たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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仕事以外の用事が多すぎて7月が過ぎるのはやいです。そして遊びたいです。
おそらくコミケ用であろう?イラストの原稿が14日必着で、それがわりと精神的にぐいぐい来ました。
のばせない〆切のある創作ってつらい・・・。やっぱり自分には向いてないかもです。
13日は普通に仕事でしたが、近所の郵便局がやってないので、中央郵便局へ久しぶりに行きました。
ついでに後輩の自転車借りて国分寺遺跡をかっ飛ばしてみました。昼休みに。なにやってんの楽しいね。ちょうど、天気が曇りだったんで、サイクリングが快適でしたよ薬師道!
14日も仕事で夕方までにリテークやっつけて、夜帰ったらこんどは町内会で夜10時まで会議。
そのあとはwowowでるろ剣特集やってるよ、とオヤジ殿がメールくれてたんで、
劇場版、追憶編、星霜編、新京都編と見てたら朝の6時半になってしまいました。
だからなにやってんの。(テレビシリーズは見てたけどそれ以外は見た事無かったんで)
wowowは一枚のICカードをキーとしてテレビに刺してるんですが、録画するにはハードディスクに差し替えて設定直さないといけないので、それが面倒でリアルタイム視聴してたんですけど、まさかのフルコンボで途中から見たのを後悔したような記憶もありますが、結構よかった。
劇場版は冒頭で、新橋~横浜間鉄道や横浜居留地ががっつり出てきてて、
汽車やステーションがうほほほ~い!あるいみスゲー参考資料です、動いてるしカラーだし?
その分、余計な事が気になったりもして、ホームの位置が新橋式だとか、客車がたったの3両編成だとか、明治11年の設定なのに道路になぜか馬車鉄道のレールがある?とか。
我ながら可愛くない大人になったなぁ…と。
旧会津藩がらぶい内容だったんですが、このあいだ歴史ヒストリアで「妻たちの会津戦争~反骨の家老西郷頼母と家族の悲劇~」をみたせいか、あんな目にあった会津から明治政府と奸商の癒着を指摘されて罵られるとつらいものがあるというか「うひー。すいませーん(´▽`;」という気分になってきますね。
明治11年というと、ちょうど不平士族が各地で反乱起こしている時期ですよね…。
あとは最近、多摩側から見た新撰組の本を読んでたんで、追憶編もけっこう楽しめました。
高杉さんががっつりでて、俗論党とか萩内部の混乱とかも井上馨伝のおかげで時系列わかるし。
もろもろ、たまりませんよね。
劇場版は、なんか絵がらんまっぽい、OVAは昔のハンターハンターっぽい、と思ったら同時期に作ってました(監督がおなじ人)。絵柄は星霜編がいちばん綺麗だとおもいます。日清戦争よね?
さらにそのあと録画してたAKIRAも見たので、ちょっと今、脳が液状化しかけている気がします。
映画のAKIRAって、結構長いんだね・・・。よく作ったよなぁ。幻魔大戦も無駄に長かった気が。
漫画の方は昔、箱根の国保だかの温泉宿泊施設にあったので暇つぶしに読んだ記憶が。
アキラ君が覚醒して原子力潜水艦がそれを観測するあたりまでだったかな読んだの。
なので映画は内容違うなと思いました。漫画がそのあとどういう結末なのかは知らないです。
あああー休みたりないーい。夏休み下さい。
あ、明日は最終チェック受けに本社へいかねば。orz
おそらくコミケ用であろう?イラストの原稿が14日必着で、それがわりと精神的にぐいぐい来ました。
のばせない〆切のある創作ってつらい・・・。やっぱり自分には向いてないかもです。
13日は普通に仕事でしたが、近所の郵便局がやってないので、中央郵便局へ久しぶりに行きました。
ついでに後輩の自転車借りて国分寺遺跡をかっ飛ばしてみました。昼休みに。なにやってんの楽しいね。ちょうど、天気が曇りだったんで、サイクリングが快適でしたよ薬師道!
14日も仕事で夕方までにリテークやっつけて、夜帰ったらこんどは町内会で夜10時まで会議。
そのあとはwowowでるろ剣特集やってるよ、とオヤジ殿がメールくれてたんで、
劇場版、追憶編、星霜編、新京都編と見てたら朝の6時半になってしまいました。
だからなにやってんの。(テレビシリーズは見てたけどそれ以外は見た事無かったんで)
wowowは一枚のICカードをキーとしてテレビに刺してるんですが、録画するにはハードディスクに差し替えて設定直さないといけないので、それが面倒でリアルタイム視聴してたんですけど、まさかのフルコンボで途中から見たのを後悔したような記憶もありますが、結構よかった。
劇場版は冒頭で、新橋~横浜間鉄道や横浜居留地ががっつり出てきてて、
汽車やステーションがうほほほ~い!あるいみスゲー参考資料です、動いてるしカラーだし?
