったらしい。
イトーヨーカドーの駐車場だった、府中本町駅横の土地も、御殿地として去年くらいまで発掘されてましたし、そこの結果もそろそろまとまるんじゃないかなあ。
先月、鯛焼き屋があった広場に看板がたってて、府中駅南側が大規模開発する予定らしい。
また色々出て来るんだろうなぁ、と期待しきりです。
5時に夢中サタデーでの今日は何の日、歴史解説コーナーで、ライトを取り上げててびびりました。
近代建築3巨匠の一人だそうです。
大倉組が帝国ホテルを設計させたときに、むちゃむちゃな注文を連発して経費を嵩ませるんですが、
大倉喜八郎頭取が金に糸目をつけずに許可だして擁護するものの、
結局がまんしきれずに完成を見ず国に帰っちゃったという、わがままプリンスさん。
(旧帝国ホテルは明治村に玄関部分が保存されているらしい)
それがレゴ・アーキテクチャーシリーズででているよ、という宣伝でした。
個人的には旧帝国ホテル(ハスの池がまん前にある)のカラー写真が拝めたので万々歳です。
ついでにバイキングの由来解説でも帝国ホテルからんできました。>インペリアル・バイキング
「北欧と言えばバイキング」で定着してしまったという雑っぷり(笑)
最近は本来の意味合いのビュッフェが市民権得てきましたけどね。
それにしても、テレビで見る宇多丸さんは落ち着きがなく見えて、集中してお話しが聴けない・・・。
やっぱりラジオのがいいな。
近代建築3巨匠の一人だそうです。
大倉組が帝国ホテルを設計させたときに、むちゃむちゃな注文を連発して経費を嵩ませるんですが、
大倉喜八郎頭取が金に糸目をつけずに許可だして擁護するものの、
結局がまんしきれずに完成を見ず国に帰っちゃったという、わがままプリンスさん。
(旧帝国ホテルは明治村に玄関部分が保存されているらしい)
それがレゴ・アーキテクチャーシリーズででているよ、という宣伝でした。
個人的には旧帝国ホテル(ハスの池がまん前にある)のカラー写真が拝めたので万々歳です。
ついでにバイキングの由来解説でも帝国ホテルからんできました。>インペリアル・バイキング
「北欧と言えばバイキング」で定着してしまったという雑っぷり(笑)
最近は本来の意味合いのビュッフェが市民権得てきましたけどね。
それにしても、テレビで見る宇多丸さんは落ち着きがなく見えて、集中してお話しが聴けない・・・。
やっぱりラジオのがいいな。
しまった、今週本返さな。
一応砂川さんの財閥人物シリーズは、陶器のほうの大倉一族以外は読みました。
もう頭いっぱいで、入りません。
「大倉喜八郎の豪快なる生涯」だけ生涯学習館みたいなところにはいってて、
それを取り寄せてる間、別の大倉さんの本を借りたら、なんと大倉喜八郎さんの息子さんの著書でした。
「逆光家族ー父・大倉喜八郎と私ー」というタイトルなんですが、
実際は父親との思い出は殆どなくて、正直「僕とおかんと時々おとん」くらいが妥当な内容でした。
ただし、ばりばり内輪の話なので、内容は濃厚というか昼ドラというか、
とにかくお母さん(60歳差のお妾さん)の性格が強烈すぎでした。
年の差がありすぎたことと、妾であると云うことと、成金の豪勢な生活に一番近い所にいて、
それを真っ当に享受できない立場だということが、総てを歪(いびつ)なものにしてしまった感じ。
それでも、普通の結婚をしてたなら、著者の親子関係も対人関係もここまで引き裂かれることは
なかったのかなぁ、とおもうと切ないです。
まあ、そこは自分的に重要ではないんですが。
喜八郎氏は向島に豪勢な別荘を建てて大切にしていたんですが、そこの女中頭がこの主人公の
お母さんだったんですね。喜八郎氏の死後、この別荘を追い出されることになって、築地とか
住まいを転々とするんですが、財テクで郊外に巨大な家を建てるという話になったところで、
思わぬ地名が飛び出してくるんですよ。
~築地の長屋住まいも諸費節約に役に立ったのかも知れないが、しばらく用立てていた貸金の利子も
いくらか建設費の足しになるくらい溜まったのだろう。わが家は磯上さんのような青年が現れる
一方、上二番町の家にしつっこく勧誘に来ていた保険の外交員が、とりかえひきかえ人を連れて
現れ、幡ヶ谷なら市内に近くてよいの、その先の松沢村なら農地だから安いのという話が夜遅く
まで続き、そこへ母が方角だの四柱推命だのを持ち出すから話が白熱するわりにはまとまらなかった。
~
・・・幡ヶ谷?・・・松沢???
