たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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大正十三年八月二十九日の郊外電車計画に関する東京朝日新聞の記事を参照していた時に、たまたま目についたコラム。
「東京地下鉄道」と「銀座」という文字に、時期的にも「早川さんの東京地下鉄道のことか?」と思ってよくよく読んだら、東京市による地下鉄道計画だったのです。それも三日続けての連載。
関東大震災からほぼ一年、東横線も世田谷線も大井町線も南武線も小田原線も、そして玉南線もこれから建設って時期に、むしろだからでしょうか、郊外と連絡し、都心に直通する夢を持っていた東京市の構想を綴ったコラムが連載されたのは。
今から読んでもハイカラっていうか、二回目の記事なんてシールド工法?かっていう先進ぶり。
その一方、東京の事情はその後何十年も、ぜんぜんかわってねーんだなぁ、っていう…おどろきと既視感が同時に涌き起こり不思議な感じがしました。
東京地下鉄道夢物語り〔一〕これは銀座尾張町交叉点の光景 大正十三年八月十三日(水曜日)
東京市の地下鉄道計画は、愈々具体的になって市参議会から市会へ廻り、いま市電の特別委員会で審議してゐる、
図はこの案に基いて市電気局で作った地下鉄道完成後の銀座尾張町交叉点の模様で函型路下式の停車場である、
総延長五十マイルは大体この式によるのであるが、すべて郊外に始発駅があって丸之内界隈の いはゆる 都心
目がけて集まる線路には十七哩の速度で三分乃至四分間ごとに三四両連結の電車がつく、しかも各駅の停車時間
は平均四十五秒づつだから、目黒、渋谷、中野、池袋、巣鴨どこから通う人でも大体十五分あれば都心へ着く事
になってゐる、現在の市内電車で押合ひへし合ひ一時間もかかって通ってゐる人もこれが出来上れば僅に其の
四分の一時間で出勤も帰宅も出来るし、雑沓もなくなるわけだ、而も一車の定員百二十五人だから四両連結として
一時に五百人は楽々と輸送される
東京地下鉄道夢物語り〔二〕図にした隅田川新大橋の地下 大正十三年八月十四日(木曜日)
地下鉄の停車場は約十一丁半毎に一個づつ全線六十箇所に設けられる、どこから乗っても運賃は十銭均一で、
郊外から都心を通って郊外へ弧線を描く線路は六線であるが、乗換切符でどこの線へも自由に乗れるのは
路面電車とかはらない、この軌道の幅は四呎八吋半の標準式により六百ボルトの電流で運転する線路は大体
函型路下式であるが地勢上やむを得ないところはチュウブ式を用ゐる、図はこの式によって隅田川新大橋附近
の下を通ずる大鉄道管内の鉄道と停車場の光景を示したものであるが、この外に鉄筋コンクリートでトンネル式に
固めた拱型式と種々の関係から本所深川方面には一部高架式が採用される、それも最新式のソリッド・バラステッド
・フラワー式の鉄筋コンクリート構造で音響も殆ど外界の妨げとはならない、元より地震、火事、洪水にも耐へ、
四六時中三七十余両の電車は快速力で東京の地下をかけ廻る事になるのである
東京地下鉄道夢物語り〔三〕高輪東宮御所附近の地下鉄 大正十三年八月十五日(金曜日)
この工事は一哩あたり四百万円、総額二億円の予算である、それもまづ現在の市内電車の混雑を緩和するために急を
要する線は着手後三年目には開通し得る見込が立って居り継続事業として十五箇年間には全部竣成させる計画である、
そこで完成後の実益はどうかといへば現在ですら一日の市電乗客が百二十万人の夥しい数に上ってゐるうへに将来
乗客数の殖える事は自然の勢ひで、予定通りにこの計画が進行しても約二十年の後地下鉄道が出来上がる頃には
優に一日二百四五十万の乗客数を見るに至るだらうから、最大限度に路面電車を拡張してもそれだけではとても
収容出来かねるのをこの地下電車で急速に郊外と連絡をとってドシドシ乗客を運び、電車混雑から来る市民の時間と
労力と感情の浪費を節約して一般の能率増進を図るといふにある―――図は高輪東宮御所附近伊皿子町を通る拱型式
の地下鉄(完)
こちらは、続報?
「市の地下鉄道 測量を開始す 池袋と飯田橋間の第一期線に技師五名出勤」
大正十五年十二月二十三日(木曜日)
長い間難産に悩まされてゐた東京市の地下鉄がいよいよ二十二日から具体的の身支度をはじめることになり、
高速鉄道審査課の西技術係長を中心に五名の技師から組織された測量班は
朝から 空模様を見てゐたが、午後一時十数名の人夫を引きつれて、ボーリングの場所を定むる重大な任務を
帯びて、まづ池袋から飯田橋間の第一期線三マイル半の処女測量に威勢よく出勤した、大道電気局長は語る
住居立入證もいよいよ下付されたので今日から実地測量のスタートを切った、
まづ、池袋の起点から順次鬼子母神付近を通り、面影橋付近の高架予定地を過ぎ
義士銘々伝で名高い堀部安兵衛の遺跡の
付近 を通過し、穴八幡に出で、牛込弁天町、天神町を経て飯田橋の所へ出る
地下鉄道の予定線上をたどって実地の測量をしボーリングの準備をする事になった、
測量は大車輪で来年の一月一杯には完成したいと考へてゐる、そして二年間のうちに
工事を終って交通の不便な同方面の交通上の面目を一新する予定である
なんか、電気局の人がきらきらしてみえる・・・v
池袋から、鬼子母神、面影橋、飯田橋って・・・どういうルートだろう?
