たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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帰りは伊東線ではなく伊豆箱根~
修善寺から韮山で寄り道して、三島をめざします~
修善寺駅も、近々工事して変わってしまうようですよ。
富士山世界遺産登録のヘッドマーク。
うかうかしているうちに行ってしまいましたが。
右のはそのあとに来たやつ。回送なので、これも乗れません。
で、やっと乗れたのが子の子。
ドアがスイーツの広告になってて、予想外デス・・・。
全部青いけど、意外と車両のバリエーションが豊富なんですね。
伊豆長岡駅で降りて、韮山の反射炉まで歩き、
そこから江川代官邸まで行ってみます。
(正直、世界遺産はやめといたほうがいいよ・・・。と思う)
伊豆長岡駅は修善寺駅に似ているなぁ・・・四角くて薄くて土産物屋やコンビニと一体化。
あ、伊東駅にもちょっと似ているかも。ていうか伊豆っぽい海っぽい駅だな。
改札とは反対側にあるので、踏切を渡る。
この辺、唯一の名物にしては、駅の入り口の方向が逆なのはなんでなのか。
とりあえず、立て札が絵付きでかわいらしい。
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韮山駅までまた戻ってきました。
けっこう、駅から道のりありました。正直、方向わからなくなりました。
周囲がほぼ水田で、奈良盆地思い出した!でも、あれよりは見通しが悪い。
そのうえ、豪雨にゲリラれた。
これは逆方向の電車。
こんどのドア広告は缶コーヒーだな。
この時間帯は片側ホームしか使用しないみたい。
登下校の時間なら、反対側の改札も開くらしいが。
やっぱり、江川邸のある方向とは反対に駅の入り口が付いてるんだよな。
なんでやねん。(また1本のがした)
上りが来ました。さっき、回送になってた種類だ。
三島駅の一つ手前の三島広小路でおりました。
ここの近くの国分寺跡と、三島大社を見てから、三島駅まで歩いて帰ります。
なので伊豆長岡~韮山区間と、三島広小路~三島駅区間は乗れてない私。
三島広小路は階段があって、なんかかわいい駅だな。
ちょっと、南武線の稲田堤駅に似ている気もする。
(あと缶コーヒーはけっこうガチなスポンサーなのかな?)
そして、この翌日ついに関東にも雷雨が到来。
伊豆箱根鉄道も止まったそうなので、日程的にはギリギリセーフだったみたいです。
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帰省の途上その2
熱海駅で降りて、西の坂をだら~~~~~~~っと降りたところにあります。
熱海市が管理する元旅館・起雲閣。
作画参考用の本棚にあった洋館の本の中で紹介されてまして、
元・根津嘉一郎氏の別荘だそうで。
いや、そこも引っかかりポイントではあったんですが、
なによりステンドグラスの温室がほかとはまたひと味ちがって「おお!」と
思ったのもので。しかも熱海だし、通り道だし。
実際にはここの所有者は3回かわっていて、
最初にここを作ったのは海運王の内田信也氏。
彼は船成金の1人で、鉄道大臣になった経験もあるそうです。
親孝行な大臣としても有名で、老母の為の保養施設として
この別荘を建てたそうで、そのときは数軒の和室の家屋だけでしたが、
その後、根津嘉一郎氏の手に渡り、さらに洋館やローマ風呂が追加。
庭を整備したのも根津氏らしい。
戦後は、旅館業で名を挙げた桜井兵五郎が買いとり、宿泊施設を増設、今の形になりました。
内田氏が建てた麒麟と朱雀の間の壁をそれぞれ、青漆喰と赤漆喰にしたのも彼で、
出身地の金沢では、本来お殿様の部屋にしか使用出来なかったしろものらしいです。
平成になって旅館も閉鎖され、今は熱海市が管理しています。
まあ、閉館時間まで時間がなかったので、すっげえ飛ばし飛ばしで見ましたけども。
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「玉渓」と「玉姫」の間
机と椅子がならんでいるのが貴賓室で、ソファーがあるのが食堂だそうです。
ステンドグラスは当時としても相当高価な珍しいもので、モザイクタイルも
皇室の部屋を手がけたデザイナー作だとか(うろおぼえ)。
ローマ風呂の窓もステンドだったな。
正直、いい趣味しています根津氏。
まあ、暖炉上のレリーフが仏像だったり、洋間の欄間が中華風だったり、
天井が殿間の格子だったりで、和洋中華おりまぜてるので、ちょっぴり謎センスですが。
トルコとかペルシャみたいといえなくもなく。いや、ほんとはそいういうのよくわからんのですが。
外に出てみる。
この庭もねづっちこだわりの自作らしい。
屋根はさりげなく黄金色でこれもこだわり。
庭の真ん中にある岩は、20トンあるのを十人以上の職人に二ヶ月かけて運ばせたという。
そのため「根津の大石」の名前が付いてます。なんとなく、顔に見えなくもなく。
併設されてる喫茶店で一服したかったんですが、一足先に店じまいされてしまい、
とぼとぼと来宮駅への坂を上りました。
街中ではなかなか見ない標識。多摩の坂なんて生ぬるい、伊豆の坂です。
うおおお、足が、もうあがらない。
来宮駅は外から見るのは初めてかな。
じっくり見たかったけど、下りの電車が来てしまったので、ダッシュで改札入りました。
これのがすと、伊東線て平気で40分位電車こないからな!
