たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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前回は京王の発起人が玉川電気鉄道系の人だったというとこで終わりました。
京王の前史を再掲します。
明治38年12月12日 日本電気鉄道として蒲田-調布-府中-立川と新宿-府中の支線の軌道敷設を出願
明治39年 8月18日 武蔵電気軌道と改称、立川-八王子と府中-国分寺の路線を追加出願
明治40年 6月25日 新宿-八王子の本線と、府中-国分寺の支線、立川-立川停車場の特許を得る
明治40年 7月4日付けで先行出願した電気事業の許可を得る
明治43年 4月12日 京王電気軌道に改称
明治43年 9月21日 資本金125万円で設立
「京王電気軌道三十年史」によると、
この明治43年9月21日に京橋区東京地学協会で創立総会を開き、
本店を東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木字山谷二九一番地に置いたとあります。
そしてこの日に決まった重役陣が以下の通り。
取締役会長 川田 鷹氏
専務取締役 利光丈平氏
取締役 豊原基臣氏
同 太田信光氏
同 井上平左衛門
同 井倉和欽氏
同 濱 太郎氏
監査役 吉田幸作氏
同 岡 烈氏
どうも武蔵電気軌道の発起人には居なかった人ばかりです。
この人らは、誰かというと旧東京鉄道の役員、および鬼怒川水力電気の発起人なのです。
鬼怒電発起人一覧とのつきあわせについては前の記事をご覧ください。
なんでこうなったのかといえば、東京市内で鼎立していた電気鉄道三社が合併し、
さらには市有化されたことと、この頃、鬼怒電が創立されたこと、
それに千代田瓦斯が東京瓦斯に合併されたことなどが関係あるのだと思います。
そしてそのどれにも関わりがあり、労を取ったのであろう人が小田急電鉄創始者の利光鶴松さんです。
鬼怒電についてはそれなりに上記の記事にまとめたので、ここでは肝心の東京市内電気鉄道と
その集約の流れをまとめてみます。当然のように長いのでとばしてもいいです。
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明治22年 4月27日 大倉喜八郎ほか5名が「電気鉄道」を出願(8月16日却下)
明治22年 6月 3日 立川勇次郎ほか6名が「東京電道1」を出願(8月16日却下)
明治23年 8月25日 軌道条例公布
明治23年 8月25日 軌道条例に関する出願手続を定める(内務省訓令、訓第662号)
~東京電灯の設立が許可されたのは明治16年2月15日(試験点灯の許可は1月27日付)で、
電気の供給を始めるのが明治20年頃、しかも専ら灯りに使われるだけで、動力とされるのは
明治23年11月の浅草十二階・凌雲閣のエレベーターが最初だったという。
電車などはまだまだ未知数で、法整備もされて無かっためそれ以前の出願は即却下されていた模様。
なので軌道条例公布後、出願して実現にむかった物で早かったのは雨宮敬次郎さんの派閥でした。
なお、このへんの計画会社は名前の重複がはげしいので番号つけてみました。~
(前の会社が名前を捨てたら、すぐ拾う/笑)
明治26年10月13日 雨宮敬次郎ほか41名により「東京電気鉄道1」の敷設特許請願書が提出される
(発起人には三浦泰輔や岩田作兵衛などの甲武鉄道派、甲州財閥の小野金六もいた)
明治26年11月 新規の市街電鉄の発起に刺激されて、「東京馬車鉄道」でも動力の変更を申請
(公称資本金50万円)
明治26年11月26日 藤岡市助や大倉喜八郎ら5名による「東京電車鉄道1」が設立願書を提出
(公称資本金40万円)
明治26年11月29日 立川勇次郎ら9名による「東京電道鉄道2」が設立願書を提出
(公称資本金40万円)
~乱立、というかなんというか、みんな時期が近すぎで盛り上がってんだなーと感じます。
甲武鉄道が市街線の延伸を目論み測量を終えるのが明治25年3月23日、
鉄道会議が市街線の許可を出すのが明治26年2月12日、新宿飯田町間の建設免許が同年3月1日、
3月末には用地買収をおえ、7月5日には飯田町側から工事を開始しているので、
中央線が燃料になっている部分もあるのかもしれませんね。~
明治28年 4月18日 雨宮の「東京電気鉄道1」藤岡の「東京電車鉄道1」立川の「東京電道鉄道2」が
帝国ホテルにおいて三派合同の会議を開き各派総代人連署をその筋に追願
雨宮を発起人総代として改めて「東京電気鉄道2」設立を出願する
(公称資本金100万円)
明治28年 4月27日 草刈矍翁ほか数名が「東京中央電気鉄道1」を出願するも、
8月9日に「東京電気鉄道2」に合流
明治28年 6月 2日 「東京電気鉄道2」は発起人規約を定め事務所を築地館に置く
明治28年 6月19日 藤山雷太、渋沢栄一らが「東京電車鉄道2」を出願(公称資本金380万)
(発起賛同者には福澤捨次郎、中上川彦次郎、益田孝、朝吹英二などがいて、いわゆる三井・福澤派)
明治28年 7月 雨宮が主唱して紅葉館で「東京電気鉄道2」は発起人総会を開く
(8月に中央電気が合流し資本金は150万円)
明治28年 8月 千葉胤昌が「東京府内電気鉄道」を出願
明治28年 9月 2日 関 直彦ほか4名が「東京中央電気鉄道2」を、17日「東京目黒電気鉄道」を出願
明治28年 9月 5日 松本錬蔵が「東京青山電気鉄道」を、7日「江東電気鉄道」をそれぞれ出願
明治28年12月15日 「東京電気鉄道2」の事務所を築地館から京橋区山城町三番地に移し
有田秀造を事務主任にする
明治29年 3月 2日 地主の協賛を集めて野中万助ほか49名が「東京自動鉄道」を出願
(自由党・星亨・地主派)
明治29年 4月 2日 森岡昌純ほかが「川崎電気鉄道」を出願(公称資本金55万円)
明治29年10月29日 内藤義雄が「王子電気鉄道」を出願
明治29年11月 5日 加藤鉄三郎ほか5名が「永代橋電気鉄道」を、村井寛吾が「城南電気鉄道」を出願
明治29年12月26日 福島松之助が「浅草電気鉄道」を出願
明治30年 2月25日 深津忠雄が「京中電気鉄道」を出願
明治30年 2月22日 「東京電気鉄道2」は帝国ホテルで発起人総会を開く
