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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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利光さんの手記読んでると、とにかく明治40年終わりに経済がパーン!して
2~3年はまともに動けなかったということを繰り返し繰り返し力説されてて、
それ聞いたよ3回くらいループしてるよ!!

そう思うと、そんななかで開業した横浜さんはかなり特異だな~。というか運悪い?
と思いまして。

これ京王は気づいてないけど、話している内容は同意しているようで
思いっきり相手の地雷ポイントを攻撃している。
しかもハタから見てて、それがわかって戦慄しているのは古参のみという。(中央線)
新参者はそれすら理解する必要がない。(玉南)

というかんじの世間話です。

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拍手いつもありがとうございます。

ぼんやりうかうかしていてお盆に思いっきり仕事が入りました。
今週も土日出勤です。でも日曜は昼からなのが救い。
この1週間はずっっっっっと議事録を音声から文字におこしてました。
家帰ってからと朝起きて家出るまでの数時間しかないから、ちっとも進まなくて。
翌週の諮問機関の会議までには渡さないと行けないから、いろいろと厳しかった~。
でもまあ、これで半月位は平和。ただし仕事は月末までかかるから、夏休みは9月迄おあづけです。
実家帰りたい・・・目当ては途中のニ宮や熱海や韮山の史跡や神社なんですけど、色々まわりたい。

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鬼のような熱気週間でしたね。

私はさいわい日曜休めたんで、午前中は大宮八幡宮みてきました!
意外と井の頭線が沿線だったんですね。
ついでに京王のスタンプラリーで井の頭公園のが8月迄だったんでついてきました。
吉祥寺でお昼を食べて、JRでまったり会場へいきましたが午後過ぎても人すごかったですね!

夜に町会の会議があるので、30分で離脱しましたが、それでも汗だくで。
新宿ついたら京王線がとまってて、京王百貨店の7階でやってる電車イベントと古書市みて
小田急で帰ってきました。

したら、会場では会わなかったのに、電車内で会社の人とあって、う、うわーミラクル??!
カタログを割り勘した人なので、2日目きてるのは知ってたんですが、まさかここで会うとは。
(その人も京王ユーザーなので自分と同じ理由で小田急のってました/笑)

小田急も落雷で遅れてたものの、無事時間内に帰れました、が
タッチの差でヤマトには間に合わなかったぁああ!予約しとけって話ですよね。

・・・。そのあとの3時間分の会議の議事録は明日だな!うん!



ドラマWの「パンとスープとネコ日和」が終わってしまった~
wowowでやってたゆるめのドラマなんですけどね、ストーリーよりも
料理とか雰囲気とか日常生活の中にある哲学を楽しむ感じのドラマで
ようするに「かもめ食堂」in世田谷!
原作も群ようこさんで、小林聡美さんともたいまさこさんのあのシリーズ再結成。
かもめ再来です、い~や~され~~る~~~
かもめよりさらにヤマもオチもないかんじですが、私は好きです。

世田谷線が毎回画面を素通りするんですが、EDの協力は西武鉄道で「!?」と
思ってたんですけど、もしかして3話からでてくる駅は、多摩川線の是政駅なのかな~

車両は東急のしか出てこないのに、クレジットは西武がもってくのか。
いや、この場合、場所提供して知名もってかれてるから逆か。なんだこれ(笑)

あー。やりたい事とやる事とやらなきゃ行けない事が山積もってます。にげたい

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今週来週が仕事のピークです。ついでに、日曜は夜から町内会の会議です。
逃げ場がありません。わおお。
7月は新刊がですぎてやばかった。
銀の匙に、エイスに、軍靴のヴァルツァーに、ヴィンランド・サガに、十二国記。
チャンネルはそのまま!がついに完結してしまたあああ~~!!これすっごい好きだったのに!!!

それに、じつは春からなんですがアニメ見まくってます。
去年まではせいぜい2~3本だったのに、春に大きな仕事が終わってヒマになったので
反動がきたというか。完全現実逃避ですね。わかってるんです。
以下ややネタバレ吐き出しです。

マジェスティック・プリンスがきてます。
ヨルムンガンドの監督さんでしかもオレンジ×動画工房という、個人的にまじか!!のコラボで。
はたらく魔王さまからの、マジプリ、リトルバスターズという木曜のラインナップが癒しすぎました。
今は薄桜鬼の2期になっちゃったんで、そのバランス崩れましたが。
(OPだけど土方さんが白髪になっちゃうのはイヤだなぁ・・・。)
今では毎週木曜がくるのが楽しみで日々頑張れます。

