たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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もうすぐ閉館するという、目白台のオルゴール博物館(http://www.musemuse.jp/)をみにいこうよ、
と知り合いに誘われまして、ちかくに椿山荘というおいしい料理屋もあるんだよと聞き、
(それって、もしかして藤田邸だったやつか?)と調べたらまさしくそうだったんで、
「こっちもみたい!!」とわがままをいい、予定を一時間早めて江戸川橋駅で待ち合わせました。
ちょうど前日に「藤田伝三郎の雄渾なる生涯」を読み終わったところだったので、
運命か、運命だな!!これを逃す手はないと食いつきました。本もおもしろかったです。
関西方面の官設鉄道はほとんどこの藤田組が請け負ってたんですね~
いっしょに、大倉組のことも説明されてたんで、こんどは大倉喜八郎を借りようと思います。
藤田伝三郎さんは、ちょいちょい名前を聞くわりにあんまり何してる人かの説明がなくて
気になってたんですが、若い頃、冤罪で拘留されたことがきっかけで講談にでっちあげられて
偽の経歴が有名になっちゃったんで、多くの歴史家がだまされて間違ったことを本に書いたらしく。
史学の踏み絵みたいな人だな~というのが面白かったです。大変だ。
本人も出不精だったらしく、あんまり実業家同士の交流には参加しなかったみたい。
ただ、大阪財界の先輩の五代友厚さんの遺産整理には熱心だったらしく、
そっちには欠かさず会議に参加してて、そのへんが個人的にぐふふ。
そして北浜銀行の岩下清周さんがまた、藤田さんをだいっすきだな!ってくらい、
藤田さんの誤解を解こうと必死だったりして、そっちも見ててほんわかします、ぐふふ。←
久原房之助もちょいちょい聞く名前だったんですが、まさか甥っ子だったとは。
有楽町線の出口からでてみてびっくり、江戸川橋。
なんとここ、神田上水の関口の大洗堰があったとこだった。
東京市の水の歴史を読んでると必ずといっていいほどでてくる名前の堰なんですが
まさかここがそうだったとわ。(そこまで調べてなかった)
この辺が関口水道町という名前だったのも、そのへんから由来するとか。
江戸川というのは神田川の一部区間をそう呼んでいたみたいですね。
お隣はカイゼル髭が素敵な銅像・大井玄洞翁。
明治43年の大洪水のあと、大正2年護岸改修の工事に着手し
大正8年に完成させた功労者として称えられています。
遺構とおもわれるもの、のまわりに大量のハトがいてすごかった。
公園入ってみて実感したんですけど、ここ段丘というか涯線というか、
とにかく高低差がすっっっごい!!
台地を神田川が削ったんだと思うんですが。
地学に詳しい人に、このへん説明してほしい。
そして、石垣のオンパレード。
あらゆる種類の石垣がみられます。
なんとなく、一番左の写真は江戸城の城壁の一部だったんじゃないかなーと予想。
真ん中の写真は古そうな岩を間にはさんで、左右でまたちがうものも。左は平成っぽい。
それ以外のは昭和っぽい。石垣詳しい人に、この辺解説してほしい。
大洗堰と江戸川公園の説明。
大正8年には公園としての整備をきめたとか、相当古いな!!
しかも右の銘板は「東京市」になっている、おおう・・・。これ自体が一つの史跡っぽい。
大洗堰の遺構をこの公園へ移してきたもの。
これで水をある程度の水位までせき止め水を採っていたらしい。
長さ約18m、幅約12.6mで傍らに水番人の住む小屋があり、
ここから落ちる水は高さ2m余り、太さ1.8mでその音は数百m先まで聞こえたという、
一種の名所だったらしい。
今もその景色を再現しているのか、水辺が残してありました。右は現役の頃の写真(比較)
=============================================
椿山荘~\(*^▽^*)/
やばい、手入れが行き届いている。この規模で民営?
