たまろぐ 大分財閥(?)とキーマンについて 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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うーん、京王のまわりが大分県人だらけ!!! Σ/// ゜Д゜)///
という驚きを、どういうふうにまとめたら、上手く伝わるのか、その端緒をここ数日考えてたんですが、
やっぱり、自分が気になった順から書いていくのが、(自分の中で)通りがいいな、と思いまして。

写真は、高幡不動尊境内に立っている、玉南鉄道の碑(碑文の日付は昭和2年10月)です。
題額は当時の鉄相・小川平吉氏。
玉南関係の記述は、だいたいこの表面の碑文によったものが多いと思うんですが、重要なのは、この裏面で。
大正11年設立当時の役員(上段)と昭和の解散当時の役員(下段)の名前が書かれているのです。
これは、日野市郷土資料館調査報告書1の「日野の石碑」(平成20年3月31日発行)にも、
表面の碑文しか載っていないので、自分で撮りに行ったのですが。
ここに載っている、玉南に関係した人たちをすこしずつ、つぶしていく作業を去年から他と同時並行でしてったのですね。

そのなかの、解散当時の相談役に「金光庸夫」という人の名前が、記憶に引っかかってて、王子電軌の社史を読んでて、「この名前、な~んか、覚えあるなー」と思ってたら、「あ!玉南の碑にいたなぁ!」と気付き調べはじめたのです。

普通にウィキに載っている人です。ただ、政治家としての記述が主で、京王、その他の鉄道会社との関わりは省略されているのでわかりにくいですが、代表的な肩書きは「大正生命保険」および「王子電気軌道」の社長です。

ただ、井上さんが会長職に退き、穴水熊雄さんが社長に就任する間のわずかな時期に、
社長を務めているんです。つまり、王子と京王、両方の社長経験がある!!
これ、けっこう見逃せない繋がりだと思うんですが、どうかな。

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「京王電車回顧十五年」の写真と王子の社史を見比べるとわかるんですが、
この頃の京王と王子の役員て、すげー重複してるんですよ。

大正8年度の株式年鑑をみてると、京王と王子の役員は、こう。

 「京王電気軌道」 東京府豊多摩郡代々幡村幡ヶ谷
設立 明治43年9月21日
資本金 125万円(払込済)
株数 2万5000株(額面50円 払込済)(大正7年3月払込終了)
重役 会長・藤井諸照、専務・井上篤太郎、取締役・井上平左衛門、小田切忠四郎榛葉良男
   金光庸夫、渡辺嘉一、監査役・山口憲、上山良吉、相談役・和田豊治、森村開作

 「王子電気軌道」 東京府北豊島群巣鴨町大字巣鴨
設立 明治43年4月
資本金 300万円(内払込150万円)
株数 旧株 2万株(額面50円 払込済)
   新株 4万株(12円50銭払込)
重役 社長・植村俊平、常務・榛葉良男、取締役・広橋嘉七郎、小野耕一、福田祐二、宮本政次郎、
   金光庸夫、監査役・佐々田懋、山田八三郎、山口憲、相談役・和田豊治、森村開作井上篤太郎

前に大正7年6月25日付の王子京王の合併予想記事を紹介したと思うんですけど、

「東京市外の王子電車軌道会社並に京成電気軌道会社等の郊外電車鉄道は久しく経営困難に苦しみつつありしが、両社共近年森村銀行系及び富士瓦斯関係者の入りて大株主となり重役を更迭して自社関係者を出し経営せしむるに及び幾分其経営方法も改善せられたると共に両社の実権者たる森村、富士瓦斯関係者間には両社の合併計画を開始し」
たというのが、これにあたるんだろう。王子の社史には

「更に同年秋、北濱銀行破綻に基因し、同銀行所有株式一万二千株を神戸鈴木商店、東京森村銀行に競落の結果、再び重役に変動を来し、同年十月三谷社長退き、次いで同月の臨時株主総会に於て植村俊平社長に、榛葉良男氏常務取締役に、岡烈、宮本政次郎の両氏各取締役に就任す。」
とあるとおり、神戸鈴木商店=大正生命系と、森村銀行=富士瓦斯紡績系が北浜銀行系だった電気信託会長の三谷軌秀氏と入れ替わりにはいります。