ヤマト2199も途中から見だしたら目がはなせなくなっちゃったし、
八犬伝も1期知らなくて内容分からないなりになんだかセンサーが反応してて、
原作買っちゃいそうだなぁ・・・。だって設定気になる。
サーバント×サービスはアニメにしたら面白そうだなぁと思ってたけど、本当にやったな!?
原作1巻で長谷部が最低な感じのところで終わってたんで、珍しく嫌いなキャラになりかけました。
2巻が出るまでがまた長くて、まじで拷問かと。今では3巻も無事でて、立派な萌キャラです。
赤面男子はかわいい。
あと神様のいない日曜日が、主人公の養父さんが美形!?とおもったら1話で退場させられて、
いっしょに旅する事になった少年がまた美人!???とおもったら3話で退場させられてorz
このあと何を楽しみにすれば、と思いつつやっぱりみちゃう。
さすがカードキャプターつくってた会社だなぁ(スタッフ違うだろうけど)絵がすごいかわいい。
だけど、世界観に関する理屈は未だに納得がいかない。
あとクロスゲームが再放送しててうれしい。あれも大好きです。まったりしつつスマートというか。

あと、あんまりみていて気持ちよくないけど気にはなるから見てるのが4つくらい。
血がブシャー!!とか。いたたまれなさとか。
多摩モノレールと中央大学がでてくるんで、あの汚いコンクリートの壁が懐かしいな!?と。
ドイツ語検定とか高校模試とかで、何回かいったよ中大。
えー。そろそろどうにかしないと、休みがいくらあっても足りないよ!?

  *   *   *   *   *   *   *   *

 

さて世間ではそろそろコミケでしょうが、府中でもお祭りあります。
商工祭です。3日間やります。あついです。

普段は神社の境内の中にはいると外気より3度くらいは低く感じるまさしく神域ですが
このときばかりは鉄板屋台が軒を列ねるので2度から5度くらい温度が上がります。
なまなましい空気に囲まれますが、それでも楽しいです。

商工祭はほかの酉の市やすもも祭とはひと味違って、へんなお店がおおいです。
ゲームやDVDの安売りや雑貨やバッグや天然石などが屋台の隣で売られています。
さらに浄水器やコンロやバイクやお墓など、どこまでOKなのかときどき分からない。
イト-ヨーカドーがまだあったころは、ヨーカドーもブース出してましたし、
ときどき京王アートマンも居ました。あとサンリオ。

参道前では伊勢丹フォーリスも一緒になって路上セールやるようですよ。
テントが準備されてました。産地直送野菜もときどき売ってるんだよなぁ。
桃とか干し柿とかトマトとか。

   

そんな年中行事のなか、ちょっとずつ、再開発の波で古くからあるお店がなくなりはじめています。

けやき通りに面したところにある中華屋さん、結局一度も入らなかったけども。
伊勢丹十字路の角にあるおかき屋さん。本店がよそにあって出張店だったみたい。
理由が再開発と高齢の為、っていうのがじつにもの悲しい・・・。

私の心配はバスロータリーの京王ストアの斜め前にある大野履物店がどうなるのか。


木造家屋で、建物がほんといい雰囲気なんですよ。よくこの立地で残ったな、という位。
柊の枝に焼いた鰯の頭を刺す節分のアレを本当にやってる家は初めて見た(勝手口に刺さってる)
できれば郷土の森あたりに移築保存してほしいな・・・。



けやき並木の石垣も、神社側のは半分にカットされてこざっぱりとしてしまいました。
写真は甲州街道側のまだ手をつけられていない区間。
この、森厳とした雰囲気好きだったのに・・・。ずいぶん普通になってゆくのなぁ。

   

左が今回再開発にあがっている一帯。
伊勢丹ができ、くるるができ、残るはここだったのね。
おそらく伊勢丹の前から、右の写真の駅の手前まで、統一した大型建物ができる。

昭和の空気を残した、ごちゃついた路地が2本あるんですが、
この怪しい雰囲気がなくなっちゃうのは、ちとさみしい。

見るなら、今のうちです。

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「府中の風土誌」(昭和42年発行)の街道の項にあった地図がなんだかすごい。
古代から近世までの道が大國魂神社(赤い部分)を中心にだいたい放射状に伸びています。

