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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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『多摩と江戸』(大石学編/たましん・けやき出版)読んでたら、
もう少し詳しい説明が載ってました。

明治14年2月8日 侍従長・山口正定らが連光寺村を訪れ兎の生息調査を行う

これは数日前に行った荏原郡上馬引沢村(世田谷区)での兎狩の獲物が少なく、
さらに郊外で狩猟を行いたいという天皇じきじきのご希望があったからだといいます。
やっぱり、おためしだったんですね>郊外での狩猟天覧

侍従長等は連光寺のあと、八王子・青梅・飯能・所沢(所沢は尾張藩の御鷹場だった)も調査して
18日に明治天皇が八王子付近で狩猟する事を命じます。
予定では18,19日で狩猟を行い20日に還幸する予定だったのが、
天皇自身の希望で急きょ連光寺で兎狩りをすることになりました。
この時の兎狩を余程気に入ったようで、陛下は26日に再び八王子付近で兎狩を希望するも
山口侍従長に止められ諦めたという。(天皇陛下・・・ノ▽`:)

明治15年2月28日 (連光寺で兎狩の直後)連光寺村の山野を「御遊猟場」に指定する通達が
         神奈川県から届く
明治15年3月 連光寺村、乞田村、貝取村、黒川村、坂浜村、百村、大丸村の7ヵ村が
      「御遊猟場」に決まる
明治15年5月31日 正式な指定の告示あり
明治16年7月 正式名称が「連光寺村御猟場」と決まり、以後御猟場と呼ばれる

御猟場指定は明治年から16年にけて群馬県、埼玉県、栃木県、神奈川県などで行われ、
その指定は民間の土地の上に設けることが可能で国土=皇土という王土論の実践と、
皇室財産確保という側面があったという。
また西洋の王室が設けていた御猟場にならい、国貴賓接待にも利用しようとしていたらしい。

明治19年7月 外務次官青木周蔵が神奈川県知事を通じて、北多磨郡長砂川源五右衛門へ
      府中駅、上染谷村組合、烏山村組合、下連雀村組合、深大寺村組合、布田小島組合、
      戸倉新田組合、小川新田組合、小金井村組合、関前村組合の区域での
      期間3年間の御猟場借用を申し入れる
明治19年10月 各組合戸長と約定証を取り交わす

ところが禁猟の制札が建てられ、布田五宿の中村重右衛門と中村克昌らが狩猟権を主張して訴訟を起こした為、この借用は解約となり、翌年、範囲を変更して再度青木側から申し出があるも不調におわります。

これは遊猟場貸渡しによって未曾有の不況からの脱出を試みた郡役所と、
旧自由党党員の権利意識の対立だったといいます。
御猟場指定は兎の頭数確保の為の禁猟により、兎が繁殖して山林や農作物に被害がでる上、民間の狩猟が禁止された為、密猟者の摘発が相次ぐ問題も起き、ありがたい話ばかりではなかったようで。

また行幸の為の道路補修や、狩猟に狩り出される人足の負担も少なくはなく、宮内省から賠償金代わりに下賜金があったものの、御猟場指定解除を希望する農民は多かったといいます。そして

大正6年6月30日 宮内省の方針により御猟場は廃止

昭和2年になると、明治天皇が兎狩を行った連光寺の大松を売り出すという広告が国民新聞に載り、
これを見た元宮内大臣田中光顕伯爵がこの地に注目、地元の富澤政賢らと「聖蹟奉頌連光会」を設立。
連光寺では明治14年に明治天皇の愛馬・金華山号を繋いだ桜木を「御駒桜」と名づけ、すでに聖蹟化がはじまっていたものの、大正6年の御猟場廃止以来、「聖蹟」保存を目的として禁猟区指定の願い出をしたりして御猟場の復活を働きかけていました。

また、聖蹟記念館の建っている土地1万5000坪を無償で寄付したのは調布町の宮川半助氏で、
「幕末維新で多くの勤王の志士を倒した新撰組の局長・近藤勇が宮川家の出で、近藤の罪滅ぼしという意味合いがあった」という。宮川半助氏は宮川家を継いだ近藤の兄、音五郎の孫だそうです。