夏休みの帰省を利用して、神社名所をいろいろ見てきました。
こちらは神奈川県大磯町の相模国総社・六所神社です。
大國魂神社がかつて、(武蔵国の)六所宮や六所明神とよばれていた如く、
相模国にも六所神社とよばれ、相模国内の有名社を一箇所に祭った総社があったという事です。
しかも、大祭は大國魂とおなじ5月5日。
これはよい比較サンプルが近所にあったものだ、と思い見てきました。
これはそこでもらってきた、六所の地図。
大國魂には一の宮~六の宮がありますが、相模国の六所神社は一の宮~四の宮までしかなく、
五の宮「格」(=相当)という扱いで平塚八幡宮、そして自分を入れてやっと六所という、
なんか、ちょっとイレギュラーなカウントな気がしないでもないですが、そんな違いがあります。
一の宮 寒川神社(さむかわ) 式内社
二の宮 川勾神社(かわわ) 式内社
三の宮 比々多神社(ひびた) 式内社
四の宮 前鳥神社(さきとり) 式内社
五の宮格 平塚八幡宮
寒川はJR相模線の沿線で有名な神社ですね。これだけが相模川の対岸にあります。
1500年前の雄略天皇の頃、奉幣され、延喜式でも相模国唯一の明神大社というから、
相当格は高いです。関東八州方除総鎮護・八方除の守護神というから効能のテリトリーも広そうです。
川勾神社は11代垂仁天皇の時代に磯長国造阿屋葉造が勅命を奉じ、
日本武尊が東征の途中で奉祀、允恭天皇の皇妃安産を祈願、頼朝は神馬を献上、
小田原北条氏から鬼門守護社とされ、徳川からは50石を寄せられるなど
スポンサーに事欠かない神社です。
「かわわ」の「勾=わ」は「くねくね曲がっている」という意味ですが、
これみてると小田原に入る手前の酒匂川も「さかわ」と読むのを思い出しますね。
「匂」は「勾」が転じたものという説があるそうです。
比々多神社は神武天皇6年国土創造の神を祀ったというのだから、こればヤバイ。
初代じゃないですか。53代淳和天皇の時に当国総社冠大明神の神号を賜る。え?
