たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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8月1日は徳川家康が江戸入府した日ということで、大國魂神社でも相撲祭が催されます。
で、実は境内に東照宮(祭神は家康)もあるという事を知ったので「え?どこに??」と
ちょっと探してみました。
したら、授与所の裏の奥まった所にあって、すっごい、せまそう。
というか邪魔だったので整理しました、という配置に感じなくもなく?
ちなみに東を向いておりました。(ようするに本殿の横っ腹を拝む形で)
八朔なのに詣でる人もいない・・・そりゃ、こんな裏におかれてたらね。
朱色が綺麗なんで、ぜひ機会があればこちらにも参ってみてください。
そしてこちらはJR府中本町駅横の駐車場だった所。
発掘調査もおわり、すっかり埋めたてられておる。
シートがかぶせてあるみたいです。そのなかに看板が。
ついでに、グリーンプロジェクトでまくわうりも育てているみたい(笑)
一時期お城に献上していたんだっけか。
伝承ではここが徳川の御殿地でした。
実際、発掘でも江戸初期の建物跡がみつかったんだそう。
ついでに古墳時代の「国造の館」があったという伝承があり、
かつては国庁の候補地でもあったんですが、調査の結果、
国造よりは新しい、国司の館であるという結論に至ったようです。
(府中郷土の森博物館広報「あるむぜお No94」2010.12.20発行)
府中と徳川の関係は、豊臣秀吉が小田原北条氏を倒し、北条氏の領地だった関東を
徳川家康が担う事になったあたりからはじまります。
秀吉はさらに奥州へ至って天下統一をはたし、その帰路の府中で
これを接待するために天正18年(1590年)8月家康が御殿を造営しました。
また天正19年(1591年)11月には六所宮に社領500石を寄進します。
その後、徳川3代にわたって鷹狩りなどの休憩地や宿泊地としてここを利用したため、
ここは御殿御茶屋としても有名でした。
多摩川の水が美味しいという事でお茶用に水を運ばせたので、御殿から多摩川に続く道を
「お茶屋街道」とも呼んだらしい。
家康が亡くなって久能山でいっとき安置されていた体を日光へ運ぶ際にも、この御殿に一日逗留。
結局、正保3年(1646年)の府中大火でもろとも焼失し、再建される事もなく耕地となったようです。
徳川は秀吉に滅ぼされて反感を持つ甲斐武田の遺臣や小田原北条の遺臣を
手厚く迎える事で反乱を抑えました。
武田の遺臣からなる槍隊500人を関東防衛のため八王子の西部におき、
甲州武田の蔵前衆(地方巧者)だった大久保長安に率いさせました。
さらに関ヶ原の直前(1600年)には北条の遺臣なども加えて1000人に拡充し、
これを八王子千人同心といいました。(幕末には千人隊と呼ばれた)
彼等は幕府公認で農地も耕したため半農半士でしたが、多摩唯一の武士でもありました。
また、北条の重臣・江川太郎左衛門には伊豆韮山を拠点に、
相模、多摩などの幕府直轄地(天領)の代官を命じました。
大久保長安は一代で絶えますが、江川家は幕末まで幕府の広大な領地を守る代官として
重用され続けます。なかでも江川太郎左衛門英龍こと坦庵は有名です。
黒船ショックにより伊豆半島の海防が叫ばれると、農民を兵士にするという改革案を進めて
伊豆から多摩にかけての地域の農兵隊組織を促し、実際の外国との交渉の場にも代官クラスでありながら立たされました。お台場の普請を負ったのも坦庵で、お台場の地盤を支える杭には多摩の鑓水の松が使われたそうです。
高島式砲術も身につけ、反射炉を研究したりして、高島平の鉄砲場で試射したりしたため、
砲弾が三田線建築のときに発掘されたりしてましたね。
あ高島平の地名の由来って、高島秋帆からきてんのか、もしかして。
ついでに効率的な兵糧を研究して乾パンも作ったりしたそうです。
江川代官の管轄地は明治にいたって韮山県として引き継がれましたが、
府中はギリギリ江川領ではなく旗本の知行地だったようで、代官も時代によって違いますし。
明治元年6月、四ッ谷村と中河原村は韮山県に、府中宿や八幡宿、下染谷・常久・是政・小田分・人見・車返・押立は武蔵知県事所管になり、明治2年2月に品川県になりました。
府中全域が神奈川県になるのは明治5年1月です。
で、なんだっけ。そうそう、この武田と北条の遺臣から組織された八王子千人同心の任務でも
重要なものに、日光東照宮の火の番人というのがあって、交代制で出張していたらしいのだけど
日光東照宮は有事の際の山城として設計されているらしい。
江戸の初めでは江戸が攻められた際はまず、甲州街道を使って甲州の城へ逃げるという算段があって
そのために服部半蔵に半蔵門を守らせ、そこから地下道を通って大久保へのがれ、出口は鉄砲隊100人に守らせて、忠臣である内藤家には甲州街道の入り口である新宿を与えて周辺域を見張らせ、
甲州への道は甲州に詳しい大久保氏率いる八王子千人同心を置くというセオリーがあった。
その防備の延長?でけっこう遠いはずの東照宮にも千人同心が派遣されるようになったらしい。
府中はその中間点だから、この御殿にもそれなりの意味があったんだろうとは思う。
ついでに神社の裏手にまわって崖が確認出来ないか探してみましたが、
相模ほどにはわかりやすい場所はなく。ただ緩やかには坂だな~というかんじ。
がけの下には、お寺さんと墓地がかなりの範囲で広がっていました。
その先は府中競馬場という異色さ。どーん
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