たまろぐ
テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です)
最近は管理人の備忘録と化してます。
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今日は母と二人で田舎へ行って、親戚の挨拶回りをしてきたんですが、
そのまま伊豆へとんぼ返りする母親と別れて、帰りに映画を観てきました。
前売り券を買っていたので、今のうちに観ておかないと無駄になっちゃう、
というのが理由でしたが、よりによってひとりで、
正月休みの最後の日に観るんじゃなかった・・・。orz
いや、、母親と一緒にみたら、それはそれでもっとひどいことになったでしょうが。
とりあえず。
うぎゃああああああああ!!!!つれええええええええええええええ!!!!!!
帰りの電車の中でも終始涙目でした。
感動とかじゃないです、身につまされすぎて憤死しそうなガチ泣きです。
高畑さんは、ほんと「後世に残すべき作品」をつくるよなあ・・・
おもしろい・おもしろくない、じゃないんです。
もっと普遍的で、それでいてここで残さなきゃ、歴史に埋もれて忘れ去られる、
そんな希少性の高い作品ばかりなんです。
(「ほたるの墓」とか「平成狸合戦ぽんぽこ」とか)
そう云う意味では、自分は最高のタイミングで観られたと・・・もう天の采配かなにかか!?
と思わずにはいられないターゲットとして観られたと思います・・・。
それだけに、2度はむり・・・あと10年くらい間を置かないと、たぶん無理・・・。
男と女で、それも連れ合いがいるか独り身かで、かなり受け取り方が違う作品だと思うんですけど
実際の所、どうなんだろう・・・。同級生の男子に観ている人がいたら、感想訊いてみたいな。
=========以下 ネタバレ いきます ===============
この作品は、技術論とか、そういうメタ的な視点で語れば語るほど、
語るに落ちる作品だとおもいます。
肝心な部分が見えなくなると言うか・・・。
かぐや姫というか、「竹取物語」(古典の)が原作なんですが、
国民的に知れてるストーリーだし、オチもわかるし、「竹取物語」の原文を
読んでなくても問題は全然ない、むしろ知っている人の方が、その差分が
気になっちゃうかもな、くらいには忠実に再現というわりに
オリジナル要素がけっこうあります。
非常によく似てるけど、別物と考えて切り離した方が、絶対いいと思う。
で大事なテーマとして「若い女性には悩みなんてないだろうと思われてるけど、
それなりに重大な苦悩があるんだ、ということを描きたかった」という
作り手の狙いを知っていると、起伏の(感じられ)ない既知のストーリーの中から
大事な要素をすくい取れると思うんです。
キャラクターはみな、役割の明確なステレオタイプです。
主要人物がステレオタイプなために、かえって個性(作家性)は
感じられないかもしれません。
この作品にはそういう、面白味が見いだしにくいハンディキャップがあります。
(ただ、かぐや姫についていた、おつきの女の子は別かな)
ただし、ステレオタイプなだけに、その物語が及ぼす効果を
これでもかと拡幅してくるのです。それで、もう、泣いちゃうわけです。
だから宮崎監督が「これで泣くのは素人だ」という言葉の意味もわからなくはない。
(だからといって、宮崎さんがこの作品から何もくみ取れなかったとも思わないけど。
ある種の嫉妬であり、賛辞かも知れないし。)
岸田秀さんの「性的唯幻論序説」なんかにかぶれている身としては
「女の子は、成長とともに女という役割をいやいや引き受ける」
「そういう教育を多かれ少なかれ受けて女らしくなる」
という言葉が身にしみるのです。
そしてそれは、あくまで「文化的所産」であって、けっして本能にもとづいたものではない、
つまりは「絶対視するに当たらない」流動的、一時的な価値観に無自覚にさらされているのだ
というのを、かぐや姫では、姫のしつけや元服でまざまざと見せつけられるのです。
女の子が女らしくなるよう、自由奔放な気性を圧殺されてまでたたき込まれるのに、
それが「幸せだ」「運がいい」といわれる不条理感たら。
そしてそれを知らん人は、それに反抗したら
「わがままだ」とレッテルを貼って蔑むのですよ。