ん~、ちょっと調べてみよう。
====================================
~追記~
とりあえず、手がかりに乏しいのでまた神戸大学附属図書館の新聞記事文庫に頼ってみました。
東京市の地下鉄道線決定 鉄道省の特別委員会:中外商業新報 大正十四年二月五日
東京市における現在交通機関として、路面電車、市営及び私営乗合自動車等を有するが
交通の現状は単にこれを以て満足する能わず、帝都交通の根本解決策としては、
高速度鉄道を市内縦横に貫通すべき必要あるは既に一般の認むる所にて、
これが解決をなすべき東京市高速度鉄道路線決定の特別委員会は、三日午後一時
鉄道省に開会、鉄道、内務両省、復興局、東京市の各当局出席し、
東京市の高速度鉄道の計画は、昨年四月までに鉄道省からそれぞれ免許を得て居る、
武蔵野電気、東京地下、東京鉄道、東京高速度鉄道の
四会社の特許線を考慮に入れて立案すべき関係上、右四会社を買収統一する方針で、
市の計画(内容既報)が出来たところその後武蔵野、東京高速度、東京鉄道三会社の
特許を取消されたので残る地下鉄道会社のみを買収すれば統一し得ることとなり、
また鉄道省としても法規上地下鉄道の特許は取消し得ず、これが善後策に就て屡々
各当局会議した結果三日の会合で東京市の執行する地下鉄道路線を左の通り決定した、
なおその様式はペターゼント・ターナー両式の折衷案であると
△第一線 五反田、札の辻、赤羽、御成門、桜田本郷町、芝口、三原橋、和泉橋、徒士町、車坂町、菊屋橋、雷門、浅草駅柳嶋(但し本線は地下鉄道の特許線で市に買収後許可される予定)
△第二線 目黒駅、天現時、六本木、神谷町、虎ノ門、桜田門、馬場先門、宇治橋、新常盤橋、小伝馬町、浅草橋、片町、御蔵前片町、三筋町、三ノ輪、北千住
△第三線 中渋谷、青山六丁目、同一丁目、赤坂見附、虎ノ門、土橋、有楽町駅、須田町、万世橋、本郷三丁目、白山上、巣鴨駅
△第四線 四谷見附、麹町半蔵門、三宅坂、桜田門、日比谷、銀座、築地本願寺前、水天宮前、徒士町、本郷三丁目、春日町、伝通院前、大塚駅
△第五線 池袋、早稲田、神楽坂、飯田橋、神保町、錦町橋、東京駅、永代橋、洲崎
以上路線の交叉点を成るべく少からしむるため、特に本郷三丁目で第三線と第四線と
交叉して居るのをこれを除くため、中渋谷から本郷三丁目に至り、線を取換て大塚に
行かしめ第四線は新宿から本郷三丁目に至り巣鴨に行かしめんと協議中で
この両点は来る十日頃更に協議決定する予定であると
たぶん上の「市の地下鉄道 測量を開始す」の記事は、この計画五路線の第五線めの区間なんだろう。
第一線は早川さんの東京地下鉄道の免許線かな?なんか、今のルートと違うような気もするけど…
(但し本線は地下鉄道の特許線で市に買収後許可される予定)というのは、免許下付のさい東京市が買収しようとしたときに拒めない条件付きだった点をいっているのだろうと思います。
それにしても、東京地下鉄道以外の免許を失効してしまった会社の名前が・・・
「武蔵野電気鉄道」と「東京高速度鉄道」で一文字多いのはどういう事だろう〈笑〉
入れたくなる気持ちもわかるけど。
営団だって「帝都高速度交通営団」っていうんだし、当時の感じとしては地下鉄=高速度鉄道って認識だったのかも。
武蔵電鉄は東横電鉄で、東京高速は小田急の前身なんですよね。こんなところでも因果が。小田急は憶えてないけど、東横は憶えてそうだな・・・このへん。
もうひとつ、後日談で面白い記事が。
東京市営の地下鉄道払下 民間で引受運動起る:大阪朝日新聞 大正十五年八月二十九日
東京市の地下鉄道計画は最近にいたり市債募集上支障を来した関係上初期目的の遂行は困難となったので
適当の時期に右既定線路区域を民間に払下ぐる意向ありというのに対し早くも
大倉組、安田系、川崎系の代表者と更に渋沢正雄氏根津嘉一郎氏等が加わって
資本金二千五百万円五十万株の東京高速度鉄道株式会社を設立することとし
二十七日東京市の計画である既定地下線の払下を陳情するところあり他方に向っても
払下実現の運動を試みているが一方東京地下鉄道会社は地下鉄道統一の必要上市が
直接経営しないとすれば当然既設会社をして連絡敷設せしむることは交通政策上急務であるとし
同社重役は市に向ってその旨陳情に及んだ、然るに根津嘉一郎氏は東京地下鉄道の取締役であると
同時に新計画の会社における中心人物であるから双方に関係し自然板挟みとなっている、
更に某政党方面でも市の既定計画線に対する権利の取得をなすべく極めて秘密裡に画策しているから市といえどもこの際軽々に払下げるということは種々の問題を惹起することとなるべく一般に注目されている
