たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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前回のが長すぎて私自身閉口しています、ので要点はこっちにまとめよう。
東京鉄道が運賃値上げ失敗の責任を取り、牟田口社長が辞職し千家社長になるのが
明治42年3月の臨時株主総会で、このとき利光鶴松さんも取締役を退きます。
明治42年発行の「財界名士失敗談. 上巻」によると、牟田口さんは
「東鉄問題はサゾかし閉口したらん、橘中の仙と為て姑(しばら)く囲碁に隠るるが
寧ろ得策だらうと思ふ、仙乎俗可(か)、一年花飛ぶの時、目黒の高台に浩嘨(こうしょう)して
夢る所其れ将た何事ぞ。」とあるように退任後は目黒台の家に蟄居している印象です。
それが明治43年 9月21日の京王の創立総会では委員長をつとめ議長席に座ったと社史にあります。
そして役員の選出をするのですが「東京朝日新聞」によると重役は会長の指名によったとあります。
「●京王電軌創立総会」1910年(明治四十三年)9月22日
京王電気軌道株式会社は21日創立総会を開き収支計算及定款の承認あり
又重役報酬は一年四千円以上八千円以下とし当分最低額と為す事に決し
次で重役は会長の指名にて左の通り決定したり
△社長 川田鷹 △専務取締役 利光丈平 △取締役 豊原基臣、太田信光氏、井上平左衛門、
井倉和欽 △監査役 吉田幸作、岡 烈(※社史には濱太郎も取締役になったとある)
この会長とは、利光鶴松さんであろうと思われます。さらに彼は
明治43年10月に一時頓挫しかかった大規模水力発電の鬼怒川水力電気社長となります。
その発起人には西の資本家とならび東京鉄道の役員だった人たちの名前があります。
これは英国資本の導入に失敗しまくった結果、内資でまかなおうと東奔西走した結果です。
そこで明治44年初夏に利光さんは千代田瓦斯・鬼怒川水力電気・東京鉄道の重役をつれて
上方と名古屋へ遊び、西の株主との親交を深めるということもしています。
これは西の株主に大変好評だったようです。
明治44年 8月 1日、東京鉄道は市有となり、利光さんはその清算人となると同時に、
東京電気局の理事に転任してしまった井上敬次郎さんにかわり、同月で京成電車の会長になったり、
千代田瓦斯の社長になったりしています。
千代田瓦斯は福澤桃助さんらと設立した東京瓦斯の独占状態に対抗する為の会社だったらしく
明治42年発行の「財界名士失敗談. 上巻」に、その設立の経緯が当人によって語られています。
~時は明治三十九年の十二月であった、風邪の気味で臥褥(がじょく)して居ると、
菊池武徳君が野間五造君を連れ立って来て、何か大金儲けがなからうかと相談を受けた、
野間君とは今は交際して居るが、その時初めて会ったのである
其際僕は二君の問に対し、新に一の瓦斯会社を起さうと云ふ大略の目論見を話した。
是れより先き、門司の素封家たる大橋淡君より、門司市に瓦斯会社を設立するに就て相談された事が
ある、それで僕も出資者の一人となり、また東京瓦斯会社の一部の人とも語らひ、
兎に角設立の運びを完了した。
大橋君が門司市から下付を受けた特許書の中に、瓦斯事業は市自ら経営せず、亦他に対して
道路の使用を許可せずと云ふが如き、被特許者の利益たるべき条項がチャンと保証されてあった。
僕はそれを見て、東京瓦斯にも以上の特許条項があるかどうかを調べて見ると、東京瓦斯は、
初め市営の筈なりしを中途民間の事業に移したので、門司の如き特許命令を受けて居らない、
僕是に於て東京瓦斯と対抗すべき新瓦斯会社を起こすの余地ありと信じ、
如上菊池野間二君の来訪を幸ひとし、之が同意を促して愈よ創立運動に着手した。
今一つは其当時東京株式取引所の五十円株が七百円株もして居た、扨(さて)はと思って、
其の方面にも一つ新計画を立てて見た。
ソレや此れやで木挽町の待合山口を本陣とし、先づ瓦斯会社に関して対市会策を案じ、
市会の牛耳を執り居りし森久保作蔵君等と結託して願書を出したのが、
四十年の一月下旬、許可を受けたのが二月初旬、其間僅かに十日を出でぬやうに覚えて居る、
此の時の発起人は都合十一人、資本金二千万円、一株二百円、
而して之が即ち千代田瓦斯会社と云ふのであった。~
