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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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前回、御殿場線のりにきたときは外に出なかったんで、外観はみてなかった。
新幹線が止まる駅にしては、普通の駅ですね。
おとなりが伊豆箱根鉄道の終点駅で。

三島駅もなんか改修工事するようですね。
これは、そんなに大がかりなものではないのかな?

   

ただ、バスの乗り入れがかなりあり。
沼津東海登山バスや富士急シティバスなど。
いちばん目に着いたバスが「西武のか!」と思ったら、伊豆箱根のだった。



改修工事の影響か、なんかそこかしこに黄色いテープが通せんぼしていた。
エスカレーターのみならず、トイレまでもキープアウト!うおおおおお~(汗)

 

うわーい、東海の車両だ~。
あいかわらず、窓ふいてないなー。

 

根府川。
来るときが9/2だったんで、ふと「根府川の事故昨日だったんだよね」と思いました。


その事故で、大日本電力の穴水熊雄さんは二番目?の奥さんとそのお母さんを亡くしてるらしい。
昭和8年8月28日の読売新聞の記事に長男の勝彦さんのコメントがあって知りました。

「皆も浮かばれます 祖母と母を失った穴水君語る」
魔の一〇九列車とともに根府川の海ふかく沈んだ横死者百十一名のうち
現場の遺留品から身許がわかった幸運の二婦人ー麻布区宮村町七一
北海道電灯専務取締役穴水熊雄氏夫人ひろ子さん(当時三五歳)と
ひろ子さんの母堂駿河銀行頭取端野喜太郎氏夫人たい子さん(当時五五歳)の遺族は
震災十周年記念日を前に行はれた本社海底撮影隊の列車沈没現場の慰霊法要に
「之で有縁無縁の横死者も浮かばれませう」と感激してゐるが供養の当日
麻布区宮村町七一を訪ふと長男勝彦君(二四)は母と祖母とを一時に奪った
十年前のいたましい惨事を思い浮かべながら「僕がまだ十四の時だったので、
もうはっきり記憶してゐませんがなんでも当時二人が熱海に行くことになって
ゐたので遭難したものと思ひ私が捜しに出掛けて時計と鎖の遺留品を発見したのです
私のところでは幸ひ遺留品から身許がわかったのですが
いまだに全然名前さへわからず海の底に沈んでゐる無縁仏も
十年ぶりに浮かばれるわけです」と暗然としてゐた

これは読売新聞が海底写真隊というのを組んで、
沈んだ一〇九列車を捜して撮影に成功したという
記事の最後に書かれています。

穴水熊雄さんには勝彦さんと清彦さんという二人の息子さんがいて
清彦さんの方は東急分離後、相鉄の社長となって横浜の西地区開発を進め
成功させた人らしいんだけど、ひろ子さんは後妻であって実母ではなかった気がする。
穴水さんにはさらに三番目の奥さんもいたのかな。

東急分離のとき、穴水さんの後継者を相鉄に飛ばすなんて!と
井上篤太郎さんの元秘書で京王合併のときにも仲介役となった
柿沢篤太郎さんが東急に抗議したことがあるらしい。
結果的には、まあ本人としては納得づくで、相鉄にとっても幸運になった
みたいなまとめ方になってたと思います。

柿沢さんはその後、平塚市の市長になってた気がする。
井上さんはこれには反対だったから、ちょっと後ろめたかったみたい。

今回は色々と平塚に縁のある旅になった気がします~。

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三島広小路駅からすこし行くと、伊豆国分寺があります。
こちらの墓地の一角には、かつての国分寺塔跡の礎石が一部残されています。
聖武天皇の詔によって建立されたので、その碑が門前にありました。

 

今の国分寺は南大門のあたりにあたるのかな?
北側の多くの地は失われているようです。

   

寺塔跡。
全ての礎石の真ん中に穴があいていました。
ここに木の柱のでっぱりを組むのかな?
背後は住宅街になっているようです。発掘はできそうもないな。

 

国指定の碑は大正13年になってました。
やっぱり大正11年辺りに内務省が全国的な国分寺跡を調査したんじゃないかな?と思う。
理由はわからないけど。

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国分寺を出て、駅の反対側の三嶋大社(伊豆国の総社扱い)に向かいます。
途中、四ノ宮川というのに出会いました。
源流の楽寿園の小浜池に、伊豆国四の宮の広瀬神社があり、
それでこの名前がついたのだと書いてあります。
(ウィキだと四ノ宮川の上流にあるから広瀬神社が四の宮なのでは、という逆の論調でしたが)

