たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
京王のもともとの発起人の名前を「渡辺熊之助」と勘違いしてたんですが、今回、本を読んで「渡辺熊之進」でよかったんだと、あらためて気づかされ「!!!」てなってました。
「一文字違いだな~」とか、おもってたんですけど、それなら玉川の発起人と同名ですね、っていうか多分に同じ人物ですね。
「渡辺熊之進」で検索して出てくるこちらのページ
>http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1993/13-0221.pdf
によると、玉川電気鉄道は、もともと「玉川砂利鉄道」というその後の玉川電鉄の前身とされる会社と、「玉川電気鉄道」という同名の別の会社の出願路線があわさったものらしくて、それぞれの会社の発起人筆頭が「渡辺熊之進」さんと、初代駒沢村村長の「谷岡慶治」さんなんですが、京王の前身の前身の前身の会社の日本電気鉄道の発起人名も、「渡辺熊之進 谷岡慶治 秋本喜七(以下略)」なんですよね。
渡辺熊之進さんは、明治36年10月4日に専務取締役に就任し、玉川線開業にむけて尽力していたんですが不況で用地買収などが進まず、その責任を取って、明治38年8月15日に平取締役に転任、明治39年1月3日には取締役も辞任ということに(東横の社史では)なってるのですが、(上のページの4月12日てのは何処の出典だろう?かすってもいないのが謎)ちょうど、かぶるように日本電気鉄道の出願が明治38年12月12日になってるのですよね。
それって、つまり渡辺さんが平取締役に降格して数ヶ月後に、京王の路線を出願し会社を立ち上げたということ?
玉川で失敗したから、次は京王で挽回、ということだったのだろうか・・・。コリテネー
いままでちょっと、玉川さんは昔から京王を知ってる「親戚のお兄ちゃん」って立ち位置のつもりだったんですけど、ここまでいくともう「実兄弟」の域ですね。
うわー、うわー。
それはそれで、いいですけど、それ気づいてるのは玉川さんだけかな。
でも、京王は京王で、もともと蒲田~調布~府中~立川にいく本線のお兄ちゃんが(出願の段階では)いたので、結局、支線であるはずの新宿~府中である自分が認可され本線になった経緯をみると、あっち方面(玉川)の親しげな年上の存在って、けっこう重いと思うのですけど、どうかな!?(ひといき)
ところで、この「調布」って、田園調布と、布田調布と、どっちの調布だろう・・・直線ルートできたら、どっちも通るからどっちでもいいのか(適当)
ウソじゃないっすよ!?ウソじゃないっすよーーーー!!!
==============================
あーびっくりた、あー。
京王電軌の三十年史の年表を写してたら、大正2年4月7日に「笹塚変電所(100kW)が完成し東電及び玉電より受電」とあって、「はっ?」゚Д゚)ってなりました。
あ、あれ・・・?開業前から、玉川さんから電気もらってたの?(京王の開業日は4月15日)
もともと東京電灯からは電車の動力用に125kWを買ってるんですが、玉川さんも同時に??いやいやいやいやって。
たしか、前に笹塚(新町)~調布開通後の頃、玉川さんから電気を送ってもらうようになって、「サイズ的に一番小さい京王になるかな」てどっかで書いたと思うんですけど、そのつもりでネームも書いてたんですけど、そこひっくり返されると割と真面目にデラピンチ!!