神社の周辺には古墳が360基もあったらしい。
弥生時代からのものがあるとすれば、神武時代創祀というのもあながち・・・
前鳥神社は1640余年の歴史があり、と創建年代書いてないわりには、数字が具体的だな・・
祭神の前鳥大神は修学・学問の神であり、渡来系技術者を庇護して土木・農業の発展をなし
産業技術の神として崇敬されているらしい。
じつは、平塚にあったとされる国府跡が四の宮から発掘されています。
国府を立てるときに、周辺域に職人用の竪穴式住居がたくさん建てられるんですが、
そんな人達も庇護したのかもしれませんよね。
平塚八幡宮も1600年以上の歴史有り、仁徳天皇68年に大地震があり、その被害をみかねた天皇が詔勅を出して応神天皇を祀ったことから創祀、推古天皇の時代にも地震があり、鎮地大神の御宸筆を賜る。
相模国一国一社の八幡宮で、平塚中心市街と官庁街を結ぶ、最も標高の高い八幡山に位置。
江戸時代に街道が整備されると、門前は大門通りとよばれ、東海道と大山道と厚木街道と須賀港からの道が交わる交通の要所となり、平塚商業発祥の地となる。
そして肝心の相模国総社。
六所神社は崇神天皇の御代、櫛稲田姫を守護神として創建、当時は柳田大神といったという。
大化の改新後、国府鎮座の総社に指定、一の宮から平塚八幡宮の分霊を祀る。
鎌倉時代には源頼朝から富士川合戦の戦勝祈願がなされ、小田原北条氏からは65石の寄進があった。
他の神社に比べると、弱い感じですが、場所は神奈川県大磯町国府本郷935で、
平安時代初期の『和名類聚抄』には「大住府」、鎌倉時代初の十巻本『伊呂波字類抄』には「余綾府」と記されていることから、平塚から大磯へ国府が移転したということが分かっており、
大磯に移ってから指定されたんではないかなと。または、一緒に引っ越した可能性も。
大住(おおすみ)、余綾(よろぎ)は相模国内の郡の名前です。
余綾は近世以降、淘綾と表記される事が多くなり、明治時代では淘綾郡が採用されたそうです。
大きな地図で見る
六所神社とは6柱の神、または6宮を合祀していることからついた名前で、
祀っている神様じたいはまちまちです。
その中で、国府内で国司が一括祭祀できるよう総社とした六所神社というのは、
武蔵国、相模国以外では、下総国(千葉県市川)安房国(千葉県館山)出雲国(島根県)出羽国(山形県)で、埼玉にも総社としての六所神社があるらしいのだけど、これは国府関連とはちがうのかな?
武蔵国周辺で多い傾向ですが、全国に分布としてもいい範囲かもです。
出雲国造と武蔵国造は祖先が同じで、出雲が大和に下ったあたりから、出雲族の武蔵への入植がはじまたっという話もあるくらいだから、武蔵と出雲は案外離れた関係ではないのかもしれませんが、出羽は調べてないのでまだよくわかりません。
総社の六所神社が全国に複数存在するなら、そこから調べれば、国府内に国内の有力社を一括祭祀するという効率化が、いつ頃行われるようになったのかがわかると思ったんですけど、これじゃよく分からないな・・・。
中央から一律にそうするよう、お触れが出たのなら同じ時期にみんな総社をつくったと云えるんですが、どこか1箇所が始めて、隣国がそれをまねるようになった、というようにも見えなくもなく・・・。う~ん。
だいたい、なんで「6社」なんでしょうかね?
ちなみに、国府総社でない六所神社も含めた全国の分布が、上のグーグル地図です。
全国的にあるにはあるんですが、結構偏りがあります。
世田谷などの多摩川流域にもけっこう六所神社があるんですが、
これは大國魂神社から勧請したものが多いみたいです。機会があったらいってみようかな。
一番目を引くのは静岡県西部、愛知県に隣接した地域に群生している六所神社です。
愛知県のなかで有名な六所神社は奥州塩竃の六所明神、塩竃神社から勧請したものなので、
祭神は塩竃神社と同一ですが、お隣の静岡県はなんなんだと。
昔の行政単位でいうと、愛知県は三河国で静岡県西部は遠江国(遠州)です。
静岡県神社庁のホームページ(http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/search.php?mode=city&search=&city=35&p=10)で調べると、だいたい2系統あることがわかりました。
浜松市北区引佐町の辺りで祭祀されているのは
底津海祇神・中津海祇神・上津海祇神と、底津筒男命・中津筒男命・上津筒男命
という海神のダブル3兄弟。
なかでも浜松市浜北区宮口1の六所神社は遠江六十二座式内神社の一社であり、
麁玉郡多賀明神ということで、比較的有名です。
浜松市カントリークラブ周辺で祭祀されているのは
伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大神・月読尊・素盞嗚尊・蛭子命という有名所の3貴神家族です。
とくに浜松市浜北区大平813の六所神社は創建年月日、神階、不詳
延喜式国史所載一宮、二宮、三宮、総社、国内神名帳所載旧社格村社というのが気になる所です。
もしかしたらこれが遠州国の総社なのかも?