タモリ倶楽部で取り上げられていた人見街道や品川道も載っていますが、
どうもこれによると、品川道としてとりあげた候補の道は正確には「いききの道」の方らしい。
そういえば、最終的には品川でなく大井にでていたしな。

以下はそれぞれの道の説明。

◎品川街道
別名:筏(いかだ)の道。そう呼ばれるのは、多摩川や秋川の上流の青梅から、筏を組んで流した
筏師が川辺に筏を止めて休憩したり、宿に泊まったり、江戸や各方面への問屋に品物を引き渡して、
徒歩で帰って来るための道だから。
府中より東海道へ品川で合流する道なので、品川道または品川街道の名称があります。

◎いききの道
それに並行する「いききの道」もおなじく筏師が往来する為ついた名前で、こちらは後述する
旧甲州街道とつながるみたいです。
大國魂神社の東門からでて、八幡町、清水が丘、白糸台のハケ上、上丸子から東海道の大井に
合流します。
府中だけでなく調布でもこの崖道をいききの道とよび、
狛江の氷川神社の前の道でもいききの道と呼ぶそうです。
別名が「御滝道」なのですが、これ最初は滝山城か、滝坂道との関連か?と思ったんですけど、
府中市清水が丘に滝神社という大國魂神社の末社があるらしいので、そこへ行くための道
という意味なんでしょうね。
名前からして湧水による滝があるんでしょう(崖線下のようだし)。馬とも関連があるらしい。
(http://www.tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/shrine_fuchu_taki.html 滝神社|府中市清水が丘の神社)

◎甲州街道
今でこそ府中で甲州街道というと、昭和30年前後で開通した国道20号の
新バイパスのことをさしますが、ここでは徳川幕府が整備した旧甲州街道をさしているようです。
大國魂神社の大鳥居の目の前を走る、江戸幕府開府後に開設されたもので、軍事・警察・経済的にも
幕府にとって重要路であると説明されています。
なので甲府の城主の人選には心を配り重要な人材を登用したとも。
また駿府と甲府を直結するにも不可欠な道路だったそうです。
おかげで中世に荒廃した府中は往古の繁栄を取り戻し、徳川さまさまだった訳です。

◎旧甲州街道(古甲州道)
大國魂神社の随神門の北側から西へ出る道で、元はけもの道であったろうという。
善明寺の南側を降り本宿から谷保を経て、青柳に行き、日野万願寺で多摩川を渡り秋留、五日市、檜原、笛吹、数馬、小河内、丹波、勝沼を通って甲州の国府へ至ると説明されています。
要するに、武蔵国府から甲斐国府をむすぶ古代の道です。
もとが、けもの道なのでいつからあるのかわかりません。

 

「東京人8月号」に載っていた、延喜式にある駅からおこした古道地図(左)には、
この道が載っていないことから正式な官道ではないようですが、国府同士の交易や連絡用の路と
考えれば、非公式ながら当然あって然るべきものかもしれません。
もう少し、わかりやすい地図が「未完の多摩共和国」(佐藤文明/凱風社/2005)に
あったので、ちょっと引用。というか、まずこっちで、古甲州道の存在を知りました。良書です。

府中を西へ行き、日野の渡し(石田の渡しと万願寺の渡しの2つある)で多摩川を渡った後は
小田原北条氏の滝山城(八王子城に移る前の北条氏照の城で武田軍にぼっこぼこにされた)のそばを過ぎ、高尾へ向かいます。
ただ、ここでいう高尾とは高尾山ではなく、五日市の方で川のそばに高尾神社があります。
地図にも高尾街道とありますね。高尾山と高尾神社を結ぶ道にみえなくもなく・・・。
ただ高尾神社は創建などの詳細が明らかでなく、高尾山の薬王院は神社でなくお寺なので、
両社の関係は謎。きになるなぁ・・・。
その後は檜原村を通り、山梨へ向かいます。
檜原村は今でこそ本土側の東京都内唯一の村ですが、
このころは結構、流路として重要なポイントだったそうで。
「ひのはら」には「日野原」が由来という説があり、
西党・日奉氏の一族平山季重を祖とする平山氏が根拠地としていた多摩郡平山郷(日野市平山)から
檜原に移り、檜原城の城主となったということだから、
日野と檜原のつながりも、なかなか侮れないものがあります。

