たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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8月2日で「八8王0子2」ときいて、いい機会だから前から思ってた小ネタをぶっこんでみようと。
横浜線の事をどうしても八王子線といってしまうので、
いっそのこと京王にすりこませてまえ、というコントです。
このあいだ町田の図書館へいったとき、ついでに横浜線の事が載ってる記事を探したのですが
「町田地方史研究 20号」に、"明治43年4月1日、鉄道施設を政府(鉄道院)が借り上げて
八濱線として運営する。大正6年10月1日国有化されて横浜線となる。"と書いてあって、
え、政府委託になってから八濱線て呼ばれるようになったの?それとも、それは最初から??
という疑問がうまれました。
いったい政府がつけたのか、それとも最初の名前はそっちで呼ばれていたのか。
それによって、アイデンティティのよりどころが大分変わると思うのですが。う~む
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拍手ぽちぽちありがとうございます!
つぎは武蔵国分寺関連まとめたいと思うんですが、なかなか資料館や現・国分寺に行く
時間がなくて保留になってます・・・。ううう、部分的にでもはきだすかな、忘れてしまいそう。
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8月1日は徳川家康が江戸入府した日ということで、大國魂神社でも相撲祭が催されます。
で、実は境内に東照宮(祭神は家康)もあるという事を知ったので「え?どこに??」と
ちょっと探してみました。
したら、授与所の裏の奥まった所にあって、すっごい、せまそう。
というか邪魔だったので整理しました、という配置に感じなくもなく?
ちなみに東を向いておりました。(ようするに本殿の横っ腹を拝む形で)
八朔なのに詣でる人もいない・・・そりゃ、こんな裏におかれてたらね。
朱色が綺麗なんで、ぜひ機会があればこちらにも参ってみてください。
そしてこちらはJR府中本町駅横の駐車場だった所。
発掘調査もおわり、すっかり埋めたてられておる。
シートがかぶせてあるみたいです。そのなかに看板が。
ついでに、グリーンプロジェクトでまくわうりも育てているみたい(笑)
一時期お城に献上していたんだっけか。
伝承ではここが徳川の御殿地でした。
実際、発掘でも江戸初期の建物跡がみつかったんだそう。
ついでに古墳時代の「国造の館」があったという伝承があり、
かつては国庁の候補地でもあったんですが、調査の結果、
国造よりは新しい、国司の館であるという結論に至ったようです。
(府中郷土の森博物館広報「あるむぜお No94」2010.12.20発行)
府中と徳川の関係は、豊臣秀吉が小田原北条氏を倒し、北条氏の領地だった関東を
徳川家康が担う事になったあたりからはじまります。
秀吉はさらに奥州へ至って天下統一をはたし、その帰路の府中で
これを接待するために天正18年(1590年)8月家康が御殿を造営しました。
また天正19年(1591年)11月には六所宮に社領500石を寄進します。
その後、徳川3代にわたって鷹狩りなどの休憩地や宿泊地としてここを利用したため、
ここは御殿御茶屋としても有名でした。
多摩川の水が美味しいという事でお茶用に水を運ばせたので、御殿から多摩川に続く道を
「お茶屋街道」とも呼んだらしい。
家康が亡くなって久能山でいっとき安置されていた体を日光へ運ぶ際にも、この御殿に一日逗留。