でも結局、佐鳴湖の東海道線沿線および天竜川流域で祭祀されてる六所神社は
祭神も由緒もわからないものが多数です。
多分、有名所から勧請しまくったんじゃないかな~?と思うんですが
なんで浜松市にこんなに六所神社がもちゃ~ってなってるのかの理由はわからなかったです。
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小田急で出発したところ、小田原本線に嫌われ小田原行き急行をのがしたので、
次に来た藤沢行き急行で藤沢まで。たまにはこういうルートもいいものです。
JRの藤沢駅のニューデイズが面白い形してましたし(笑)
東海道線で相模川を渡る。
そこからは平塚~大磯~ニ宮~国府津と続きます。
平塚と大磯には先にも書きました通り、国府がありました。
また国府津の「津」は港という意味であり、国府が管理した港で交易を行っていたようです。
さらに相模国の国分寺は海老名にあり、そこにも国府があったんではないかということで、
相模国国府の位置がなかなか定まらない原因になっています。
二宮駅で下車。
二宮の由来はもちろん、ニノ宮の川勾神社があるからですが、
六所神社も大磯駅よりはこちらが近いので。
ただ残念ながら川勾神社と六所神社では方向が全然違うし距離もあるので、
今回は川勾神社の方を諦めました。
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駅前ロータリー。
なんとガラスの兎の像がある。二宮が舞台だったんですね。
だけど、重要なのはその下の標識。
国道一ケタ!しかも1号線とな!
なんと、六所神社へ向かう道は旧東海道でした。
もしかして、相模総社って東海道筋の名所でもあったんかな?
途中にあった消防団らしき施設。
国府新宿となっています。この辺りの地名です。
その手前にあった、お稲荷さんと「道祖神」と堂々と書いた石。
ここまではっきりかいてあると、いっそ清々しいな(笑)
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全国的に雨の中、関東南部は晴れてます。
アスファルトの道みちが、熱気でかなりやばかったですが、どうにかたどり着きました。
ここにも道祖神の石が、神社の碑の後ろに。
さすが、東海道というべきなのか。
右から大正6年、昭和13年、平成9年とあります。
朱の大鳥居なんか、本来は文化14年の建立だったのに、
平成9年の自動車事故で大破してしまったという悲しい事実が書かれています。
鳥居の場所が動いてないとすれば、やっぱり江戸時代の頃から東海道に接していたんですね。
それが古代までさかのぼれるかは謎ですが。
参道をすすむと、なんと東海道線が横たわっていて、地下道が設けられてました(爆)
こんな参道ははじめてです。
え、いつから?もしかして、明治からずっとこれなの?
地下道を設けたのは、もっと列車が頻発に往来するようになってからでしょうが…おーう。
ようやっと、神社がみえてきました。
参道にぽつぽつある大樹はケヤキです。樹齢300年以上はあるそうです。
やっぱり、ケヤキなのか・・・。
それと、またまた道祖神がいました。こんどは夫婦神です。
櫛稲田姫の湯津爪櫛の御守りと神奈川県重要文化財の神像について。
クシナダヒメはスサノオがヤマタノオロチを退治するときに、
櫛に姿を変えて、彼を守ったという伝説があり、そこから御守りとして売られているのでしょう。
御守りに付いている由来には、荒魂(あらみたま)であるところのスサノオの命は
クシナダヒメの奇魂(くしみたま)を得る事で、鎮まりより強く尊い神になったとあります。
なるほど、櫛と奇しきをかけているのね・・・。
この櫛をみにつけると、女性はアゲマンになれるそうです。良縁・災禍除け。
神社では他に鳥の御守りも売っていました。
こちらは源頼朝が治承4年に平維盛軍と富士川で戦ったときの戦勝祈願にちなむものだそうです。
(「吾妻鏡」)
境内には、門から入ってすぐのところに、左右で一対の池があります。
左には竜神を、右には水神と、弁財天を祀っているのですが、
もともとは櫛稲田姫の姿見の池だそうです。
姿見の池といえば、出雲の八重垣神社のが有名ですね。
薄紙にコインをのせて水に浮かべれば、婚期を占えるというやつ。
水神の方はミツハノメなのかな?
左が男(龍)で右が女神って配置なのかな・・・。
近所に大磯プリンスホテルがあるらしく、寄進されてた(笑)
あまり広い敷地ではないながら、この1対の池はかなりの存在感です。
水も比較的美しい。近くの井戸からポンプでくみ上げている模様。
それにしても、な~んで出雲の神さまなんだろうなあ?
