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テツ的あれこれ妄想牧場。(※路線≒会社の擬人化前提注意です) 最近は管理人の備忘録と化してます。
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森村市左衛門さんの本と、大隈・松方財政の本を返してきました。
一冊、読み切らなかったんで、延長。

いや~、同時に読んでいくと、なかなか感慨深いものがありまーすネー。

西南戦争後の不換紙幣増発によるインフレ対策で大隈大蔵卿がいろいろ政策打ち出すんですけど、
基本的に貿易不均衡(輸入超過による貿易赤字)是正のために、(輸出業を盛んにするため)
国内産業を振興しようとお金を注ぐんだけど、そそげば注ぐほどインフレ-で。
海外貿易では正貨(金貨銀貨)を扱うので、国内の金銀がどんどん流出しちゃって、
紙幣の価値は下がって、逆に金銀は不足の状態だったのですね。だから鉱山開発も重要だった。

でも国内産業は育てなきゃ、って方針は諦めきれなくて、官有物工場を民間に売ったりして資金を得ようとするんだけど、十四年の政変(五代さんと黒田さんの北海道官有物払い下げに関する騒動)で大隈さんが退陣して、松方正義大蔵卿にかわって、やっと紙幣整理、緊縮財政、デフレ政策に転換するわけで。おおまかにいえば。

その一方で、幕府や諸藩の御用を勤める森村さんが、横浜へ銀の両替を頼まれた時に、綺麗な日本の銀と粗悪なメキシコドルが両替される様を見て、「このままじゃいかん」と危機感をつのらせ、森村組を設立して、弟の豊さんをアメリカにやって、小さな店を構え、自分は地道に古物を買い集めて、あっちに送る、本当に小さな小さな輸出業を始める。
国からの補助金を潤沢に使って、鷹揚な商売をする他の同業者の存在に苦しめられながら、独立独歩を旨とし、自力で商売の出来ない者に真の国益は守れんとばかりに、補助金の誘いに一切応じず、正直な商売をして、彼の地で絶大な信用を築いていく。
一方で補助金を受けてた同業商は、みな潰れたという。

いやー、なんだろうねー、この財政政策の光と影、的な。

それなのに、森村さんは「大隈さんは常識のある人だ」と
べた褒めする記事書いてるんだから、ますますなんだかなーな。

渋沢栄一さんと大隈さんといっしょに、神戸へ旅行したらしい、なんてなかよし!!

あと、井上馨ででてきた本「江戸東京を作った人々2」も借りたんですけど、
1/3くらいが、銀座の煉瓦街のことで、半分くらいがそれを実行した由利公正さんに関することで、
井上さんちょーおまけだった!大政治家じゃなかったの!!?なんで、こんなに話がないの!??

ついでに、市区改正委員だった田口卯吉の項もあったんだけど、
そっちは士族授産を目的とした小笠原開発事業がメインで、市区改正ぜんぜん関係なかった。
えええー、タイトルと乖離してやおまへんかー!?

経済学者で自由新聞の論陣を張ってた人でもあるので、当時の財政を痛切に批判する様が、
「自由民権と大隈・松方財政」(大石嘉一郎著)にも、ちょっと出て来てました。

「政府が干渉保護の精神を以て行ひたる事業の利益は、
其の年々貨幣を注入するの多きに係らず、年々減少するの勢ありと雖も、
人民の自ら作業して得る所の利益に至りては、紙幣の氾濫せしに係はらず、
政府の干渉ありしに係はらず、地方税に於て非常の増徴ありしに係はらず、
年々増進の勢あるが為めに、其租税も亦此の如く増の景気を呈せしは
あに亦た愉快な次第ならずや」

なんとなく、森村さんの事例を見ていると、政府による積極財政は
かえって民間事業を圧迫する結果になってたのかなーと。思ったり。
ねー感慨深いですね~。

でも、菊池さんの本で、森村商店は、土佐藩との関わりが深く、板垣退助とも親交があった、的な事が書いてあったので、「森村さんも自由民権運動にかかわりが!?」と期待した部分は、、、ちょっと、外れました。むしろ中津藩と仲良しになった。ああ…だから、まわり大分県民だらけなのか、とちょと納得。福沢諭吉を大尊敬されてたみたいですね。

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先週が仕事の大詰めでした、また胃もたれが再発した。一度、見て貰うべきかなぁ・・・orz
土曜は休日出勤だったのだけど、20時まではヒマなので、昼から美容院の予約で5時間くらい拘束されたり、さらに図書館行ったり、会社の食堂でJ:COMテレビ見たりしてました。
湘南プレミアムという番組で、湘南モノレールの特集やってて、常務取締役のひととかが、
湘モノの歴史とか振り返ってて、J:COMぱねえ!!って思いながら見てました。
万博で跨座式モノレールがお披露目になるので「あれだけがモノレールだと思われたら遺憾!」という対抗意識を燃やして、開業頑張ったんだとか。
懸垂式は上に屋根がある状態だから、雪にも強いらしい。おおう、多摩モノには羨ましい話ですね。
いつもシャーベット状になっちゃって、止まったり遅れたりしてるから・・・
車両工場の中も拝見、てもうタモリ倶楽部と区別つかないディープな内容になってきてますけど、
台車の真ん中からパンタグラフがニューって生えてるのには、ちょっと驚いた。
でも、そうかっ、そりゃそうなるよな!!?
モノレールにしては珍しくトンネルがあったりして、そこでは75km/hだせるらしい。え、速くね?

J:COMはなぜか、杉並区のローカル番組?のすぎ☆たまとか入るんですよね。
出演者が荒川線と競争してたり、よくわかんないですけど。

そんでもって、本社でリテークだししてたら、また3時に帰宅になって、5時頃寝て、
10時に起きてアニメ見てご飯食べて、14時に再び寝て、20時に起きて、ATARU見て、スカイプしてたら2時になってました。

うひょう!なにもしていない。ね!
途中から見出したけど、ATARUおもしろいな~。
主人公の病室の隣の表札が「杉下右京」だったっぽい。気づかなかった!