作中では、あきらかに口にはしませんが、姫が初潮をむかえて
それをお披露目の宴にする、翁の無神経さ、そこに転がり込んで群がる男達の
いやらしさ、そしてさらなる無神経な侮蔑の言葉。
自分を圧殺してたえている姫が、その言葉で爆発するのは、まあ当然の成り行きなのです。
ですが、それは一つの通過儀礼だったともいえます。要は反抗期です。
そして「冬に耐えればかならず春がくる」という教えをもらって、姫は
再びその一方的な役割に耐えつつ、その中で自分を保つ(のらくらとかわす)ための
許容量を得るのです。
まあ、それも、たびたびの男性本位の欲求と自滅によって破裂しかけるのですが。
貴族達は、たしかに誠心誠意、姫の難題に答えようとしているようにもみえます。
でもそこには、どうしたって「下心」があり、それが女性の側からすれば、キモチワルイ。
これは、あれだな。「僕の地球を守って」のギョクランに似ているな。
ものすごく誠心誠意、やさしくしてくれてるのはわかるんだけど、わかるんだけど、
うん、キモチワルイ。ちょっと無理。
なぜなら、その好意の根源(美しいとか清楚とか)と、モクレンの本質がずれているから。
貴族達の場合は、そこがさらに倍加してるから、脈があるわけもない。
ましてや、姿を実際に見たわけでもない、勝手に想像をふくらませて暴走している。
かぐや姫に、その妄想を補うだけの魅力はないこともないけど、
実際には一人のありがちな女の子だもの。きっと、すぐに失望されちゃう。
この作品は、そういう「女の価値のつり上げ方」もよく心得て見せているな。
しかも、それは姫本人でなく、保護者である翁がやっちゃうあたり、
姫の自己責任と言ってしまうのはあまりに酷な構造になってる。
ところで翁は、終始、娘の気持ちのわからない「外しまくりの父親」として動きますよね。
(逆に媼は、娘の気持ちを汲みすぎるくらい「よい味方」で、ここは本当にステレオタイプだなあ。
媼は女だから、わかるんでしょうけど、それにしても、実際の母親でここまでツーカーな人は
さすがにいないと思うんだけど、お話だから、まあそれはいいや。)
また捨丸兄さんも、妻子がありながら、それを「忘れて」駆け落ちしようとしますよね。
そういう男性原理の表現がとてもうまい。
いい意味でも悪い意味でも、男と女は別の生き物なんだなあ。
しかし、その別の原理で動いているのがぶつかり合い、絡まり合うから面白い事が起こる訳でもあり。
翁は終始、空回ってますが、それが月の使者が来るときには、その空回りっぷりが逆に頼もしくも
思えたりして、そこが、男性原理が女性にもたらす利益の部分だとも思います。
まあ、おおよそ、そんな所なんですが、映画のキャプチャー?であった
「姫の犯した罪と罰」という、かぐや姫にはあまりそぐわないかんじの
文言が、話が進むにつれて、ぐいぐい来るわけですよね・・・。
なんでかはわからないけど。
なにが罪で、何が罰だったのかは明確にはいえませんが、
ここまで、姫の立場を弁解するようなことを書き連ねてきましたが、
それでも、姫のしてきたことで被害者は続出なのであり、
それを切り捨てるのも後味が悪いですよね。
そんなじわじわつのる罪悪感を指しているのかもしれません。
(もちろん、月の世界で、地球に焦がれて流刑みたくなった、という部分も含まれるのでしょうが
それは二義的だと思うんだよな。)
ということで、女性が自由奔放に生きようとすると、それなりに代償を支払わせられる。
つー結論でいいのかな、と。
うん・・・すごく辛辣に受け取れる。
これを暖かい物語で、感動した、といえる人はすごいと思う・・・。T T)
もう、私にとっては観た時期が最高にクリティカルヒットの大ダメージだった・・・。
あと数年前か、後だったら、ここまで泣かなかったと・・・思う・・・。
正直、ここまで自己投影してしまって、おこがましいにも程がある自覚はあるんですよ。
あるんですが!!!!!
あ、でもちょっと面白かった部分もあったんです。
そうだよね、この頃の日本の天国のイメージって天竺とかぶってるよね(笑)、とか。
もう、とくにブッッダアアアアアア!!!!が突っ込み待ちすぎて。
音楽も南国調で、アホほど世界観から外れているのが、逆にすげえ。
それ大正解っっすわ!!