 

三嶋大社に着きました。
あっ、神社の目の前の道路は旧東海道だ。
ということは、相模国総社の六所神社とは同じ道でつながっているのか!
これはおもしろい、共通点ですね。

 

神社をはいって直ぐの左には池があり、厳島神社がありました。
厳島というと宗像三女神(いちきしまひめ三姉妹)ですね。
三嶋の名前となにか関係があるのかな?と思ったら、勧請したのは北条政子らしい。

神池じたいは天長4年(827年)に干ばつに遭ったとき、朝廷が雨乞いをおこなって
成功したことが「類聚国史」にありと、書いてあります。
この池には昔鰻が住んでいて、鰻は三嶋明神の使いだから
三嶋大社の氏子は鰻を食べないという、伝承があるそうです。
京都の三嶋神社でも、うなぎの神様がまつられていたよな?

  

総門をはいってすぐに見えるのが、拝殿でなく、舞殿という・・・。
まあ、正方形の形のいい殿ですけど。こういうのみると格式高そうだなぁ、と思う。

拝殿はその奥(中の写真)。
案内板によると、普通は拝殿の方がおおきいのだけど、
三嶋神社は出雲大社に並び、本殿の大きさが国内最大級なのだという。
金色の金具がやけに目立って立派です。

   

三嶋大社の創建年代は不明です。
由来もネットでみたところちょっとあやふやです。こんなに格式高い神社なのに。

祭神は大山祇命(おおやまつみ)と、大国主の息子の事代主命(ことしろぬし)です。
大山祇命は山の神、事代主命は海の神です。

どっちが本当の祭神かというのが、ずっと論議されてて明治に事代主とした事もあったようですが、戦後は二神同座にしたようです。

三嶋大社は伊豆国一の宮でありながら総社でもあります。
この時点で「は?」という気もしないではないですが、国分寺も近くにあるし、
ここに国府があって、そのなかに総社が祀られてたという事には疑問はありません。

ただ三嶋大社は遷座をしていて、もともとここにあった神社ではないらしい。
三嶋(御島)の名の通り、三嶋明神の本拠地は三宅島にあり、
海底火山噴火で造島のたびに神階が累進、伊豆諸島を妻としていたのを
平安時代中期に国府のある場所に新宮を建てて遷ってきたという。

その際、元からいた若宮八幡宮を押しのけたという伝承があるのです。
ということは、最初はその若宮八幡が総社だったんじゃないのか?←

遷座に際して、三嶋明神は若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言って、
若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三嶋明神は藁の束を解いて一本の長い輪にし
若宮八幡の広大な敷地を囲ってしまったという。
だから若宮八幡は境外摂社に祭られ、唯一、三嶋大社に対して背を向けている。

その時の 若宮八幡「」 という顔が浮かびます…。;´▽`)
八幡様っていつもは、他の神様の場所を取り上げちゃったり、
武神だけにそういう強引なイメージありますけど、ここでは逆ですね。

三嶋大社は延喜式にも載り、しかも明神大社という高い格式の古社ですが
その時代の三嶋大社は海路を守る、島の神という位置づけでの
一の宮だったんじゃ無いでしょうか。

しかし遷座以降は、平安末期の文治3年(1187年)以来800年の間に
26回造営されたといわれ、最終的に安政の大地震でも倒壊して、
安政5年から慶応2年にかけて復興されました。
富士山(東海地震)の影響をもろに受けてるんですね。
ここに遷ってきたことで富士山鎮撫の役目もあるという。

まあ、そんな経緯をみてると、海の神と山の神が両方祀られているのも頷ける気もする。
北条政子の時代は、まだ海の神・航海安全の神としての神格が残ってたのかも知れません。
だから宗像女神とも親和性が?