結局、正保3年(1646年)の府中大火でもろとも焼失し、再建される事もなく耕地となったようです。
徳川は秀吉に滅ぼされて反感を持つ甲斐武田の遺臣や小田原北条の遺臣を
手厚く迎える事で反乱を抑えました。
武田の遺臣からなる槍隊500人を関東防衛のため八王子の西部におき、
甲州武田の蔵前衆(地方巧者)だった大久保長安に率いさせました。
さらに関ヶ原の直前(1600年)には北条の遺臣なども加えて1000人に拡充し、
これを八王子千人同心といいました。(幕末には千人隊と呼ばれた)
彼等は幕府公認で農地も耕したため半農半士でしたが、多摩唯一の武士でもありました。
また、北条の重臣・江川太郎左衛門には伊豆韮山を拠点に、
相模、多摩などの幕府直轄地(天領)の代官を命じました。
大久保長安は一代で絶えますが、江川家は幕末まで幕府の広大な領地を守る代官として
重用され続けます。なかでも江川太郎左衛門英龍こと坦庵は有名です。
黒船ショックにより伊豆半島の海防が叫ばれると、農民を兵士にするという改革案を進めて
伊豆から多摩にかけての地域の農兵隊組織を促し、実際の外国との交渉の場にも代官クラスでありながら立たされました。お台場の普請を負ったのも坦庵で、お台場の地盤を支える杭には多摩の鑓水の松が使われたそうです。
高島式砲術も身につけ、反射炉を研究したりして、高島平の鉄砲場で試射したりしたため、
砲弾が三田線建築のときに発掘されたりしてましたね。
あ高島平の地名の由来って、高島秋帆からきてんのか、もしかして。
ついでに効率的な兵糧を研究して乾パンも作ったりしたそうです。
江川代官の管轄地は明治にいたって韮山県として引き継がれましたが、
府中はギリギリ江川領ではなく旗本の知行地だったようで、代官も時代によって違いますし。
明治元年6月、四ッ谷村と中河原村は韮山県に、府中宿や八幡宿、下染谷・常久・是政・小田分・人見・車返・押立は武蔵知県事所管になり、明治2年2月に品川県になりました。
府中全域が神奈川県になるのは明治5年1月です。
で、なんだっけ。そうそう、この武田と北条の遺臣から組織された八王子千人同心の任務でも
重要なものに、日光東照宮の火の番人というのがあって、交代制で出張していたらしいのだけど
日光東照宮は有事の際の山城として設計されているらしい。
江戸の初めでは江戸が攻められた際はまず、甲州街道を使って甲州の城へ逃げるという算段があって
そのために服部半蔵に半蔵門を守らせ、そこから地下道を通って大久保へのがれ、出口は鉄砲隊100人に守らせて、忠臣である内藤家には甲州街道の入り口である新宿を与えて周辺域を見張らせ、
甲州への道は甲州に詳しい大久保氏率いる八王子千人同心を置くというセオリーがあった。
その防備の延長?でけっこう遠いはずの東照宮にも千人同心が派遣されるようになったらしい。
府中はその中間点だから、この御殿にもそれなりの意味があったんだろうとは思う。
ついでに神社の裏手にまわって崖が確認出来ないか探してみましたが、
相模ほどにはわかりやすい場所はなく。ただ緩やかには坂だな~というかんじ。
がけの下には、お寺さんと墓地がかなりの範囲で広がっていました。
その先は府中競馬場という異色さ。どーん
昨日は町田の図書館に行くついでに相模国の国分寺跡をみにいきました!小田急!!v
小田急マートで水を買いに行ったら、小田急商事が50周年らしい、ほおお!
海老名ビナウォーク!
のなかに、七重の塔がみえる(笑)
相模国分寺の最寄り駅は海老名駅でした。
武蔵国分寺は西国分寺なので、不思議といろんな路線が集まる箇所にあるんですね。
これは本物ではなくモニュメント。スケールは1/3らしい。えええ!?