それと、ミカドがもう、地獄のミサワすぎて。
ミカドにあれされたときの、姫の表情というか、反応が超わかるvvv
原作じゃ、ぜったい、これできないよ。
逆に大丈夫か、ここまで皇室をアレにしちゃって、と心配になりましたが、
まあ、そこも表現者としての度胸なんでしょう。
すごいっす。
そのまま伊豆へとんぼ返りする母親と別れて、帰りに映画を観てきました。
前売り券を買っていたので、今のうちに観ておかないと無駄になっちゃう、
というのが理由でしたが、よりによってひとりで、
正月休みの最後の日に観るんじゃなかった・・・。orz
いや、、母親と一緒にみたら、それはそれでもっとひどいことになったでしょうが。
とりあえず。
うぎゃああああああああ!!!!つれええええええええええええええ!!!!!!
帰りの電車の中でも終始涙目でした。
感動とかじゃないです、身につまされすぎて憤死しそうなガチ泣きです。
高畑さんは、ほんと「後世に残すべき作品」をつくるよなあ・・・
おもしろい・おもしろくない、じゃないんです。
もっと普遍的で、それでいてここで残さなきゃ、歴史に埋もれて忘れ去られる、
そんな希少性の高い作品ばかりなんです。
(「ほたるの墓」とか「平成狸合戦ぽんぽこ」とか)
そう云う意味では、自分は最高のタイミングで観られたと・・・もう天の采配かなにかか!?
と思わずにはいられないターゲットとして観られたと思います・・・。
それだけに、2度はむり・・・あと10年くらい間を置かないと、たぶん無理・・・。
男と女で、それも連れ合いがいるか独り身かで、かなり受け取り方が違う作品だと思うんですけど
実際の所、どうなんだろう・・・。同級生の男子に観ている人がいたら、感想訊いてみたいな。
=========以下 ネタバレ いきます ===============
この作品は、技術論とか、そういうメタ的な視点で語れば語るほど、
語るに落ちる作品だとおもいます。
肝心な部分が見えなくなると言うか・・・。
かぐや姫というか、「竹取物語」(古典の)が原作なんですが、
国民的に知れてるストーリーだし、オチもわかるし、「竹取物語」の原文を
読んでなくても問題は全然ない、むしろ知っている人の方が、その差分が
気になっちゃうかもな、くらいには忠実に再現というわりに
オリジナル要素がけっこうあります。
非常によく似てるけど、別物と考えて切り離した方が、絶対いいと思う。
で大事なテーマとして「若い女性には悩みなんてないだろうと思われてるけど、
それなりに重大な苦悩があるんだ、ということを描きたかった」という
作り手の狙いを知っていると、起伏の(感じられ)ない既知のストーリーの中から
大事な要素をすくい取れると思うんです。
キャラクターはみな、役割の明確なステレオタイプです。
主要人物がステレオタイプなために、かえって個性(作家性)は
感じられないかもしれません。
この作品にはそういう、面白味が見いだしにくいハンディキャップがあります。
(ただ、かぐや姫についていた、おつきの女の子は別かな)
ただし、ステレオタイプなだけに、その物語が及ぼす効果を
これでもかと拡幅してくるのです。それで、もう、泣いちゃうわけです。
だから宮崎監督が「これで泣くのは素人だ」という言葉の意味もわからなくはない。
(だからといって、宮崎さんがこの作品から何もくみ取れなかったとも思わないけど。
ある種の嫉妬であり、賛辞かも知れないし。)
岸田秀さんの「性的唯幻論序説」なんかにかぶれている身としては
「女の子は、成長とともに女という役割をいやいや引き受ける」
「そういう教育を多かれ少なかれ受けて女らしくなる」
という言葉が身にしみるのです。
そしてそれは、あくまで「文化的所産」であって、けっして本能にもとづいたものではない、
つまりは「絶対視するに当たらない」流動的、一時的な価値観に無自覚にさらされているのだ
というのを、かぐや姫では、姫のしつけや元服でまざまざと見せつけられるのです。
女の子が女らしくなるよう、自由奔放な気性を圧殺されてまでたたき込まれるのに、
それが「幸せだ」「運がいい」といわれる不条理感たら。
そしてそれを知らん人は、それに反抗したら
「わがままだ」とレッテルを貼って蔑むのですよ。
作中では、あきらかに口にはしませんが、姫が初潮をむかえて
それをお披露目の宴にする、翁の無神経さ、そこに転がり込んで群がる男達の
いやらしさ、そしてさらなる無神経な侮蔑の言葉。
