たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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今年の2月に出たばかりらしい紀伊國屋書店発行の「新宿学」を読んだので、
折角だしこれをテキストに、去年コピーしたまんま放置してた 資料を消化しようかな~と思います。
地図は「地図で見る新宿区の移り変わり」の四谷編から・・・。
最初、神保町の秦川堂書店さんで同シリーズの牛込編がお手頃な値段で置かれてたものの、
新宿駅が範疇外だったので買わなかったのです。でもその本自体はすごく良かったので、
東上線の展示会いったとき、練馬区ふるさと文化館に四谷編と牛込編が両方置いてあるのを見て、
これ幸いと新宿駅が載ってる地図だけ頂いてきたのですよね~。
あとで考えたら、こういうのって、ふつーに近所の図書館に置いてたかもなと思い、
ネット検索してみたら、あるのは淀橋・大久保編と戸塚・落合編でした。う、うわぁ…セーフ。
淀橋編は興味あるから、明日本返すついでに借りてこよう♪
一番左は、明治12年の東京実測図、で右二つは明治20年の実測図とそれの拡大図です。
明治12年のはさすが、まだ山手線(日本鉄道品川線)すら通ってません(笑)
「角筈村」と描かれた三角地帯が今の新宿駅があるあたりで、その先で道が合流している地点が
「追分」ですね。緑色は新宿御苑です。ここでは「宮内省植物御苑」となっています。
その右下に、火薬庫があるのが気になる所ですね。
植物御苑からぐーっと、上(北)に目を向けると「陸軍戸山学校」があり、
その右上に「早稲田村」とあります。
明治14年の政変(北海道官有物払い下げ事件)のとばっちりで大隈さん(と福澤一門)が排斥され、改進党を立ち上げて早稲田に東京専門学校を設立するので、早稲田大学もまだこの頃にはありませんね。
ちょっとした町屋と屋敷地のほかは、のどかな農村風景ってかんじです。
新宿御苑は、江戸時代まで内藤家の屋敷だったのが、明治5年に大蔵省の農事試験場となり、
明治12年から宮内省所管となって「植物御苑」となるので、この地図はちょうど宮内省のものに
なったばかりのころの物なんですね。
そして明治38年5月、日露戦争勝利を記念して凱旋将軍の歓迎会が行われ、
それ以来「新宿御苑」と呼ばれるようになったんだとか。
火薬については、神田上水との合流地点である淀橋上流左岸に寛文年間に作られた水車があり、
農家の米や小麦を挽いていたのが、ペリー来航で軍備増強に目覚めた幕府が、ここで火薬製造を
命じる。
それが、他の場所の水車で、製造中の火薬が爆発し、淀橋住民は水車移転を要請したものの、
結局1854年6月に爆発事故が起こって、その震動は5町にわたり、大空が真っ黒になったという。
それで、名主も奉行所へ申し入れて、火薬製造は中止となり、元通りの製粉水車に戻ったと。
明大前も昔、火薬庫だったというし、水の流れと火薬には密接な関係があるのかもしれませんね。
御苑右下の火薬庫も、玉川上水の四谷大木戸からの分水(余水)の流れる先にあるみたいだし。
それから明治13年には、府中~新宿追分~四谷見附の区間で乗合馬車の運行が開始したようです。
============================================
明治20年の地図になると、山手線が開通し、新宿駅(初代)が出来ています。
地図では「新宿停車場」となっていますが、最初の駅名は「内藤新宿」です。
このころは、文献の通り、駅舎が青梅街道側を向いていますね。
所在地の地名は「角筈村 渡辺土手際」江戸時代の旗本三百俵・渡辺家の下屋敷跡だそうです。
こちらの地図では、新宿御苑内の道筋もかなり詳しく書いてありますね。で、
ここでむっちゃ、目をひくのが園内の左側に出来た池。なんか、魔物みたいに不気味な形してますね。
植物用の溜め池でしょうか。でも、このいっぱいの足みたいのは、もしかして鴨猟用???
