たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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このあいだの聖蹟の話題、引き出しが高校生のときのうすらぼやっとした記憶のみで
歴史的な経緯とかろくな事が話せなかったので、こりゃまずいと思い、数年ぶりに関戸の図書館で
郷土資料をあさってきました。
借りてきた本は『連光聖蹟録』で発行が昭和3年です。聖蹟記念館の設立と同時期に出した物っぽい。
発行所の聖蹟奉頌連光会の番地がなぜか代々幡笹塚だったんで思わず、京王が書いたんじゃないよね?と疑ってしまいました。(本社があった)・・・それはともかく、これによると、
明治14年2月20日 明治天皇、八王子行幸の過程で神奈川県南多摩郡連光寺村に御兎狩
明治14年6月2日 明治天皇、府中行幸で同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治15年2月15日~16日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩
明治17年3月29日~30日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩
明治18年9月22日 昭憲皇太后、同県同郡同村へ鮎御漁
明治20年8月21日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月3日 英照皇太后宮、同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月17日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村へ栗の実、菌御採収
明治21年10月17日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡同村へ地理御見学
明治25年7月1日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治26年10月8日 大正天皇(皇太子殿下)東京府南多摩郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治33年10月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺へ鳥類御猟
明治40年8月2日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治41年6月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治42年7月18日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治43年7月18日 泰宮親王殿下、同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
大正2年8月7日 今上陛下(東宮殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
で、明治天皇の行幸は4回(兎狩りは3回で鮎漁が1回)までだけど、
その後は皇族の方の行楽地となって、大正天皇なんて9回もきている。
その後、多摩御陵に葬られたことを思うと、多摩が大スッキだったのは
むしろ大正天皇の方だったのかも・・・ね。今上陛下というのは昭和天皇のことですね。
ところが『多摩と甲州道中』(新井勝紘・松本三善夫編/吉川弘文館)に行幸の回数だけでいえば、
そんなめずらしくもないし「比類のない」場所とするのは困難をともなう的な書かれ方をしていて、
「なんだとこのやろうっ」と。
たしかに多摩市はこれといった歴史に乏しい(さがすと14、5世紀まで遡らなきゃいけない)土地だから、これを逃さない手はないという後半の観光資源化の説明には同意できますが、その論理はなんとも乱暴じゃないかと反論してみたくなった。
『連光聖蹟録』に載っている、多摩村長の富澤政賢さんのお話(昭和3年2月19日東京中央放送局にて放送)によると、明治天皇はいつも国務に励まれ侍従が心配してもなかなか休まれることがなかった、