このとき一緒に中央取引所の設立も計画していたものの、株を割り振っていた政治家連が
郡制廃止問題でそれどころではなくなり、許可をすでに得ていた千代田瓦斯はともかく、
取引所のほうは願書もうやむやになって葬られてしまったという。
ちなみに福澤桃助氏は福澤諭吉の娘・ふささんの婿で、アメリカへ海外留学する資金をだすかわりに
婿養子になるよう誘われ、恋人だった貞奴(のちの川上音次郎の妻で、大女優となる芸子)と
わかれ留学。その留学中に川越の実の両親が亡くなり、失意の中で酒浸りになって居るところに
帰国命令が下り、北海道炭鉱鉄道へ赴任となるも、ふさのホームシックがもとで東京に呼び戻され、
友人と商店などもはじめてみるも、福澤諭吉に裏切られて外資の話がおじゃんになると、
怒りの余り意味もなく関西行きの汽車に飛び乗り車中で喀血、病院へ担ぎ込まれ肺結核とわかる。
見舞いに来た松永安左エ門氏にむかって「僕は養子縁組を解消するから、即刻それを伝えてくれ」
と病床からわめいたという。とにかくその場はなだめられたが、以来、桃助氏は福澤一派を信用せず
名古屋を拠点に電力会社を経営したり、松永さんと一緒に西鉄の前身を設立したり、
福澤姓でありながら、福澤諭吉に間接的な反抗をし続けた人で三井・福澤派ではないらしい。
ちなみに松永さんとは「安さん」「桃さん」と呼び合うような親友で、事業で協力したり競争したり
気質はちがえど電力界でのその経営の仕方は双子をみるようだったという。
それはともかく、前記「財界名士失敗談. 上巻」で
~中央取引所は以上の状態であった、千代田瓦斯の方は許可を受けてあるので、
創めれば何時でも始められたが、丁度その時は諸株暴落時代なりしが為め、
後ちの形勢を見定めるまで差控える事になり、今も其儘になって居る。~
とあるように、明治42年の段階では棚上げ状態だったようですが、
明治43年1月27日には創立総会を開いて資本金1000万円、委員長は安樂兼道とし、
明治43年5月14日に千代田瓦斯株式会社として正式に創立されます。
明治43年7月1日に東京市と報償契約を結び、
明治44年7月7日芝区より事業を開始、東京瓦斯と正面衝突します
しかし結局、ガス管を二重に道路に埋設するのは不経済という見地から、この事態を憂慮した
東京電灯の佐竹作太郎氏は東京府知事千家尊福氏、代議士尾崎邦輔氏とともに調停を斡旋し、
明治44年8月21日東京瓦斯の高松社長と千代田瓦斯の安樂社長の間で合併の仮契約が結ばれます
明治45年1月東京瓦斯は千代田瓦斯の全従業員を雇用し、権利義務一切の引き継ぎを完了します
この段階で安樂兼道氏がまだ社長だということは利光さんはこれ以降社長に就任したんでしょうか。
安樂さんは4回警視総監になったひとで、この時点で史上最多らしい。
市街鉄道の合併や運賃値上げの際に、警視総監である安樂さんにたびたび協力をお願いしていた
ようなので、利光さんとの関係は密だったんじゃないかな。
ちなみに、東京瓦斯会社側の役員は、古希を迎える渋沢栄一が会長の辞任表明したことをうけて
明治43年7月20日定款を変更し、会長制を廃止、社長、副社長を設置することとし、陣容は
取締役社長 高松豊吉
取締役副社長 久米良作
取締役 浅野総一郎 大橋新太郎 渡辺福三郎 福島甲子三 平松末吉
監査役 渡部朔 小林藤右衛門 伊藤幹一
というかんじでした。
この合併には市民の間でも賛否両論で、東鉄の市営化とならんで新聞紙面を騒がせています。
「株式年鑑」明治45年版にのる千代田瓦斯の役員は以下(明治44年下半期が対象となる)
「千代田瓦斯」 東京市芝区浜松町2丁目23番地
(東京瓦斯会社と合併の予定)
設立 明治43年5月14日
資本金 1000万円(内払込額 250万円)
株数 20万株(1株額面50円、内払込12円50銭)
役員 社長・利光鶴松、常務・岡烈、磯野保次、取締役・桂二郎、金子直吉、林謙吉郎、河合芳太郎、
岡本榎?監査役・神野金之助、平沼専蔵、三枝守富、中山佐市、木村省吾
関西の資本家(金子直吉、木村省吾)それと京浜の資本家(林謙吉郎、平沼専蔵)が名を連ねます。
これは鬼怒川水力で東奔西走して西側の資本家との繋がりができた結果かもしれませんね。
特に常務の岡烈さんは鈴木商店の支配人であり、
大正2年4月創立の大正生命でも専務をつとめていました。大正生命は鈴木商店の東京進出の鎮守府