この中の、和田豊治、森村開作、藤井諸照、榛葉良男、小田切忠四郎、井上篤太郎などが少なくとも富士瓦斯紡績からの出向であり、植村俊平、金光庸夫、岡烈が大正生命からの出向になります。
山口憲氏はよくわかんないf^ ^;

ちなみに、同時期の玉川がこう。

 「玉川電気鉄道」 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷
設立 明治40年3月
資本金 250万円(内払込80万円)
株数 旧株 1万6000株(額面50円 払込済)
   新株 3万4000株
重役 専務・津田興二、取締役・青山孝宜、早川政広、藍?田奥造、北川礼弼、井上篤太郎、
   棟居喜久馬、兼支配人・永井菅治、監査役・村上定、藤井諸照、相談役・和田豊治

「和田豊治伝」では、この玉川、京王、王子の救済を和田氏の財界世話業の一端のように扱っています。
榛葉良男氏(富士紡小名木川工場長)ははじめ京王の支配人として入ったらしいのだけど、
王子の件が持ち込まれるや「大正5年10月に京王からぬいて、王子の専務にした」とある。
けど、名簿上の役職は常務ですね。
「京王電車回顧十五年」での表記は、金光庸夫氏、津田興二氏、榛葉良男氏が取締役で、
植村俊平氏が相談役となっています。

======================================

植村さんは大阪市長として市電の整理をしようとしていたようですが、
明治45年(大正元年)市長辞任後に実業界へって、鈴木入りしてたのか。
この大阪市電の話は、東京市電発足と時期的にも近いですね。(=wiki)
九州鉄道の支配人から国有化で、鉄道院理事になり、九州鉄道管理局長も経験。
王子の経営再建には適任だったのでしょう。

金光氏に話を戻しますが、その前に、もう一人重要なキーマンがいます。岡烈氏です。
明治43年9月の京王電気軌道の創立総会で、創立委員長の牟田口元学氏が議長となり、
利光氏が選任した重役陣の中に、すでに岡氏の名前があります。↓

取締役社長 川田 鷹氏
専務取締役 利光丈平氏
  取締役   豊原基臣氏
   同     太田信光氏
   同     井倉和欽氏
   同     濱 太郎氏
  監査役   吉田幸作氏
   同     岡 烈氏

そして大正6年の京王の年表に「5月25日取締役岡烈氏逝去、6月18日金光庸夫氏取締役に就任」
王子の社史に「大正六年五月岡取締役死去す、同年六月金光庸夫氏取締役に就任す」
とあるように、岡烈氏の死によって、金光氏が京王・王子においてその跡を継いだ事がわかります。

『大日本人物誌』(明治人名辞典Ⅲ)によると、岡烈さんの経歴はこのようなかんじ。
「旧山口藩士岡治助の長男、元治元年四月二十三日安佐郡舟木村に生る、
明治二十二年九月家督す夙に郷里の松下塾に入り漢籍を修む後
上京して明治法律学校に入る後 職を大蔵省に奉じ税務官となり
金沢、広島、小倉等の各税務署に勤務す
明治三十九年官を辞して身を実業に委し神戸鈴木商店の支配人となる」

一方の金光さんは『財界フースヒー』(日本産業人名資料事典 Ⅱ)によると
「明治十年三月大分県宇佐郡高家村に生る 金光芳蔵の二男にして同三十一年家督を相続す
夙に官界に入り税務署長長崎税関熊本税務監督局等に歴任す
同四十一年転じて神戸鈴木商店に入り実業界の人となる後
太陽生命保険会社取締役支配人となり尋で大正生命保険会社を創立し
現に其の専務取締たる…」とあります。

さらに小川功さんの「京王グループの系譜」(鉄道ピクトリアル)には
「明治41年上司の岡烈とともに鈴木商店に入り」とあり
税務官時代からの上司部下関係だったらしいのです。

「和田豊治伝」では才賀氏所有の王子の株が北浜銀行(大阪)に抵当流れになっているのを
東京の資本家で肩替わりしようとの話になった時に
「岡烈君等は此の事を森村家に相談するや森村男等は之に応ずることとなり」
とあるように、王子に関しては岡烈さんが森村さんに話を持ち込んだようなのです。