そんな中、明治6年8月の箱根宮への行幸と、八王子及び府中の兎狩りが治世間唯一のご静養遊山に類する行幸であった。ただし皇后陛下、皇太子殿下、内親王様方の御保養はいつも快くお許しになり、時には自らお促しになった。
そんな(公務ではなく)心遊ばせる場所として連光寺をお選びになった、ということが栄誉なわけであって、単純に数のみで「比類ない」と豪語した訳でもないようです。
実際に『明治天皇行幸年表』で数えてみると
公務以外で一番多い行き先は、吹上御苑のようです。これは千代田城内にあり、ようするに庭です。
次がおそらく植物御苑(新宿御苑)で明治13年~19年に回数が集中しています。
明治12年に宮内省管轄になったので、こちらもこのころ皇室の庭であった関係からでしょう。
公務で言うと戸山陸軍学校や士官学校の式典臨席・演習御覧にたびたび赴いていますし、
横須賀行幸・千葉習志野行幸もこれは軍艦に試乗したり、演習を御覧になったりして回数は多いです。
横浜行幸や浜離宮延遼館に行くことも多いですが、こちらは半分は国賓をもてなすためです。
公務(軍事関係)か私事か、分類に困るのが「競馬」です。
横浜行幸のもう半分の用が、この競馬天覧で、日本競馬会競馬場が横浜市にあり
これめあてにたびたび行幸しています。
ほかにも牛込区戸山町の戸山共同競馬会社や、芝区三田四国町の三田興農競馬会へも
たびたび競馬天覧で行幸しているので、これはもう趣味の分類でいいかもしれません。
さて、巡幸のような大規模な移動は一応公務に分類して、先の静養遊山の類の行幸を数えてみますと、
明治3年閏10月29日~11月2日 大宮行幸(氷川神社に参拝)浦和に2泊
明治4年12月2日 浜離宮 狩猟天覧
明治5年10月8日 王子飛鳥山行幸 紅葉天覧
明治6年3月6日 蒲田行幸 梅屋敷で御観梅
明治6年4月14日~17日 鎌倉行幸 鶴岡八幡参拝、江之島 漁猟天覧・八幡宮に2泊、藤沢に1泊
明治6年8月3日~31 箱根宮行幸 小田原海辺 鯛網天覧、塔ノ沢 鮎漁天覧、
芦ノ湖 湖上にて漁猟天覧・藤沢に2泊、小田原に2泊、箱根に23泊
明治9年5月4日 麻生区市兵衛町 静寛院宮邸 皇后宮御同列で能楽天覧
明治14年2月6日(世田谷区)駒沢行幸 兎狩天覧
明治14年2月10日 吹上 近衛隊練兵天覧並兎狩天覧
明治14年2月18日~21日 八王子行幸 兎狩天覧◎府中に1泊
明治14年4月26日 吹上 観桜会
明治14年5月9日 麻布区四ノ橋 島津忠義別邸 犬追物・相撲天覧
明治14年6月2日~3日 府中行幸 鮎漁天覧◎府中に1泊
明治14年11月16日 赤坂離宮 観菊会
明治15年2月9日 植物御苑 鴨猟を行はせらる
明治15年2月14日~17日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治16年4月23日 小金井行幸 桜花天覧
明治16年4月24日 浜離宮 観桜会
明治17年3月19日 小向井行幸 梅屋敷で御観梅
明治17年3月28日~31日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治17年11月17日 植物御苑 鴨猟天覧
明治17年12月26日 浜離宮 鴨猟天覧
さすがに遊山の類が箱根と連光寺だけって訳ではないですが、この時点でたしかに最多ではある。
滞在日数も、他と比べると長期です(同じ所に3泊)。
ネットでヒットした「幕末資料館」(http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/meiten3.htm)によると
天皇の狩猟天覧は浜離宮や新宿御苑や赤坂仮皇居で行われいたが、皇居内で近衛を用いて兎狩りをする事に批判があり、郊外の狩猟地の開発が急務であったという。
明治4年の浜離宮の狩猟や明治14年の吹上の兎狩天覧がその一例でしょうか。
とくに吹上にはしょっちゅう出向いている(用事は記載されていない)ので、ここに書かれていない所でもそういう事が行われていた可能性はあります。
世田ヶ谷の駒沢もその一候補だったのでしょうか、郊外狩猟場さがしの「おためし」なかんじがします。
梅屋敷の行幸はネットでは9回となっていますが、その詳しい日付までは探せませんでした。
この中では2回、梅見のために行幸がおこなわれています。それ以外だと、
明治元年10月13日に、明治天皇がはじめて東京へ行幸する時に東海道筋を通っていて、