明治30年 7月20日 「東京府内電気鉄道」「東京中央電気鉄道2」「東京目黒電気鉄道」
「東京青山電気鉄道」「江東電気鉄道」「王子電気鉄道」「永代橋電気鉄道」
「城南電気鉄道」「浅草電気鉄道」「京中電気鉄道」が6月中に
雨宮の「東京電気鉄道2」に合流し追願の手続を完了
(公称資本金は500万円となり三井派の380万円を凌ぐ)
明治30年 8月16日 「川崎電気鉄道」が郡部のみ出願路線を許可される
~ここで、色分けの説明をしますと雨宮氏の甲武鉄道派閥と、最初期に出願していた大倉・立川組の
第一次「東京電気鉄道2」合同派閥がオレンジ色です。青紫がそれ以降に合流する第二次合同組。
青は「東京馬車鉄道」をもととする「東京電車鉄道3」
緑は福澤山脈(慶応閥)たる福澤家+三井組(捨次郎は諭吉の息子で中上川は諭吉の甥っ子)、
赤紫は地主+野中万助+自由党で利光さんがここ贔屓、
赤は鼎立三電のなかでも弱小な元・川崎電気組=「東京電気鉄道3」~
明治30年10月 樺山内相が雨宮派と三井派に市内を二分する形で許可を内定する
(「川崎電気鉄道」も信濃町までの延伸の許可を内定)
明治30年11月29日 利光鶴松が東京市会において樺山内相の許可を取り消すよう建議案を提出
明治31年 6月 肥塚龍東京府知事が市会にはからず「東京馬車鉄道」の運賃値上げを許可し
これに怒こった利光が府知事への弾劾決議を提案、市会が満場一致で賛成するも
運賃値上げは決行される
~第二次松方内閣(松隈内閣)で内務大臣だった樺山資紀は市内の交通機関を政党操縦する目的で
東京市内を二分して山手方面を雨宮側に、下町方面を三井側に下付する方針を打ち出します。
しかも市の監督権を認めず、市に対する公納金の規定もない市側に不利なものだったので、
「東京自動鉄道」側だった利光さんはこれを阻止しようと建議案を提出、当然市会も一致して賛成し
15区から一名ずつ委員をだして総理大臣と内務大臣に肉迫、市会の意見は容れられてとりあえず
この許可は中止となりました。
利光さんが東京市会議員になったのは、
当時東京市会および東京府が改進党系の牙城になってる所へ切り込む為でした。
明治14年の政変で失脚した大隈さんと慶応閥らがはじめたインテリな改進党に比べ、
地方農民出身の多い自由党系は事件を起こしたり壮士を動員したりと暴力的なイメージが強く
都市部の有権者には人気がなかったのです。
そこで自由党出身の利光さんは改進党ににぎられていた東京市政を、
なんとか自由党の手に届くものにしたいとの意志を強くしていました。
遅々として進まぬ市内交通問題や近代水道化問題や港湾整備問題は、そのいい機会だったよう。
星亨の「自由党も地方をむいてかつての武勇伝を自慢するのではだめだ、東京の実業家の信頼を
勝ち取らねば今後はうまくいかない」との考えに共鳴して利光さんは東京の実業家に近づき、その力になって信用を得、またその主義の主唱者たる星亨自身にも参加して貰う為市会進出の足場を作ります。
その動きを年表にするとこんなかんじ。
明治29年 2月 利光鶴松、深川区から立候補し無競争で東京市会議員に当選
明治31年 3月 利光鶴松、東京府第五区(本所・深川区)より衆議院議員に当選
明治31年 6月 憲政党創立、利光鶴松は幹事となる
明治32年 6月 星亨、麹町区から立候補し東京市会議員になる
明治34年 1月 星亨、東京市会議長となる
明治34年 6月21日 星亨、東京市会で兇刃に倒れる
星亨氏が「東京市街鉄道」の話をまとめたのは、そんな明治32年の市会議員になったころでした~
明治32年 1月13日 「川崎電気鉄道」に市内線(信濃町~広尾)が特許下付
明治32年 7月18日 星亨の周旋で藤山雷太らの「東京電車鉄道2」と野中万助らの「東京自動鉄道」が
雨宮の「東京電気鉄道2」に合流
社名を「東京市街鉄道」とし、19日帝国ホテルで契約書を交わす
(公称資本金1500万円、各派500万円ずつ)
明治32年 8月14日 「東京市街鉄道」の出願をし直す
~利光さんの作った足場に乗っかって星亨氏は順調に市会で勢力をのばし、その政治力でもって
膠着していた市内電車問題も一応の形にまとまります。
星氏は小松原英太郎内務次官をたずねて三派合同を提案しその賛意を得ると、西郷内相にもあたり、
西郷内相から山縣首相に話を通して貰って政治的な地固めをすませ、
当事者の雨宮さん説得には利光さん、益田・中上川の三井派には星さんがあたり、
野中万助にはあらかじめ話は通してあったので、合議の末各派から五人の委員をだすことにし、
浜町の常盤屋で会談ののち各派平等同権とした上で合同契約書をつくり署名調印を成立させました~
明治32年10月 8日 「東京市街鉄道」発起人総会を開き、市参事会決議への意見をまとめ、
9日市長の召還で三派代表が出頭、
公納金問題で、8朱と法定積立準備金を除く10分の3の利益を申し出る
明治33年 5月 「川崎電気鉄道」が岡田治衛武による「東京電気鉄道3」に改称
(公称資本金80万円、近藤廉平の日本郵船・三菱系)
明治33年 6月 9日 「東京市街鉄道」に特許下付、
「東京馬車鉄道」には動力変更の特許、命令書を下付しようとしたが、
会社側が命令書の条項に不服ありと受領を拒否
明治33年10月 2日 「東京馬車鉄道」が動力変更の認可を受領、30日に「東京電車鉄道3」と改称
明治35年 4月18日 「東京市街鉄道」が創立総会を開く
~内務省と東京市会を通過した「東京市街鉄道」の申請書は東京市参事会の手にうつります。
市参事会は市政の執行決定機関で、当時の委員は渋沢栄一、田口卯吉、吉野世経、鳩山和夫、星亨ら
著名人十二名と、松田秀雄市長、朝倉外茂鉄助役、浦田治平助役の三名の合計15名。
うち渋沢、田口、鳩山、星が民有論、4名が市有論、7名が中立で、新聞が煽動的に書き立てたため
区会議員も市有民有の区にわかれて市、府、内務大臣、首相宛に建白書を提出の大論争がおきます。
特に東京瓦斯会社の大橋新太郎専務は、出願時に「東京市街鉄道」が架空単線式だったので、
ガス管の腐食に繋がると懸念し、内相時代市有論だった板垣退助にもはたらきかけて市有演説をさせ、
事を大きくしました。(内務省と市会の審査の点で、単線式は複線式に訂正させられてる)
また枢密顧問官の伊東己代治が板垣氏に「星亨は閣下が内相時代に市有の省議を決定したのに、
一言の挨拶もなく民間に経営させようとしているのは無礼ではないですか」と焚きつけたため、