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下の年表、ちょいちょい入力ミスがあるので、みつけたら直してます。
あと、鉱山司の情報も挿入してみました。井上さん、本当はこっちの仕事してたかったみたい。
明治初期は外国貿易のためにきちんとした貨幣が早急に必要で、
それに伴って造幣寮の工場建設や、原料調達のための鉱山開発も活発なので、
鉱山司はてっきり大蔵省の管轄下だと思ってたんですが、一部民部省ともかぶってるんですね。
むずかしいです、というか、この頃の大蔵省と民部省って棲み分けが出来てるんだろうか?
なんか、ときどきごちゃごちゃになってるような。

鉄道払い下げと井上馨の件は、「東京海上火災保険会社六十年史」の会社前史の方に、
わりと詳しくまとめがあったんで、なんとなくですが、わかったような。
要するに渋沢栄一さんが会計係で関わってて、話が進まないから井上先生にアドバイスいただいたって感じなんですかね。↓

「東京青森間の内先づ東京宇都宮間を建設することとに決し、
その工事に関しては高島嘉右衛門氏、会計に関しては渋沢栄一氏
(明治六年五月大蔵省三等出仕(小輔事務取扱)を辞して
野に下り
、当時第一国立銀行総監役)それぞれその事務に当り、
資本主総代は前島密氏(当時内務大丞駅逓頭)と定めた。
 然るにその後事業計画の進行渋滞し、動もすれば途中挫折せんとする
状況に在ったが、伊達宗城氏、池田章政氏等熱心にこれが支持に力め、
又渋沢氏、前島氏等は諸般の調査に従事し、且計画の遂行に付て
政府に援助を内議したが、その諾否に関し政府の態度は容易に
決定するに至らなかった。
 時に井上馨氏(明治六年五月大蔵大輔を辞し、当時野に在る)は、
鉄道新設の計画を抛棄し、既設鉄道の払下を請願するの時宜に
適するを勧告する所あった。 (…)」

( )内の説明読んでて、そういえば、井上さんと渋沢さん(と益田孝さん)は、
一緒に下野した忠義の仲であった…。キャ!////
じゃあ、渋沢さん経由で、員外として会議に参加したのかな。
伊藤工部卿がこれに前向きなコメントしてるのも、井上馨さんのコネクションが多少あったのかも知れないが…、それは予想の範囲を出ないよね。

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追記。

・・・そうか、民部省は大蔵省とくっついたり、離れたりして、最終的に大蔵省に吸収、廃止されちゃうのか・・・。どーりで。管轄がかぶるはずだ。

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ちょっと、基本的な部分を押さえる為に、
「鉄道をつくった人たち」の井上勝の項の内容を年表風になおしてみました。
まえに「つかえるかも!?」と思い直して買ったというのは、この内容のためで。
わりと、鉄道監督局のながれと、中のひとの役職がこまめに載ってたので、わかりやすい。
ただ、地の文ではけっこう年代が前後するので、出来事がどちらが後先かわかりにくいんですよね。
細かな日付まではないので、それを知りたい場合は、もっとちゃんとした資料から拾わないと、
だめだろうけど、今回はべつにそこまでは要らないから、これでいいかと。
後半は、後藤新平の項目から引用しました。

(各省の役職)卿ー大輔ー小輔ー大丞(複数)ー権大丞(複数)