明治5年に設けられた内藤新宿農事試験場では養蚕、製茶、牧畜などが研究されていて、
それがのちに「勧農寮」となり、欧米教師を招いて「農事修学場」を設けて洋種の果実や蔬菜・花などを研究、広範囲の品種改良、多植栽培をしたとあります。
新宿タカノフルーツがハイカラな果実店として先端をゆけたのも、新宿御苑の存在が大きいようです。
新宿駅の西側には茶畑があったようで、これは外貨獲得のために茶葉や養蚕の桑の生産を
政府が奨励した策のひとつみたいです。おもしろい。
============================================
こちらは明治28年の地図と、部分拡大。
明治22年開業の中央線(甲武鉄道)が増えてます。
駅舎の他に、山手線と中央線のホームができてますね、長い。
それに甲武の市街線ものびてますね。明治27年牛込まで、28年に飯田町まで開通しています。
でも、市電はまだみあたりません。
そして火薬庫だった所が、輜重廠となり白地になってますね。軍事機密って事で記載されなくなったんでしょうか。
新宿御苑は「新宿御料地」という表記になっています。
============================================
つぎは明治42年の実測図。今まで以上に密度が濃くなっています。
黄色いラインはのちの市電(元・東京市街鉄道→明治39年東京鉄道に)の線路。
明治36年に新宿~半蔵門の路線が開通しています。
それで、この新宿の表通りは別名「電車通り」と呼ばれるのですね。
(左)新宿駅の拡大図。
中央線(39年に甲武から改名)と山手線の線路がさらに増え、下側にも側線ができています。
そして、青梅街道を向いていた初代駅舎がなくなっています。
おなじく明治39年に二代目新宿駅本屋が完成したのです。
そのお陰で、青梅街道に比べて商店が少なかった甲州街道側にも賑わいがでてきます。
でも、京王線はまだありません。(特許申請で計画中くらいの段階かな)
そして追分辻の北側に、半ループ線のような線路と
そこから別れる留置線がのびる「東鉄車庫」があります。その左の向かいは新宿警察署です。
そのさらに北がわには大村子爵の大村邸、東大久保の前田侯爵の前田邸、番衆町の濱野邸があり、
その庭には水辺があります。これと、新宿御苑をあわせて、新宿には鴨場が4つあったとは、
「新宿うら町おもて町」に書いてあった通りです。
ブラタモリでも湿地のくぼみがのこってるとか、いってたかな?
ただし、新宿御苑は、あの変な多足池はなくなって、今の景色と同じ玉藻池になってますね。
(中)もと火薬庫だった輜重廠がふたたび地図上にあらわれてますね。
「兵器支廠倉庫」と「輜重兵営」となってます。その脇を市電が通り、入り口あたりに停留所も見えます。
その南側は「青山練兵場」です。そして、そのあいだを中央線が通っています。
あと「千駄ヶ谷」の駅が増えてますね。(明治37年開業)
(右)もうひとつ、めだつ近代建物が「東京監獄」。
紫の四角い敷地の中に建物が放射状になってる施設です。右隣の「市ヶ谷監獄」はじつは
明治12年の地図から「谷町の市谷監獄署」として載ってるんですが(明治8年開設)、
さらに明治37年、東京監獄が鍛冶橋から富久町に移転してきました。
前述「新宿うら町おもて町」に電車通り(表通り)に対しての、裏通りが囚人護送の道だったと
ありますが、地図を見ていると、たしかに一本奥まった方の通りの方が煩雑な表通りより歩きやすそうな気がします。
しかし、この地図の一年後、明治43年には市ヶ谷監獄の方が
豊多摩郡野方村に移転してしまいます。(豊多摩監獄→中野刑務所)
意外と、ならんでいた時期は数年なんですね・・・。
ついでに、同じ43年に、新宿駅の西側に煙草専売局の淀橋工場が開設しています。
明治45年には淀橋側に東京ガスのガスタンク(1個め)ができます。
つづき。淀橋編の地図ももらってきました。
左が淀橋の明治43年の地図、右が大正11年の地図です。
上記のガスタンクが諦聴寺の北側にふえたのがわかります。後年2個目ができます。
大正にはいってるので、西武軌道と京王線がそれぞれの街道上に開業していますね。
とくに京王線の電車内からは、このガスタンクがよく見えたんだとか。
(そして諦聴寺の手前と甲州街道上に戻る手前でカックンカックン、カーブしてますね。これは揺れそう)
というか、ガスタンクのもとの土地の名前が「銀世界」ってなんなんだ(笑)みため公園ぽいですが。
西武軌道は大正10年8月に荻窪村~淀橋町を開業、軌間は1067mmで単線、しかも開業するや
武蔵水電(大正3年に川越電気鉄道が神流川水力電気と合併)に合併され、
さらに大正11年11月1日に武蔵水電が帝国電灯に合併。しかし帝国電灯は軌道部門はいらなかったようで、同11月16日川越電気鉄道の創立者だった綾部利右衛門に西武軌道の路線ごと譲渡、綾部はこれを受けて(旧)西武鉄道を設立しました。
(※鉄道部門を担当する武蔵鉄道は大正11年8月15日に設立、しかし鉄道業の引継は手続上の都合から同年11月16日に実施されたため、帝国電灯は15日間だけ鉄道を経営した形になったという。
武蔵鉄道は譲渡されると同時に西武鉄道に改名しました、ってなんじゃこりゃ!)