昔の権力と技術ってすげえ。
27日は海老名の風鈴市でお祭りがあるみたいでした。
ビナウォークって小田急のなんですね。
イベントには相鉄も関わってるから、二人で協力してる感じがする。(にやっ)←
そして駅前の横断幕が強烈でした・・・。
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ビナウォークを通り過ぎ、国分寺へ向かいます。
すると、目の前にわかりやすすぎるほどの崖が見えてきます。崖線です。
古い遺跡や村落は、水を得やすく水害を避ける為に、
水が湧きやすい崖の上につくられますので、この国分寺跡もその例にもれず、
といったところでしょうか。
府中なんかは立川崖線(府中崖線)と国分寺崖線の間にはさまれた台地の広大な平地に
国分寺と国府があったので川をはさんだ向こう側の多摩丘陵と比べれば
「単純な地形」であると本で言われていました。
多摩川の近くの立川崖線の上に大國魂神社(国府跡)があり、
台地のもっと奥まった方、国分寺崖線の下に武蔵国分寺があります。
そしてこの相模国分寺も似たような条件であるようです。
国分寺への道。
比較的緩やかに崖を上れるように工夫された坂でした。
崖を登り切った突き当たりを右へいくと、大きなけやきの木がありました。
大國魂神社の入り口にある神木によく似ています。不思議だ。
看板の説明によると、ここは船着き場で杭にしていたケヤキが育ったものらしい。
目の前は緩やかなスロープ状になっていました。
昔はここまで水辺がきていたということですね。
看板の後ろをむくと、現・相模国分寺がありました。
階段を登ると、左に本堂へむかう階段がさらにあります。
正面にはまた、崖の上に立つ住宅。ここは崖線と崖線の間の幅が狭いみたいですね。
ご本堂。国分寺の本尊は基本的に薬師如来です。
境内にはりっぱな銀杏の木がありました。
大国魂にもあるんですが、表からは見えず、季節にはぎんなんの臭いだけがするんですよね~
楠木や銀杏はその独特の臭いから魔除けの効果があるとされるので、ご神木になりやすいのかも。
本堂は南向きで、(西)右を向けば小田急や相鉄の駅のあるビナウォークが見えます。
垣根がなければ、もっと景色がいいんだろうな~
踊り場から先ほどの大ケヤキを見る。
あの先が相模川なのだな。時代によっては海老名駅一帯は水の中っすかね。
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本命の相模国分寺跡~!
先ほどの国分寺より北へ数100mいった場所にあります。
ここから現在地へ移転したらしい。
国分寺は741年の詔をきっかけに8世紀で全国に建立されてきますが、
10世紀にはもう衰退していって平安時代後期には荒廃していた模様。
国分寺跡地に保存されているのは、目の前の長~~い門柱跡と、
土台を復元した七重の塔と、盛り土の上に残った礎石だけの国分寺の3つ。
それでも武蔵国の国分寺跡にくらべれば立派な保存整備状態です。壮大です。
武蔵国分寺は横に畑とかあって、住宅にも囲まれてあんまり景色が広々としてない。
もしかして、相模国のほうが広いのか。
昔から法隆寺式伽藍配置の大規模なものとして有名だったらしい。
こちらも、南向きに配置されてますね。
こういう雰囲気はよく似てますけど。
大正時代、国に史跡指定された時の碑が建ってます。
指定されたのは大正10年3月3日ですが、碑は大正14年となってますね。
すぐ横に郷土資料館の旧温故館がありました。
洋風の歴史的建造物みたいでリニューアル済です。
元は海老名村役場庁舎だそうで、この建物自体みどころたっぷりです。
資料館にあった地形図と遺跡群の地図。
だいたいの遺跡が崖線と崖線の間の黄色い部分(相模野台地)に分布しています。
崖の上の崖、あれは座間丘陵というのか~。古墳群はむしろ丘陵の上に造られてますね。
そのなかを走っている溝は目久尻川かな。
昭和40年代まではこの目久尻側から西の海老名耕地へ、逆川という人工の用水が
国分寺と国分尼寺のあいだをS字に流れていたそうです。
うーん、なかなか複雑な土地だな。
ところで国分寺とセットであるはずの相模国府は、まだ場所が分かっていないそうです。
一応、国分寺の北側じゃないかとは云われてるんですが、民間の住宅地なので手が出せないそうで。
その後、どうも平塚の方に移転したらしく、平塚のほうで結構色々なものが発掘されているよう。
武蔵国府は多摩川は東西に走り、台地も幅が広いので余裕を持って左右に展開してますけど、
相模国府は相模川が南北に走り、しかも丘陵が近くて台地の幅が狭いから、一体どういう風に
展開したのだか。もしかして、狭い故に平塚に移転したのだろうか。
相模国は旧東海道と、東山道武蔵路の分岐点です。
官道らしきものはちびちび見つかっているので今後の調査結果が楽しみです。
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お昼は前から気になっていたビナウォークのら~めん処で。
おいしかったです!