純情な板垣さんの心に火が付いて、民有反対の大旗を振る格好になったともいいます。
利光さんはこの二人への報復手段を考え、大橋専務には瓦斯会社からのガス管埋設の願書を握り潰し
一切許可しない根回しをし、伊東男爵には永田町の邸に道路が貫通する市区改正案をたてて新聞に
書かせ、驚いた伊東さんが利光さんに会見を申込んできたので、改正案をひっこめるかわりに
板垣さんの市有運動を止めさせるよう条件をだします。
しかし火が付いた板垣さんを収めるのは容易ではなかったようです。
とにかく市参事会の結論は民有に決し、内務省に仕事がうつってからは西郷内相が閣議にはかり
即日承認され、今度は東京府を経て特許状は下付されました。
星氏はじめ発起人一同は築地新喜楽に集まり特許状を床の間に飾ってこれを祝ったといいます。
しかし、創立委員長すなわち社長を誰にするかで一波乱ありました。
三井派は資金調達が容易で世間から人気があり、地主派の野中派は雨宮さんが嫌いだったので、
創立委員中では雨宮反対派が多数でした。
けれどもこの中で直接、鉄道経営のノウハウを知っているのは雨宮さんなので、
星さんでさえ初めは三井派だったのに対し、利光さんは「ただの会社ならともかく三井家の若旦那を
床の間の置物にするのは公卿を大将として戦場に臨むようなもので、途中できっと後悔するから、
人情に於いても長く交通機関問題に携わってきた雨宮氏にするべきだ」と説得し、これに納得した
星さんが創立委員に向かって雨宮氏を委員長に推すことを明言して雨宮さんに決したということです。
電車を通すための道路拡充で市区改正を速成するため、星・利光さんは会社と東京市の連絡役と
なっていましたが、そこへ日清戦争の恐慌が来襲し、一時は10円以上のプレミアム付だった会社の株
は50銭でも買い手のつかない状況となり、義和団事件などで世情は不安でした。そんなときに、
星亨が暗殺されて「東京市街鉄道」は有力な後援者も失います。
利光さん自身もこれで弱っていたのか、外国人からの融資の話にのっかり、雨宮さんほか一名が
「そんな外人には取り合わぬ方がいい」と反対するのを説得し、保証人を東海銀行と露清銀行ときめ
創立委員一同が横浜に向かうと露清銀行のほうが「そんな話はきいていない、詐欺師の類でしょう」
といわれ「このときほど恥をかいたことはない」というほど面目を失っています。
結局お金は、雨宮さんと親しい安田善次郎さんにお願いし「次の3ヶ条を守るのであれば」という
条件で出資してもらいます。
「1安田は一株ももたない」「2株式の8割を融通する」「3電車賃は5銭均一にする」
このことを発表した所、会社の信用も回復して株の申込みは忽ち進捗しますが、のちに雨宮さんは
「電車賃三銭均一」を実施し、この約束を破ります。
ともかく会社は資本金を1500万円から300万円に縮小し、第一回払込は東海銀行と安田銀行に
引き受けてもらい、特許路線を5期に分けて起工することになりました。
こうして「東京市街鉄道」は発足しますが、
じつはさらに、元馬車鉄道の「東京電車鉄道3」とも合同しようという動きがおこります。
「東京電車鉄道3」は市の中央を通る路線で採算性が高いものの、市街鉄道の出現で延伸が難しく
電化もしなければならない情勢で、成長が行き詰まっていました。一方
「東京市街鉄道」は大規模な免許線路をもちつつ資本が集まらず着工もあやうい状況にあり、
ここで両者の弱点が一致し、合併の話がもちあがるのです。~
明治36年 3月 東京府知事千家尊福と東京商業会議所会頭渋沢栄一の仲介で
「東京市街鉄道」と「東京電車鉄道3」の合併の議起こる
明治36年 7月 「東京市街鉄道」と「東京電車鉄道3」の合併仮契約調印の臨時株主総会が開かれるも
雨宮が反対を唱える。雨宮派の退場後、合併派のみで合併承認がなされ、
「東京電車鉄道3」社長・牟田口元学と「東京市街鉄道」専務取締役・藤山雷太の
連名で合併願を提出、これに対し雨宮派は合併決議無効の仮処分を申請し、
芝区裁判所がこれを受理し、合併派の仮処分解除の申請を却下
明治36年 8月 合併派は臨時総会を開き雨宮の取締役を解職するほかなしと決め、
会長を吉田幸作とし、監査役の根津嘉一郎を議長として議事をひらくと、
雨宮派は会長である雨宮を議長としないのは不法であると多数の壮士をつかって騒ぎ、
臨場警察官が治安に害ありとして解散を命じる
~一時は合併調印に賛成だった雨宮さんですが、なぜ急に過激な反対運動に出たかといえば、
東京電車と市街鉄道の幹部の間で合併後の新会社の役員に雨宮さんをいれない秘密条約が
むすばれていたことを知ったからだと云います。
合併事件は春に始まり秋になっても紛糾し続け、収束を見せなかったので民営論を強力に薦めた立場の利光さんは断然決意し、合併を捨てて独立経営の方針を打ち出します。井上敬次郎の賛成を得て、
京橋区三十間堀の料亭に創立委員を招き提議すると、合併派は利光さんに事態の収拾を一任し、
利光さんが雨宮さんにあたったところ、雨宮さんも困ったいたので「君に一任する」との答えを得て、
重役の陣容を刷新し、取締役会長を雨宮さんから高島嘉右衛門にかえ、専務を吉田幸作、
理事を立川勇次郎、運輸監督を井上敬次郎、取締役を雨宮・根津という形におさめます。
利光さんは創業以来、表に立たず顧問の地位にとどまります。
そんな、合併問題で大もめの間に、馬車鉄道の電化が進み、市街鉄道も開業しはじめるのです。~
明治36年 8月22日 新橋ー品川間(元「品川馬車鉄道」の区間)で東京電車鉄道が走り始める
明治36年 9月15日 数寄屋橋ー神田橋間で「東京市街鉄道」が走り始める
明治36年11月 「東京市街鉄道」は合併をあきらめ、馬越恭平の仲裁で重役は総辞職し、
あらたに高島嘉右衛門が取締役会長に就任、
藤山雷太は専務取締役を辞し、雨宮敬次郎も取締役に退く
明治38年 3月 高島嘉右衛門が取締役会長を辞任、再び雨宮敬次郎が会長に返り咲く
~いちど会長職を退いた雨宮さんがふたたび返り咲いたのは、満州や清国に漫遊するため
「東京市街鉄道会長の肩書きをもっていきたいから」との希望で、高島さんも病気中だったため
この提案を受け入れ、重役連に相談して異論もでなかったので実現したようです。
このころ利光さん自身も取締役になりました。~
明治39年 3月 雨宮敬次郎、株主の運賃値上げ派多数により立川勇次郎と共に役員を辞し社外へ去る
