たまろぐ 大倉一家 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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しまった、今週本返さな。

一応砂川さんの財閥人物シリーズは、陶器のほうの大倉一族以外は読みました。
もう頭いっぱいで、入りません。

「大倉喜八郎の豪快なる生涯」だけ生涯学習館みたいなところにはいってて、
それを取り寄せてる間、別の大倉さんの本を借りたら、なんと大倉喜八郎さんの息子さんの著書でした。

「逆光家族ー父・大倉喜八郎と私ー」というタイトルなんですが、
実際は父親との思い出は殆どなくて、正直「僕とおかんと時々おとん」くらいが妥当な内容でした。
ただし、ばりばり内輪の話なので、内容は濃厚というか昼ドラというか、
とにかくお母さん(60歳差のお妾さん)の性格が強烈すぎでした。

年の差がありすぎたことと、妾であると云うことと、成金の豪勢な生活に一番近い所にいて、
それを真っ当に享受できない立場だということが、総てを歪(いびつ)なものにしてしまった感じ。
それでも、普通の結婚をしてたなら、著者の親子関係も対人関係もここまで引き裂かれることは
なかったのかなぁ、とおもうと切ないです。

まあ、そこは自分的に重要ではないんですが。

喜八郎氏は向島に豪勢な別荘を建てて大切にしていたんですが、そこの女中頭がこの主人公の
お母さんだったんですね。喜八郎氏の死後、この別荘を追い出されることになって、築地とか
住まいを転々とするんですが、財テクで郊外に巨大な家を建てるという話になったところで、
思わぬ地名が飛び出してくるんですよ。

~築地の長屋住まいも諸費節約に役に立ったのかも知れないが、しばらく用立てていた貸金の利子も
いくらか建設費の足しになるくらい溜まったのだろう。わが家は磯上さんのような青年が現れる
一方、上二番町の家にしつっこく勧誘に来ていた保険の外交員が、とりかえひきかえ人を連れて
現れ、幡ヶ谷なら市内に近くてよいの、その先の松沢村なら農地だから安いのという話が夜遅く
まで続き、そこへ母が方角だの四柱推命だのを持ち出すから話が白熱するわりにはまとまらなかった。


・・・幡ヶ谷?・・・松沢???

それって、もしかして京王沿線か!!!!うひょー!と。

時期的には昭和6年くらいなんで、震災後の郊外移転現象まっただ中ではあるんですね。
そのなかで、気位の高いお母様が人生を賭として建てようという、郊外の新築家屋の有力候補地で
名前が挙がっているというのは、京王の沿線価値がたしかに高まってきたことの証左ですねこれ。

さらに、引越し当日にはこんな記述があります。

~その日に限り、許されていたタクシーに乗って、運転手も助手も甲州街道は代田橋から先は行った
ことがないというのをなんとか頼んで走ってもらい、街道筋から田舎道に入ると道の真中で焚火を
している。子供が自動車だと喚声を挙げて追いかけて来、畠では農夫が仕事の手を休めて走る
自動車を眺めていた。~


大倉喜八郎氏の葬儀の時には東京中の自動車があつまった、と云われるくらいで、
そのころの自動車台数が計れそうですが、それなりの普及はみせていても、新宿からさきは
珍しがられる程度のものだったというのも、ここでわかります。
とくに「代田橋から先は行ったことがない」と渋られるあたり、この当時のタクシーの営業範囲を
示しているようで面白い。
結局この世田ヶ谷の新築の家が、どこにあったのかの表記はないのですが、
周辺で一番大きな家になった、と書いてあります。
もし残っていれば、一種の史跡になったのかもしれませんが、残念なことに空襲でこの家だけ
燃えてしまったそうです(周辺の民家は無事だったので狙い撃ちか)

あと、ちょうど帝都電鉄が建設中だったんで、サイクリングでよく工事現場を見に行ったりもして。
でもそこは、たった一行しかなくて、そこの描写、もっとくわしく!!!!と思いました。
もったいないな~。鉄じゃないと、興味はそんなものか。

ほかにも、興味深い文章としては、

~私は母が干渉しなければそれだけ天国で、築地から月島に渡る無料の渡船で半日川を往ったり
来たりして、しまいに船員に追い出され、日曜の午前中は近所の銭湯をプール代わりにし
「ふやけて身体中にしわが寄るほど入る奴があるか。へそがどこにあるか見えないじゃないか」
と風呂屋のおやじにこれまた追い出されて、たちまちその辺の悪童の一人に数えられるように
なった。
これも、もともと露地の印刷屋の子に教わった遊びだか、素性がよいのか悪いのかすぐ先輩格に
なって、こんどは一緒に月島へ行って休みの工場の錆びの出たトロッコで汽車ごっこをやり、
脱線すると元に戻せないから次の工場でまた遊ぶ。不況のさ中、操短中の工場が多かったから、
こんなことが出来たのだが、何台トロッコを脱線させ線路から遠い地面に置き去りにしただろう。~


