たまろぐ 多摩御陵と玉南想 忍者ブログ

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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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大正15年12月頭、玉南電気鉄道は京王電気軌道に吸収合併されましたが、
その月の内にご容態が思わしくなかった大正天皇がついに崩御せられ、
にわかに多摩の横山の地が注目されるようになる様が、当時の新聞にありありと描かれてありました。



東京朝日新聞(市内版)大正十五年十二月三十日(木曜日)
「霜どけを踏んで詳細に御検分 大喪使総裁閑院宮 きのふ横山村新御料地へ」

大行天皇の御陵所を内定せる東京府南多摩郡横山村御料地御検分のため
御大喪使総裁閑院宮載仁親王殿下には杉諸陵頭、東久世内匠頭、平塚東京府知事
以下を随えさせられ二十九日午前十一時五十八分中央線浅川駅
御着 霜解けにぬかる、あぜ道をおひろひで詳細に御視察になり午後二時浅川駅発の列車で御帰京になった、
御陵所には二十九日すでに人夫五百人が到着して土をほり返すやら雑木林の木を抜き取るやら
昼夜兼行の工事が開始され、八王子署では特に警部補詰所を特設し、
三十日からは周囲に鉄條網を張りわたして一般人の立ちいるのを止めるやら、地内の寺院二ヶ所と
民家 八戸は二、三日のうちに立退かせるといふ大騒ぎ
である、浅川、横山両村の在郷軍人会青年団では、
浄い労力の奉仕を申出でたさうだ
 浅川駅には多摩川砂利が山と積まれて御陵に運び出される日を待つ、
 人情素朴の浅川、横山両村民は村が歴史をもつてこのかた創めての
 昨今の土地のざわめきに驚くような眼をみはってゐる


「けふの大喪使会議で御大喪御日決定 御陵所も正式決定 重大案件を審議する初会議」

大行天皇の御大喪に関する諸般の重要事項を決定すべき大喪使諸員の初会議は三十日午前十時から
宮中東三の間において開催され、総裁閑院宮殿下を始め一木大喪使長官、塚本、関屋両大喪使次官以下
各事務官および一条祭官長、柳原、清水両祭官次長以下各祭官等凡六十名参集する事となってゐる、
この日総裁宮よりは優あくなる御言葉を賜ひたる後一木長官議長席につき協議を進めるはずであるが、
協議事項は
 一、同事務分掌に関する件
 一、大喪儀御日取決定に関する件
 一、御陵所決定に関する件
等でいづれも上奏御裁可を仰いで公布される事となってゐる、尚同日以後は大喪使事務所は宮内省御歌所の
部屋に置き即日事務を開始されるが事務は評議所、長官官房、儀式部、山作部、会計部、上営部、用度部、
鉄道部等の諸部に分れ、又大喪費予算は各部に配分されるはずである、新宿御苑の大喪場および御陵所の
工費は合せて百四十万円の見込であると


「新御陵所には二通りの命名 全区域に対するものと先帝御陵と別々に」

閑院大喪使総裁宮殿下には別項の如く二十九日午後、
先帝御陵所と内定された南多摩郡横山村地内帝室林野局林業試験場付属気象観測所の下に展けた
約二十八町歩に余る地域を御検分あらせられた結果総裁宮には同所こそこよなきものとして至極御満足の
お言葉をおもらしに相成った
と承る、殿下には三十日か三十一日中に上奏御裁可を仰いだ上宮内大臣並に
内閣総理大臣連署をもって御陵所決定を公布することになってゐる、然して右御決定に上は前記地域に
対して何々御陵墓と命名され、大行天皇御陵の命名は更に御大喪期日若干前に決定されるはずであるが、
この地一般の御陵墓名には浅川とか横山とか部分的のものを御使用には相成らぬ旨拝聞する