それって、もしかして京王沿線か!!!!うひょー!と。
時期的には昭和6年くらいなんで、震災後の郊外移転現象まっただ中ではあるんですね。
そのなかで、気位の高いお母様が人生を賭として建てようという、郊外の新築家屋の有力候補地で
名前が挙がっているというのは、京王の沿線価値がたしかに高まってきたことの証左ですねこれ。
さらに、引越し当日にはこんな記述があります。
~その日に限り、許されていたタクシーに乗って、運転手も助手も甲州街道は代田橋から先は行った
ことがないというのをなんとか頼んで走ってもらい、街道筋から田舎道に入ると道の真中で焚火を
している。子供が自動車だと喚声を挙げて追いかけて来、畠では農夫が仕事の手を休めて走る
自動車を眺めていた。~
大倉喜八郎氏の葬儀の時には東京中の自動車があつまった、と云われるくらいで、
そのころの自動車台数が計れそうですが、それなりの普及はみせていても、新宿からさきは
珍しがられる程度のものだったというのも、ここでわかります。
とくに「代田橋から先は行ったことがない」と渋られるあたり、この当時のタクシーの営業範囲を
示しているようで面白い。
結局この世田ヶ谷の新築の家が、どこにあったのかの表記はないのですが、
周辺で一番大きな家になった、と書いてあります。
もし残っていれば、一種の史跡になったのかもしれませんが、残念なことに空襲でこの家だけ
燃えてしまったそうです(周辺の民家は無事だったので狙い撃ちか)
あと、ちょうど帝都電鉄が建設中だったんで、サイクリングでよく工事現場を見に行ったりもして。
でもそこは、たった一行しかなくて、そこの描写、もっとくわしく!!!!と思いました。
もったいないな~。鉄じゃないと、興味はそんなものか。
ほかにも、興味深い文章としては、
~私は母が干渉しなければそれだけ天国で、築地から月島に渡る無料の渡船で半日川を往ったり
来たりして、しまいに船員に追い出され、日曜の午前中は近所の銭湯をプール代わりにし
「ふやけて身体中にしわが寄るほど入る奴があるか。へそがどこにあるか見えないじゃないか」
と風呂屋のおやじにこれまた追い出されて、たちまちその辺の悪童の一人に数えられるように
なった。
これも、もともと露地の印刷屋の子に教わった遊びだか、素性がよいのか悪いのかすぐ先輩格に
なって、こんどは一緒に月島へ行って休みの工場の錆びの出たトロッコで汽車ごっこをやり、
脱線すると元に戻せないから次の工場でまた遊ぶ。不況のさ中、操短中の工場が多かったから、
こんなことが出来たのだが、何台トロッコを脱線させ線路から遠い地面に置き去りにしただろう。~
とか
~省線の飯田橋から有楽町に出て築地まで歩くのが私の定まった通学コースだった。前から格安の
市電で通うように母から云われているのを無理に友達がいるからと、省線に変えてもらったのは
実は定期券をパス入れに入れ、首から掛けてみたかったからだった。
帰り途は有楽町まで行かないで東京駅で得々として新しい定期券を出して見せ、当時始まった
ばかりのデパートの送迎用無料バスに乗って銀座に出る。三越のバスは真赤で大きく堂々として
いるが私の乗る方は屋根の上に大きくマークが描かれてビル時代に対応したバス広告と称揚され
た松屋のバスだった。
生意気な小学生が毎日乗るからとうに顔を覚えられている。それを知っていて、こちらも大人を
困らせる方法を考える。それは松屋に着いたら遠慮しないで一番先に大威張りで飛び降りるのだ。
うっかり後から降りると白手袋をはめてにこやかにお辞儀をしている女店員につかまって、
「こんど乗って来たら承知しないわよ」と小声で叱られ、列の後ろで眼を三角にして睨んでいる
守衛にまた怒られる。
だから一番先に降りるのが一番安全だった。意気揚々と店内に入って地下売場に通じる銀座に
一台しかないエスカレーターで遊び、そのうち売場の誰かに叱られてやっと家路につく。とき
どきエスカレーターがこの時間には停まっていて、夕方母と一緒に買物に出掛けるときは動いて
いたのは、私だけではなくこの近所の悪童の遊び場になるのでその時間止めてあったのかも知れない。~
とか。昭和恐慌で工場が不景気なのと、震災後、デパートがなんか勢いづいてくるのと、
一種真逆のような現象がおもしろい。この頃、エスカレーターは銀座に一台しかなかったんですね。
送迎バスが無料で運行していて、それぞれのカラー(特色)を出していたというのも面白いです。
この人の著書には続編で「男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生」という本もあり、
「逆光家族」のなかで魅力的にみていた喜八郎さんの後継者、喜七郎さんにもうちょっと接近した
物語になっているんですが、こっちも面白かったです。
喜七郎さんはよくある2代目の苦悩もあり、典型的なぼんぼんなんですが、
事業としてはホテルオークラを結実させたんで万々歳じゃないかなと。
ホテル業界で評価ナンバーワンですよねオークラって。