とか

~省線の飯田橋から有楽町に出て築地まで歩くのが私の定まった通学コースだった。前から格安の
市電で通うように母から云われているのを無理に友達がいるからと、省線に変えてもらったのは
実は定期券をパス入れに入れ、首から掛けてみたかったからだった。
帰り途は有楽町まで行かないで東京駅で得々として新しい定期券を出して見せ、当時始まった
ばかりのデパートの送迎用無料バスに乗って銀座に出る。三越のバスは真赤で大きく堂々として
いるが私の乗る方は屋根の上に大きくマークが描かれてビル時代に対応したバス広告と称揚され
た松屋のバスだった。

生意気な小学生が毎日乗るからとうに顔を覚えられている。それを知っていて、こちらも大人を
困らせる方法を考える。それは松屋に着いたら遠慮しないで一番先に大威張りで飛び降りるのだ。
うっかり後から降りると白手袋をはめてにこやかにお辞儀をしている女店員につかまって、
「こんど乗って来たら承知しないわよ」と小声で叱られ、列の後ろで眼を三角にして睨んでいる
守衛にまた怒られる。

だから一番先に降りるのが一番安全だった。意気揚々と店内に入って地下売場に通じる銀座に
一台しかないエスカレーターで遊び、そのうち売場の誰かに叱られてやっと家路につく。とき
どきエスカレーターがこの時間には停まっていて、夕方母と一緒に買物に出掛けるときは動いて
いたのは、私だけではなくこの近所の悪童の遊び場になるのでその時間止めてあったのかも知れない。~


とか。昭和恐慌で工場が不景気なのと、震災後、デパートがなんか勢いづいてくるのと、
一種真逆のような現象がおもしろい。この頃、エスカレーターは銀座に一台しかなかったんですね。
送迎バスが無料で運行していて、それぞれのカラー(特色)を出していたというのも面白いです。

この人の著書には続編で「男爵 元祖プレイボーイ 大倉喜七郎の優雅なる一生」という本もあり、
「逆光家族」のなかで魅力的にみていた喜八郎さんの後継者、喜七郎さんにもうちょっと接近した
物語になっているんですが、こっちも面白かったです。

喜七郎さんはよくある2代目の苦悩もあり、典型的なぼんぼんなんですが、
事業としてはホテルオークラを結実させたんで万々歳じゃないかなと。
ホテル業界で評価ナンバーワンですよねオークラって。

基本的には趣味も食事も金に糸目をつけないタイプなんですが、横浜でシューマイをお土産に買って帰るような大衆性も、ちょこちょこあるみたいで、ん?それって崎陽軒か!?と。

大倉財閥は小田原にも別荘をもっていて、大倉夫人なんかは向島には近寄らず、そっちによくいっていたりするんですが、塔ノ沢にも小さな別荘をもっていて、そこの敷地は登山鉄道にかかっていたそうです。

~大正七年、登山電車を通すとき、半分トンネルに潜ったような塔の沢の駅のあるところから
次のトンネルに入る、ごくわずかな線路が御当家の土地にかかるから売ってくれと言ってまいりました。
なんでも法律で線路を通すのに借地に引いてはいけない、自前でなくてはならないのだそうで
ございます。

ところが老公は一向にお聞き入れにならず、仕方なしに細長い十何坪の土地を御当家から借り上げて
電車を通すことになりました。日本中で借地の電車が走っているのはここだけでございますな。~


これは、ほんとうなのかな~。すくなくとも、大倉側はそう思ってたってことですよね。
なかなかこれも、おもしろいエピソードです。

こっちの本では小田急がわりとでてきましたね。
復員した著者が、ご厄介になる先生が、小田急沿線の成城学園の教師だったりします。
小田急と成城学園って、やっぱりきれない仲なんだなぁ。路線イメージの底上げになってますよね。

さらに、もう一冊「鯰ー元祖“成り金”大倉喜八郎の混沌たる一生」も読みました、がこれは、
砂川さんの本とだいぶ重複した内容でしたね。
というか、砂川さんの方がこの本を読んで、大倉喜八郎を擁護したくなって本を書いたみたいなんで、
だいぶ影響を受けてますが。大倉雄二さんの立場からだと、喜八郎に辛辣になるのはまあ、
しょうがないな、とは処女作読んだから思うんですが、その分、誰よりも調べ込んでいるし、
「石ころ缶詰事件」については、自分も被害者であるだけあって、一生懸命反証していますね。

大倉喜八郎さんというと、私にとっては「東京高速鉄道」でなんか名前見たな、というのが
いちばん印象強いんですが、実際やってる事業はそんな規模じゃなかったですね。

とくに中国の政治家とは日本国内では希に見る友好関係を築き上げていて、目をむく勢いです。
段祺瑞とか張作霖とか徐世昌とかの名前がぼこぼこ出て来る。
張作霖は超美形だった!と喜八郎氏についていった著者のお母様は信じ切っていたけど、
実際は彼の秘書だった、というオチがおもしろいです。というか、秘書の顔見たいわそれ。

あと門野兄弟。門野重九郎と門野幾之進も、大倉さんと同じく、ちょいちょいあちこちで名前を見る
人だったんですけど、勤め先ちがってた。
重九郎のほうが、大倉財閥の万年副頭取で、幾之進が千代田生命の社長さん。
けっこう、この二人がごっちゃごちゃになってくるんで、今回整理出来てよかったです。
てか兄弟だったか、と。

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