写真はその時の模様とおもわれます。

このときの最寄り駅及び経路は勿論、帝国鉄道の中央線の浅川駅ですが、
玉南を合併し、乗換のガンと言われた府中をこれからどうにかして直通し、
八王子間の旅客を中央線から奪わねばならない京王に、
この出来事はどう映ったでしょうね・・・。

当然、御陵までの線路敷設(またはバス輸送)を考えたでしょうし、
直通のための改軌工事、施設の同規格化を迅速に行わねばならない必要性に
ますます迫られたことでしょう。
その後の世界恐慌の事も思うと、相当大変な事だったと想像します。
しかし、同時にこれは、玉南を合併したばかりの京王にとっては天啓に近いものだったのではないかと。それを思うと、心震えますね。

以下は続報。

  

「総べて御質素に多摩陵の工事 いよいよ五月から着手し 御一年祭までに完成」
東京朝日新聞 昭和二年三月十九日(土曜日)


多摩陵の参拝者はすでに六十万人を突破したが参拝も月末で打ち切られ
、四月三日の
御百日祭を待って五月はじめからいよいよ本式の築陵工事にとりかかることとなった、新御陵の
 続行 工事は大喪使の手を離れ諸陵寮の要求によって一切宮内省内匠寮で行はれるもので
 工事主任はさきに玄宮工事の主任としてこれに当たった技師森泰治氏が任命されることに
 決定し月下北村工務総長が森技師と共に設計を急いでゐる
御陵影は全?新陵墓令によってゐるがこのたびのは「上円下方」形をとることとなり、大体は
 桃山 陵に準じられてほぼ??の神殿なかたちとなるも
 玄宮(現在の円形直径約五間)の上に盛らるる花から宮の
 大円丘の直径は桃山陵の約七間よりわ?るかに規模を小さくして
 五間未満とされる??陛下、各皇族のための御陵墓所?の
 他も畏き思召しからそれに準じ総てにおいて小規模となり
なほ現在の??山際の一部は位置を少し離れた場所に変更されることとなってゐる
 予算も 今のところほぼ約五十余万円程度の御質素なものとされる模様で、これは十一月一杯をもって
総ての工事を完成し御一年祭以後は再び一般の参拝を差許される
 なほ来る二十四日午後二時半からはゾルフドイツ大使以下在京外交団は宮内省山縣式部官の案内で
 一同多摩陵に参拝することになってゐるが、二十五日の御命日には皇太后陛下には
 三度御陵参拝を仰せ出され、また秩父宮閑院宮その他各殿下の御参拝?ある用に承る


「多摩陵参拝の期間延期さる 四月一、二、四日の三日間」
東京朝日新聞 昭和二年三月三十日(水曜日)


多摩陵の一般市民の参拝許可期間は本月三十一日をもって期限終了のことになって居たが
鉄道省では最近の参拝者激増(毎日一万五六千人に上る)にかんがみ更に
四月一日、二日、四日、の三日間延長方を宮内省に交渉の結果許可されることに決定した


昭和の縮刷版はかすれてて読みにくいです ´^ ^;)
なので解読不能な部分があってすみません・・・。

これみると、ほんと市民にすごい人気だったようで、鉄道省がほくほくしている。
そして傍らでみてた京王がすごいギリギリしてそう、大分プレッシャー受けてたんだなぁと。
今現在、京王が「高尾山」「高尾山」してるのは、
もとはこの御陵墓人気に端を発しているんじゃなかろうか。
延長の4月の日程で、3日が省かれてるのは御百日祭だからなんですね。

御陵線はここからちょうど4年後の昭和6年3月20日に開通します。

ところで、玉南の合併日が社史によっては12月4日になっているという話ですが、年表の方ではちゃんと1日になっていました。
4日は統一営業だか連絡運輸だかを開始した日だそうです。
これは日野市史の記述にもそうありました。

でも合併前から、府中の乗換にはだいぶ気を遣っていたはずだし、何が改良されたんでしょうね?
謎です ;・・)?

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