聖蹟記念館の展示物のなかに、明治天皇ゆかりのもの以外に、新撰組の遺品があったと思うんですが、
それがいかにもちぐはぐで、「へんなの」と思ってましたが、こういう経緯があったからなんですね。

宮川家は甲州街道・布田五宿の一つ、上石原宿の中にあるのだけども、接しているのは甲州街道ではなくむしろ人見街道のほうで、これが一種の「飛び地」だったのだそう。
名主などの役にもついていないのになせか豪農で、上石原宿に組み込まれていながら甲州街道沿いにはない、謎の多い家だそうです。一説に御鷹場を管理する為に置かれた番人なのではないかという話。
今だと野川公園と調布飛行場の間に挟まれた位置となり、近藤神社が建っています。
調布市が、この宮川家を囲う為だけに、ぴょろ~っとしっぽを伸ばしたような形になっていて、
ますます謎なんだそうです。たしかに云われてみると、その通りで、なんだかおもしろい。
>調布市野水1-6-8 野川公園入り口

この、連光寺村の名主・富澤政恕さんは、領主の兵賦(武士の代わりに雇われた領民)として文久3年の
将軍上洛の東海道をお供しています。(のちの新撰組のメンツはこのとき中山道ルートで上京中)
文久4年の再上洛でもやっぱり領主のお供で京都入りし、2月2日に壬生を訪れ土方、沖田、井上らと酒宴。3月3日には土方と井上が富澤氏の宿舎を訪れ清水寺に参拝、祇園の藤屋で酒宴、5日に近藤と藤堂も交え島原の木津屋で酒宴、11日にはさらに武田観柳斎も加えて花見をしています。ものすごい、歓待振りです。
13日の帰還では土方が郷里の手土産にと、自分の日記と鉢金(ひたいを守る防具)を託したといい、
土方歳三記念館にこの鉢金は現存するそうです。

富澤政賢さんというのは、この政恕さんの息子さんで、明治の頃、兎狩りの差配を揮ったのは
この息子さんの方のようです。

ウィキをみると、明治22年6月24日~明治37年年10月5日と明治41年9月28日 ~大正9年11月30日の2度、多摩村長を務めてらっしゃいます。

そして、京王が沿線開発をはじめる昭和30年代、昭和34年5月1日~昭和39年3月31日に
多摩村長を務めるのがそのご子息であろう富澤政鑒さんです。
(富澤政鑒さんは昭和13年度の京王の株主名簿に13株の所有者として既に名前が載っていますが、
これは玉南鉄道の株をそのまま京王株として引き継いだものなんじゃないかな~と予想。)

昭和35年4月10日号の京帝だよりにも桜ヶ丘団地建設の地鎮祭で多摩村長として祝辞を述べたとあります。(『多摩市市制施行30周年記念 旧多摩聖蹟記念館企画展 京王電鉄と多摩市の都市開発』より)
この時、京王が買収した土地は23万坪、工費は8億円の予定で「理想的な田園都市の建設計画を」とうたっています。このころ田園都市って流行ってたんですね。

また昭和36年6月7日付けの京帝36第338号で、多摩村長宛に代表取締役・井上定雄の名義で
新地名を「桜ヶ丘」にしたいという要望書が出されています。
議会はこれを受け入れ、地方自治法第260条第1項にもとづき多摩村の大字小字の一部を廃止、
その区域を「桜ヶ丘4丁目」と新たに画し、昭和37年5月1日から施行しました。
(4丁目からなのかよ?!死番、気にしないんだな・・・)

昭和38年末までに逐次1~3丁目を画す予定だったみたいです。
議案書には「また新地名には、京王帝都電鉄株式会社の要望を参酌し、桜ヶ丘を採用したものである。」
と載っていて、桜ヶ丘の名付け親が京王だったとわかります。

その後、富澤政鑒さんは多摩町長を昭和39年4月1日~昭和46年10月31日、
初代多摩市長として昭和46年11月1日~昭和54年4月30日と、長期にわたって務めますが
昭和53年頃おこった、聖蹟記念館をめぐった汚職疑惑で糾弾され、
多摩ニュータウン名市長として名高い臼井千秋2代目市長にとって代わられます。