やっぱり「東京高速度鉄道」っていってるなぁ・・・
このへんについては小田急の社史にも記述がありました。
『小田急二十五年史』昭和二十七年十月二十五日発行
当時、東京市の地下鉄道は利光氏一派が敷設免許を所有していた外に、早川徳次氏の創意で、
根津嘉一郎氏を頭首とした東京地下鉄道株式会社の、浅草―新橋間外二線と、
東京横浜電鉄株式会社が獲得していた、渋谷―有楽町間があった。
東京地下鉄道会社は、大正九年八月二十九日に創立され、根津氏の尽力で、
昭和二年十二月三十日、上野―浅草間の開業を始めとし、爾後七回に亙って部分的に開通し、
昭和九年六月二十一日には、予定の新橋迄全通した。
東京横浜電鉄株式会社の敷設権は、工事施工遅延を理由に、後藤新平氏の市長在任当時失効し、
市が建設することとなっていた。
しかし後藤市長が辞任し、つぎつぎと市長の更迭が行われ、市の財政も地下鉄を建設する程の余裕もなく、
荏苒日を過ごしていた。
その間に、東京近郊の電鉄会社の首脳者の間に、共同出資の上、
市の権利を取り戻して、建設しょうという相談が纏まり、
当時の目蒲・東横・玉川・京王・小田原急行の各電鉄会社の役員及び
大倉組が共同して昭和九年九月五日、東京高速鉄道株式会社を設立した。
同社は、昭和十三年十一月八日、青山六丁目―虎の門間を、
同年十二月二十日、渋谷―青山六丁目間を開通し、
昭和十四年一月十五日、虎の門―新橋間と全通をみることになった。
昭和十六年九月一日、この二つの会社は帝都高速度交通営団の名の下に併合されて今日に及んでいる。
あれ、なぜだろう、新聞記事から8年も経っている・・・。
小田急五十年史の方なら、もっと詳しく書いてあるのかもな~。あれ、行間みっちりだし。
この辺の事情は、wikiの「東京高速鉄道」の項目に資金が集まらずに五島さんを迎える事でやっと設立したとあるから、それなんだろうなと。
資金調達に困った大倉組副頭取の門野重九郎氏が、第一生命の矢野恒太氏に相談し、五島さんが助力するなら協力しよう、という話だったらしい。
社長は門野氏、専務も大倉組で、常務が五島さん、取締役は東武・東京地下鉄道の根津さん、それから京王、小田急、王子など郊外私鉄の社長が顔を並べ・・・って、え。なにそこ、気になる。
京王の井上さんがちょうど、昭和3年12月18日~昭和10年12月18日の間、社長だったはずだから、井上さんかな?それに王子と、玉川もいたとすると、ここでも大集合してるのか君ら。
だめだ、取締役のメンツが気になる。ちゃんと紙媒体も調べよう・・・。
東京高速鉄道くんはみんなの子供なんだなぁ。
====================================
~追記の追記~
別記事のほうにしようかとも思ったんですけど、
分かれると参照が面倒になるので長くなるの覚悟でこっちに追記します。
やっぱり小田急50年史の東京高速鉄道の項目に、一連の流れがわかりやすく書かれていました。
『小田急五十年史』昭和五十五年十二月二十七日発行
(大正九年の金融恐慌のため株式募集などが絶望的な状況となり、)
難航したのは東京高速鉄道だけではなかった。このため、資本の重複を避けて効率的運用をはかる意味で、
発足当初から武蔵鉄道を除く三社合併とか、同社を含む四社の大同合併とかをもくろむ動きがあった。
なかでも東京鉄道側の東京地下鉄道(当時東京軽便地下鉄道)への合併の働きかけは根強く、一時は
合併契約を締結するまでに進んだが、会社設立の直前に至って東京鉄道側の発起人のほとんど全員が
株式の引受を放棄するなどのことがあって合併は成立せず、結局、東京地下鉄道を除いて、他の三社の
計画はいずれも挫折し、免許も大正十三年(一九二四年)に失効した。(中略)
この間、政府が従来の七路線七三キロメートルを五路線八〇キロメートルとした新しい高速鉄道網計画を
策定したのを受けて、東京市はこのうち東京地下鉄道の免許線にほぼ合致する一号線を除く他の四路線、
目黒~浅草橋~南千住、渋谷~東京~巣鴨、新宿~日比谷~築地~大塚、池袋~飯田橋~東京~州崎間の
地下鉄道の敷設を申請し、大正十四年(一九二五)に免許を得た。