明治39年 3月11日と15日に日比谷公園で社会主義者主宰の運賃値上げ反対の市民大会がおこる
明治39年 6月11日 渋沢栄一と馬越恭平の裁定で、三社合併の条件がまとまり合併仮契約書締結
明治39年 8月 三社合併の認可が下りる
明治39年 9月 5日 三社合併の条件である四銭均一に反対するデモ隊が電車十数台を焼き打ちにし
電車の営業が数日止まる
明治39年 9月11日 東京三鉄道が合併し「東京鉄道」となる
~ところで「東京市街鉄道」は市内三銭均一の料金制度をとっていました。
これは雨宮さんの公共交通は市民の利益のためにとの主義によるものですが、
立案したのは藤岡市助電気技師でした。馬車鉄道の運賃収入から計算して、これでも十分採算は
とれるとの見通しではじめたものでしたが、採算性の高い馬車鉄道の路線とはちがい、
市街鉄道の電車路線は経費が予定していた3倍はかかり、運賃値上げをするほかなくなりました。
藤岡技師は責任を取って免職になったといいます。
市街鉄道発端のダンピングで開業していた市内電車三社は疲弊しており、三社共同で五銭均一に
値上げの申請をだすことにします。三銭均一を打ち出した雨宮さんはこの大勢をみて辞職しました。
運賃値上げは当然市民の反発が予想されるので、新聞各社に説明をし、東京市会には星亨の地盤を
受け継いだ森久保作蔵に働きかけてもらい、原内相には元田肇、岡崎邦輔から事情を説明して、
財界を牛耳っている井上馨侯爵には渋沢栄一と近藤廉平から了解をとってもらいました。
さらに千家尊福東京府知事、安樂兼道警視総監にも事情を了解してもらっての発表でしたが、
案の定市民から値上げ反対の声が上がり運動は拡大、日露戦争で鉄道は国有が望ましいという
意識も高まって私鉄と国とが対峙していた時期だったので市有民有論が再熱、
この上市民が騒いでは大変だと政府は値上げ申請を却下、
株価も暴落して窮地に陥った三社は合同の道を歩みます。
9月11日の創立総会で会社解散にともない、新会社の役員が選出されました。
社長は馬車鉄道時代から社長であった牟田口元学氏、
常務は「東京電気鉄道」の専務だった川田 鷹氏と「東京市街鉄道」の取締役の井上敬次郎氏、
それに安藤保太郎氏が加わります。取締役には「東京電車鉄道」の中野武営氏と利光さん、それに
「東京電車鉄道」で監査役、「東京市街鉄道」で取締役だった根津さんもなります。
新会社は四銭均一制を打ち出したので市民がまた騒ぎだし、電車焼き打ち事件も発生、
市営化論の声がふたたび高くなります。~
明治41年 6月 市と交渉して市営化を申請するも大蔵省によって不許可になる
明治41年12月 「東京鉄道」の運賃改定案(五銭均一)が却下される
明治42年 3月 値上げ失敗の責任をとり臨時株主総会で取締役と監査役全員が辞職を申し出る
千家尊福が社長に、常務3人と根津・小野は重役に残り、5人が新任となる
明治44年 8月 1日 「東京鉄道」市有化、東京市電気局が開設され東京市電となる
~明治40年末頃、日露戦争後の一時的な好況が去ると、東鉄株は再び低落します。
市街鉄道市有論者の中島行孝市議は尾崎行雄市長と森久保作蔵市参事会に働きかけて、
この株価低迷期にこそ市が買収すべきであると進言します。
会社側も相当の価格であるから市有賛成の意見で、そこから正式に買収交渉がはじまるのですが
仮契約もすみ株主総会の承認も得て市会も通過、市と会社は連署で内務・大蔵両省に認可の申請を
行いました。しかし公債の価格に悪影響を及ぼすおそれがあるからとの理由で貴族院から反対にあい
日露戦争で鉄道公債も暴落し普通公債も前例のない低落をし、公債価格の維持に自信のない大蔵省も
市債の発行に反対の姿勢だったため、内務省の認可はあったのに大蔵省に不許可にされます。
桂内閣となり経済政策に尽力することが表明された為、株価は暴騰しインフレの様相となったので
四銭均一ではとても立ちゆかないと、会社はふたたび運賃値上げを画策します。
平田内相には渋沢栄一と近藤廉平が赴き、鉄道院総裁後藤新平には杉山茂丸氏と牟田口社長が陳情、大浦農相には松本剛吉氏に連れられ利光さんが陳情しに向かいます。
桂首相には側近を通じて陳情し、警視庁、東京府、東京市会にも根回ししてその了解を得ます。
しかし後藤総裁には東鉄が年八分の配当を続けている事を指摘され、配当を年五分にして
再申請するとこれも「公債証書と同じで諦められぬこともない」と蹴られたため、
株主総会を通して年四分の配当にして申請しなおしました。
当局は判断を保留しつつけ、市民は反対運動をおこし、結局値上げ申請は却下されます。
この間貴族院の妨害があったのは、このころ原敬内相のもと郡制廃止法案が党命を左右するほどの
大問題となり、衆議院を通過したあと貴族院で否決されるもその賛否が僅差だったため
山縣有朋さんをはじめとする官僚閥はショックを受けます。
その原内相のために利光さんが多額の献金をしていたことで、山縣閥の恨みをかっていた事がわかり、
利光さんは運賃値上げの失敗をとって役員が総辞職した時に取締役を退きます。
これまで市会を強引に操縦してきた為、内外に敵も多くなってきていたことも理由でした。
新役員には市民にも人気の人でなくてはと出雲禰宜の家柄の千家尊福さんを引き出すことにしました。
これは、東鉄市営化が西園寺内閣で却下されたことをうけて
尾崎市長が市参事会と共に辞表を提出したとき、市参事会は全員再選したにもかかわらず
尾崎市長の辞表だけが受理されたのが不公平だと反対して、後任に千家さんが内定していたのを
尾崎市長に返り咲かせた経緯があり、その罪滅ぼしの面もあったという。
市内交通の独占で反感を買っていた牟田口・利光勢がしりぞくと、
弊害がとりのぞかれた東鉄の市営化は時間の問題となりました~
=============================================
最後に「東京鉄道」の役員をを退いた利光さんのその後の経歴が以下。
市内交通の弊害を見続けてきた結果、小田急の元となる「東京高速鉄道」のような
地下鉄にいち早く出願したのも故なるかなという気がします。
明治43年10月 鬼怒川水力電気創立、社長となる
明治44年初夏 千代田瓦斯、鬼怒川水力電気、東京鉄道の重役をつれて上方と名古屋へ遊び、
西の株主との懇親を深める(岩下清周の案内で箕面、宝塚へも行った)