金光さんが創立したといわれる大正生命にしても、大正5年度の株式年鑑では

「大正生命保険」 東京市麹町区有楽町1丁目3
設立 大正2年
資本金 50万円(内払込 12万5000円)
株数 1万株(額面50円 内払込12円50銭)
重役 取締役社長・柳原義光、専務・岡烈、取締役・植村俊平、荒井泰治、下阪藤太郎、藤田助七、
   金光庸夫、監査役・鈴木岩治郎、金子直吉、柳田富士松

とあるように、元々は岡烈さんが専務で金光さんは平取締役でした。
おそらく岡さんの死後、こちらもまた引き継いだのではないかと。
監査役3名は鈴木商店の中核です。
ちなみに大正生命社長の柳原義光氏は伯爵、鈴木商店系のもう一つの保険会社、
日本教育生命保険の社長も兼ねています。金光さんが社長になるのは昭和になってから。

「大正生命社長に金光庸夫氏」昭和九年二月二十日(火曜日) 読売新聞
大正生命では今回柳原義光伯の社長辞任に伴ひ重役互選の結果
現専務金光庸夫氏当選し専務を兼ねる事となったが二十八日の
総会に於て後任取締役を選任の筈


という記事があります。おそらく「ダンスホール事件」が響いているんではないかと。時期的に。
しかし、大正生命の創立は大正2年で京王の開業と同年。
岡さんはその前は何をやっていたかというと、

「千代田瓦斯」 東京市芝区浜松町2丁目23番地
(東京瓦斯会社と合併の予定)
設立 明治43年5月14日
資本金 1000万円(内払込額 250万円)
株数 20万株(1株額面50円、内払込12円50銭)
役員 社長・利光鶴松、常務・岡烈、磯野保次、取締役・桂二郎、金子直吉、林謙吉郎、河合芳太郎、
   岡本榎?監査役・神野金之助、平沼専蔵、三枝守富、中山佐市、木村省吾
(株式年鑑・明治45年度)

なんと千代田瓦斯の常務。利光さんの会社の関係者だったのね~。
取締役に鈴木の大番頭・金子氏がはいってるってことは、鈴木が関係してたのかこの会社。
大正3年度の株式年鑑では千代田瓦斯の面々が、合併によりこっちにも移ってきてます。

「東京瓦斯」
設立 明治18年10月
資本金 4500万円(内払込 3100万円)
株数 新株43万株(額面50円払込済)
   旧株56万株×(25円払込)
重役 社長・高松豊吉、副社長・久米良作、取締役・浅野総一郎、大橋新太郎、渡辺福三郎、
   袴田嘉四郎、種島甲子三、平松末吉、利光鶴松、岡烈、磯部保次、林謙吉郎
   監査役・渡部朔、伊藤幹一、若尾民造

利光さんが、京王の監査役に岡氏を選んだのも、このつながりかな。
もしかして、千代田瓦斯合併後の受け皿も兼ねていたのか・・・京王。
そういえば、出身校も明治法律学校で、利光さんと一緒ですね。


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なんだか、長くなりすぎる上に、どんどんタイトルから乖離してきているので、
やっぱり一つ一つ全部話すのはやめて、とっととまとめます。
大正生命に関しては、まだ全部のデータ確認出来た訳じゃないし・・・。いつか別項で。

とりあえず、金光さんあるところに、後藤国彦さんあり、みたいなかんじで、
川崎系と行動を共にしているのが気になるんですが、検索しても、川崎系の研究本読んでても、両者の関わりがさっぱりぽん。見つけられないのでして。?

鈴木商店が、震災手形だかの整理のあおりを食って、共依存関係だった台湾銀行からぶっちされ、倒産するのが昭和3年4月。
昭和恐慌内の大事件として数えられるんですが、鈴木傘下だった大正生命も当然影響を受けたはずで、代わりにこの頃、何故か台頭してくるのが川崎財閥系。
だから、もしかしてこの時に川崎傘下になったのかな?と仮説をたててみたのですが、
それを立証出来るような資料に行き当たらなくて、よくわからない。