しかし財政難からこの計画は全く進まなかったため、東京地下鉄道の工事を請追っていた大倉組の門野重九郎、脇道譽などが、大正十五年(一九二六)八月、第二次の東京高速鉄道株式会社を発起し、これに利光鶴松らも加わって、市の免許路線の代行を出願した。これは市の反対によって却下されたが、再三の申請を繰返した結果、昭和六年(一九三一)十二月に至って、市の免許路線のうち渋谷~新橋~東京、新宿~四谷~築地、四谷~赤坂見附間の合計一六・九キロメートルの権利を譲受けることになった。この譲受け契約が鉄道省から認可されたのは翌七年(一九三二)十月で、これによって東京高速鉄道は、やがて渋谷~新橋間を開通させ、すでに浅草~新橋間を開業していた東京地下鉄道と合体して帝都高速度交通営団となるのである…
通史を読むには最適だと思う、小田急の50年史。君は、社会の教科書でも作るつもりだったのかって、位に話が包括的。
大正15年に根津さんらが中心となって東京高速鉄道を発起するまえから、3、4社合同の動きはずっとあったようですね。
でも纏まらずに東京地下鉄道以外はみんな失効と。
ただ、東京高速鉄道(2世)の方の重役陣は、こちらには載ってなかったので、
今度は東急の50年史の方も参照してみたら、ありました。
内容は当然ながら小田急のと重複してはいますが、補足的な部分も多いので、こちらも引用。
『東京急行電鉄50年史』昭和四十八年四月十八日発行
再三にわたって出願した結果、昭和6年12月8日、東京高速鉄道は、東京市長永田秀次郎から、将来は東京地下鉄道と合併することを条件に、東京市の免許線のうち、3線を譲受した。(中略)
東京市が市営を最終的に断念したのは、浜口内閣の地方財政緊縮方針によって、起債認可申請が
昭和4年8月、翌5年9月と再度にわたって却下されたことと、元来、市電防衛のために
地下鉄道市営の方針を打ち出していたにもかかわらず、市電の経営は悪化の一途をたどっているため、
たとえ地下鉄道を建設しても、路面電車ともども収支が償われなくなるという懸念が増大してきたこと、
のためである。(中略)
ところが東京高速鉄道は、昭和8年9月30日までに会社を設立するという条件にもかかわらず、
資金調達が思わしくなく、期限内の会社設立がむずかしくなった。そこで、さらに昭和9年9月30日
まで1か年の延長を申請したため、契約に違反すると指摘されたが、結局、申請は認められた。
会社設立が思うように進まなかったため、門野重九郎は、第一生命社長矢野恒太に助力を求めたところ、
矢野恒太は、「東京横浜電鉄専務五島慶太がこれに参加し、計画が完成できるという見通しがたつなら
助力してもよい」という意向を示した。このときから、五島慶太が東京高速鉄道の建設・経営に参画することとなったのである。(中略)
そして、金融機関・近郊私鉄各社を精力的に説得して資金調達を図り、三井、三菱、住友の財閥系資本をはじめ当時の大手金融機関、近郊私鉄各社の協力を得たのであった。
こうして東京高速鉄道は、昭和9年9月5日に設立された。創立時の資本金は3,000万円で、
本社は京橋区銀座3丁目4番地(昭和10年1月8日、赤坂区表町2丁目15番地に移転登記)であった。
役員は、同月7日の取締役会で次のように互選された。
社長 門野重九郎(大倉組副頭取)
専務 脇 道譽 (大倉商事専務)
常務 五島慶太 (東京横浜電鉄専務)
取締役 井上篤太郎(京王電気軌道社長)
〃 井上敬二郎(前東京市電気局長)
〃 利光鶴松 (小田原急行鉄道社長)
〃 和田 駿 (大倉組取締役)
〃 金光庸夫 (王子電気軌道社長)
〃 根津嘉一郎(東武鉄道社長)
〃 鵜飼重雄 (玉川電気鉄道常務)
監査役 堀井卯之吉(千代田生命)
〃 松本烝治 (元商工大臣、弁護士)
〃 小林一三 (阪神急行電鉄会長)
いやー、それにしてもすごいメンツだ。
東急50年史のほうだと、東京市が諦めて譲ってくれた3路線にそれぞれ「渋谷線」「新宿線」「連絡線」と名前がついていました。
ということは、このあと実現した東京高速鉄道君の路線名は渋谷線で大丈夫なんだな。
東京地下鉄道のほうが、じゃあ「銀座線」かな?個人的には「しぶや君」と「うへのさん」と呼びたいのだけど・・・
しかし「将来は東京地下鉄道と合併することを条件に」東京高速鉄道に免許を譲受って話はほんとだろうか。だとしたら、二人は東京市が決めた許嫁同士で、たんに五島さんが一方的に迫ったって訳でもないんだな・・・。
東京地下鉄道側(早川さん)が了承してたかはまた別の話だろうけど。
うむ、複雑だね。好きです ←
「東京地下鉄道」と「銀座」という文字に、時期的にも「早川さんの東京地下鉄道のことか?」と思ってよくよく読んだら、東京市による地下鉄道計画だったのです。それも三日続けての連載。
関東大震災からほぼ一年、東横線も世田谷線も大井町線も南武線も小田原線も、そして玉南線もこれから建設って時期に、むしろだからでしょうか、郊外と連絡し、都心に直通する夢を持っていた東京市の構想を綴ったコラムが連載されたのは。