明治44年 8月 東京鉄道が市有化、清算人会長となる、京成電車の会長、千代田瓦斯の社長となる
京王の前史を再掲します。
明治38年12月12日 日本電気鉄道として蒲田-調布-府中-立川と新宿-府中の支線の軌道敷設を出願
明治39年 8月18日 武蔵電気軌道と改称、立川-八王子と府中-国分寺の路線を追加出願
明治40年 6月25日 新宿-八王子の本線と、府中-国分寺の支線、立川-立川停車場の特許を得る
明治40年 7月4日付けで先行出願した電気事業の許可を得る
明治43年 4月12日 京王電気軌道に改称
明治43年 9月21日 資本金125万円で設立
「京王電気軌道三十年史」によると、
この明治43年9月21日に京橋区東京地学協会で創立総会を開き、
本店を東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木字山谷二九一番地に置いたとあります。
そしてこの日に決まった重役陣が以下の通り。
取締役会長 川田 鷹氏
専務取締役 利光丈平氏
取締役 豊原基臣氏
同 太田信光氏
同 井上平左衛門
同 井倉和欽氏
同 濱 太郎氏
監査役 吉田幸作氏
同 岡 烈氏
どうも武蔵電気軌道の発起人には居なかった人ばかりです。
この人らは、誰かというと旧東京鉄道の役員、および鬼怒川水力電気の発起人なのです。
鬼怒電発起人一覧とのつきあわせについては前の記事をご覧ください。
なんでこうなったのかといえば、東京市内で鼎立していた電気鉄道三社が合併し、
さらには市有化されたことと、この頃、鬼怒電が創立されたこと、
それに千代田瓦斯が東京瓦斯に合併されたことなどが関係あるのだと思います。
そしてそのどれにも関わりがあり、労を取ったのであろう人が小田急電鉄創始者の利光鶴松さんです。
鬼怒電についてはそれなりに上記の記事にまとめたので、ここでは肝心の東京市内電気鉄道と
その集約の流れをまとめてみます。当然のように長いのでとばしてもいいです。
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明治22年 4月27日 大倉喜八郎ほか5名が「電気鉄道」を出願(8月16日却下)
明治22年 6月 3日 立川勇次郎ほか6名が「東京電道1」を出願(8月16日却下)
明治23年 8月25日 軌道条例公布
明治23年 8月25日 軌道条例に関する出願手続を定める(内務省訓令、訓第662号)
~東京電灯の設立が許可されたのは明治16年2月15日(試験点灯の許可は1月27日付)で、
電気の供給を始めるのが明治20年頃、しかも専ら灯りに使われるだけで、動力とされるのは
明治23年11月の浅草十二階・凌雲閣のエレベーターが最初だったという。
電車などはまだまだ未知数で、法整備もされて無かっためそれ以前の出願は即却下されていた模様。
なので軌道条例公布後、出願して実現にむかった物で早かったのは雨宮敬次郎さんの派閥でした。
なお、このへんの計画会社は名前の重複がはげしいので番号つけてみました。~
(前の会社が名前を捨てたら、すぐ拾う/笑)
明治26年10月13日 雨宮敬次郎ほか41名により「東京電気鉄道1」の敷設特許請願書が提出される
(発起人には三浦泰輔や岩田作兵衛などの甲武鉄道派、甲州財閥の小野金六もいた)
明治26年11月 新規の市街電鉄の発起に刺激されて、「東京馬車鉄道」でも動力の変更を申請
(公称資本金50万円)
明治26年11月26日 藤岡市助や大倉喜八郎ら5名による「東京電車鉄道1」が設立願書を提出
(公称資本金40万円)
明治26年11月29日 立川勇次郎ら9名による「東京電道鉄道2」が設立願書を提出
(公称資本金40万円)
~乱立、というかなんというか、みんな時期が近すぎで盛り上がってんだなーと感じます。
甲武鉄道が市街線の延伸を目論み測量を終えるのが明治25年3月23日、
鉄道会議が市街線の許可を出すのが明治26年2月12日、新宿飯田町間の建設免許が同年3月1日、
3月末には用地買収をおえ、7月5日には飯田町側から工事を開始しているので、
中央線が燃料になっている部分もあるのかもしれませんね。~
明治28年 4月18日 雨宮の「東京電気鉄道1」藤岡の「東京電車鉄道1」立川の「東京電道鉄道2」が
帝国ホテルにおいて三派合同の会議を開き各派総代人連署をその筋に追願
雨宮を発起人総代として改めて「東京電気鉄道2」設立を出願する
(公称資本金100万円)
明治28年 4月27日 草刈矍翁ほか数名が「東京中央電気鉄道1」を出願するも、
8月9日に「東京電気鉄道2」に合流
明治28年 6月 2日 「東京電気鉄道2」は発起人規約を定め事務所を築地館に置く
明治28年 6月19日 藤山雷太、渋沢栄一らが「東京電車鉄道2」を出願(公称資本金380万)
(発起賛同者には福澤捨次郎、中上川彦次郎、益田孝、朝吹英二などがいて、いわゆる三井・福澤派)
明治28年 7月 雨宮が主唱して紅葉館で「東京電気鉄道2」は発起人総会を開く
(8月に中央電気が合流し資本金は150万円)
明治28年 8月 千葉胤昌が「東京府内電気鉄道」を出願
明治28年 9月 2日 関 直彦ほか4名が「東京中央電気鉄道2」を、17日「東京目黒電気鉄道」を出願
明治28年 9月 5日 松本錬蔵が「東京青山電気鉄道」を、7日「江東電気鉄道」をそれぞれ出願
明治28年12月15日 「東京電気鉄道2」の事務所を築地館から京橋区山城町三番地に移し
有田秀造を事務主任にする
明治29年 3月 2日 地主の協賛を集めて野中万助ほか49名が「東京自動鉄道」を出願
(自由党・星亨・地主派)
明治29年 4月 2日 森岡昌純ほかが「川崎電気鉄道」を出願(公称資本金55万円)
明治29年10月29日 内藤義雄が「王子電気鉄道」を出願
明治29年11月 5日 加藤鉄三郎ほか5名が「永代橋電気鉄道」を、村井寛吾が「城南電気鉄道」を出願
明治29年12月26日 福島松之助が「浅草電気鉄道」を出願
明治30年 2月25日 深津忠雄が「京中電気鉄道」を出願
明治30年 2月22日 「東京電気鉄道2」は帝国ホテルで発起人総会を開く
明治30年 7月20日 「東京府内電気鉄道」「東京中央電気鉄道2」「東京目黒電気鉄道」
「東京青山電気鉄道」「江東電気鉄道」「王子電気鉄道」「永代橋電気鉄道」
「城南電気鉄道」「浅草電気鉄道」「京中電気鉄道」が6月中に