飛鳥奈良の頃は、天智天皇により古代道路が建設されるまでは
海路が主流で、三宅島や大島なんかの役割が大きかったんでしょうが、
官道が完成してからは、天気の影響を受けやすい海路よりは、
東海道の陸路の方が、租税を安定的に運び、伝令を速やかに伝達できるので
重要視されるようになった、三嶋大社遷座はその結果かもしれませんね。

 

そんな、安政の大地震の時に功労のあった矢田部盛治氏の像が境内の目立つ場所にありました。
社主矢田部伊織の養子にはいり、倒壊後の社殿の造営や社領の開墾などにつくし、
戊辰戦争では伊豆伊吹隊を結成して新政府軍の進行に協力した人らしいです。
まあ、旧東海道が目の前だしね。

 

境内のはしっこに見目神社(みるめ)という小さな祠がありました。
妃神6柱ということは、もしかして伊豆諸島の奥さんをつれてきた?
なんか、旦那を監視する6人の妻の目、みたいでちょっと怖いです・・・。
ちなみに事代主命の方の妃です。



そのほかにも、なにか5柱をこまごまとまとめているようでした。
が、説明板がない・・・。

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そして、個人的にめあてだった伊豆魂神社(いづたまじんじゃ)

大國魂神社とおなじく、魂を「たま」と読ませています。
ただ、こちらは戦没者を祀るかなり新しい神社で、
社殿もちょっと異例のコンクリート造りです。

こちらの国府一覧(http://komatsu0513.heteml.jp/kokuhulist.html)によると、
総社のなかで「くにたま」を冠している神社は大國魂神社以外には
尾張国・大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮)と
遠江国・淡海国玉神社(静岡県磐田市見附 )がありますが
どちらも字が魂ではないんですね。

なので魂と書いて「たま」と読ませる例があった!と思ったんですけど…。戦後じゃなぁ。

ちなみに遠江国の淡海国玉神社は大國魂神社とおなじく、大国魂神が大国主になってますけど
尾張の大国霊神社の方は一時混同が起きたものの、昭和になってちゃんと
大歳神の子の大国魂神として祀るようにしたようです。

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境内の中ではなぜか鹿も飼ってました。

 

一通りみたので、大社を後にし三島駅の方へむかいます。
出口にあったケヤキ?がまた高い!根っこがえらいことになってました。
総社って、だいたいケヤキの古木があることが目印らしいですね。

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西側の出入り口付近にある祓所神社。
本来はここでお参りして穢れを落としてから、本殿にお参りするのかもしれぬ・・・。
出雲大社がそうですし。

瀬織津媛(せおりつひめ)をはじめ女神が多いな。
桜川と関わりが深いよう。

   

神社を出て西側の道を北西に向かいます。
脇に用水路が流れていて、これが桜川なのかな?
各戸の入り口になる石橋のしたで、鴨が休んでました。



反対側の道の脇には、なんか、文化人の言葉が刻まれた碑が、等間隔で建っています。
これは司馬遼太郎先生。

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桜川の上流には「く」の字に曲がった場所があり、
その上に観音堂が立ってました。なかなかすごい立地で見ほれちゃいます。

この水のながれの先には、源流である白滝公園があります。

 

案内板によると、この桜川は三ヶ所用水ともいわれ、旧三嶋宿と錦田村字中、中郷村字中島へ農業用水として利用されていたそうです。
横浜ゴム附近で複雑に分水され、ってことは、横浜ゴムが下流にあるのか?!Σ(゚ロ゜;

もうひとつ、平井源太郎というひとの案内板で、
韮山代官坦庵が農兵隊の行進訓練のときに謳わせていた「ノーエ節」のことが!!!!

彼のお影で「三島といえば農兵節」というくらい、有名になったそうです。
明治になってそんな流行歌になっていたとは・・・。

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白瀧観音堂を抜けると、交差点に出ます。
右へいくと、もう三島駅ですが、そのまえに寄り道。

交差点の向こう側に見えている碑があります。
伊豆国ニの宮・浅間神社の碑です。

   

このニの宮にも、なんだか色々あって、もともとは三の宮だったのが
二の宮である八幡宮が三嶋大社の中に移されて、繰り上げで二の宮になったそうで。
(もしかして、あの五連になってた社の右はじっこにいた八幡宮がそれなのかな・・・)
現在三の宮である楊原神社も繰り上げで今の地位にいるらしい。
じゃあ四の宮・広瀬神社は五の宮だったのか?そうすると四ノ宮川の由来がどうなるんだ。

三の宮・楊原神社も、もともと沼津にあったのが、徳川家光上洛の際、
三島御殿造営にあわせて現在位置(三島田町駅北側)に移されたらしい。
三嶋神社の周囲にやたら二~四の宮が集中しているのは、
もしかして徳川時代の交通制度のせい?