今から読んでもハイカラっていうか、二回目の記事なんてシールド工法?かっていう先進ぶり。
その一方、東京の事情はその後何十年も、ぜんぜんかわってねーんだなぁ、っていう…おどろきと既視感が同時に涌き起こり不思議な感じがしました。
東京地下鉄道夢物語り〔一〕これは銀座尾張町交叉点の光景 大正十三年八月十三日(水曜日)
東京市の地下鉄道計画は、愈々具体的になって市参議会から市会へ廻り、いま市電の特別委員会で審議してゐる、
図はこの案に基いて市電気局で作った地下鉄道完成後の銀座尾張町交叉点の模様で函型路下式の停車場である、
総延長五十マイルは大体この式によるのであるが、すべて郊外に始発駅があって丸之内界隈の いはゆる 都心
目がけて集まる線路には十七哩の速度で三分乃至四分間ごとに三四両連結の電車がつく、しかも各駅の停車時間
は平均四十五秒づつだから、目黒、渋谷、中野、池袋、巣鴨どこから通う人でも大体十五分あれば都心へ着く事
になってゐる、現在の市内電車で押合ひへし合ひ一時間もかかって通ってゐる人もこれが出来上れば僅に其の
四分の一時間で出勤も帰宅も出来るし、雑沓もなくなるわけだ、而も一車の定員百二十五人だから四両連結として
一時に五百人は楽々と輸送される
東京地下鉄道夢物語り〔二〕図にした隅田川新大橋の地下 大正十三年八月十四日(木曜日)
地下鉄の停車場は約十一丁半毎に一個づつ全線六十箇所に設けられる、どこから乗っても運賃は十銭均一で、
郊外から都心を通って郊外へ弧線を描く線路は六線であるが、乗換切符でどこの線へも自由に乗れるのは
路面電車とかはらない、この軌道の幅は四呎八吋半の標準式により六百ボルトの電流で運転する線路は大体
函型路下式であるが地勢上やむを得ないところはチュウブ式を用ゐる、図はこの式によって隅田川新大橋附近
の下を通ずる大鉄道管内の鉄道と停車場の光景を示したものであるが、この外に鉄筋コンクリートでトンネル式に
固めた拱型式と種々の関係から本所深川方面には一部高架式が採用される、それも最新式のソリッド・バラステッド
・フラワー式の鉄筋コンクリート構造で音響も殆ど外界の妨げとはならない、元より地震、火事、洪水にも耐へ、
四六時中三七十余両の電車は快速力で東京の地下をかけ廻る事になるのである
東京地下鉄道夢物語り〔三〕高輪東宮御所附近の地下鉄 大正十三年八月十五日(金曜日)
この工事は一哩あたり四百万円、総額二億円の予算である、それもまづ現在の市内電車の混雑を緩和するために急を
要する線は着手後三年目には開通し得る見込が立って居り継続事業として十五箇年間には全部竣成させる計画である、
そこで完成後の実益はどうかといへば現在ですら一日の市電乗客が百二十万人の夥しい数に上ってゐるうへに将来
乗客数の殖える事は自然の勢ひで、予定通りにこの計画が進行しても約二十年の後地下鉄道が出来上がる頃には
優に一日二百四五十万の乗客数を見るに至るだらうから、最大限度に路面電車を拡張してもそれだけではとても
収容出来かねるのをこの地下電車で急速に郊外と連絡をとってドシドシ乗客を運び、電車混雑から来る市民の時間と
労力と感情の浪費を節約して一般の能率増進を図るといふにある―――図は高輪東宮御所附近伊皿子町を通る拱型式
の地下鉄(完)
こちらは、続報?
「市の地下鉄道 測量を開始す 池袋と飯田橋間の第一期線に技師五名出勤」
大正十五年十二月二十三日(木曜日)
長い間難産に悩まされてゐた東京市の地下鉄がいよいよ二十二日から具体的の身支度をはじめることになり、
高速鉄道審査課の西技術係長を中心に五名の技師から組織された測量班は
朝から 空模様を見てゐたが、午後一時十数名の人夫を引きつれて、ボーリングの場所を定むる重大な任務を
帯びて、まづ池袋から飯田橋間の第一期線三マイル半の処女測量に威勢よく出勤した、大道電気局長は語る
住居立入證もいよいよ下付されたので今日から実地測量のスタートを切った、
まづ、池袋の起点から順次鬼子母神付近を通り、面影橋付近の高架予定地を過ぎ
義士銘々伝で名高い堀部安兵衛の遺跡の
付近 を通過し、穴八幡に出で、牛込弁天町、天神町を経て飯田橋の所へ出る
地下鉄道の予定線上をたどって実地の測量をしボーリングの準備をする事になった、
測量は大車輪で来年の一月一杯には完成したいと考へてゐる、そして二年間のうちに
工事を終って交通の不便な同方面の交通上の面目を一新する予定である
なんか、電気局の人がきらきらしてみえる・・・v
池袋から、鬼子母神、面影橋、飯田橋って・・・どういうルートだろう?