なので、このころは武蔵水電から西武鉄道への過渡期まっただ中ですね、この子。すさまじい背景だ。
浄水場の北側に停留所があり「淀橋警察署前」と読めます。
さらに引き込み線を越えた辺りでもういっこ停留所が。これは「浄水場(地?)前」かなぁ。
この軌道は土盛りで引き込み線の上を通っているのか?青梅街道にそんな余裕あるのかな、単線なれど。
この地図だけだと、ちょっと確証はもてないですね。
そして淀橋といえば浄水場。用地が玉川上水からやや離れてしまい、高低差の問題もあって、
より上流の和田堀から分水する、真っ直ぐな新水路を浄水場の南西に作りました。
震災後はより強度の高い水道管を地中につくることになったため、この新水路は埋められますが
道路としては残ります。
浄水場の敷地内には濾過用の砂利を運び込むための中央線から分岐した引き込み線がありますね。
青梅街道をよこぎっている為、それ専用の踏切もありました。
中野への迂回路は別にあったようで、その踏切は一般向けではなかったようですが、
砂利列車はそれほど本数もないので通行は黙認されていたといいます。
浄水場の落成式は明治32年12月ですが、その数ヶ月前の32年7月はこの踏切で事故があったようで、
列車が青梅街道を横断中、荷車が通りかかり、機関士は頻りに汽笛をならして注意したが、
驚いた馬がその場で狂い立ち、みるみるうちに列車と衝突、首と胴を引ききられ転倒しそのまま粉々になったと。馬子は逃げて無事だったものの、持ち主が馬の賠償を持ち込んだ所、そこは本来荷車の通っていい場所ではないので、その要求ははねのけられたといいます。
飯田町には砂利輸送の終点があるので、中央線は浄水場への砂利搬入にも適していたんでしょうね。
============================================
ピンクの敷地は煙草専売局です。結構な面積、ですが新宿の明治20年代の地図では
「字 辻」とよばれる畑っぽかったんで、土地は余ってたんでしょうなぁ。
新宿駅の西側に甲州街道口のほかに、さらに青梅街道口という電車線ホームが設けられたのは、
どうもこの専売局の従業員のためっぽいですね。
煙草工場なので、がっちり赤煉瓦で敷地を囲っているのが地図からも分かります。
ちなみに専売局淀橋工場は昭和11年に東品川へ移転します。
その跡地に私鉄の総合ターミナルをつくろうという計画もあったみたいなんですが、
東京高速鉄道も東横電鉄も免許だけで着工できてないし、戦争だしで結局ながれたっぽいですね。
地図ではそのお隣に「女子学院」があります。
『新宿学』によると、明治中期から大正にかけて新宿駅に隣接して多くの私立学校が開校したのには、
その土地の所有者であった元松平家摂津守(尾張家支藩)の理解と協力があったからだろうと。
学校地のきっかけとなったのは、明治16年新潟の地主だった夫の遺産で上京したキリスト教徒の
加藤とし子らによる「女子独立学校」の開校で、明治31年に精華学園と改名します。
明治27年には築地にあったミッション系女子学院の療養施設・衛生園も誕生、
松平家から土地を譲り受けた在日本プレスビテリアン宣教師社団から、女子学院が借地したものでした。
大正11年の地図にはさらに「日本中学校」がふえていますね。
これは大正5年に麹町にあった日本中学校が松平家から用地を取得し移ってきたものだそう。
この学校は『明治の巨人・岩崎弥太郎』によると三菱による本格的な商業学校、
「三菱商業学校」の流れを汲む2つの学校のひとつであるという。
一つは明治14年に結成された自由党の幹部が自由民権運動のための学校をつくった「明治義塾」で、
この学校は人気があったものの文部省による禁止命令で卒業者を一人出しただけで廃校に。
本家の三菱商業学校も皇族・山階宮家から土地を買い、明治11年東京神田錦町に開校したのが大人気で、東京府に追加校地の借地願いを出すほどだったのに、明治17年、先の明治義塾に母屋を取られ
そのまま廃校となる。