であるとともに、京王電気軌道の創業当初からの筆頭株主だったといいます。
東京鉄道が運賃値上げ失敗の責任を取り、牟田口社長が辞職し千家社長になるのが
明治42年3月の臨時株主総会で、このとき利光鶴松さんも取締役を退きます。
明治42年発行の「財界名士失敗談. 上巻」によると、牟田口さんは
「東鉄問題はサゾかし閉口したらん、橘中の仙と為て姑(しばら)く囲碁に隠るるが
寧ろ得策だらうと思ふ、仙乎俗可(か)、一年花飛ぶの時、目黒の高台に浩嘨(こうしょう)して
夢る所其れ将た何事ぞ。」とあるように退任後は目黒台の家に蟄居している印象です。
それが明治43年 9月21日の京王の創立総会では委員長をつとめ議長席に座ったと社史にあります。
そして役員の選出をするのですが「東京朝日新聞」によると重役は会長の指名によったとあります。
「●京王電軌創立総会」1910年(明治四十三年)9月22日
京王電気軌道株式会社は21日創立総会を開き収支計算及定款の承認あり
又重役報酬は一年四千円以上八千円以下とし当分最低額と為す事に決し
次で重役は会長の指名にて左の通り決定したり
△社長 川田鷹 △専務取締役 利光丈平 △取締役 豊原基臣、太田信光氏、井上平左衛門、
井倉和欽 △監査役 吉田幸作、岡 烈(※社史には濱太郎も取締役になったとある)
この会長とは、利光鶴松さんであろうと思われます。さらに彼は
明治43年10月に一時頓挫しかかった大規模水力発電の鬼怒川水力電気社長となります。
その発起人には西の資本家とならび東京鉄道の役員だった人たちの名前があります。
これは英国資本の導入に失敗しまくった結果、内資でまかなおうと東奔西走した結果です。
そこで明治44年初夏に利光さんは千代田瓦斯・鬼怒川水力電気・東京鉄道の重役をつれて
上方と名古屋へ遊び、西の株主との親交を深めるということもしています。
これは西の株主に大変好評だったようです。
明治44年 8月 1日、東京鉄道は市有となり、利光さんはその清算人となると同時に、
東京電気局の理事に転任してしまった井上敬次郎さんにかわり、同月で京成電車の会長になったり、
千代田瓦斯の社長になったりしています。
千代田瓦斯は福澤桃助さんらと設立した東京瓦斯の独占状態に対抗する為の会社だったらしく
明治42年発行の「財界名士失敗談. 上巻」に、その設立の経緯が当人によって語られています。
~時は明治三十九年の十二月であった、風邪の気味で臥褥(がじょく)して居ると、
菊池武徳君が野間五造君を連れ立って来て、何か大金儲けがなからうかと相談を受けた、
野間君とは今は交際して居るが、その時初めて会ったのである
其際僕は二君の問に対し、新に一の瓦斯会社を起さうと云ふ大略の目論見を話した。
是れより先き、門司の素封家たる大橋淡君より、門司市に瓦斯会社を設立するに就て相談された事が
ある、それで僕も出資者の一人となり、また東京瓦斯会社の一部の人とも語らひ、
兎に角設立の運びを完了した。
大橋君が門司市から下付を受けた特許書の中に、瓦斯事業は市自ら経営せず、亦他に対して
道路の使用を許可せずと云ふが如き、被特許者の利益たるべき条項がチャンと保証されてあった。
僕はそれを見て、東京瓦斯にも以上の特許条項があるかどうかを調べて見ると、東京瓦斯は、
初め市営の筈なりしを中途民間の事業に移したので、門司の如き特許命令を受けて居らない、
僕是に於て東京瓦斯と対抗すべき新瓦斯会社を起こすの余地ありと信じ、
如上菊池野間二君の来訪を幸ひとし、之が同意を促して愈よ創立運動に着手した。
今一つは其当時東京株式取引所の五十円株が七百円株もして居た、扨(さて)はと思って、
其の方面にも一つ新計画を立てて見た。
ソレや此れやで木挽町の待合山口を本陣とし、先づ瓦斯会社に関して対市会策を案じ、
市会の牛耳を執り居りし森久保作蔵君等と結託して願書を出したのが、
四十年の一月下旬、許可を受けたのが二月初旬、其間僅かに十日を出でぬやうに覚えて居る、
此の時の発起人は都合十一人、資本金二千万円、一株二百円、
而して之が即ち千代田瓦斯会社と云ふのであった。~
このとき一緒に中央取引所の設立も計画していたものの、株を割り振っていた政治家連が
郡制廃止問題でそれどころではなくなり、許可をすでに得ていた千代田瓦斯はともかく、
取引所のほうは願書もうやむやになって葬られてしまったという。