基本的には趣味も食事も金に糸目をつけないタイプなんですが、横浜でシューマイをお土産に買って帰るような大衆性も、ちょこちょこあるみたいで、ん?それって崎陽軒か!?と。
大倉財閥は小田原にも別荘をもっていて、大倉夫人なんかは向島には近寄らず、そっちによくいっていたりするんですが、塔ノ沢にも小さな別荘をもっていて、そこの敷地は登山鉄道にかかっていたそうです。
~大正七年、登山電車を通すとき、半分トンネルに潜ったような塔の沢の駅のあるところから
次のトンネルに入る、ごくわずかな線路が御当家の土地にかかるから売ってくれと言ってまいりました。
なんでも法律で線路を通すのに借地に引いてはいけない、自前でなくてはならないのだそうで
ございます。
ところが老公は一向にお聞き入れにならず、仕方なしに細長い十何坪の土地を御当家から借り上げて
電車を通すことになりました。日本中で借地の電車が走っているのはここだけでございますな。~
これは、ほんとうなのかな~。すくなくとも、大倉側はそう思ってたってことですよね。
なかなかこれも、おもしろいエピソードです。
こっちの本では小田急がわりとでてきましたね。
復員した著者が、ご厄介になる先生が、小田急沿線の成城学園の教師だったりします。
小田急と成城学園って、やっぱりきれない仲なんだなぁ。路線イメージの底上げになってますよね。
さらに、もう一冊「鯰ー元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」も読みました、がこれは、
砂川さんの本とだいぶ重複した内容でしたね。
というか、砂川さんの方がこの本を読んで、大倉喜八郎を擁護したくなって本を書いたみたいなんで、
だいぶ影響を受けてますが。大倉雄二さんの立場からだと、喜八郎に辛辣になるのはまあ、
しょうがないな、とは処女作読んだから思うんですが、その分、誰よりも調べ込んでいるし、
「石ころ缶詰事件」については、自分も被害者であるだけあって、一生懸命反証していますね。
大倉喜八郎さんというと、私にとっては「東京高速鉄道」でなんか名前見たな、というのが
いちばん印象強いんですが、実際やってる事業はそんな規模じゃなかったですね。
とくに中国の政治家とは日本国内では希に見る友好関係を築き上げていて、目をむく勢いです。
段祺瑞とか張作霖とか徐世昌とかの名前がぼこぼこ出て来る。
張作霖は超美形だった!と喜八郎氏についていった著者のお母様は信じ切っていたけど、
実際は彼の秘書だった、というオチがおもしろいです。というか、秘書の顔見たいわそれ。
あと門野兄弟。門野重九郎と門野幾之進も、大倉さんと同じく、ちょいちょいあちこちで名前を見る
人だったんですけど、勤め先ちがってた。
重九郎のほうが、大倉財閥の万年副頭取で、幾之進が千代田生命の社長さん。
けっこう、この二人がごっちゃごちゃになってくるんで、今回整理出来てよかったです。
てか兄弟だったか、と。
一応砂川さんの財閥人物シリーズは、陶器のほうの大倉一族以外は読みました。
もう頭いっぱいで、入りません。
「大倉喜八郎の豪快なる生涯」だけ生涯学習館みたいなところにはいってて、
それを取り寄せてる間、別の大倉さんの本を借りたら、なんと大倉喜八郎さんの息子さんの著書でした。
「逆光家族ー父・大倉喜八郎と私ー」というタイトルなんですが、
実際は父親との思い出は殆どなくて、正直「僕とおかんと時々おとん」くらいが妥当な内容でした。
ただし、ばりばり内輪の話なので、内容は濃厚というか昼ドラというか、
とにかくお母さん(60歳差のお妾さん)の性格が強烈すぎでした。
年の差がありすぎたことと、妾であると云うことと、成金の豪勢な生活に一番近い所にいて、
それを真っ当に享受できない立場だということが、総てを歪(いびつ)なものにしてしまった感じ。
それでも、普通の結婚をしてたなら、著者の親子関係も対人関係もここまで引き裂かれることは
なかったのかなぁ、とおもうと切ないです。
まあ、そこは自分的に重要ではないんですが。
喜八郎氏は向島に豪勢な別荘を建てて大切にしていたんですが、そこの女中頭がこの主人公の
お母さんだったんですね。喜八郎氏の死後、この別荘を追い出されることになって、築地とか
住まいを転々とするんですが、財テクで郊外に巨大な家を建てるという話になったところで、
思わぬ地名が飛び出してくるんですよ。
~築地の長屋住まいも諸費節約に役に立ったのかも知れないが、しばらく用立てていた貸金の利子も
いくらか建設費の足しになるくらい溜まったのだろう。わが家は磯上さんのような青年が現れる
一方、上二番町の家にしつっこく勧誘に来ていた保険の外交員が、とりかえひきかえ人を連れて
現れ、幡ヶ谷なら市内に近くてよいの、その先の松沢村なら農地だから安いのという話が夜遅く
まで続き、そこへ母が方角だの四柱推命だのを持ち出すから話が白熱するわりにはまとまらなかった。
~
・・・幡ヶ谷?・・・松沢???