その分、余計な事が気になったりもして、ホームの位置が新橋式だとか、客車がたったの3両編成だとか、明治11年の設定なのに道路になぜか馬車鉄道のレールがある?とか。
我ながら可愛くない大人になったなぁ…と。
旧会津藩がらぶい内容だったんですが、このあいだ歴史ヒストリアで「妻たちの会津戦争~反骨の家老西郷頼母と家族の悲劇~」をみたせいか、あんな目にあった会津から明治政府と奸商の癒着を指摘されて罵られるとつらいものがあるというか「うひー。すいませーん(´▽`;」という気分になってきますね。
明治11年というと、ちょうど不平士族が各地で反乱起こしている時期ですよね…。
あとは最近、多摩側から見た新撰組の本を読んでたんで、追憶編もけっこう楽しめました。
高杉さんががっつりでて、俗論党とか萩内部の混乱とかも井上馨伝のおかげで時系列わかるし。
もろもろ、たまりませんよね。
劇場版は、なんか絵がらんまっぽい、OVAは昔のハンターハンターっぽい、と思ったら同時期に作ってました(監督がおなじ人)。絵柄は星霜編がいちばん綺麗だとおもいます。日清戦争よね?
さらにそのあと録画してたAKIRAも見たので、ちょっと今、脳が液状化しかけている気がします。
映画のAKIRAって、結構長いんだね・・・。よく作ったよなぁ。幻魔大戦も無駄に長かった気が。
漫画の方は昔、箱根の国保だかの温泉宿泊施設にあったので暇つぶしに読んだ記憶が。
アキラ君が覚醒して原子力潜水艦がそれを観測するあたりまでだったかな読んだの。
なので映画は内容違うなと思いました。漫画がそのあとどういう結末なのかは知らないです。
あああー休みたりないーい。夏休み下さい。
あ、明日は最終チェック受けに本社へいかねば。orz
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ぐだぐだに1ヶ月たってしまった・・・。
漫画の続きをアップしました。
もともと用意していた落ちはここまでだけど、
前半とつなげる為にもうちょい、続くかもです。
それにしても、あつい。
追記:あ~~、それと今更ですがもしかしたら、女性向けなアレかも知れないです。一応ご注意を。
漫画の続きをアップしました。
もともと用意していた落ちはここまでだけど、
前半とつなげる為にもうちょい、続くかもです。
それにしても、あつい。
追記:あ~~、それと今更ですがもしかしたら、女性向けなアレかも知れないです。一応ご注意を。
東京人8月号が東京古道特集だったんで、ちょっと高いけど買ってしまった。
今なら、京王ポイント券で本を買うとクリアファイルもらえるよ!ひゃっほーっ
それと、今更ながら銀の匙にも手を出しました。
やっぱり面白いね。動物のお医者さんの再来かと錯覚する、この懐かしい感じも!!
「開拓使」という言葉がわりと頻出するのがぐいぐい来ますね。
開拓使というと、幕末に八王子千人同心が北海道開拓で派遣されてるんですよね。
多摩はほぼ天領だったから藩主が居なくて半士半農、豊臣の刀狩りも及ばなかった土地なので、刀を持ちながら鍬も持ったような家が多くて、完全サラリーマンな藩士よりも開拓に向いてたんだそうで。
すると、この中にも八王子出身のご先祖様の末裔が・・・!!
アキのひいばあちゃんがいちばん好きです。御言葉がカッコ良すぎて。
卒論で少彦名神が奉られている主な神社を調べたときに知ったんですが
少彦名神って大国主命と国土開拓した神様だから、
明治期に北海道でばんばか神社が創立してるんです。
なんで、明治にこんな乱立されてんの!?って思ったら、北方開発の守り神だったんだーね。
府中の大国魂神社もご祭神は大国主命と同一視されているらしいけどよく分からない。
大国魂神っていったら大歳神の子であって、大己貴命ではないような気もするんですが
神社に飾られる絵馬には、あきらかに因幡の白兎伝説っぽい絵が描かれているんで。
でもまあ、当時の蝦夷地開拓の性質から行ったら、これであってるのかもしれない。
魂はあきらか多摩とかかってるから地元の国神が中央の国神と合体した結果なのか。
武蔵野と多摩の使い分けもよくわからないけど。
どっちも万葉集時代から使われてる地名だから古いは古いし。
武蔵野台地のように原っぽいのが武蔵野で、多摩川に近い沖積地帯が多摩なのかな~?