で、東電さんの本とか玉電さんの本とかで確認したんですけど、やっぱり、三十年史の記述はちがうみたいです。
宮田道一さん監修の玉電さんの年表によると、「大正4年4月2日玉川電鉄は京王電軌への電力供給の許可を得る。ただちに供給を開始」ってなってて、東電の本には「1915年に玉川電気鉄道から受電(4月から電車運行用に150kW、12月から電灯供給用に150kW)が開始された事に伴い東京電灯からの購入は中止され、府中火力発電所も廃止された」とあるので、あー、やっぱり大正4年でいいんだよね、びっくりした、となりました。
まさか公式にエイプリルフールかまされるとは。
ちなみに、井上篤太郎さんが、大正2年の3月17日に玉電の取締役支配人になってるので、駒沢変電所はまだ出来てないけど、もしや玉川さんの火力発電所の電気で・・・?と一瞬思ってしまいました。
富士瓦斯紡績さんの電気を送電してもらうためにたてた、玉川の駒沢変電所は大正2年10月から始動するので、ふつーに考えたら、他社に送電するのはそれからですよね。
京王ヒドイ
ちなみに、玉川さんと京王の出会いを設定したのは、この玉電の年表で玉川から京王へ「ただちに送電開始」の部分に反応したからです(私が)。
これで玉川→京王になったといっても過言ではなく・・・。宮田さんサイコ-!ありがとう!!(黙れ変態)
「一文字違いだな~」とか、おもってたんですけど、それなら玉川の発起人と同名ですね、っていうか多分に同じ人物ですね。
「渡辺熊之進」で検索して出てくるこちらのページ
>http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1993/13-0221.pdf
によると、玉川電気鉄道は、もともと「玉川砂利鉄道」というその後の玉川電鉄の前身とされる会社と、「玉川電気鉄道」という同名の別の会社の出願路線があわさったものらしくて、それぞれの会社の発起人筆頭が「渡辺熊之進」さんと、初代駒沢村村長の「谷岡慶治」さんなんですが、京王の前身の前身の前身の会社の日本電気鉄道の発起人名も、「渡辺熊之進 谷岡慶治 秋本喜七(以下略)」なんですよね。
渡辺熊之進さんは、明治36年10月4日に専務取締役に就任し、玉川線開業にむけて尽力していたんですが不況で用地買収などが進まず、その責任を取って、明治38年8月15日に平取締役に転任、明治39年1月3日には取締役も辞任ということに(東横の社史では)なってるのですが、(上のページの4月12日てのは何処の出典だろう?かすってもいないのが謎)ちょうど、かぶるように日本電気鉄道の出願が明治38年12月12日になってるのですよね。
それって、つまり渡辺さんが平取締役に降格して数ヶ月後に、京王の路線を出願し会社を立ち上げたということ?
玉川で失敗したから、次は京王で挽回、ということだったのだろうか・・・。コリテネー
いままでちょっと、玉川さんは昔から京王を知ってる「親戚のお兄ちゃん」って立ち位置のつもりだったんですけど、ここまでいくともう「実兄弟」の域ですね。
うわー、うわー。
それはそれで、いいですけど、それ気づいてるのは玉川さんだけかな。
でも、京王は京王で、もともと蒲田~調布~府中~立川にいく本線のお兄ちゃんが(出願の段階では)いたので、結局、支線であるはずの新宿~府中である自分が認可され本線になった経緯をみると、あっち方面(玉川)の親しげな年上の存在って、けっこう重いと思うのですけど、どうかな!?(ひといき)
ところで、この「調布」って、田園調布と、布田調布と、どっちの調布だろう・・・直線ルートできたら、どっちも通るからどっちでもいいのか(適当)
ウソじゃないっすよ!?ウソじゃないっすよーーーー!!!
==============================
あーびっくりた、あー。
京王電軌の三十年史の年表を写してたら、大正2年4月7日に「笹塚変電所(100kW)が完成し東電及び玉電より受電」とあって、「はっ?」゚Д゚)ってなりました。
あ、あれ・・・?開業前から、玉川さんから電気もらってたの?(京王の開業日は4月15日)
もともと東京電灯からは電車の動力用に125kWを買ってるんですが、玉川さんも同時に??いやいやいやいやって。
たしか、前に笹塚(新町)~調布開通後の頃、玉川さんから電気を送ってもらうようになって、「サイズ的に一番小さい京王になるかな」てどっかで書いたと思うんですけど、そのつもりでネームも書いてたんですけど、そこひっくり返されると割と真面目にデラピンチ!!
で、東電さんの本とか玉電さんの本とかで確認したんですけど、やっぱり、三十年史の記述はちがうみたいです。
宮田道一さん監修の玉電さんの年表によると、「大正4年4月2日玉川電鉄は京王電軌への電力供給の許可を得る。ただちに供給を開始」ってなってて、東電の本には「1915年に玉川電気鉄道から受電(4月から電車運行用に150kW、12月から電灯供給用に150kW)が開始された事に伴い東京電灯からの購入は中止され、府中火力発電所も廃止された」とあるので、あー、やっぱり大正4年でいいんだよね、びっくりした、となりました。
まさか公式にエイプリルフールかまされるとは。
ちなみに、井上篤太郎さんが、大正2年の3月17日に玉電の取締役支配人になってるので、駒沢変電所はまだ出来てないけど、もしや玉川さんの火力発電所の電気で・・・?と一瞬思ってしまいました。
富士瓦斯紡績さんの電気を送電してもらうためにたてた、玉川の駒沢変電所は大正2年10月から始動するので、ふつーに考えたら、他社に送電するのはそれからですよね。
京王ヒドイ
ちなみに、玉川さんと京王の出会いを設定したのは、この玉電の年表で玉川から京王へ「ただちに送電開始」の部分に反応したからです(私が)。
これで玉川→京王になったといっても過言ではなく・・・。宮田さんサイコ-!ありがとう!!(黙れ変態)
PR