◎人見街道
この街道は武蔵国府から人見村を経て大宮八幡宮(杉並区)へ至る道で、
大宮街道とも野州街道ともいうそうです。
昔は人見街道を通って、三宮の氷川神社から御輿がやってきたそうです。
「え?大宮八幡宮じゃなくて??方角違うし、相当遠いけど???」
って、なにかの混同じゃないかと思ったんですが、人見で建長4年(1252年)の板碑が
発見されて、氷川神社が来てた、と書いてあるらしいから本当らしい。今は流石に来ない。
くらやみ祭がいつごろからあるのかは詳らかでないようですが、平安中期にはもうあったらしく
そのころには一の宮から六の宮までの御輿が本当に来ていたと想像されるそうです。
いろいろ命がけだ。
今でこそ、大宮氷川神社と大宮八幡宮は三大大宮といわれて、別物にカウントされてますけど、
本当は、氷川神社の中継地点として、杉並区の大宮は冠されているのかもしれない・・・。

◎鎌倉街道
鎌倉街道上の道と東山道武蔵路はルート的に同じですが、一致してはいません。
府中市内の鎌倉街道と思われる道は、武蔵路よりやや西に比定されています。
大規模の軍隊を徒歩でドロドロ向かわせる官道と、馬足速達の鎌倉道では用途がちがうというか、
朝廷と鎌倉幕府ではそもそもの基盤が違うのかも知れません。

鎌倉道といわれる道は、幅が九尺かそれ以下の道で、いざ鎌倉でかけつけるには1つでは不足で
何筋(メインとバイパス)にも分けて設けるのが普通だったみたいです。
範囲も関東山麓を北限に、南の鎌倉までなので、古道ほど広い範囲で展開してはいないみたい。
古道が東西の流路がメインなのに対して、鎌倉街道は南北の流路がメインという違いもあります。
それが、江戸幕府開設でまた東西流路に戻ったという。

鎌倉には幕府を開く前から若宮八幡を京都の石清水八幡から勧請してあり、そこから町を展開したものの市街地が火事になり焼失して、市街地を避けたほうがいいと頼朝が丘の上へ持ってったのが今の鶴岡八幡宮だそうで。しかも丘の上にお稲荷さんあったのに、それをどかしちゃったんだと。
若宮八幡というと応神天皇(八幡宮の祭神)の若宮(皇子)の仁徳天皇を祀るのが普通らしいですが、鶴岡八幡宮は祭神が応神天皇と神功皇后(応神天皇の母)に戻っちゃってますね。

鎌倉幕府には武蔵七党が従い、平家と源氏が対立していた頃から一緒に戦っていました。
武蔵七党の内訳には何パターンかあるようですが、横山党、西党、児玉党、猪俣党、村山党、丹党は関東山地の渓口集落を拠点に経済的な地盤を持っていた党だといいます。

藤原俊成に師事し優れた歌人として敵味方に惜しまれた平忠度を討ち取ったのは
猪股党の岡部弥太郎です。
鉄道でキセルをした人を「あいつは薩摩守をきめこんだ」というらしいですが、これは「ただのり」だからだそうです。悲哀の美談も鉄道にかかっては不正乗車犯あつかい・・・。

畠山重忠に従い衣笠城(横須賀市)の三浦氏を攻めて21本の矢を受けつつも戦ったという金子十郎は
村山党。JR衣笠駅にはこの衣笠城合戦の慰霊碑があり、衣笠から三崎に行く途中の「金子トンネル」は
この金子十郎からつけられたそうです。

畠山重忠は板東八平氏の一つ、秩父平氏の出身で、祖父の重弘の代から秩父氏を名乗り始めました。
その子の小山田有重(叔父)は町田市小山田の大泉寺のあたりに館を築き、自分の城にしました。
またその子の重成(従兄弟)は向ヶ丘遊園のあたりに稲毛の城を築いたため稲毛二郎を名乗りました。
上の地図にあった稲毛街道というのは、そこへ向かう道という意味なんだろう。
(稲城市の由来もこれかなぁ?小山田領だったらしいし)

また畠山重忠は夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女を寵愛していました。
しかし平家を討つため畠山が西国へ旅立たなければならなくなり、夙妻太夫は泣き暮らします。
そこへ横恋慕した男が畠山が戦死したという嘘を教え、夙妻太夫は姿見の池へ身を投げました。
これが国分寺市の恋ヶ窪伝説で鎌倉街道にまつわるお話の一つでもあります。