帝人事件も多少読んでみたけど、全体像がでかすぎて、いまだに全容掴めてません。
帝国人造絹糸会社はもともと鈴木系列の優良会社で、鈴木倒産後、台銀の担保から引き出そうと色々な会社が挑戦するもののうまくいかず、鈴木復活を画する金子直吉さんが郷誠之助を慕う会の番町会メンバーを通じて多量の株の買い戻しに成功をしたことを、財界世話人が大嫌いの武藤山治時事新報社長が番町会批判を絡めて不正指摘して、よくわからない内に、政財界の有力者が多数検挙される、という事件なのですが…。

昭和9年12月27日、28日の新聞には「三土、中島両氏以下16名を公判に回付 免訴は1人高梨博司氏」「大蔵省事件に予審免訴一名 高梨博司氏と見らる」などと書かれ、
川崎財閥中枢的人物の高梨氏にも容疑がかかっていたようです。
しかし、番町会の中心的メンバーは後藤国彦氏のはず、なぜに高梨氏に…?
そもそも「免訴」ってなんなんだ(笑)不起訴じゃないのか。
後藤さんはもともと、郷さん(川崎財閥と血縁関係をもち、関係が深い)の推薦によって、川崎入りした恩があるのですが、つまりは川崎の外の人なんだな。
だからか、たびたび川崎八右衛門さんから裏切りを受けている…。
高梨さんは川崎第百銀行常務監査役で内側の人なのかな。
後藤さんと一緒に、方々の鉄道会社に顔を出してるんだけど、具体的に何をやったのかは不明。

この事件で川崎資本を根拠に京王・王子・京成の合併をわりと強く慫慂していた三土忠造鉄道大臣が捕まり、辞めるはめになってるのがまた因縁くさいというか。
この事件、なにか川崎と直接の関わりがあったんでしょうか?そこまで、詰めてない(というか興味が尽きた…)のでわかりませんが。

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はてさて、ここでやっと大分県人なのですが、関係者の名前でヒットした文献の中に
「大分県人士録」(大正3年発行)というのがあって、
なにやらどこかで見たことがある名前がずら~~~~っとなってたんですね。
抜き出すと、だいたいこんなかんじ↓

貿易商 甲斐織衞
前三井同族會理事 朝吹英二
玉川電氣鐵道會社長 津田興二
逓信大臣 元田肇
富士瓦斯紡績會社専務取締役 和田豐治
鬼怒川水力電氣會社長 利光鶴松
鐵道院技監 石丸重美
横濱正金銀行頭取 井上準之助
京王電氣會社長 利光丈平
富士瓦斯紡績會社營業部長 高橋茂澄
千代田組商會主 朝吹常吉
實業家 中上川次郎吉
鬼怒川水電會社事務部長 利光學一

利光さん一族がまず大分県出身なんですよね。

んで、和田豊治さんと津田興二さんが同郷なんですよ。
もともと玉電が富士紡の水力発電電気を買うようになったきっかけというのが、
同藩同郷が集まる会合での和田さんと津田さんの「電気あまってんだけど、いる?」
「いる!ついでに玉電の資金もだしてくれたら!」ていう合意だったらしい。

朝吹常吉さんは朝吹英二さんの息子で、のちの帝国生命の取締役。
昭和13年5月時点で、大正生命と川崎の第1第2大株主が抜けた後の、
大日本電力に次ぐ大株主がこの帝国生命です。つっても一位と二位が、一桁ちがう・・(^ ^;
帝国生命(のち朝日生命)は古河財閥系だったらしいんだけど、菊池さんの本によると財閥解体後、
古河は第一銀行(のち第一勧業銀行)をよりどころにした為、今では一勧系らしい。
ちなみにこの朝日生命、多摩センター駅前に文書関連扱う本社がある・・・偶然かねぇ。

中上川次郎吉さんは中上川彦次郎さんの息子です。当然お父上も大分出身。
中上川彦次郎さんは慶應義塾卒業後、留学先の英国で井上馨の信任を得て、井上工部卿の推薦で工部省に入り、井上さんについて外務省に移り、14年の政変で官を辞したのち、時事新報社社長、山陽鉄道社長を経て、井上さんの推挙で三井銀行理事に主任。
三野村さん亡き後の三井改革を断行し、鐘紡の経営危機には、朝吹英二、和田豊治、武藤山治を引き連れ、自ら乗り込んでこれを再建。三井家との対立を深くし、三井を去りました。(「日本の15大財閥」)

