たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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(元)交通博物館の所蔵一覧のなかに「走れ小田急」(鴨志田晃尚 江ノ電沿線新聞社1987)というのがあって、ついこのあいだ流行った「走れメロス!ったー」http://shindanmaker.com/134466 を思い出して一人で大いにツボ笑いでした。
小田急は激怒した!→渋谷支社に悪態つく→ナイフ持って上野毛邸に侵入→あっさり捕まる(五島&大川さんの策に)→全力疾走→大東急撲殺→京王に殴られる→京王殴る→抱擁→帝都が布を渡す→赤面→完
う、うん・・・、ひどいな・・・(汗汗)
ちなみに上野毛邸というのは五島さんのお住まいです。
公職追放中も、ちょくちょく東急の役員が訪ねにいってて、小林中さんがへそを曲げたとかなんとか。
東急解体で内輪もめしてたときに、分離反対側の渋谷目黒の代表が会いに行ったら、すでに新宿(小田急)の独立側が来た後で、逆に五島さんに分離に納得するよう説得さて返されたとか、そんな話が東急外史の方にたしか・・・。
てか、鉄道省文書の南武鉄道の項目みてええ!とくに大正から昭和になりかけの頃の。
大宮にいっちゃってから、どこに保管されてるんだろう?
または国立公文書館内なら公開されてるのかも・・・。ひいいい。入りづら!
マイクロフィルムとか、検索も、可読機触った事もないわ。
=====追記============
あった。てっぱくライブラリーの方に移されてるらしい、らしいけど・・・
開架閲覧は休日で、マイクロフィルムは予約制の上、平日ってなんだよおおお~~;
どっちもいっぺんには無理なのか、予約ってのがハードル高い。
入館料はおしむなってことですか。
おかしいなぁ、前に資料目当てで行った時、それらしい部屋が見つからなくて、
がっかりして帰ったんだけど・・・。節穴すぎる。あれ、平日だったからかな?
まあ、今そこまでして、早急に確認したい事項もないですが・・・。
井上さんが、いつぐらいの時期に社長になったのかが、ずっと謎だったんですけど
30年史の年表舐めてたら、あった。
昭和3年12月18日に、「専務取締役から取締役社長兼専務取締役とな」ったらしい。専務続行って、兼業って。ということは、玉南と関わってた時期は、まだ「専務」呼びでいいってことか・・・。
昭和10年12月18日の第52回定時株主総会で老齢かつ、会社の見通しもついたので社長を引退、しかし関係維持を望む声多かったため、
昭和11年の1月15日の臨時株主総会で、定款に会長制を盛り込んで、井上さんに会長になってもらった。意外と社長期間みじかいですね。
むしろ、玉南合併の契約書で、玉南側のサインが府中の関田さんってことのほうがビビビっときたー!
関田家文書のほうがおもしろいもの転がってそうだなぁ。どこにあるんだろ。
南武鉄道の趣意書かなんかも関田さんちに残ってた気がする。
南武開業前後の京王との関係が気になるんだ、知りたいんだーーーーあ!!
小田急は激怒した!→渋谷支社に悪態つく→ナイフ持って上野毛邸に侵入→あっさり捕まる(五島&大川さんの策に)→全力疾走→大東急撲殺→京王に殴られる→京王殴る→抱擁→帝都が布を渡す→赤面→完
う、うん・・・、ひどいな・・・(汗汗)
ちなみに上野毛邸というのは五島さんのお住まいです。
公職追放中も、ちょくちょく東急の役員が訪ねにいってて、小林中さんがへそを曲げたとかなんとか。
東急解体で内輪もめしてたときに、分離反対側の渋谷目黒の代表が会いに行ったら、すでに新宿(小田急)の独立側が来た後で、逆に五島さんに分離に納得するよう説得さて返されたとか、そんな話が東急外史の方にたしか・・・。
てか、鉄道省文書の南武鉄道の項目みてええ!とくに大正から昭和になりかけの頃の。
大宮にいっちゃってから、どこに保管されてるんだろう?
または国立公文書館内なら公開されてるのかも・・・。ひいいい。入りづら!
マイクロフィルムとか、検索も、可読機触った事もないわ。
=====追記============
あった。てっぱくライブラリーの方に移されてるらしい、らしいけど・・・
開架閲覧は休日で、マイクロフィルムは予約制の上、平日ってなんだよおおお~~;
どっちもいっぺんには無理なのか、予約ってのがハードル高い。
入館料はおしむなってことですか。
おかしいなぁ、前に資料目当てで行った時、それらしい部屋が見つからなくて、
がっかりして帰ったんだけど・・・。節穴すぎる。あれ、平日だったからかな?
まあ、今そこまでして、早急に確認したい事項もないですが・・・。
井上さんが、いつぐらいの時期に社長になったのかが、ずっと謎だったんですけど
30年史の年表舐めてたら、あった。
昭和3年12月18日に、「専務取締役から取締役社長兼専務取締役とな」ったらしい。専務続行って、兼業って。ということは、玉南と関わってた時期は、まだ「専務」呼びでいいってことか・・・。
昭和10年12月18日の第52回定時株主総会で老齢かつ、会社の見通しもついたので社長を引退、しかし関係維持を望む声多かったため、
昭和11年の1月15日の臨時株主総会で、定款に会長制を盛り込んで、井上さんに会長になってもらった。意外と社長期間みじかいですね。
むしろ、玉南合併の契約書で、玉南側のサインが府中の関田さんってことのほうがビビビっときたー!
関田家文書のほうがおもしろいもの転がってそうだなぁ。どこにあるんだろ。
南武鉄道の趣意書かなんかも関田さんちに残ってた気がする。
南武開業前後の京王との関係が気になるんだ、知りたいんだーーーーあ!!
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