やっぱ、藤田組もすごい資力だったんだな~。
もとは山縣有朋さんのお屋敷だったらしいですが(命名も)
お隣は椿山荘ホテル。
現在は藤田観光の経営で、一番右の写真の白い建物がその本社っぽい。
藤田組は平太郎社長の時代に銀行業に手を出して昭和恐慌にまきこまれ、
日本銀行から9千万円の借金をして鉱山業から撤退、敗戦後、旧藤田組の主力鉱山以外を
藤田鉱業が引き継ぎ、その常務になったのが豊島園を庭園から遊園地にかえた小川栄一さん。
藤田家の財産整理にあたった彼は、日本銀行の担保となっていた藤田コレクションの流出を危惧し、
政府に対しての債権をもとに大野伴睦にあたって金を回収、
それで日銀から美術品をとりもどして財団法人をつくり、これを管理させました。
昭和23年藤田鉱業は藤田興業となり、インフレの進行をみて藤田家所有の不動産を安売りさせないため、それを借金の返済にあてさせず、藤田興業で買いとり観光業に転換させます。
藤田興業の鉱山や干拓事業は同和鉱業にゆずり、観光部門を独立させて藤田観光を設立、
箱根小涌谷の藤田家東邸は太閤園に、別邸を貴賓館にして箱根小湧園を開業、
京都の敷地にはホテルをたてるなどしました。
昭和36年に獅子文六が朝日新聞で連載した「箱根山」はこの小川栄一さんがモデルで、
藤田観光が氏田観光、小涌園が常春苑、椿山荘が春山荘、太閤園は英雄園となっているらしい。
平太郎社長が40万円で買ったこの元山縣邸の椿山荘も、そうした経緯でホテルになったんですね。
椿山荘の象徴ともいえる三重の塔。移築したのは平太郎さんらしい。
桜や椿の時期は外しましたが、カエデや巨大な楠が圧巻でした。
ホテルの目の前には滝があり、これがまた関口の大洗堰を彷彿とさせる素晴らしさです。
お昼は椿山荘内のおそば屋さんで頂きました。
天ぷらおいしかったです。
============================================
おまけ
店内に藤田観光のチラシが。
と知り合いに誘われまして、ちかくに椿山荘というおいしい料理屋もあるんだよと聞き、
(それって、もしかして藤田邸だったやつか?)と調べたらまさしくそうだったんで、
「こっちもみたい!!」とわがままをいい、予定を一時間早めて江戸川橋駅で待ち合わせました。
ちょうど前日に「藤田伝三郎の雄渾なる生涯」を読み終わったところだったので、
運命か、運命だな!!これを逃す手はないと食いつきました。本もおもしろかったです。
関西方面の官設鉄道はほとんどこの藤田組が請け負ってたんですね~
いっしょに、大倉組のことも説明されてたんで、こんどは大倉喜八郎を借りようと思います。
藤田伝三郎さんは、ちょいちょい名前を聞くわりにあんまり何してる人かの説明がなくて
気になってたんですが、若い頃、冤罪で拘留されたことがきっかけで講談にでっちあげられて
偽の経歴が有名になっちゃったんで、多くの歴史家がだまされて間違ったことを本に書いたらしく。
史学の踏み絵みたいな人だな~というのが面白かったです。大変だ。
本人も出不精だったらしく、あんまり実業家同士の交流には参加しなかったみたい。
ただ、大阪財界の先輩の五代友厚さんの遺産整理には熱心だったらしく、
そっちには欠かさず会議に参加してて、そのへんが個人的にぐふふ。
そして北浜銀行の岩下清周さんがまた、藤田さんをだいっすきだな!ってくらい、
藤田さんの誤解を解こうと必死だったりして、そっちも見ててほんわかします、ぐふふ。←
久原房之助もちょいちょい聞く名前だったんですが、まさか甥っ子だったとは。
有楽町線の出口からでてみてびっくり、江戸川橋。
なんとここ、神田上水の関口の大洗堰があったとこだった。
東京市の水の歴史を読んでると必ずといっていいほどでてくる名前の堰なんですが
まさかここがそうだったとわ。(そこまで調べてなかった)
この辺が関口水道町という名前だったのも、そのへんから由来するとか。
江戸川というのは神田川の一部区間をそう呼んでいたみたいですね。
お隣はカイゼル髭が素敵な銅像・大井玄洞翁。
明治43年の大洪水のあと、大正2年護岸改修の工事に着手し
大正8年に完成させた功労者として称えられています。
遺構とおもわれるもの、のまわりに大量のハトがいてすごかった。
公園入ってみて実感したんですけど、ここ段丘というか涯線というか、
とにかく高低差がすっっっごい!!