そしてこの日本中学校は、大学南校(東大の前身)出身で5年間英国留学もした三菱商業教員・三浦重剛が、三菱商業の英語教育復校をめざして明治18年6月設立した「東京英語学校」が前身。
明治25年に「日本中学校」に改名するも、大正3年の死去まで創立者の三浦氏が校長を務めつづけました。
だからこの移転は、その死後ということになりますね。
『新宿駅が二つあった頃』の著者さんが通っていたのも、おそらくこの学校でしょう。
本の授業のなかで、折口信夫が壇上に立ってたんで「まじか!」と個人的にびびりました(笑)
これは昭和11年に再び世田谷区に移転し、名前も「日本学園」に改名します。
そして移転後のこの場所には朝日生命の建物が建ち、長い事西口の顔となっていたのですが、
近年「東京モード学園」と、再び学園の姿に(しかもそれまでの西新宿高層ビル群のなかでもさらに斬新なデザインで)変身し、あらたな新宿駅前の景色を生み出しているのは、面白い事です。
たしか、この他に工学院もあったはずだけど、これは関東大震災で校舎が焼けた工学院が、
日本中学校の敷地を借りて移転してきたからなので、この地図にはまだ載っていませんね。
女子学院の上の三角地帯に「文」とあるのは、公立の小学校じゃないかな~。たぶん。
============================================
ついでに十二社の池。明治43年の地図では「十二双」の表記になってますが、大正では「十二社」です。
明治と大正をみくらべると、少し池が細くなっているかな??
景勝地だったここは、明治から花街として栄えっていって、昭和10年代に最盛期を迎えます。
しかし昭和17年十二社通りの整備で池が埋めたてられてしまい、その勢いは衰えていったといいます。
淀橋周辺でフライングしてしまいましたが、つぎは大正の新宿駅周辺の地図にもどります。
折角だしこれをテキストに、去年コピーしたまんま放置してた 資料を消化しようかな~と思います。
地図は「地図で見る新宿区の移り変わり」の四谷編から・・・。
最初、神保町の秦川堂書店さんで同シリーズの牛込編がお手頃な値段で置かれてたものの、
新宿駅が範疇外だったので買わなかったのです。でもその本自体はすごく良かったので、
東上線の展示会いったとき、練馬区ふるさと文化館に四谷編と牛込編が両方置いてあるのを見て、
これ幸いと新宿駅が載ってる地図だけ頂いてきたのですよね~。
あとで考えたら、こういうのって、ふつーに近所の図書館に置いてたかもなと思い、
ネット検索してみたら、あるのは淀橋・大久保編と戸塚・落合編でした。う、うわぁ…セーフ。
淀橋編は興味あるから、明日本返すついでに借りてこよう♪
一番左は、明治12年の東京実測図、で右二つは明治20年の実測図とそれの拡大図です。
明治12年のはさすが、まだ山手線(日本鉄道品川線)すら通ってません(笑)
「角筈村」と描かれた三角地帯が今の新宿駅があるあたりで、その先で道が合流している地点が
「追分」ですね。緑色は新宿御苑です。ここでは「宮内省植物御苑」となっています。
その右下に、火薬庫があるのが気になる所ですね。
植物御苑からぐーっと、上(北)に目を向けると「陸軍戸山学校」があり、
その右上に「早稲田村」とあります。
明治14年の政変(北海道官有物払い下げ事件)のとばっちりで大隈さん(と福澤一門)が排斥され、改進党を立ち上げて早稲田に東京専門学校を設立するので、早稲田大学もまだこの頃にはありませんね。
ちょっとした町屋と屋敷地のほかは、のどかな農村風景ってかんじです。
新宿御苑は、江戸時代まで内藤家の屋敷だったのが、明治5年に大蔵省の農事試験場となり、
明治12年から宮内省所管となって「植物御苑」となるので、この地図はちょうど宮内省のものに
なったばかりのころの物なんですね。
そして明治38年5月、日露戦争勝利を記念して凱旋将軍の歓迎会が行われ、
それ以来「新宿御苑」と呼ばれるようになったんだとか。
火薬については、神田上水との合流地点である淀橋上流左岸に寛文年間に作られた水車があり、