大国魂神社はこのボーダーにあるイメージです。(北と南で)
ただし、そこまできっちり分化してる感じもしないのが悩ましい所ですね。
結論:よくわからない。古代って、いつもそう。
ブラタモリでやってた府中の古道も、国衙の跡も、
2000年代になって発掘でわかったばっかりのわりと新しい研究成果なんですよね。
それまでは国府の場所すら憶測に過ぎなくて、幻の国府よばわりされてて、候補地が高安寺だとか御殿跡地だとか高倉だとか坪の宮だとか、色々いわれてたらしい。宮司の猿渡盛厚さんなんかは京所を主張されてたらしいけど、神社の真下だとはだれも云わないんだ不思議。
大国魂神社は昭和40年~50年代には今ほど立派ではなく、改築の必要があって、その機会に発掘調査ができないかという話になり、当時の矢部市長と相談して協力を得、埋蔵文化財担当がいなかった教育委員会に専任を用意して「武蔵国府関連遺跡」として昭和51年に発掘調査を開始。
参集殿の調査で8世紀のものと思われる大きな掘立柱の遺構が、それまでの竪穴式住居の上を突っ切って建てられた事が分かり、これが国庁の一部であろうということになる。
ただ、民家の建っている土地にはなかなか手が出せないので、社地以外は売地が出たら市で買収して、ということをしてって、ようやっと国衙の位置を近年特定したのですね。
国分尼寺の跡地もはじめは分からなくて、
国分寺と東山道武蔵路をはさんで建っていた事がやっと分かったらしい。
イトーヨーカドーの駐車場だった、府中本町駅横の土地も、御殿地として去年くらいまで発掘されてましたし、そこの結果もそろそろまとまるんじゃないかなあ。
先月、鯛焼き屋があった広場に看板がたってて、府中駅南側が大規模開発する予定らしい。
また色々出て来るんだろうなぁ、と期待しきりです。
京王の前史1で発起人が玉川ゆかりの人たちであること、
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
京王の前史2・3で東京鉄道の人たちが創立時の役員にのりこんできたらしいことを書きました。
なので「京王電鉄まるごと探見」(村松 功/キャンブックス)にあった京王・京成などの軌道が馬車軌間にしたのは単に当時の流行だっただけで、市内に乗り入れるつもりはなかったのではないかという見解には、私は同意しませんね。
少なくとも京王は経営陣の顔触れを見る当たり「乗り入れることを前提として」計画がされたとみる方が
自然だと思います。
当時の朝日新聞にもこんな記事がありました。
1910年(明治四十三年)10月5日
●京王電軌の新計画
新宿追分より八王子に至る京王電気軌道会社は近日新宿府中間十四哩、
多摩川支線一哩、計十五哩の第一期工事に着手する由なるが同軌道は
追分に於て東京鉄道と連絡するを以て開通の暁には多摩川に於て採取
の砂利は東鉄線内は所要の場所まで直接輸送を開始し尚沿線遊覧其他
団体乗客に対しては東鉄線内集合地を一定し乗換なしに目的地まで
直通の計画あり事に東京市の拡張に応ずる設備としては沿線形(ママ)勝の地
に土地を買収して新市街を起こすの計画あり
市内交通(の経営)に行き詰まりを感じ、市営化もすすめていた頃なので、
会社としては市外拡張という成長戦略を構想してもおかしくはないし、
そうしないと(当人達の)未来への発展性もないと思うのです。
そういう点で、京王や京成に期待をしていたのだろうと。
ただ王子に関しては、あまり突き詰めていないので、どうしてその軌間を選択したのか
はっきりしたことはいえないですが。
最初は「王子電気鉄道」という名前だったのを内務省の指導で「軌道」に変更した、
というのを荒川区の企画展でみましたが、玉川は軌道じゃなく電気鉄道なんですよね。(なんで?)