和田豊治、武藤山治両氏は鐘紡内でそれぞれ頭角を現すものの、
旧来の設備で稼働する和田さんの向島本社と、新鋭の設備で万端な武藤さんの兵庫支店の成績で、
手腕比較がなされ和田武藤優劣論が社内に興り、両者の対立も深まるなか、中上川さんも和田さんをかばいきれなくなって、和田さんは鐘紡をやめ、経営難にあった富士紡績に請われて小山工場へ入る。
このとき森村さんは、朝吹英二さんを訪ねて、和田さんの富士紡入りの環境整備に努めたという。
そして和田さんは富士紡を鐘紡に負けない大紡績会社へと成長させるために心血を注ぐ。
以前紹介したこの時の記事はそんな二人の因縁を背景としたものだったのですね。
和田さんも武藤さんもお互いを超意識してたみたいです。
武藤さんの財界世話人嫌いは和田さんに端を発しているとおもわれます。
それが帝人事件にまで発展・・・。因果は和田さん亡き後も廻ったというか。
ちなみに富士紡は、大正9年上期に普通配当5割の上に特別配当8割の、
合計13割という、異常配当を実現しています。13割・・・ありえるのか。鐘紡を意識しすぎ(笑)

そしてこの中上川さんは福沢諭吉(中津藩出身で慶應義塾を設立)の甥っ子だという。
だから、中津藩出身の人は大抵慶應義塾に入る。

一番上の、貿易商 甲斐織衞というのはアメリカで甲斐商店という店を開いていて、
和田さんはサンフランシスコ滞在中、そこで働いていていました。
それで訪米中だった、森村さんに見物にさそわれたことがあったらしい。
甲斐さんはもともと森村ブラザーズ(森村豊さんのニューヨークのお店)で働いていて、
独立した人。
この頃の森村組は、渡米してくる福沢門下生の拠点になっていて、
福澤諭吉の二人の息子さんが渡米した時も、森村さんに「息子をくれぐれもよろしく」と手紙をよこしたそう。

ここには載ってませんが、前述、金光庸夫さんと後藤国彦さんもなんと、大分出身です。

・・・ようするに、京王の経営においてだいたい
利光さん一族→森村・和田さんの富士紡組→金光・後藤の川崎大正生命組と3段階あり、そのどれにも大分県出身者が影響を持っていたという、それだけの話です。長かったな・・・。

あ、ついでに、京王の常務の渡辺孝さんですが、「郷里の先輩和田豊治に認められ富士瓦斯紡績小山工場技師長に就任の傍ら、玉川電気鉄道取締役、王子電気軌道工務課長を兼ね、京王営業部長を経て昭和3年取締役就任、理事・営業部長、8年5月京王常務就任、京王砂利監査役、甲州街道乗合自動車監査役、豊洲鉄道相談役、東都乗合自動車取締役、山手乗合自動車取締役」(「京王グループの系譜」)という、これまでの話を体現するような、見事な大分県人でした(^ ^;;;)

さすが、小川功さん、情報の精度がちがう・・・プロや・・・。

======================================

あ~、で一番冒頭の写真、ちょうど同じ日に撮ってたんで載せたんですが、
大分県とは関係なくてですね、
玉南の碑に「取締役 森久保善太郎、商議員 森久保作蔵(成立当時役員)」とある
森久保親子のお父さんの方の献納と思われる石柱が、
高幡不動入り口の一番正面の所に立ってたんで「おお」っと思ってパシャリ。
森久保さんは星亨亡き後の自由民権運動の壮士を率いる首領でして、
高幡・七生村の出身なので地元派・・・に入るのかな。
多摩出身なので、米国の政治団体にかけて「タマニー派」とかいわれて、
夜の東京市長、と異名をとる程の、東京市政に影響を持っていた人です。
京王電気軌道の発起人の名簿にも名前があり最初期からの関係者…(ちなみに根津さんもいる…)
森久保善太郎さんは作蔵さんの跡継ぎで、京成電気軌道の取締役でもあったんですが、
大正12年2月4日に狭心症のため、急逝してしまいます。
玉南の碑、解散当時の役員の中に名前がないのはそういう理由でしょう。
おおう・・・わずか数年間しか存在しなかった会社なのに色々起きるもんです。
鬼怒川水力電気の役員でもあったようなので、利松さんとの関わりが深かったんでしょうね。以上

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