それって、もしかして京王沿線か!!!!うひょー!と。
時期的には昭和6年くらいなんで、震災後の郊外移転現象まっただ中ではあるんですね。
そのなかで、気位の高いお母様が人生を賭として建てようという、郊外の新築家屋の有力候補地で
名前が挙がっているというのは、京王の沿線価値がたしかに高まってきたことの証左ですねこれ。
さらに、引越し当日にはこんな記述があります。
~その日に限り、許されていたタクシーに乗って、運転手も助手も甲州街道は代田橋から先は行った
ことがないというのをなんとか頼んで走ってもらい、街道筋から田舎道に入ると道の真中で焚火を
している。子供が自動車だと喚声を挙げて追いかけて来、畠では農夫が仕事の手を休めて走る
自動車を眺めていた。~
大倉喜八郎氏の葬儀の時には東京中の自動車があつまった、と云われるくらいで、
そのころの自動車台数が計れそうですが、それなりの普及はみせていても、新宿からさきは
珍しがられる程度のものだったというのも、ここでわかります。
とくに「代田橋から先は行ったことがない」と渋られるあたり、この当時のタクシーの営業範囲を
示しているようで面白い。
結局この世田ヶ谷の新築の家が、どこにあったのかの表記はないのですが、
周辺で一番大きな家になった、と書いてあります。
もし残っていれば、一種の史跡になったのかもしれませんが、残念なことに空襲でこの家だけ
燃えてしまったそうです(周辺の民家は無事だったので狙い撃ちか)
あと、ちょうど帝都電鉄が建設中だったんで、サイクリングでよく工事現場を見に行ったりもして。
でもそこは、たった一行しかなくて、そこの描写、もっとくわしく!!!!と思いました。
もったいないな~。鉄じゃないと、興味はそんなものか。
ほかにも、興味深い文章としては、
~私は母が干渉しなければそれだけ天国で、築地から月島に渡る無料の渡船で半日川を往ったり
来たりして、しまいに船員に追い出され、日曜の午前中は近所の銭湯をプール代わりにし
「ふやけて身体中にしわが寄るほど入る奴があるか。へそがどこにあるか見えないじゃないか」
と風呂屋のおやじにこれまた追い出されて、たちまちその辺の悪童の一人に数えられるように
なった。
これも、もともと露地の印刷屋の子に教わった遊びだか、素性がよいのか悪いのかすぐ先輩格に
なって、こんどは一緒に月島へ行って休みの工場の錆びの出たトロッコで汽車ごっこをやり、
脱線すると元に戻せないから次の工場でまた遊ぶ。不況のさ中、操短中の工場が多かったから、
こんなことが出来たのだが、何台トロッコを脱線させ線路から遠い地面に置き去りにしただろう。~
とか
~省線の飯田橋から有楽町に出て築地まで歩くのが私の定まった通学コースだった。前から格安の
市電で通うように母から云われているのを無理に友達がいるからと、省線に変えてもらったのは
実は定期券をパス入れに入れ、首から掛けてみたかったからだった。
帰り途は有楽町まで行かないで東京駅で得々として新しい定期券を出して見せ、当時始まった
ばかりのデパートの送迎用無料バスに乗って銀座に出る。三越のバスは真赤で大きく堂々として
いるが私の乗る方は屋根の上に大きくマークが描かれてビル時代に対応したバス広告と称揚され
た松屋のバスだった。
生意気な小学生が毎日乗るからとうに顔を覚えられている。それを知っていて、こちらも大人を
困らせる方法を考える。それは松屋に着いたら遠慮しないで一番先に大威張りで飛び降りるのだ。
うっかり後から降りると白手袋をはめてにこやかにお辞儀をしている女店員につかまって、
「こんど乗って来たら承知しないわよ」と小声で叱られ、列の後ろで眼を三角にして睨んでいる
守衛にまた怒られる。
だから一番先に降りるのが一番安全だった。意気揚々と店内に入って地下売場に通じる銀座に
一台しかないエスカレーターで遊び、そのうち売場の誰かに叱られてやっと家路につく。とき
どきエスカレーターがこの時間には停まっていて、夕方母と一緒に買物に出掛けるときは動いて