農家の米や小麦を挽いていたのが、ペリー来航で軍備増強に目覚めた幕府が、ここで火薬製造を
命じる。
それが、他の場所の水車で、製造中の火薬が爆発し、淀橋住民は水車移転を要請したものの、
結局1854年6月に爆発事故が起こって、その震動は5町にわたり、大空が真っ黒になったという。
それで、名主も奉行所へ申し入れて、火薬製造は中止となり、元通りの製粉水車に戻ったと。
明大前も昔、火薬庫だったというし、水の流れと火薬には密接な関係があるのかもしれませんね。
御苑右下の火薬庫も、玉川上水の四谷大木戸からの分水(余水)の流れる先にあるみたいだし。
それから明治13年には、府中~新宿追分~四谷見附の区間で乗合馬車の運行が開始したようです。
============================================
明治20年の地図になると、山手線が開通し、新宿駅(初代)が出来ています。
地図では「新宿停車場」となっていますが、最初の駅名は「内藤新宿」です。
このころは、文献の通り、駅舎が青梅街道側を向いていますね。
所在地の地名は「角筈村 渡辺土手際」江戸時代の旗本三百俵・渡辺家の下屋敷跡だそうです。
こちらの地図では、新宿御苑内の道筋もかなり詳しく書いてありますね。で、
ここでむっちゃ、目をひくのが園内の左側に出来た池。なんか、魔物みたいに不気味な形してますね。
植物用の溜め池でしょうか。でも、このいっぱいの足みたいのは、もしかして鴨猟用???
明治5年に設けられた内藤新宿農事試験場では養蚕、製茶、牧畜などが研究されていて、
それがのちに「勧農寮」となり、欧米教師を招いて「農事修学場」を設けて洋種の果実や蔬菜・花などを研究、広範囲の品種改良、多植栽培をしたとあります。
新宿タカノフルーツがハイカラな果実店として先端をゆけたのも、新宿御苑の存在が大きいようです。
新宿駅の西側には茶畑があったようで、これは外貨獲得のために茶葉や養蚕の桑の生産を
政府が奨励した策のひとつみたいです。おもしろい。
============================================
こちらは明治28年の地図と、部分拡大。
明治22年開業の中央線(甲武鉄道)が増えてます。
駅舎の他に、山手線と中央線のホームができてますね、長い。
それに甲武の市街線ものびてますね。明治27年牛込まで、28年に飯田町まで開通しています。
でも、市電はまだみあたりません。
そして火薬庫だった所が、輜重廠となり白地になってますね。軍事機密って事で記載されなくなったんでしょうか。
新宿御苑は「新宿御料地」という表記になっています。
============================================
つぎは明治42年の実測図。今まで以上に密度が濃くなっています。
黄色いラインはのちの市電(元・東京市街鉄道→明治39年東京鉄道に)の線路。
明治36年に新宿~半蔵門の路線が開通しています。
それで、この新宿の表通りは別名「電車通り」と呼ばれるのですね。
(左)新宿駅の拡大図。
中央線(39年に甲武から改名)と山手線の線路がさらに増え、下側にも側線ができています。
そして、青梅街道を向いていた初代駅舎がなくなっています。
おなじく明治39年に二代目新宿駅本屋が完成したのです。
そのお陰で、青梅街道に比べて商店が少なかった甲州街道側にも賑わいがでてきます。
でも、京王線はまだありません。(特許申請で計画中くらいの段階かな)
そして追分辻の北側に、半ループ線のような線路と
そこから別れる留置線がのびる「東鉄車庫」があります。その左の向かいは新宿警察署です。
そのさらに北がわには大村子爵の大村邸、東大久保の前田侯爵の前田邸、番衆町の濱野邸があり、
その庭には水辺があります。これと、新宿御苑をあわせて、新宿には鴨場が4つあったとは、
「新宿うら町おもて町」に書いてあった通りです。
ブラタモリでも湿地のくぼみがのこってるとか、いってたかな?