ん~、ちょっと調べてみよう。
====================================
~追記~
とりあえず、手がかりに乏しいのでまた神戸大学附属図書館の新聞記事文庫に頼ってみました。
東京市の地下鉄道線決定 鉄道省の特別委員会:中外商業新報 大正十四年二月五日
東京市における現在交通機関として、路面電車、市営及び私営乗合自動車等を有するが
交通の現状は単にこれを以て満足する能わず、帝都交通の根本解決策としては、
高速度鉄道を市内縦横に貫通すべき必要あるは既に一般の認むる所にて、
これが解決をなすべき東京市高速度鉄道路線決定の特別委員会は、三日午後一時
鉄道省に開会、鉄道、内務両省、復興局、東京市の各当局出席し、
東京市の高速度鉄道の計画は、昨年四月までに鉄道省からそれぞれ免許を得て居る、
武蔵野電気、東京地下、東京鉄道、東京高速度鉄道の
四会社の特許線を考慮に入れて立案すべき関係上、右四会社を買収統一する方針で、
市の計画(内容既報)が出来たところその後武蔵野、東京高速度、東京鉄道三会社の
特許を取消されたので残る地下鉄道会社のみを買収すれば統一し得ることとなり、
また鉄道省としても法規上地下鉄道の特許は取消し得ず、これが善後策に就て屡々
各当局会議した結果三日の会合で東京市の執行する地下鉄道路線を左の通り決定した、
なおその様式はペターゼント・ターナー両式の折衷案であると
△第一線 五反田、札の辻、赤羽、御成門、桜田本郷町、芝口、三原橋、和泉橋、徒士町、車坂町、菊屋橋、雷門、浅草駅柳嶋(但し本線は地下鉄道の特許線で市に買収後許可される予定)
△第二線 目黒駅、天現時、六本木、神谷町、虎ノ門、桜田門、馬場先門、宇治橋、新常盤橋、小伝馬町、浅草橋、片町、御蔵前片町、三筋町、三ノ輪、北千住
△第三線 中渋谷、青山六丁目、同一丁目、赤坂見附、虎ノ門、土橋、有楽町駅、須田町、万世橋、本郷三丁目、白山上、巣鴨駅
△第四線 四谷見附、麹町半蔵門、三宅坂、桜田門、日比谷、銀座、築地本願寺前、水天宮前、徒士町、本郷三丁目、春日町、伝通院前、大塚駅
△第五線 池袋、早稲田、神楽坂、飯田橋、神保町、錦町橋、東京駅、永代橋、洲崎
以上路線の交叉点を成るべく少からしむるため、特に本郷三丁目で第三線と第四線と
交叉して居るのをこれを除くため、中渋谷から本郷三丁目に至り、線を取換て大塚に
行かしめ第四線は新宿から本郷三丁目に至り巣鴨に行かしめんと協議中で
この両点は来る十日頃更に協議決定する予定であると
たぶん上の「市の地下鉄道 測量を開始す」の記事は、この計画五路線の第五線めの区間なんだろう。
第一線は早川さんの東京地下鉄道の免許線かな?なんか、今のルートと違うような気もするけど…
(但し本線は地下鉄道の特許線で市に買収後許可される予定)というのは、免許下付のさい東京市が買収しようとしたときに拒めない条件付きだった点をいっているのだろうと思います。
それにしても、東京地下鉄道以外の免許を失効してしまった会社の名前が・・・
「武蔵野電気鉄道」と「東京高速度鉄道」で一文字多いのはどういう事だろう〈笑〉
入れたくなる気持ちもわかるけど。
営団だって「帝都高速度交通営団」っていうんだし、当時の感じとしては地下鉄=高速度鉄道って認識だったのかも。
武蔵電鉄は東横電鉄で、東京高速は小田急の前身なんですよね。こんなところでも因果が。小田急は憶えてないけど、東横は憶えてそうだな・・・このへん。
もうひとつ、後日談で面白い記事が。
東京市営の地下鉄道払下 民間で引受運動起る:大阪朝日新聞 大正十五年八月二十九日
東京市の地下鉄道計画は最近にいたり市債募集上支障を来した関係上初期目的の遂行は困難となったので
適当の時期に右既定線路区域を民間に払下ぐる意向ありというのに対し早くも
大倉組、安田系、川崎系の代表者と更に渋沢正雄氏根津嘉一郎氏等が加わって
資本金二千五百万円五十万株の東京高速度鉄道株式会社を設立することとし
二十七日東京市の計画である既定地下線の払下を陳情するところあり他方に向っても
払下実現の運動を試みているが一方東京地下鉄道会社は地下鉄道統一の必要上市が
直接経営しないとすれば当然既設会社をして連絡敷設せしむることは交通政策上急務であるとし
同社重役は市に向ってその旨陳情に及んだ、然るに根津嘉一郎氏は東京地下鉄道の取締役であると
同時に新計画の会社における中心人物であるから双方に関係し自然板挟みとなっている、