雨宮の「東京電気鉄道2」に合流し追願の手続を完了
(公称資本金は500万円となり三井派の380万円を凌ぐ)
明治30年 8月16日 「川崎電気鉄道」が郡部のみ出願路線を許可される
~ここで、色分けの説明をしますと雨宮氏の甲武鉄道派閥と、最初期に出願していた大倉・立川組の
第一次「東京電気鉄道2」合同派閥がオレンジ色です。青紫がそれ以降に合流する第二次合同組。
青は「東京馬車鉄道」をもととする「東京電車鉄道3」
緑は福澤山脈(慶応閥)たる福澤家+三井組(捨次郎は諭吉の息子で中上川は諭吉の甥っ子)、
赤紫は地主+野中万助+自由党で利光さんがここ贔屓、
赤は鼎立三電のなかでも弱小な元・川崎電気組=「東京電気鉄道3」~
明治30年10月 樺山内相が雨宮派と三井派に市内を二分する形で許可を内定する
(「川崎電気鉄道」も信濃町までの延伸の許可を内定)
明治30年11月29日 利光鶴松が東京市会において樺山内相の許可を取り消すよう建議案を提出
明治31年 6月 肥塚龍東京府知事が市会にはからず「東京馬車鉄道」の運賃値上げを許可し
これに怒こった利光が府知事への弾劾決議を提案、市会が満場一致で賛成するも
運賃値上げは決行される
~第二次松方内閣(松隈内閣)で内務大臣だった樺山資紀は市内の交通機関を政党操縦する目的で
東京市内を二分して山手方面を雨宮側に、下町方面を三井側に下付する方針を打ち出します。
しかも市の監督権を認めず、市に対する公納金の規定もない市側に不利なものだったので、
「東京自動鉄道」側だった利光さんはこれを阻止しようと建議案を提出、当然市会も一致して賛成し
15区から一名ずつ委員をだして総理大臣と内務大臣に肉迫、市会の意見は容れられてとりあえず
この許可は中止となりました。
利光さんが東京市会議員になったのは、
当時東京市会および東京府が改進党系の牙城になってる所へ切り込む為でした。
明治14年の政変で失脚した大隈さんと慶応閥らがはじめたインテリな改進党に比べ、
地方農民出身の多い自由党系は事件を起こしたり壮士を動員したりと暴力的なイメージが強く
都市部の有権者には人気がなかったのです。
そこで自由党出身の利光さんは改進党ににぎられていた東京市政を、
なんとか自由党の手に届くものにしたいとの意志を強くしていました。
遅々として進まぬ市内交通問題や近代水道化問題や港湾整備問題は、そのいい機会だったよう。
星亨の「自由党も地方をむいてかつての武勇伝を自慢するのではだめだ、東京の実業家の信頼を
勝ち取らねば今後はうまくいかない」との考えに共鳴して利光さんは東京の実業家に近づき、その力になって信用を得、またその主義の主唱者たる星亨自身にも参加して貰う為市会進出の足場を作ります。
その動きを年表にするとこんなかんじ。
明治29年 2月 利光鶴松、深川区から立候補し無競争で東京市会議員に当選
明治31年 3月 利光鶴松、東京府第五区(本所・深川区)より衆議院議員に当選
明治31年 6月 憲政党創立、利光鶴松は幹事となる
明治32年 6月 星亨、麹町区から立候補し東京市会議員になる
明治34年 1月 星亨、東京市会議長となる
明治34年 6月21日 星亨、東京市会で兇刃に倒れる
星亨氏が「東京市街鉄道」の話をまとめたのは、そんな明治32年の市会議員になったころでした~
明治32年 1月13日 「川崎電気鉄道」に市内線(信濃町~広尾)が特許下付
明治32年 7月18日 星亨の周旋で藤山雷太らの「東京電車鉄道2」と野中万助らの「東京自動鉄道」が
雨宮の「東京電気鉄道2」に合流
社名を「東京市街鉄道」とし、19日帝国ホテルで契約書を交わす
(公称資本金1500万円、各派500万円ずつ)
明治32年 8月14日 「東京市街鉄道」の出願をし直す
~利光さんの作った足場に乗っかって星亨氏は順調に市会で勢力をのばし、その政治力でもって
膠着していた市内電車問題も一応の形にまとまります。
星氏は小松原英太郎内務次官をたずねて三派合同を提案しその賛意を得ると、西郷内相にもあたり、
西郷内相から山縣首相に話を通して貰って政治的な地固めをすませ、
当事者の雨宮さん説得には利光さん、益田・中上川の三井派には星さんがあたり、
野中万助にはあらかじめ話は通してあったので、合議の末各派から五人の委員をだすことにし、
浜町の常盤屋で会談ののち各派平等同権とした上で合同契約書をつくり署名調印を成立させました~
明治32年10月 8日 「東京市街鉄道」発起人総会を開き、市参事会決議への意見をまとめ、
9日市長の召還で三派代表が出頭、
公納金問題で、8朱と法定積立準備金を除く10分の3の利益を申し出る
明治33年 5月 「川崎電気鉄道」が岡田治衛武による「東京電気鉄道3」に改称
(公称資本金80万円、近藤廉平の日本郵船・三菱系)
明治33年 6月 9日 「東京市街鉄道」に特許下付、
「東京馬車鉄道」には動力変更の特許、命令書を下付しようとしたが、
会社側が命令書の条項に不服ありと受領を拒否
明治33年10月 2日 「東京馬車鉄道」が動力変更の認可を受領、30日に「東京電車鉄道3」と改称
明治35年 4月18日 「東京市街鉄道」が創立総会を開く
~内務省と東京市会を通過した「東京市街鉄道」の申請書は東京市参事会の手にうつります。
市参事会は市政の執行決定機関で、当時の委員は渋沢栄一、田口卯吉、吉野世経、鳩山和夫、星亨ら
著名人十二名と、松田秀雄市長、朝倉外茂鉄助役、浦田治平助役の三名の合計15名。
うち渋沢、田口、鳩山、星が民有論、4名が市有論、7名が中立で、新聞が煽動的に書き立てたため
区会議員も市有民有の区にわかれて市、府、内務大臣、首相宛に建白書を提出の大論争がおきます。
特に東京瓦斯会社の大橋新太郎専務は、出願時に「東京市街鉄道」が架空単線式だったので、
ガス管の腐食に繋がると懸念し、内相時代市有論だった板垣退助にもはたらきかけて市有演説をさせ、
事を大きくしました。(内務省と市会の審査の点で、単線式は複線式に訂正させられてる)
また枢密顧問官の伊東己代治が板垣氏に「星亨は閣下が内相時代に市有の省議を決定したのに、
一言の挨拶もなく民間に経営させようとしているのは無礼ではないですか」と焚きつけたため、
純情な板垣さんの心に火が付いて、民有反対の大旗を振る格好になったともいいます。
利光さんはこの二人への報復手段を考え、大橋専務には瓦斯会社からのガス管埋設の願書を握り潰し