ただし、新宿御苑は、あの変な多足池はなくなって、今の景色と同じ玉藻池になってますね。
(中)もと火薬庫だった輜重廠がふたたび地図上にあらわれてますね。
「兵器支廠倉庫」と「輜重兵営」となってます。その脇を市電が通り、入り口あたりに停留所も見えます。
その南側は「青山練兵場」です。そして、そのあいだを中央線が通っています。
あと「千駄ヶ谷」の駅が増えてますね。(明治37年開業)
(右)もうひとつ、めだつ近代建物が「東京監獄」。
紫の四角い敷地の中に建物が放射状になってる施設です。右隣の「市ヶ谷監獄」はじつは
明治12年の地図から「谷町の市谷監獄署」として載ってるんですが(明治8年開設)、
さらに明治37年、東京監獄が鍛冶橋から富久町に移転してきました。
前述「新宿うら町おもて町」に電車通り(表通り)に対しての、裏通りが囚人護送の道だったと
ありますが、地図を見ていると、たしかに一本奥まった方の通りの方が煩雑な表通りより歩きやすそうな気がします。
しかし、この地図の一年後、明治43年には市ヶ谷監獄の方が
豊多摩郡野方村に移転してしまいます。(豊多摩監獄→中野刑務所)
意外と、ならんでいた時期は数年なんですね・・・。
ついでに、同じ43年に、新宿駅の西側に煙草専売局の淀橋工場が開設しています。
明治45年には淀橋側に東京ガスのガスタンク(1個め)ができます。
つづき。淀橋編の地図ももらってきました。
左が淀橋の明治43年の地図、右が大正11年の地図です。
上記のガスタンクが諦聴寺の北側にふえたのがわかります。後年2個目ができます。
大正にはいってるので、西武軌道と京王線がそれぞれの街道上に開業していますね。
とくに京王線の電車内からは、このガスタンクがよく見えたんだとか。
(そして諦聴寺の手前と甲州街道上に戻る手前でカックンカックン、カーブしてますね。これは揺れそう)
というか、ガスタンクのもとの土地の名前が「銀世界」ってなんなんだ(笑)みため公園ぽいですが。
西武軌道は大正10年8月に荻窪村~淀橋町を開業、軌間は1067mmで単線、しかも開業するや
武蔵水電(大正3年に川越電気鉄道が神流川水力電気と合併)に合併され、
さらに大正11年11月1日に武蔵水電が帝国電灯に合併。しかし帝国電灯は軌道部門はいらなかったようで、同11月16日川越電気鉄道の創立者だった綾部利右衛門に西武軌道の路線ごと譲渡、綾部はこれを受けて(旧)西武鉄道を設立しました。
(※鉄道部門を担当する武蔵鉄道は大正11年8月15日に設立、しかし鉄道業の引継は手続上の都合から同年11月16日に実施されたため、帝国電灯は15日間だけ鉄道を経営した形になったという。
武蔵鉄道は譲渡されると同時に西武鉄道に改名しました、ってなんじゃこりゃ!)
なので、このころは武蔵水電から西武鉄道への過渡期まっただ中ですね、この子。すさまじい背景だ。
浄水場の北側に停留所があり「淀橋警察署前」と読めます。
さらに引き込み線を越えた辺りでもういっこ停留所が。これは「浄水場(地?)前」かなぁ。
この軌道は土盛りで引き込み線の上を通っているのか?青梅街道にそんな余裕あるのかな、単線なれど。
この地図だけだと、ちょっと確証はもてないですね。
そして淀橋といえば浄水場。用地が玉川上水からやや離れてしまい、高低差の問題もあって、
より上流の和田堀から分水する、真っ直ぐな新水路を浄水場の南西に作りました。
震災後はより強度の高い水道管を地中につくることになったため、この新水路は埋められますが
道路としては残ります。
浄水場の敷地内には濾過用の砂利を運び込むための中央線から分岐した引き込み線がありますね。
青梅街道をよこぎっている為、それ専用の踏切もありました。
中野への迂回路は別にあったようで、その踏切は一般向けではなかったようですが、
砂利列車はそれほど本数もないので通行は黙認されていたといいます。
浄水場の落成式は明治32年12月ですが、その数ヶ月前の32年7月はこの踏切で事故があったようで、
列車が青梅街道を横断中、荷車が通りかかり、機関士は頻りに汽笛をならして注意したが、
驚いた馬がその場で狂い立ち、みるみるうちに列車と衝突、首と胴を引ききられ転倒しそのまま粉々になったと。馬子は逃げて無事だったものの、持ち主が馬の賠償を持ち込んだ所、そこは本来荷車の通っていい場所ではないので、その要求ははねのけられたといいます。