駅にもどります。
途中、秦野駅方面へいく道があるらしく、秦野道という名前の停留所がありました。
秦野って、渡来系技術集団となにか関係があるのかな?
それにしても、周辺の積乱雲が、ほんとすごい。
自分のMPもちょっと削れる。
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8月お疲れ様でした。
私も昨日からようやっと夏季休暇いただきまして、
ぼちぼちどっかいこうかな~と、山梨県立博物館へ日帰り考えてたんですが
HPでパンフが売り切れだと知り、一気に気力が抜けました・・・。 orz
台風もきていて、路線の状況がよめなかったし。
というわけで、しばらくは家でおとなしくしています。
それにしても、外気の猛威がひどいことひどいこと。これはアカン。
24日・25日も出勤だったんで、ほんとは高円寺の阿波踊りとか、
立川の昭和記念公園の多摩フェスタとか行きたかったんですけど、近場で我慢する日々でした。
でも、よさこい府中ははじめて見た。
いろんなチームがあってテーマ曲も音頭もいろいろなんですね。
印象に残ったのが、チーム「よさこい国府」で、
背丈もほぼ同じで髪も半白のおばあちゃん達の規格が異様に統一されすぎてて(笑)
5m近い大旗をぶんぶん降って進んでいくんで、なんというか、迫力ありますね。
天気は雨模様で良くはなかったんですが。
調布の花火もそれなりに堪能しました。非常階段から←
カマキリがどこからか飛んできて、いっしょに花火を見てました(哀愁)
まあ、ぼちぼち、史料と荷物でもまとめますわ。
それにしても、カメラの調子がいよいよおかしくなってきててヤバイ。
伊豆までもつかしら。川
あと、昨日の笑神様では伊豆急の社長さんまで出てきて、すっごい面白かったですね。
伊豆急内の本鉄さんの妄想架空鉄道とか(笑)平塚に市営地下鉄とは。
平塚の国府跡とかも見てみたいけど、一度は無理だな。
今日も今日とて、休日出勤ですが。
午前中の時間を利用して武蔵府中熊野神社古墳を見てきました。
ふるさと府中歴史館のチラシで国衙跡とともに、一押しされてた古墳なので
考古学的にはどのくらいの位置付けなんだろう・・・?と、このあいだまで
「東京の古墳を考える」( 品川区立品川歴史館企画/雄山閣発行)を読んでました。
・・・一応、最近の発掘としては大きなもののようですね。←
最寄駅はなんと南武線の西府駅~!
新駅開業して以来ですよ見に来るの。しかも、外観みたのはこれがはじめてです。
ロータリーのまわりままだまだ草地が多いな。
ただ駅前に着々と巨大なマンションが建設中。
入居予約は無事満員になったらしい。
あとは、お寺さんみたいのが、空き地の先にのこってるのが気になるな。
もう少し北へ行くと甲州街道にあたり、いなげやとかがあるのでそんなに不便な土地ではない。
熊野神社は甲州街道に面していますが、それより一本手前の裏道をいく方が近道みたいです。
甲州街道の南側にある本宿内の道だから本宿南裏道らしい。
車通りも少なく、歩きやすい住宅路です。
そこから甲州街道へ出る北の道に曲がります。
その近くにあったポスターによると9月に例大祭があるようですね。
つきました~。
樹木が少なくて殺風景なのが、甲州街道のせいなのか古墳の発掘のせいなのか。
しかし、鳥居に巻きつく緑の巨大なしめ縄が印象的です。(どういう意味が?)
敷地の左側には古墳に関する資料館が立っていました。
この黒い建物は、古墳内部の復元らしい・・・。
その壁には「くまじい」と「おくまちゃん」のマスコットキャラクターが・・・。
くまじいはギリギリじゃないかな?ヒゲは出土物の七曜紋の鞘尻金具がモチーフのようだ。
資料館は後回しにして、まずは神社にごあいさつ。
拝殿に向かって二礼二拍一礼。
してる先にちょうど、お猫様がいて、なんだか猫に向かって頭を下げている気分に。
それにしても、この猫様堂々としていて偉そう。
首輪していて毛並みもいいので、神社で飼われているのかもしれない。
そして、セミに無体な遊びを。(高速で羽ばたいてるので蝉がみえませんが)
この社殿自体もなかなか、歴史のあるものらしく。市の文化財になってます。
ご祭神はとりあえず素戔嗚尊(すさのお)さん。
熊野神社って、いまいち実態が分からなくていつも理解がむつかしい・・・。(苦手)
なんか、どこにでもあるんだけど、熊野で信仰してるのって神?仏?てところからあいまいで。
融合してるというか、どろどろでよくわからない。熊野信仰を広めたのは修行僧らしいけど。
熊野の神社が3つくらいあって、熊野の名前の神様それぞれがいて基本はそれでいいんだろうけど、
でも各地の熊野神社の祭神はだいたいイザナミ・イザナギ・スサノオとかで。?