一切許可しない根回しをし、伊東男爵には永田町の邸に道路が貫通する市区改正案をたてて新聞に
書かせ、驚いた伊東さんが利光さんに会見を申込んできたので、改正案をひっこめるかわりに
板垣さんの市有運動を止めさせるよう条件をだします。
しかし火が付いた板垣さんを収めるのは容易ではなかったようです。
とにかく市参事会の結論は民有に決し、内務省に仕事がうつってからは西郷内相が閣議にはかり
即日承認され、今度は東京府を経て特許状は下付されました。
星氏はじめ発起人一同は築地新喜楽に集まり特許状を床の間に飾ってこれを祝ったといいます。
しかし、創立委員長すなわち社長を誰にするかで一波乱ありました。
三井派は資金調達が容易で世間から人気があり、地主派の野中派は雨宮さんが嫌いだったので、
創立委員中では雨宮反対派が多数でした。
けれどもこの中で直接、鉄道経営のノウハウを知っているのは雨宮さんなので、
星さんでさえ初めは三井派だったのに対し、利光さんは「ただの会社ならともかく三井家の若旦那を
床の間の置物にするのは公卿を大将として戦場に臨むようなもので、途中できっと後悔するから、
人情に於いても長く交通機関問題に携わってきた雨宮氏にするべきだ」と説得し、これに納得した
星さんが創立委員に向かって雨宮氏を委員長に推すことを明言して雨宮さんに決したということです。
電車を通すための道路拡充で市区改正を速成するため、星・利光さんは会社と東京市の連絡役と
なっていましたが、そこへ日清戦争の恐慌が来襲し、一時は10円以上のプレミアム付だった会社の株
は50銭でも買い手のつかない状況となり、義和団事件などで世情は不安でした。そんなときに、
星亨が暗殺されて「東京市街鉄道」は有力な後援者も失います。
利光さん自身もこれで弱っていたのか、外国人からの融資の話にのっかり、雨宮さんほか一名が
「そんな外人には取り合わぬ方がいい」と反対するのを説得し、保証人を東海銀行と露清銀行ときめ
創立委員一同が横浜に向かうと露清銀行のほうが「そんな話はきいていない、詐欺師の類でしょう」
といわれ「このときほど恥をかいたことはない」というほど面目を失っています。
結局お金は、雨宮さんと親しい安田善次郎さんにお願いし「次の3ヶ条を守るのであれば」という
条件で出資してもらいます。
「1安田は一株ももたない」「2株式の8割を融通する」「3電車賃は5銭均一にする」
このことを発表した所、会社の信用も回復して株の申込みは忽ち進捗しますが、のちに雨宮さんは
「電車賃三銭均一」を実施し、この約束を破ります。
ともかく会社は資本金を1500万円から300万円に縮小し、第一回払込は東海銀行と安田銀行に
引き受けてもらい、特許路線を5期に分けて起工することになりました。
こうして「東京市街鉄道」は発足しますが、
じつはさらに、元馬車鉄道の「東京電車鉄道3」とも合同しようという動きがおこります。
「東京電車鉄道3」は市の中央を通る路線で採算性が高いものの、市街鉄道の出現で延伸が難しく
電化もしなければならない情勢で、成長が行き詰まっていました。一方
「東京市街鉄道」は大規模な免許線路をもちつつ資本が集まらず着工もあやうい状況にあり、
ここで両者の弱点が一致し、合併の話がもちあがるのです。~
明治36年 3月 東京府知事千家尊福と東京商業会議所会頭渋沢栄一の仲介で
「東京市街鉄道」と「東京電車鉄道3」の合併の議起こる
明治36年 7月 「東京市街鉄道」と「東京電車鉄道3」の合併仮契約調印の臨時株主総会が開かれるも
雨宮が反対を唱える。雨宮派の退場後、合併派のみで合併承認がなされ、
「東京電車鉄道3」社長・牟田口元学と「東京市街鉄道」専務取締役・藤山雷太の
連名で合併願を提出、これに対し雨宮派は合併決議無効の仮処分を申請し、
芝区裁判所がこれを受理し、合併派の仮処分解除の申請を却下
明治36年 8月 合併派は臨時総会を開き雨宮の取締役を解職するほかなしと決め、
会長を吉田幸作とし、監査役の根津嘉一郎を議長として議事をひらくと、
雨宮派は会長である雨宮を議長としないのは不法であると多数の壮士をつかって騒ぎ、
臨場警察官が治安に害ありとして解散を命じる
~一時は合併調印に賛成だった雨宮さんですが、なぜ急に過激な反対運動に出たかといえば、
東京電車と市街鉄道の幹部の間で合併後の新会社の役員に雨宮さんをいれない秘密条約が
むすばれていたことを知ったからだと云います。
合併事件は春に始まり秋になっても紛糾し続け、収束を見せなかったので民営論を強力に薦めた立場の利光さんは断然決意し、合併を捨てて独立経営の方針を打ち出します。井上敬次郎の賛成を得て、
京橋区三十間堀の料亭に創立委員を招き提議すると、合併派は利光さんに事態の収拾を一任し、
利光さんが雨宮さんにあたったところ、雨宮さんも困ったいたので「君に一任する」との答えを得て、
重役の陣容を刷新し、取締役会長を雨宮さんから高島嘉右衛門にかえ、専務を吉田幸作、
理事を立川勇次郎、運輸監督を井上敬次郎、取締役を雨宮・根津という形におさめます。
利光さんは創業以来、表に立たず顧問の地位にとどまります。
そんな、合併問題で大もめの間に、馬車鉄道の電化が進み、市街鉄道も開業しはじめるのです。~
明治36年 8月22日 新橋ー品川間(元「品川馬車鉄道」の区間)で東京電車鉄道が走り始める
明治36年 9月15日 数寄屋橋ー神田橋間で「東京市街鉄道」が走り始める
明治36年11月 「東京市街鉄道」は合併をあきらめ、馬越恭平の仲裁で重役は総辞職し、
あらたに高島嘉右衛門が取締役会長に就任、
藤山雷太は専務取締役を辞し、雨宮敬次郎も取締役に退く
明治38年 3月 高島嘉右衛門が取締役会長を辞任、再び雨宮敬次郎が会長に返り咲く
~いちど会長職を退いた雨宮さんがふたたび返り咲いたのは、満州や清国に漫遊するため
「東京市街鉄道会長の肩書きをもっていきたいから」との希望で、高島さんも病気中だったため
この提案を受け入れ、重役連に相談して異論もでなかったので実現したようです。
このころ利光さん自身も取締役になりました。~
明治39年 3月 雨宮敬次郎、株主の運賃値上げ派多数により立川勇次郎と共に役員を辞し社外へ去る
明治39年 3月11日と15日に日比谷公園で社会主義者主宰の運賃値上げ反対の市民大会がおこる
明治39年 6月11日 渋沢栄一と馬越恭平の裁定で、三社合併の条件がまとまり合併仮契約書締結