1868(明治元年)3月大阪銅会所に鉱山掛を置く。
         7月鉱山掛を鉱山司と改称し会計官に属しめる。
1869年(明治2年)5月鉱山司知事足立忠次郎が佐渡に来島し、旧金座役所跡に鉱山司支庁を設置
         6月に帰郷した足立は、9月に鉱山権正兼佐渡兼大参事として赴任
         7月大蔵省に属した鉱山司を民部省に移管
         8月11日民部省は大蔵省と合併(形式上は両省とも存続)
         9月英国公使パークスの紹介でレイが資金提供を申し入れ、
         民部省・大蔵省の大輔大隈重信と小輔伊藤博文(両省兼務)が対応し井上勝が通訳を務める。
         10月井上勝・大蔵省の造幣頭兼鉱山正に任じられる。
         造幣寮・鉱山司は大阪にあるため、井上ははじめ大阪勤務が多く、
         井上馨が民部、大蔵大丞で上司であった。
         11月レイの申し入れを契機として、鉄道建設計画を承認
1870年(明治3年)3月モレルら英国技師、測量を始める。
         鉄道の建設に当たっては、民部省の土木司・監督司、大蔵省の出納司の職員が、
         民部省統括の下で事務を担当。民部省監督正上野景範が事務総理となる。
         3月19日東京築地の旧尾張藩邸に鉄道建設の為の事務局を置く。
         3月22日横浜野毛町の神奈川県官舎(元修文館)に横浜出張所を置く。
         4月山尾庸三、民部・大蔵権大丞に就任、横須賀・横浜製鉄所(造船所)を担当    
         5月井上勝、民部権大丞兼鉱山正となり鉱山事務に専務、東京勤務となる。
         鉱山正兼民部権大丞井上勝の一行が来島し、佐渡鉱山を視察
         7月民部省、大蔵省から分離。鉱山司は民部省所属
         「鉄道掛」の組織・名称が確定
         8月 鉱山採掘の事務は鉱山司にて、金属売買の事務は造幣寮にて扱うこととする。
         閏10月20日太政官布告第581号を以て、民部省の殖産興業部門を工部省として新設。
         横須賀・横浜の両製鉄所を民部省より継承
         井上勝は工部権大丞兼鉱山正となる。
         12月井上勝、工部大丞専務となる。
         12月13日皇居内にあった工部省官庁舎を東京木挽町5丁目の元外務省跡に移転
         鉄道掛も築地から同省内に移る。
         12月19日工部省、鉱山司を鉱山掛と改称
1871年(明治4年)6月16日鉄道掛は京都に出張所を設ける。
         7月井上勝、山尾庸三、工部大丞となる。
         鉄道掛は工事進行に従い、横浜駅に運輸掛を設置
         7月27日民部省廃止
         8月14日工部省に10寮1司が置かれる。鉱山掛を廃止し、鉱山寮を設置する。
        (工学・勧工・鉱山・鉄道=1等、土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作=2等の10寮と測量司を設置)
         8月15日井上勝は工部大丞兼鉱山頭兼鉄道頭になる。
         山尾庸三は造船所担当から工学頭兼測量頭となる。
         9月伊藤博文が工部大輔になる(工部省のトップ)
         10月横須賀造船所・横浜製鉄所を海軍省に移管
         11月岩倉使節団に伊藤が随行
         12月山尾庸三が工部大丞から小輔に昇進し、大輔不在の為、実質工部省のトップに
1872年(明治5年)2月26日工部省庁舎が火災の為焼失、鉄道寮は汐留駅本屋に移転
         3月鉄道寮は大阪堂島の元大村藩邸に出張所を新設して東鉄道寮とし、
         元の大阪出張所(4年6月に堂島旧中津藩邸に移転)を西鉄道寮とする。
         東鉄道寮は京都・大阪の、西鉄道寮は大阪・神戸の鉄道建設事務を主管とすることにした。
         3月15日京都東本願寺枳殻邸を買収して京都出張所とし、
         京都・大阪と京都以東の事務を担当することとする。
         6月27日鉄道寮に主記・主計・倉庫・建築・運輸・技術の6課を設ける。
         7月井上勝、鉱山頭との兼務を解かれ工部大丞兼鉄道頭に
         8月30日赤坂葵坂旧佐賀藩邸跡に工部省新庁舎完成、鉄道寮もそちらへ移る。
         9月12日新橋・横浜間鉄道の開業式を挙行、翌日から運輸営業開始
         10月山尾庸三、工部大輔になる。
1873年(明治6年)7月井上勝は山尾大輔と意見があわず、辞表を提出
         10月伊藤博文は洋行から帰国して、参議兼工部卿となる。
1874年(明治7年)1月伊藤等の説得によってか、井上勝、鉄道頭に復職
         2月井上鉄道頭は鉄道寮の大阪移転を実行、5月から大阪勤務になる。
         5月11日大阪~神戸間が仮営業開始
         10月7日新橋建築課を廃止し運輸課修繕科に合併
1875年(明治8年)11月25日工部省の組織を改正、7寮を設ける。
         土木寮は大蔵省へ、測量司は内務省へ、製鉄・造船・勧工は製作寮に合併、営繕が寮となる。
         鉄道・鉱山の2寮は1等、灯台・電信・製作・営繕・工学の5寮は2等扱い。
1876年(明治9年)9月京都~大阪間まで仮開業
1877年(明治10年)1月官制改革により7寮および省中諸局を10局とする。
        (工作・営繕・鉱山・鉄道・灯台・電信・書記・会計・検査・倉庫の10局)
         鉄道寮・鉱山寮が廃止され鉄道局・鉱山局になる。井上勝は工部小輔兼鉄道局長となる。
         製作・工学の2寮は工作局に所属することする。
         鉄道局はひきつづき大阪に置かれ、新橋の運輸課を新橋鉄道局と改称
         神戸出張所は神戸鉄道局と改称
         大小丞の職制を廃止、奏任官は大書記官・権大書記官・少書記官・権少書記官
         2月5日天皇を迎えて京都~神戸間の開業式を挙行
         2月20日京都出張所を廃止し、本局に戻す。用地は5月25日東本願寺へ原価で売り戻した。
         5月鉄道局は大阪駅に工技生養成所を設置、井上は技師長も兼ね指揮監督を行う。
1878年(明治11年)5月14日大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)
         7月29日大久保の死によって急遽帰国を命じられた井上馨は、
         大久保の代わりに参議兼内務卿に就任した伊藤博文工部卿の代わりに
         参議兼工部卿となる
         このとき編集長の職を失い行く宛のない中上川彦次郎を工部省にさそい、
         月棒八十円の御用掛として井上工部卿の秘書的な職務につかせていている
         8月起業公債収入の一部が割かれて、京都~大津間の工事開始
1879年(明治12年)3月14日井上鉄道局長が工部技監に任命される。
         9月20日井上馨工部卿が外務卿に任命され、中上川も外務省に転じる
         後任の工部卿には長州出身の山田顕義があたった
         11月5日中上川は外交通帳事務と海外外交官との連絡を司る重職、
         公信局長に少書記官の身でありながら抜擢される(本来は大書記官がなる)
1880年(明治13年)7月京都~大津間が完成
1881年(明治14年)6月鉄道局を神戸駅構内へ移転
         同局に主記・建築・会計・倉庫・運輸の5課と工場を置く。