もう、伊豆国さぁ・・・。
三嶋大社の影響にされされすぎ。

二の宮も由緒は古そうなのに、随分こぢんまりとした扱い受けてるなぁ・・・。

さて夏休みもおわり、明日(9/5)から会社なので、そうそうに帰ります。

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たいふういっか

夕方がきれいでしたね~+
思わず外に飛び出してしまいましたよ。

 

 

こういう景色をみると、あとり硅子さんの「ばら色すみれ色」を思い出します。
きれいなタイトルだなぁ。

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昨日のおまけ

利光さんが書いてた文章
「京王電車の敷設特許権も 明治四十年十月に免状を得たるなり
而して 免状下付の時期は 既に盛況の反動として 恐慌襲来の際なりしを以て
会社の創立は 暫く時機を待つ事にしたり 故に後 明治四十三年
会社創立は 白紙を以て之に望むを得 京成の立直しよりも此方が
却て容易なりしなり」より

利光さんに愛がないっていうよりは、京成の本多さんみたいな人が
京王にはいなかったから。それが却って幸運?だったともいえ。
まあ、そのあとがぐだぐだですが。

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ちちとこ、やっと完結しました。
復刻版でない方の利光鶴松翁手記をみたくて町田の図書館までいったのに
横浜線や六の宮・杉山神社に関する資料にわ~!ってなってて、
肝心のオチを描いてないことに気づきました。
まあ、結局あんまり活かされてないんですけどね。箱も復刻版の方を参考にしましたし。

父の日のやつです。
実質は2P
だけどあんまりにも薄すぎるネタなんで、間に神奈川組飲み会をはさむことで水増ししました。
だからこの前後の冒頭とオチはじつは独立後の話(昭和30年代)だったりします。
はふ~(宿題を終えた気分)

最初からはこちら
気が向いたら、おまけつけたいです。
京成と京王の事は、少し書いてるんだよね、利光さん。
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拍手ありがとうございました!
夏休みのレポート(ブログ)がなかなか終わりません(;´Д`)
あとは、伊豆国分寺と三島神社の・・・

あ、19日にNHKプレミアムでやる「平将門」で武蔵国衙跡がでるみたいですよ!
(と国衙跡の施設のスタンプ台に貼ってあった)

帰省の時、永山の啓文堂で「古代道路の謎」(近江俊秀/祥伝社新書)を買ったんですけど
巨大古代道路って中央強権のもとで設置されたので
中央の衰退とともに顧みられなくなって変質・埋没してったんですね。
中央は命令するだけで建設も維持も地方にやらせてたから、
地元的にはこんな巨大道路は不要で迷惑だったみたい。
大陸流なのか、とにかくまっっっすぐにこだわるから、
湿地の上に通した道路とかすぐ崩落しちゃって、
農業の手をとめて修復に狩り出されるし、
農閑期にはいると、橋だの道路だのの補修に忙しいし。
ちょっと迂回すれば長持ちするのにって、思いが中央集権の弱体化とともに顕れ
道筋も地形に添ったものになって、だんだん幅が小さくなって蛇行していく。

国庫の税収は減る一方で、貴族の荘園や地方に土着した貴族の私田なんかが増えて、
地方勢力が台頭してくる。
とくに板東は盗賊が荘園や国府を襲って、治安が悪かったから、
本来、都の警備である検非違使を地元の勢力を雇って置いたくらいで
とにかく手がつけられなかったらしい。中央の支配力も弱まるのも当然だ。
本で盗賊を雇って盗賊を取り締まるようなものだ、といわれてました。

中央の力を回復しようと、親王なんかを国守として派遣する親王任国制をはじめるものの
これもあんまり上手くいかなかったみたいで。
墾田永年私財法なんかで、流民の増加をとめようとすると、荘園化が加速するだけだったし。
ちなみに親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の大国で
桓武平氏だとか坂東平氏だとかは、そのときの親王の血を受け誕生した一族なんですね。
だから将門はそんな中央弱体化の象徴というか、結実点だといってもいいのかも。


そうそう、今朝の安住紳一郎「日曜天国」で駅そばマニアの人が全国のおすすめ駅そばを紹介してましたが、なんとトップ3の2位に京王つつじヶ丘の「万葉そば」が選ばれました!
他が三陸鉄道とかJR北海道とかの駅だったんで、興奮もひとしお。
でもいったことない・・・。
調べて見たら、つつじヶ丘と西武の保谷駅にしかないんですね、って、何故西武・・・?