明治39年 8月 三社合併の認可が下りる
明治39年 9月 5日 三社合併の条件である四銭均一に反対するデモ隊が電車十数台を焼き打ちにし
電車の営業が数日止まる
明治39年 9月11日 東京三鉄道が合併し「東京鉄道」となる
~ところで「東京市街鉄道」は市内三銭均一の料金制度をとっていました。
これは雨宮さんの公共交通は市民の利益のためにとの主義によるものですが、
立案したのは藤岡市助電気技師でした。馬車鉄道の運賃収入から計算して、これでも十分採算は
とれるとの見通しではじめたものでしたが、採算性の高い馬車鉄道の路線とはちがい、
市街鉄道の電車路線は経費が予定していた3倍はかかり、運賃値上げをするほかなくなりました。
藤岡技師は責任を取って免職になったといいます。
市街鉄道発端のダンピングで開業していた市内電車三社は疲弊しており、三社共同で五銭均一に
値上げの申請をだすことにします。三銭均一を打ち出した雨宮さんはこの大勢をみて辞職しました。
運賃値上げは当然市民の反発が予想されるので、新聞各社に説明をし、東京市会には星亨の地盤を
受け継いだ森久保作蔵に働きかけてもらい、原内相には元田肇、岡崎邦輔から事情を説明して、
財界を牛耳っている井上馨侯爵には渋沢栄一と近藤廉平から了解をとってもらいました。
さらに千家尊福東京府知事、安樂兼道警視総監にも事情を了解してもらっての発表でしたが、
案の定市民から値上げ反対の声が上がり運動は拡大、日露戦争で鉄道は国有が望ましいという
意識も高まって私鉄と国とが対峙していた時期だったので市有民有論が再熱、
この上市民が騒いでは大変だと政府は値上げ申請を却下、
株価も暴落して窮地に陥った三社は合同の道を歩みます。
9月11日の創立総会で会社解散にともない、新会社の役員が選出されました。
社長は馬車鉄道時代から社長であった牟田口元学氏、
常務は「東京電気鉄道」の専務だった川田 鷹氏と「東京市街鉄道」の取締役の井上敬次郎氏、
それに安藤保太郎氏が加わります。取締役には「東京電車鉄道」の中野武営氏と利光さん、それに
「東京電車鉄道」で監査役、「東京市街鉄道」で取締役だった根津さんもなります。
新会社は四銭均一制を打ち出したので市民がまた騒ぎだし、電車焼き打ち事件も発生、
市営化論の声がふたたび高くなります。~
明治41年 6月 市と交渉して市営化を申請するも大蔵省によって不許可になる
明治41年12月 「東京鉄道」の運賃改定案(五銭均一)が却下される
明治42年 3月 値上げ失敗の責任をとり臨時株主総会で取締役と監査役全員が辞職を申し出る
千家尊福が社長に、常務3人と根津・小野は重役に残り、5人が新任となる
明治44年 8月 1日 「東京鉄道」市有化、東京市電気局が開設され東京市電となる
~明治40年末頃、日露戦争後の一時的な好況が去ると、東鉄株は再び低落します。
市街鉄道市有論者の中島行孝市議は尾崎行雄市長と森久保作蔵市参事会に働きかけて、
この株価低迷期にこそ市が買収すべきであると進言します。
会社側も相当の価格であるから市有賛成の意見で、そこから正式に買収交渉がはじまるのですが
仮契約もすみ株主総会の承認も得て市会も通過、市と会社は連署で内務・大蔵両省に認可の申請を
行いました。しかし公債の価格に悪影響を及ぼすおそれがあるからとの理由で貴族院から反対にあい
日露戦争で鉄道公債も暴落し普通公債も前例のない低落をし、公債価格の維持に自信のない大蔵省も
市債の発行に反対の姿勢だったため、内務省の認可はあったのに大蔵省に不許可にされます。
桂内閣となり経済政策に尽力することが表明された為、株価は暴騰しインフレの様相となったので
四銭均一ではとても立ちゆかないと、会社はふたたび運賃値上げを画策します。
平田内相には渋沢栄一と近藤廉平が赴き、鉄道院総裁後藤新平には杉山茂丸氏と牟田口社長が陳情、大浦農相には松本剛吉氏に連れられ利光さんが陳情しに向かいます。
桂首相には側近を通じて陳情し、警視庁、東京府、東京市会にも根回ししてその了解を得ます。
しかし後藤総裁には東鉄が年八分の配当を続けている事を指摘され、配当を年五分にして
再申請するとこれも「公債証書と同じで諦められぬこともない」と蹴られたため、
株主総会を通して年四分の配当にして申請しなおしました。
当局は判断を保留しつつけ、市民は反対運動をおこし、結局値上げ申請は却下されます。
この間貴族院の妨害があったのは、このころ原敬内相のもと郡制廃止法案が党命を左右するほどの
大問題となり、衆議院を通過したあと貴族院で否決されるもその賛否が僅差だったため
山縣有朋さんをはじめとする官僚閥はショックを受けます。
その原内相のために利光さんが多額の献金をしていたことで、山縣閥の恨みをかっていた事がわかり、
利光さんは運賃値上げの失敗をとって役員が総辞職した時に取締役を退きます。
これまで市会を強引に操縦してきた為、内外に敵も多くなってきていたことも理由でした。
新役員には市民にも人気の人でなくてはと出雲禰宜の家柄の千家尊福さんを引き出すことにしました。
これは、東鉄市営化が西園寺内閣で却下されたことをうけて
尾崎市長が市参事会と共に辞表を提出したとき、市参事会は全員再選したにもかかわらず
尾崎市長の辞表だけが受理されたのが不公平だと反対して、後任に千家さんが内定していたのを
尾崎市長に返り咲かせた経緯があり、その罪滅ぼしの面もあったという。
市内交通の独占で反感を買っていた牟田口・利光勢がしりぞくと、
弊害がとりのぞかれた東鉄の市営化は時間の問題となりました~
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最後に「東京鉄道」の役員をを退いた利光さんのその後の経歴が以下。
市内交通の弊害を見続けてきた結果、小田急の元となる「東京高速鉄道」のような
地下鉄にいち早く出願したのも故なるかなという気がします。
明治43年10月 鬼怒川水力電気創立、社長となる
明治44年初夏 千代田瓦斯、鬼怒川水力電気、東京鉄道の重役をつれて上方と名古屋へ遊び、
西の株主との懇親を深める(岩下清周の案内で箕面、宝塚へも行った)
明治44年 8月 東京鉄道が市有化、清算人会長となる、京成電車の会長、千代田瓦斯の社長となる
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