         8月1日岩倉具視をはじめとする華族などが参加した私設鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定
         11月11日日本鉄道の設立特許条約書が下付され会社設立、初代社長に吉井友実を選出
1882年(明治15年)2月鉄道局は日本鉄道批判の建白書を太政官政府に提出
         東京~青森間を不急と決め、東京~高崎~前橋と長浜~大垣間に官設鉄道を建設すべしとの内容
         4月インフレ対策で殖産興業関係費が抑えられる中、長浜~関ヶ原間の延長工事が認可
         5月川口~熊谷間の工事を開始
         6月赤坂区榎木坂町に鉄道局の東京出張所を設置
1883年(明治16年)3月井上鉄道局長は佐々木工部卿に稟議書を提出、官設鉄道の営業利益を用いて、
         関ヶ原~名古屋間、高崎~高田間の鉄道建設に着手する提案だった。
         6月参事院議長兼工部卿代理山縣有朋が鉄道局の提案を容れて、軍事的意義の重要な
         中山道鉄道を政府が建設するよう訴える内容の建議書を提出
         7月井上鉄道局長は、鉄道会社の役割は資金提供に限定し、建設・営業・財務は政府が
         管掌するべしという方式を主張する。
         7月28日上野~熊谷間が仮開業
         新橋鉄道局に運輸・建築・汽車・会計・倉庫の5課を置く。
         9月 鉱山局を廃止し、総務局に鉱山課を置く。
         10月政府は中山道鉄道建設を内定
         11月未完成区間建設の為の精密な測量と工事を開始
         12月鉄道の幹線は官設鉄道が担当、私設鉄道は支線に限定するという政府の方針が確定
         資金調達の為、「中山道鉄道公債証書条例」を公布
1884年(明治17年)4月長浜~敦賀間が全通
         11月鉄道局、東京へ移転
1885年(明治18年)12月22日工部省を廃止し、農商務省に工鉱業行政を移管
         鉄道局は暫定措置として、内閣直属となる。
         農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継して逓信省が発足。
         鉄道局は中央機関として、庶務・管業・会計3部を、
         現業監督機関として新橋・神戸に建築・汽車・運輸・会計・倉庫の5課を設置
1886年(明治19年)2月1日鉄道局は神戸から東京の旧工部省内に戻る。
         2月2日新橋倉庫課は雑務・購買・受払・外国品取扱・主簿の5掛を、
         新橋会計課は雑務・調査・出納・主簿の4掛をそれぞれ設置
         4月14日鉄道局はさらに赤坂区霊南坂町1番地に移る。
         7月木曽渓谷地帯の測量の結果、工期・費用の面で中山道は東海道の1.5倍~2倍かかる
         ことが判明、井上鉄道局長は東京~名古屋間は東海道線の建設を優先させるべきことを上申
         7月伊藤博文内閣は幹線についても私設鉄道の建設を認める方針を示す。
1887年(明治20年)3月松方正義蔵相は伊藤首相に幹線建設を希望する九州鉄道、山陽鉄道に保護を与え
         建設するのがよいと意見書を提出。井上勝は陳情書を伊藤首相に提出し、軍事的、政治的に
         幹線鉄道は鉄道局が担当するのが望ましいとの持論を述べ私鉄に厳しい条件を付けるよう要望。
         5月「私設鉄道条例」を制定、86年度5社、87年度11社、88年度5社、89年度15社の出願があった。
1889年(明治22年)6月25日井上長官は新橋・神戸両倉庫課を廃して、新橋駅構内に鉄道局倉庫課を置く
         7月1日新橋~神戸間が全通
1890年(明治23年)9月6日官設私設の蒸気鉄道を所管し内閣に直属していた鉄道局は
         内務省外局の鉄道庁になる。鉄道庁官制公布。軌道は元から内務省管轄
         鉄道は内務省土木局や地方官庁と密接に関わるという理由からであった。
         12月新橋建築課の下に国府津・沼津・静岡・横川の4建築事務所を
         神戸建築課の下に浜松・名古屋・彦根・長浜・京都の5建築事務所を設ける。
         また新橋汽車課の下に新橋運転係事務所、神戸汽車課に名古屋・神戸の運転係事務所を設ける。
1891年(明治24年)7月井上鉄道庁長官は「鉄道政略に関する議」を提出、不採算路線でも必要ならば建設し、
         そのためには官設鉄道を基軸とし、必要に応じて私鉄の買収を行うとする建議を行う。
         品川弥二郎内務大臣はこの建議を受けて、新鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を提出、
         閣議で修正され議会に提出されたが、通過しなかった。
1892年(明治25年)5月第3回帝国議会に再提出された両法案は、議員提出の諸法案と共に特別委員会に付託、
         折衷されて「鉄道敷設法」と名づけられ、衆議院で修正された後、両院を通過、
         6月に公布された。
         7月21日鉄道庁は内務省から逓信省所管となる
1893年(明治26年)3月国会内で井上勝の批判が高まり、井上は辞表を提出、逓信大臣黒田清隆が自宅を訪問し
         説得を試みるが、井上の決意は変わらず、辞表が受理される。
         11月1日鉄道局は逓信省の外局となり鉄道局となる
1897年(明治30年)8月18日鉄道作業局官制公布。鉄道起業熱時代を迎えて監督行政が忙しくなった為、
         官鉄と私鉄の監督を一つの機構で処理するのが適当でないとされ、
         鉄道局と鉄道作業局に分離された。鉄道局長は逓信次官の鈴木大亮が兼任
1898年(明治31年)松方内閣、第三次伊藤内閣、隈板内閣、第二次山縣内閣と内閣が次々更迭され、
         鉄道局長も鈴木大亮から田健治郎、中橋徳五郎、伊藤大八、古市公威と
         次々かわった。このうち鈴木、田、古市は逓信次官との兼務
1899年(明治32年)異動により鉄道局長は大塚勝太郎が就任
         10月新橋駅と横浜駅でレストラン開業
1990年(明治33年)3月16日私設鉄道条例にかわる私設鉄道法、私鉄を規制する鉄道営業法が公布
1994年(明治37年)逓信省鉄道局長の大塚勝太郎が退いて、青森県知事山之内一次が後任に就く
         1月25日鉄道政策では戦時輸送のための鉄道軍用供用令(勅令)が制定、
         鉄道軍事輸送規程としてそれの細則が定められ、軍事費調達のための通行税が新設される
         これにより各私鉄は軍事輸送優先となり特に山陽鉄道が一般列車に対する影響大であった
1995年(明治38年)3月13日鉄道抵当法公布
1906年(明治39年)3月「鉄道国有法案」成立
         10月から翌10月にかけて私鉄17社が国有化
         11月南満州鉄道が設立
1907年(明治40年)4月逓信省内に帝国鉄道庁設置、国有化後の私鉄はこちらの所管となる。
1908年(明治41年)7月後藤新平が第2次桂内閣の逓信大臣となる。
         12月国有化で巨大化した帝国鉄道を統括する為には庁では不十分とし、
         内閣に直属し省からは独立した官庁としてあらたに鉄道院が誕生。
         後藤新平が初代総裁に就任する。
         鉄道院は鉄道庁より強い権限を持ち、監督機関であった逓信省鉄道局の業務も吸収した。
1909年(明治42年)12月16日「鉄道院官制」が改正され、日本政府が朝鮮で経営していた鉄道も鉄道院の管轄に