飯田町には砂利輸送の終点があるので、中央線は浄水場への砂利搬入にも適していたんでしょうね。
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ピンクの敷地は煙草専売局です。結構な面積、ですが新宿の明治20年代の地図では
「字 辻」とよばれる畑っぽかったんで、土地は余ってたんでしょうなぁ。
新宿駅の西側に甲州街道口のほかに、さらに青梅街道口という電車線ホームが設けられたのは、
どうもこの専売局の従業員のためっぽいですね。
煙草工場なので、がっちり赤煉瓦で敷地を囲っているのが地図からも分かります。
ちなみに専売局淀橋工場は昭和11年に東品川へ移転します。
その跡地に私鉄の総合ターミナルをつくろうという計画もあったみたいなんですが、
東京高速鉄道も東横電鉄も免許だけで着工できてないし、戦争だしで結局ながれたっぽいですね。
地図ではそのお隣に「女子学院」があります。
『新宿学』によると、明治中期から大正にかけて新宿駅に隣接して多くの私立学校が開校したのには、
その土地の所有者であった元松平家摂津守(尾張家支藩)の理解と協力があったからだろうと。
学校地のきっかけとなったのは、明治16年新潟の地主だった夫の遺産で上京したキリスト教徒の
加藤とし子らによる「女子独立学校」の開校で、明治31年に精華学園と改名します。
明治27年には築地にあったミッション系女子学院の療養施設・衛生園も誕生、
松平家から土地を譲り受けた在日本プレスビテリアン宣教師社団から、女子学院が借地したものでした。
大正11年の地図にはさらに「日本中学校」がふえていますね。
これは大正5年に麹町にあった日本中学校が松平家から用地を取得し移ってきたものだそう。
この学校は『明治の巨人・岩崎弥太郎』によると三菱による本格的な商業学校、
「三菱商業学校」の流れを汲む2つの学校のひとつであるという。
一つは明治14年に結成された自由党の幹部が自由民権運動のための学校をつくった「明治義塾」で、
この学校は人気があったものの文部省による禁止命令で卒業者を一人出しただけで廃校に。
本家の三菱商業学校も皇族・山階宮家から土地を買い、明治11年東京神田錦町に開校したのが大人気で、東京府に追加校地の借地願いを出すほどだったのに、明治17年、先の明治義塾に母屋を取られ
そのまま廃校となる。
そしてこの日本中学校は、大学南校(東大の前身)出身で5年間英国留学もした三菱商業教員・三浦重剛が、三菱商業の英語教育復校をめざして明治18年6月設立した「東京英語学校」が前身。
明治25年に「日本中学校」に改名するも、大正3年の死去まで創立者の三浦氏が校長を務めつづけました。
だからこの移転は、その死後ということになりますね。
『新宿駅が二つあった頃』の著者さんが通っていたのも、おそらくこの学校でしょう。
本の授業のなかで、折口信夫が壇上に立ってたんで「まじか!」と個人的にびびりました(笑)
これは昭和11年に再び世田谷区に移転し、名前も「日本学園」に改名します。
そして移転後のこの場所には朝日生命の建物が建ち、長い事西口の顔となっていたのですが、
近年「東京モード学園」と、再び学園の姿に(しかもそれまでの西新宿高層ビル群のなかでもさらに斬新なデザインで)変身し、あらたな新宿駅前の景色を生み出しているのは、面白い事です。
たしか、この他に工学院もあったはずだけど、これは関東大震災で校舎が焼けた工学院が、
日本中学校の敷地を借りて移転してきたからなので、この地図にはまだ載っていませんね。
女子学院の上の三角地帯に「文」とあるのは、公立の小学校じゃないかな~。たぶん。
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ついでに十二社の池。明治43年の地図では「十二双」の表記になってますが、大正では「十二社」です。
明治と大正をみくらべると、少し池が細くなっているかな??
景勝地だったここは、明治から花街として栄えっていって、昭和10年代に最盛期を迎えます。
しかし昭和17年十二社通りの整備で池が埋めたてられてしまい、その勢いは衰えていったといいます。
淀橋周辺でフライングしてしまいましたが、つぎは大正の新宿駅周辺の地図にもどります。
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