西党で有名なのは日奉氏出身で平山を名乗った平山武者所( 季重)で
これは多摩動物公園の辺りを拠点にしていたらしい。
京王線の駅の中に、平山城址公園として城の名も残っています。
この平山氏の末裔が檜原に移住したので「ひの」の名前がついたという話は上でしました。
東京都日野市栄町にある日野宮神社では、その祖神である日奉氏をお祀りしているという事です。

これら、頼朝にしたがって戦った武蔵七党や板東八平氏も、
頼朝の死後は執権の北条氏の計略に掛かって次々と消されてしまいました。

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国分寺街道については「府中の風土誌」に説明がないので、いつからあるのかわかりませんが
国分寺への参道として、東山道武蔵路と国分寺街道を結ぶ斜行路が発掘されているので、
結構古いのかも知れません。

そして、この地図の中で自分が気になったのは「薬師道」です。
府中街道(川越街道)から直に国分寺へ直結するみちなのですが、これはどうなのだろう。
国分寺といえば薬師如来。国分寺が荒廃した中世には薬師堂が立ちますがその参道なのは間違いない。
ただ、いつできたのかというのがまだ謎で、本に説明もない。気になる・・・。
今では間を府中刑務所がぶったぎっているので、府中刑務所ができる前からの道であることは確かです。

というわけで、次回はこの薬師道をぶっとばして、
国分寺跡を見てきたときの記事をまとめたいと思います。

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昨日は多摩市一ノ宮にある小野神社を見てきました。
小野神社は大國魂神社のなかに奉られている六つのお宮の一番目です。

一の宮が多摩市:小野神社
二の宮が秋川市:小河神社
三の宮が大宮の:氷川神社
四の宮が秩父市:秩父神社
五の宮が神川町:金鑚神社(かなさなじんじゃ)
六の宮が都筑の:杉山神社

この番号は国司が国府から各地の有力神社を廻る順序だそうで、
ようするに近い順であり神社そのものの格式とは少し違うらしい。
五の宮のほうが六の宮より遠いけど、これは六の宮の杉山神社が
中央に帰属した時期が遅いから(最後だったから)ではないかと。

だからか大宮の氷川神社なんかは武蔵国一の宮を自称し、
金鑚神社はニの宮を自称している。
(このせいで、氷川神社では一の宮・三の宮論争というのが起こる)
実際、明治天皇も個別行幸の際、府中よりも先に大宮にお参りしているし、
大宮氷川神社から見たら府中の下という意識はないのかもしれない。
先にあった有力神社をあとからできた総社に祀るんだから、これはある意味当然かも。
金鑚神社はまた独特のご神体だし、武蔵国のはじっこ(東山道=中央との連絡に近い)だし
別の上位意識があるのかもしれない。

で、一の宮ながらいまいち小粒な小野神社ですが。
これも候補となる神社が3つほどあり、あまり正確にはどれかわからないらしい。
パルテノン多摩の展示でも「論社」として3社ほど紹介していました。
1つはこの多摩市一ノ宮の「一の宮小野神社」
2つめは府中市住吉町(本宿)にある「小野宮小野神社」
3つめは町田市小野路の「小野路小野神社」

しかも小野神社は百草山にある松連寺が別当であったことから、もともとはその近くの
もっと西方・多摩の横山に鎮座していたのを遷座したのではと云われており、
元祖はまた違うのかも知れない。
(建久4年8月刻印の経筒に一宮別当松連寺の銘あり「吾妻鏡」)
ちなみに、この松連寺、聞いた事があると思ったら、廃寺となってから豪商青木角蔵が買って庭園にし、
それも荒廃すると京王が買って百草園にしてた、あのお寺だった.。・・・お、おう。

また小野神社はもともと多摩北岸の府中本宿小野宮にあったのが、
天正のころと文禄5年の二度の多摩川の流路変更で村も神社ながされ
村民ごと南側に移動せざるを得なくなり、今の一の宮に神社をたてたんだとか。
(中河原なんかもこの頃までは多摩川の南側にあったという。
 分倍河原~中河原と続くのにあいだに川がないのが変な感じでしたが、これなら納得)
その後、多摩川の位置がおおよそ今のように定まり、その機会に村民の一部が元の地に戻って
村を再建し、小野神社も再建したので神社が2つになってしまった。
再建は貞享3年とも宝暦年間ともいい、定かではなく。
この経緯から、一の宮の神社では、5月5日の大國魂神社の大祭に参列する際は
空の御輿を背負ってまず旧地の小野宮へ行き、その後府中の仮殿に安置して、大祭の神幣を納め
帰社するならわしとなっていたんだそう。