井上勝、伊藤博文、井上馨、山尾庸三が最初のほうにけっこういます。
御覧の通り、山尾さんの方がなぜか出世が早い(笑)
目立たないけど、案外出来る人だったのだろうか・・・
井上さんは性格が災いしてそうな気も。
明治9年はまだ「鉄道寮」の時代なので、井上さんの役職は「鉄道頭」なんですね。
う・・・「井上局長」なら、呼ばせやすいと思ったのに、「頭」なのか。
そもそもこれ、なんて読むんだっけ。かみ?とう?かしら??
呼ばせづらいわ~~どうしましょう。

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「世外井上公伝」と「日本国有鉄道百年史」から補足してみました。
鉄道はともかく、鉱山業が・・・情報の齟齬が激しいので、
とりあえずペーパーメディア優先で削除訂正していますが、これもあやしい。
これはいよいよ工部省文書系を参照しないと答えが出ないかもなぁ・・・。
まあ、鉱山は蛇足なのでいまはいいです。

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朝に仕上げて、出勤前に更新してしまおうとしたんですが、
何故か今日に限っていつものPCでブラウザが開かない 川

仕方ないのでもう一台の方を立ち上げてアクセスするも、
今度は忍者の管理ページに入れなくて時間切れ

泣く泣く会社行って帰ってきたのですが、あいかわらずいつものPCは無反応なので
今、デフラグかけてます。その他の作業はできるんですが、なぜネットだけ

というような感じで、なかなか祝わせてもらえないの
東海道さん140周年おめでとうの儀。

若干、いとけない東海道線を描こうとしたんですが、あんま上手くいかない。
頭の中のイメージ通りの顔にならない、不思議。自分の絵なのに。

せっかくだから、前々から一度描いてみたかった題材でぶち込んでみたのですが、
本文はまだこれからです ^ ^;
井上馨だの、三井三菱だの読みだした時点で、お気づきの方もいたかも知れませんが…

官設官有を誇りとする東海道さん(でもこのころはまだこの名前じゃない、でもじゃあなんて呼べばいいんだ?ということは、未定。しかもこの頃一人しかいないから、呼んでくれる路線も、話し相手になってくれそうな路線もいないので、独り言オンリーにしかならないよ?!どうしよう…)ですら、民間に払い下げになりそうな危機があったよ、ということに「なにーーーー!!?」となったのがファーストインパクトでした。
ええ、インパクト(衝撃)でした。

外堀から埋めだしたんで、まだ核心の部分の資料を読んでなくて、未整理なんですが。
まず、井上馨伝がこのことに触れてなかったのがなぁ。痛いよう。

変な話ですけど、この頃の井上さんて、絶賛下野中じゃなかったかな???
それがなんで「政府の使い」ってことになるんだ。大隈さんがいいだしたのか、じゃあ。
どっちかというと、「民間資本の味方」な井上さんがハッスルしたんじゃないのかと予想、
でもぜんぜん、核心に迫れない。
五代さんと黒田さんの北海道開拓使の官有物払い下げは、もっと時代が下がるので、
あんまり関係ないと後で気づきました。oh…orz
大隈大蔵卿時代の官営工場払下概則も同様・・・

もしかして、むしろこの鉄道払い下げがその後の官有物払い下げの流れを作ったのか…も…。
でも鉱山なんかはすでにこの時代、ばんばん五代さんの会社に払い下げられてるんですよね。
井上さんの尾去沢銅山なんて可愛いもんじゃん・・・。
小野組の破綻により古河財閥が誕生するのもなぁ。
奇縁というか、それぞれの出来事はつながっているのですね。というか、つなげるまでが大変ですね。

いや、でもそんな大して内容詰めるつもりは無いのです、
当初の妄想をなるべくそのまま、形にしたいだけで。萌えが大事、萌えこそ至上。
でもバックボーンがわかってないと、心おきなく書き出せないので・・・。恐いよう。

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うーん、京王のまわりが大分県人だらけ!!! Σ/// ゜Д゜)///
という驚きを、どういうふうにまとめたら、上手く伝わるのか、その端緒をここ数日考えてたんですが、
やっぱり、自分が気になった順から書いていくのが、(自分の中で)通りがいいな、と思いまして。

写真は、高幡不動尊境内に立っている、玉南鉄道の碑(碑文の日付は昭和2年10月)です。
題額は当時の鉄相・小川平吉氏。
玉南関係の記述は、だいたいこの表面の碑文によったものが多いと思うんですが、重要なのは、この裏面で。
大正11年設立当時の役員(上段)と昭和の解散当時の役員(下段)の名前が書かれているのです。
これは、日野市郷土資料館調査報告書1の「日野の石碑」(平成20年3月31日発行)にも、
表面の碑文しか載っていないので、自分で撮りに行ったのですが。
ここに載っている、玉南に関係した人たちをすこしずつ、つぶしていく作業を去年から他と同時並行でしてったのですね。

そのなかの、解散当時の相談役に「金光庸夫」という人の名前が、記憶に引っかかってて、王子電軌の社史を読んでて、「この名前、な~んか、覚えあるなー」と思ってたら、「あ!玉南の碑にいたなぁ!」と気付き調べはじめたのです。

普通にウィキに載っている人です。ただ、政治家としての記述が主で、京王、その他の鉄道会社との関わりは省略されているのでわかりにくいですが、代表的な肩書きは「大正生命保険」および「王子電気軌道」の社長です。

ただ、井上さんが会長職に退き、穴水熊雄さんが社長に就任する間のわずかな時期に、
社長を務めているんです。つまり、王子と京王、両方の社長経験がある!!
これ、けっこう見逃せない繋がりだと思うんですが、どうかな。

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「京王電車回顧十五年」の写真と王子の社史を見比べるとわかるんですが、
この頃の京王と王子の役員て、すげー重複してるんですよ。

大正8年度の株式年鑑をみてると、京王と王子の役員は、こう。

 「京王電気軌道」 東京府豊多摩郡代々幡村幡ヶ谷
設立 明治43年9月21日
資本金 125万円(払込済)
株数 2万5000株(額面50円 払込済)(大正7年3月払込終了)
重役 会長・藤井諸照、専務・井上篤太郎、取締役・井上平左衛門、小田切忠四郎、榛葉良男、
   金光庸夫、渡辺嘉一、監査役・山口憲、上山良吉、相談役・和田豊治、森村開作