更に某政党方面でも市の既定計画線に対する権利の取得をなすべく極めて秘密裡に画策しているから市といえどもこの際軽々に払下げるということは種々の問題を惹起することとなるべく一般に注目されている
やっぱり「東京高速度鉄道」っていってるなぁ・・・
このへんについては小田急の社史にも記述がありました。
『小田急二十五年史』昭和二十七年十月二十五日発行
当時、東京市の地下鉄道は利光氏一派が敷設免許を所有していた外に、早川徳次氏の創意で、
根津嘉一郎氏を頭首とした東京地下鉄道株式会社の、浅草―新橋間外二線と、
東京横浜電鉄株式会社が獲得していた、渋谷―有楽町間があった。
東京地下鉄道会社は、大正九年八月二十九日に創立され、根津氏の尽力で、
昭和二年十二月三十日、上野―浅草間の開業を始めとし、爾後七回に亙って部分的に開通し、
昭和九年六月二十一日には、予定の新橋迄全通した。
東京横浜電鉄株式会社の敷設権は、工事施工遅延を理由に、後藤新平氏の市長在任当時失効し、
市が建設することとなっていた。
しかし後藤市長が辞任し、つぎつぎと市長の更迭が行われ、市の財政も地下鉄を建設する程の余裕もなく、
荏苒日を過ごしていた。
その間に、東京近郊の電鉄会社の首脳者の間に、共同出資の上、
市の権利を取り戻して、建設しょうという相談が纏まり、
当時の目蒲・東横・玉川・京王・小田原急行の各電鉄会社の役員及び
大倉組が共同して昭和九年九月五日、東京高速鉄道株式会社を設立した。
同社は、昭和十三年十一月八日、青山六丁目―虎の門間を、
同年十二月二十日、渋谷―青山六丁目間を開通し、
昭和十四年一月十五日、虎の門―新橋間と全通をみることになった。
昭和十六年九月一日、この二つの会社は帝都高速度交通営団の名の下に併合されて今日に及んでいる。
あれ、なぜだろう、新聞記事から8年も経っている・・・。
小田急五十年史の方なら、もっと詳しく書いてあるのかもな~。あれ、行間みっちりだし。
この辺の事情は、wikiの「東京高速鉄道」の項目に資金が集まらずに五島さんを迎える事でやっと設立したとあるから、それなんだろうなと。
資金調達に困った大倉組副頭取の門野重九郎氏が、第一生命の矢野恒太氏に相談し、五島さんが助力するなら協力しよう、という話だったらしい。
社長は門野氏、専務も大倉組で、常務が五島さん、取締役は東武・東京地下鉄道の根津さん、それから京王、小田急、王子など郊外私鉄の社長が顔を並べ・・・って、え。なにそこ、気になる。
京王の井上さんがちょうど、昭和3年12月18日~昭和10年12月18日の間、社長だったはずだから、井上さんかな?それに王子と、玉川もいたとすると、ここでも大集合してるのか君ら。
だめだ、取締役のメンツが気になる。ちゃんと紙媒体も調べよう・・・。
東京高速鉄道くんはみんなの子供なんだなぁ。
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~追記の追記~
別記事のほうにしようかとも思ったんですけど、
分かれると参照が面倒になるので長くなるの覚悟でこっちに追記します。
やっぱり小田急50年史の東京高速鉄道の項目に、一連の流れがわかりやすく書かれていました。
『小田急五十年史』昭和五十五年十二月二十七日発行
(大正九年の金融恐慌のため株式募集などが絶望的な状況となり、)
難航したのは東京高速鉄道だけではなかった。このため、資本の重複を避けて効率的運用をはかる意味で、
発足当初から武蔵鉄道を除く三社合併とか、同社を含む四社の大同合併とかをもくろむ動きがあった。
なかでも東京鉄道側の東京地下鉄道(当時東京軽便地下鉄道)への合併の働きかけは根強く、一時は
合併契約を締結するまでに進んだが、会社設立の直前に至って東京鉄道側の発起人のほとんど全員が
株式の引受を放棄するなどのことがあって合併は成立せず、結局、東京地下鉄道を除いて、他の三社の
計画はいずれも挫折し、免許も大正十三年(一九二四年)に失効した。(中略)
この間、政府が従来の七路線七三キロメートルを五路線八〇キロメートルとした新しい高速鉄道網計画を
策定したのを受けて、東京市はこのうち東京地下鉄道の免許線にほぼ合致する一号線を除く他の四路線、
目黒~浅草橋~南千住、渋谷~東京~巣鴨、新宿~日比谷~築地~大塚、池袋~飯田橋~東京~州崎間の
地下鉄道の敷設を申請し、大正十四年(一九二五)に免許を得た。