その御小休場所として梅屋敷を利用しています。
明治元年12月8日には京都へいったん還幸するときにも、同じルートで蒲田を通っており、
明治2年3月27日にも東京再幸で東海道を通っているので、その往来をカウントしているのでしょう。
ただし、明治5年に新橋横浜間鉄道が開業してからは、神奈川方面への移動はもっぱらそれを利用するようになるため、梅屋敷に立ち寄る回数がぐっと減ります。(それこそ梅目当てで)
そして梅屋敷も「聖蹟蒲田梅屋敷公園」としてきちんと聖蹟を冠しています。
これ以外での多摩への行幸は明治16年4月16~20日の飯能行幸(杉並~田無~所沢~飯能)と、
明治13年6月16日~8月26日の三重及京都の長期巡幸(甲州街道ルートで八王子~山梨~長野~名古屋~三重~京都)で通過するのみですね。
飯能へは軍事演習の御覧なので遊山ではないです。
連光寺行幸が4回で、府中行幸が5回なのは、この上記の長期巡幸で通過した為1回多いのであって、
そもそも連光寺と府中の行幸はセットなのです。
このふたつを比べてどちらの方が多いかというのはまず、ナンセンスですね。
『連光聖蹟録』では代々連光寺の名主の富澤家が行在所になったとしていますが、
『明治天皇行幸年表』では府中行幸の行在所は田中三四郎邸に定めたとあるので、基本的に狩りのあとはあくまでコチラに戻って泊まります。
1泊の段階では、翌朝甲州街道から皇居へ戻るのに便利なように最初定めたのでしょうが、
やはり連光寺の山奥では宿泊するのに色々と不便すぎる点があったのでしょう。
たしかに、明治天皇の御泊はありませんでしたが、明治20年10月3日の英照皇太后の行啓では、富澤家を以て御泊所に充てられたとあり、多摩ニュータウン開発時代の本を見ても、富澤家を紹介する時は、そのことが書かれています。
富澤家はパルテノン多摩の公園内に移築して保存されてますし、
田中家も府中郷土の森に保存されていますので、どうぞ機会があったら見にいってみてください。
そうそう、『明治天皇行幸年表』の行幸で対鴎荘も出てきました。
明治6年10月20日 麹町区内幸町 三条実美邸 病を問い給ふ
明治6年12月19日 浅草区橋場町 三条実美邸(対鴎荘) 病気慰問
対鴎荘も、連光寺聖蹟事業の一環として隅田川の三条別邸を移築してきたものです。
老朽化して結局解体してしまったようですが、桜ヶ丘記念館行きのバスの途中に
「対鴎荘前」と名前だけのこっています。
もし現存していたら、アド天でもランクインしたでしょうね。惜しいことです。
歴史的な経緯とかろくな事が話せなかったので、こりゃまずいと思い、数年ぶりに関戸の図書館で
郷土資料をあさってきました。
借りてきた本は『連光聖蹟録』で発行が昭和3年です。聖蹟記念館の設立と同時期に出した物っぽい。
発行所の聖蹟奉頌連光会の番地がなぜか代々幡笹塚だったんで思わず、京王が書いたんじゃないよね?と疑ってしまいました。(本社があった)・・・それはともかく、これによると、
明治14年2月20日 明治天皇、八王子行幸の過程で神奈川県南多摩郡連光寺村に御兎狩
明治14年6月2日 明治天皇、府中行幸で同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治15年2月15日~16日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩
明治17年3月29日~30日 明治天皇、同県同郡同村へ御兎狩
明治18年9月22日 昭憲皇太后、同県同郡同村へ鮎御漁
明治20年8月21日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月3日 英照皇太后宮、同県同郡同村多摩川へ鮎御漁
明治20年10月17日 大正天皇(明宮殿下)同県同郡同村へ栗の実、菌御採収
明治21年10月17日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡同村へ地理御見学
明治25年7月1日 大正天皇(皇太子殿下)同県同郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治26年10月8日 大正天皇(皇太子殿下)東京府南多摩郡多摩村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治33年10月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺へ鳥類御猟
明治40年8月2日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治41年6月7日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治42年7月18日 大正天皇(皇太子殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
明治43年7月18日 泰宮親王殿下、同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
大正2年8月7日 今上陛下(東宮殿下)同府同郡同村字連光寺多摩川へ鮎御漁
で、明治天皇の行幸は4回(兎狩りは3回で鮎漁が1回)までだけど、
その後は皇族の方の行楽地となって、大正天皇なんて9回もきている。
その後、多摩御陵に葬られたことを思うと、多摩が大スッキだったのは
むしろ大正天皇の方だったのかも・・・ね。今上陛下というのは昭和天皇のことですね。
ところが『多摩と甲州道中』(新井勝紘・松本三善夫編/吉川弘文館)に行幸の回数だけでいえば、
そんなめずらしくもないし「比類のない」場所とするのは困難をともなう的な書かれ方をしていて、
「なんだとこのやろうっ」と。
たしかに多摩市はこれといった歴史に乏しい(さがすと14、5世紀まで遡らなきゃいけない)土地だから、これを逃さない手はないという後半の観光資源化の説明には同意できますが、その論理はなんとも乱暴じゃないかと反論してみたくなった。
『連光聖蹟録』に載っている、多摩村長の富澤政賢さんのお話(昭和3年2月19日東京中央放送局にて放送)によると、明治天皇はいつも国務に励まれ侍従が心配してもなかなか休まれることがなかった、
そんな中、明治6年8月の箱根宮への行幸と、八王子及び府中の兎狩りが治世間唯一のご静養遊山に類する行幸であった。ただし皇后陛下、皇太子殿下、内親王様方の御保養はいつも快くお許しになり、時には自らお促しになった。
そんな(公務ではなく)心遊ばせる場所として連光寺をお選びになった、ということが栄誉なわけであって、単純に数のみで「比類ない」と豪語した訳でもないようです。
実際に『明治天皇行幸年表』で数えてみると
公務以外で一番多い行き先は、吹上御苑のようです。これは千代田城内にあり、ようするに庭です。
次がおそらく植物御苑(新宿御苑)で明治13年~19年に回数が集中しています。
明治12年に宮内省管轄になったので、こちらもこのころ皇室の庭であった関係からでしょう。
公務で言うと戸山陸軍学校や士官学校の式典臨席・演習御覧にたびたび赴いていますし、
横須賀行幸・千葉習志野行幸もこれは軍艦に試乗したり、演習を御覧になったりして回数は多いです。
横浜行幸や浜離宮延遼館に行くことも多いですが、こちらは半分は国賓をもてなすためです。
公務(軍事関係)か私事か、分類に困るのが「競馬」です。
横浜行幸のもう半分の用が、この競馬天覧で、日本競馬会競馬場が横浜市にあり
これめあてにたびたび行幸しています。
ほかにも牛込区戸山町の戸山共同競馬会社や、芝区三田四国町の三田興農競馬会へも
たびたび競馬天覧で行幸しているので、これはもう趣味の分類でいいかもしれません。
さて、巡幸のような大規模な移動は一応公務に分類して、先の静養遊山の類の行幸を数えてみますと、
明治3年閏10月29日~11月2日 大宮行幸(氷川神社に参拝)浦和に2泊
明治4年12月2日 浜離宮 狩猟天覧
明治5年10月8日 王子飛鳥山行幸 紅葉天覧
明治6年3月6日 蒲田行幸 梅屋敷で御観梅
明治6年4月14日~17日 鎌倉行幸 鶴岡八幡参拝、江之島 漁猟天覧・八幡宮に2泊、藤沢に1泊
明治6年8月3日~31 箱根宮行幸 小田原海辺 鯛網天覧、塔ノ沢 鮎漁天覧、
芦ノ湖 湖上にて漁猟天覧・藤沢に2泊、小田原に2泊、箱根に23泊
明治9年5月4日 麻生区市兵衛町 静寛院宮邸 皇后宮御同列で能楽天覧
明治14年2月6日(世田谷区)駒沢行幸 兎狩天覧
明治14年2月10日 吹上 近衛隊練兵天覧並兎狩天覧
明治14年2月18日~21日 八王子行幸 兎狩天覧◎府中に1泊
明治14年4月26日 吹上 観桜会
明治14年5月9日 麻布区四ノ橋 島津忠義別邸 犬追物・相撲天覧
明治14年6月2日~3日 府中行幸 鮎漁天覧◎府中に1泊
