たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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いまさらだけど、「京王線・井の頭線 昭和の記憶」(三好好三編著/彩流社)を買いました。
気づいたら、でてた。
基本的には、戦後の京王帝都電鉄時代の写真なのですね。
みなれないせいか、井の頭線の写真のほうが、面白く感じるなあvvv
神泉のトンネルの上に民家がちゃんと写ってる。
宮脇さんの本(「昭和8年渋谷駅」)の座談会のところで、神泉のトンネルの天井が薄くて、くみ取り式の汁がしみて来るからあそこは匂うって話になってたけど、これがその噂の家なのかな(笑)
でもなにより、おすすめポイントは、地図ですね。
小田急と井の頭の代田渡り線の地図とか、ちゃんとしたの初めて見たかも。
だいたい、抽象的な図形でしか載ってないんで。
府中の駅周辺の地図は、やっぱり昭和2年以降のやつだな。
図書館の開架で見たコピーのやつと同じかな?
もう、玉南の線路との直通が完了してしまっているので、お目当ては載ってないんですが、気になるのが、京王の線路が屋敷分(分倍河原)駅までいってること。
そこから先は、線の模様がちがうんで、なんか意味があると思うんですけど。複線、単線とか?
ちょうど、この頃、多摩御陵に関連して内務省が「多摩の御陵を繞る史蹟」という小冊子をだしてて、京王の沿線のスポットも結構紹介してるんですが、そこの分倍河原古戦場の項目が「京王電車屋敷分停留場」と書いてあるんですよね。
京王の本来の線路は府中までで、その先は玉南の路線のはずなんですけど・・・。
(屋敷分は府中の一つ先の駅)ちなみに関戸の古戦場は「玉南電車関戸停留場」となっている。
最初は、単なる誤植かと思ってたんですけど、当時の認識としては、「分倍河原までが京王線」って感じだったのかもしれませんね。
う~ん、ますます謎が。やっぱり、玉南時代の府中駅の場所と外観がみたいな~
ほんとに、一枚も写真残ってないのかなああああ~
あとは、冒頭の新宿駅付近の地図比較がすごく為になりました。
小田急の駅の南っ側にあるJRの病院は、もとは徳川邸だったんだなぁ。
そして小田急の駅が出来る前の新宿駅西南側は火除け地と書いてある。
そして中央線から分岐した引き込み線が、淀橋浄水場の端っこまでどーん!
青梅街道を横断している。中央線経由で運んだ砂利を濾過用に入れ替えていたらしい。
あと、新宿駅関連でたびたび出てくる、煙草の専売局の敷地も載ってるね。
省線と小田急、東横、市営地下鉄、西武高速の総合ターミナルにする協議が行われたけど、結局移転はしなかったんだ。というか、してたら京王だけ南側に取り残されたんじゃ・・・Σ(゜ロ゜川)
戦後は、その京王が一番、専売局の元用地に近い所に居る(笑)
そして、京王と玉川上水の密着具合ときたら・・・
このあいだ、上水跡をあるいたんで、今の風景とオーバーラップして地味に楽しいです。
あ、大正5年の頃でも、諦聴寺がありますね。やっぱ寺社はいちばん目印になるな~
しっかし、京王、北側行ったり、南側行ったり、なんでこんなに何度も何度も上水をまたがなきゃいけなかったんでしょう。これが有名な、新宿手前のS字カーブなのか!!!
さらに甲州街道陸橋と京王専用の跨線橋も載っている・・・!!
「停車場前」の停留場は意外と橋を渡りきった、東側にありますね。
陸橋の真上じゃないんだ。
停留場の「葵橋」もあります。やっぱり、あの葵橋跡のそばに止まってたんだ。
そして上記の甲州街道陸橋と京王専用の跨線橋も名前が葵橋らしいです。
葵橋3つある。ややっこしい!
気づいたら、でてた。
基本的には、戦後の京王帝都電鉄時代の写真なのですね。
みなれないせいか、井の頭線の写真のほうが、面白く感じるなあvvv
神泉のトンネルの上に民家がちゃんと写ってる。
宮脇さんの本(「昭和8年渋谷駅」)の座談会のところで、神泉のトンネルの天井が薄くて、くみ取り式の汁がしみて来るからあそこは匂うって話になってたけど、これがその噂の家なのかな(笑)
でもなにより、おすすめポイントは、地図ですね。
小田急と井の頭の代田渡り線の地図とか、ちゃんとしたの初めて見たかも。
だいたい、抽象的な図形でしか載ってないんで。
府中の駅周辺の地図は、やっぱり昭和2年以降のやつだな。
図書館の開架で見たコピーのやつと同じかな?
もう、玉南の線路との直通が完了してしまっているので、お目当ては載ってないんですが、気になるのが、京王の線路が屋敷分(分倍河原)駅までいってること。
そこから先は、線の模様がちがうんで、なんか意味があると思うんですけど。複線、単線とか?
ちょうど、この頃、多摩御陵に関連して内務省が「多摩の御陵を繞る史蹟」という小冊子をだしてて、京王の沿線のスポットも結構紹介してるんですが、そこの分倍河原古戦場の項目が「京王電車屋敷分停留場」と書いてあるんですよね。
京王の本来の線路は府中までで、その先は玉南の路線のはずなんですけど・・・。
(屋敷分は府中の一つ先の駅)ちなみに関戸の古戦場は「玉南電車関戸停留場」となっている。
最初は、単なる誤植かと思ってたんですけど、当時の認識としては、「分倍河原までが京王線」って感じだったのかもしれませんね。
う~ん、ますます謎が。やっぱり、玉南時代の府中駅の場所と外観がみたいな~
ほんとに、一枚も写真残ってないのかなああああ~
あとは、冒頭の新宿駅付近の地図比較がすごく為になりました。
小田急の駅の南っ側にあるJRの病院は、もとは徳川邸だったんだなぁ。
そして小田急の駅が出来る前の新宿駅西南側は火除け地と書いてある。
そして中央線から分岐した引き込み線が、淀橋浄水場の端っこまでどーん!
青梅街道を横断している。中央線経由で運んだ砂利を濾過用に入れ替えていたらしい。
あと、新宿駅関連でたびたび出てくる、煙草の専売局の敷地も載ってるね。
省線と小田急、東横、市営地下鉄、西武高速の総合ターミナルにする協議が行われたけど、結局移転はしなかったんだ。というか、してたら京王だけ南側に取り残されたんじゃ・・・Σ(゜ロ゜川)
戦後は、その京王が一番、専売局の元用地に近い所に居る(笑)
そして、京王と玉川上水の密着具合ときたら・・・
このあいだ、上水跡をあるいたんで、今の風景とオーバーラップして地味に楽しいです。
あ、大正5年の頃でも、諦聴寺がありますね。やっぱ寺社はいちばん目印になるな~
しっかし、京王、北側行ったり、南側行ったり、なんでこんなに何度も何度も上水をまたがなきゃいけなかったんでしょう。これが有名な、新宿手前のS字カーブなのか!!!
さらに甲州街道陸橋と京王専用の跨線橋も載っている・・・!!
「停車場前」の停留場は意外と橋を渡りきった、東側にありますね。
陸橋の真上じゃないんだ。
停留場の「葵橋」もあります。やっぱり、あの葵橋跡のそばに止まってたんだ。
そして上記の甲州街道陸橋と京王専用の跨線橋も名前が葵橋らしいです。
葵橋3つある。ややっこしい!
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