いたのは、私だけではなくこの近所の悪童の遊び場になるのでその時間止めてあったのかも知れない。~
とか。昭和恐慌で工場が不景気なのと、震災後、デパートがなんか勢いづいてくるのと、
一種真逆のような現象がおもしろい。この頃、エスカレーターは銀座に一台しかなかったんですね。
送迎バスが無料で運行していて、それぞれのカラー(特色)を出していたというのも面白いです。
この人の著書には続編で「男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生」という本もあり、
「逆光家族」のなかで魅力的にみていた喜八郎さんの後継者、喜七郎さんにもうちょっと接近した
物語になっているんですが、こっちも面白かったです。
喜七郎さんはよくある2代目の苦悩もあり、典型的なぼんぼんなんですが、
事業としてはホテルオークラを結実させたんで万々歳じゃないかなと。
ホテル業界で評価ナンバーワンですよねオークラって。
基本的には趣味も食事も金に糸目をつけないタイプなんですが、横浜でシューマイをお土産に買って帰るような大衆性も、ちょこちょこあるみたいで、ん?それって崎陽軒か!?と。
大倉財閥は小田原にも別荘をもっていて、大倉夫人なんかは向島には近寄らず、そっちによくいっていたりするんですが、塔ノ沢にも小さな別荘をもっていて、そこの敷地は登山鉄道にかかっていたそうです。
~大正七年、登山電車を通すとき、半分トンネルに潜ったような塔の沢の駅のあるところから
次のトンネルに入る、ごくわずかな線路が御当家の土地にかかるから売ってくれと言ってまいりました。
なんでも法律で線路を通すのに借地に引いてはいけない、自前でなくてはならないのだそうで
ございます。
ところが老公は一向にお聞き入れにならず、仕方なしに細長い十何坪の土地を御当家から借り上げて
電車を通すことになりました。日本中で借地の電車が走っているのはここだけでございますな。~
これは、ほんとうなのかな~。すくなくとも、大倉側はそう思ってたってことですよね。
なかなかこれも、おもしろいエピソードです。
こっちの本では小田急がわりとでてきましたね。
復員した著者が、ご厄介になる先生が、小田急沿線の成城学園の教師だったりします。
小田急と成城学園って、やっぱりきれない仲なんだなぁ。路線イメージの底上げになってますよね。
さらに、もう一冊「鯰ー元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」も読みました、がこれは、
砂川さんの本とだいぶ重複した内容でしたね。
というか、砂川さんの方がこの本を読んで、大倉喜八郎を擁護したくなって本を書いたみたいなんで、
だいぶ影響を受けてますが。大倉雄二さんの立場からだと、喜八郎に辛辣になるのはまあ、
しょうがないな、とは処女作読んだから思うんですが、その分、誰よりも調べ込んでいるし、
「石ころ缶詰事件」については、自分も被害者であるだけあって、一生懸命反証していますね。
大倉喜八郎さんというと、私にとっては「東京高速鉄道」でなんか名前見たな、というのが
いちばん印象強いんですが、実際やってる事業はそんな規模じゃなかったですね。
とくに中国の政治家とは日本国内では希に見る友好関係を築き上げていて、目をむく勢いです。
段祺瑞とか張作霖とか徐世昌とかの名前がぼこぼこ出て来る。
張作霖は超美形だった!と喜八郎氏についていった著者のお母様は信じ切っていたけど、
実際は彼の秘書だった、というオチがおもしろいです。というか、秘書の顔見たいわそれ。
あと門野兄弟。門野重九郎と門野幾之進も、大倉さんと同じく、ちょいちょいあちこちで名前を見る
人だったんですけど、勤め先ちがってた。
重九郎のほうが、大倉財閥の万年副頭取で、幾之進が千代田生命の社長さん。
けっこう、この二人がごっちゃごちゃになってくるんで、今回整理出来てよかったです。
てか兄弟だったか、と。