追記:西暦と年号がごっちゃになっていたので直しました。Σ(´Д`;
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日付がかわってしまった・・・。
父と子、2p更新しました。
あと1pで、締められる・・・はず。
なにげに、回想を未来からひっぱってくるという、強引な手法を使っていますが
そこまで変なやり方でもないですよね?という居直り。
設定消化というか裏舞台消化というか、そんなかんじです。
本編知らない方にはすみません。
この飲み会自体は1944年の5月頃です。
最初の思いつきの段階では中心に京王がいたんですけど、
相模と京王ってニアミスなんで、それはちょっとあり得ないということになり、
代わりに横浜線に登場して頂いた事情があります。でもかえって出せてよかったな!
京浜電気鉄道と横浜鉄道とは青木正太郎さんという共通の経営者がいるんで、仲は悪くないです。
ただ、横浜線が思いを馳せる父親は青木さんではなく原善三郎さんだったりします。
横浜鉄道の願書を諦めることなく繰り返しだし続けた人です。でも設立?は見ずに亡くなって居るはず。
なにげに雨宮敬次郎さんと一人の女性をめぐって刃傷沙汰になりかけたことがあります。
同業者には亀善と呼ばれていたらしい。
あと地下鉄の件というのは、早川さんと五島さんの争いで中立な立場の人の裁定を乞おう、
という場面で利光さんがその一人となったんですが、五島さんと利光さんてなにげに
なかよしなのよね・・・。っていう、京浜側の不平感が根っこにあって。
地下鉄がらみで東横に株を買収されたことも内心、全然面白くない。
で、三社合併で東急が成立したのが1942年の5月なんですが、その頃は小田原に対しても
苛つきがあったみたいな、描写を実はしていたんですけど、今やっと出せた。;´Д`)
これを描くに当たって、ついに利光さんの自伝を借りてしまいました。
自由民権の資料集とか、小田急の25年史とか部分的には方々に収録されてるんですが、
実物を読んだのは実はこれがはじめてです。わお
といっても他の人が書いた利光さんの伝記で、これの現代語訳みたいな良書はちゃんとあるんで、
内容はそれとほとんど変わらないんですけどね。
(『ー明治の気骨ー利光鶴松伝』渡邊行男/葦書房/2000,8)
東京市街鉄道の内情とかはほとんどこの伝記で知りましたし最初のオフ本で参考にもしました。
利光さんが京王の役員を指名したっていうのも、この本で知りましたし。
ただ、こちらは詳しい年月日の記述がないんで最近、都史資料集成で逆整理しましたけど。
ただその伝記でもはしょられてる小さな出来事がオリジナルにはぽろぽろあったので、
読むのも無駄にはなりませんでした。
本当を言えば復刻版ではないほうの外見の体裁が知りたかったんですけど、まあしょうがないですね。
=============================================
拍手をいつもありがとうございます!
反応がにぶくて失礼しました。
とても励みになっています。
うまいタイミングでお礼を云いたいとおもいつつ、
いつもだらだらと長文を書いてしまうので。
描きたいものと書きたい事がたくさんあって、色々と追いつきません。
とりあえず熱気が目下の敵です。頑張ります。
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日付がかわってしまった・・・。
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あと1pで、締められる・・・はず。
なにげに、回想を未来からひっぱってくるという、強引な手法を使っていますが
そこまで変なやり方でもないですよね?という居直り。
設定消化というか裏舞台消化というか、そんなかんじです。
本編知らない方にはすみません。
この飲み会自体は1944年の5月頃です。
最初の思いつきの段階では中心に京王がいたんですけど、
相模と京王ってニアミスなんで、それはちょっとあり得ないということになり、
代わりに横浜線に登場して頂いた事情があります。でもかえって出せてよかったな!