ちなみに玉川は最初、山手線と同じ狭軌でした。
それが大正になって、砂利輸送に関連して市電が乗り入れる必要が生じ、改軌しています。
接続先の「既設鉄道の軌間にあわせておく」というのはわりとセオリーな気がしますし
資金に余裕がなく、路面を走るためあまり邪魔にならないよう、軌間をおさえた可能性はあります。
玉川と発起人の人脈が同じである京王は、その経緯から狭軌を選択してもおかしくはないんですけど、人脈が代わってしまったからなぁ。
もし玉川と接続を考えるなら、乗り入れも考慮するだろうし、車両の融通もあったかもしれないので。
まえに新宿から笹塚まで歩いた時、休憩で利用した図書館で「五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか」という本を流し読みして、文脈のながれがから玉川が改軌するはめになった反省から京王は馬車軌を選択したのかな?という考えが浮かんだんですけど、玉川の改軌は京王のが開業したあとなんで「それはねえな!」と思い直しました。疲れた脳で考えるとカオスな理屈が浮かぶものですね。
京王がいつ馬車軌間を選択したのかというと、詳しくはわかりませんが
京王電気軌道30年史の「内藤新宿参丁目に至り市街鉄道に連絡する」という文脈をみるかぎり、
日本電気鉄道の頃かららしいですね。
日本電気鉄道として最初に出願したのが明治38年12月12日ですから、
東京市街鉄道の半蔵門~新宿の路線はすでに開通済です。(明治36年12月29日開業)
一方の渋谷は明治44年年8月3日になってようやっと青山七丁目~中渋谷ステーション前が延伸開業
しますから、明治40年開業の玉川はそれまでは馬車軌間にする必要がなかったということですね。
新宿と渋谷ではもともと事情がちがうんです。
もし新宿も渋谷とおなじく市電がとどいていない状況だったら、
京王も狭軌にしていた可能性はありますかね?
関戸でかりた本の貸出期限がそろそろなので図書館に返すついでに
アド天でも紹介された熊野神社にいってみました。
関戸の地名の由来となった関所の木柵あとが復元されているんですが、
「霞の関」と呼ばれていたんですね。
この神社の奥の山の上に関戸城もあったという。
府中市郷土の森発行の「あるむぜお」No101に、この神社の目の前を通る旧鎌倉街道は
古代では相模国~武蔵国~上野国の国府を結ぶ道・東山道武蔵路であり
中世には鎌倉~武蔵府中~上野・信濃方面へ通じる鎌倉街道の上道としても設定されたとあります。
霞の関が設けられた時期はわからないものの、『曽我物語』に朱雀院の頃、平将門が関戸を設け、俵藤太秀郷が霞の関と名づけて打ち破った(有名無実の関という意)という伝承が紹介されているそうです。
将門は武士が政権を執る鎌倉時代よりも前の武士勃興期の人物なので、
鎌倉街道が設定されるより前からこの関はあったという見方ですね。
将門は千葉や茨城、群馬の土地をめぐって戦った人らしいので、
上野国府に通じる東山道武蔵路から連想したのかもしれませんが、
一応、この伝承は単なる後世の作と結論づけられているようです。
(武蔵国府も将門に支配を受けた時期があった)
東山道武蔵路は律令制度が施行され東山道に属していた武蔵国への連絡ルートとして
上野国府から武蔵国府へ設けられた道で、発掘調査で7世紀後半に造られた事がわかっているそう。
宝亀2年(771年)に交通不便を理由に武蔵国が東海道へ移管されたため、(上野~府中の)公道ではなくなるものの、碓氷峠(東山道)や足柄峠(東海道)へ強盗団などが逃亡したり、
「富豪の輩」「しゅう馬の党」が略奪行為をしながら東山道と東海道の間を行き来するため板東の乱においてこの連絡道は重要な位置を占め、関の意義もあったと予想されるようです。
(「霞の関」の伝承~平将門と東山道武蔵路~小野一之)
これがその旧鎌倉街道。
住宅地を一本はさんでむこうにできた鎌倉街道(多摩ニュータウン通り)にくらべると
狭くてけっこうアップダウンがあります。並行しているので裏道みたいな使われ方をしています。
ただしバスの運行系統は結構おおくて、京王バスがよく通ります。
もうすこし先へ行くと多摩市役所と市の中央図書館があります。
バス停の後ろの塀には参議院選挙の看板。山本太郎さんが仕事が早い。てか選挙区ここだったんだ??