駅そばの定義として「5分以内にだす」というのが、その人の基準だそうで
万葉そばは注文はいってから製麺したり天ぷら揚げたりするのに、
その基準を満たしているから駅そばもここまできたかと言う事でのランクインだそうで。
京王は食品系に一家言あるよね、て安住さんもいってました。


関東近県だと、東京は渋谷駅の「しぶそば」のネギラーがおいしいよって、いってました。
東急沿線にあるらしい、てか東急グループのそば屋だった。

個人的には、駅そばではないけど、京王系の「たまの里」もおいしいと思う。
そばもけっこうつるつるしこしこで、うどんはきしめんのように細いから、
お腹の調子がよくないときは温かいうどん頼みます。
肉汁のつけうどんにとろろトッピングがおすすめです。*´▽`*)ノ

小料理もおいしくて、さつま揚げとか、だし巻き卵とか、タコの唐揚げとかおいしいです。
美味いっていうか「料理上手だな」って感想です。

「万葉そば」も機会があったらいってみたい。

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反 射 炉 です。キターーーーーァ!

てか、まあ、反射炉ってなんぞやってレベルで来ちゃったんですけど。
江川代官です。韮山です。西伊豆です。

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こちらが伊豆韮山代官。江川太郎左衛門英龍こと坦庵です。
千年近い歴史を持つ名家の江川家、徳川時代は徳川の天領の代官でした。
その管轄は伊豆から相模、武蔵、駿河、甲斐と時代によってその範囲は変わりますがとにかく広範囲です。本拠地はここ伊豆の韮山ですが、ここから多摩の西の大部分の辺りまでを監視下に置いていたというのは驚くべき事です。しかも少数精鋭で。
ていうか、私の住んでるテリトリーをまるごと抱えてるんで、正直たまげましたよ。
多摩って、伊豆とこんなにもつながってたんだ?!て

いやね、開架図書のなかでもイカしたタイトルが気になって手にした
「未完の多摩共和国~新選組と民権の郷~」(佐藤文明/凱風社 /2005)で
もろめちゃカッコよく描かれていたんで、すっかり惚れてしまったんですよ。

幕末史のなかで贔屓の人物って、いままでいなかったんですけど、
坦庵代官ならもう「尊敬する政治家」にあげてもいい! 
・・・池波正太郎先生がご存命なら、ぜひ書いて欲しかった。

長谷川平蔵なみのカリスマぶり、そして周辺にいる手代の柏木さん、
日野本宿の佐藤彦五郎に佐藤芳三郎の年若き名主たち、
そしてその手先となってはたらく岡っ引きの八五郎なんて、
佐嶋忠介さんや大滝の五郎蔵親分や彦十さんみたいじゃないですかー。
いやー!もーたぎるわーーー!!

著者の佐藤さんは上佐藤(日野には代々・上佐藤家と下佐藤家という家の造りも規模もそっくりな二つの家があって、名主業などを交代してやってた。幕末に日野の本宿となっていた下佐藤の屋敷はまだそこに遺ってる)の末裔らしくて、多摩の歴史をよく研究されている。
しかも視点が反体制派の多摩擁護派なんで、幕末の多摩の立場をよく汲んでくれる。
多摩民としては読んでてとても気持ちいいカタルシスがあります(ただ中立な視点とはいいがたい)

中世史もすこしカバーしてくれているので、近代以前の多摩史に全然手をつっこんでなかった自分にはとてもありがたい指南書となりました。
啓文堂で注文したら1週間で届いたので、まだ出版元には在庫あるみたいですよ。

 