京浜電気鉄道と横浜鉄道とは青木正太郎さんという共通の経営者がいるんで、仲は悪くないです。
ただ、横浜線が思いを馳せる父親は青木さんではなく原善三郎さんだったりします。
横浜鉄道の願書を諦めることなく繰り返しだし続けた人です。でも設立?は見ずに亡くなって居るはず。
なにげに雨宮敬次郎さんと一人の女性をめぐって刃傷沙汰になりかけたことがあります。
同業者には亀善と呼ばれていたらしい。
あと地下鉄の件というのは、早川さんと五島さんの争いで中立な立場の人の裁定を乞おう、
という場面で利光さんがその一人となったんですが、五島さんと利光さんてなにげに
なかよしなのよね・・・。っていう、京浜側の不平感が根っこにあって。
地下鉄がらみで東横に株を買収されたことも内心、全然面白くない。
で、三社合併で東急が成立したのが1942年の5月なんですが、その頃は小田原に対しても
苛つきがあったみたいな、描写を実はしていたんですけど、今やっと出せた。;´Д`)
これを描くに当たって、ついに利光さんの自伝を借りてしまいました。
自由民権の資料集とか、小田急の25年史とか部分的には方々に収録されてるんですが、
実物を読んだのは実はこれがはじめてです。わお
といっても他の人が書いた利光さんの伝記で、これの現代語訳みたいな良書はちゃんとあるんで、
内容はそれとほとんど変わらないんですけどね。
(『ー明治の気骨ー利光鶴松伝』渡邊行男/葦書房/2000,8)
東京市街鉄道の内情とかはほとんどこの伝記で知りましたし最初のオフ本で参考にもしました。
利光さんが京王の役員を指名したっていうのも、この本で知りましたし。
ただ、こちらは詳しい年月日の記述がないんで最近、都史資料集成で逆整理しましたけど。
ただその伝記でもはしょられてる小さな出来事がオリジナルにはぽろぽろあったので、
読むのも無駄にはなりませんでした。
本当を言えば復刻版ではないほうの外見の体裁が知りたかったんですけど、まあしょうがないですね。
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拍手をいつもありがとうございます!
反応がにぶくて失礼しました。
とても励みになっています。
うまいタイミングでお礼を云いたいとおもいつつ、
いつもだらだらと長文を書いてしまうので。
描きたいものと書きたい事がたくさんあって、色々と追いつきません。
とりあえず熱気が目下の敵です。頑張ります。
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昨日は「風立ちぬ」公開日で上京してきた母親と一緒に見てきました~。
パルテノン多摩の近くだったんで、ついでに旧富澤家も覗いてきました。
入場者記念プレゼントでトマトジュースを貰ったんですけど、
「わざわざコラボ商品を作ったのか!?」と思ったら、但し書き見ると
堀辰雄作品関連で昔から商品化されているものだった。
多摩市が長野県富士見町と友好都市である関係から配布しているらしい。
このトマトジュースについてはイオンシネマ多摩センターのツイッターアカウントだけが
ヒットしたので、もしかしたら他の所では配ってないのかもしれない・・・。
(以下はややネタバレかもです)
お話は、面白いとかつまらないとか抜きで、理由は分からないけど感動しました。
大人な描写があったんで、お子さん連れはビックリしたんじゃないかな。
私も挙動不審になりました…(汗)
主人公の二郎さんが童顔でマツゲが長くて、やや小柄で個人的にやばい感じです。
あいくるいとおしい・・・。あんまり表面に葛藤がみえないのがまた魅力的。
あと飛行機マニアより鉄道マニアが垂涎じゃないですかねってくらい、
よさげな列車がいっっっぱいでてきます、オススメです。
登戸行きの電車は、あれ南武線でいいのかなぁ?背後の立体交差は小田急かな?
あと名古屋駅前のカブトビールの主張がすごかったけど、
東海道さんは駅前にビール看板建てるのが趣味なんですかね???
キリンビールと新橋・横浜駅の関係が面白かったから、カブトビール調べるのも面白そうだ。
などなど。
あと太平洋戦争をあつかった作品は多いけど、関東大震災を描写したアニメ映画って
あんまなかったかもしれない、というのが個人的に斬新な気持ちがしました。
ちょっと、地震を取り扱う時期が早かったような気がしないでもないけど、
そこを逃げないのも表現者の胆力かも知れない。
そのあとの、昭和初期の銀行の取り付け騒ぎとか、ちょっと悪いけど、
昭和史的ににやにやしますね。
そして、こちらが旧富澤家。
パルテノン多摩の上の中央公園で、いちばん奥まった場所にあります、
静かです。さいわい、曇りでそんなに暑くなかったんで散歩がじつに快適でした!