ちなみに3の町田の小野神社は一の宮から勧請したものらしいから、
一の宮論争からは一歩ひいてる。

神社にある碑の由緒によると鎮座が3代・安寧天皇18年(紀元前531)らしいから
大宮氷川神社の5代・孝昭天皇3年(紀元前473)より、ちょい古い。
といっても、応神天皇以前の西暦換算って余興みたいなもので、本気にすることは出来ないから
「少なくともあっちの神社ができるより前からあった」くらいの記憶で決めたんじゃないかな。
一の宮論争のことも考えると、それすら素直にはいえないかもしれませんし。
(我の張り合いの可能性が・・・。)

そもそも神社の神様って、もとは自然崇拝だからなんか「コレ?」っていう形容しがたいものが祭神なわけで、宝亀3年「太政官符式部省」には小野神社の祭神は「雷(いかづち)」だとされているらしいし
小河神社は境内から石棒が出土していて本来の祭神はこっちじゃないかとかいわれている。
金鑚神社はもっと顕著で正殿が無いかわりに、背後の御室山そのものか、
その斜面にある珍しい自然現象の鏡岩がご神体だとされている。

社殿だって、仏教が入ってきて伽藍配置だとか仏像だとか、そういう具体的な崇拝の仕方に
ショックを受けて後追いで立てていったハコ物だから、鎮座とか創建だとか建立だとか再興だとか、
なんだか起源に時差が起きてくる(し用語も錯乱している気がする)。
自然崇拝の起源て、そもそもが年数定めるのが難しいのでこういう大きな数字になるんだろうと。
(ちなみに上の神社に関する情報は「続府中の風土誌」昭和51年発行を参照しました)

  *  *  *

以下は、そのとき行った道筋です。

 

小野神社へ行くのは私も初めてです。
聖蹟桜ヶ丘駅からザ・スクウェアの裏側へまわるとお宮への道っぽい名前の通りがありました。
ついでに、京王の駐車場マークが可愛くてつぼったv

   

途中、小さな塚のような区画が残されてて「ムム!これはあやしい。」
近づいてみると、2本ケヤキの神木と、一の宮の渡しの記念碑と、神奈川県時代の水量標識でした。

   

石にはたしかに「神奈川県庁」の文字が刻まれていました。

 

その向かいには、これまたかわいい「せせらぎ通り」というわりと新しめに舗装された道が。
どうも、これが参道っぽい。名に違わず用水?の水が玄関前を流れていて、
各戸の入り口が石橋になっていました。これまたおしゃれで風流だなぁ。

 

いよいよ神社の近くに来ると、庚申塚がありました。
道筋に良くあるのは村に悪いモノが入ってこないように、
塞の神(さいのかみ)の役割があるようで。
設置は江戸時代だそうで、信仰としては新しめか。

   

小野神社拝殿。真っ赤だな~。
表の鳥居もかなり新しく、菊の御紋がペカペカしておりました。
しかも、鳥居の次に山門?みたいな門がまえがあって、半分お寺のようでもある。

そして、祭神が多い多い。郷社だからかな?
でも主神は天下春命(あめのしたはる)と瀬織津媛(せおりつひめ)という、
ちょっと珍しめなところが、殊勝だなぁ。
天下春は八意思兼命(おもいかね=高天原にすむ策を色々練る神)の息子で
天表春命(あめのうわはる)という兄がいるらしい。でともに武蔵秩父国造の祖神らしい。
瀬織津媛は川の流れを表す神様なので、多摩川の流れと関係があるのだろう。
なんとなく、ほのぼのした野原と、清涼な川のイメージでなごむわぁ。

 

正門および正殿や拝殿は西を向いているけど、途中ななめに道が分かれ、もう一こ南門がある。
ただ、この南門は南西向きで、直角でないのがなんか不思議。
これが、むしろ聖跡側からくると最初に出合う入り口部分なので、
私も一度ここから入ってしまった。
地元の人は正面からで、よそ者は道筋的にここから入るのかなぁ?いや、でも普通逆だよな。
顔見知りは勝手口からきても構わないけど、正式な来客は正門から入るだろう普通。
神社も多摩川の方を向いてないし、鎌倉街道にも背を向けているので、
いったいどこを見ているんだ?という、いろいろ不思議な感じのする神社です・・・。
もしかしたら、もといた百草の地を懐かしんでいるのかも?

あと、南門のそばにあった碑の寄進が明治23年だったので、ちょっと気になった。

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