どうも、この頃市長個人の借金と、聖蹟記念館の維持費がかなり重なっていたみたいで、
記念館の名義を内緒で書き換えていたり、記念館の土地を勝手に売買しようとしたりしていて、
記念館の土地は、東京都が買い上げて公園とした(都立桜ヶ丘公園と今なってる)ため、
売買契約で手付け金を払った会社側の損失だけで済んだみたいですが、
この辺は読んでてかなり暗い気持ちになりました・・・。orz

多摩市史からの引用の文で、なんか記念館への風当たりが冷たく感じたのは
この辺の関わりからなのかなぁ・・・。T T)

連光寺の記念館に関する事項は、どの本もほぼ八王子の郷土史家・沼謙吉さんの文からの引用で、
沼さんは広報ひのでも、玉南関係の特集を2回程やってくれているので、
個人的に尊敬している御方なのですが、今回の件でさらにその念を深めましたです。
おなはし聞きたい。(*´ン`*)

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続きのようなそうでもないような。
神奈川組だけで飲み会(小田急は不在)というのをやりたかったんだけど、
メンバーに困って横浜線を介入させました。(苦肉)

素で国鉄と書いてしまったけど…………まあ、いいや。


さかさかっと描くつもりが、集中力がほんとになくて、一気にあげられませんでした。
構図のバリエーションのなさに、早くも困ってしまい。漫画らしい漫画ってむずかしいですね。
ネームが疾走している人はうらやましいなぁ。河内先生とか。

フォトショップでセリフを打ちこんでいるときが、一番うれしいです。

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このあいだの聖蹟の話題、引き出しが高校生のときのうすらぼやっとした記憶のみで
歴史的な経緯とかろくな事が話せなかったので、こりゃまずいと思い、数年ぶりに関戸の図書館で
郷土資料をあさってきました。

借りてきた本は『連光聖蹟録』で発行が昭和3年です。聖蹟記念館の設立と同時期に出した物っぽい。
発行所の聖蹟奉頌連光会の番地がなぜか代々幡笹塚だったんで思わず、京王が書いたんじゃないよね?と疑ってしまいました。(本社があった)・・・それはともかく、これによると、

明治14年2月20日 明治天皇、八王子行幸の過程で神奈川県南多摩郡連光寺村に御兎狩
明治14年6月2日  明治天皇、府中行幸で同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治15年2月15日~16日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩
明治17年3月29日~30日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩

明治18年9月22日 昭憲皇太后、同県同郡同村へ鮎御漁
明治20年8月21日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月3日 英照皇太后宮、同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月17日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村へ栗の実、菌御採収
明治21年10月17日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡同村へ地理御見学
明治25年7月1日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治26年10月8日 大正天皇(皇太子殿下)東京府南多摩郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治33年10月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺へ鳥類御猟
明治40年8月2日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治41年6月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治42年7月18日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治43年7月18日 泰宮親王殿下、同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
大正2年8月7日 今上陛下(東宮殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁

で、明治天皇の行幸は4回(兎狩りは3回で鮎漁が1回)までだけど、
その後は皇族の方の行楽地となって、大正天皇なんて9回もきている。
その後、多摩御陵に葬られたことを思うと、多摩が大スッキだったのは
むしろ大正天皇の方だったのかも・・・ね。今上陛下というのは昭和天皇のことですね。

ところが『多摩と甲州道中』(新井勝紘・松本三善夫編/吉川弘文館)に行幸の回数だけでいえば、
そんなめずらしくもないし「比類のない」場所とするのは困難をともなう的な書かれ方をしていて、
「なんだとこのやろうっ」と。
たしかに多摩市はこれといった歴史に乏しい(さがすと14、5世紀まで遡らなきゃいけない)土地だから、これを逃さない手はないという後半の観光資源化の説明には同意できますが、その論理はなんとも乱暴じゃないかと反論してみたくなった。
『連光聖蹟録』に載っている、多摩村長の富澤政賢さんのお話(昭和3年2月19日東京中央放送局にて放送)によると、明治天皇はいつも国務に励まれ侍従が心配してもなかなか休まれることがなかった、
そんな中、明治6年8月の箱根宮への行幸と、八王子及び府中の兎狩りが治世間唯一のご静養遊山に類する行幸であった。ただし皇后陛下、皇太子殿下、内親王様方の御保養はいつも快くお許しになり、時には自らお促しになった。