ちなみに福澤桃助氏は福澤諭吉の娘・ふささんの婿で、アメリカへ海外留学する資金をだすかわりに
婿養子になるよう誘われ、恋人だった貞奴(のちの川上音次郎の妻で、大女優となる芸子)と
わかれ留学。その留学中に川越の実の両親が亡くなり、失意の中で酒浸りになって居るところに
帰国命令が下り、北海道炭鉱鉄道へ赴任となるも、ふさのホームシックがもとで東京に呼び戻され、
友人と商店などもはじめてみるも、福澤諭吉に裏切られて外資の話がおじゃんになると、
怒りの余り意味もなく関西行きの汽車に飛び乗り車中で喀血、病院へ担ぎ込まれ肺結核とわかる。
見舞いに来た松永安左エ門氏にむかって「僕は養子縁組を解消するから、即刻それを伝えてくれ」
と病床からわめいたという。とにかくその場はなだめられたが、以来、桃助氏は福澤一派を信用せず
名古屋を拠点に電力会社を経営したり、松永さんと一緒に西鉄の前身を設立したり、
福澤姓でありながら、福澤諭吉に間接的な反抗をし続けた人で三井・福澤派ではないらしい。
ちなみに松永さんとは「安さん」「桃さん」と呼び合うような親友で、事業で協力したり競争したり
気質はちがえど電力界でのその経営の仕方は双子をみるようだったという。
それはともかく、前記「財界名士失敗談. 上巻」で
~中央取引所は以上の状態であった、千代田瓦斯の方は許可を受けてあるので、
創めれば何時でも始められたが、丁度その時は諸株暴落時代なりしが為め、
後ちの形勢を見定めるまで差控える事になり、今も其儘になって居る。~
とあるように、明治42年の段階では棚上げ状態だったようですが、
明治43年1月27日には創立総会を開いて資本金1000万円、委員長は安樂兼道とし、
明治43年5月14日に千代田瓦斯株式会社として正式に創立されます。
明治43年7月1日に東京市と報償契約を結び、
明治44年7月7日芝区より事業を開始、東京瓦斯と正面衝突します
しかし結局、ガス管を二重に道路に埋設するのは不経済という見地から、この事態を憂慮した
東京電灯の佐竹作太郎氏は東京府知事千家尊福氏、代議士尾崎邦輔氏とともに調停を斡旋し、
明治44年8月21日東京瓦斯の高松社長と千代田瓦斯の安樂社長の間で合併の仮契約が結ばれます
明治45年1月東京瓦斯は千代田瓦斯の全従業員を雇用し、権利義務一切の引き継ぎを完了します
この段階で安樂兼道氏がまだ社長だということは利光さんはこれ以降社長に就任したんでしょうか。
安樂さんは4回警視総監になったひとで、この時点で史上最多らしい。
市街鉄道の合併や運賃値上げの際に、警視総監である安樂さんにたびたび協力をお願いしていた
ようなので、利光さんとの関係は密だったんじゃないかな。
ちなみに、東京瓦斯会社側の役員は、古希を迎える渋沢栄一が会長の辞任表明したことをうけて
明治43年7月20日定款を変更し、会長制を廃止、社長、副社長を設置することとし、陣容は
取締役社長 高松豊吉
取締役副社長 久米良作
取締役 浅野総一郎 大橋新太郎 渡辺福三郎 福島甲子三 平松末吉
監査役 渡部朔 小林藤右衛門 伊藤幹一
というかんじでした。
この合併には市民の間でも賛否両論で、東鉄の市営化とならんで新聞紙面を騒がせています。
「株式年鑑」明治45年版にのる千代田瓦斯の役員は以下(明治44年下半期が対象となる)
「千代田瓦斯」 東京市芝区浜松町2丁目23番地
(東京瓦斯会社と合併の予定)
設立 明治43年5月14日
資本金 1000万円(内払込額 250万円)
株数 20万株(1株額面50円、内払込12円50銭)
役員 社長・利光鶴松、常務・岡烈、磯野保次、取締役・桂二郎、金子直吉、林謙吉郎、河合芳太郎、
岡本榎?監査役・神野金之助、平沼専蔵、三枝守富、中山佐市、木村省吾
関西の資本家(金子直吉、木村省吾)それと京浜の資本家(林謙吉郎、平沼専蔵)が名を連ねます。
これは鬼怒川水力で東奔西走して西側の資本家との繋がりができた結果かもしれませんね。
特に常務の岡烈さんは鈴木商店の支配人であり、
大正2年4月創立の大正生命でも専務をつとめていました。大正生命は鈴木商店の東京進出の鎮守府
であるとともに、京王電気軌道の創業当初からの筆頭株主だったといいます。
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