そして、こちらが韮山反射炉の当時の敷地図。
反射炉ってのは、なんだか怖そうな響きですが、ようするに耐火煉瓦を利用して
窯内の温度を反射させて効率よく高温にし、鉄の溶解をする炉のことなんですね。
資料館ないで上映しているCGのVTRがとてもわかりやすく説明してくれました。

   


窯の奥で炭を燃やし、温度が上がった所で石炭を投入してさらに温度を増し
その手前に置いた銑鉄を溶かして、傾斜を利用して鋳型へと溶液を流し込んで
大砲をつくる、とこういう施設です。

つくった大砲の鋳鉄はまだ大きな棒であり、これに水車の回転力を利用して
何ヶ月も掛けて穴を掘り進めて行き、筒にするんだそうです。
右上のはその水力に利用された古川です。

   

耐火煉瓦は伊豆の河津で作った特別製で、他の煉瓦と混じらないように「○」印をつけたそうです。

維新後は荒れるに任せていたそうですが、明治40年代になって陸軍が補修を行ったそうです。
右のは、そのときのものかな?
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反射炉から数㎞離れたところに、江川の代官邸ものこっているので、歩いてそちらへ向かいます。
途中、大きな池のある公園に出ました。
左へ行くと、韮山城跡があるらしいです。
ということは、これは韮山城のお堀の意味もあるのかな。
この規模だと、この辺りの水田用の水甕も兼ねていそうですが。

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江川代官邸。
い~や~!まだ残ってくれてて、うれしい!!
ここで坦庵代官が執務を行っていたのかと思うと・・・!(鼻血)
篤姫や仁-JIN-のロケ地にもなったみたいで、写真がべたべたありました。
受付のおじさんが、真ん中に写ってるの、俺なんだよと嬉しそうにいってました。

     

玄関の前にはきささげ(豆)の木が前に張り出していました。
これがここの大きな特徴といえば、特徴かな。
北条早雲が植えたという伝承のある木なので、むやみに切れないのだろう。
北条早雲は後北条氏の始祖だそうで、桓武平氏の一つの伊勢氏らしい。
鎌倉執権の北条氏とは関係ないことから、後北条とか小田原北条氏とわざわざいわれる。
江川家が戦国時代に仕えたおうちです。

江川家の始祖は源満仲の次男・宇野頼親で清和源氏だそうです。
6代・宇野七郎親治の代に崇徳院側として保元の乱に参加し敗北。
9代・宇野太郎親信の代のときに従者13人と伊豆国八牧郷に入り、源頼朝に従う。
10代・宇野太郎治信の時に戦功あり、江川荘を賜る。
15代・宇野英親のとき伊東に流罪となった日蓮聖人を招きその教義に信心する。
21代・英信のときに江川姓を名乗る。
23代・英佳のとき、北条早雲伊豆進出で幕僚となる。
27代・英吉のとき、豊臣秀吉の小田原攻めから韮山城を守る。
28代・英長のとき、徳川家康配下となり韮山城開城、慶長元年代官となる。
36代・英龍(坦庵)
38代・英武、韮山県知事となり、その後渡米して土木学を修養、丹那トンネルを献策。
40代・英晴、東芝副社長。
42代・洋、都内建築事務所勤務、一等建築士。

と、なんと現在もその家系は継続中です。
下手な戦国武将よりよっぽど息が長いぞー。

 

1160年代に建造され、以後増改築を経て現在に至る。
日蓮上人が書いたとされる護符が梁の上に貼られ火災にも遭わなかったので、
明暦の大火の時に、徳川に家の棟木を献上したこともあるらしい。

  

洋式兵糧の研究のため設けられたパン窯。
おもいっきり、家内の台所ですけども。本来はもうちょっと大きかったみたい。

韮山反射炉のお土産屋さんでは、復元されたパンも売られています。
パンていうか乾パンなので、固いですが、形はおまんじゅうみたいです。

庭には全国パン協議会と静岡県パン協同組合による碑がありました。
前衛的なかたちしてます。

庭に並び立つ倉の中には、大砲の模型とか、火薬の原料である硝石・硫黄・松脂や、
反射炉で出た鉄の鉱滓、品川台場の見取り図なんかが展示されてました。

台場は12個建造される計画だったものの半分しかできませんでしが、
それぞれの形を見ると、菱形だったり扇形みたいだったりほぼ三角形な5角形だったりと
かなりバラバラで用途も違うみたいですね。