自分を圧殺してたえている姫が、その言葉で爆発するのは、まあ当然の成り行きなのです。
ですが、それは一つの通過儀礼だったともいえます。要は反抗期です。
そして「冬に耐えればかならず春がくる」という教えをもらって、姫は
再びその一方的な役割に耐えつつ、その中で自分を保つ(のらくらとかわす)ための
許容量を得るのです。
まあ、それも、たびたびの男性本位の欲求と自滅によって破裂しかけるのですが。
貴族達は、たしかに誠心誠意、姫の難題に答えようとしているようにもみえます。
でもそこには、どうしたって「下心」があり、それが女性の側からすれば、キモチワルイ。
これは、あれだな。「僕の地球を守って」のギョクランに似ているな。
ものすごく誠心誠意、やさしくしてくれてるのはわかるんだけど、わかるんだけど、
うん、キモチワルイ。ちょっと無理。
なぜなら、その好意の根源(美しいとか清楚とか)と、モクレンの本質がずれているから。
貴族達の場合は、そこがさらに倍加してるから、脈があるわけもない。
ましてや、姿を実際に見たわけでもない、勝手に想像をふくらませて暴走している。
かぐや姫に、その妄想を補うだけの魅力はないこともないけど、
実際には一人のありがちな女の子だもの。きっと、すぐに失望されちゃう。
この作品は、そういう「女の価値のつり上げ方」もよく心得て見せているな。
しかも、それは姫本人でなく、保護者である翁がやっちゃうあたり、
姫の自己責任と言ってしまうのはあまりに酷な構造になってる。
ところで翁は、終始、娘の気持ちのわからない「外しまくりの父親」として動きますよね。
(逆に媼は、娘の気持ちを汲みすぎるくらい「よい味方」で、ここは本当にステレオタイプだなあ。
媼は女だから、わかるんでしょうけど、それにしても、実際の母親でここまでツーカーな人は
さすがにいないと思うんだけど、お話だから、まあそれはいいや。)
また捨丸兄さんも、妻子がありながら、それを「忘れて」駆け落ちしようとしますよね。
そういう男性原理の表現がとてもうまい。
いい意味でも悪い意味でも、男と女は別の生き物なんだなあ。
しかし、その別の原理で動いているのがぶつかり合い、絡まり合うから面白い事が起こる訳でもあり。
翁は終始、空回ってますが、それが月の使者が来るときには、その空回りっぷりが逆に頼もしくも
思えたりして、そこが、男性原理が女性にもたらす利益の部分だとも思います。
まあ、おおよそ、そんな所なんですが、映画のキャプチャー?であった
「姫の犯した罪と罰」という、かぐや姫にはあまりそぐわないかんじの
文言が、話が進むにつれて、ぐいぐい来るわけですよね・・・。
なんでかはわからないけど。
なにが罪で、何が罰だったのかは明確にはいえませんが、
ここまで、姫の立場を弁解するようなことを書き連ねてきましたが、
それでも、姫のしてきたことで被害者は続出なのであり、
それを切り捨てるのも後味が悪いですよね。
そんなじわじわつのる罪悪感を指しているのかもしれません。
(もちろん、月の世界で、地球に焦がれて流刑みたくなった、という部分も含まれるのでしょうが
それは二義的だと思うんだよな。)
ということで、女性が自由奔放に生きようとすると、それなりに代償を支払わせられる。
つー結論でいいのかな、と。
うん・・・すごく辛辣に受け取れる。
これを暖かい物語で、感動した、といえる人はすごいと思う・・・。T T)
もう、私にとっては観た時期が最高にクリティカルヒットの大ダメージだった・・・。
あと数年前か、後だったら、ここまで泣かなかったと・・・思う・・・。
正直、ここまで自己投影してしまって、おこがましいにも程がある自覚はあるんですよ。
あるんですが!!!!!
あ、でもちょっと面白かった部分もあったんです。
そうだよね、この頃の日本の天国のイメージって天竺とかぶってるよね(笑)、とか。
もう、とくにブッッダアアアアアア!!!!が突っ込み待ちすぎて。
音楽も南国調で、アホほど世界観から外れているのが、逆にすげえ。
それ大正解っっすわ!!
それと、ミカドがもう、地獄のミサワすぎて。
ミカドにあれされたときの、姫の表情というか、反応が超わかるvvv
原作じゃ、ぜったい、これできないよ。
逆に大丈夫か、ここまで皇室をアレにしちゃって、と心配になりましたが、
まあ、そこも表現者としての度胸なんでしょう。
すごいっす。
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