 「王子電気軌道」 東京府北豊島群巣鴨町大字巣鴨
設立 明治43年4月
資本金 300万円(内払込150万円)
株数 旧株 2万株(額面50円 払込済)
   新株 4万株(12円50銭払込)
重役 社長・植村俊平、常務・榛葉良男、取締役・広橋嘉七郎、小野耕一、福田祐二、宮本政次郎、
   金光庸夫、監査役・佐々田懋、山田八三郎、山口憲、相談役・和田豊治、森村開作、井上篤太郎

前に大正7年6月25日付の王子京王の合併予想記事を紹介したと思うんですけど、

「東京市外の王子電車軌道会社並に京成電気軌道会社等の郊外電車鉄道は久しく経営困難に苦しみつつありしが、両社共近年森村銀行系及び富士瓦斯関係者の入りて大株主となり重役を更迭して自社関係者を出し経営せしむるに及び幾分其経営方法も改善せられたると共に両社の実権者たる森村、富士瓦斯関係者間には両社の合併計画を開始し」
たというのが、これにあたるんだろう。王子の社史には

「更に同年秋、北濱銀行破綻に基因し、同銀行所有株式一万二千株を神戸鈴木商店、東京森村銀行に競落の結果、再び重役に変動を来し、同年十月三谷社長退き、次いで同月の臨時株主総会に於て植村俊平社長に、榛葉良男氏常務取締役に、岡烈、宮本政次郎の両氏各取締役に就任す。」
とあるとおり、神戸鈴木商店=大正生命系と、森村銀行=富士瓦斯紡績系が北浜銀行系だった電気信託会長の三谷軌秀氏と入れ替わりにはいります。

この中の、和田豊治、森村開作、藤井諸照、榛葉良男、小田切忠四郎、井上篤太郎などが少なくとも富士瓦斯紡績からの出向であり、植村俊平、金光庸夫、岡烈が大正生命からの出向になります。
山口憲氏はよくわかんないf^ ^;

ちなみに、同時期の玉川がこう。

 「玉川電気鉄道」 東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷
設立 明治40年3月
資本金 250万円(内払込80万円)
株数 旧株 1万6000株(額面50円 払込済)
   新株 3万4000株
重役 専務・津田興二、取締役・青山孝宜、早川政広、藍?田奥造、北川礼弼、井上篤太郎、
   棟居喜久馬、兼支配人・永井菅治、監査役・村上定、藤井諸照、相談役・和田豊治

「和田豊治伝」では、この玉川、京王、王子の救済を和田氏の財界世話業の一端のように扱っています。
榛葉良男氏(富士紡小名木川工場長)ははじめ京王の支配人として入ったらしいのだけど、
王子の件が持ち込まれるや「大正5年10月に京王からぬいて、王子の専務にした」とある。
けど、名簿上の役職は常務ですね。
「京王電車回顧十五年」での表記は、金光庸夫氏、津田興二氏、榛葉良男氏が取締役で、
植村俊平氏が相談役となっています。

======================================

植村さんは大阪市長として市電の整理をしようとしていたようですが、
明治45年(大正元年)市長辞任後に実業界へって、鈴木入りしてたのか。
この大阪市電の話は、東京市電発足と時期的にも近いですね。(=wiki)
九州鉄道の支配人から国有化で、鉄道院理事になり、九州鉄道管理局長も経験。
王子の経営再建には適任だったのでしょう。

金光氏に話を戻しますが、その前に、もう一人重要なキーマンがいます。岡烈氏です。
明治43年9月の京王電気軌道の創立総会で、創立委員長の牟田口元学氏が議長となり、
利光氏が選任した重役陣の中に、すでに岡氏の名前があります。↓

取締役社長 川田 鷹氏
専務取締役 利光丈平氏
  取締役   豊原基臣氏
   同     太田信光氏
   同     井倉和欽氏
   同     濱 太郎氏
  監査役   吉田幸作氏
   同     岡 烈氏

そして大正6年の京王の年表に「5月25日取締役岡烈氏逝去、6月18日金光庸夫氏取締役に就任」
王子の社史に「大正六年五月岡取締役死去す、同年六月金光庸夫氏取締役に就任す」
とあるように、岡烈氏の死によって、金光氏が京王・王子においてその跡を継いだ事がわかります。

『大日本人物誌』(明治人名辞典Ⅲ)によると、岡烈さんの経歴はこのようなかんじ。
「旧山口藩士岡治助の長男、元治元年四月二十三日安佐郡舟木村に生る、
明治二十二年九月家督す夙に郷里の松下塾に入り漢籍を修む後
上京して明治法律学校に入る後 職を大蔵省に奉じ税務官となり
金沢、広島、小倉等の各税務署に勤務す
明治三十九年官を辞して身を実業に委し神戸鈴木商店の支配人となる」

一方の金光さんは『財界フースヒー』(日本産業人名資料事典 Ⅱ)によると
「明治十年三月大分県宇佐郡高家村に生る 金光芳蔵の二男にして同三十一年家督を相続す
夙に官界に入り税務署長長崎税関熊本税務監督局等に歴任す
同四十一年転じて神戸鈴木商店に入り実業界の人となる後
太陽生命保険会社取締役支配人となり尋で大正生命保険会社を創立し
現に其の専務取締たる…」とあります。

さらに小川功さんの「京王グループの系譜」(鉄道ピクトリアル)には
「明治41年上司の岡烈とともに鈴木商店に入り」とあり
税務官時代からの上司部下関係だったらしいのです。

「和田豊治伝」では才賀氏所有の王子の株が北浜銀行(大阪)に抵当流れになっているのを
東京の資本家で肩替わりしようとの話になった時に
「岡烈君等は此の事を森村家に相談するや森村男等は之に応ずることとなり」
とあるように、王子に関しては岡烈さんが森村さんに話を持ち込んだようなのです。

金光さんが創立したといわれる大正生命にしても、大正5年度の株式年鑑では

「大正生命保険」 東京市麹町区有楽町1丁目3
設立 大正2年
資本金 50万円(内払込 12万5000円)
株数 1万株(額面50円 内払込12円50銭)
重役 取締役社長・柳原義光、専務・岡烈、取締役・植村俊平、荒井泰治、下阪藤太郎、藤田助七、
   金光庸夫、監査役・鈴木岩治郎、金子直吉、柳田富士松