神社の向かいにあった相澤さんの看板が気になりました。
連光寺の名主は富沢家でしたが、関戸の名主はじつは相沢家なんですよ。
だからもしかして、そのゆかりの方かな~?と。
相沢家では相沢伴主という人が、華道の允中流挿花の祖として有名で、
何年か前にパルテノン多摩が企画して紹介したらしいんですが、跡を継ぐ人がいなくて絶えてしまったので、流派は残っていないそうです。多摩市の数少ない歴史的風流文化です。
(http://www.parthenon.or.jp/goods/postcard/card06.html パルテノン多摩)
熊野神社の目の前の坂を下ると、今の鎌倉街道に突き当たります。
その先は乞田川です。このでかい2車線道路は乞田川の沖積地帯で低地です。
旧鎌倉街道はそれより数メートル高い場所を走っているので、
丘陵の影響を受けて上下にわりとうねっているんですね。
乞田川は多摩川の支流で、関戸から多摩センターのあたりまでのび、
そのあいだにはずっと桜並木が植わっているので桜の名所でもあります。春はとても綺麗ですよ。
(乞田川の写真はもっと昔に撮ったやつです)
写真だとわかりにくいので、自作の地図。
先週のタモリ倶楽部の影響(架空地図マニア特集)をうけて自分でもやってみました。むずい-
神社に復元された関をみるに、そのまま乞田川に向かって伸びていたんだろうと思われます。
鎌倉街道でバスに乗って聖蹟の駅へもどります。
途中で乞田川と合流する大栗川に出合います。
一昨日やってた「耳をすませば」で眼下にときどき見えてたのはこの大栗川だと思います。
乞田川に比べるとけっこう曲線を描いているんですよね。
写真でバスが渡っているのは旧鎌倉街道の大栗橋(奥)と、鎌倉街道の新大栗橋(手前)です。
その先で川崎街道と鎌倉街道が交差しています。
ここが、聖跡桜ヶ丘の駅へ向かう入り口となっていて、
直進すれば府中へいく関戸橋、左折して川崎街道へ入れば聖蹟の駅です。
聖蹟の駅では今週末にある朝顔市の準備の真っ最中でした。
先週今週は仕事でいそがしくて、色々なものが書きかけ放置でもうどれから手をつけたらいいやら。
そんななか金曜に耳すまやってて、また聖蹟の記事かかねば~!と再燃。
見たのは会社の食堂で冒頭までだったんですが、アド天で聖蹟やるよ、と教えてくれた地元民の人と、
ジブリが大好きで高校の時耳すまツアーで聖蹟行ったという職場の人にはさまれての鑑賞だったので、
異様な盛り上がりを(笑)
しずくが住んでる団地の最寄り駅は聖蹟じゃなくて、百草園駅がモチーフなんですね。
最初、高架で登場したはずの京王線が別カットで地上駅になってて「???」となったら、
一駅分電車乗ってた。サイドからの解説で、漸く脳内地図迷子から脱せられました。わはは
あと先ほどの相沢伴主さんのお墓があるという関戸の観音寺が、先の熊野神社と聖蹟駅の間にあるのを
あとで知ったのですがね、なんと毎月16日に関戸の合戦の弔いをしているとウィキにあったので
「(中世の戦の弔いを続けているなんて)な、なんて殊勝な寺なんだ・・・!」と思ったら、
昭和30年代にやたらと働き盛りの30代、40代が亡くなるんで
「呪われてるんじゃね?」という理由で始めた弔いだった(汗)
い、いや、それでも立派だと思います。
ただ、公式?そのお寺さんの方がやっているブログで
新名物のゆるキャラ仏像の写真を見たら撃沈しました。orz
うわーい、機会があったら次回は絶対ここ行こう!!
それと気になったのが、そのお寺さんのサイトに載ってた「京王観音霊場」の文字。
なんだ?これも京王の事業の一環か?と思って検索したら、これもまた撃沈する記事のオンパレード。
れ、霊場って登録制だったんだ・・・。それにしても、この京王霊場に関しては、お寺さんの方が
「ウチは参加してない」「きいてない」「そもそも観音様奉ってない」という珍回答。
いやいやいや、面白すぎるだろう!?なんだ、そのいい加減な設定。
「最近よく聞かれるんで仕方なく対応するようになった」みたいな文脈のところもあって、
むしろお寺さんにご迷惑がかかっているよう。
京王がのりで設定して、そのまま放置したんだろうか・・・。
けっこう、他の電鉄でもそういう霊場設定してるらしいですね。面白いわ~
いろんな趣味があるもので。勉強になりました。
それにしても昭和18年は超絶戦時中じゃないか???戦後の方が説得力あるけどなぁ。
それかハイキングブームの昭和9~10年頃なら納得。