根の国の入り口が熊野だから、てところから始まるみたいなんだけど。
熊野権現って、べんりな言い方だよなぁ・・・。つきつめていくとよくわからないんだけど。
十三念仏みたいな、有名どころの神様の「もりもりのましまし」で、いいのかなぁ?
各地域の熊野神社はべつに嫌いじゃないんですけどね、むしろ自然でいつきがいい。
それとは別に境内の右隅では八衢比古(やちまたひこ)と八衢比売(やちまたひめ)を祀っていました。
これは、道の交差する衢(ちまた)を守る道祖神の一種のつがい神ですね。
道祖神はイザナギがイザナミから逃げる黄泉比良坂(よもつひらさか)のお話しの中で発生している神で、道を通して入ってくる悪いものを防ぐ役割があります。
これも熊野関連(黄泉の国)で祀っているのか、
それとも府中高札場のあたりなんかが甲州街道と川越街道=川崎街道=府中街道と新旧鎌倉街道なんかが混じり合う、まさしく八衢(やちまた)な交差点なので、そこを守っていた神様なのかもしれない。
こっちのほうが興味あるところです。
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さて、本命の古墳です。
復元がなされて、公園のアスレチックの一種みたいな異様な姿に。の、のぼりたい・・・。
発見される以前は、木がぼうぼうのプチ裏山みたいな感じだったんですけど。鎮守の森というか。
たいがいの神社が墳丘の上に社殿をたてて、墳丘を破壊してしまうなか、
その手前に社殿を立てて森をそのままにした熊野さんは、なんというか殊勝だなぁ・・・。
平成17年に復元が終わってセレモニーしたらしいです。
さて、なんで熊野神社古墳が国指定の遺跡なのかというと、これが上円下方墳という
正方形の基壇の上に半円の墳墓をのっけちゃった、終末期といわれる飛鳥時代にかかる
めずらしい形の古墳だからで、全国でもまだ片手で数える位しかこの形の古墳は発見されてない。
そのなかでも、この熊野神社古墳は最大級なんだそうで。
前方後円墳がだんだん作られなくなって(古墳時代の終わりといわれる)、
八角墳とか円墳とか方墳とかになってくるですけど
そのうちそれ等を組み併せた最終形態の上円下方墳が登場する。
天智天皇陵がまずそれだといわれていて、明治天皇や大正天皇の御陵もそれにならって
上円下方墳が選択されたんだけど、のちの研究で天智天皇の墳墓は
実は八角墳だということが分かった(笑)
だから、天皇陵で上円下方墳なのはむしろ近代からなんですよね。
ただ、全国の古墳の総数がだいたい15万~20万基で前方後円墳が約5000基、
前方後方墳をふくめても6500基くらいで、一番多いのが円墳。
ということは、今後はただの円墳とおもわれているものの中から
上円下方墳が発見されることもあるかもしれませんね。
熊野神社古墳の特徴は、内部構造が玄室と奥室(後室)と前室(羨道)の3室。
版築工法という種類の異なる土を何層にもとんとん突き固める方法で
強度をましている。(超手間が掛かる)
石室は軟質で加工のしやすいシルト岩の切石で、わざと石をL字にして組み合わせて強度を増す切石切組積みという飛鳥時代の古墳に特徴的な積み方で、仏塔の基壇づくりなんかでつかわれる新しめの技術を導入してる。
のわりには玄室は胴張り型という、武蔵地域によく見られる従来型の仕様である。
上円下方墳という最新モードを、しかも基壇と方墳と円墳という3段重ねで実現(ほかはだいたい2段)、1段目と2段目には葺き石(でかい岩)と張り石(平べったい石)を箇所によって使い分けて、
みっちり表面を覆っている。(葺き石の角が直角で残っていたから下方墳だとわかった)
その上保存状態がかなり良好である。
というようなかんじで比較的大型の手間の掛かる作り方がされているので、総合すると被葬者はかなり地域で力のあるトレンディな人物である一方、玄室が武蔵型なので中央官人ではなく在地の首長級なのではと云われています。
そのうえ、時期が終末期の7世紀中葉で、武蔵国府ができる直前につくられたところから、
国府選定にもなんらかの影響力(協力?)もした人かもしれないという。
ただ、考古学は他の例との相異を積み重ねて結論を出していくので、
5年や10年で結論のでるものでもなく、まだまだ可能性の話らしいですが。
ところで、この玄室には明治時代までは入れたそうです。
明治17年発行の「武蔵野叢誌」には石室の中に入ったときの様子が書かれているそうで。
発掘の時には玄室の壁になにやら文字が書いてあって、学者が「ファ!?(墓誌?)」ってなったんだけど「歩兵第一聯隊第一大隊附四名」というらくがきだった。陸軍・・・の、やんちゃさんめ!!