松杭を多摩の鑓水から切り出したことは前に書きましたが、
「多摩のあゆみNo.137」を読んでいたら、その時の鑓水名主から幕府の役人へ請求書というか
嘆願書みたいのが載っていて、かなり重労働だったみたいです。

鑓水村には幕府の御森林があって、嘉永7年の6月と7月に品川台場建設のための切り出し命令がでて
6月に3967本、7月に660本を納入していますが、これは命令の4分の1程度だそうです。
足りなかった分は他から調達したのでしょう。
「地図と楽しむ東京歴史散歩 地形篇」には台場の芝の調達先まで書いてありましたが。
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韮山塾の風景。
当時の韮山塾は大変人気で、高島秋帆流の砲術を納めた坦庵の元には、色々な人が学びに来ました。
その中には福澤諭吉とか、井上馨などもいたそうで、
福澤さんなんかは坦庵の質素倹約な生活態度を真似して挫折した経験があるそうです。
江川家の江戸屋敷は慶應義塾に払い下げられたりもしたみたい。

江川邸は重要文化財ながら、個人の管理によって維持されていて、なかなか大変みたいです。

   

江川邸から帰る道すがらにあった路上碑。

坦庵の最期。過労死だったらしいけど、具合が急変していることから毒殺だったんではないか、
と本では言われてました。
あと「江川大明神の幟」
これは幕末に内戦で兵糧の確保から米価が値上がりして、困窮した山梨の民が買い占めを行った米問屋を打ち毀しながら東上するという一揆騒動にたいして、坦庵が多摩の農兵隊を指揮して多摩川際でこれの南下をくいとめた事から、江川代官領が山梨にも拡大し、そこで世直し大明神として坦庵が信仰されている様を象徴する旗です。
いやもう、この辺りの綱捌きが見事というか、まあカッコイイです。燃えます。
多摩の農兵隊は坦庵が伊豆の海防の為に農民に刀を持たせて兵士にするという献策から生まれたもので、崩壊した幕府の治安維持をかわって自治体が行うようになった成功例です。
天然離心流の流行もこの辺に一役かってます。

ここでできあがった素地が、明治にいたって自由民権の神奈川自由党なんかに受け継がれて行くわけですね。

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ついでに坦庵の個人年表

享和元年(1801年)5月13日、英毅の次男として韮山に生まれる
文化10年(1813年)5月韮山代官江戸役所の事務見習いとなる(13歳)
文政4年(1821年)6月25日兄・英虎が没す、11月江川家嫡子となる
天保5年(1834年)3月父・英毅が没す
天保6年(1835年)5月4日家督相続で代官に就任、太郎左衛門を襲名
天保8年(1837年)3月甲州に民情視察、9月渡辺崋山と体面
天保10年(1839年)1~3月江戸湾巡見、5月伊豆国警備策を建議
天保12年(1841年)4月10日砲術家・高島秋帆に入門
         5月9日徳丸原(板橋区)砲術演習に参加
         7月高島秋帆より砲術伝授を受ける
天保13年(1842年)4月2日手代・柏木総蔵に製パン技術を習得させる
         9月砲術師範許可、佐久間象山、川路聖謨が入門
天保14年(1843年)5月18日鉄砲方兼帯を命ぜられる、9月水野忠邦老中罷免
嘉永2年(1849年)閏4月英国艦マリナー号来航、退帆交渉に成功
嘉永3年(1850年)5月農兵制度採用を建議、6月支配地域にて種痘を実施
嘉永6年(1853年)4月下田警備を命ぜられる、6月勘定吟味役格に任じられる
         6月20日江戸湾巡見、7月品川台場建造の命を受け工事起工
         8月海防掛を命ぜられる、12月下田反射炉建造の命を受ける
安政元年(1854年)1月ペリー再来航、3月日米和親条約を締結(下田・函館開港)
         4月品川第1・2・3番台場竣工、10月反射炉を下田から移転
         11月安政の大地震、ロシア船ディアナ号座礁、被害地域の見聞、
           ディアナ号船員救助と戸田への移送を命じる、
           第5・6番台場と御殿山下砲台竣工
安政2年(1855年)1月16日江戸屋敷にて死去
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