しかし財政難からこの計画は全く進まなかったため、東京地下鉄道の工事を請追っていた大倉組の門野重九郎、脇道譽などが、大正十五年(一九二六)八月、第二次の東京高速鉄道株式会社を発起し、これに利光鶴松らも加わって、市の免許路線の代行を出願した。これは市の反対によって却下されたが、再三の申請を繰返した結果、昭和六年(一九三一)十二月に至って、市の免許路線のうち渋谷~新橋~東京、新宿~四谷~築地、四谷~赤坂見附間の合計一六・九キロメートルの権利を譲受けることになった。この譲受け契約が鉄道省から認可されたのは翌七年(一九三二)十月で、これによって東京高速鉄道は、やがて渋谷~新橋間を開通させ、すでに浅草~新橋間を開業していた東京地下鉄道と合体して帝都高速度交通営団となるのである…
通史を読むには最適だと思う、小田急の50年史。君は、社会の教科書でも作るつもりだったのかって、位に話が包括的。
大正15年に根津さんらが中心となって東京高速鉄道を発起するまえから、3、4社合同の動きはずっとあったようですね。
でも纏まらずに東京地下鉄道以外はみんな失効と。
ただ、東京高速鉄道(2世)の方の重役陣は、こちらには載ってなかったので、
今度は東急の50年史の方も参照してみたら、ありました。
内容は当然ながら小田急のと重複してはいますが、補足的な部分も多いので、こちらも引用。
『東京急行電鉄50年史』昭和四十八年四月十八日発行
再三にわたって出願した結果、昭和6年12月8日、東京高速鉄道は、東京市長永田秀次郎から、将来は東京地下鉄道と合併することを条件に、東京市の免許線のうち、3線を譲受した。(中略)
東京市が市営を最終的に断念したのは、浜口内閣の地方財政緊縮方針によって、起債認可申請が
昭和4年8月、翌5年9月と再度にわたって却下されたことと、元来、市電防衛のために
地下鉄道市営の方針を打ち出していたにもかかわらず、市電の経営は悪化の一途をたどっているため、
たとえ地下鉄道を建設しても、路面電車ともども収支が償われなくなるという懸念が増大してきたこと、
のためである。(中略)
ところが東京高速鉄道は、昭和8年9月30日までに会社を設立するという条件にもかかわらず、
資金調達が思わしくなく、期限内の会社設立がむずかしくなった。そこで、さらに昭和9年9月30日
まで1か年の延長を申請したため、契約に違反すると指摘されたが、結局、申請は認められた。
会社設立が思うように進まなかったため、門野重九郎は、第一生命社長矢野恒太に助力を求めたところ、
矢野恒太は、「東京横浜電鉄専務五島慶太がこれに参加し、計画が完成できるという見通しがたつなら
助力してもよい」という意向を示した。このときから、五島慶太が東京高速鉄道の建設・経営に参画することとなったのである。(中略)
そして、金融機関・近郊私鉄各社を精力的に説得して資金調達を図り、三井、三菱、住友の財閥系資本をはじめ当時の大手金融機関、近郊私鉄各社の協力を得たのであった。
こうして東京高速鉄道は、昭和9年9月5日に設立された。創立時の資本金は3,000万円で、
本社は京橋区銀座3丁目4番地(昭和10年1月8日、赤坂区表町2丁目15番地に移転登記)であった。
役員は、同月7日の取締役会で次のように互選された。
社長 門野重九郎(大倉組副頭取)
専務 脇 道譽 (大倉商事専務)
常務 五島慶太 (東京横浜電鉄専務)
取締役 井上篤太郎(京王電気軌道社長)
〃 井上敬二郎(前東京市電気局長)
〃 利光鶴松 (小田原急行鉄道社長)
〃 和田 駿 (大倉組取締役)
〃 金光庸夫 (王子電気軌道社長)
〃 根津嘉一郎(東武鉄道社長)
〃 鵜飼重雄 (玉川電気鉄道常務)
監査役 堀井卯之吉(千代田生命)
〃 松本烝治 (元商工大臣、弁護士)
〃 小林一三 (阪神急行電鉄会長)
いやー、それにしてもすごいメンツだ。
東急50年史のほうだと、東京市が諦めて譲ってくれた3路線にそれぞれ「渋谷線」「新宿線」「連絡線」と名前がついていました。
ということは、このあと実現した東京高速鉄道君の路線名は渋谷線で大丈夫なんだな。
東京地下鉄道のほうが、じゃあ「銀座線」かな?個人的には「しぶや君」と「うへのさん」と呼びたいのだけど・・・
しかし「将来は東京地下鉄道と合併することを条件に」東京高速鉄道に免許を譲受って話はほんとだろうか。だとしたら、二人は東京市が決めた許嫁同士で、たんに五島さんが一方的に迫ったって訳でもないんだな・・・。
東京地下鉄道側(早川さん)が了承してたかはまた別の話だろうけど。
うむ、複雑だね。好きです ←
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