ただ発掘の時には玄室の天井が崩れており、石室がやわらかいため、関東大震災のときにでも
崩落して入り口が分からなくなり、そのまま忘れ去られていたんだろう、ということでした。
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あとですね。神社の正殿が、まったくの白木で新しくなってて、すごく気になりました。
まさか発掘や復元作業の為に壊 し た・・・んじゃないよね? ((川゜Д゜)))ブルブル
裏手に回って、全体の大きさを堪能。
こちらからも拝めるように鳥居が設けられていますね。
三段重ねにする事で、平地でも高さが強調されてます。なんだかパワーありそうです。
それにしても、住宅街のど真ん中にあるので、へんな空間になっていることも確か。
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熊野神社古墳展示室の方は、入館無料でコンパクトな展示室でした。
あまり時間がないので、例の石室内部の方はみませんでしたが、
一定時間おきに映像が流れていました。
復元の時の、石張り作業がすごく大変そうvvv
よくあんだけの石、あつめたなぁ。(という部分にだけ感心)
あと古墳まつりというのを毎年やっていて、映像見る限り飛鳥・平安時代のコスプレするらしいv
今年は10月20日に開催のようです。
映像では府中で復元栽培されている古代米もふるまっていました。
赤黒くて白米とたくとお赤飯のような色が付くのですが、この古代米はたしか府中駅構内のぷらりとの和菓子屋さんでも売られていて、モナムールのレストランでも食べられるのかな?
あとはコンチネンタルホテルのなかのレストラン、ヴァンフランのランチでも提供されています。
食感はさくさくとしていて、それほど味はありません。
ところで、展示室で紹介されていた上円下方墳の例が4つしか無かったんですけど。なぜに?
ウィキだと石のカラト古墳(奈良県・京都府)、清水柳北一号墳(静岡県)、野地久保古墳(福島県)と熊野神社古墳(東京都府中市)、天文台構内古墳(東京都三鷹市)の5例が報告されてるんですけど、ここの展示だと天文台構内古墳がフリップがもれている。
比較的新しい発見だからかな~と思ったけど、だったら野地久保古墳のほうが後じゃんね。
場所もここから近いですし、規模も熊野神社古墳の9割くらい、基壇と葺き石はなく、熊野神社古墳にはなかった方形周溝があるものの、3室で胴張り玄室という、熊野神社古墳にとても近いものなのに、ここに紹介がないのはなぜ。
「東京の古墳を考える」(発行2006年)でも、発見からまもなくてまだ報告程度にとどめた内容で、上円下方墳かさえ書かれていなかったんですけど、「多摩のあゆみNo.137」(発行2010年)にはちゃんと上円下方墳だったって、結果が載っているのにな?謎です。
ちなみに野地久保古墳が、高さ1.5mの、上円直径10m、下方一辺16m、
清水柳北一号墳が、高さ推定2.8mの、上円直径9m、下方一辺12.4mで最小、
石のカラト古墳が、高さ2.9m以上の、上円直径9.7m、下方一辺13.8m、
天文台構内古墳が、高さ2.1m以上の、上円直径18m、下方一辺30mで円墳がでかい、
熊野神社古墳が、高さ4.8m以上の、上円直径16m、下方一辺32mの最大級で
武蔵国内の上円下方墳は比較的大型なのがわかります。
今後、両墳の関係性が、いろいろ判明するといいな。と