そんな(公務ではなく)心遊ばせる場所として連光寺をお選びになった、ということが栄誉なわけであって、単純に数のみで「比類ない」と豪語した訳でもないようです。

実際に『明治天皇行幸年表』で数えてみると
公務以外で一番多い行き先は、吹上御苑のようです。これは千代田城内にあり、ようするに庭です。
次がおそらく植物御苑(新宿御苑)で明治13年~19年に回数が集中しています。
明治12年に宮内省管轄になったので、こちらもこのころ皇室の庭であった関係からでしょう。

公務で言うと戸山陸軍学校や士官学校の式典臨席・演習御覧にたびたび赴いていますし、
横須賀行幸・千葉習志野行幸もこれは軍艦に試乗したり、演習を御覧になったりして回数は多いです。
横浜行幸や浜離宮延遼館に行くことも多いですが、こちらは半分は国賓をもてなすためです。

公務(軍事関係)か私事か、分類に困るのが「競馬」です。
横浜行幸のもう半分の用が、この競馬天覧で、日本競馬会競馬場が横浜市にあり
これめあてにたびたび行幸しています。
ほかにも牛込区戸山町の戸山共同競馬会社や、芝区三田四国町の三田興農競馬会へも
たびたび競馬天覧で行幸しているので、これはもう趣味の分類でいいかもしれません。

さて、巡幸のような大規模な移動は一応公務に分類して、先の静養遊山の類の行幸を数えてみますと、

明治3年閏10月29日~11月2日 大宮行幸(氷川神社に参拝)浦和に2泊
明治4年12月2日 浜離宮 狩猟天覧 
明治5年10月8日 王子飛鳥山行幸 紅葉天覧
明治6年3月6日 蒲田行幸 梅屋敷で御観梅
明治6年4月14日~17日 鎌倉行幸 鶴岡八幡参拝、江之島 漁猟天覧・八幡宮に2泊、藤沢に1泊
明治6年8月3日~31 箱根宮行幸 小田原海辺 鯛網天覧、塔ノ沢 鮎漁天覧、
          芦ノ湖 湖上にて漁猟天覧・藤沢に2泊、小田原に2泊、箱根に23泊
明治9年5月4日 麻生区市兵衛町 静寛院宮邸 皇后宮御同列で能楽天覧
明治14年2月6日(世田谷区)駒沢行幸 兎狩天覧
明治14年2月10日 吹上 近衛隊練兵天覧並兎狩天覧
明治14年2月18日~21日 八王子行幸 兎狩天覧◎府中に1泊
明治14年4月26日 吹上 観桜会
明治14年5月9日 麻布区四ノ橋 島津忠義別邸 犬追物・相撲天覧
明治14年6月2日~3日 府中行幸 鮎漁天覧◎府中に1泊
明治14年11月16日 赤坂離宮 観菊会
明治15年2月9日 植物御苑 鴨猟を行はせらる
明治15年2月14日~17日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治16年4月23日 小金井行幸 桜花天覧
明治16年4月24日 浜離宮 観桜会
明治17年3月19日 小向井行幸 梅屋敷で御観梅
明治17年3月28日~31日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治17年11月17日 植物御苑 鴨猟天覧
明治17年12月26日 浜離宮 鴨猟天覧

さすがに遊山の類が箱根と連光寺だけって訳ではないですが、この時点でたしかに最多ではある。
滞在日数も、他と比べると長期です(同じ所に3泊)。

ネットでヒットした「幕末資料館」(http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/meiten3.htm)によると
天皇の狩猟天覧は浜離宮や新宿御苑や赤坂仮皇居で行われいたが、皇居内で近衛を用いて兎狩りをする事に批判があり、郊外の狩猟地の開発が急務であったという。
明治4年の浜離宮の狩猟や明治14年の吹上の兎狩天覧がその一例でしょうか。
とくに吹上にはしょっちゅう出向いている(用事は記載されていない)ので、ここに書かれていない所でもそういう事が行われていた可能性はあります。
世田ヶ谷の駒沢もその一候補だったのでしょうか、郊外狩猟場さがしの「おためし」なかんじがします。