表門(医王門というらしい)を入ると、直ぐ目の前が形の良い池になってて、
鴨の親子がくつろいでます。
というか、この公園のあっちこっちで鴨の親子が練り歩いてるんで、
なんというか、なごみまくりです。
トンボも沢山とんでいて、じつに涼やか。
古民家風の家としてもかなりイカしてます。
勝手口の表札が「旧富澤家」なのが、ちょっと変な感じですが。
表玄関がまた立派なんだ。これが歴史ある名主の証なのか。田中家はまた武家風でしたけど。
庭の岩に碑文がありました。多摩ニュータウン実現に尽力した顕彰らしい。
小田急で帰る母親とはそこで別れて自分は永山でご飯を買い。
なんと、銀タコが昨日で最終営業だった、ショック!!
はじめてここのたこ焼き食べた時は、油でかりっと仕上げるという部分に衝撃を受けたもので。
あのころは、SEIYUの中にあったんですけどね。
聖蹟のもずいぶん前に撤退してしまったし、銀タコも後退気味なのかなー残念。
永山の山の中にあった諏訪の碑。
多摩ニュータウン入居は永山から、というのが有名だけど、じつは諏訪もいるんです。
諏訪の商店街は自分も自転車飛ばしてよく買い物しに行ったくらい、
市内で求心力のある地域だったんですけども、いまやシャッター街です。
スーパーもかなり前に撤退しましたし、永山駅が今その代わりを担っているんじゃないかな。
先々週の平成狸合戦ぽんぽこで、妖怪大作戦を決行していた団地はもしかしたら諏訪かもしれない。
基本的に公団型の団地って全部同じに見えるんで、愛宕とかの方の可能性もあるけど、
積み木みたいな屋根が画面下に見えたんで、もしかしてあそこの幼稚園かな?と少し感じたので。
この碑の説明みると諏訪の地区名はあとからつけたものなんですね。
地名としての諏訪はあったけど。
パルテノン多摩にある歴史ミュージアムも少し覗いたんですけど、
多摩ニュータウンの範囲自体は多摩市だけでなく八王子や稲城にも広がっているので、
ぽんぽこの舞台は必ずしも市域に拘る必要もないんですが。
実際冬のシーンは八王子の工事現場までロケハン行ったと、ジブリの公式にもかいてありましたし。
最後にぽん吉たちと再会するゴルフ場は、屏の形は府中カントリークラブっぽいような気もする(住宅街に隣接してるし)けど、自分のイメージはアメリカに接収された稲城の多摩弾薬庫跡ですね。
広いし静かなんだあそこは。俯瞰すると、多摩川や府中から先の夜景が綺麗だし。
昔、府中競馬場の花火大会で部活のみんなと行ったとき、
上々颱風さんが「いつでも誰かが」を演奏してて、恐ろしい事にあの曲リピートがなっっっがいんで、
後半気が狂いそうになりながら聞いてた思い出と、このシーンがリンクします。T▽T)
ところで第一次入居が諏訪永山はいいとして、次の入居がどこなのだかがイマイチ判然としない。
東寺方・和田・愛宕と貝取・豊ヶ丘はどっちが古いんだろう。
図書館の雰囲気からだと東寺方のが古そうだなぁ。(雫のお父さんの勤務先のモデルだと思われる)
一時的に計画が中断していた時期もあるみたいですが、
それは愛宕と豊ヶ丘ができる前かな?後かな???
聖ヶ丘や唐木田は昭和60年代入居がメインで計画の中では新しい方だから、計画続行後だとは思う。
ミュージアムに昭和50年末頃の唐木田の映像が残ってましたが、
ほんと山奥の田舎の景色まんまでした。
今では瀟洒な西洋風の住宅街になってますけど、あれは小田急の影響なんだろうか???
はるひの駅周辺も似たような西洋風のちょっと中産階級よりは上風味なかんじでしたし。
う~ん、どうにも、戦後の行政系の文書って膨大な割に中身も面白味も見つけられなくて
読む気がしないんですが、どっかにとっかかりがないかなー。