とあるように、元々は岡烈さんが専務で金光さんは平取締役でした。
おそらく岡さんの死後、こちらもまた引き継いだのではないかと。
監査役3名は鈴木商店の中核です。
ちなみに大正生命社長の柳原義光氏は伯爵、鈴木商店系のもう一つの保険会社、
日本教育生命保険の社長も兼ねています。金光さんが社長になるのは昭和になってから。

「大正生命社長に金光庸夫氏」昭和九年二月二十日(火曜日) 読売新聞
大正生命では今回柳原義光伯の社長辞任に伴ひ重役互選の結果
現専務金光庸夫氏当選し専務を兼ねる事となったが二十八日の
総会に於て後任取締役を選任の筈


という記事があります。おそらく「ダンスホール事件」が響いているんではないかと。時期的に。
しかし、大正生命の創立は大正2年で京王の開業と同年。
岡さんはその前は何をやっていたかというと、

「千代田瓦斯」 東京市芝区浜松町2丁目23番地
(東京瓦斯会社と合併の予定)
設立 明治43年5月14日
資本金 1000万円(内払込額 250万円)
株数 20万株(1株額面50円、内払込12円50銭)
役員 社長・利光鶴松、常務・岡烈、磯野保次、取締役・桂二郎、金子直吉、林謙吉郎、河合芳太郎、
   岡本榎?監査役・神野金之助、平沼専蔵、三枝守富、中山佐市、木村省吾
(株式年鑑・明治45年度)

なんと千代田瓦斯の常務。利光さんの会社の関係者だったのね~。
取締役に鈴木の大番頭・金子氏がはいってるってことは、鈴木が関係してたのかこの会社。
大正3年度の株式年鑑では千代田瓦斯の面々が、合併によりこっちにも移ってきてます。

「東京瓦斯」
設立 明治18年10月
資本金 4500万円(内払込 3100万円)
株数 新株43万株(額面50円払込済)
   旧株56万株×(25円払込)
重役 社長・高松豊吉、副社長・久米良作、取締役・浅野総一郎、大橋新太郎、渡辺福三郎、
   袴田嘉四郎、種島甲子三、平松末吉、利光鶴松、岡烈、磯部保次、林謙吉郎、
   監査役・渡部朔、伊藤幹一、若尾民造

利光さんが、京王の監査役に岡氏を選んだのも、このつながりかな。
もしかして、千代田瓦斯合併後の受け皿も兼ねていたのか・・・京王。
そういえば、出身校も明治法律学校で、利光さんと一緒ですね。


======================================

なんだか、長くなりすぎる上に、どんどんタイトルから乖離してきているので、
やっぱり一つ一つ全部話すのはやめて、とっととまとめます。
大正生命に関しては、まだ全部のデータ確認出来た訳じゃないし・・・。いつか別項で。

とりあえず、金光さんあるところに、後藤国彦さんあり、みたいなかんじで、
川崎系と行動を共にしているのが気になるんですが、検索しても、川崎系の研究本読んでても、両者の関わりがさっぱりぽん。見つけられないのでして。?

鈴木商店が、震災手形だかの整理のあおりを食って、共依存関係だった台湾銀行からぶっちされ、倒産するのが昭和3年4月。
昭和恐慌内の大事件として数えられるんですが、鈴木傘下だった大正生命も当然影響を受けたはずで、代わりにこの頃、何故か台頭してくるのが川崎財閥系。
だから、もしかしてこの時に川崎傘下になったのかな?と仮説をたててみたのですが、
それを立証出来るような資料に行き当たらなくて、よくわからない。

帝人事件も多少読んでみたけど、全体像がでかすぎて、いまだに全容掴めてません。
帝国人造絹糸会社はもともと鈴木系列の優良会社で、鈴木倒産後、台銀の担保から引き出そうと色々な会社が挑戦するもののうまくいかず、鈴木復活を画する金子直吉さんが郷誠之助を慕う会の番町会メンバーを通じて多量の株の買い戻しに成功をしたことを、財界世話人が大嫌いの武藤山治時事新報社長が番町会批判を絡めて不正指摘して、よくわからない内に、政財界の有力者が多数検挙される、という事件なのですが…。

昭和9年12月27日、28日の新聞には「三土、中島両氏以下16名を公判に回付 免訴は1人高梨博司氏」「大蔵省事件に予審免訴一名 高梨博司氏と見らる」などと書かれ、
川崎財閥中枢的人物の高梨氏にも容疑がかかっていたようです。
しかし、番町会の中心的メンバーは後藤国彦氏のはず、なぜに高梨氏に…?
そもそも「免訴」ってなんなんだ(笑)不起訴じゃないのか。
後藤さんはもともと、郷さん(川崎財閥と血縁関係をもち、関係が深い)の推薦によって、川崎入りした恩があるのですが、つまりは川崎の外の人なんだな。
だからか、たびたび川崎八右衛門さんから裏切りを受けている…。
高梨さんは川崎第百銀行常務監査役で内側の人なのかな。
後藤さんと一緒に、方々の鉄道会社に顔を出してるんだけど、具体的に何をやったのかは不明。

この事件で川崎資本を根拠に京王・王子・京成の合併をわりと強く慫慂していた三土忠造鉄道大臣が捕まり、辞めるはめになってるのがまた因縁くさいというか。
この事件、なにか川崎と直接の関わりがあったんでしょうか?そこまで、詰めてない(というか興味が尽きた…)のでわかりませんが。

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はてさて、ここでやっと大分県人なのですが、関係者の名前でヒットした文献の中に
「大分県人士録」(大正3年発行)というのがあって、
なにやらどこかで見たことがある名前がずら~~~~っとなってたんですね。
抜き出すと、だいたいこんなかんじ↓

貿易商 甲斐織衞
前三井同族會理事 朝吹英二
玉川電氣鐵道會社長 津田興二
逓信大臣 元田肇
富士瓦斯紡績會社専務取締役 和田豐治
鬼怒川水力電氣會社長 利光鶴松
鐵道院技監 石丸重美
横濱正金銀行頭取 井上準之助
京王電氣會社長 利光丈平
富士瓦斯紡績會社營業部長 高橋茂澄
千代田組商會主 朝吹常吉
實業家 中上川次郎吉
鬼怒川水電會社事務部長 利光學一