台地を神田川が削ったんだと思うんですが。
地学に詳しい人に、このへん説明してほしい。
そして、石垣のオンパレード。
あらゆる種類の石垣がみられます。
なんとなく、一番左の写真は江戸城の城壁の一部だったんじゃないかなーと予想。
真ん中の写真は古そうな岩を間にはさんで、左右でまたちがうものも。左は平成っぽい。
それ以外のは昭和っぽい。石垣詳しい人に、この辺解説してほしい。
大洗堰と江戸川公園の説明。
大正8年には公園としての整備をきめたとか、相当古いな!!
しかも右の銘板は「東京市」になっている、おおう・・・。これ自体が一つの史跡っぽい。
大洗堰の遺構をこの公園へ移してきたもの。
これで水をある程度の水位までせき止め水を採っていたらしい。
長さ約18m、幅約12.6mで傍らに水番人の住む小屋があり、
ここから落ちる水は高さ2m余り、太さ1.8mでその音は数百m先まで聞こえたという、
一種の名所だったらしい。
今もその景色を再現しているのか、水辺が残してありました。右は現役の頃の写真(比較)
=============================================
椿山荘~\(*^▽^*)/
やばい、手入れが行き届いている。この規模で民営?
やっぱ、藤田組もすごい資力だったんだな~。
もとは山縣有朋さんのお屋敷だったらしいですが(命名も)
お隣は椿山荘ホテル。
現在は藤田観光の経営で、一番右の写真の白い建物がその本社っぽい。
藤田組は平太郎社長の時代に銀行業に手を出して昭和恐慌にまきこまれ、
日本銀行から9千万円の借金をして鉱山業から撤退、敗戦後、旧藤田組の主力鉱山以外を
藤田鉱業が引き継ぎ、その常務になったのが豊島園を庭園から遊園地にかえた小川栄一さん。
藤田家の財産整理にあたった彼は、日本銀行の担保となっていた藤田コレクションの流出を危惧し、
政府に対しての債権をもとに大野伴睦にあたって金を回収、
それで日銀から美術品をとりもどして財団法人をつくり、これを管理させました。
昭和23年藤田鉱業は藤田興業となり、インフレの進行をみて藤田家所有の不動産を安売りさせないため、それを借金の返済にあてさせず、藤田興業で買いとり観光業に転換させます。
藤田興業の鉱山や干拓事業は同和鉱業にゆずり、観光部門を独立させて藤田観光を設立、
箱根小涌谷の藤田家東邸は太閤園に、別邸を貴賓館にして箱根小湧園を開業、
京都の敷地にはホテルをたてるなどしました。
昭和36年に獅子文六が朝日新聞で連載した「箱根山」はこの小川栄一さんがモデルで、
藤田観光が氏田観光、小涌園が常春苑、椿山荘が春山荘、太閤園は英雄園となっているらしい。
平太郎社長が40万円で買ったこの元山縣邸の椿山荘も、そうした経緯でホテルになったんですね。
椿山荘の象徴ともいえる三重の塔。移築したのは平太郎さんらしい。
桜や椿の時期は外しましたが、カエデや巨大な楠が圧巻でした。
ホテルの目の前には滝があり、これがまた関口の大洗堰を彷彿とさせる素晴らしさです。
お昼は椿山荘内のおそば屋さんで頂きました。
天ぷらおいしかったです。
============================================
おまけ
店内に藤田観光のチラシが。
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