梅屋敷の行幸はネットでは9回となっていますが、その詳しい日付までは探せませんでした。
この中では2回、梅見のために行幸がおこなわれています。それ以外だと、
明治元年10月13日に、明治天皇がはじめて東京へ行幸する時に東海道筋を通っていて、
その御小休場所として梅屋敷を利用しています。
明治元年12月8日には京都へいったん還幸するときにも、同じルートで蒲田を通っており、
明治2年3月27日にも東京再幸で東海道を通っているので、その往来をカウントしているのでしょう。
ただし、明治5年に新橋横浜間鉄道が開業してからは、神奈川方面への移動はもっぱらそれを利用するようになるため、梅屋敷に立ち寄る回数がぐっと減ります。(それこそ梅目当てで)
そして梅屋敷も「聖蹟蒲田梅屋敷公園」としてきちんと聖蹟を冠しています。

これ以外での多摩への行幸は明治16年4月16~20日の飯能行幸(杉並~田無~所沢~飯能)と、
明治13年6月16日~8月26日の三重及京都の長期巡幸(甲州街道ルートで八王子~山梨~長野~名古屋~三重~京都)で通過するのみですね。
飯能へは軍事演習の御覧なので遊山ではないです。
連光寺行幸が4回で、府中行幸が5回なのは、この上記の長期巡幸で通過した為1回多いのであって、
そもそも連光寺と府中の行幸はセットなのです。
このふたつを比べてどちらの方が多いかというのはまず、ナンセンスですね。
『連光聖蹟録』では代々連光寺の名主の富澤家が行在所になったとしていますが、
『明治天皇行幸年表』では府中行幸の行在所は田中三四郎邸に定めたとあるので、基本的に狩りのあとはあくまでコチラに戻って泊まります。
1泊の段階では、翌朝甲州街道から皇居へ戻るのに便利なように最初定めたのでしょうが、
やはり連光寺の山奥では宿泊するのに色々と不便すぎる点があったのでしょう。

たしかに、明治天皇の御泊はありませんでしたが、明治20年10月3日の英照皇太后の行啓では、富澤家を以て御泊所に充てられたとあり、多摩ニュータウン開発時代の本を見ても、富澤家を紹介する時は、そのことが書かれています。
富澤家はパルテノン多摩の公園内に移築して保存されてますし、
田中家も府中郷土の森に保存されていますので、どうぞ機会があったら見にいってみてください。

そうそう、『明治天皇行幸年表』の行幸で対鴎荘も出てきました。

明治6年10月20日 麹町区内幸町 三条実美邸 病を問い給ふ
明治6年12月19日 浅草区橋場町 三条実美邸(対鴎荘) 病気慰問

対鴎荘も、連光寺聖蹟事業の一環として隅田川の三条別邸を移築してきたものです。
老朽化して結局解体してしまったようですが、桜ヶ丘記念館行きのバスの途中に
「対鴎荘前」と名前だけのこっています。
もし現存していたら、アド天でもランクインしたでしょうね。惜しいことです。

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ということで、なんとなく父と子関連のこばなし。

けっこう前からシーンだけ思い付いてたものの、どこにつなげたものかと保留になっていたのを
絵におこしてみました。(パースが不安定で我ながら見ていて不安になる画面だな…。川)

時間があれば他の保留分とつなげてみたいです。

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5時に夢中サタデーでの今日は何の日、歴史解説コーナーで、ライトを取り上げててびびりました。
近代建築3巨匠の一人だそうです。

大倉組が帝国ホテルを設計させたときに、むちゃむちゃな注文を連発して経費を嵩ませるんですが、
大倉喜八郎頭取が金に糸目をつけずに許可だして擁護するものの、
結局がまんしきれずに完成を見ず国に帰っちゃったという、わがままプリンスさん。
(旧帝国ホテルは明治村に玄関部分が保存されているらしい)

それがレゴ・アーキテクチャーシリーズででているよ、という宣伝でした。
個人的には旧帝国ホテル(ハスの池がまん前にある)のカラー写真が拝めたので万々歳です。

ついでにバイキングの由来解説でも帝国ホテルからんできました。>インペリアル・バイキング
「北欧と言えばバイキング」で定着してしまったという雑っぷり(笑)
最近は本来の意味合いのビュッフェが市民権得てきましたけどね。

それにしても、テレビで見る宇多丸さんは落ち着きがなく見えて、集中してお話しが聴けない・・・。
やっぱりラジオのがいいな。

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