利光さん一族がまず大分県出身なんですよね。

んで、和田豊治さんと津田興二さんが同郷なんですよ。
もともと玉電が富士紡の水力発電電気を買うようになったきっかけというのが、
同藩同郷が集まる会合での和田さんと津田さんの「電気あまってんだけど、いる?」
「いる!ついでに玉電の資金もだしてくれたら!」ていう合意だったらしい。

朝吹常吉さんは朝吹英二さんの息子で、のちの帝国生命の取締役。
昭和13年5月時点で、大正生命と川崎の第1第2大株主が抜けた後の、
大日本電力に次ぐ大株主がこの帝国生命です。つっても一位と二位が、一桁ちがう・・(^ ^;
帝国生命(のち朝日生命)は古河財閥系だったらしいんだけど、菊池さんの本によると財閥解体後、
古河は第一銀行(のち第一勧業銀行)をよりどころにした為、今では一勧系らしい。
ちなみにこの朝日生命、多摩センター駅前に文書関連扱う本社がある・・・偶然かねぇ。

中上川次郎吉さんは中上川彦次郎さんの息子です。当然お父上も大分出身。
中上川彦次郎さんは慶應義塾卒業後、留学先の英国で井上馨の信任を得て、井上工部卿の推薦で工部省に入り、井上さんについて外務省に移り、14年の政変で官を辞したのち、時事新報社社長、山陽鉄道社長を経て、井上さんの推挙で三井銀行理事に主任。
三野村さん亡き後の三井改革を断行し、鐘紡の経営危機には、朝吹英二、和田豊治、武藤山治を引き連れ、自ら乗り込んでこれを再建。三井家との対立を深くし、三井を去りました。(「日本の15大財閥」)

和田豊治、武藤山治両氏は鐘紡内でそれぞれ頭角を現すものの、
旧来の設備で稼働する和田さんの向島本社と、新鋭の設備で万端な武藤さんの兵庫支店の成績で、
手腕比較がなされ和田武藤優劣論が社内に興り、両者の対立も深まるなか、中上川さんも和田さんをかばいきれなくなって、和田さんは鐘紡をやめ、経営難にあった富士紡績に請われて小山工場へ入る。
このとき森村さんは、朝吹英二さんを訪ねて、和田さんの富士紡入りの環境整備に努めたという。
そして和田さんは富士紡を鐘紡に負けない大紡績会社へと成長させるために心血を注ぐ。
以前紹介したこの時の記事はそんな二人の因縁を背景としたものだったのですね。
和田さんも武藤さんもお互いを超意識してたみたいです。
武藤さんの財界世話人嫌いは和田さんに端を発しているとおもわれます。
それが帝人事件にまで発展・・・。因果は和田さん亡き後も廻ったというか。
ちなみに富士紡は、大正9年上期に普通配当5割の上に特別配当8割の、
合計13割という、異常配当を実現しています。13割・・・ありえるのか。鐘紡を意識しすぎ(笑)

そしてこの中上川さんは福沢諭吉(中津藩出身で慶應義塾を設立)の甥っ子だという。
だから、中津藩出身の人は大抵慶應義塾に入る。

一番上の、貿易商 甲斐織衞というのはアメリカで甲斐商店という店を開いていて、
和田さんはサンフランシスコ滞在中、そこで働いていていました。
それで訪米中だった、森村さんに見物にさそわれたことがあったらしい。
甲斐さんはもともと森村ブラザーズ(森村豊さんのニューヨークのお店)で働いていて、
独立した人。
この頃の森村組は、渡米してくる福沢門下生の拠点になっていて、
福澤諭吉の二人の息子さんが渡米した時も、森村さんに「息子をくれぐれもよろしく」と手紙をよこしたそう。

ここには載ってませんが、前述、金光庸夫さんと後藤国彦さんもなんと、大分出身です。

・・・ようするに、京王の経営においてだいたい
利光さん一族→森村・和田さんの富士紡組→金光・後藤の川崎大正生命組と3段階あり、そのどれにも大分県出身者が影響を持っていたという、それだけの話です。長かったな・・・。

あ、ついでに、京王の常務の渡辺孝さんですが、「郷里の先輩和田豊治に認められ富士瓦斯紡績小山工場技師長に就任の傍ら、玉川電気鉄道取締役、王子電気軌道工務課長を兼ね、京王営業部長を経て昭和3年取締役就任、理事・営業部長、8年5月京王常務就任、京王砂利監査役、甲州街道乗合自動車監査役、豊洲鉄道相談役、東都乗合自動車取締役、山手乗合自動車取締役」(「京王グループの系譜」)という、これまでの話を体現するような、見事な大分県人でした(^ ^;;;)

さすが、小川功さん、情報の精度がちがう・・・プロや・・・。

======================================

あ~、で一番冒頭の写真、ちょうど同じ日に撮ってたんで載せたんですが、
大分県とは関係なくてですね、
玉南の碑に「取締役 森久保善太郎、商議員 森久保作蔵(成立当時役員)」とある
森久保親子のお父さんの方の献納と思われる石柱が、
高幡不動入り口の一番正面の所に立ってたんで「おお」っと思ってパシャリ。
森久保さんは星亨亡き後の自由民権運動の壮士を率いる首領でして、
高幡・七生村の出身なので地元派・・・に入るのかな。
多摩出身なので、米国の政治団体にかけて「タマニー派」とかいわれて、
夜の東京市長、と異名をとる程の、東京市政に影響を持っていた人です。
京王電気軌道の発起人の名簿にも名前があり最初期からの関係者…(ちなみに根津さんもいる…)
森久保善太郎さんは作蔵さんの跡継ぎで、京成電気軌道の取締役でもあったんですが、
大正12年2月4日に狭心症のため、急逝してしまいます。
玉南の碑、解散当時の役員の中に名前がないのはそういう理由でしょう。
おおう・・・わずか数年間しか存在しなかった会社なのに色々起きるもんです。
鬼怒川水力電気の役員でもあったようなので、利松さんとの関わりが深かったんでしょうね。以上

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