明治14年11月16日 赤坂離宮 観菊会
明治15年2月9日 植物御苑 鴨猟を行はせらる
明治15年2月14日~17日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治16年4月23日 小金井行幸 桜花天覧
明治16年4月24日 浜離宮 観桜会
明治17年3月19日 小向井行幸 梅屋敷で御観梅
明治17年3月28日~31日 府中行幸 兎狩天覧◎府中に3泊
明治17年11月17日 植物御苑 鴨猟天覧
明治17年12月26日 浜離宮 鴨猟天覧
さすがに遊山の類が箱根と連光寺だけって訳ではないですが、この時点でたしかに最多ではある。
滞在日数も、他と比べると長期です(同じ所に3泊)。
ネットでヒットした「幕末資料館」(http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/meiten3.htm)によると
天皇の狩猟天覧は浜離宮や新宿御苑や赤坂仮皇居で行われいたが、皇居内で近衛を用いて兎狩りをする事に批判があり、郊外の狩猟地の開発が急務であったという。
明治4年の浜離宮の狩猟や明治14年の吹上の兎狩天覧がその一例でしょうか。
とくに吹上にはしょっちゅう出向いている(用事は記載されていない)ので、ここに書かれていない所でもそういう事が行われていた可能性はあります。
世田ヶ谷の駒沢もその一候補だったのでしょうか、郊外狩猟場さがしの「おためし」なかんじがします。
梅屋敷の行幸はネットでは9回となっていますが、その詳しい日付までは探せませんでした。
この中では2回、梅見のために行幸がおこなわれています。それ以外だと、
明治元年10月13日に、明治天皇がはじめて東京へ行幸する時に東海道筋を通っていて、
その御小休場所として梅屋敷を利用しています。
明治元年12月8日には京都へいったん還幸するときにも、同じルートで蒲田を通っており、
明治2年3月27日にも東京再幸で東海道を通っているので、その往来をカウントしているのでしょう。
ただし、明治5年に新橋横浜間鉄道が開業してからは、神奈川方面への移動はもっぱらそれを利用するようになるため、梅屋敷に立ち寄る回数がぐっと減ります。(それこそ梅目当てで)
そして梅屋敷も「聖蹟蒲田梅屋敷公園」としてきちんと聖蹟を冠しています。
これ以外での多摩への行幸は明治16年4月16~20日の飯能行幸(杉並~田無~所沢~飯能)と、
明治13年6月16日~8月26日の三重及京都の長期巡幸(甲州街道ルートで八王子~山梨~長野~名古屋~三重~京都)で通過するのみですね。
飯能へは軍事演習の御覧なので遊山ではないです。
連光寺行幸が4回で、府中行幸が5回なのは、この上記の長期巡幸で通過した為1回多いのであって、
そもそも連光寺と府中の行幸はセットなのです。
このふたつを比べてどちらの方が多いかというのはまず、ナンセンスですね。
『連光聖蹟録』では代々連光寺の名主の富澤家が行在所になったとしていますが、
『明治天皇行幸年表』では府中行幸の行在所は田中三四郎邸に定めたとあるので、基本的に狩りのあとはあくまでコチラに戻って泊まります。
1泊の段階では、翌朝甲州街道から皇居へ戻るのに便利なように最初定めたのでしょうが、
やはり連光寺の山奥では宿泊するのに色々と不便すぎる点があったのでしょう。
たしかに、明治天皇の御泊はありませんでしたが、明治20年10月3日の英照皇太后の行啓では、富澤家を以て御泊所に充てられたとあり、多摩ニュータウン開発時代の本を見ても、富澤家を紹介する時は、そのことが書かれています。
富澤家はパルテノン多摩の公園内に移築して保存されてますし、
田中家も府中郷土の森に保存されていますので、どうぞ機会があったら見にいってみてください。
そうそう、『明治天皇行幸年表』の行幸で対鴎荘も出てきました。
明治6年10月20日 麹町区内幸町 三条実美邸 病を問い給ふ
明治6年12月19日 浅草区橋場町 三条実美邸(対鴎荘) 病気慰問
対鴎荘も、連光寺聖蹟事業の一環として隅田川の三条別邸を移築してきたものです。
老朽化して結局解体してしまったようですが、桜ヶ丘記念館行きのバスの途中に
「対鴎荘前」と名前だけのこっています。
もし現存していたら、アド天でもランクインしたでしょうね。惜しいことです。
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